〜2005 エッセイ 3
- タバコと映画
- 恋愛映画ベスト100
- プロとは…
- 小さな恋のメロディ
- クロード・デュラン楽団
- カツオくんと私
- 山田投手と私 その5(最終回)
- 山田投手と私 その4
- 山田投手と私 その3
- 山田投手と私 その2
- 山田投手と私
- 演歌と私 その6 最終回
- 演歌と私 その5
- 演歌と私 その4
- 演歌と私 その3
- 演歌と私 その2
- 演歌と私
January 25, 2009
タバコと映画
いやあ、みなさん。
たくさんのコメント、
ありがとうございました。
こうした、
読者参加型エッセイも、
楽しいですねえ。
本当は、
金曜日あたりに更新する予定でしたが、
なんだか先週はバタバタしてしまって、
遅くなってしまいました。
失礼致しました。
というわけで、お待ちかね(?)、
正解の発表です。
ジャーン!
1942年:制作
1943年:アカデミー賞最優秀作品賞&監督賞
監督:マイケル・カーティス
主演:ハンフリー・ボガート
イングリッド・バーグマン
そうです。
ご推察通り。
『カサブランカ』でした。
ヒントの「○○クロ」は、「モノクロ」。
これもズバリです。
みなさん、素晴らしいです。
驚きました。
パチパチパチ。
ちなみに、
「観てる間、ずっと鳥肌だった。」
と言ったのは、
名女優のフェイ・ダナウェイ。
「これ以上の恋愛映画は作れない」
と言ったのが、
昨年亡くなった、名監督で俳優の、
シドニー・ポラックさんでした。
ま、私たちが思ってる以上に、
アメリカ人にとってこの映画は、
特別に感慨深いものなのでしょう。
でも、やはりいい映画です。
私も学生の頃、映画館で、
とても感動したのを思い出しました。
ところが…、
この番組から数ヶ月後。
部屋のビデオ棚の中から、
引っぱりだして、
何十年ぶりかで、この映画を観たとき、
私は、なにか、
不思議な感覚の違いを覚えたのです。
「ん…、これは…?」
当時は、まったく意識しなかった、
‘あること’が、
今回、やけに印象に残ったのです。
それは何でしょう…?
そんなエッセイが、
過去ログの中にあったので、
きょうは、そんなのを、
リニュールしてみようと思います。
2005年02月07日 No.99
タバコと映画
『カサブランカ』
昨年の秋に、NHK-BSで放送された、
「アメリカ映画関係者が選ぶ恋愛映画ベスト100」
で、見事No.1に輝いた、
不朽の名作です。
私も、若い頃に映画館で観て、
やたら感動した覚えがあります。
その『カサブランカ』を、
きのう、何十年ぶりかで観ました。
「いいオヤジになった今、
私はこれを、どう感じるんだろう…?」
若い頃は、こんな印象でしたかね…。
「ハンフリー・ボガートって、
カッコいいけど、
ちょっと気障(キザ)過ぎないか…?」
「中年にもなると、
よくもまあ、憎いセリフを吐くもんだ。
でも、こんなセリフでも女は、
コロっといっちゃうのかなあ…?」
「イングリッド・バーグマンが出るシーンだけ、
フォーカスがかかって、
特に綺麗に見えるようになってるんだけど、
これって、有り…?」
とまあ、映画の本質とは離れて、
そんなところばかりに、
目が行ってましたね。
ま、それほど、
主人公二人の存在が、
際立って眩(まぶ)しかった、
と言うべきでしょうか。
ところが、きのうは…。
当時は、まったく意識しなかった、
‘あること’が、
やけに印象に残ったのです。
その不思議な感覚が、
どこから来るのか、
しばらく分からなかったのですが、
やがて、
気がつきました。
それは…、
「みんな、よくタバコ吸うなあ…。」
……。
今は、とにかく「禁煙ブーム」。
どこへ行っても、
「禁煙」「禁煙」「禁煙」
タバコを吸う場所を探すのに、
ひと苦労です。
喫煙者は、私を含めて、
世間の片隅に追いやられていくような…、
そんな時代です。
最近のアメリカ映画でも、
タバコを吸うシーンは、
ほとんど見ることがありませんね。
ま、この禁煙ブームは、
元々、アメリカが火をつけたのですから、
当然といえば当然ですが…。
ところが、この、
『カサブランカ』
という映画。
この、かつてのアメリカが、
世界中で大ヒットさせた映画は…、
「おい、おまえら、
ちょっと吸い過ぎじゃないのかー。」
と、思えるくらい、
私からみても、
まあ、タバコを吸うシーンの、
多いこと、多いこと。
まず主人公のボガート。
シーンが変わるたびに、
スパスパ、ブホブホ。
美しい美女を前にしても、
おかまいなしに、モクモク、パフパフ。
その美しい女性の顔に、
ブホ〜っと煙を吐き出す。
自分は、そのクラブのオーナーのくせに、
貴婦人や紳士といったお客さまのテーブルでも、
ロクに火も消さずに、灰皿にポイ。
すると、そのあたりは煙で、もうもう。
(おい、火事にでもなったら、どうするんだ…。)
警察署長もスパスパ。
ドイツの将校もブホブホ。
ドレスで着飾った女性がいようが、
高そうなスーツを着たお客がいようが、
おかまいなしに、
モクモク、パフパフ。
クラブの客も、兵隊も、おまわりも、
どいつもこいつも、
みんなでスパスパ、ブホブホ。
煙もうもう。
バーグマンの亭主で、
地下組織のリーダー役の男。
「こいつは真面目そうなやつだから、
きっと吸わないだろうな…。」
と思いきや、
美しいバーグマンを挟(はさ)んで、
ボガートと一緒に、
スパスパ、ブホブホ。
バーグマンの顔めがけて、
ブホ〜〜ッ。
……。
でもね…、
不思議なことに…、
タバコの煙が、
自然にフォーカスがかかったような効果をうんで、
モノクロの映像が、
美しく、こくのあるものになっているんですね。
なんとも味わい深い映像美なのです。
もしも、あの映画の、あの店が、
「禁煙」だったら…?
もしも、あの映画の、出演者が全員、
「嫌煙家」だったら…?
その印象は、
かなり違ったものに、
なっていたでしょうね。
クリーンな映像。
健全な昼メロのような、
今流行りの韓国ドラマのような、
すがすがしい、大人の恋愛映画…。
でも、あの映画は、
あんなに、大ヒットしたのでしょうか…?
……。
い、いや、な、なにも、わたしは、
タバコを奨励してるのではありません。
タバコが有害なのは、
100も承知しております。
嫌煙家の気持ちもよくわかるので、
なるべく吸うのも、
気を使いながらやっております。
でもねえ……。
それから、
ニューヨークのジャズ・クラブでも、
今は、どこも「禁煙」です。
でも…、
昔のマイルス・デヴィスやビル・エヴァンス。
セロニアス・モンクやアート・ブレイキー。
喧騒たるジャズが流れるクラブには、
いつも、タバコの煙が、
もうもうでした。
彼らが、くわえタバコで演奏する、
レコード・ジャケットも、
数限りなくありますが、
みな、カッコよかった…。
クールでファンキーなサウンドが、
ジャケット写真のなかから、
聞こえてきそうな、
そんな雰囲気がありました。
こんなこというと叱られるけど、
映画やジャズにとって、
タバコというのは、
必要不可欠な小道具だったのでしょうね。
今は時代が変わったのでしょう。
喫煙者だから言う、
というわけではありませんが、
ちょっと寂しい気がするのも、
事実ではありますね。
ちなみに、
この『カサブランカ』は、
1943年度の、
「アカデミー最優秀作品賞&監督賞」
を、受賞しています。
今だったらムリ。
絶対ムリです。
「映画倫理委員会」のオバサンなんかが、
猛烈に反対して、
まず落選でしょうね。
「なんですか!
あのタバコのシーンの多さは。
青少年に、どんな悪影響を与えるか、
わかってるんですか〜!(怒)」
それから…、
当時の女性は大変でしたね。
高いお金を出して作ったドレスも、
美容院で、念入りにメイクした髪の毛も、
一瞬にして、
ヤニ臭くなる。
それを思うと、
今は、嫌煙家(特に女性)にとって、
いい時代になったと、
言うべきでしょう。
間違いなく。
「ボギー、ボギー、
あんたの時代は、良かった〜♪
男が、ピカピカの、
気障(キザ)で、いられた〜♪」
(カサブランカ・ダンディ)
そんな、ボギーこと、
ハンフリー・ボガート。
あの馬ヅラは、
今の時代だったら、
モテない気がする…。
(おわり)
おやおや、
随分ひどいことを書いてますねえ。(笑)
ま、4年近くも前のお話ですから、
ご容赦下さい。
今の私は、
すこし考え方が変わっております。
長時間の禁煙にも、
かなり慣れましたしね。
というか、慣れるしかない。
それに、当のボギーですら、
57才という若さで、
食道がんで亡くなったわけですから、
やはり、タバコは有害ですね。
しかし、文化ということになると…。
(まだ言うか)
SHUN MIYAZUMI
January 18, 2009
恋愛映画ベスト100
昔書いたものをリニューアル。
これって、
新しいものを書くより、
時間がかかることがあります。
例えば、アレンジ。
今週、私は、
過去に書いたものを、
ジャミンのために書き直す、書き加える、
そんな作業をしておりました。
そして、予想通りではありましたが、
今、見直してみると、
稚拙な部分が随分多いのに、
赤面してしまうのです。
当時は、完璧だと思っていたのに…。
ま、それなりに私も、
少しずつではありますが、
進歩していますからねえ。
だから、直す。
意気揚々と直す。
「ええい、今の時代だったらこれだ。
こっちのアイディアの方が、カッコいいぞ。」
「なんだなんだ、このコードは。
当時は、こんなコードしか思い浮かばなかったのか。
アハハハ、未熟者め。」
どんどん、直す。
ところが…、
必ずしもいい結果になるとは…、
限らない…。
当時でも、それなりに、
全身全霊をこめて書いてますし、
それを書いたときの感性だとか、時代とか、
ま、一球入魂のエネルギーというものが、
あるんでしょう。
良かれと思って直してるうちに、
悪くなってしまうことがあるんですね。
「なんだこれ。
これだったら直さない方がいいかも…。」
結局、もとへ戻す。
でも、新しい試みもしたい。
ジレンマ…。
で…、
ある部分は進化させ、
ある部分は、元へ戻す。
行ったり来たり。
この一週間は、
そんな戦いの日々でした。
難しいもんですねえ。
結局、新曲を書く方が、
ずっと早いということに気がつきました。
今の感性で、
スラスラ書けますからねえ。
‘アレンジも生き物’
ということでしょうか…。
でも、それなりに、
いいものが出来たように思います。
あとは、ジャミン君たちが、
素晴らしい歌唱を聞かせてくれること。
期待しましょう。
さて、本題。
これも、過去に書いたものですが、
映画の話題続き、
ということで、
ちょっと、こんなのを、
リニューアルしてみました。
昔読んだことのある方は、
ちょっと我慢していただくとして…。
2004年11月08日 No.89
『恋愛映画ベスト100』
先日、深夜のBS放送で、
アメリカ映画関係者が選ぶ、
『恋愛映画ベスト100』
というのを、やっていたのですが、
ご覧になりましたか…?
新聞をみると、
終了が3時15分。
でも私、次の日は朝8時起き。
とても最後までは見られませんが、
興味のある内容なので、
水割りを片手に、
何気に、観ておりました。
‘アメリカ映画関係者が選ぶ’
というのも、
気になるところでしたから。
フェイ・ダナウェイら名俳優、
シドニー・ポラックら映画監督、
プロデューサー、脚本家、
美術スタッフ、音響スタッフetc.
名のある映画関係者らが選んだ、
『恋愛映画ベスト100』
そして、
トーキー時代から現代までの
いろんな恋愛映画の名シーンを見ながら、
その映画の想い出や見どころを、
彼らにインタビュー。
それを、彼(彼女)らが、
熱く語る。
そんな、番組でした。
100位〜91位…。
90位〜81位…。
80位〜71位…。
「おお、これ知ってるぞ…。」
「いやあ、○○、若いなあ。
こんないい男だったのか…。」
「く〜、昔の△△だ。綺麗だなあ〜。
うっとり…。」
しだいに私の目は、
ブラウン管に釘付けです。
そして、CMのないBS放送では、
休む間もなく、
60位、50位、40位、30位と、
情け容赦なく、進んでいくのです。
時間はどんどん過ぎ、
早く寝なくてはいけない私は、
だんだんあせってくる。
しかし…、
面白い。
映画好きの私には、
たまらない…。
「え…? こんなところに、この映画が…。
早すぎないか…。」
「いや、俺だったら、
この映画はベスト・テンには入るな。」
「やっぱり、これは名画なのか。
ぜひ観なくては…。」
「なるほど、この映画には、
そんな背景があったのか…。」
さあ、もういけません。
ここまで来て、
何が1位かを知る前に、
寝るわけにはいきません。
酒が入って、
いい気持ちになってるハズなのに、
お目目はパッチリ。
私は、腹をくくりました。
「ええい、2,3時間しか寝なくても、
死ぬことはないだろう。
こうなったら最後まで見てやる。」
こんないい番組を、深夜に放送する、
NHKを呪いながら…。
さて、
私の大好きな、ウディー・アレンの、
「アニー・ホール」や「マンハッタン」も、
早々と登場です。
小原さんの大好きな、
「アパートの鍵貸します」や、
「天井桟敷の人々」も、
30位〜21位のあたりまでにやって来た。
(こんな位置じゃ、
やつは、不満だろうなあ。ウシシ。)
ところが…、
私が、絶対上位だと思っていた、
「マイ・フェア・レディ」、「ローマの休日」、
「サウンド・オブ・ミュージック」といった、
大ヒット作品も、
チャップリンの「街の灯」、
ジーン・ケリーの、
「雨に唄えば」や「パリのアメリカ人」
といった懐かしいところも、
「タイタニック」や「恋におちたシェークスピア」
といった新しいところも、
どんどん出てくる。
「ロミオとジュリエット」や、
「ある愛の詩」も、
早々とランク・イン。
「めぐり逢い」「慕情」といった、
いかにもアメリカ人が好きそうな作品も、
8位、6位といった感じ。
(ううむ…、こうなると後は、
いったい何が残っているのだ…。)
しだいに興奮の私…。
そして、いよいよベスト3の発表。
ただし私には、
かなり早い時間から、
「1位は絶対コレだろう!」
という確信の作品がありましたね。
そう、
「風とともに去りぬ」!
だって ‘アメリカ人が選ぶ’
ですからね。
間違いないと思っていました。
ところが、これは2位…。
意外でした。
ちなみに3位は「ウエスト・サイド物語」
うん、これも、ちょっと意外かな…。
ま、いかにもアメリカといえば、
アメリカですかね。
じゃ、いったい1位は、何でしょう…?
ジャーン!?
