(出典 m-fm.jp)



 ビートたけしの独立、森昌行社長とたけし軍団との対立(現在は沈静化していると発表されている)、社員の大量離脱などで揺れているオフィス北野。そのオフィス北野からマキタスポーツが退所し、ラジオで「FA宣言」をしたのが4月23日のこと。

『東京ポッド許可局』で共演するプチ鹿島、サンキュータツオ、そしてタツオの相方・居島一平も同様に退所し、一旦は「フリーエージェント」として今後の芸能生活を続けていくという。理由は「かなり特殊な仕事の仕方をしている我々のマネジメントをしてくれる人がいなくなってしまったから」とのことだ。

「88年に上京して、98年にデビュー(後述)、2008年に『東京ポッド許可局』を勝手にネットで初めて、2018年にオフィス北野を退所。なぜか10年ごとに大きな節目がくるんですよね」と語るマキタスポーツ。折しも2014年に発売し、「ヒット曲にはカノン進行が多い」という事実を世に知らしめた単行本『すべてのJ-POPはパクリである』が文庫化したばかりということで、芸能人生20周年を記念したインタビューをお届けしようとしたのだが……。

「いや、てっきり1998年にデビューしたものだと思い込んでいたんですが、実は1997年デビューだったと発覚してしまったんですよね(笑)。今年の1月には『芸能生活20周年』を大々的に謳って記念ライブをやったんですが、そこに登壇してくれた水道橋博士が教えてくれたんですよね。『お前、1997年デビューだよ』って(笑)」

 ということで、いきなり中途半端な数字になってしまったが、マキタスポーツの波乱万丈の芸人人生を振り返る「21年史」をひもといていこう。

 マキタの芸人デビューは浅草キッドが主宰していた「浅草お兄さん会」。本人は98年のことと思い込んでいたが「どうやら97年の11月ぐらいにネタ見せに行って合格して、12月に初舞台を踏んでいるみたいなんですよ」とのこと。そのときは漫才をやりたかったが、相方がいないので漫談でフリップを使ったり、一人コントをやったりしたという。

 だが、マキタは芸人デビュー時にすでに28歳。それまではハンバーガー屋の店長を務めるなど、フリーター生活を続けていた。当時としてはデビューが遅いが、そもそもなぜ芸人になろうと思ったのだろうか? それを尋ねたところ、次のような答えが返ってきた。

「明確に『こっち』から『あっち』に渡ったという感覚がありましたね。俗世間から境界をまたいで演芸、エンタメの世界に行ったという感覚はあって、『もう後戻りしねえぞ』と言う覚悟をしていた。ずっと山梨の田舎生まれで『芸能人になりたい』とずっと思ってたけどそれを言えなかった。『芸能人になりたい』なんて言ったら『はあ?』って話だから。親戚や友達とかに負い目というか、言い切れない気持ちもあったけど、デビューした頃にそこを渡ってきたという感じがありました」

 そして、そこには映画の影響もあったという。『クロスロード』。1986年公開のラルフ・マッチオ主演のアメリカ映画だ。

「悪魔に魂を売ったという伝説を舞台にした映画なんです。ロバート・ジョンソンの伝説のブルースマンの曲がテーマになっていて、そこでクロスロードというものを渡って悪魔と契約したという内容なんだけど、それには影響を受けていた。だから、自分も芸人になったことで『俺はもう悪魔と契約したんだ』って感じだったわけ。そういうヒロイックな気分でしたね」

 一般人の世界にいれば、「市井のひょうきんな人」として「面白い」と評価されるが、芸人の世界に入れば「面白い」という評価は当たり前。「だからこそ、もっとすごいことをやらなければ、と感じていたんですよね。でも、今となってはその感覚も間違っていたと思う」とマキタが語るように、デビュー当時こそは調子が良かったものの、数年後には長期に渡る「売れそうで売れない時代」にもがき苦しむことになる。

取材・文/織田曜一郎(週刊SPA!)

マキタスポーツ


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