February 13, 2012

ドンクサイ札幌



ロンドン市内の日本料理店でラーメン食べたら、店員が北海道の弟子屈からワーキング・ホリデーできている若い女子だった。もうすぐ札幌へ帰るとつたえると、札幌ですかー大都会ですよねーわたしからすると、という。札幌の鈍くささである。

北海道なら札幌、九州なら福岡、と地方の大都市にはちがいないが、どちらもドンクサイことこのうえないとわたしはおもっている。島国のまた小島国の首都だとおもって安住しているそこの住人たちの考え方はひどく胡散くさくドンクサイからである。

大分県の田舎は田舎意識のある田舎で、札幌は田舎意識の希薄な田舎だといったら札幌市民が憮然と睨みかえしてきたときは驚いた。町文化について自分の意見をいっただけなのに、自分のことのように憤慨せずともよいではないか。プライドの持ちどころがまちがっていると感じたわけだ。

1億総ハクチ、1億総田舎、なのが日本なのではないか。自分の住む場所を田舎だとおもうのが精神衛生上安全だと自分はおもっている。

ロンドンはどうかというと想像を超える多民族が雑居しているから田舎という感はなく、皆それぞれがちがっている基本があるから、コスモポリタンといえるとおもう。札幌にロンドンの異文化雑居の意識はない。

タペストリーを織る作家も多数、札幌や道内に住んでいる。80年代に北米から引揚げていったとき、親しかった友人のみならずタペストリー作家たちからも疎外された。その人物をドー扱ってよいかわからないとき人は、単純に疎外という手段でもって片付けてくれる。

疎外せぬ人とだけつき合うように暮らしていた25年まえの札幌。21世紀の今ふたたび札幌へもどってもまだ疎外措置に出る人間はいるだろう。異文化にたいして冷たくアシラウことで自分たちの安全を確保するのがおおかたの人情らしい。自分たちは他者を疎外してもアンタには疎外する権利なぞないとでもいいたげな道民たちと、ドー折りあいつけ共存してゆくかこれからの自分の課題である。

大分県の田舎で自分は疎外されていたかというとソーは感じなかった。彼らにはもちまえの田舎意識があるから都会からの、移住者は疎外というより外国人として扱ってくれたような気がする。

我が家の大家が英国バブル期に散財し借金を背負っているらしいのをしったのは入居直後だったが先週、ロックしてある1階の正面玄関を突破し借金取りが我が家のドアに突然現れたときまさに自分の目の前で現実化した。ミスター・ナニナニは在宅か、から始まってミスターは今現在ここに居住するか、ミスターは何時に帰宅するか、などミスターの留守宅でタペストリーを織っていたわたしへ訊いてきたのへ、大家はここに住んでいるがその他の質問にたいする答えはノー・コメントだと答えた。ミスター・大家の線電話はあるか、あればその番号は、と訊かれ、それはアナタが持っているべきデータである、と答えた。

午後7時ごろから線電話は鳴りつづけた。そのうち大家が帰宅し電話をとると長々と借金返済の交渉がつづいた。それが隣室へ漏れてきて、不愉快である。大家は期日どおりに毎月支払っているわたしの家賃にたいして領収書を書かない。よって、書いてくれと毎月請求してきたが書かないのには呆れた。手間のかかる人間である。

大家の借金額は不明だが、額によらず長期間返済を怠ってきたことは男がドアに現れたことで想像がつく。ああ借金……。多額の借金であっても返済可能なだけ儲けていれば問題はないはずである。小額の借金であっても返済不可能な収入しか得られなければ、それは永遠に借金となって追われるはめになる。

日本バブル期に自分はドーだったかと憶いかえしてみた。よく稼ぎよくつかったが、借金するひつようはなかった。というより借金する気がなかった。バブルは終焉する、そのときのために備えずにドーする、と考えてもいたような気もする。

あのバブル期、高級な食事をし高級な服を着て高級な酒を飲んだ。高級な海外旅行とかする人もいたが自分に、高級旅行は似つかわしくなかったから遣らなかった。ほかの人間には面白いことでも自分にとってつまらなければ遣るひつようがない。人真似してなにが面白い。

だからわたしは貯めたお金で北米へタペストリーを織りに行った。ポートランドやバンクーバーでタペストリーを織り、バブルにまったく関係ない流れで動いていた。

英国バブル期はスターリング城のタペストリーを織って安月給で働いていた。周囲のスコットランド人はバブルに浮かれていた。話題は土地家屋の売買ばかりで、同じような発想しかしないお城の職員をふくめそのような人間たちをつまらないヤツラとおもった。

借金取りにおわれる大家は毎日、夜帰宅するとインスタント・ラーメンを食べる。早朝出るときはコーヒーのみだから昼飯を職場で食べるにせよ、中高年として摂取する栄養価の偏りはおおきい。中高生の育ちざかりならおやつ替わりにインスタントだが大家の場合、主食がインスタント・ラーメンなのである。

して自分の摂取食材をみると、コレがバブル期に食べていたのと同じものを食べているのであるから、収入の高低にかかわらず好きなものを食べられる幸運を感じずにいられない。

ドンクサイ札幌だが、北海道にはそれほど放射線汚染されてはいないであろう野菜と魚と肉がある。最近は道内米もある。居住地を移っても美味いものに最低ありつけるということだ。北海道の食文化はスコットランドの食とは真逆の感がある。つぎの数年は寡黙にして人と交わらず制作に励み、食豊富に暮らしてゆこうとおもう。

テート・モダンで「YAYOI KUSAMA展」を観てきた。彼女が生まれ育った松本時代の新聞記事に「せせこましい松本の人」という題の記事を目にしたときは笑ってしまった。でニューヨークへ渡ったわけだ。

テートのつぎの日、英国きっての温泉地バース(Bath)へ行ってみた。入湯料の高さと一般公開されている近世的な温泉建築に落胆し結局、入らずに町を出た。大陸のほうの温泉と比較してしまうのだ。日本国内の湯では自分がかよっていた壁湯が最高だとおもっている。あのような野趣がバースにはなかった。


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February 04, 2012

ウィンブルドン散策



先週、ロンドン市内で開催中のウィリアム・モリス展を観にいった。「TWO TEMPLE PLACE」という建造物で、もより駅は「テンプル」だ。持帰ったリーフレットに、「Two Temple Place is the first London venue to showcase art from collections around the UK. The building is one of London’s hidden architectural gems, an extraordinary late Victorian mansion built by William Waldorf Astor on Embankment.」と、やはり大袈裟なエーコクであるが何年に最初の展示会を遣ったのか記していない。

