2005年10月27日

人格は何のコピペ?

vf法人とは法的に人格を与えられた擬制人であることについて以前書いた。言わば、組織体に「人格」をコピペしたようなものだ。これは「価伝子」なんて言葉使わなくてもミームの応用としての擬制体として理解できると思う。しかし、オリジナルの「人格」って本当にオリジナルなのだろうか?
人格とは何を見立てて作られた概念なのだろうか? ミームとは模倣と記憶の合成語だ。人格が教育(模倣+記憶プロセス)と、遺伝子の合わせ技ならば、コピペの集合体であって、オリジナル、自己完結的なものではない。
では、人格には主体性、自意識があるではないか、それは交換不能で、すなわちコピペ不能ではないか?
そこに行き着くとビデオフィードバックというテクニックを想い起こしてしまう。テレビカメラが、それ自身が撮った映像情報を映すテレビモニターを映すと、最初は合わせ鏡のような静止画像だが、カメラがある距離まで近づくと、モニター画像は突然渦巻き始め、まるで生命を得たように動画像に変わる。まるでカメラとモニターが意識を獲得したかのように。これはフラクタル画像の一種だ。
この動画像を見るたびに自己とか自意識とか人格というものに自明として与えられていると思われる主体性、独自性というものを疑ってしまう。われわれの意識というものは、このビデオフィードバック画像とどこが違うというのだろうか? この画像は「自分」のコピペ、自己言及の永遠の繰り返しだ。そのオリジナルなはずの「自分」とはただのモニターというハードウェアであり、ハードが自らをコンテンツ化するというのは、あたかも物質が意識を獲得するプロセスではなかろうか。
自己言及によって作られたコンテンツは更にコピペされ、模倣・記憶されたコピペの集積体とするなら、結局、人格とは永遠の自己言及、コピペ以外の何物でもない。
自意識は、自分が自分であることを観察するというコピペされた第二の自分による第一の自分の観察に過ぎないとするなら、正にビデオフィードバックと同じであり、これも永遠の繰り返しだ。第n+1の自分が第nの自分を観察する。人生とはこのnの数が永遠に大きくなることであり、昨日の自分nは今日の自分n+1によって観察され、コピペされている――。
人格がこういうものなのならドーキンスの言うように、やがて利己的遺伝子は有機物という危うい乗り物よりも、増殖、保存が利く電子的乗り物に乗り移るのかもしれない。あのビデオフィードバック画像の彼方へと。(関連entryへ)
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Posted by y0780121 at 23:00│Comments(3)TrackBack(3)clip!文化 | 自然

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この記事へのコメント
>自己とか自意識とか人格というものに自明として与えられていると思われる主体性、独自性というものを疑ってしまうのだ。<だから遺伝子の乗り物たる所以じゃない?独自に動いていると思っても私たちの行動のほとんどがプログラムに沿っているような気がするんですよ。
コピペで足踏みではなく、時間軸を前へと鞭で進まされて、キューブリックの世界へ。と妄想は拡散する
Posted by さなえ at 2005年10月28日 07:32
「昨日の自分nは今日の自分n+1によって観察され、コピペされている――。」
その通りですよね。ただコピペの後に若干の編集が入っていて、nを無限大にしたときには、やはり主体性、独自性というものが顕在化するのではないでしょうか?
Posted by イプログダイレクトの店長 at 2005年10月28日 13:54
>コピペの後に若干の編集が入っていて

カメラとテレビモニターの間に夾雑物が常に入ってくるのでそれが記憶に蓄積されるってことでしょう。
Posted by 佐藤秀 at 2005年10月28日 14:31