「いいとも」でマンガ編集者の本音!!
というのを読みました。こんなのやっていたんですね。平日の昼間はもちろん学校なので見れるはずもなく、「虚言日記」ではじめて知りました。
こういった業界の内幕みたいなものはなかなか面白いものですね。
一番笑えるのは、「新世紀エヴァンゲリオン」担当の、締め切りを守らせる方法は? という質問への答え「あきらめる!」ですね。
まんがって一体何なのだろうと考えたときに、今現在商業ベースで連載されているまんがというのはすべて「締め切り」というものに縛られているという事実は見逃せないのではないでしょうか。
ここで取り上げられている「エヴァ」のような人気まんがならともかくとして、ほとんどのまんが家にとって「締め切り」というのは絶対的なもので、必ず遵守しなければならないものであるのです。
つまり「締め切り」はまんが家がやりたいことよりも優先されてしまうことになるのです。こんなのが描きたいな〜、なんて構想があったって「締め切り」を守るためにはそのアイデアは放棄されるしかないのです。もちろん連載原稿がたまって単行本化される際に加筆することは可能でしょうが、まだ連載に追われているような場合、加筆にも十分な時間をとることができずに、不満足な状態のまま本になってしまう、というケースは十分に想定できます。
これはもちろん、絶対的な人気まんがの場合は別です。ですが、現在商業誌で連載されているまんがのほとんどは「締め切り」という制約にに縛られた状態で仕事をしているのです。私はそこに商業連載まんがの限界、特に週刊連載まんがの限界があるような気がします。現在の商業誌に掲載されているのは、作者の本当に描きたいものではなく、ただ単に消費されるものとして出版社の都合でがんがん流されていくだけのものなのではないかと思ってしまうのです。
別にわたしはそうしたあり方を否定するつもりはありません。消費財としてのまんがはあってもいいと思うしそれなりの需要もあるはずです。しかしこのような状態に置かれた制約だらけのまんがが、本当に「素晴らしい」と思わせてくれる可能性残念ながら低いと考えざるを得ません。
だから私は週刊まんが誌を読む気にもなれないしそこに掲載されているまんがにも興味が向きません。そこに私の求めるまんがはないからですね。
ですがこのような現状を、まんがを「評論の対象」としてみようとする人間はもうちょっと考慮しなければならないのではないか、とは思います。私も含め、ブログというメディアの発達につれて、これからもどんどん「アマチュア評論家」は増えていくはずです。既存のマスメディアに縛られない完全に自由な立場で活発な評論活動が行われることは非常に歓迎すべきことだとは思います。
「アマチュア評論家」が増えていけば、当然評論の対象となるジャンルは増えていくはずです。そのことを筒井康隆は1972年の時点で予見しています。この年(いまから33年も前のことです)に新潮社から刊行された
『俗物図鑑』(現在は新潮文庫に収録)(*)は、自分の趣味や得意分野について論評する素人評論家たちのプロダクション「梁山泊」の攻防を描いた長編小説ですが、その中にこんな一節があります。
「いいじゃないか。誰だって評論家にになれるんだ。なにかの評論家になれないなんて人間はひとりもいないんじゃないか」享介は大声でそういった。「今まではあらゆる現象、あらゆる製品を、ごく少数の評論家が評価していた。だからそこには当然、ごく少数の評価基準しかなかったわけで、ほんのいくつかのものの見かただけであらゆる対象が批評されていた。これではいかんわけで、評価する対象によって評論家は視点を移動させるべきだ。早くいえば、ひとつの対象にはひとりの評論家が、かかりっきりにならなきゃいかんのだ」
(新潮文庫版103〜104ページ)
『俗物図鑑』のなかでは彼らは評論を書籍という形式で発表するわけですが、現在ではインターネットというものがあります。
しかしインターネットで自分の意見を述べるには、それなりの知識が必要だったりといろいろな制約がありました。掲示板というほとんど知識がなくても意見を表明できる場はありましたが、まとまった意見を述べるには何かと不都合がありました。
その点ブログは、ホームページ製作などと較べてもずっと簡単で、自分だけのページに好きなときに好きなことを書けるので、それこそ誰もが評論家になれるわけです。掲示板に似たような機能もあり、簡単に意見の交換が可能になります。
と、いうわけでこれからはどんどん評論家が増えていくことになるのでしょう(**)。
ちょっと脱線が長引いてしまいましたが、とにかくこれからはみんな評論家になっていくということは分かっていただけたのではないかと思います。
そしてその現象の中で評論の対象として「まんが」がこれから注目を集めていくのではないかと私は考えています。
そのとき、対象となる「まんが」は、私が好むような山本直樹やつげ義春といった作家性の強いまんがばかりではなく、私が先ほど「消費財」と読んだようなまんがも評論の対象となっていくと思われます。
そのときに、評論家は、先ほど私が指摘した連載まんがの制約に留意していただきたいのです。連載まんがは、作者本来の思惑だけで構成されているわけではないということです。
吾妻ひでおの『失踪日記』に、編集者の口出しで描きたいものが描けなかった、というエピソードがあります。『ノヴァ』にいたっては編集者がネームを入れた、とあり、しかもそれは「漫画の世界ではよくある」ことだと述懐されています。手塚治虫が「ネームをよく直される」とこぼすシーンもあります。
結局のところ小説に較べて「商品」としての色彩の強いまんがは、「商品」となるために作家性を剥奪されることがあるのです。
つまり、このことに注意しないと見当違いの評論をしてしまう可能性が高いのではないか、と私は主張したいわけです。
もちろん私も含め、これから「まんが」を対象として評論を行おうとする人間はこのことを考えた上でものを言わなきゃいけないというのが、今回私が主張したかったことです。
ご清読(こんな言葉はないですが)ありがとうございました。