スコットランドから1年に1回イングランドの本社へ出張させられていたとき、帰りはいつもロンドンに寄って遊んだ。ロンドン北部にある「ウィリアム・モリス・ギャラリー」へいったことのはそんな出張帰りだ。中心部から電車で1時間もあれば着いたとおもう。観たいものがある場所へはサッサといく。そのくせ特別興味のない場所、例えばオックスフォードとかウィンザー城とかの観光地へゆかない自分の興味のありどころがどこかヘンなのはわかっている。テンプルでの展示物はその多くが北部のギャラリーから持ってきた作品だったので、懐かしかった。

「ビクトリア・アンド・アルバート美術館」に掛けられているウィリアム・モリスのタペストリーは大型のがたった1枚。所蔵数はもっとあるとおもうが狭い部屋にそれだけ、マッキントッシュの作品群といっしょに飾られている。実にサビシイ。

「ウィリアム・モリス・ギャラリー」では予想どおり1日堪能した。モリスのデザインしたありとあらゆる媒体による作品多数がこれでもかとばかりに展示されている。素晴らしいギャラリーである。

テンプルでの展示会のあとすぐに、彼が住んだ「レッド・ハウス」へいってみた。冬期間は閉鎖されていることをしっていたがどんな場所なのかしりたかった。我が家から電車とバスで1時間以上かけていったその地区は、ゾーン6の南東部にあった。なんだこんな場所だったのかと一寸落胆。赤煉瓦のその家の外壁が、閉められた塀ごしに見えた。付近にやや小さめのゴルフ場があったのできっとモリスはそこを散歩したにちがいない。

「レッド・ハウス」のまえにいったのはウィリアム・モリスが仕事場をかまえていた場所で、ウィンブルドンからそう遠くなかった。週末に開かれる「ウィンブルドン・スタジアム・カー・ブート」というフリー・マーケットへいった帰り、ワードン河沿いをぐるりと歩いて反対方向であったことがわかって逆方向へ歩をすすめ、コリアース・ウッド駅からそう遠くないマートン・アビーにあった。水車がモリスの時代から止まらずに稼働しており、展示室となっている家の電気をまかなっているという。

マートン地区はウィンブルドンのある行政区で、21世紀の現在はロンドンの工業地帯となっている。モリスが提唱したアーツ・アンド・クラフツ運動とは真逆へ変遷したわけだ。我が家は隣のワンズワース行政区にある。

カー・ブートのマーケットはウィンブルドン・スタジアムのだだっ広い駐車場に何百というストール(出店)がたち、ガラクタ、骨董品、古着、食料品、その他ありとあらゆる物が売られていて、ブリック・レインやポートベロより自分には面白かった。ここは日本のガイド本にも載っているらしい。

アンカー(Anchor)製の埃のかかった刺繍糸を1箱見つけ2ポンドで買った。オレンジ色の巻きが15束もはいっている。ほかに真冬用のオーバー・コートも衝動買い。姿見がなかったので似合うかドーかわからかわからなかったが、5ポンドだ気にいらなければ近所のチャリティ・ショップへもちこめばイーやとおもった。

ホット・ドッグとコーヒーを売っているストールも出ている。ダブル・エスプレッソ飲みながら、腰が冷えてきたので買ったばかりのオーバーを羽織った。家を出たとき着ていった黒キルティング・コートをすっぽり覆ってしまうほどのLLサイズだ。

コート2枚着たままバスに乗って、モリスの仕事場へふたたびもどったのはそこでも週末マーケットが開かれているからだ。このまえ行ったとき手芸用品のストールで売っていたアンカー製タペストリーよこ糸を廉価で売ってくれた女性が親切だったのと、地元産マートン・アビー・エールを1本買いたくて財布を見ると1ポンド50しかのこっておらずビール屋のオニーさんが今度来るときまでつけておくよ、といって1本持たせてくれたから借金の返済もあったからだった。

手芸屋の女性はわたしがタペストリーを織るのをしっているから、糸はアンタに売りたいといって儲け度外視値をいってくる。アンカーの茶色刺繍糸が1箱に20束もはいって3ポンド、その他もろもろ合算で8ポンドしかとらない。帰国までまた行ってみようとおもう。

我が家ちかくのサウスフィールズ駅からディストリクト線なら2駅、バスなら家から493番で15分のウィンブルドン。スタジアム〜モリス〜ウィンブルドン市街〜我が家とバスを乗りついで帰ってきたがまだ、ウィンブルドン市街をゆっくり散策していないことに気がついた。外出はいつもロンドン中心部へ出ることばかり考えていたから。

8月にリッチモンドへ越したばかりのころ、夏の長い夜をリッチモンドの河沿いや街をよく歩いた。家からこんなに近いのだし帰国までの2週間ウィンブルドン周辺を歩いてみようとおもった。

午前中に風呂につかり1日織ったあとは午後5時ころまで最近ではまだ日がのこっている。4時ころ家を出て夕暮れ時のウィンブルドン・センター・コートを通過し歩いてウィンブルドン・コモンという公園までいってみると小池に氷がはっていた。もうすこし歩をすすめてウィンブルドン・ビレッジで夕食材を買いこみホクホク喜ぶ。暗くなった歩道を歩くとショー・ウィンドウのたいへん楽しい地区である。冬至からかなり日がながくなってきた。

ロンドンのフラットで昨年8月から織りつづけてやっと、自分の織りがもどってきたと確信したのは「南無阿弥陀仏」を織っている今このときである。過去に日本でなんどか織ったそのことばをふたたびロンドンで織っている。自分の将来にこれほど適切で素敵なデザインがあろうか。

文字を織るのは得意な方だとおもう。お城のタペストリーでは自分の姓を日本語でヘムに織りこむという自由しかなかったが今は、好きなだけ文字を織ってイーのである。昔、親鸞上人の母である恵信尼のてがみを織って北米の展示会へ出展したのが欧州の染織雑誌に載った。自分の危うい時期でもあった東京北区の自宅で織っていたある日、 頼んできてもらった畳職人のおじさんから制作途中のその作品がおおいに褒められたのが意外だなあとおもった。たいしたものを織っているとはおもわなかったのだ。

将来は大分県か福島県の田舎の寺で親鸞上人を織りたいと考えてなくもなく、札幌での父の介護作業が終了次第すぐに寺を探そうとおもっている。世の中のなにも役に立たぬが将来の、自分の制作風景を思い描かねばこれからの介護生活を送ってゆけるとは思えないからである。介護後のさきに自分の将来がなければならぬ。しごとを決めるのは自分の責任である。

ウィンブルドンから帰宅し居間でくつろぎながらきょうも、しあわせな1日だったわいと天に感謝するのであった。


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January 14, 2012

糸とつき合う



縫い糸、編み糸、織り糸、わたしはそのどれとも関わってきた。ニット・デザイナーだったときは編み糸でセーターをデザインしていたし、田舎暮らしのときは縫い糸で手縫いの服や小物を塗い、織り糸でタペストリーを長年織っている。糸の専門家としてではなく、糸をつかった媒体が暮しの一部なのである。

