2012年03月12日

ここ半月ばかり、仕事上では不慣れな技術に振り回されているばかりだった。作業の進みが遅く、深夜や休日をも作業に割くことで、ようやくスケジュールに追いついた。新しいことを覚えるのに骨が折れる年齢になったのかも知れない。

 そうして何も書かないままに如月を通り過ぎ、ふと顔を上げれば、弥生三月。寒さも少し和らいで、コートもインナーを外して着るようになった。朝晩はまだ冷えるものの、木々の芽も春の陽射しへの期待か、心なしか膨らんでいるようである。梅は咲いたか、桜はまだか。

 春の足音に紛れて、招かれざる者も跋扈しているようである。そう、春と云えば、コナの季節である。鬱蒼と茂った山々から、風に乗って人里へ下りてくる、見えざる悪魔。無軌道に行われた植樹から幾星霜。大きく育ったスギの樹が、その巨体を揺すって、人々に毒のコナを浴びせる。くしゃみを連発する人やマスクをする人で、町は溢れ返っている。くしゃみは、実はなかなかに体力を消耗する行動であるらしく、その勢いで腰やアバラを痛める人もあるらしい。何か物につかまって、十分に注意の上でくしゃみをするよう心掛けねばなるまい。

 それにしても、おっさんという生き物のくしゃみは、どうしてあのように音がでかいのか。私ももはや、おっさんのハシクレと云っても過言ではないところだが、とはいえ、おっさん坂を登り始めたばかりのニワカおっさんだが、あのように大きなくしゃみは、努力しなければ出せない。

 くしゃみというものは、いくつかのフェイズに分けることができる。

 1:鼻がむずむず→2:吸気→3:口を大きく開き発声→4:口の開きを小さくし、排気と飛沫の散布→5:終了の挨拶

といった具合だ。所謂「はっくしょん」の「はっ」のところが3の工程に当たる。おっさんのくしゃみは、ココをフォルテシモで演じられることが多い。「くしょん」以降が省略されることすらあるほどに、この発声に重きを置くのが、おっさんのくしゃみの特徴であるようだ。

 頭脳労働に没頭しているサナカ、静寂を切り裂いてフォルテシモの「はっ!」が鳴り響くと、肝っ玉の小さい私などは飛び上がらんばかりに驚くことがある。先日などは、街を歩いていて、見知らぬおっさんとのすれ違いざまに「はあっ!」とやられて、怒られたと思って脊髄で謝りそうになった。驚かされるのも嫌だが、おっさんよ。そのくしゃみは、貴殿とて腰を傷めかねない、危険な所業であることを自覚されるがよろしかろう。あなただけの身体では、ないのだ(ろう)から。

因みに、「くしょん」のところが、前述の工程4となる。5の工程は、関東においては「ちきしょうめ」、関西においては「あほんだら」「あほんだらぼけかす」など、地方色豊かであり、研究の余地が大いにあるが、今回の主眼と異なるので、ひとまず置く。

(23:54)

2012年01月27日

なゞやき 職場への行き帰り、一軒の蕎麦屋の前を通りかかる。昼の少し前から店を開けて、日が傾く頃にはもう閉めてしまうようで、お邪魔したことはないのだが、よい意味で古ぼけた、落ち着いた店構えである。私が帰りに通りかかるときには、すでに閉店後。暖簾も仕舞われて、店の中も暗く、ひっそりとしたものであるが、朝に通りかかる時には、客を迎えるのに備えて仕込みの作業をしていると見えて、鰹出汁のなんとも云えない良い香りが鼻をくすぐる。暖簾はまだ出されていないものの、品書きだけは窓から店外へ向けてある。粋に崩された筆の文字が躍る品書きを見るだけでも、なかなかそそるものがある。

 ただ、その品書きの中にひとつだけ、どうしても読めないものがある。これが気になるのである。気になるが、急ぐ朝。開店前の蕎麦屋の前で、顎に手を当てて「はて。」などとやっているヒマはないのである。さりとて、帰りの時間には、品書きも仕舞われている。すなわち、品書きをなるたけしっかり見ようと、両のマナコをあらん限り見開いて店先を通り過ぎるその数秒間が、私にとって毎朝のタタカイなのであった。

