和解交渉で様々な条件を調整するにしても、あるいは、訴訟で和解に応じず判決まで進むことを選択するにしても、さらには判決後に控訴するかどうか選択するにしても、すべては「あり得た他の選択肢」を排除して1つの結論を下すしかない。弁護士に依頼して事件を進めていくのは、依頼者にとっては、こうした決断の積み重ねでもある。
 そして、決断した結果がよかったかどうかは、軽々しく言えることではない。和解すれば50の結果が得られた事件で、100の結果を求めて判決になった結果として全面敗訴した場合ですらそうである。第三者的にみれば「和解した方がよかった」と思えるだろう(当事者もそう思うことが少なくないだろう)が、仮に和解した場合には、「判決なら100の結果が得られたかも知れない」と思い、納得いかないモヤモヤした気持ちを抱えながら過ごしていくことになり、そのストレスによるマイナスの方が大きいかも知れない(金銭的なプラスマイナスと精神的なプラスマイナスの比較は無理なことではあるが、裁判の世界では、精神的苦痛も慰謝料として金銭に換算するのだから、思考の便宜上比較してもいいだろう。)。

 その意味では、いかなる選択をすればいいのかには、「正解」など存在しないことも少なくない。そうである以上、とにかくどこかで何らかの決断をするしかない。
 しかし、こうした決断がなかなかできない人もいる。和解交渉において、とりあえず相手に提示する条件を決めるだけであれこれ悩み、その先も、和解条件の些細な文言にこだわったり、「交渉を続けるかどうか」すら決められなかったり、あるいは、既に進めてきた協議の前提をひっくり返すようなことを言い出したり、いつまでも何も決められない人というのは、しばしば存在する。
 こういう人たちは、どこかに絶対的な「正解」にたどり着ける方法があると考えているように見える。第三者的に見ても「どっちでも大差ない」あるいは「どっちがいいかなんて、分かるわけがない」ことを決断できずに、数日か数週間考えてからでないと決定してくれない(あるいは、それでも決定してくれない。)。もちろん、「どっちがいいかなんて、分かるわけがない」といっても、重大な選択であれば悩んでしまうのはある程度やむを得ない。しかし、これが「どっちでも大差ない」ことであれば、どっちでもいいからさっさと決めてくれ、というのが受任した弁護士の本音だ。

 こういう人たちを見ていて思うのは、決定を先送りにするのは「決定しない」という選択をしていることであり、その間に失われる時間等の損失があることが分かっていない、ということだ。
 たとえば、離婚事件では、細々した条件にこだわるなどで争いを続けるよりも、さっさと離婚して新しい人生を歩んだ方が本人にとってもはるかにマシではないかと思うことも多い。特に、若い人であれば、早く解決させないことで若さも失われて、よい再婚の機会を逃すことにすらなりかねない(もっとも、再婚が手遅れ又は困難と見込まれる状態であれば、たとえば、主婦である妻側にとっては婚姻費用を支払わせ続けるために長引かせる方が合理的ということもある。)。
 あるいは、十年以上もかけて相続争いをしているような人を見ると、争っているうちに自分が相続する側にまわってしまうのではないだろうかと思う。「あの世にお金を持って行けるわけではないですよ」と言いたくなる。
 概して、「決断できない人」は、このような時間を消費するコストを意識していない。人生は一度しかないし、個人差はあるにしても有限の貴重な時間を費やしていることは変わらないはずだが、この種の人たちは時間があっても大して有益に使っていないのだろう。しかし、弁護士にとっては仕事として費やす有限の時間を割かれるのだから、不毛な悩みに付き合わされるのは精神的のみならず経済的にも損失である。
 したがって、相談段階でこういう人だと思えば、弁護士費用を高めに設定するか依頼を断ることもある。