どこに住まっていても、旅に出ても、糸やロープを店頭にみつけるとサッと走りより見入ってしまう。東京では浅草橋や馬喰町、合羽橋界隈。釜山ではチャガルチ市場。ロンドンではフィンズリー・パーク駅界隈である。バンクーバーにもポートランドにも面白い糸屋/手芸店があった。

日本では愛知県一宮市の糸問屋から通販していた。年に1、2度、キロ単位で糸を注文し自分で染めていた。東京では住んでいた王子のとなり足立区にも倉庫のような糸屋があったのは自転車でかよい親切にしてもらった。

田舎に預けてあった荷物のなかに、糸を詰めた段ボールがあった。染め粉も機具もはいっていた。荷物を少々ダウンサイズしたとき、書籍は捨てても糸は処分しかねた。これからも織ってゆくつもりだったからだろう。

七輪のうえにステンレスのボウルをのせて湧き水で染めていた田舎暮らしのようなわけにはゆかぬが札幌でも、自分で糸を染めようとおもう。完璧に調った設備でなくとも、遣り方さえ飲込めば染められる。さりとてそれを自分のタペストリーの特性として特別宣伝する気はない。世界中のタペストリー作家が当たり前のように染めている。

ロンドンの糸屋で買った羊毛は良質で張りがあり、色数は少ないものの日本へ持ちかえりたい大量生産用の残糸だ。一の宮の糸問屋の羊毛とずいぶん違っている。これに近いのを今度、一の宮からとってみようとおもっている。

自宅でバカな刑事物観ながら手を動かすのは、縫い物と編み物だ。スコットランドで何枚バンダナを縫っただろうか。古くなって布地の柔らかくなったハンカチやバンダナを2枚合わせて強化縫いする。着古したシャツの背見ごろも柄ちがいのを2枚合わせてバンダナに縫い仕上げる。

ロンドンへ移ってから手製のバンダナを2、3枚紛失した。街中へ出かけるときの注意力が散漫低下しつつあるのがわかる。地下鉄駅で結びをといたまま首に巻きつけてあったのがスルリと滑りおちたり、ビール飲んだあとベンチに置忘れたり、している。持ち歩く小物類はこれからドンドン置忘れるだろうとおもう。高価な品をナクスと悔しい。これからは諦める覚悟で安物ばかり身につけることにしよう。

それでもセッセと縫ったり編んだり織ったりしている。ことし父の介護生活がはじまったら自宅で手縫いの服も造れる。母の編んでくれたベストを編み直そう、腹巻きやカーディガンも編もう。手仕事は素晴らしい、好きな素材から形あるものを造れる。



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January 02, 2012

古い奴だとお笑いでしょうが



最新式のマシンは乗らず/使わず、ひたすらベンチとダムベルとバーベルでおしごとしている自分は、ロンドンのジムでもヘンジンに見えているだろうとおもう。サウスフィールズ駅の向こう側へ歩いたとき見つけた「サウスフィールズ・コミュニティ・カレッジ」のジムが一般公開されていて、平日は夕刻4時すぎから週末は終日通えることがわかった。失業者として入会金が半額になり、我が家から徒歩15分と一寸遠いがまあイー。

タペストリーを昔からの技法で織る、ジムでも古風な遣り方でうごく、古い奴だとお笑いでしょうが……なのである。ブロードバンドや電子マネーや携帯電話もつかうけれどそれは暮しの一部として便宜上使っているものの、古い遣り方がつかい勝手がイーときはそれにかぎる。今キッチンでご飯を炊いているのは小型の土鍋で、リッチモンドの家に備えついていたのを譲ってもらった。炊飯器はふたり分以上のご飯を炊くときだけつかう。

手首のトレーニングはマシンではできない。やはりダンベルだ。腹筋はベンチのうえで遣るのがイー。レッグ・レイズで足先をベンチの下へ降ろせる。床の上で腹筋遣るのは腹以外に負担がかかる、首や肩も妙に疲れる。アキレス腱のときは踏み台にのって自分の体重を持ち上げればイーのである。

お城を退職して5ヶ月、ボチボチ自分のタペストリーを織っている。なんとなーく昔の勘がもどってきたような気になっている。織りはやはりお城の一角獣タペストリーのとき以後、変わってしまった。それが現実なのだなあとボンヤリおもう。それはソレでよい。

なぜ織るかなんのために織るかなぞ考えなくてイー。手が勝手に動くので、とでもいっておこう。タペストリーは織り構造としては世界でもっとも単純な染織品で、誰にでもすぐ織りはじめられるが自分の織りたい絵柄を織れるまでの技術を身につけるには相当年数がかかる、とは以前書いたとおりだ。その認識は今もかわっていない。

お城で織っていたような大型織り機でも織れるし、ロンドンの我が家で織っている組み立て式小型織り機でも織れる、ところがグーだ。小型織り機の発案者アーチー・ブレナンはこの小型織り機をビーチへもっていって海水浴しながら織る。砂場に立てられるスタンドを考案した。

田舎に寄って自分の荷物を引きとったとき、町内に住む木工家の友人らと歓談した。日本の手仕事世界と密接しないわたしのタペストリーと、日本国内で活躍する彼らとは価値観がだいぶ違っている。彼らには木工家の大先輩がおり、その大御所たちの作品と自分の作品を比較してマダマダおよばない、とこぼす。

ニューヨークからアーチーが連れ合いのスーザンといっしょにお城へやって来たとき、彼らは我々の一角獣タペストリーをおおいに褒めた。アーチーは世界のタペストリー界から「キング」と呼ばれるお方で、アチコチの展示会で審査員にもなっている。

アーチーとスーザンの織る作品は、文句なく素晴らしい。ソーおもったうえで自分の織るタペストリーを彼らに見せたりもする。わたしは彼らの技術や作品を目指していない。だから自分をマダマダだとはおもわない。わたしは自分の作品を織ればイーとおもうだけだ。

手仕事を生業にしてしまうと、世間の相場や市場を気にかけねばならぬのが辛いとおもう。田舎の木工家を見ていつもソーおもう。売らねばならぬから無心で制作なぞしていられないし、世間からの評価も気にせねばならぬだろう。

アーチーに褒められたからって別に自分にはドーということのないのが、ラクチンだとおもった。彼を崇めたてなくてもイーし、同じボディ・ビルダー/織り作家としてこれからもつき合ってゆける。彼はスコットランド時代、ムキムキだったそーだ。