 そうして、解けぬ謎を抱えたまま、幾月も経ってしまったある朝。脳を突如走り抜ける、閃光。あ、本当に閃光が走ったわけではありませんで、これは比喩表現でありまして、アタマの血管がこう、パーンとなってしまったとか、視神経がドーンとなってしまったとか、そういうことではないので安心めされたい訳ですが、ああ、いっそパーンとなってしまえという声も聞こえてまいりますけれども、まあそれはそのうちということで、要はナイス・アイディアを思い付いたのであります。私は、携帯電話を取り出すと、その品書きを写真におさめた。これで、いつでもどこでもその写真をじっくり眺めては、顎に手を当てて「はて。」などとやれるようになったわけである。

 ひらがなで書かれていることはわかる。だが、達筆すぎて読みにくい。な…ぐ…やき?な…じ…やき?二文字目がよくわからない。「な」で始まって、「やき」で終わる四文字なのは間違いなさそうだ。「なゞやき」とも見えるのだが、「な」に濁点をつけた時の発音の仕方を、私は知らない。始まりは「な」ではないのだろうか。「あ」とか「は」なのだろうか。しかし、横に書かれた「あなご天婦羅」の「あ」や、「そば」の「は」とは明らかに字形が違う。はて。はて。はて…。

 実は、二日程ハテハテ言って、ようやく自分の中でひとつの仮説を得るに至った。正解はその店で聞くのが一番早いのだが、なにせ開いている時間は私も働いているし、このためだけに休暇を取るのも馬鹿らしいので、読者諸賢のご意見も賜りたい。どうですかみなさん。何と読みますか、これ。

(07:36)

2012年01月20日

 どうしても雑談を膨らませられない相手がいる。別段、雑談をする必要もないのだが、相手から話しかけて来られると、やはりある程度の返しをしたいと思うのが人情ではないか。

 「自宅は駅から遠いの?」というような、事実を確認するだけの質問は、雑談の入り口には向いていない。「遠いです」「近いです」や、「歩いて十分くらいです」等、基本的に返し方が限定されているからである。「サラマンダーに跨ればすぐです」とか「上海の駅からは遠いです」等、無理からボケることもできるが、まともに会話をする気がないと思われて、相手を怒らせてしまう可能性の方が高い。よって、これは上策とは言えないのである。いきおい、「遠くないですよ、歩いて十分もかからないです」などと答えさせられることになる。そうなると、次の一言は大抵こうだ。

 「あ、そぅ〜。」

 雑談は、入口からすぐのところで終末を迎える。聞いておいて「あ、そう」ってことァないだろうと思うのだが、私の答え方が間違っていたのだろうかと気を揉む。

 「自炊するの?」

第二の雑談の入り口。しかしこれも事実確認。同じ展開だ。「します」「しません」程度が関の山だ。必死に気を利かせて、「できるだけやろうとはするんですけど、やっぱり時には面倒になって、食べて帰っちゃったりしますねー」などと答えてみる。が、答えは、

 「あ、そぅ〜。」

会社からの帰り、駅まで向かう道すがら。先を歩く私を小走りで追いかけてきてまで、聞く内容がそれなのか。そして、聞いておいて「あ、そう」なのか。一人でいる時間は、決して悪いものではない。男には、一人になる時間が必要だ。黙って月を眺めて歩く駅までの道は、とても清くて穏やかな一人の時間なのだ。一人で黙って歩く、イコール寂しいというのは、あまりに短絡思考だと気付いてほしい。興味がないなら聞いて頂かなくて結構だと、言いたい。申し上げたい。サケビタイ!わんわんわん!

 しかし、悪気がないのもわかる。こちらも、歯を食いしばって、話を膨らませるよう努めてみる。

 「自炊も、却って高くついたりすることもありますからねー」
 「うん、うん」
 「材料、使いきれなくて余らせたり」
 「うん、うん」
 「作りすぎて、飽きるほど連続で食べる羽目になったり」
 「あ、そぅ〜。」

あたし、もうゴールしてもいいよね…?