納得です…。
最近、行きつけのバーで、
映画好きの人を見つけると、
もっぱらこの話題に持ち込みます。
そしてみな、まず当たらない。
しかし、答えを言うと納得します。
そして誰も異論を唱えません。
ゲストのアメリカ映画関係者も、
みな一様に、
「観てる間、ずっと鳥肌だった。」
「これ以上の恋愛映画は作れない。」
「完璧だ!」
「筆舌に尽くしがたい、見事な作品!」
どうやら、この映画が、
断トツの1位だったようです。
映画好きの人、興味のおありの方は、
ぜひ考えてみて下さい。
ヒントは、「○○クロ」です。
(おわり)
とまあ、こんなお話でした。
これも、かなり、
リニューアルしましたがね。
最近、あちらでも、
スティーブ君が、
怪しげなクイズを出して、
ブログをにぎわせているようですから、
私も、次回まで正解を伏せることにしましょう。
ぜひ、コメントお寄せ下さい。
ただし、この番組を観た方、
過去にこのお話を読んだ方は、
どうか、ご遠慮を…。
そういえば、現在、
『ジャミン・ゼブ・ファンクラブ』の、
第一回会報の準備を、
着々と、しかし遅々として(?)、
進めております。
私も、1ページの枠をもらいました。
何を書いたらいいでしょうね…?
そんなアイディアもあったら、
併せてお寄せ下さいませ。
さ、駒沢公園でも行くかな。
脱メタボだ、
脱メタボ…。
SHUN MIYAZUMI
October 25, 2008
プロとは…
先日、
ついに買っちゃいました。
ウフフ。
なにを…?
i-pod。
……。
メカ音痴の私ですが、
スタッフのショーちゃんに教わりながら、
なんとか使いこなせるようになりましたよ。
楽しいですね、これ。
CDが、
1,000枚くらい、
入るんだそうです。
時間を見つけては、
せっせと、
ライブラリーを作っております。
ジャズ、クラシック、ポップス…。
雑食性の私には、
ピッタリの品です。
早く、『GIFT』を加えたいな。
ジャケット付きで。
ね…。
……。
2004年08月18日 No.84
「プロとは…」
私は「プロ(プロフェッショナル)」
という言葉が大好きです。
ただし、
私の中での「プロ」とは、
「その道のエキスパート」
のことを言います。
例えばプロ野球の世界。
厳しい見方かもしれませんが、
2軍に甘んじてる選手は、
私から見れば、
「プロ」とは言えません。
単に、職業が、「野球」であるだけ。
高い入場料を払って、
球場に足を運んだ観客を魅了するプレイを見せ、
そして‘ここぞ’というときに、
結果を残せる選手。
これが「プロ」です。
そして、その定義は、
なにも、
スポーツや芸術の世界だけにとどまりません。
企業の営業マンや経理のエキスパート。
難事件を解決する刑事、民芸品を作る人。
とにかく、
「これをやらせたら一流。」
と評価される人達。
これが「プロ」だと思うのです。
『ゴルゴ13』の中にも、
(また、ゴルゴかよ…。)
「これはプロがプロに対しての依頼である。」
という謎めいた依頼者の、
言葉の意味を理解して、
見事、悪徳刑務所長たちをやっつける、
というお話がありますが、
(『60日間空白への再会』)
それほどまでに「プロ」という響きは、
私にとってのこだわりであり、
憧れなのです。
……。
さて、話は、うんと飛躍しますが、
かつて、六本木に、
『大八(だいはち)ラーメン』
という、
最高のラーメン屋がありました。
六本木交差点から、
乃木坂の方へ向かって歩き、
二本目の路地を左に曲がってすぐ。
6、7年前に、
突如営業をやめてしまいましたが、
その残骸、
掘っ立て小屋のような、
キタナイ建物は、
なぜか、まだ、そのままです。
私が学生の頃からあったのですが、
ここの「ラーメン」と「餃子」は、
絶品でしたね。
さっぱり醤油味、こしのある細麺。
餃子もニラが豊富で、
とにかく、美味(うま)い。
本当に、うま〜い。
毎日、深夜までやってるのですが、
いつも行列ができるほどの人気でした。
ある日のこと。
順番を待って、
ようやくカウンターに座ることができた私は、
ルンルン気分で、
「ラーメン」と「餃子」を注文。
ところで…、
ここのラーメンは、
いささか薄味です。
というか、趣味がいい。
繊細な醤油味。
したがって、
餃子の、濃いめの醤油味とからめると、
抜群の効果を発揮します。
しかし、
餃子の焼き上がるのが遅く、
ラーメンだけが、すぐに出てくる。
いつもそうです。
したがって、私たちお客は、
ラーメンを半分残して餃子を待つか、
ゆっくりゆっくり、
ラーメンを食べながら待つか、
それなりに、
工夫をしなくてはなりません。
そして、繁盛してる店らしく、
壁には高飛車に、ご丁寧に、
「餃子、時間がかかります。」
と書いてある。
しかし、ある日、
若かりし頃の私は、
ついに、たまらず、
勇気をふりしぼって、
こう、聞いてみました。
「あのう…、餃子…、
もうすこし早く、できませんかね…?」
すると店主、ぶっきらぼうに、
「餃子時間がかかる、って書いてあるでしょ。」
「……。」
しかし私は、食い下がる。
「でもね、
ラーメンと餃子を一緒に食べるのが、
最高だと思うんですけど…。」
店主、ますます不機嫌になって、
「だって時間がかかるものは、かかるんだよ。
しょうがないだろ?」
「……。」
こう出られると、
私も、引き下がるわけにはいかない。
「じゃ、なんですか(怒)、
先に餃子だけ頼んで、時間をはかって、
それからラーメンを注文しろ、
こういうことですか…?」
店主、ますます、ぶっきらぼうに、
「ま、一緒に食べたければ、
そうすればいいんじゃない。」
「……。」
「くそ〜、なんだあの態度。
残念だけど、
もう二度と行くもんか。」
私は、この店との訣別を、
決意しました。
それから半年後…。
久しぶりに、
「大八ラーメン」の行列を見た私は、
あの素晴らしい、
「ラーメン」と「餃子」を思い出し、
「ええい、かまうものか。」
とばかりに、意を決して、
暖簾(のれん)をくぐったのです。
もちろん、
私の亊など覚えてもいないはずの店主、
「いらっしゃい、何にします…?」
あいかわらず、
ぶっきらぼうで、
ど態度、この上ない。
こっちも知らんぷりで、
時間差など考えず、
ぶっきらぼうに、
「ラーメンと餃子。」
それから10分が経過。
すると…、
なんと…、
ラーメンと餃子が…、
一緒に出てきたのです!
そして、店主は、
私にニコっと微笑みかけ、
「今日はタイミング、バッチリでしょ?」
と言ったのです。
……。
私はしみじみ思いましたね。
「プロだ…。」
冒頭でも言いましたが、
残念ながら、
この店はもうありません。
でも、この店の残骸を見ると、
いつもこの話を思い出します。
黄色い看板に大きく書かれた、
「大八」の名前を見ると…。
たかが食い物の話、
と思うなかれ。
このお話は、
私の人生のなかでも、
最も痛快な出来事の一つ、
なのですから…。
(おしまい)
最近、東京でも、
「博多ラーメン」が大流行りですね。
とんこつ味の細麺。
ゴマ、紅ショウガ、替え玉あり。
でも、私は、
やっぱり、
サッパリ醤油味の、
関東風ラーメンが好きです。
古い人間ですから。
具は、
のり、支那チク、ナルト、チャーシュー。
そんな、
関東風ラーメンの美味い店が、
めっきり減りましたね。
寂しいです。
ああ、
恋しいぞ。
大八…。
SHUN MIYAZUMI
October 19, 2008
小さな恋のメロディ
10月17日。
おかげさまで、
ジャミン・ゼブは、
デビュー1周年を迎えました。
その記念すべき日は、
大阪『リーガロイヤルホテル大阪』
でのライブでした。
財界、政界のお歴々、
数多くのご婦人方をお迎えしての、
チャリティ・コンサート。
暖かい声援と拍手に支えられて、
素晴らしいコンサートになりました。
そして終了後は、いつものように、
CDへのサイン、握手、
そして記念撮影ラッシュ。
ジャミンの連中も、
とても嬉しそうでしたね。
そして、とても、
思い出深い記念日になったようです。
みなさん、ありがとうございました。
またぜひ、お会いしましょう。
というわけで、今日も、
旧作のなかから、
こんなお話。
いんちきなレコードを作ったおかげで、
こんな目に合うことになった、
トンチンカンな頃の、
アルファのお話です。
2005年06月26日 No.113
『小さな恋のメロディ』
これも、
1975年か76年。
私が、社会人になった頃、
アルファに入社した頃の、
お話です。
当時のアルファは、
2枚看板の『ガロ』と『赤い鳥』が、
ピークを過ぎ、
期待をこめてデビューさせた、
ユーミン(荒井由実)が、
なかなか売れてこない。
そんな、苦しい時期でしたね。
そこで、
飢えをしのぐために、
『クロード・デュラン楽団』
などという、
怪しげなオーケストラをでっちあげたり、
『コマネチのテーマ』
などという、
当のご本人とは、
なんの関係もない曲を出したり、
ま、あの手この手と、
悪戦苦闘しておったわけです。
(「クロード・デュラン楽団」)
そんなある日、
またしても、あの、
渋谷森久さんがやってきた。
渋谷森久さん…。
このブログにも、
何度となく登場しましたね。
(「渋谷森久さんという人のお話」
「タモリ戦後日本歌謡史」
「演歌と私」etc.)
当時、東芝を代表する名プロデューサー。
というか、
日本を代表する、
‘名物’プロデューサー。
例によって、
意気揚々とアルファにやってきた渋谷さん。
我々に、
一本のデモ・テープを聴かせました。
そして、得意満面の笑顔で、
口角泡を飛ばしながら、
こう言ったのです。
「おい、これって誰が唄ってると思う…?
あのマーク・レスターよ。
けっこう、いけてるだろ。
どうだ、アルファで制作して、
東芝で出さんか?」
マーク・レスターと言えば、
その数年前に、
『小さな恋のメロディ』
という映画が大ヒット。
日本中を感動の渦に巻き込んだ、
イギリスの少年俳優。
そう、
『小さな恋のメロディ』
……。
いい映画でしたね。
あどけない少年と少女の、
甘酸っぱい初恋物語。
少年役がマーク・レスター。
少女役がトレイシー・ハイド。
どちらも可愛くて初々しかった。
バックに流れる、
ビージーズのヒット曲の数々も、
本当に素敵で、
映画にピッタリでした。
『メロディー・フェア♪』『ラブ・サムバディ♪』
『若葉のころ♪』『イン・ザ・モーニング♪』etc.
また、二人がトロッコに乗って,
去ってゆくラスト・シーンでは、
クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの、
『ティーチ・ユア・チルドレン♪』
が、流れていましたね。
これがまた、感動的でした。
映画のヒットから、
数年が経ってるとはいえ、
まだまだ日本では、
少女を中心に人気のある、
マーク・レスター君。
そんな彼のレコードを作らないか、
というお話だったんですねえ。
しかも、
唄もそこそこいけてるし。
「うん、これは…。」
社長の村井さんはじめ、
ほとんどのスタッフは、
すぐさまこの話に、飛びつきました。
ただし、私だけは、
「ディスコ演歌」の失敗から、
そう時間も経っていないゆえ、
ひたすら沈黙…。
(「演歌と私」)
そんなわけで、
さっそく、
向こう(イギリス)のエージェントと、
契約を交わし、
アルバム相当分の曲とオケを作って、
ロンドンで唄のレコーディング、
ということになりました。
アルファのスタッフはみな多忙ゆえ、
東芝のY君というディレクターが、
ロンドンに行くことに。
ちなみに彼は私の後輩で、
学生時代は、
「カルア」という音楽サークルで、
ヴォーカルをやっておりました。
その数日後、
Y君から緊急国際電話が、
かかってきました。
なんでも、
このマーク・レスター君。
すご〜い音痴で、
とても歌なんか唄えない、
というのです。
ガ〜ン…。
さては、いっぱい食わされたかと、
わが首脳陣はあせりまくり。
むこうのエージェントに、
抗議の電話をしたそうなのですが、
敵もさるもの。
「間違いなく、あのテープは、
本人が唄っている。
ちゃんとディレクションすれば、
ああなる。」
と、一歩もゆずらないんだそうです。
すぐさまレコーディングは中止。
Y君には、
即刻、帰国指令が出されました。
そして、
Y君が持ち帰ったテープを、
みんなで聴いてみたのですが、
やはり…。
それは、それは、
ひどい代物(しろもの)でした。
Y君の言ったとおりです。
いつの時代も、所変われど、
芸能界というところは、
魑魅魍魎(ちみもうりょう)ですね。
さあ大変!
大金をかけて作ったマルチ・テープが、
ごっそり残っています。
声紋を調べて訴訟だ、
という声もあったそうですが、
これまたお金がかかる話。
そして困ったのが、
紹介者の渋谷さん。
「ええい、こうなりゃ、
そこそこ唄えるY君に唄わせ、
声のピッチをちょい上げて、
それらしい少年の声にして、
作っちまおう、発売しちまおう。」
などという、
乱暴なアイディアを出してきましたが、
いくらなんでも、
それはないですよね。
却下。
それにしても、
あ〜あ。
インチキなレコードを作って、
儲けたりした、
バチが当たったのだ。
因果応報とはこのこと。
やはり音楽は正々堂々といきましょう。
ということで、
若き日のアルファ軍団にとって、
苦い思い出の出来事になったことは、
確かなのですが、
いったい真実は、
どうだったんでしょうね。
ま、マーク・レスター君には、
なんの落ち度もないことだけは、
確かなようですが…。
ところで、後日、
とある映画関係者と飲んだとき、
この話が持ちあがりました。
その会社は、
なんとあの『小さな恋のメロディ』を、
日本で封切りした会社。
あの時期、
この映画のキャンペーンのために、
マーク・レスター君を呼んで、
日本のあちこちを回ったそうです。
で、夜は毎晩宴会。
その宴会の余興で、
スタッフはみなマイクを持って唄うのですが、
当のマーク君だけは、
絶対に唄いたがらなかったそうです。
ところがキャンペーンも終盤にきて、
みんなの、あまりに執拗なリクエストに、
根負けしたマーク君。
しかたなく一度だけ、
マイクを持って唄ったそうなのですが、
その唄が始まるや、
「……。」
その場にいた人たちはみな、
絶句してしまったそうです。
その映画関係者の人は、
哀れみをもって、
私に、こう言いました。
「もう少し早くお会いしていれば、
絶対にやめなさい、
て、反対できたのにねえ。」
「……。」
ま、これも、
30年以上も前のお話。
今はどんなおじさんになってるんでしょうね、
マーク・レスター君。
でも、どちらかというと私は、
少女役のトレイシー・ハイドのその後が、
気になります。
どなたか知ってる人がいたら、
教えてくれませんか。
……。
(おわり)
大阪のつづき。
仕事を終えると、
私とショーちゃんとジャミンの4人は、
外に出て、
庶民的な、
‘いかにも大阪’といった感じの、
「串カツ1本100円」
という看板の居酒屋に入り、
今日のライブの成功と、
デビュー一周年を祝って、
乾杯をしたのです。
それを見ていた、
人の良さそうなおカミさんが、
「ぜひ、色紙にサインを。」
と言ってきたので、
メンバーは喜んでサイン。
そのサイン色紙は、
『DREAM』のフライヤーとともに、
今、そのお店に、
飾られております。
阪神タイガース一色の、
その居酒屋に…。
おばちゃん、ありがとう。
また、行くでえ。
SHUN MIYAZUMI
October 13, 2008
クロード・デュラン楽団
いやあ、出来ました。
なんとか間に合いました。
ジャミン・ゼブのクリスマス・ミニ・アルバム。
まったく、薄氷を踏む思いでしたが、
でも、愛にあふれた、
とても美しい作品になったと思います。
11/19(水)発売。
アルバム・タイトルは『GIFT(ギフト』
どうぞ、お楽しみにお待ちください。
というわけで、
今日も旧作のリ・ニューアル。
ちょっと、いけない、
ヒット曲作りのお話です。
2005年06月05日 No.112
「クロード・デュラン楽団」
『クロード・デュラン楽団(オーケストラ)』
こんな名前のオーケストラ、ご存知ですか?