自分の織り作業に手首の強さはひつようだから、腹筋、背中、腰、腕、脚、と同様トレーニングする。空港で荷物をチェック・インするとき、エイヤっとバゲージ・ベルトのうえに35キロのトランクをのせられるのもトレーニングの成果だ。このトランクを持ってピカデリー線にも乗ってしまうところが、細身のアジア系女性としては自慢できる。

このまえ誰かから,脳梗塞のリハビリのとき手を使うことで頭への刺激となって快復へむかうらしいのを聞いた。素晴らしい。脳梗塞になるまえもあともわたしはひたすらタペストリーを織っていればイーのだ。自分の幸運をおもった。以下の記事もネットで見た。

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半農半専門分野
そこで半分農業をやり、残りの半分をその分業にあてていくことが望ましいです。分業というのがそれぞれの専門分野で、医療、教育、洋裁、手工業など様々なものが考えられます。当然芸術なども入ってきて、バリ島モデルのように祭りでのパフォーマンスを行うこともできますし、画家などの場合は、村内の様々な場所に壁画を描く仕事を担当したりすることができるでしょう。そうすることでカラフルな村づくりをすることができます。
★こうしたシステムを描いた小説ができました。
『百姓レボリューション』

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まさに自分の将来図がココにあるとおもった。

年末年始も家で織った。大晦日24時、8階の窓からロンドンの夜空に打ち上がる花火に見とれた。クリスマス断食をおえたスッキリしたお腹で正月を迎え、新たな年をふりだし直す。2012年は日本での暮らしへもどることになるがお城の元織り職人として、どんなタペストリーを織っているだろう。


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December 26, 2011

グータラ断食



イングランドで迎える初の年末年始。まずはクリスマス断食である。

昨年はまだお城で働いていたから断食しながら出勤したが、ことしはロンドンでしごとに出かけなくてイー。グータラ断食である。

クリスマス・イブの24日、友人のガイドさんの新ルート開発につき合わせてもらった。クリスマス用のウォーキング・ルートを企画中なのだそーだ。集合場所/時刻はビクトリア&アルバート美術館まえ12時。いつものように3日間断食の第1日目の朝、コーヒーと粉ミルクを飲んで出た。歩いてサウス・フィールズ駅郵便局にて年賀用の切手を購入。久しぶりの地下鉄に乗る。

サウス・ケンジントン駅には集合45分まえに到着。周辺をプラプラ歩いてみると自然史博物館も休館で、敷地内のスケート場で滑る人々が目に飛込んできた。ビ&ア美術館も休館。いつもはあまり撮らない写真をこんなときにまとめて撮る。友人を待った。

ビ&ア美術館を素通りなんてこと自分としてはケシカラン事態である。ロンドンへ越してからまだ1度も入館していない、避けているといってイーくらいである。ナショナル・ギャラリーの「ダ・ビンチ展」へもいっていない。来年いこう。

美術館側から道を渡り我々は住宅街へ潜入した。住居番号の表示が面白かったのでさっき写真に収めたばかりの住居群とこの辺の地域デザインを友人は説明しはじめた。プライベイト・ガーデンとしてのスクエアが多いのがわかった。周辺住民だけ門の鍵をもっていて、その他の人がはいれないという、よく手入れされたお庭である。札幌でいえば中島公園のよこに建っている高級マンション群みたいだなとおもった。

パブも開いていた。液体しかはいっていないお腹に散歩途中でビールは禁物、ガマン、我慢。

ガイドさんがつくる短時間のツアーは参加者のために考慮せねばならぬ点がいくつかあるらしい。まずトイレの確保。最初と中間と最後にあるのが望ましい。集合場所のわかりやすさと集まりやすさ、それと解散場所から最寄駅へのわかりやすさ。ツアー内容も5〜10分おきくらいに立止って説明できるような見学箇所のあるのが望ましく、またその説明が七面倒くさくない程度で人気のある話題、というのもわかってきた。タイヘンだなあ。

基本的に歩くのは好きなので、東京に住んでいたときもよく小道を歩いた。樋口一葉記念館は住んでた南千住から目と鼻の先だったし、森鴎外記念館も北区時代王子から電車に乗り駒込で降りて歩いた。

疲れたらいつでもバスに飛乗れるが見たことのない街を歩くのは楽しい。疲れをしらない我々は南下してチェルシー地区へ出た。いつも乗るバス14番で通る道筋だったが、ガイドさんが脇道へ連込んでくれたおかげで、マーケットの場所がわかった。ひとりだとコーはゆかない。

チェルシーからさらに東へドンドン歩くとモー、先の方にスローン・スクエア駅が見えてきた。2時間ちかく歩いただろうか全然疲れていない、お腹も減らない。断食中だと知っている友人はわたしを気遣って駅前の、英国最古のデパート最上階でお茶しようといってくれた。「××さん何か食べたら、わたしはビール飲むから」といいながら未踏の地巨大デパートの食堂へ。

窓からクリスマスのロンドンが眼下に眺められ、テーブルやイスがサイズとデザインのまちまちなのが置いてあって、まじめな食事もできる、お茶飲めるビール飲める書き物できる読書できる暇つぶせる、と子ども大人がいっしょになって寛いでいる空間だった。腰をおろしてホッと一息、ビール1本軽く飲んで真赤になった。キクー。固形物さえ摂らねばイーだけの「イージー・ダンジキ」なのである、エヘへ。

4時ちょいまえ散会してバスに乗った。22番でまずパットニー駅、39番に乗継いで自宅まで。バスの2階から美しい冬の鱗雲と夕焼けを見たとき、ああロンドンなんだなあココとおもった。相変わらず雨は少なく、スコットランドの年末とはえらい違いだ。

クリスマス当日、大家はもちろん朝からソワソワしてクリスマス・ディナーに備えている。母親の造ったディナーでしこたま飲み喰うつもりなのだろうなと絵を描ける。スウェーデン式クリスマス・ディナーはスターリング城の同僚が居たとき経験済みだから、彼らからの招待を断った。あしからず。クリスマス終了後いつか夕食をいただきにゆくと約束した。

断食2日目も快調。年賀状を書いて過ごした。明日3日目もグータラつづけよう。


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December 19, 2011

Berkeley Square 南口



ロンドンの暮らしは間近にせまった自分の「おひとりさま老後」の下見をかねているから、観光客のように毎日出かけているわけではない。ワンズワース区役所界隈やウィンブルドン、パットニーで買い物している。

