2016年06月

フクロウの首はほぼ一回り回転する。視野の広さという点では動物界でもカメレオンと並んで金メダル候補の筆頭に挙げられるのではないだろうか。真後ろを見られるあのbotox 瘦面フォルムは一見に値する。

視野の狭さは僕の生きてきた中での弱点である。
猪突猛進と言えば聞こえはいいが、坊ちゃんよろしく、周りのことが見えずに行動するとたいていはロクなことにならない。僕の場合視野の狭さというよりも思い込みの強さと言い換えてもいいかもしれない。

買い物然り、いいなと思うとほかの品物が目に入らなくなる。比較検討、客観的精査、熟慮断行、というものがなされぬため、結果、後から「やっぱりあっちの方がよかったかも」などと良からぬ後悔ばかりしている。

恋愛然り、誰かを好きになると告白せずにはいられなくなる、「黒か白か」「好きか嫌いか」「はっきりしてくれ」などと迫られようも港幣人民幣匯率のなら大抵の女性は及び腰になり、逃げだそうというものだ。全く持ってお洒落でない。

人間関係然り、好き嫌いがこれまたはっきりしている。好きな人とは非常にいい関係を保てるが、嫌いな人とは同じ場所にいるのも嫌になる。
どうやらその気持ちは自然に相手にも伝わるらしく、そういう人からは「オレもあんたのことが嫌い」オーラがビンビンに伝わってくる。

就職を控えた大学4年の秋、僕は単純かつ明快な悩みに陥っていた。それは「就職できなかったらどうしよう」というものであった。
教員志望であった僕は採用試験を受けていたため、ここでは「試験に落ちたらどうしよう」ということになる。

人生経験に1社だけ民間企業を受験してみた。会社名は「福武書店」、今をときめくベネッセコーポレーションだ。一次面接では、堂々と「教員志望なので御社は第二希望です」と言い放ち、当然落ちるものと思ったら一応通過、二次面接では2人同時面接だった。僕のとなりには某超有名大学の学生がおり、面接官は8:2という割合で隣學生交流の学生に話しかける。
結果は惨敗であった。ちなみにそれから16年後、転職した際にリベンジを試みるが返り討ちにあったことを記しておきたい。

僕は実感した、これこそ「チェーンメールマジック」である。

「ネズミ講」や「不幸の手紙」はこれを悪用したものだが、メールを正しく使うことができれば、驚くほどにコミュニティーの輪が広がっていくのだ。

最初のメールからひと月も経つと、北は北海道から南は九州、はては沖縄まで、日本中に散らばっている「あの頃」の友達から僕のスマホに毎日のように「手紙」が届いた。

その数は全部で50人以上!

もちろん、全員が全員参加できたわけではないが、当日は当時の先生方4名を含め、45名の仲間が35年ぶりに顔を揃えたのだ!
メールというツー搬屋公司推介ルがなければ実現は難しかった、もしくは実現に1年以上の時間がかかったのではないかと心からそう思う。

みんな35年分、平等に年をとっていた。

一応、卒業アルバムで「予習」して行ったけど、1/3くらいは名札を見ないと分からず。中には誰一人名前を言い当てられないほど見た目が変わっていたメンバーもいた。

当たり前だけど、全員揃って同じだけ年をとっているのが嬉しい。

でも、不思議なもので、ものの10分もすると、みんな35年前にタイムスリップしたかのようだ・・

高校生の頃から学校の先生を目指した。
特別に心に残る先生に出会ったわけでもなかった。
逆にそれだから憧れたのかもしれない。

大学を出て夢は現実のものとなり僕は憧れの中学校の教壇に立った。

それから16年間。
もがきながらも先生を続けた。

でも、僕は挫折して先生を辞めてしまった。

理由は一言では語れないけど
精神的にけっこう追いつめられて
「死んじゃうよりは辞めた方がいい」
という後ろ向きの理由だった。

僕を苦しめたものの一つに校則の指導があった。

僕は日頃の行いが悪かったせいか赴任した三校がすべて「荒れた」学校だった。

こうした学校では勉強を教えることよりも「生活指導」に日々の多くの時間を割かれる。

「たばこ」に「シンナー」「ケンカ」に「いじめ」「授業妨害」に「万引き」とバリエーションには事欠かない。
自慢にはならないが16年の間に「殺人」以外の非行には全て遭遇した。