え…?
知らない…?
知らなくて当然です。
そんなもん、無いんですから。
……。
何度も言うようですが、
大学を卒業すると私は、
アルファ&アソシエイツという原盤会社、
(後のアルファ・レコード)
に、制作ディレクターとして入社しました。
1974年のことです。
これは、
そのアルファの創設期に、
まだ私が入社する前に、
実際にあったお話。
さて、当時は、
ポピュラー音楽のオーケストラが奏でる、
イージー・リスニング的な、
ムード・ミュージックが、
大流行していました。
ヒットの口火を切ったのは、
ポール・モーリア楽団の『恋は水色』。
たしか私が、
中学3年生の時のことでした。
アメリカのヒット・チャートの1位に、
突然、この甘い旋律が、
飛び込んできたのを、
今でもハッキり覚えています。
ビートルズやシュープリムスやモンキーズ、
といった、チャートの常連を押しのけて、
なんと6週間くらい、1位だったでしょうか。
でも、初めてラジオで聴いたとき、
正直「なんでこの曲が1位…?」
と、私は思いましたね。
今でも、アメリカでの、この大ヒットは、
私の中では謎ですが、
当然のように、その後、
日本でも大ブレイクしました。
そして、後を追うように、
こんな感じの物が、
続々とヒット・チャートに登場します。
レイモン・ルフェーブル楽団『サバの女王』
パーシー・フェイス楽団『夏の日の思い出』
ベルト・ケンプフェルト楽団、
ビリー・ヴォーン楽団、マントヴァーニ楽団 etc.
甘く切ないメロディー・ライン。
美しいストリングスの調べ。
とにかく女性を中心に、
日本でも大ブーム。
(なんとなく、今の韓流メロドラマ・ブームに、
近いものがありますかね。)
それを見て、
そんなことなら我がアルファも、
「この手の物をなにかやろう。」
ということになったそうです。
そこで出た結論が、
「こんなもん、それらしく作っちまおうぜ。」
……。
まず作曲家に頼んで、
それらしき曲をパパッと作ってもらう。
それを、
いかにもそれっぽくアレンジをする。
そして、
スタジオ・ミュージシャンの
リズム隊、弦や木管奏者を集め、
とりあえず2曲ほど、
お手軽に、
作ってしまった。
さて、お次は、
楽団名を考えなければならない。
ああでもない、
こうでもない、
と、さんざん議論したあげく、
決まったのが、
『クロード・デュラン楽団(オーケストラ)』
いかにもそれっぽい名前ですよね。
いかにもありそうな名前だ…。
さらには、曲名も、
『落葉のコンチェルト』とか、
『枯葉のノクターン』といった、
いかにもそれっぽいタイトルを付けて、
本当に、コロムビアから、
発売してしまった。
ところが、
これが、
売れた。
20万枚も…。
当時のアルファ・スタッフの高笑いが
聞こえてきそうですね。
じゃあ、ついでに、
アルバムまで作ってしまおう、
と、エスカレートしたそうなのですが、
そこに、
「キョードー東京」がやって来た。
「キョードー東京」といえば、
外国人アーティスト招聘業務の最大手。
なんでも、
この『クロード・デュラン楽団』を日本に呼んで、
コンサート・ツアーをやりたいと言ってきた。
あせったでしょうね。
アハハハ。
だって世界中、
どこを探したって、
そんな楽団なんて、
ありゃしないんですから。
結局その場はなんとかごまかして、後日、
「あの楽団、解散しちゃったらしいよ。」
と、逃げ切ったそうですが、
今思えば、
アルバムなんか、
作らなくて良かったですね。
あぶないぞ、アルファ。
しかし、
こんなことでは懲(こ)りない、
クリエイティブ(?)なアルファ軍団。
1976年には『コマネチのテーマ』
なんてのも、作ってしまいました。
これには、
いささか私も関与しています…。
モントリオール・オリンピックで、
世界中を魅了した、
ルーマニアの体操の妖精「コマネチ」。
覚えてらっしゃる方も、
多いと思いますが、
この、「コマネチ」、
という名前をいただいただけの、
なんの変哲もない、
イージー・リスニング・ミュージック。
体操のコマネチとは、
なんの関係もありません。
したがって、
本人の写真なんか、
一切使っていません。
ジャケットは、
美しいヨーロッパの森の風景写真。
その湖のほとりにたたずむ、
長い髪の一人の少女。
そう言われてみると、
本人のようにも見えますが、
でも、断じて、
コマネチなどではありません。
一種の、イメージ戦略でしょうか。
ある種の錯覚です。
これがまた、かなり売れました。
(もう昔の話なので、
記憶があいまいですが…。)
ま、「コマネチ」なんて名前は、
東欧にいけば、
いくらでもありそうですものね。
逃げ道は、いくらでもある。
それにしても、
ヒット曲を作るのが大変なのはわかりますが、
まったく褒められた作戦ではありませんね、
これは。
きたないぞ、アルファ。
ま、これも、
ガロや赤い鳥がピークを過ぎ、
ユーミンがブレイクする前の、
苦しい時代のアルファの、
産物だったのでしょうか。
もしかして、これって、
詐欺…?
でも、30年以上も前の話ですからね。
もう時効でしょう。
もし、これを読んでるみなさんの中に、
不幸にして、
これらの商品を買われた方がいらしたら、
当時のスタッフを代表して、
お詫びを申し上げます。
ま、こんなことをやってしまったために、
今度はアルファが、
とんでもない目にあうのですが…。
次回は、そんなお話でも。
因果応報…。
(おわり)
さて、今日(10/13)は、
ジャミン・ゼブお台場ライブ。
ちょっと普段とは違った環境ですが、
レインボー・ブリッジをバックに、
なかなか景観の良いライブを、
お楽しみいただけるかと思います。
お近くの方、
お散歩がてら、いかがですか。
私も、きのうから、
お散歩再開です。
これ以上のメタボ化は、
なんとか防がないと…。
SHUN MIYAZUMI
October 06, 2008
カツオくんと私
いやあ、ご無沙汰してすみません。
なんとも忙しくて…。
何をやってるかと言いますと…、
ジャミン・ゼブの…、
レコーディング、
……。
「えっ、
この間『DREAM』が出たばかりじゃないか…?」
そう、
そうなんですけどね。
急遽、
『クリスマス・ミニ・アルバム』
を作ることになって、
忙しいライブの合間をぬって、
せっせとやっておったわけです。
しかし、私は、
内緒で、極秘裏にやっていました。
なぜか…?
間に合わないかもしれなかったから。
ジャミン・ファンのみなさんなら、
ご存知でしょうが、
この1ヶ月は、
すさまじいスケジュールでした。
激移動、激ライブ・ウィーク。
私も、
名古屋に飛び、大阪に行き、
やれ南大沢だ、丸の内だ、ミッド・タウンだ、
京都だ、また名古屋だ、大阪だ、
ほれ、赤坂ブリッツだ…。
彼らのコンディションも心配だし、
なにより、
この私の体力が持つのか…。
そんな激スケジュールの合間の、
レコーディングですから、
正直、不安でしたね。
(はたして、間に合うのか…?)
しかし、みなさん、
情報キャッチが鋭い。
昨日「ZEBLOG」を見たら、
“11/19「GIFT(ギフト)」発売キャ〜ッチ!”
というコメントが出ておりました。
すでに、大型CDショップでは、
案内が始まってるようですね。
はい、もう逃げられません。
やるしかありません。
そして、
レコーディングは、
あと2日を残すのみ、
10/9(木)には、
マスタリングです。
一日の猶予もありません。
しかも、作業は、
まだいっぱい残っています。
……。
今朝も、帰宅したのは、
朝の6時半でした。
きっと、明日も、あさっても、
朝日を見ることになるでしょう。
『DREAM』同様、
徹夜のまま、
ビクターのマスタリング・ルームに、
マスターを持って駆け込む、
そんなシーンの再現になりそうです。
ふう〜…。
でも、制作者冥利につきますね。
きっと、たくさんの方が、
楽しみに待っていて下さるのでしょうから、
やりがいがあります。
ええ、やりますよー。
期待してて下さい。
がんばれ、みやずみ!
がんばれ、メタボ・ライダー!
というわけで、きょうは、
旧作のリ・ニューアルで、
いきたいと思います。
ちょっと、
スタジオに絡んだお話でもあるし…。
2005年08月16日 No.117
「カツオくんと私」
東急新玉川線、
「桜新町」の商店街を抜けて、
国道246を渡ったところに、
『STUDIO JIVE(スタジオ・ジャイブ)』という
レコーディング・スタジオがあります。
(今もあるのかな…?)
かつては、
カシオペアのホーム・グラウンドでした。
したがって、
私もずいぶんここで、
彼らと一緒に、
レコーディングをしました。
いやいや、
カシオペアのみならず、
宮沢りえ、TOKIO(トキオ)、西村由紀江、
松原みき、伊東ゆかりさん、
などなど、
ここで作ったレコード(CD)は、
数限りなくあります。
言わば、かつては、
私にとっても、
ホーム・グラウンドのスタジオ。
でも、なんで、
こんな都心から離れた住宅街に、
こんな立派なレコーディング・スタジオが、
あったのでしょう。
1980年代の半ば頃でした。
ちょうど、
カシオペアが絶頂を極めているときに、
キーボードの向谷実君が、
実は、ここに住んでいたんですね。
そして音楽好き大家さん、
野村さんというおじさんと
すっかり意気投合したそうです。
で、向谷君の住んでる、
そこのマンションの、
駐車場の奥の敷地にスタジオを作って、
いろいろ新しい音楽を創造しようと、
いうことになったらしい。
したがって、当然スタッフとして、
私も担ぎ出されました。
この『JIVE(ジャイブ)』という名前も、
私が付けました。
(なんのことはない。
たまたま、その直前に発売された
カシオペアのアルバム・タイトルが,
『JIVE JIVE』だった。
単に、それだけのことです。)
さて、
この野村社長。
そこいら一帯の敷地をごっそり持っている
昔からの大地主。
大金持ち。
その風貌は、
小太りで丸顔。
50才そこそこにして頭髪はほとんどなく、
わずかにてっぺんに2、3本逆立ってるだけ。
丸いメガネをかけ、
お酒が大好きだから、
昼間でもいつも赤ら顔。
そう、そう言われてみると、
誰かに似てませんか…?
そうなんです!
漫画『サザエさん』のお父さん、
磯野波平(いその・なみへい)さんに、
ソックリなのです!!
お会いして何度目かに、
その、向谷君の住んでる、
彼がオーナーをやってるマンションの、
1階にあるバーで、
一緒に飲んだとき、
酔ったついでに、
私は失礼ながら、
こう訊いてみました。
「野村社長って、
波平さんに似てませんか…?」
すると野村さん。
酔った赤ら顔の上に、
さらに顔を真っ赤にして、
恥ずかしそうに、
こう告白したのです。
「じ、じ、じつは、わ、わたし、
カ、カツオちゃんのモデルなんですよ。
サザエさんってのは、
私の姉なんです。」
「……。」
そういえば…、
この「桜新町」という街。
近くに、作者の、
長谷川町子さんが住んでいました。
(今は「長谷川町子博物館」
なるものがありますね。)
駅からの商店街も、
「サザエさん通り」と言います。
そして何でも、
「長谷川家」と「野村家」というのは、
昔から、
大の仲良しだったらしいのです。
近くには、
「こんちは〜、三河屋で〜す。」
の、あの、
「三河屋」という酒屋まで、
ちゃんとあるのです。
びっくりしましたが、
納得です。
カツオちゃんが大人になれば、
波平さんに似るのは、
当たり前ですからね。
スタジオで一緒に仕事をするミュージシャンや、
レコード会社のスタッフたちに、
この話をすると、
当然ながら、みな会いたがりました。
そんなとき、
野村さんがなにげにスタジオに現れます。
みな一様に、
その風貌をみてビックリするやら、
クスッと笑うやら。
いや本当に、
そっくりなんですから…。
そんな野村さん。
性格は、きわめて温厚な方。
そして、お酒が大好き。
飲むのは、決まって、
さっきも話した、
ご自分が経営するマンションのバー。
でも、すこぶる弱い。
すぐに酔っぱらってデレデレになってしまう。
あ〜っというまにベロベロ。
そして、
店のバーテンやら私に担がれて、
駐車場を横切ってご自宅の奥様のところに
フラフラになってご帰還。
その距離たったの20メートル。
「社長、ほらしっかりして。
もうすぐお家ですよ。」
「ウイ〜イ、○△×●、デレデレ、ベロベロ〜。」
これが、毎晩です。
毎晩…。
でも、飲みだしてわずか30分くらいで
こうなるので、
楽といえば楽ですね。
誰も嫌じゃない。
別に迷惑でもない。
自分で勝手に、
あっというまに、
出来上がってくれるのですから、
こんな楽な人はいません。
ハシゴなんか絶対しないし(というかできない)、
なんとも、微笑ましい。
ちなみに、
ご自宅の横には、
すごい蔵があるのですが、
「あの中には何があるのだろう。」
というのがもっぱらの噂でしたね。
ごく平凡な一家庭の磯野家と、
大地主の野村家。
ここに多少の違和感はあるものの、
おっちょこちょいで、
でも、それでいて人なつっこく、
すぐに酔っぱらって、だらしなくなりながらも、
みんなに愛されるキャラクター。
これは、まさに、
「サザエさん世界」そのものでありました。
ところで、この野村さん。
実は東大を卒業。
そのあとコロンビア大学に留学したというのですから、
これまたビックリ。
宿題もしないで、
やんちゃで怒られてばかりいる、
あのカツオくん。
実はあのあと、
東大に入ったのでした。
これまたビックリですね。
がんばったんですね、カツオくん。
そんな野村さんも、
10年以上前に、
突然の病で、
お亡くなりになりました。
残念です。
また、あの、
デタラメな酒席に、
つきあってみたかった…。
あっというまに終る酒席に…。
毎年、秋になると、
寂寥感とともに、
ときどき、そんなことを思い出します。
カツオくん…。
(おわり)
さ、久しぶりに、
『御代鶴』のトンカツも食ったし、
がんばりますよー。
あと2日です。
あ…、
と…、
ふ・つ・か…、
……。
SHUN MIYAZUMI
July 01, 2008
山田投手と私 その5(最終回)
7月になりました。
ということは、
今年も半分が過ぎた、
ということですね。
なんだか、
あわただしい半年だったような…。
今の私は、
来るべき、
『ジャミン・ゼブ劇場 第二幕』
の開演に備えて、
じっと鋭気を養ってる。
ま、そんな感じでしょうかね。
レコーディングの疲れも、
とれたことだし、
いよいよ始動しなくては。
と、その前に、
野球の話で一服…。
2006年02月16日 No.128
「山田投手と私 その5(最終回)」
山田投手といえば、
下手から繰り出す、
精密機械のような絶妙のコントロール。
打者の心理を巧みに読んだ配球。
沈着冷静。
どんなピンチにも動じない、たくましさで、
先発すればまず完投。
押さえのピッチャーがピンチになると、
リリーフまで買って出て、
見事に押さえきってしまう。
(当時は、今のように、
先発、中継ぎ、押さえ、
といった完全分業制ではなかった。)
この人がいなかったら、
まず70年代後半の、
阪急黄金時代はなかった、
といっても、
過言ではありません。
ところが普段着の彼は、
何度も言うように、
実に気さくで、
人間味にあふれた人でした。
普通あれだけの大選手になると、
もっと構えてるでしょうし、
ブラウン管を通して見る彼は、
いかにも気難しそうな、
どちらかというと、
芸術家のような雰囲気があっただけに、
意外でしたね。
そして、
こんな失敗談まであります。
その日も私は、
山田さんたちと六本木で、
大いに飲み、語り、
楽しい一夜を過ごしておりました。
そして彼の、
「もう一軒行こう、もう一軒。」
の誘いに乗せられ、
私たちは朝の6時くらいまで痛飲。
ただしこの頃になると、
ちょっと心配になってきた私は、
「山さん、
明日(というか、もはや今日)は、
登板ないんですよねー?」
と聞きました。
すると上機嫌の山田さん、
「ないない。きのう完投したし。」
「でも、いま優勝のかかった大事な時期ですよ。
危なくなったらリリーフとかも、
あるんじゃないんですかー?」
ますますハイ・テンションの山さん、
「なあに、どうせ西武だろ?