出かける場所が偏ってしまうからと、プロのガイドさんのウォーキング・ツアーに参加してみた。1時間半ツアーに参加し歩き、ああロンドンにはまだ見ぬ面白い地区があるわいコレはイーゾと味をしめ、2回目の参加を決めた。日曜昼ころの1時間半で10ポンドと格安である。さらにガイドさんは日本人なので、日本人観光客や日本人居住者好みのツアー内容に仕立ててあること、「ロンドン・ブルー・バッジ」というガイドとしての正式な免許を取得しているため押さえるべきロンドンのツボを心得ていること、その知識をおしみなく提供し謙虚なこと、参加者にたいする態度が公平で丁寧なこと、質問にちゃんと答えてくれること、など満足な内容。

きのうの日曜プログラムは「ロンドン・メイフェア地区の富と影」と銘打ったツアーで、集合場所のバークレー・スクエア南口、というのがおおいに気にいった。ナイティンゲールが鳴いたあの、Berkeley Squareである。マンハッタン・トランスファーがアカペラで歌っているのが好きで昔から聴いていた。歌詞にロンドン・タウン、あるいはリッツ・ホテルが出てくる、ああソーだあれは古いロンドンの歌だったのだと思い出した。コレは行かざるを得まい。そしてスクエアに立ってこの歌を口ずさまねばなるまいとおもった。

マン・トラの最新版の歌をダウンロードしてみた。ピアノ伴奏で歌っている。コチラも素晴らしい。昔のと聴き比べてみた。

「A Nightingale Sang in Berkeley Square」は大昔、ピアノの先生に英語を一寸教えていたとき、課題曲として選んだ曲だ。ピアノ先生はマリー・ジェイ・ブライジとかのシャウト系の歌を所望したが、英語を習うなら発音の美しいのも真似してみるべきとわたしは考え、この曲をあえていれた。メロデー、歌詞、歌手、まったく美しい曲である。東京でまだピアノを教えている先生に覚えているかメールで問うてみると、すぐ返事がかえってきてもちろん覚えていますという。発音練習にはコーユーはっきり発音された曲がイー。彼女の上達にも目を見張った。

そのころはまだiTuneやインタネットが今ほど発達していなかったから、ちょうどオーストラリアから織り機メーカーの社長が我が家へ来たところ、歌詞を書きだしてと頼んだ。出発便時刻を気にしながら彼女はCDから流れるこの曲の歌詞を置いていってくれた。わたしのタペストリー作品のほうにはあまり興味がないようだった。小さいのばかり織っていたからだろう。使用している織り機もアメリカ産鉄製シャノック・ルームだし。

Rod Stewart - A Nightingale Sang In Berkeley Square

When two lovers meet in Mayfair, so the legends tell,
Songbirds sing; winter turns to spring.
Every winding street in Mayfair falls beneath the spell.
I know such enchantment can be, 'cos it happened one evening to me:

That certain night, the night we met,
There was magic abroad in the air,
There were angels dining at the Ritz,
And a nightingale sang in Berkeley Square.

I may be right, I may be wrong,
But I'm perfectly willing to swear
That when you turned and smiled at me
A nightingale sang in Berkeley Square.

The moon that lingered over London town,
Poor puzzled moon, he wore a frown.
How could he know we two were so in love?

The whole darn world seemed upside down

The streets of town were paved with stars;
It was such a romantic affair.
And, as we kissed and said 'goodnight',
A nightingale sang in Berkeley Square

When dawn came stealing up all gold and blue
To interrupt our rendezvous,
I still remember how you smiled and said,
"Was that a dream or was it true?"

Our homeward step was just as light
As the tap-dancing feet of Astaire
And, like an echo far away,
A nightingale sang in Berkeley Square

I know 'cos I was there,
That night in Berkeley Square.

英国の国民的歌手であられるペチュラ・クラークがユーチューブで歌っているのはいただけなかった。あんなにデブってしまったとは残念……。それよりロッド・スチュワートの方のが気が抜けた感じでたいへんよかった。

我が家から徒歩10分のパットニー・ヒース(グリーン・マン)というバス停から14番のバスが、ピカデリー・サーカスを抜けて走っている。所要時間は40分ほど。集合時刻1時間半まえに家を出てグリーン・パークで下車し、スクエアにむかいながらこの曲を口ずさんでみた。


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December 15, 2011

ゆるい英国、アンタが好きだよ



2週間に1度月曜日に失業保険事務所へかよっていたところ、アポ用紙を見ると昨日の10時に来い、と書かれていたのを見つけたときは吃驚仰天した。アレー、ポン遣っちゃったかなあと大慌てで事務所へ電話し、次々に電話は転送され、そのうち回線がポツンと切れ、しようがないからバスで事務所へ急いだ。

2時に着くと1時間後にもどってくるよういわれ、ショッピング・センターで買い物して待った。クリスマス・ショッピングまっただ中の人の群れ。皆が大型ショッピング・バッグを手に走り回っている。

今週末で定年退職するという担当官が面談してくれた。コーした苦情処理の調整デスクに腰掛けてわたしのようなポンな被失業保険受給者をすくいあげるのが彼のデューティであるらしかった。アポ忘れのわたしに彼は「ドーして失念したかの理由を述べてください」と問い「単純に勘違いして忘れただけです」と答えると、「ソレは妥当な理由にはなりませんよ。例えば宅配便を受取るために自宅に居なければならなかったとか……」「ああそれならば、友人からの電話を待っていました。友人はわたしのために求人情報をくれるはずでした」と答えて、うまく切抜けたのであった。

このおじさんは実に親切に正当な理由の述べ方を、ミスター・ビーンズもどきに目と眉をフニュフニュ動かし、わたしに教授してくれたわけだった。コレぞ英国紳士というもの。このゆるさったらたまらなく愛嬌があり、バスの運転手、肉屋の店主、お城の守衛、空港の入管審査官、などにしばしば目につく特徴なり。

ソーいえば女王陛下が城へお越しになられたとき 、誰かがスピーチで冗談を飛ばしそれを聞いて立ったままクスクス笑っていたその表情が、英国的だなあと感じた。一般市民の冗談へもちゃんと応えるその気安さ、気取りのなさ。エディンバラ公もとなりで笑っていた。日本の皇室方にそんなお人はまずいないだろう。気のきいた冗談を飛ばすのがこのお国のふつうの文化なのである。

だからわたしは年末に毎年やってくる友人へことしは、空港の入管審査官へ「鰻ゼリー、ミンス・パイ、それにマッシュを食べにきました」と旅の目的として答えるよう伝えてみた。彼らをすこしは楽しませなければならないと考えたからだ。退屈そうに1日7時間も客と遣り取りせねばならぬのだから一寸はヘンな観光目的があってイーではないか。そしてソレは本当に今回の旅の目的ともなろうはずだから。