(07:12)

2012年01月06日

 煙草を吸うからなのか、喉がイガラっぽくなることが多い。咳払いが増えて、会社に居る時など近隣の席の方々が不愉快だろうということもあり、デスクにはなんらかアメちゃんを常備している。飴が「アメちゃん」で粥が「おかゆさん」なのは、いったいどういうヒエラルキーの現れなのか、という問題については、今は置く。今回の焦点は、そこではない。

 「のど飴」と銘打っているものが望ましい。が、べつに「そうでなくてはならない」というほどの拘りがあるわけではない。拘る点は、個包装になっていること、それだけである。従って、スーパー・マーケット等に赴いた際、なんとなく目に付いた、美味しそうなものを買うようにしているのみである。

 金曜。今日も今日とて、仕事帰りに立ち寄ったスーパー・マーケットにて出会った、なんとなく美味しそうな飴を一袋買って、週明けに職場に持ってゆかむと画策していた。レジ袋を提げて、自室へ帰る。モノは、リンゴ味の飴である。ジョナゴールド、ふじ、王林の三種のリンゴの味が再現された飴が、アソートになっている。うむうむ、来週からの仕事に、甘やかな時間を添えてくれるであろう、心強い見方である。と、外袋の裏側を見る。

 「製造者・パイン株式会社」。

 此は如何に!?リンゴの飴を作っているのがパイン株式会社であるという。ゼロックスを作っているのがリコーだとか、そういうことにあたるのではないか。矛盾、ねじれ、二律背反。眩暈すら覚えた私は、覚束ない足取りでパソコンの前にへたり込むと、グーグル先生に、かの企業について訊ねてみた。

 サマリーには、「大阪市天王寺区。パインアメなどのキャンディ類の製造販売。」とある。パインアメ!知っている。知っているぞパインアメ!輪切りパイナポーの形状を模した、あのアメだ。舌が痺れるような、四川料理で言えば麻(マー)、辣(ラー)と呼ばれるような、しかし辛味ではない、甘い、あの黄色い輪の製造元が、片手間に作っているものであったか。あいわかった。しかし、パインアメよりもずいぶん包装が綺麗だが、よいのだろうか。どちらが主力商品か判断しづらくなっているのが、どうも引っ掛かるのだが。

 「ふじ」の味の粒をひとつ取り出して、口に放り込んでみる。おいしい。おいしいから、もうなんでもいいや。パイン株式会社の「りんご3つ」、好評発売中。

(22:44)

2012年01月03日

 明けましておめでとうございます。本年もひとつ、よろしくお願いたてまつりまつ、たてまちゅ、た、たてまちゅりまちゅ。

 さて、年末年始はというと恒例の二年詣り。身を切る寒さの中、都内の某神社にて年の明ける瞬間を待ちました。実家にも帰って、妹には会えなかったものの、両親の元気そうなところが見られて少し安心しました。ただ、もうすぐ還暦を迎える私の父君が、テレビの正月特番に出ていたAKBなんとやらの板野なんとかさんを「ともちん」と呼ぶところを見て、なんとも絶望的な気分になったことでありました。

 Twitterに手を出すようになって以来、少しこのブログがオロソカになっているキライはありますが、それでも時々は記事を書きたいと思いますので、お付き合いを頂ければ幸いであります。ただ、これも某所より「今年もウィットに富んだヤツを頼むぜ」ということを要望されたのですが、どうにもこのウィットというのがよく分かりません。あゝ、ウィット。美味しいのでしょうか。正月のモチやら何やらで、ややもたれ気味の胃を抱えておりますので、ここはひとつ酢醤油かなにかでサッパリと小粋に頂きたいものであります。

 さあ、明日で休みもおしまい。仕事モードにアタマを切り替えねばなりません。楽しい一年にすべく、しかしハメを外しすぎないように気をつけながら、がんばりたいと思います。えい、えい、おー。

(20:59)

2011年12月29日

 2011年が、その幕を下ろそうとしております。皆様におかれては、どのような一年でしたでしょうか。筆者個人と致しましては、まさに、まさに最悪の一年であったと断言できる一年でした。

 一月には、新年早々酒で友人をしくじり、二月には仕事で云われのない大クレームを受け、三月には震災と虫垂炎、四月五月は感性の一切合わない先輩とのランチ地獄、六月はちょっと伏せますが、七月には入院したことと、見られたくない場面を知り合いに目撃されたこと、もうこれ以上細かく思い出したくはありませんが、それでも秋口になって少し落ち着いたかと思ったところへ、忘年会の幹事に任命されたりと、正真正銘「オレ史上最悪」、こんなにひどかったことはない、と言い切れるのであります。

 とはいえ、「終わりよければすべてよし」という言葉がございます。その言葉が真実であるとするならば、「よし」ということになります。ある種、自分を成長させるための一年であったのかも知れません。そう思うことにして、来年はつつがなく、地に足をつけて歩んで参りたいと、そう願うばかりであります。