ショート・リリーフだったら、
ひょいひょいと、軽いもんさ、アハハハ。」
こうして山田さん、
すっかり明るくなった六本木の街から、
フラフラになりながらタクシーに乗って、
西武戦の時の定宿がある立川に、
ご機嫌で帰っていったのでした。
家に戻って、
ひと眠りした私が起きたのは、
午後の1時頃。
その日は日曜日で、
新聞を見ると、
『阪急-西武』のデー・ゲームが、
2時半から放送されることになってます。
シーズンも終盤で、
優勝のかかった阪急には大事な試合。
ところがその日は、
阪急の先発が大不調。
これ以上の失点は避けたい中盤の5回、
(この辺の記憶はあいまいですが…。)
ノー・アウト満塁の、
大ピンチになってしまった。
ここで何を思ったか上田監督、
「ピッチャー交代、山田!」
と審判に告げました。
私は思わず椅子から飛び上がり、
ブラウン管に向かって、
「ばか、やめろっ!」
しかし、
私の心配をよそに、
山田投手は、
さっそうと(私にはそう見えなかったが…)、
マウンドに上がる。
ここでアナウンサー、
「おっと、上田監督、
ここでエース山田の投入です。」
すかさず解説者、
「いやあ、これはビックリですねえ。
彼はおとといも完投してますしねえ。
この試合にかける上田監督と阪急ベンチの、
執念が伝わって来ますねー。」
「……。」(私)
アナウンサー、
「ここをなんとかエースでしのいで、
接戦のまま後半戦に持ち込みたい、
ということなんでしょうね。」
解説者、
「ま、そのくらい大事な一戦ということでしょう。」
「……。」(私)
さあ、試合再開。
ピッチャー山田、第一球投げました。
その瞬間、
彼の体がよろっと
一塁側によろけたのを、
私は見逃さない。
ボール。
それも大きく外れた。
第二球投げました。
ボール。
「……。」(私)
結局、
一球もストライクが入らず
押し出しの1点。
次のバッターには痛打。
そしてまたフォアボール。
押し出しの1点。
投げるたびにヨロヨロ。
次のバッターにもまたまた痛打。
ヨロヨロ。
「……。」(私)
結局、
ワン・アウトも取れず、
なんと、この回、
7点を献上…。
たまらず上田監督、
ピッチャー交代。
すごすごとマウンドを降りる山田。
「だから、言わんこっちゃない…。」(私)
アナウンサー、
「いやあ、
これは阪急にとっては大誤算ですねえ。」
解説者、
「まったく。
しかしこんな悪い山田、
初めて見ましたよ。」
アナウンサー、
「どこか体の具合でも悪いんでしょうか?」
解説者、
「そうですねえ…。
でも、もしそうだとしたら、
この大事な時期に、
阪急としては大変なことになりますよねえ。」
アナウンサー、
「なんといっても、大エース。
大黒柱ですからねえ。」
アハハハ。
これを聞いて、
私は大笑いです。
実はこの山田大乱調の秘密。
私だけが知っているのだ。
これが笑わずにいられましょうか。
沈着冷静、精密機械、
と言われたこの大投手にも、
実は、こんなに人間味溢れた一面がある。
私はこの一件だけでも、
いまだに山田投手の大ファンです。
その後、
福本、加藤秀、そしてこの山田と、
阪急黄金時代を支えた大選手達が続々引退。
80年代の終わりには、
オリックスに身売り。
私があれほど愛していた、
『阪急ブレーブス』は、
もはや過去の、
‘思い出のチーム’になってしまいました。
90年代には、
イチローという不世出の選手が現れ、
阪急を引き継いだ、
『オリックス・ブルーウェーブ』
も、熱心に応援してはいましたが、
そのイチローがメジャーに行ったあたりから、
急速にその興味は失われ
現在私の興味は、
もっぱらメジャー・リーグ。
山田さんはといえば、
『オリックス・ブルーウェーブ』
の投手コーチを経て、
『中日ドラゴンズ』
の投手コーチ、監督を務めた後、
現在は野球解説者。
六本木『N』と言うお店も、
今は無く、
お会いする機会も、
なくなってしまいました。
つくづく、
携帯電話の時代だったら…、
と思わざるを得ませんね。
しかし、
私にとっては、
素敵な思い出ばかり。
そして、
住んでる世界は違えども、
超一流選手と直(じか)に接することにより、
学んだことも、
少なくありません。
今一度、
今度はどこかのチームの指揮をとる、
「監督山田さん」と、
かつての『勇者たち』
の思い出話に華を咲かせてみたい。
ときどき、
そう願うことがあります。
これがまた、
夢のまた夢なのでしょうが…。
<山田久志投手>
1948年 秋田県能代市生まれ
1968年 ドラフト1位で『阪急ブレーブス』入団
1988年 引退
通算勝利:284勝(歴代7位)
通算防御率:3.18
最多勝利:3回
最優秀防御率:2回
最多勝率:4回
シーズンMVP:3回
日本シリーズMVP:1回
12年連続開幕投手
17年連続2ケタ勝利
オールスター戦15回選出(13回出場)
2006年 野球殿堂入り
眩いばかりの、
素晴らしい野球人生です。
拍手。
(おわり)
この山田さん。
高校時代は3塁手だったそうです。
そして彼が1塁に投げた豪速球(?)が、
暴投となってしまい、
甲子園への道が閉ざされた。
ところがそれを見て、
監督が「投手への転向」を勧めた。
そんな話を、
ご本人から聞いたような、
記憶があります。
このように、人生には、
「もしも、あの時…。」
といった瞬間が、
一度や二度はあるもんなんですね。
次回はそんなお話でも。
それにしても今日は、
さわやかな、
いいお天気だこと。
仕事は明日からだな。
……。
SHUN MIYAZUMI
June 27, 2008
山田投手と私 その4
このブログは、
不思議なことに、
よく現実とリンクします。
2006年の夏。
『松山商業』というタイトルで、
「松山商-三沢」の歴史的な決勝戦
のお話を書いていたら、
なんと、
それ以来37年ぶりとなる、
決勝戦の引き分け再試合。
(早稲田実-駒大苫小牧)
『ジェフ・バクスターと牛丼』
というお話を書いていたら、
「吉野家の牛丼」が解禁になる。
『タモリ3 戦後日本歌謡史』
を書いていたら、
タモリの旧作3枚がCD化されて再発売。
これ、みんな偶然なのです。
そして今日、
もうひとつ発見してしまいました。
かつて、
別のホーム・ページに、
この「山田投手と私 シリーズ」
を書いていた頃。
(カテゴリー別アーカイブ欄にある、
『〜2005 エッセイ 1、2、3』というのは、
その当時書いていた物のリニューアルです。)
2006年1月のある日の新聞を見て、
私はこんな記述をしておりました。
2006年01月18日 No.127
「山田投手と私 その4」
本当になんというタイミングなのでしょうか。
私がこのページで、
山田投手のことを書いてるのを知ってのことか、
(もちろん知らない)
先週のことです。
『山田久志投手 野球殿堂入り』
というニュースが、
朝日新聞にでかでかと出ていました。
オリックス時代一番慕っていたという、
イチローからも、
祝福のメッセージが寄せられていました。
山田さん、本当におめでとうございます!
ま、当然ですけどね。
(原文のまま)
ね、我ながらビックリ…。
というわけで、
きょうも、
そんなお話です。
さて、
この時代(1970年代)の、
私の‘阪急狂い’は異常なほどで、
関東に遠征してくると、
「後楽園球場」はもとより、
(当時はまだ東京ドームはなかった。)
「神宮球場」「川崎球場」
(ロッテがジプシー時代だったので、
こうした球場でも、
パ・リーグの試合があったのです。)
まで、せっせと足を運んだり、
休みを利用して、
阪急の本拠地「西宮球場」まで、
試合を見に行く熱の入れようでした。
そして、
試合が終わると、
私は大急ぎで、
選手たちが乗る、
バスのところに行くのです。
バスに乗り込む選手たちを、
真近に見ながら、
「加藤!」「福本!」「足立!」「蓑田!」
などと、声をかけてねぎらう。
もちろん選手たちは無視しながら、
黙々とバスに乗り込んで行く。
そして最後に、
上田監督が乗り込んでバスは発車。
そのバスに向かって手を振りながら、
「明日もがんばれよー。」
と激励のエール。
何人かの選手は、
こっちを向いて手を振ってくれるのですが、
これがまた、たまらない。
完全にミーハーだ…。
ところが、
山田投手と仲良くなってからは、
いささか様子が違ってきます。
その日は、
エース山田の完投で見事な勝利。
私は、いつものように、
数十人の阪急ファンと一緒に、
バスの前で待機。
(はい、ここは東京ですからね。
たいした人数ではありません。)
そして、
ほとんどの選手が乗り込んだあと、
最後に、
バスタオルを首にかけた山田さんが、
さっそうとバスに乗ろうとする。
ファンはもう拍手、大喝采。
完投勝ちの大エースをたたえる。
「山田!」「いいぞ!」「さすがエース!」「日本一!」
その間隙をぬって私は、
「山(やま)さーん!」
と声をかける。
すると山田さん、
気づいてくれたようで、
こっちを振り向き、
「おおっ!」
とニッコリ。
すかさず私は、
「一杯飲みませんかー。」
という、仕草をする。
すると山田さん、
「おお、後で行く行く。先に行ってて。」
という仕草。
……。
どうですか、これ。
なんという優越感でしょうか。
私は大声で、
「庶民の諸君、今の光景を見たかねー!」
と叫びたい気分。
「今、私が飲みに誘ったのはだ〜れ?」
だ〜れでしたか〜?」
と言いたい気分。
そして意気揚々と、
意地の悪い笑みを浮かべながら、
六本木に繰り出していく気分の良さったら…。
芸能人を連れ歩くのとは全く違う感覚。
ほんと、
幸せな日々でした。
しかし、
依然として、
『阪急ブレーブス』は人気がない。
勝てども勝てども、
人気がない。
こんなこともありました。
その日は、
山田さん、キャッチャーの河村さん、
トレーナーの山下さん、私、家内、
の5人で飲んでおりました。
すると突然山田さんが、
「おい宮住君、ディスコでも行こうか。」
と、言い出した。
(当時は、六本木に相次いで登場した、
‘ファンション・ディスコ’なるものが、
若者の間で大流行りでした。
今で言うところの、クラブ?)
そこで私は、
当時、坂本龍一なんかとよく行っていた、
『G』というディスコに、
みなさんをお連れした。
ところが、
そこの入り口で、
一人の黒人男性が店の従業員と、
もめている。
それを見た山さん、突然、
「なんだ、テリーじゃないか!
どうしたんだ…?」
このテリーというのは…、
本名「テリー・ホイットフィールド」といい、
米大リーグ『ロサンゼルス・ドジャース』から、
西武ライオンズに助っ人として来ていた、
俊足好打の、
バリバリの大リーガー。
このお店は、
「ナンパ防止」のためでしょうか、
男性一人あるいは、
男性どうしでは入れません。
それに憤慨した我らが山田さん。
「そんなバカな規則があるか。
支配人を呼べ、支配人を。
俺は阪急の山田だ。」
従業員も負けてはいません。
「と申されても、
規則は規則ですから。」
山田さん、ますます憤慨して、
「お前じゃ話にならん。
支配人を呼べ。
俺は阪急の山田だ、そう言え。」
しばらくして、
従業員から連絡を受けた、
支配人らしき人物がやってきました。
そして彼は、こう言ったのです。
「はい、阪急電鉄の方が、
どういったご用向きでしょうか?」
「……。」
私は、
唖然としている山田さんの肩を叩きながら、
耳もとで、
こう囁きました。
「山さん、
やっぱ阪急って、
東京じゃ人気ないね。
気分悪いから、他の店に行きましょうよ…。」
(つづく)
その後、
別のディスコに行った私たちでしたが、
もちろんテリーも一緒についてきました。
そして勘定は全部、
山田さん持ち。
他球団の選手にまでご馳走しちゃう、
山さんの気っぷの良さ。
カッコよかったですよー。
この時私は、
おもに通訳でしたが、
この翌年、
ドジャースに復帰したテリーから、
年賀状をもらいました。
そこには、
この時の‘感謝’と‘お礼’が、
いっぱい書かれてありました。
もちろんこれも、
私の宝物のひとつです。
野球に興味の無い方や、
女性たちからみれば、
理解し難いお話の連続でしょうかね。
「78’藤井寺決戦」か…。
なつかしいなあ…。
燃えたなあ…。
……。
さ、ジャズやりに行こうっと。
SHUN MIYAZUMI
June 22, 2008
山田投手と私 その3
6/17、18日。
2日間にわたる
「代々木ナル」怒濤のライブも、
つつがなく終了。
いやあ、燃え尽きました。
ここんとこずっと、
レコーディング・スタジオという、
密閉された空間に
閉じこもっていた反動でしょうか。
久しぶりに、
一ピアニストに戻って、
大いに開放感を味わうことができました。
みなさん、
ありがとうございました。
やはり、
たまには弾かないといけませんね。
というわけで、
8/27(水)に、
私と岸徹至(ベース)は、
再び「代ナル」で競演することになりました。
彼のベースは、
ほんと素晴らしいです。
ヴォーカルは若手の須田晶子。
彼女とは1年ぶりかな。
これも楽しいライブになりそうです。
ぜひ、いらして下さい。
さあ、これで、
さあ、これで、
本当に一段落。
いつもの生活が戻ってきました。
エッセイの更新でもしましょう。
これから、こっちも、
更新頻度をあげていかなくては、
いけません。
なにせ、
書きたいことが、
たまってるもんで…。
2006年01月10日 No.126
「山田投手と私 その3」
『フィールド・オブ・ドリームズ』
という映画をご存知でしょうか?
