2007年07月20日

国家と資本は双子の兄弟

萱野稔人:交差する領域:第14回 国家と資本の関係をどうとらえるか? ではなぜ、グローバリゼーションによって国家が消滅するなどというような安直な見方がもっともらしく展開されていたのだろうか。それは国家と資本の関係がうまくとらえられていなかったからである。国家と資本を対立したものと見なす発想がそこにはあった。共同体(国家)とその外部(資本ないし市場)という図式もその一例である。
そもそも資本は国家の外部というのが誤りだろう。国家の捉え方も資本の捉え方も誤れば、対立と捉えてしまう誤謬が起きる。
現在国際的に流通している通貨で国籍のない通貨などない。あるとすれば、セカンドライフの中でのリンデンドルぐらいなものじゃないだろうか。それとて現実のドルと交換可能なのだから間接的に国籍がある。
他は全て各国の中央銀行によって統制されている。グローバリゼーションのエンジンはそもそも国家なので、最初から対立しようもない。
グローバリゼーションとは、〈暴力への権利〉と〈富への権利〉という二つの〈権利〉がともに再規定されていくプロセス
などと訳の分からんこと言っても埒がないだろう。萱野氏はそもそも「再規定」とは何かということを今のところ何も語っていない。前回で、
所有権は、なんらかの富(土地・モノ・カネ・ヒト・知・情報……)を特定の人間が自由に処分することを保証する。そうした〈富への権利〉が市場流動性をそなえたものへと抽象化され、再規定される
と書かれているが、これの一体何が再規定なのだろうか。こんなことは通貨が発明された太古の昔からそうだったろう。通貨が発明された時、国家と呼ぶにふさわしい国家はなかったかもしれないが、通貨が発明された時点で何らかの共同体(国家)を前提しなければ、通貨など生まれようがない。中央銀行ができていたなかったに拘らずだ。共同体なくして通貨が持つ信用力って発生しようがないだろう。
つまり、出自の時点で通貨・資本は国家の双子の兄弟なのだ。国家と資本の関係は太古の昔から何にも変わっておらず、グローバリゼーションによって国家がどうのこうのなど最初からナンセンスだ。再規定もへったくれもない。以前にも書いたけれど、「マネーは国際化するほど国籍性が強まる」のだ。
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Posted by y0780121 at 13:07│Comments(0)TrackBack(0)clip!

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