リッチモンドの最高級ホテルに部屋をとった友人は今までの5年間、スコットランドの安宿に泊まらされていたからことしこそ、やっと友人の品格に見合ったクラスの宿に泊まれることに満足するだろう。さらにそのホテルから歩いてテムズ川沿いのパブへ、鰻ゼリーや鰻パイを食べにゆけるのだから。

永住権を申請しにグラスゴーの移民局へ行ったとき、ビルの入り口で所持品を取調べられた。非常食に自家製ポップ・コーンをサンドイッチ・バッグに詰めて持っていったのを見られてしまい、そのときの守衛の顔がまるでテレビのビーンズ氏のようだった。相当ウケてたようだった。タペストリー用の糸切り鋏もはいっていて、それは入り口に預けるよういいわたされた。

厳しい審査のおこなわれるそんな場所にも笑いがある、のが英国である。ソレはわたしのおおいに気にいっている英国の一面で、食べ物がいくら不味くても父の介護がおわったらまたもどってきて暮らすかもしれぬとおもうのであった。


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December 09, 2011

夜はバスに乗る



自分の人生のなかでいちばん散歩したのは80年代、北米の学生時代だ。彼氏が大の散歩好きで夕食後ふたりで肩をならべて出かけた。ポートランドの夜景は大都会とはひと味違い、ちんまりと美しかった。歩くにはちょうどイー距離感で河原や橋、ライト・アップされた町中の建造物が並んでいてカフェや図書館も開いていた。

ロンドンで今気にいっているのは暗くなるのが早い冬に限って楽しめる、2階建てバスから市内見物する方法。日のあるうちに中心街へでて帰りはいつも暗いからこの遣り方がイーなとおもった。

先週はナショナル・ギャラリーの無料クラシック・コンサートへいってみた。午後6時からギャラリー内の展示室のひとつを借りきり、演奏してくれる。そのときは59番展示室だった。テンペラの絵を背景にそれらの絵が描かれたのとおなじ時期、16世紀に演奏されたであろう曲を演奏してくれた。小1時間聴いて7時に館内を出た。毎週金曜は22時までギャラリーが開いている。金曜夜の贅沢な時間の過ごし方で、デート中の男女がたくさんきていた。上野の美術館が金曜夜に開いていてくれたら、上野広小路はもっと賑わうのではと想像してみた。

トラファルガー・スクエアへ出てバス停に立つと、クラッパム・ジャンクションゆきのバスがきた。乗車して2階へあがり、夜景を見ながら揺られているとテート美術館のまえを抜け左手へ曲がってテムス河を渡った。クラッパム駅まえで下車し、すぐ目の前からパットニー・ブリッジゆきのバスに乗り換えた。これだと我が家のすぐちかくまで乗ってゆける。

地下鉄に乗ってしまうとつまらない帰り道も、コーして帰ると楽しい。ロンドンの地下鉄は便利だが、車体が小さい、通路が狭くて息苦しい、からなるべく乗りたくない。地下鉄駅から地上にでてからどっちの方向へ歩くかの判断も、冬の暗くなった路上では勘が鈍る。

帰宅して自室でユーチューブのドラマを見ながら窓を見やると、夜空に星がいくつも浮かんでいる。浮かんでいるべき場所でないのにいくつもの灯りが空に浮いているのは、ヒースロー空港へ着陸態勢にはいった飛行機が順番待ちしているのだろうか。ひどいときには4個くらい灯りが横並びに浮いている。それらの灯りは1個々々、順番に消えてゆくのが不思議だ。順番待ち空の地点が我が家の窓から見えるちょうどソコなのであった。コレを書いている間にも灯りが次々消えてゆく。

このまえの帰国で札幌〜羽田〜福岡〜仁川と飛んだ晴天の日、千歳空港から羽田ゆき昼の便に乗った。溜まったANAのマイレージで無料搭乗できたのが、千歳〜福岡便数が少ないため席がとれずしようがなく、東京経由で福岡へ飛ぶことになった。千歳を発つと飛行機はすぐ苫小牧港の上空から海へ出る。しばらくすると本州が見えてきて三陸海岸が目に飛び込んできた。津波に襲われた地域だ。災害当日ユーストリームで24時間地震津波状況を観ていたから、自衛隊機がとらえた三陸海岸へむかう津波の映像がまだ目の奥に焼きついていた。そのおなじ地形が目の前に広がっている。息をのんだ。

飛行機がしばらく南下をつづけ眼下の風景は瓦礫の広がった荒野だった。車らしいものが走っているわけでもなく、人の姿もない。人間の生活臭がほとんどなかった。仙台を経て福島県へはいった。福島原発は部分的な雲にかかって見ることはできなかったが、内陸部の道路に車も人影もなかった。羽田に着くまでズーッと食い入るように眼下を見続けた。国内線であんな低空飛行したのに乗ったのは久しぶりで、80年代乗ったシアトル〜ポートランド便で見た、噴火後頂点に巨大な穴の開いたセント・へレンズが手のとどくような距離だったのを思い出した。

地震と津波のほんとうにあったことを実感した。

ロンドンは1日乗車券を買ってバスの2階に座ると、ホップ・オン&ホップ・オフの観光バスに乗るのとおなじくらい楽しめる。地上をグルグル廻ると、地下鉄駅間の距離とつながり方もわかってくる。

12月末に日本からやって来る友人は、リッチモンドのホテルに1週間滞在するつもりだという。ロンドン市街のホテルに泊まらずともリッチモンドを拠点に観光するのは、それほど不便ではないとおもった。バスが縦横無尽に走っているから、ピカデリー・サーカスまで出ずとも充分楽しめるコースがデザインできる。

まずリッチモンド・バス・ステーションから493番のバスに乗ってウィンブルドンへむかって1時間、ウィンブルドンから路面電車に乗って暴動のあったクロイドンへ30分、電車に乗り換えクラッパム・ジャンクションへ10分、39番のバスで我が家まで20分、ふたたび493番に乗ってリッチモンドへ30分、てな具合である。

リッチモンドからハンプトン・コートへもゆけることもわかった。友人の泊まるホテルまえをキングストンゆきのバスが走っているらしい。キングストンで乗り換えてハンプトン・コートへはほんの一寸だそうな。


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December 05, 2011

霧のロンドン雨少なく



大分県の田舎で露天風呂にはいり新米を食し、裏庭の柿や新興梨を食べ自家製パンをごちそうになり、その後飛んだ札幌では美味いラーメンや焼きそば、蕎麦、味噌漬け焼きホッケ、刺身、寿司、をふんだんに楽しんだあとロンドンへもどるとモードーしようもない、英国の貧しい食生活に直面させられた。