アイオワの農園を手に入れて、
家族3人で平和に暮らす、
主人公(ケビン・コスナー)は、
ある日、
「それを作れば、彼はやって来る…。」
という謎めいた声を聴いてしまう。
そして彼は、
何かに取り憑かれたかのように、
その声に魅入られ、
なんと、
生活の糧(かて)である、
大切なとうもろこし畑をつぶして、
野球場を作ってしまうのです。
やがてそこには、
伝説のプレイヤー、
‘シューレス・ジョー・ジャクソン’
をはじめとする、
1919年に八百長疑惑で追放された、
「シカゴ・ホワイトソックス」
の8人のゴーストが現れ、
野球の試合が始まる。
……。
夢と現実が交錯しながら物語は進み、
感動のラスト・シーンをむかえるという、
野球をテーマにしたファンタジー。
そして…、
「それを作れば、彼はやって来る。」
の、‘彼’とは…?
私などは、1988年の公開時、
不覚にも、
映画館でボロボロ泣いてしまいましたが、
ま、そのくらい、
プロ野球選手というのは、
男子にとって憧れの存在。
ですから、
1978〜79年当時。
私が熱狂的に応援していた、
『阪急ブレーブス』のエース、
山田投手との出会いが、
私にとって、
どれほど大きな出来事だったか、
どれほど私が狂喜したか、
お分かりいただけると思います。
さて、その後も、
阪急が東京に遠征して来るたびに、
時には球場にでかけ、
試合後は何度も、
六本木『N』のママに電話。
「ねえ、山田さん来てる?」
「山田さん、電話あった?」
時には家や、友人の家で待機しながら、
『N』のママからの電話待ち。
そして、
「山田さん、来てるわよー。」
の電話があると、
「それ、行け〜。」
とばかり、
すかさず飛んでいく私。
携帯電話のない時代ですからね。
今だったら、
どんなに便利だったことでしょう…。
ある日のこと。
日本ハムとの試合(後楽園球場)
に先発したはずの山田投手が、
『N』に来ていたので、
電話を代わってもらう。
M「山さん、今日は日本ハム戦ですよね。
勝ったんですか〜?」
Y「負けた、負けた。ガハハハ。
永淵のサヨナラ・ホームランよ。
完投したんだけどなー。アハハハ。
惜しいけど、この次だ、この次。
さ、飲もう、飲もう。 早くおいで。」
豪快に飲んで、
嫌な‘負け’なんぞ、
カラリと忘れてしまう。
なんという、切り換えの早さ。
(さすがだ…。)
さらにこの人、
シーズン中は、
煙草もパカパカ吸うし、
お酒もガンガン飲む。
なんでも、
「ストレスを溜めないため」
だとか。
逆に、シーズン・オフは、
禁酒、禁煙で、
しっかり体を作るんだそうです。
なんという、意志の強さ。
(すごい…。)
やはり、凡百の選手とは違いますね。
さすがの選手です。
大いに勉強になりました。
そんなことに感心しながらも、
私は相変わらず、
子供のように質問攻め。
M「ところで、川上監督時代、
日本シリーズで、
5回も巨人に挑戦して勝てなかったのに、
長嶋監督になってからは2連勝でしょ。
なんで…?」
Y「そりゃ、そうよ。
だって阪急の選手って、
みんな長嶋さんのファンなのよ。
ていうか、
プロ野球選手全員といっていいかな。
彼の守備練習での華麗なグラブさばきや
スローイングを見て、
「カッコいいなあ〜。」って、
ため息ついてんだから。
彼がヒット打った時、
拍手したやつもいたんだぜ。
これじゃあ勝てるわけないじゃん。
だけど、
長嶋監督の巨人には、
‘選手の’長嶋さんはいないわけ。
だから平常心で戦える。
とまあ、こういうわけだな。」
なるほど、そういうことだったのか。
やはり長嶋って凄いんだなあ、
などと感心しながら次の質問。
M「ピッチャーがピンチの時、
一塁と三塁の選手がマウンドに行くでしょ。
あれって、
どんな会話をしてるんですかー?」
Y「面白い話があってね。
高志(山口。豪速球投手として知られた。)
がピンチのとき、
一塁から加藤秀、
三塁からは島谷さんが行くのね。
で、島谷さんは
‘高志、球走ってるぞー。落ち着いて。’
と励ましてくれる。
ところが加藤さんは、
‘高志、きのう、エッチなことしただろ。
腰がふらついてるぞ。ハハハ。’
‘山さん、うちの一塁と三塁は、
なんでああも、
正反対のことを言いに来るんでしょうね。’
とまあ、そんな程度のことよ。
アハハハ。」
いやあ楽しい、楽しい。
そうそう、
こんなこともありました。
これがまた、
ケッサクなお話…。
(つづく)
なんだか、
ひとりで楽しんでるようで、
ごめんなさい。
ま、これが、
個人ブログのいいところでして…。
と言い訳したところで、
今日は2ヶ月ぶりに、
映画でも観て、
休日を楽しみたいと思います。
(映画も久しく観てないのです。)
まずは、リフレッシュして、
普通の生活に戻る。
そう、大切ですね。
‘普通の生活’
SHUN MIYAZUMI
June 14, 2008
山田投手と私 その2
いやあ、終りましたよ。
出来ましたよ。
『ジャミン・ゼブ』
セカンド・アルバムのレコーディングは、
すべて終了です。
パチパチ。
それしても我ながら、
よく頑張ったなあ…。
6月5日から、
「MIX DOWN」(ミックス・ダウン)
という、
いわゆる編集作業
を開始したのですが、
毎日、昼の1時に始めて、
5、6日は夜中の3時半まで。
7日〜10日までは、
毎日終了が朝の6時頃。
それでも時間が足りなくて、
予備日に取ってあった12日は、
朝の10時から始めて、
なんと終ったのが、
翌13日の朝の10時。
つまり、
24時間一睡もしないで、
作業していたことになります。
やれやれ。
そしてそのまま、
ビクター・スタジオの中にある、
マスタリング・ルームに持ち込んで、
「マスタリング」という作業。
これで、いわゆる、
「マスター原盤」というものが、
出来上がりました。
あとは、
工場でプレスをするだけ。
はい、これで完成です。
みなさん、
本当に、
お疲れさまでした。
コピーを待つ間、
ビクターJ氏、スタッフのショーちゃんと、
近所の蕎麦屋で乾杯。
(久しぶりの酒だ…。)
そして、
学芸大の某ジャズ・バーで、
さらにショーちゃんと乾杯。
さすがに、
この頃には、
もうフラフラなので、
早々に切り上げて、
12時に帰宅。
そのまま、
気絶…。
なんと私は、
40時間近くも、
起きていたことになりますね。
ふ〜…。
そして今日は、
久しぶりにたっぷりと寝て、
さわやかな初夏の風のもと、
近所の駒沢公園で、
完成した音を、
ヘッド・フォンで楽しむ…。
でもね、
がんばった甲斐がありました。
大満足です。
とても美しいアルバムが出来ました。
ジャミン・ファンの方、
お楽しみにしていて下さい。
そうではない方も、
ぜひ聴いてみて下さい。
日本にも、
世界の舞台で活躍できそうな、
こんなグループがあるんだよと、
知ってもらいたいので…。
発売日は、
8月20日予定です。
というわけで、
2週間ぶりですね。
いつもの生活に戻って、
エッセイの更新でもしようと思います。
2005年12月30日 No.125
「山田投手と私 その2」
あれは、
1978年か79年頃の、
ある秋の日のこと。
当時入り浸っていた、
六本木のジャズ・バー「N」のママの、
一本の電話で、
目がさめた私。
「シュンちゃーん、
山田投手が来てるわよ。
来ないかーって言ってるけど、
どうする?」
この頃のプロ野球界は、
9年にも渡って君臨してきた、
巨人の黄金時代が終って、
『阪急ブレーブス』という、
人気のないパ・リーグの、
その中でも人気のない、
関西のあるチームが、
全盛時代を迎えていました。
1975〜1978年には、
パ・リーグ4連覇、日本シリーズ3連覇、
という偉業を達成。
そして私は、
この『阪急ブレーブス』の、
大ファンでした。
その阪急の大エース投手、
山田久志さんが、
来ている…。
六本木の、
私の馴染みのバーに…。
時計をみると、
夜中の1時。
折しも外は、
近づいてる台風の影響で、
激しい雨、風。
しかし、
私は躊躇することなく、
タクシーを拾って六本木へ。
ドキドキしながら、
そおっと店に入ると、
「やあ、いらっしゃい。
はじめまして。」
と、にこやかな笑顔で、
あの山田投手が、
あの…山田久志選手…が、
立って迎えてくれました。
台風の影響でしょうか、
お客は他には、
誰もいません。
前にも書きましたが、
私は、
音楽芸能界に生息しているため、
芸能人を見ても、
特に何に感慨も起きません。
しかし、
野球選手だけは別です。
とたんに野球少年に逆戻り。
「あ、あの、こんばんは。
わ、私、
は、阪急ファンなんです。
よ、よろしくお願いします。」
と、紅潮した顔で、
握手をしてもらう。
しかも相手は、
天下にとどろく大投手。
今思い出しても、
夢のような瞬間でした。
さらに私は、
持参した、
『勇者たち』
という本にサインをしてもらいました。
これは、
『阪急ブレーブス』が、
1977年の日本シリーズで、
宿敵巨人を4勝1敗で破り、
「3年連続日本一」
になったのを記念して作られた本。
表紙には、
山田さんを中心に、
阪急の名選手たちの写真。
そして本を開くと、
その1977年の優勝の瞬間の、
歓喜の胴上げシーンが、
見開きカラーで掲載されています。
私が、
宝物のように大切にしていた本です。
このことは逆に、
山田さんを感動させたようです。
「いやあ、これを持ってる人を
東京で見たのは、
初めてだなあ。」
当時パ・リーグは、
本当に人気がなく、
ましてや東京に、
こんな熱心な阪急ファンがいることに、
彼は大いに驚き、
喜んでくれたのでした。
それから明け方近くまで、
私たちは大いに語り、大いに飲み、
私にとっては、
この上もなく、
至福の時間を過ごしたのでした。
私が次から次に繰り出す、
子供のような質問にも、
嫌な顔ひとつせず、
ニコニコと笑顔で、
答えてくれます。
特に私が聞きたかったのは、
1971年の日本シリーズ。
巨人のV7がかかったこの年。
しかし、
王、長嶋に、
年齢的な衰えが見られはじめたこの年は、
山田、福本、加藤秀といった、
若手の台頭で、
めきめき力をつけた
阪急が勝つのではないか、
というのが、
大方の予想でした。
一勝一敗で迎えた第3戦。
場所は「後楽園球場」
9回表を終って、
1-0で阪急がリード。
そう、
ここまで阪急の若きエース山田久志は、
まったく危なげない投球で、
王者巨人を翻弄していました。
そして9回裏。
巨人の攻撃も、
あっさり2アウト。
あと一人押さえれば、
阪急はこのシリーズ、
絶対有利の状況になります。
迎えるバッターは、
長嶋茂雄。
「打ちました。
内野ゴロだ。
ショート阪本追いつくか…。
おっとセンター前に抜けた。
さすが長嶋。
粘りのセンター前ヒットだ。
巨人、かろうじて王に繋ぎました。」
これは、
うまいショートだったら、
取れていた。
そして、
あっさり阪急が勝っていた…。
この時の守備を悔やんだ西本監督は、
翌年「東映フライヤーズ」から、
(「日本ハムファイターズ」の前身)
守備の名手、
大橋を獲得します。
これは、
後の阪急黄金期に、
大いなる戦力となる、
素晴らしいトレードでした。
話を戻しましょうね。
さあ、迎えるバッターは王貞治。
しかし、ここまで山田は、
王をも完璧に押さえています。
「ま、今日の山田の出来なら、
まず大丈夫だろう。」
と思ったその瞬間、
「カキーン!」
という快音を残して、
打球は無情にも、
巨人ファンで埋め尽くされた、
ライト・スタンドに一直線。
今や伝説となった、
王の‘サヨナラ逆転ホームラン’です。
大騒ぎの巨人ベンチ。
ほとんどが巨人ファンの観客席も、
狂喜乱舞。
一方、
うなだれて自軍ベンチに戻る、
阪急の若きエース、
山田久志…。
私が聞きたかったのは、
あのときの山田さんの心境。
「いやあ、あのときは若かったのね。
長嶋さんに、いい球(タマ)打たれて、
カーッとしちゃってね。
王さんにも、
ええい、打てるもんなら打ってみろ、
てな感じで、
ど真ん中に放ってしまったのね。
歩かすくらいの気持ちで良かったのにね。
アハハハ。」
山田さんは続けます。
「でね、
よくTVで、
‘プロ野球名場面特集’
なんて番組やってるでしょ。
すると、
必ず‘あのシーン’が出てくるのね。
俺は、王さんも、
結構押さえてるのよ。
しかし出てくるのは、
‘あのシーン’ばっかり。
やんなっちゃうよなー、まったく。
アハハハ。」
そう、
この「アハハハ」がいいんだなあ、
山さん。
そして、
この頃には、
いつもの馴れ馴れしさが復活して、
いつしか、
「山(ヤマ)さん」
と、呼んでいる私。
……。
その後も私の、
子供のような、
質問攻めは続く。
私「山さん、
加藤秀司さんて、
どんな人?」
山さん「そうねえ、カトちゃんは○△×○…かな。」
私「ねえ山さん、
福本さんは?」
山さん「福ちゃんはねえ、○△×○○△…。
私「ところで山さん、
江川は? 山口高志は? 長嶋さんは?