 拙ブログへお運びの皆々様、本年も大変お世話になりました。感謝の言葉もありません。齢三十を越え、なお未熟なワタクシでありますが、日々是精進。長男病らしく、「忍」の一字を胸に、(できるだけ)堅忍不抜の精神で取り組んでゆく所存でございます。どうぞ今後とも仲良くしてやって頂ければ幸いであります。皆様、よいお年をお迎えください。

 また来年。

(19:21)

2011年11月26日

 黙々と歩いてきた道が二手に分かれる。その岐路に立ち、いずれに進んだものかと思いを巡らせる。周りの人々は皆、一瞬の躊躇いもなく、一様に右側の道へと進んでゆく。さて、僕はどうしよう。皆と同じ方へ進むか、他方へと進むか。

 一人の男が、右の道をしばらく行った場所からこちらを振り返り、僕に呼び掛ける。
「そんなところで立ち止まって、どうしたんだい?早くおいで。」
「ここで道が分かれているから、どっちに進もうか、考えているんです。」と、僕は答える。
「分かれ道なんてないよ。僕もそこを通ったけど、そんなものはなかった。さあ早く。」と彼は言う。

 現に、僕には二手の道が見えているのだが―――。彼は分かれ道を見落としただけではないのか?なぜこの男は、「分かれ道はない」と思い込んでいるのだろう。僕には二手の道が見えている。僕が気づいていないだけで、第三の道、第四の道があってもおかしくはない。人の数だけの道があると考える方が、むしろ自然な気がする。僕は彼じゃない。彼は僕じゃない。見えるものが、感じるものが、考えることが違って、当たり前だ。違いがあることは、悪いことじゃない。ただ、「違い」というものが、そこに存在する。それだけだ。それなのに、なぜこの男は、「皆、同じ道を進むべきだ」と思い込んでいるのだろう。

「それは道なんかじゃない。そっちは『外』だ。戻れなくなるぞ。」
「道から外れて、落っこちてしまうぞ。何も考えずにこっちに向かって歩くんだ。」
「早く」「さあ早く」「さあ」

 男は、僕に「考えること」をさせまいと必死のようにも見える。仮に僕が道から外れて、「外」に落っこちてしまったとしても、そんなことは彼には関係ないのに。それに、「外」だって、案外悪くないかもしれないじゃないか。彼は、思い込みに気付けないままに随分進んでしまって、後悔しているのではないか。そして、僕にも同じことを味わわせようとしているのではないか。

 僕は、「お構いなく。どうぞ先に行ってください。」と彼に告げた。心ゆくまで考えよう。そうして出した結論なら、キツい結果になっても受け止めることができるだろう。誰かの囁く思い込みに流されて、後悔なんてしたくないから。路傍に座り込んで、煙草に火をつけた。

(09:16)

2011年11月19日

 「がんばれ」と言われることほど、つらいことはないのかもしれない。しかし私は、きみの置かれた境遇、その扱われ方に思いを致すとき、そっと拳を握り、「がんばれ」と念じることを抑えられないのだ。

 ―――飴。

 地方によって、いわゆるキャンディであるところのアメに「ちゃん」をつけて呼ぶところがある。主として近畿とか、関西とか、そういう地方のことではないかと思う。かの地方では、飴のみならず、じつに様々なものが接尾語とともに呼ばれる。お粥さん、お稲荷さん、お芋さん、お豆さん。「おはよう」や「ありがとう」の挨拶にまで、「おはようさん」「ありがとさん」と敬称をつける始末。ひどい時には、「ありがとさんさん」などと敬称が重なることさえある。

 しかし「ちゃん」と呼ばれるものは少ない。他には「ワンちゃん」くらいのものであろうか。そのささやかな甘さで子供たちを喜ばせ、風邪の季節には人々の喉をそっと癒してきた飴。おじいちゃん・おばあちゃんから孫へと手渡される慈愛の粒は、洋の東西を越えて飴だったのではないか。ヴェルタース・オリジナルはおじいさんがくれるものと相場が決まっているのだ。私にも、祖母が「黄金糖」や「純露」をよくくれた思い出がある。

 そやのに、そやのに、何が悲しうて犬畜生と同じにされなアカンのや!なあ!誰か教えてえな!なあて!と叫んでも、奈良公園のシカたちも、箕面のサルたちも、答えてはくれない。ただ小馬鹿にしたような視線を無神経に投げつけてくれるのみである。そう、飴でも見るかのように。