ロンドンを離れていた3週間とその後の2週間、雨量の異常な少なさに驚いてもいる。この時期のスコットランドとは全然ちがっていた。

朝起きて窓から見える景色は真っ白な霧につつまれ、まるで札幌の吹雪の日のように視界10メートルもないほど。お昼をすぎた1時2時ころやっと晴れて一寸お日様が顔をだす程度でそれから気温が上がってもくれるから、日没まで日中は室内の暖房が要らない。晴れるとはいえ午後3時半には薄暗くなりはじめ英国の、冬期鬱病患者のおおいのが説明できよう。

11月2×日にいった農場ではすでにことし秋野菜の配達を終了し、畠の整備にはいっていた。雨量が少なかったせいで葉っぱに病気がでたためことしは、野菜の配達終了がくり上がったソー。

札幌では10月に1度寒波が来て札幌市街に熊が出没し、その後温暖に逆戻って滞在した2週間オーバー・コートを着る日はまれだった。それでフェイク・ファーのベストを羽織って出かけていると、猫を飼っている友人がソレをくれろといってきて自前のジャンパーを交換に差し出されたが、それを着て出かけるほどの気温になってくれぬ。フェイク・ファー・ベストのほうは飼い猫と交流を深めるのに役立ったと喜んでいた。ロンドンへもどってすぐ、おなじような偽毛のベストを近所の古着屋で買いもとめた。6ポンド。

ベストは重宝なアイテムで昔から常用している。スコットランドを引っ越すとき所持品ダウンサイズした後の自分のワードローブにベストがまだ4、5枚はいっていた。母の編んだのが2枚、別珍1枚、キルティング1枚。薄手のコート下にベストを着込むと背中の保温に役立つ。

札幌の地下鉄や電車のなかの暖房が暑くて、乗ったとたん汗がふきでるから薄めのコートやジャケットを脱ぐ。そんなときもベストは便利。地下鉄を降りたあとはコート片手にベスト姿のまま地下街を歩ける。腕を外気にさらして歩くのはきもちがイーし、動きやすい。

叔母からソレはなにと訊かれたのは、スポーツ用短パンの下に履いていたモモヒキだった。飛行機に乗るときのいちばん楽な格好で、スウェット下を履くより見た目はベターだ。農場へ手伝いにゆくときもこの格好。上にもちろん偽毛のベストを羽織る。英国から乗る日本ゆき機内で寝入るときロシア大陸を横断するため、機内温度もけっこう下がる。アンクル・ウォーマーとベストは必携でそれに、膝掛け1、2枚つかって身体をつつむ。

父の入居したグループ・ホームで、持込んだ服数のすくないのを職員が指摘したがソレが、父が家で利用していたワードローブのすべてで、着回せばけして足りない数ではないとおもった。毎日おなじ服を着ていてちっとも気にしないのは親子に共通した、ヘンジン気質であるのを知った。父のヘンジン気質は若かったころからソーだったと叔母から聞きおよび、「わたしはヘンジンの娘に産まれてしあわせです」と父に耳打ちすると、ワハハソーかと笑った。来年からこんな冗談を飛ばしながら父の介護を遣ろうとおもっている。

コレステロール値が高いのは20年まえ日本の医者から指摘されていて、お城で織っているうちに偏頭痛に襲われ、しごと中に倒れては困ると考え医者から血液ドロドロ解消錠剤を処方されたのを飲みつづけて4年になる。シンバスタティン40ミリグラムを毎朝コーヒーといっしょに飲んでいた。イングランドのGP(開業医)から電話があってインフルエンザ予防接種を受けたいか訊いてきた。無料ならば受けたいと答えた。

スコットランドのGPから今まで訊かれたことがなかった。イングランドのGPのほうがサービス良好。本来ならば65歳から無料予防接種が受けられる。心臓循環器疾病予備軍も無料接種対象になっていると不機嫌そうに医者は告げた。GPは独立採算制だからワクチンで多少なりとも利益があがるのだろう。

接種まえ血圧を測ったら下120上160だった。加齢とともに上がる自分の血圧を嬉しくおもった。40代まで下60上100だったからこのところの目覚めのよさを高血圧が物語っている。朝目覚めてすぐ身を起こして行動したくなるが昔は、グズグズと横たわって起床するのを身体がイヤがった。この調子をたもって5年もすれば脳梗塞予備軍の仲間入りともなろうが。

シンバスタティン40ミリグラムを服用しつづけたわたしは半年に1度血液検査をすることになっていた。が英国の採血仕/看護士の採血の下手なのに閉口したわたしは医者と受付へ苦情を申し述べて以来、採血されていない。薬が血液内で役にたっているか肝臓へ負担はないかドーかのチェックをしていないということ。「貴方がイヤなら採血よしましょ」といって採血指示書をわたしの目のまえでバリバリ破いた医者の姿を覚えている。結構信頼できるなと感じた。

札幌で父の担当医へ診察をつき合ったときわたし同様、もともと細かったのが老齢でさらに細くなった血管から看護士が採血した。血液の流れにも勢いがなくしばらくの間、注射針が父の血管に差し込まれたまま待っていた。辛そうな横顔を見て「モー、止めてください!」とわたしがいったとき看護士が慌てた顔になった。ある一定量の血液がなければ検査結果がでない、という日本の病院システム。今後は父の患者本位の処置にしてほしいと看護士へつたえた。こんな患者と患者家族がいてもイーではないか。医療は患者本位であるべきなのだから。

わたしのコレステロール値なぞ採血時の血管損傷の痛みにくらべたらドーでもイーとおもった。アレを我慢しろといったら患者本位の医療とはいえない。英国GPの医者の決断はわたしの評価を得るに値したとおもっている。

夏時間からきり替わった後の、イングランドよりもさらに暗くジメジメした冬のスコットランドで鬱にもならず健康で居られたのはたぶん、ジムで汗を流しサウナにはいっていたからだろう。落ち込んでいる暇なぞなかった。今ロンドンで求職しながら蟄居し出費をおさえて暮らしているが、遣ることがないわけではない。東京のフリーランス時代へもどったようなきぶんである。同居人が早朝出ていって夕刻帰宅し今日はドーだった何してたと訊くが、彼が満足するように答える気はサラサラないから、別に何も遣っていないといっている。実は何かしら遣っているのだが退屈しているわけではないので、答えてやるひつようはない。

自分の遣ることを毎日、他者へアレコレ報告する習慣がない。まして夫でもボーイフレンドでもなくただ偶発的に家をシェアしている同居人へなぞ話すものか。酔って気がむいたときベラベラ喋るだけだ。