○△は? ×○は…?」
山さん「うん、江川はね、○△×○…。
高志はね○△×○…、
長嶋さんはね○△×○○△×○……。」
TV画面で見る山田投手は、
常に沈着冷静。
クールで、クレバーな、
とっつきにくい、
芸術家タイプの、
‘孤高のエース’
といったイメージでしたが、
これが大違い。
気さくで、
スターぶらない、
お酒とおしゃべりが大好きで、
いつも明るい笑顔の、
素敵な野球選手でした。
着ているものもセンスがよく、
(当時のプロ野球選手の私服姿といえば、
みな野暮ったく、
センスが悪く、
中には、
「そっち方面の方ですかー?」
と思わせるような人も、
たくさんいましたね。)
高級ブランデーを飲みながら話すその姿は、
実にカッコいい…。
こうして、
この至福の時間は、
朝の4時頃まで続いたのでした。
「いやあ、楽しかった。
宮住くん、ありがとう。
また遠征で東京に来たときは、
ぜひ飲みましょう。」
(や、山田さんが、
「宮住くん」と言ってくれた…。)
その言葉どおり、
この後も私は、
この稀代の‘大エース投手’と、
一緒に飲み、
一緒に遊ぶ機会に、
数多く恵まれることになるのです。
そして私の‘阪急びいき’は、
ますますエスカレート、
していくのでした。
野球少年ぶりも…。
(つづく)
そういえば、
カレンダーを見たら、
来週の17、18日は、
「代々木ナル」
と書いてありました。
ジャミン・ゼブ相手に、
久しぶりのピアニストです。
今年に入ってから、
ほとんどピアノを弾いていないので、
ちと心配…。
正直に言いますと、
今回のレコーディングでも、
ピアノの部分だけは、
悪戦苦闘でした。
やっぱり、
たまには弾いてないと、
ダメですね。
そんなわけで、
夏以降、
少しだけ、
ピアノ・ライブを、
復活させようかな、
とも思ってますので、
その折はまた、
よろしくお願いします。
というわけで、
明日は、
ピアノの練習でもしようかな。
と、今、
思ってるだけですが…。
SHUN MIYAZUMI
June 01, 2008
山田投手と私
やれやれ。
先週も激動の一週間でした。
でも、
こうして生きてるところをみると、
なんとか無事に、
乗り切ったようですね。
なにしろ、
月曜から金曜まで、
毎日、終電近くまでレコーディング。
おまけに金曜日は、
そのまま、
月末恒例ミッドナイト・セッション。
「学芸大 A'TRAIN」にて、
朝の3時半までスポーツ・ピアノ。
少しだけ寝て、
千葉県白井市文化センターでの、
「ジャミン・ゼブ/チャリティー・コンサート」
に行く。
ふ〜…。
でも、このコンサートは、
素敵でした。
体に障害を持つ子供たち、
そのご家族、関係者のみなさん、
集まって下さった多くのお客さんのために、
いろんな企画を考えたのですが、
まずは喜んでいただけたようで、
ほっとしました。
最後に、
子供たちがステージに上がり、
ジャミンに花束を渡すシーンでは、
思わず胸が熱くなりましたね。
日頃のみなさんのご努力に、
改めて敬意を表したいと思います。
というわけで、
今日は久しぶりのお休み。
(いいお天気でしたねえ。)
今や週一になってしまっている、
エッセイの更新です。
今日は、
前回の「将棋と私」
のときにも触れましたが、
かつて私が、
こよなく愛していた、
とあるプロ野球チームのお話です。
そこには私の尊敬する、
素晴らしいエース投手が、
おりました。
過去に一度書いたものなのですが、
懐かしく思い出しながら、
リニューアルしてみようと思います。
2005年11月05日 No.123
「山田投手と私」
阪急ブレーブス。
かつて私が、
熱狂的な応援をしていた、
プロ野球チームです。
その後、
オリックスに身売りしたため、
その存在は、年々、
歴史の彼方に遠ざかる一方ですが、
1970年代の半ば頃には、
圧倒的な強さを誇っていました。
ああ、思い出すだけでも、
胸がときめく…。
でも、
関西人でもない私が何故…?
事のいきさつはこうです。
私も、小さい頃は、
みんなと同じように、
‘普通に’巨人ファン。
王のホームランに酔いしれ、
長嶋の華麗なプレイに拍手喝采。
毎晩のようにTVの前で声援を送る、
普通の‘野球大好き少年’でした。
一方、
その頃のパ・リーグといえば、
今と違って、
客は入らない…。
TVでも、
もちろんやらない…。
私たちが、
パ・リーグの選手を見ることができるのは、
『オールスター戦』か『日本シリーズ』
に限られる。
しかも、ほとんどが、
巨人の敵(かたき)役としての存在。
ま、当時のプロ野球は、
巨人だけが圧倒的な人気で、
マスコミも、
巨人だけを取りあげていればいい時代。
残りの11球団は、
その引き立て役というか、
お供え物というか、
ま、そんな感じでしたかね。
その中でも、
『阪急ブレーブス』というチームは、
『近鉄バファローズ』と並んで、
‘灰色の球団’
と言われるほど、
特に人気のないチーム。
スター選手もいないし、
毎年最下位争いをするくらい弱いし…。
私も、
中学生くらいまでは、
まるで眼中にありませんでした。
それが、
昭和40年代に入り、
名将、西本幸雄監督
を迎えると、
あっと言う間に、
不思議なくらい、
強いチームに変身です。
ところが運悪く、
折しも時代は、
巨人の黄金時代。
いわゆる巨人が、
「V9」を達成した時代ですから、
強くなった阪急が、
いくらパ・リーグを制し、
日本シリーズで巨人に挑んでも、
そのつど、
はね返される。
可哀想なくらい、
勝てない。
一方その頃、
高校、大学と進んでいった私は、
休みになると、
よく、関西に行っておりました。
このエッセイにも、
たびたび登場しましたが、
中学時代の2年間を、
四日市というところで共に過ごした、
親友のO氏。
(「学園紛争」「忠臣蔵と私」etc.)
そんな彼の両親が、
故郷の神戸に戻っていたため、
私は、
夏休みや冬休みになると、
たまたま実家に帰省していた、
O氏を訪ねるべく関西旅行。
毎日ふたりで、
梅田や難波や三宮に出かけ、
華やかな大阪、神戸の繁華街を探索する。
これは、
私の青春時代の、
楽しみのひとつでもありました。
そんなふたりが、
利用する電車といえば、
必ず阪急電車。
デパートも阪急。
阪急3番街。
阪急、阪急、阪急…。
そう、
とにかく大阪は、
‘阪急の街’なんですね。
野球は、
『阪神タイガース』が断然人気だけど、
市民生活は、
阪急なしでは語れない。
しかもO氏の両親の住むマンションが、
「西宮北口」という駅から1分足らず。
『阪急ブレーブス』の本拠地、
『西宮球場』
の、すぐそばにある。
楽しい夏休みを関西で過ごした私が、
秋の「日本シリーズ」で、
毎年、毎年、
巨人に痛めつけられる阪急を見て、
いつしか熱心な
‘阪急ブレーブス・ファン’
になったのも、
至極当然のことではありますまいか。
しかし、
結局、
西本阪急は、
「日本シリーズ」では、
5回挑戦して1度も勝てず、
巨人の「V9」に華を添える、
脇役でしかありませんでした。
ところが、
長嶋が引退し、
巨人の「V9」が終り、
上田利治監督を迎えた昭和50年(1975年)から、
この『阪急ブレーブス』は、
パ・リーグ4連覇。
そして、
「日本シリーズ」3連覇。
という偉業を成し遂げるのです。
(あれから、
30年以上も経つのか。
つい、この間のことのように思える…。)
そうです。
ファンにとっては、
待ちに待った、
たまらない時代が、
やってきたのです。
相変わらず人気は無かったけど、
実に通好みの名選手が、
ズラリと顔を揃えていました。
「盗塁王」福本豊外野手
「好打」加藤秀司内野手
「いぶし銀」足立光宏投手
「剛速球」山口高志投手
「代打ホームラン王」高井保弘選手
そしてエースは、
通算284勝のサブマリン(下手投げ)、
山田久志投手。
私のなかでの、
超スーパー・スター。
その山田投手と、
運命的な出会いの日が、
訪れようとは、
思ってもいませんでした。
……。
1978年か79年頃の、
ある日のことです。
六本木の「N」
というジャズ・バーに立ち寄った私は、
ちょうど勘定を払って出ていった、
長身でスタイルがよく、
ガッチリとした体型の、
ひとりのお客と、
すれ違いました。
その時です…。
私の体のなかを、
強烈な電流が走りました。
(まさか…。)
その「N」というバーも、
このブログには、
何度も登場しましたね。
(「エロール・ガーナーの思い出」
「ジャズまくり時代」etc.)
私が敬愛する、
名ピアニスト菅野邦彦さんの
かつてのホームグラウンドで、
あのエロール・ガーナーが、
生涯で1日だけ訪れた日本で、
朝までピアノを弾いたという、
(しかも私は偶然それを観た。)
伝説の、
あのお店です。
私はママに、
興奮気味に、
こう尋ねました。
「ママ、さっきの人、
もしかして、
阪急の山田投手じゃない…?」
するとママ、
「あら、そうなの?
私、野球のことはよく知らないけど、
そう言えば、
確かに野球選手みたいなこと、
言ってたわね。
最近よく来るわよ。」
ますます興奮した私は、
「あ、あの、もし今度来たらさ、
絶対連絡して欲しいんだけど…。」
「いいわよ。」
その数日後の、
夜中の1時頃。
私は一本の電話で目がさめました。
「シュンちゃーん。
山田投手が来てるわよ。
来ないかーって言ってるけど、
どうする?」
「……。」
(つづく)
5月29日で、
私は57才になりました。
そして、
数多くのみなさんから、
お祝いのメッセージやプレゼントを
いただきました。
この場をお借りして、
厚くお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
私は幸せものです…。
(ぐしゅん…。)
さあ、
いよいよ明日から10日までは、
ノン・ストップで、
「ジャミン・ゼブ/セカンド・アルバム」
の仕上げです。
がんばりますよー。
精神の若さだけは、
誰にも負けません、
と、勝手に思っておりますからね(笑)。
期待していて下さい。
というわけで、
今週もいい一週間でありますように。
おやすみなさーい。
zzz…。
SHUN MIYAZUMI
February 16, 2008
演歌と私 その6 最終回
いやあ、
怒濤の一週間でした。
2/12(火)「六本木 スイート・ベイジル」
2/13(水)「パシフィコ横浜」
2/14(木)「名古屋 ブルーノート」
そして昨日は、
ニューアルバムのプリ・プロ開始と、
完全にジャミン漬けの一週間。
でも、おかげさまで、
どのライブも、
超満員のお客様の熱気に後押しされ、
素晴らしいものになったと思います。
若いジャミン・ゼブにとっても、
収穫の多い、
ライブ・ウィークになったのでは、
ないでしょうか。
みなさん、
お疲れさまでした。
というわけで、
私も今日は完全休養。
今を去ること、
30数年前の若かりし日を、
回想してみたいと思います。
2005年04月24日 No.108
演歌と私 その6 最終回
せっかく有線でベスト10してるのに、
肝心の発売後のスケジュールが真っ白。
……。
もっとも蒼ざめたのは東芝です。
これからTVの歌番組やラジオ・ゲストに、
華々しく出ていくことを、
想定していたわけですからね。
でも、
自分で連れてきた事務所だから、
あからさまに文句をいうわけにもいかない。
村井社長の反対を押しきって、
アルバムまで作っちゃった私も、
実は大慌て…。
「仕方ない、
みんなでスケジュールを取りに行こう。」
と、元気なく団結したものの、
世の中、そんなに甘くない…。
誰も見てないような深夜番組で、
ちょこっと唄うのが決まったそうですが、
3ヶ月後のお話。
朝の天気予報のバックでちらっと出てくる。
これは4ヶ月後。
そうこうするうちに発売日。
……。
やはり有線だけではダメですね。
まったくゼロというわけではありませんが、
期待していた数字には、
ほど遠い。
予算も、
全国キャンペーンで,
あらかた使い果たしたらしく、
もはや何の手も打つことができない。
そのうちに、
有線チャートも下がりはじめ、
3ヶ月後には、
すっかり消えてしまいました。
惨敗…。
シングルが売れないのだから、
当然アルバムも発売中止です。
「ほら、俺の言ったとおりだろ。」
という村井社長の冷ややかなお言葉。
あんなに乗ってたA課長も、
なぜか私と目を合わせるのを避けるように…。
「いや、ヒットを作るのは難しい…。」
思いつきだけの企画じゃだめなんですね。
その後、
もう一枚だけシングルを出しましたが、
その頃には東芝も、
別の新人歌手の売り出しに必死で、
こっちには目もくれない。
したがって、
当然売れない。
「チッ、みんなあんなに乗ってたくせに、
冷たいなあ…。」
こうして、
残念ながらこのディスコ演歌は、
幻のヒット企画と相成った訳です。
それでも、
作詞の鳥井実、
作曲の猪俣公章
といった先生方はやさしく、
「なあに、
そんなに最初からうまくいく訳ないよ。」
と、はげましてくださったり、
頼んでもいないのに、
新しい曲をどんどん書いてきたりします。
でも、
その作品をつらつら見ているうちに、
私の中に、
ある疑問がわいてきました。
冷静になってみると、
詞も曲も、
どれもみな同じに感じてしまうのです。
というより、
その中に秘められた、
人生、恋愛、友情、旅情、
といった、
さまざまな「演歌の世界」の持つ深みが、
全く理解出来ていない自分に、
気づいたのです。
思えば、
クラシックに始まって、
ビートルズやモータウン・サウンドで、
少年期を過ごし、
ついこの前までは、
ジャズ・ピアノに夢中になってた私。
でもその先生方は、
生きざまから、
なにもかもが、
‘演歌そのもの’なんですね。
そんな彼らが、
丹精込めて作った大事な作品を、
‘ディスコ演歌’とか言っちゃって、
面白可笑しく、
遊び半分でやってしまった私。
売れるわけありませんね。
人生も、
エンターテインメントの世界も、
そんな甘いものじゃない…。
「俺はまだまだ若い…。」
苦い思い出だけが残った、
私が24才の春のことでした…。
(おわり)
(感想 2008/2/16)
これ以降、
フリーになってから一、二度
中村泰士さんの依頼で、
お手伝いはしましたが、
自分から、
手をつけることはやめました。
演歌。
これはこれで、
おっかない世界ですから。
‘餅は餅屋’
‘生兵法は怪我のもと’
やはり人間、
得意の分野で腕を振るうのが、
一番ですね。
アルファだってそうです。
誰も、
好んで演歌を聴いてる人なんて、
いなかったんですから。
A課長をのぞいて…。
(アハハ、お元気ですか?)
SHUN MIYAZUMI
February 09, 2008
演歌と私 その5
また、やっちゃいました。
なにを?
昨夜、
大阪プロモーションに出かける、
ジャミン・ゼブを見送ったあと、
学芸大の某ジャズ・バーに行ったのですが、
また来ちゃったんですよ。
誰が?
