2006年02月23日

量子自我

404BNF:量子自我(quantum ego)とは何か
ところが、自我には波のような性質もあるのだ。私が何かをする。するとあなたが反応する。これをcommunicationと我々は呼んでいるが、これはある意味自我が共鳴を起こしているものと見なせないだろうか?
見なせまシェーン。
コミュニケーションを成立させているのは、「自我」そのものでなく、以前書いたように光波、音波、臭波? 物理的接触だからだ。そして、これらはいったん「自我」のコントロール下にある肉体から発せられると、自我のコントロール圏を脱してしまう。弾さんは、こうした外部に放たれたものも含めて「自我」と言っているんだろうか? しかし、「ある意味、言葉というのは、自我が「我の壁」をトンネル効果で「突き抜けたもの」だと解釈することが出来るかもしれない」という記述を読むと、そう見なしていないようだ。

人と人がぶつかったら、必ずお互いの自我は変化する。腹をたてるかも知れないし恥ずかしいかもしれないし怖いかもしれないが、とにかく衝突前の自我と衝突後の自我はもう同じものではない。

「自我」は他人と衝突しようがしまいが、1人で孤立無援の状態のいる時でも常に変化している。

シュレーディンガーの猫が「生きているかも知れない」し「死んでいるかも知れない」のと同じように。しかし売買が成立するまでは、まだ「誰のものかはっきりしていない」状態が確かにそこにある。

「そこ」ってどこよ。売りに出していて買い手がおらず売買が成立していない状態? どう考えても、「そこ」では売り手の所有物であることは、はっきりしている。

これがまだ物理的実存であれば、所有権という「概念」はとにかくその物理特性はほぼそのままだろう。ところが「知の産物」、あるいは「虚の産物」に関してはこれが当てはまらない。

人は「物理的実在」を「所有物」と認識した時点で、その「物理的実在」は「概念」に変容するのだから、どっちにしても「知の産物」、あるいは「虚の産物」であることにおいてはてなブと変わらない。

「量子重ね合わせ」(**** *****)を「壊す」のは、「観測」という行為である。「自我の重ね合わせ」においては、「値づけ」がそれに相当する。しかし「値がつけられた」それは、すでに「元々のそれ」とは状態が変わってしまっているのだ。

ある自我Aとある他我Bが本当に重ね合わされてしまったら、確かに「元々のそれ」でなくなり、恐ろしいことになる。

著作権という形で我々は「自我の外」にある「自分の言葉」に関しても「自分のもの」だと主張することは出来るかもしれないが、外で共鳴状態にある言葉はどうなのだろうか?

不思議な解釈だ。本に書かれてある言葉も読者と「共鳴状態」にあるはずだ。何が言いたいのか分からない。

私がこの記事を読む前の量子自我と、読んだ後の量子自我とでははっきりとした違いはは認められなかった。期待が大きかっただけに・・・(ry

ところで、粒子も波動も、日常経験から生まれた言葉の比喩である。量子というのは、言葉の比喩の地平の奥にある「何か」を表現するための虚比喩ではなかろうか。indivisibleも、人間の、観測機器を含めた識別能力に依存している。その圏外として量子がある。「実在」も言葉の比喩と識別能力に依存しているのであり、人間の識別能力と言葉なしでは全てがあるようでないような何かでしかない。
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Posted by y0780121 at 20:20│Comments(2)TrackBack(0)clip!文化 

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この記事へのコメント
量子自我。
量子論をマクロな人間世界に当てはめて妄想している時点で
理系の見方ではありませんが(笑)
元ネタはお笑いネタなんでしょう?確かめたくはないですが(笑)

人を小ばかにしたような、わかった風のネタはやめて欲しいですよね。
Posted by dk at 2006年02月23日 21:12
>量子論をマクロな人間世界に当てはめて妄想している時点で

(´・ω・`)<ま、一種の頭の体操ということでひとつ。
Posted by 佐藤秀 at 2006年02月23日 22:08