 犬も苦労しているのかもしれない。ちゃん付け動物は犬くらいのもので、猫については「ニャーさん」なのである。いやいや、「ネコちゃん」という言い方はある、とご指摘の諸賢。そうかも知れないが、それだけでは釣り合わない。その理由は、これは長くなるので、次回の記事に譲りたいと思うが、この他にも、お馬さんにゾウさんなのである。キリンさんなのである。げんこつ山のタヌキさんなのである。サルなんぞは「お」までついて「おサルさん」と来たもんだ。キツネに至っては「おキツネさま」。イヌは、そろそろ怒っていいと思う。

 明らかな理由なく虐げられし飴、そして犬。このあまりに理不尽な格差社会。小泉構造改革の暗部か、はたまた―――。口惜しさに、ぐっと下クチビルを噛みしめ、滲む血の味、赤サビのような匂いとともに過ぎゆく秋。物思いにふける私の頭の上に、ふわりと乗った珍客は、鮮やかな黄色に色づいた銀杏の落ち葉。空高く浮かぶホウキ雲を見上げて、ふと、なにか心に寂しさのよぎる晩秋。飴さんや犬さんを思うと、こみ上げるものがある。あるが、いつまでも心地よい感傷に浸っているわけにもゆかないのだ。じんせいは短い。両の拳をコートのポケットに突っ込むと、まだ少し熱をもった下クチビルをつれて、銀杏並木の下を歩き出す。冬はもうすぐだ。

(08:12)

2011年10月17日

 夜、自室にて、一日のあれやこれやをアルコールで洗い流していると、氷が切れた。水道水を製氷皿で凍らせたキューブ・アイスでも別段問題はないのだが、なんとなく味気なく思われて、翌日の朝食に使うものもついでに買おうとスーパーに出かけた。

 タマゴと氷、そしてお馴染み、東海漬物「きゅうりのキューちゃん」を購入して帰宅。買ってきたばかりの氷でもう一杯酒をつくり、そのアテにと、件のキューちゃんをタッパーにあけてしまうことにした。どれ、あけくちはどこかな。パッケージの側面に指を滑らせ、切り込みを探す。あったあった。切り込みの両脇を両手でつまみ、一気に―――。

 いや待て。慎重になるんだ。今は、少しとはいえアルコールが入っている身である。普段より動作が粗雑になっているかもしれない。こういう「袋もの」の開封に失敗したときの惨劇に、思いを致すのだ。開封と同時に内容物をブチマケル、あれだけはやってはならん。先ごろも、袋ラーメンの粉末スープを、キッチンに散布して「こなあーゆきいー」になったばかりではないか。他にも、かっぱえびせんがリビングに降り注いだり、詰替用のシャンプーを肩口から景気よく浴びたり、ブリックパックにストローを突き立てた瞬間に牛乳のボルケーノを見たり、そういう痛ましい事故があったではないか。開封というのは、まったく危険なのだ。しかもキューちゃんは漬物だ。事故が起こった場合、汁の存在が事態をより深刻にする。万全を期して、養生シートでも広げてから作業するか。服も汚したくないから、レインスーツも着ておくか。いや、それならいっそ風呂場で全裸というのも潔い。

 「潔い」じゃない。これだからヨッパライはいかん。まぁ、本当にここまで考えたわけではないが、いや本当だが、本当だと言っているのだが、ともかく両手でキューちゃんのパッケージを支持したまま、私はしばし沈思黙考していたのである。と、あけくちの傍に、なにやら謳い文句が書いてあるのが目にとまる。

 「手で、簡単に、まっすぐに、切れます」

 言ったな東海漬物よ。二言はないな。もう後へは退けぬぞ。あとでオフレコだとか言っても聞く耳もたぬぞ。思っているうちはまだしも、口に出したら、それはもう戦争なのだ。詰替シャンプー等で「手で切れます」と書いてあるものは見るが、「簡単に」かつ「まっすぐに」とまで言い切ったのは貴様が初めてだ。いい度胸だが、勇気と無謀を履き違えたようだな。京樽、ちよだ鮨等についてくる、ちび醤油。納豆のたれ、およびカラシ。弁当のちびソース。私は浴びた。浴びに浴び、浴び続けて、浴び倒して、ここまで来た。数々の「こちら側のどこからでも切れる」パッケージを、そちら側のどこからも切れなくしてきたこの私を見くびるか。よろしい、ならば戦争だ。貴様のその自信に賭けてやろう。あえて防護策はとらぬ。そのかわり、余の身に何かあったら只では済まぬからそう思うがよい。いざ、尋常に勝負。すわ開封だっ。