CHIHARU(チハル)。
私の大好きなジャズ・シンガー。
そして、その直後に、
ご丁寧に、
ベースのエディ河野まで。
かつて、
「わかっちゃいるけどやめられねえ」
というエッセイにも書きましたが、
この3人が揃ったら、
もうダメです。
朝まで狂ったように、
セッション。
……。
おかげできょうはボロボロ。
アレンジ仕事があったのに。
いけませんなあ…。
(めちゃめちゃ楽しかったけど…)
というわけで、
アレンジは明日頑張ることにして、
きょうも、
30数年前に、
タイム・スリップ。
2005年04月02日 No.107
演歌と私 その5
意気揚々と名古屋に行ったものの、
新幹線のストライキに巻き込まれ、
あやうく餓死しそうになった、
私たち。
A課長は上司から、
「大人がついていて、なんたるザマだ!」
と、お叱りを受けておりましたね。
アハハハ。
さて、そんな中、
たかしな真『涙の海峡』の、
有線チャートは相変わらず好調。
全国ベスト10をキープしております。
そして、
発売日も、もうすぐ。
「こりゃ売れるな。」
と確信した私。
それならば今度は、
「アルバムを作ろう」
と思い立ちました。
さっそく企画書を書いたところ、
もちろんA課長は大乗り。
ところが、
社長の村井(邦彦)さんは、
意外にも渋〜い顔。
以下、私と村井社長(M)のやりとり。
M「シュン、俺はまだアルバムは早いと思うよ。」
私「でも、有線でベスト10に入ってるんですよ。」
M「あのね、有線ってのはね、
ボクシングで言えば‘ジャブ’のようなものなの。
今はなんとなくイメージができつつある段階。
これだけで即売れると思ったら、
大間違いなのよ。」
私「でも、それだけ反応があるってのは、
売れる可能性大ってことじゃないですか。」
M「あのね、本当に大事なのはこれから。
TVやラジオで、きちんと流れてね、
ああ、あの曲はこれだったんだ、
と認識されたときに、
初めて売れるのよ。」
私「でもその時にアルバムを準備してないと、
それから作ったんじゃ、
遅いんじゃないですか。」
M「全然遅くないと思うよ。」
私「お言葉ですが、
これは企画が面白いんですよ。
ディスコと演歌の融合。
売れたらきっとみんな真似しますよ。
ですから、
早め早めに準備したほうがいいですよ。」
M「お前が言うほど、
そんなに面白い企画かなあ?」
私「……。」
M「まあいい、じゃやってみろよ。
そのかわり、
まだ売れたわけじゃないんだから、
安く作れよ。」
「はいーっ!」
てなもんで、
さっそく選曲。
企画の面白さ(あくまで個人的見解)
を全面に押しだすべく、
『涙の海峡』とカップリングをのぞいた
残りの8曲は、
すべてカバーでいくことにしました。
『よこはまたそがれ』『北の宿から』なんかは、
シルヴァー・コンベンションばりに、
当時流行りの、
サンフランシスコ・ディスコのサウンドで。
ドンツクドンツクのリズムに、
ワウ・ギターがワカチュク、ワカチュク。
『弟よ』では、
コーラス・グループ「イブ」を呼んで、
大ゴスペル・コーラスの嵐。
東芝によいしょの意味もあって、
『霧にむせぶ夜』(黒木憲)
なんかもやった。
とりあえず私が知ってるレベルの
演歌のヒット曲を、
アレンジャーの川口真さんをけしかけて、
これでもか、これでもかと、
面白可笑しく、
どハデなサウンドで、
やりまくっちゃいました。
いやあ、面白かった。
大いなる自己満足。
A課長はもとより、
東芝の宣伝も「おもしろい、おもしろい」
と手放しで誉めてくれましたよ。
よし、これで準備万全!
早く発売しろ。
早くヒット・チャートを駆け上がれ。
そんな思いの、
発売日直前のある日。
東芝、アルファ、そして事務所、
関係者が集まって、
最後の宣伝ミーティングが開かれました。
場所は東芝の大会議室。
はじめに、東芝の宣伝課長から、
有線はじめ、
全国キャンペーンの成果についての報告。
そして、
お次は事務所から、
発売日以降の、
TV、ラジオ、イベント等のスケジュール報告が
なされるはずでした。
当時は今と違って、
TVやラジオや新聞の取材等は、
“事務所”がブッキング。
レコード会社はあくまで、
有線やラジオ・スポットなど、
お金を使ってサポートするという、
役割分担だったのです。
したがって、
渡辺プロダクションのような、
‘TVに強い’大手プロダクションと組むことが、
ヒット・アーティストを生む近道。
さすがにこのプロジェクトは、
大手プロダクションは、
名乗りをあげませんでしたが、
それでも東芝が意気揚々と連れてきた、
この事務所。
(仮に○○企画としておきます。)
今はそれほど力はないにせよ、
かつて、昭和30年代には、
御三家といわれた大スターや、
有名歌手などを抱え、
業界にさっそうと君臨していた事務所とか。
したがって、
東芝の先行プロモーションで、
有線を中心に全国キャンペーンで
村井さんが言うところの
‘ジャブ’を効かせてきた今、
いよいよ今度は事務所の出番。
さあ、
どんなTV番組が入ってるのだろう、
と、みな楽しみに報告を待ったわけです。
ところが、
ところが…、
と、ところが……、
スケジュール帳を見てみな仰天。
今月も、
来月も、
その次の月も、
そのまたその次も、
何にも、
入ってない。
TVはおろか、
ラジオも、
新聞の取材も、
雑誌の取材も、
イベントも、
とにかく、
な〜〜んにも、
入ってない。
真っ白。
……。
私たちは、
思わず顔を見合わせて、
がく然としたのでした。
(つづく)
(感想 2008/2/9)
きょうの大阪は、
すごい雪だったようですね。
ジャミン初の大阪ミニ・ライブ。
人が集まったのかなあ。
ちと心配なところですが…。
そして来週は、
「六本木スイート・ベイジル」(2/12)
「名古屋ブルーノート」(2/14)
と、大きなライブがありますね。
六本木に続いて、
名古屋も‘完売近し’のようです。
メンバーのテンションもうなぎ上り。
中京圏のかた、
ぜひお早めにご予約を。
(朝までピアノ弾いて、
遊んでる場合じゃないだろ…。)
SHUN MIYAZUMI
February 03, 2008
演歌と私 その4
ああ、面白かった。
なにが…?
デンゼル・ワシントン主演の映画、
『デジャヴ(Deja Vu)』
通信衛星を使って、
4日前の映像をモニターしながら、
特定の犯人、犯行場所をわりだしていく、
というサスペンスものなのですが、
今ならこんなこと、
朝メシ前かもしれませんね。
ちょっと空恐ろしい気がしました。
最後の‘タイム・マシーン’的展開は、
やりすぎの感もありましたが(笑)。
いずれにしても、
ここ10年あまりの、
テクノロジーの進歩は、
目を見張るものがあります。
そこへいくと、
たった30年とちょっと前、
のことなのに、
世の中、
こんなだったんですかぁ、
という感じですかね…。
2005年03月20日 No.105
演歌と私 その4
新幹線が停まってる…。
私たち、
名古屋で足止め…?
しかも、
前日のドンチャン騒ぎで、
仮払いの金を、
ほとんど一日で使い果たしてしまった…。
今を去ること、
約30年前のお話。
当時はね、
キャッシュ・カードなんて、
ありませんでしたよ。
したがってお金は、
登録してある銀行でしか、
おろせなかった。
今なら、
会社に電話して、
すぐに入金してもらえば済む。
あるいは、
クレジット・カードのキャシングなどなど、
旅先で金に困っても、
全然平気。
日本中どこでもおろせる。
でも当時は、
まったくダメ。
30年前…。
つい、この間のことのようですが、
思えばこの間に、
文明って一気に発達したんですねえ。
キャッシュ・カードもキャッシュ・ローンも、
携帯電話も、パソコンも、
カラオケ・ボックスも、コンビニも、
CDも、MDも、
な〜んにも無かった。
若い人には信じられないでしょうが…。
というわけで私たち、
3人合わせて1万円にも満たない所持金で、
今日一日を過ごすハメになりました。
しかたなく、
その辺で軽くメシを食って、
東芝のNさんに電話して事情を話したところ、
さすがにハートのあるNさん、
「いやあ、それは災難でしたな。
よろしい、
今日も私がお付き合いしましょう。」
と言って下さった。
早速東芝に赴き、
きのうと同じように、
有線やら、ラジオ局やら、
新聞社などを廻ってプロモーション。
これで何とか昼間の退屈からは、
逃れられた。
そしてまた夜が来ました。
Nさん、
「きのうはA課長にさんざんお世話になったので、
今日は私がおごる番。
さ、何が食べたいですか?
遠慮なく言って下さいよ。」
と、涙が出るようなありがたいお言葉。
遠慮なくご馳走になったあとは、
きのうと同じように、
またまたNさんの行きつけのスナックへ。
そしてきのうと同じように
ドンチャカ、ドンチャカ♫
みんなで交代で演歌を唄いまくり、
口角泡を飛ばしながら、
「いやあ、この曲はいい。
いやあ演歌の未来は明るい。
日本の未来は明るい。」
と、まるで,
きのうのビデオを見てるかのようなワル乗り。
さらに!
「もう一軒行きましょう、もう一軒。」
と、Nさんの口車に乗せられて、
またまたお姉ちゃんのいる店へ。
ここでもドンチャカ、ドンチャカ♫
ただし、
今日はすべて東芝持ち。
……。
こうして、
夜もとっぷりと更け、
我々そろそろ、
おいとますることにしました。
A課長
「いやあ、すっかりお世話になりました。
みんな、
このご恩は一生忘れちゃいかんぞ。」
私「(よく言うよ)……。」
Nさん
「ま、明日は電車も動くでしょう。
私達も頑張りますから。
絶対ヒットさせましょうぞ。」
と有り難いお言葉まで頂いて、
タクシーでホテルまで帰り、
すぐさまバタン・キュー。
zzz……。
朝が来ました。
きのう同様、
すさまじく酒臭い私たちは、
おそるおそる名古屋駅に向かう…。
しかし、
まだ、
動いていない。
……。
この時点で、
私たち3人の合計所持金は、
約5,000円ぽっきり…。
さすがに今日は、
東芝に電話するわけにもいかず、
さりとて、
まわりに知人もいない。
途方に暮れた私たちは、
仕方なく、
その辺の「立ち食いソバ」をかきこみ、
ホテルの部屋で、
じっとしてることにしました。
退屈極まりない午後を過ごしたあと、
晩飯は、
駅前の立ち食いラーメン。
それでも、
あまりに空しいので、
酒屋で安酒と安いツマミを買って、
A課長の部屋で細々と宴会。
深夜、腹が減ると、
またまた駅前の立ち食いラーメン。
なんとも、
さえない出張になってしまいました。
そして運命の朝が……。
今日も停まってたら、
私たち、餓死するかもしれない。
……。
よかった…。
新幹線、動いてました。
ホッ。
ホテル代は請求書扱いにしてもらい、
一番安い駅弁を3個買って、
前もって買っておいた切符で、
ようやく帰ることができました。
東京駅に着いたときの所持金といえば、
A課長1,000円、
たかしな君500円、
私に至っちゃ、
100円玉が2,3個という、
ありさまでしたね。
みなさん、
旅先での、
金の使いすぎには、
くれぐれもご注意を。
それでも、
その2週間後には、
名古屋有線でもベスト10入りしたのですから、
この珍道中もムダではなかった。
と、自分に言い聞かせましたがね…。
(ああ、思い出すだけでも、
おぞましい…。)
(つづく)
(感想 2008/2/3)
彼らのブログによると、
ジャミン・ゼブ初の、
名古屋プロモーションは、
なかなか優雅なもの、
だったようですね。
よかった、よかった。
(私とは、えらい違いだ…。)
それにしても、
そんな時期に、
またまた私が、
こんな名古屋の珍道中を書いている。
現在と過去が、
奇妙にリンクする、
このブログの特性は、
今年も健在、
というべきか…?
ううむ……。
SHUN MIYAZUMI
January 29, 2008
演歌と私 その3
いやあ、寒いですねえ。
めったに風邪などひかない私も、
さすがにこの週末は、
寝込んでしまいました。
おかげで、
仕事の予定が、
大幅に狂ってしまうハメに。
今日から、
巻き返さないとヤバい。
……。
といいつつ、
すぐに仕事する気にもなれないので、
エッセイの更新。
今を去ること、
約30年以上も前のお話です。
2005年03月14日 No.104
演歌と私 その3
有線全国チャートで見事ベスト10入りした、
快調、たかしな真君。
そして、
『涙の海峡』
お次は、
名古屋を重点的に攻めよう
ということになりました。
なぜなら名古屋には、
東芝では演歌を売らせたら‘天下一品’
Nさんという、
名物プロモーターがいたからです。
東芝というレコード会社は、
どちらかというとポップス系が得意。
演歌の得意なビクターやコロムビアと違って、
どちらかというと、
演歌にはあまり力を入れない。
それでも、
城卓也『骨まで愛して』
克美しげる『さすらい』
黒木憲『霧にむせぶ夜』
などなど、
ときおりヒット曲は出しておりました。
それらのヒットに、
大きく貢献したと言われるのが、
ベテラン・プロモーターの、
この、Nさん。
ならばこれは、
たかしな君と合流して、
ぜひご挨拶をせねば、
と思い、
すぐに出張申請。
すると上司のA課長が、
「いやそんなことだったら自分も行く。」
と言うのです。
当時のアルファはまだ、
「アルファ・アンド・アソシエイツ」
という名の原盤会社。
後にレコード会社に出世するのですが、
当時は制作のみ。
宣伝、販売は、
大きなレコード会社と契約して売ってもらう、
という規模の会社。
それでも、
ガロ、赤い鳥、ユーミン、吉田美奈子など、
後のニュー・ミュージック界を
リードするアーティストが多数在籍。
時代の先端を行く、
おシャレな作品が話題の会社でした。
ところが、
このA課長だけは、
実は大の演歌好き。
酔うといつも、
ぴんから兄弟の「おんなの道」を唄いまくる。
当然のように彼は大乗りです。
「シュン、偉い!!
俺はアルファに入って、
初めて興奮する曲に出会ったぞ。」
「……。」
そんなわけで、
A課長と名古屋へ珍道中、
と相成りました。
駅に着くと、
さっそく、たかしな君と合流して、
まずは東芝の名古屋営業所へ。
そして噂のNさんにご挨拶。
ニコニコ顔のNさん、
開口一番、
「いやあ、この曲は売れますぞ。
さっそく有線回りをしましょう。」
と、市内あちこちの有線放送所へ。
そして、
有線嬢のみなさんにご挨拶。
有線というところは、
歌手が挨拶に行けば、
かならず一回はかけてくれます。
その後はリスナーのリクエスト、
ということになるのですが、
有線嬢が気に入れば、
リクエストがなくても、
かけてくれるんだそうです。
さては、
イケメンで物腰の柔らかい、
たかしな君。
あちこちのベスト10入りは、
彼の功績によるものも多いのでは、
と、思いましたね。
その後も、Nさんに連れられて、
ラジオ局、テレビ局、新聞社、
などを精力的に回り、
この日のキャンペーンは終了。
「さあ、夜も更けた。
仕事はこのくらいにして、
パーッと飲みに行きましょう。」
とNさん。
まずメシを食い、
Nさんの行きつけのスナックへ。
ここでNさん、
得意の「骨まで愛して」を熱唱。
(ちなみに当時のカラオケは、
8パックのカセット)
たかしな君はもちろん「涙の海峡」。
A課長はおハコの「おんなの道」。
私もヘタな唄を一曲。(何だか忘れました。)
みんなで飲んで唄って
ドンチャカドンチャカ♫
Nさん、ますます上機嫌になり、
「いやあ、気分がいい。
もう一軒行きましょう、もう一軒。
ママお勘定。」
するとA課長、
「いやここは私共におまかせを。」
Nさん、
「悪いですなあ、じゃ次は私が。」
と、こんどはおネエちゃんのいるクラブへ。
ここでも唄って、騒いで、
ドンチャカドンチャカ♪♪♫
以下、私とNさんの会話。
N「しかし、君は若いのにいいもの作るねえ。
さすがアルファだ。
実にアイディアがいい。」
私「いや、そのぉ…、
ちょっと面白がって作っただけでして…、
ええと、はい…。」
N「ご謙遜、ご謙遜。
うちの演歌のディレクターなんて、
最近ロクなもの作りゃしない。
あなたの爪のアカでも飲ましたいものですよ。
ガハハハハ〜。」
私「いや、あのぉ…、実は私、
演歌というのはそんなに詳しくなくて…。
ちょっと興味本位で作っただけの…。
あのぉ…。」
N「いや、サウンドがいい。
演歌もこうした、
新しいチャレンジをして行かなくちゃ。
ガハハハハハ〜〜。」
私「いや、その、私元来、
ジャズとか、ポップスとかの方が、
あの、なんというか、ま、得意というか…。」
N「いや、そういう人が演歌を作ってくれる。
A課長!