だが、こうした問題行動の指導はきついにはきついが割と心に迷いがない。
だれがどう見ても「いけないこと」だから、体張ってでもぶつかっていくことができるのだ。

そうした中で僕は「校則指導」に悩んだ。
具体的に1つ挙げれば「頭髪」の指導である。

「茶髪」はおそらくほとんどの中学校では禁止になっていることと思う。

「中学生が茶髪にするなんてとんでもない・・指導するのが当たり前だ」
「きまりを守ることを教えるのが学校、先生の役目だ」
「生徒に安易に迎合するな」

これは正論である、正論には誰も勝てない、でも、僕と同じように悩んでいる先生はきっといるはずだと思う。

目の前に茶髪の生徒がいる。
校則違反だ。

この生徒は茶髪を除けば何も悪いところがない。
勉強もちゃんとするし、当番もまじめに行う、部活でも活躍しているし友達も多い。
両親も頭髪以外のことは全て協力してくれる。

でも校則に違反しているので注意しなければならない。

無理やり染めることはできないので話をして説得する。
本人が了解し、家庭の了解も取れると主事室に連れて行き黒染めのヘアカラーで髪を黒く染める。
あらかじめ学校にはヘアカラーが用意してあるのだ。

ヨウムという喋る鳥の動画をいくつか見た。
初めて聞く名前なので真理教の方と区別するために変名したのかと思ったが、鳥のオウムともまた違うらしい。いずれにせよ、西川さんちのきゅうかん鳥のキューちゃんよりもうまいこと人間語を真似ている。

猫が自分の名を言えるようになった日には… 
想像してみるのだが、猫はたとえ人間語を発することのできる声帯を持ったところであんまり喋らんのではないかと思う。

いわゆる猫の集会を見てみても、マスター不在のひとり呑みの店へ来たのかと思うほど、端で匂い確認し合ってる二、三匹をのぞいたらそれぞれが勝手に黄昏れている。
 
ところで、
『我が輩は猫である』に登場する猫たちは下町江戸っ子に、また『じゃりん子チエ』の猫たちは大阪のおばちゃんに負けじと喋る つまり、やったら喋る。

何をそんなに喋ることがあるのかって話しだが彼らは、どこどこのだれだれがこんなことしてあんなこと言っとった、というたぐいの縄張り内の情報を交換するとともに、読者、視聴者を毎回わくわくする話の展開へといざなってくれていたのだ。

だから世の中の猫たちが日頃から、どこどこのだれだれがこんなことしてあんなこと言っとった、と猫語で交わしているなんて勘違いをしてはならない。
人間のフィクションはあくまでも人間のために人間によってつくられるのだ。

政治家になる人は場を仕切りたい、先生になる人は人の上に立ち、ロックンロールのミュージシャンになる人はモテたい、 
などと数回に渡って勝手なことを邊間補小學數學好のたまってきたが、宗教家になる人というのがいったいどういう人たちなのか、いまいち見えてこない。
というのも、 

仏や神、天や自由をどう名付けるかの違いがあるごとく、宗教家になった人にもそれぞれの理由やきっかけがあるのだろうが、ひとつ彼らの共通点をあげるなら、救MathConcept價錢いを求める人を相手にする職業ってことだろうか。
 
つまり宗教家には救いを求める人が、必要といことになる。 
その一方で、救いを求める人間が本当に必要とするのは宗教家でも偶像でもない。
彼ら自身だ。
「信ずるものこそ救われん」、とはよく言ったものだ。
信ずるものがいなくなれば、坊さんや神父さん教祖さんも、こぞって明日からハローワークの常連となりにけり。
 
だか安利傳銷らってスターや政治家と違って、
「みなさんのおかげで。。。」と檀家を集めて
感謝を示すことはあまりススメられない。
そんな時こそあの坊さんのような、仏もだまるあの笑みの出番となるのだな。。チーン  

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