同居人から「日本語を習うのにオレは歳をとり過ぎているか?」と問われ「ウェイト・トレーニングにはじめる時期に年齢制限がないように、語学習得にも年齢制限はない。どれだけ真剣にとり組むかによる」と答えると、ポッカリ口を開いたまま突っ立っている。コーした愚問をつづける人間はソレを愚問とは考えず、愚問だからこそソレについて議論したいとでも望んでいるようだが、相手になる気はない。彼はたぶん人生相談や何かを誰かと話したいと望んでいるかもしれないが、相手を見極めたうえで見つけなければならない。リッチモンドの画廊の女も死んだ夫の悪口をいう相手を、見極められない話し好きだったから現在の、大家と話しが合うやもしれぬとおもった。


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November 26, 2011

飛ぶ歩く喋る



日本からもどった日の翌朝10時、気まぐれに失業保険事務所へ電話をいれてしまったのが運のツキ、1時間後の11時15分に担当者に会いにゆけといわれ大急ぎで書類をそろえてバスに乗った。自宅からどこをドー来たのか方向もおぼつかずフラフラ状態で事務所に着くと、会議中ゆえ午後2時半にもいちど来いといい渡されたとき、ココは英国のロンドンだと思い知った。自宅へもどる手間暇なぞかけずそのままワンズワースという街をウロウロし時間をつぶした。月曜ゆえ図書館も閉まっていた。札幌から飛行/待ち時間合わせて20時間費やしてロンドンへもどった翌日に、コレ遣るか!

失業保険と抱き合わせで申請できる家賃手当も、電話で済ませたのも初体験だった。

重い瞼をこすりながら失業保険事務所の担当者らと話しを終わらせ帰宅すると、ここはロンドンいや英国だから24時間ふんだんにお湯が出るわけでない我が家で風呂にはいるわけにもゆかずただ、ベッドにもぐりこむしかなかった。湯はスイッチをいれて半時間もせねば出てはこぬ。コーユー暮らしで我慢の子のロンドナーたちに頭がさがる思いだ。空き部屋の広告を眺めてみると湯が24時間でるでない、の項目のあるのが日本とちがう点だ。フラットに、スポーツ・ジムでつかっているような電気瞬間湯沸かし器が備わっているかドーかなのである。

10月、日本への一時帰国まえに転居したサウスフィールズのフラットにはボイラーまかせのお湯と瞬間湯沸かし器シャワーが備わっていたが、瞬間のほうが壊れている状態だった。それを新しい湯沸かし器に取り替えるかドーかは大家にかかっていて彼の、現在の経済状態から察して今すぐ替える気はなさそうであった。よってボイラー依存の湯でシャワーを浴びたり風呂に浸かる以外ない。24時間湯が出る状態ではないということだ。

スターリング城ちかくのフラットのときは大家が電気回線のエンジニアだったせいか、両方の機具が備わっていたし、ボイラーにはいつでも熱湯が蓄えられるよう設定されていた。合理的な考え方をする同居人に感謝したし、徒歩5分のホテルのジムでは早朝から深夜までシャワーを浴び風呂やサウナにはいれたから、英国内に住んでいる日本人としては恵まれた環境だった。

日本の親のアパートに着くと、室内はセントラル・ヒーティング、24時間豊富な湯のでる風呂が待っていた。内風呂がイヤなら銭湯へも温泉へもゆけた。札幌入りするまえに寄った大分県の田舎町でも掛け流しの天然露天風呂が待っていた。湯インフラのゆきとどいた日本。人の暮らしぶりが湯の文化にうかがい知れる。

父がグループ・ホームへ入居したゆえ、アパートの電気を10アンペアへ引きさげてもらった。これで使用電気料金が半分に減る。田舎の1軒家のときも10アンペアで暮らしていたから、ひとり暮らしは電気代を安上がりにできる。北電の下請け会社の男が来たとき「おネーサンなら10アンペアでなんとかヤリクリするように思う」と勇気づけられもした。ブレイカーが落ちたら上げればイーのだ。

1週間経ってふたたび、失業保険事務所へ徒歩でむかった。30分だから我が家から2キロ。担当者との遣り取りもよくもまあ口がたつものよと感心するくらい、落ち着きはらい眼力全開で話しをする。帰国中の嵐のような3週間も、おなじような調子で喋ってきた。ある人から「アナウンサーのようにハッキリした日本語を喋りますね」といわれ「アンタはメリハリのなく、わかりにくい日本語を話すわよね」とこころで呟いた。

千歳空港に到着して30キロのトランクをうけとったとき、片輪がへし折れてうまく廻らない状態になって壊れてしまったのを航空会社の担当者へ直してくれねば札幌市内まで運べない、といってクレームをつけた。田舎町のバス停から福岡空港まで車輪は廻っていたわけだから、荷物の扱いが乱暴だったのだろうと推測された。担当女性は古いトランクの車輪の摩耗したのは当社では責任義務がないといった。客のトランクがすべて新品とは限らないだろうと反論した。「わたしは疲れています。長々とソーユー話しを聞いているわけにはゆかないので、結論をさきにいってください!」といって代替トランクを持ってよこさせた。2週間後の出発日までに直しておくよう頼んでから、札幌ゆきの電車に乗った。航空会社がトランクの修理をしなかった場合、宅配便で当日夜までに父の自宅へとどけてもらうか航空会社の車でわたしとトランクをいっしょに札幌市内まで運ぶかしてもらおう、と考えたりもしていた。

失業保険事務所からの帰途、地元のジムを探してみた。ひとつはふつうの独立系ジムで値段も施設も立派なうえ、胡散臭そうな若い男性担当者が値段交渉してきた。ふたつ目はコミュニティ・カレッジの体育施設を一般公開している地味なジムで、受付の女性が無愛想な大学生。後者のほうがわたしの気にいった。値段が安いうえに「コンセッション」という特別割引き付きで、わたしは失業者なのでこの枠にはいる。

ソーいえば先週、税務署から失業手当も課税収入と見なされるからコレだけ払えという書類がとどいたのにはおっ魂消た。多額とはとてもいえない失業保険と家賃補助からドーやって税金を払えというのかとわたしの頭のなかにハテナ・マークが点いていた。その書類を失保事務所で見せると無視してイーよと担当者がとりあげた。

先週の土曜は卓球クラブの練習会へ参加した。地下鉄で1時間以上かけてロンドン北部の卓球場へ。ランニングからはじめてストレッチそして卓球台へと移動した。気楽に汗をかきにいったつもりがコーチにはりつかれ、シゴカレル派目となる。ソーユー感じの真剣クラブだったわけ。モーいかないよあんなクラブとおもった。練習内容は興味深かったので今度、遣るときつかえるとおもった。

卓球の帰り糸屋に寄って好きなだけ買い込んできた。ほんとはもっと欲しかったが日本へ帰国するときの送料をかんがえると、ソーもゆかない。

帰宅すると大家がマ××ナ片手にリビング・ルームへ招くのであった。1週間つづいた時差ぼけからやっと解放されるような気がした。
































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