 ぴりぴりぴり。おお、おおお、本当に、手で、簡単に、まっすぐに、切れた。す、すごい。おまえ、やるじゃないか。ィやるじゃないかあああ。うむ、そうだな。そうだよな。二十一世紀だものな。トゥエニファーストセンチュリイだものな。いつまでも、じんるいは納豆のたれを浴びているわけにいかんよなあ。勝利だ。科学の、じんるいの、東海漬物の勝利だ。そして私の敗北だ。認めよう。そなたは素晴らしい。幸あれ。キューちゃんと、そのパッケージに永遠の幸あれ!ジーク、キューちゃん!

 思わず高々と突き上げた開封済みのパッケージから、漬物と汁、その全量が宙に放たれる。ある秋の夜、キッチンに降り注ぐ琥珀色の雨に、私は打たれていた。

(19:32)

2011年10月13日

 「餃子でもってビールをやりたいなあ」と思うことは、まああるだろう。「蕎麦でも手繰りながら日本酒をキュッとやりたいなあ」と思うことも、まああるだろう。それが、餃子を出す店にビールが用意されている理由であり、蕎麦屋に日本酒が用意されている理由だろう。

 さて、読者諸賢におかれては、「牛丼とお蕎麦をいっぺんに食べたいなあ」と考えたことはあるだろうか。筆者にはない。おそらく殆どの方は、そんなことを考えたことはないのではないかと推測する。それが、牛丼屋に蕎麦が置かれていない理由であり、蕎麦屋が牛丼を出さない理由であった。はずだ。

 そば処吉野家。牛丼の吉野家で、お蕎麦も食べられるよ!やったねたえちゃん!ということのようである。一体ぜんたい、いかなる勝算があってこの業態を考案したのか。私の記憶が確かであれば、あれは昨年の文月の頃であった。私の住む街の商店街の一角にある空き店舗。長らくテナントを募集していた物件に、どうやら内装工事が入っている。どんな店ができるのだろう。私にとって嬉しい店だとよいのだが、と考えていたのを思い出す。出来上がった店には、橙色と紺色という、色相環のほぼ正反対に位置する色どうしを組み合わせた、補色対比の手本とも呼ぶべき強烈なコントラストの看板が掲げられ、白抜きで「そば処吉野家」と描かれていたのであった。

 しかも立地条件が最高だ。斜向かいに「松屋」「はなまるうどん」、真向かいには松屋の定食屋業態である「松乃家」、数件手前にロッテリア。その他、ラーメン店やコンビニも立ち並んでいる。駅の反対側にはマクドナルド、日高屋、てんや、かつや、デニーズ、そして松屋がもう一件。そして驚くなかれ、その中に牛丼の吉野家があるのだ。仲間内で客を取り合うが如し。何がしたいのか―――。もはや私のような凡愚の想像が届く範囲を大きくいちゅだちゅ、ごほん、逸脱、していると言わざるを得ない。懊悩のあまりオー!ノー!と叫びたくなる。この街の吉野家に地図上でシルシをつけて線で結ぶと、何らかの魔法陣が形成されていて、こんどの皆既月蝕の日には、なにか禍々しいものが召喚されるとでもいうのか。牛頭鬼ごずきのようなものが現れるのだろうか。それが奴らの「勝算」とやらか。考えるだにおそろしい。どうせなら、バファローベルちゃんみたいな、かわいい可愛いカワイイかわいい可愛いカワイイのが出て来たらいいのに。

 あれから、一年と少しの時が経った。案の定というべきか、あの強烈なコントラストの看板は、商店街から姿を消した。看板は、雪のように真っ白な背景に「Softbank」と書かれたものに掛け替えられた。何らかの見えざる力によって、めでたく魔法陣の形成は阻止されたようである。先だっての休日の昼下がりには、例の商店街に、サンバを踊る謎の女が現れ、悪魔召喚の儀式もいよいよ最終段階が近づきつつあるかと危機感を募らせたが、単にサンバを踊るだけの女だったようで事なきを得た。紛らわしいことは止して頂きたい。

 ともあれ、こうして街の平和は守られたのであった。無力なひとりの市井の民としては、ほっと胸を撫で下ろしている次第である。よかったよかった。安心したらお腹がすいてきた。牛丼とお蕎麦をいっぺんに食べたいなあ。

(19:13)