演歌の未来は明るいですな。
ガハハハハハハハハ〜〜〜。」
ここで、
調子にのったA課長が割り込んでくる。
A課長
「そうですとも!
この宮住は、当社のホープでして。
これからもどんどん、
演歌を作らせますから。」
私「(よけいなことを……)」
N「いやあ、痛快、痛快!!
さ、あしたも早いんでしょ。
ママ、お勘定。」
すると、またしてもA課長
「いや、ここも私が。」
「課長大丈夫ですか?
ここ高そうですよ…。」
と私。
A課長
「大丈夫、大丈夫。
いっぱい仮払いしてきたし、
どうせあした一番で帰るんだから。」
ちなみに、当時我々庶民は、
「キャッシュ・カード」というものを、
持ってはいませんでした。
支払いはすべてキャッシュの時代。
キャッシュ・ローンもサラ金も無い時代。
でも、
Nさんの悪乗りをみて、
すっかり嬉しくなったA課長。
仮払いの金を、
惜しげもなく、ほぼ使い果たし、
「さ、あしたは早い。帰って寝るぞー。」
と、3人ともフラフラの千鳥足で、
宿泊先の名古屋ステーション・ホテルへ、
戻ったのでした。
おやすみなさーい。
zzz…。
朝が来ました。
すっかり二日酔いの3人は、
隣接している名古屋駅へ。
すると…、
駅の構内に入るやいなや、
こんな看板が、
大きく貼りだされていたのです。
「本日ストライキのため、
すべての運行は、
ストップしています。
運転再開のメドは立っていません。」
「ん?。
新幹線が動いていない…?。
……。」
(つづく)
(感想 2007/1/29)
そういえば、
この週末。
我がジャミン・ゼブも、
名古屋、大阪で、
プロモーション・キャンペーンです。
テレビやFMの出演。
新聞の取材etc.
盛りだくさんのスケジュールが、
組まれてるようです。
がんばってきてくださいよー。
私はお留守番。
しっかり、アレンジしますからねー。
(の、つもり…。)
SHUN MIYAZUMI
January 22, 2008
演歌と私 その2
テレビの力はすごいですねえ。
フジテレビ『 FNNスピーク 』(1/17)
テレビ朝日『 題名のない音楽会 21 』(1/20)
のオンエア後、
ジャミン・ゼブ・ブログの訪問者数は、
大爆発です。
さらに、
「初めて見た」という多くの方からも、
たくさんの“応援メッセージ”、“出演依頼”
を頂きました。
ありがたいことです。
ますます、
頑張らねば…。
と言いながら今日も、
私の若かりし頃のお話です。
これは、
ちょっぴり苦い思い出…。
2005年03月05日 No.103
演歌と私 その2
海峡越えてくあ〜なた〜♪
私を捨ててくあ〜なた〜♪
私の、
初の演歌プロデュース作品、
『涙の海峡』をひっさげて、
たかしな真(しん)君は、
元気に全国キャンペーン
に出かけました。

すると何週間か経って、
東芝から嬉しいニュースが、
飛び込んで来たのです。
なんと、
あちこちの有線で、
‘ベスト10’入りしてるというのです。
しかも神戸や宇部では、
1位にランクされてるというではありませんか!!
こりゃひょっとするとひょっとするぞ…?。
東芝もアルファも、
急に色めき立ってきました。
もしかすると、
新米ディレクターの私にとって、
初の大ヒットになるかもしれない…。
こうなると、
私も何か応援しなくては……。
さて、ここでひとつ質問です。
今、ヒットを作るための宣伝施策のひとつに、
「カラオケ」がありますね。
でも、まだ「カラオケ」が、
そんなに普及していない当時。
それに類する媒体、
(と呼べるかどうかは別にして)
があったのですが、
さて、それは何でしょう?
……。
答えは…?
そう、「流し」。
当時、新宿あたりの酒場街に行くと、
ギターをかついだお兄さんがいっぱいいました。
これが「流し」。
スナックや焼き鳥屋にすーっと入ってきて、
「お客さん、一曲いかがです?」
すると酔ったお客が、
何かリクエスト。
それをギターを弾きながら、
唄ってあげるのです。
時にはお客の好きな唄を伴奏してあげる。
一曲100円か200円で。
この「流し」を、
うまく活用できないだろうか…。
そこで、またしても、
東芝の大プロデューサー、
渋谷森久さんに、
相談を持ちかけました。
すると、
そっ歯をむき出しにして、
つばきを飛ばしながら、
彼はこう言ったのです。
「そりゃ、宮住なあ、
新宿の大久保徳次郎のところに行きな。
奴は「流し」の総元締めよ。
奴が乗ったら、
新宿界隈の「流し」が唄いまくってくれるぜ。
ただし気難しい奴だから丁重にな。」
さっそく私は、
会社に稟議をきって、
いくらばかりかの謝礼と、
レコードと、譜面を持って、
歌舞伎町にある,
彼の定宿に出かけました。
そこは大きな、
古びた焼鳥屋。
手前にカウンターとテーブル。
そして奥が畳座敷になってます。
その座敷の一番奥に、
たった一人で、
ドカーンとあぐらを組んで、
いましたよ、いましたよ!
大久保徳次郎さん。
(徳二郎さんだったかな?ごめんなさい)
おそるおそる私は、
座敷にあがって、
深々とお辞儀をし、
冷や汗たらたらで、
こう切り出しました。
「あのお、私、
ディレクターになってまだ駆け出しの、
若輩者の、ふつつか者でございますが…、
こ、このたび、
生意気にも演歌を作りまして、
ええ、まあ、お気に召しましたら、
な、何とぞご支援を賜りたく……。」
なにせ、
曲はコテコテの演歌には違いないが、
サウンドといえば、
当時流行りの、
シルヴァー・コンベンションもどきの、
‘サンフランシスコ・ディスコサウンド’
のパロディ。
ドラムは、ドンツクドンツク。
ワウのかかったエレキ・ギターが‘ワカチュク’。
黒人のお姉さんばりのコーラスぎんぎん。
若気のいたりで、
面白可笑しく作っちゃった、
極めて‘無責任’な問題作。
ひとことで言えば、
和菓子の上に、
生クリームをかけたような異種混合物。
「バカヤロー!これのどこが演歌だ!
出直してこい!」
と言われても仕方ないような代物。
それでも大久保老人、
目を閉じて、
蓄音機から流れる音をじっと聞いている。
(そう「蓄音機」という表現がぴったり。
とてもオーディオ・セットという感じではない。)
ハラハラ、ドキドキしながらじっと座ってる私。
もじもじ…。
すると聞き終えた大久保さん。
こう切り出しました。
「いやあ、なかなかいい曲ですなあ。
あなた、お若いのに、
こうした演歌に挑まれるとは見上げた根性だ。
よろしい! 協力しましょう。」
と言って、
店の若いのを呼びつける。
「オイ、◯◯をすぐに呼べ!」
ホッと胸をなでおろす私…。
すると10分足らずで来ましたよ、
◯◯さん。
「◯◯、この曲の譜面を600部刷って、
みんなに配って、覚えるように言え。」
と大久保老人。
「ヘイ!」
と立ち去る◯◯さん。
当時、新宿界隈だけで、
5、600人もの「流し」のお兄さんがいたそうです。
「カラオケ」の普及で、
真っ先に職を失ったのは、
この人達でしょうか…。
余談ですが、
あの北島三郎さんも、
「流し」の出身。
たまたま業界の人に酒場で出くわして、
その素晴らしいノドをスカウトされたそうですね。
さて、こんなことをやってる間も、
「涙の海峡」は、
全国の有線でガンガン上昇!!
一ヶ月後には、なんと、
全国チャートで、
‘ベスト10’に入ったのです。
発売日を目前にして、
我々の興奮は、
ますますエスカレートしたのでした…。
(つづく)
(感想 2008/1/22)
それにしても、
寒い…。
ぶるぶる。
いよいよ、
冬本番ですかねえ…。
でも、
寒い冬には、
なぜか演歌が、
よく似合うんですねえ。
北国、雪、熱燗のお酒、鍋、おでん、焼き鳥、
カラオケ・スナック、港町、悲しい女…。
えっ?、
わかったようなこと言うな、
ですって?
はい、すみません…。
SHUN MIYAZUMI
January 16, 2008
演歌と私
あっと驚くタメゴロ〜〜!
またかよ〜。
今度は何…?
いやね、
今日もまた私のブログの訪問者数が、
凄いことになってるんです。
現在、夜の11時で、
早くも230!?
ジャミン・ゼブの間違いではないのか…?
で、調べてみたら、
またまた『タモリ』
でした。
「日経トレンディネット」というサイトに、
『タモリ3 戦後日本歌謡史』
のお話とともに、
私のブログが紹介されてるんですね。
それによると、
『タモリ』『タモリ2』
『ラジカル・ヒストリー・ツアー』
という3枚のアルバムが、
先月、CDで再発されたそうなのです。
そのうち、
最初の2枚は私のディレクター作品。
1977年、78年の発売と、
書いてありましたね。
どっちも現在、
オリコン50位以内にランクされてるそうです。
しかし、
『タモリ3 戦後日本歌謡史』
この発売だけは、
やっぱり、
だめ!
なぜダメかは、
「このブログをお読み下さい。」
というわけなのですね。
奇遇ですなあ…。
去年の9月に、
この『タモリ3 戦後日本歌謡史』
を書いたときには、
こんな騒ぎになるとは、
想像もできませんでした。
まったくの偶然です。
私のブログは、
えてしてこういう偶然が起こる。
……。
今年は、
なにが起きますことやら…。
こうなると、
『タモリ』『タモリ2』のお話も、
いずれ書かなくてはいけませんね。
その前に、
今年は、
こんなお話からいきましょう。
やはり同じ頃、
私がプロデュースした、
『演歌』
のお話です。
冬には演歌が、
よく似合う…?
2005年02月27日 No.102
演歌と私
プロフィールには載せませんでしたが、
実は私、
過去に一度だけ、
‘演歌’をプロデュースしたことがあります。
今を去ること約30年前。
アルファのディレクター時代。
まだ24才の、
青二才の頃でした。
当時アルファの取引銀行だった、
「第一勧業銀行」
(今、なんていうの?)
そこの一社員が、
仙台に転勤になった。
望郷の念にかられた彼は、
ある一曲の演歌に心うたれ、
毎夜毎夜、
近所の居酒屋で、
その曲を歌っていたそうなのです。
まったくヒットはしておらず、
おそらくは誰も知らないであろう、
とあるコロムビアの女性演歌歌手が、
歌っていたその曲のタイトルは…、
『涙の海峡』!!
(作詞:鳥井実、作曲:猪俣公章)
海峡越えてくあなた〜♪
私を捨ててくあなた〜♪
ところが…!
その唄は、
静かなブームを呼び、
有線にリクエストが殺到しはじめ、
仙台では、
ひそかなヒットになりつつあった。
そんなエピソードが、
銀行のお偉いさんから、
アルファ社長、村井邦彦さんに、
伝えられました。
好奇心旺盛な村井さん、
そしてアルファが、
これをほっておくわけありませんね。
「おいシュン、これやれ。
ただし、ちゃんと、
アルファらしさ、新しさは残すんだぞ。
普通には、やるなよ。」
またです…。
でも、面白そうだったので、
やることにしました。
ま、「普通にやるな」
と言ってくれてるわけだから、
どうやっても、
大目にみてくれるだろう、
と、考えたあげく、
東芝の大プロデューサー、
「クレージー・キャッツ」のヒットを連発した、
渋谷森久さんにも相談した結果、
私の選んだ作戦は…、
‘ディスコ演歌’!!!
(何とも‘色物’っぽいコピーですなあ。
今にして思えば…。)
これぞ‘演歌’のなかの‘演歌’
という古くさい曲を、
当時流行りの、
ディスコ・サウンドにのっけてやっちゃえー、
という、
これぞ‘無責任’企画。
唄ってもらったのは、
それまで関西フォークを唄ってた、
‘たかしな真(しん)’という、
カッコいいお兄ちゃん。
ポンタ(村上)だの、
岡沢章(ベース)だの、
バリバリのスタジオ・ミュージシャンを集めて、
アレンジの川口真さんと、
ワル乗りしながら、
作ってしまいました。
そしたら、意外にも、
アルファの販売元の東芝が、
大乗り!
これまた悪乗り…!
事務所までつかまえてきて、
全国的に大キャンペーンをやるというのです。
そんなわけで、
この「たかしな」君。
黒のタキシードにスニーカー。
胸に赤いバラを刺した、
斬新なコスチュームに身を包み、
2ヶ月にも及ぶ、
全国キャンペーンに出かけたのでした。
当時はまだカラオケが無い時代。
各地の有線の放送所に押しかけ、
むりやりかけてもらったり、
レコード店での店頭演奏。
夜はスナックやバーを廻っての売り込み。
私も1、2度付きあいましたが、
無名の歌手ゆえ、
たいていは冷たい反応。
本当に大変な努力がいるわけです。
ヒットを出すということは…。
でも事務所のマネージャー、
地元の東芝の宣伝マン、
みんな、がんばってましたね。
ディレクターとか、
プロデューサーとか呼ばれると、
つい自分が偉くなったような気がしてた、
生意気盛りの私でしたが、
この体験は、
いろんな意味で、
本当に勉強になりました。
さて、
書いてくうちに、
どんどん記憶が蘇ってきましたよー。
次回をお楽しみに…。
(つづく)
(感想 2008/1/16)
かつて、
「ジャズまくり時代」
でも書いたように、
私が学生時代の六本木は、
静かな街でした。
そして、
お洒落なジャズ・クラブが、
あちこちに…。
それから、2、3年後。
六本木は、
まるで別世界に、
なってしまいましたね。
あちこちに、
ディスコ、ナイト・クラブ、
そしていかがわしい風俗店が、
見る見るうちに増えていく…。
これは、
そんな頃のお話です。
懐かしみながら、
更新しちゃいます…。
SHUN MIYAZUMI