吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

現象学に見る、レヴィナスの問題提起 ページ2

 しかし、ここにも、手続きの問題がある。つまり、手続きこそ、礼節こそ、困っている人を救えないのではないかという問題である。無礼講の様式そのものも、上下なしのこの世の在り方を体現しているではないかと考える。今現在の生活に、宗教があるのは、なぜだろう。 この世のすべては、現世の手続きに、託されるなら、手続きは、人にとって、障害になり得るだけなのである。そして、手続きとは、何だろうという問題を、ようやく今、知ることができる。 すなわち、手続きとは、その目的、時勢、状況によって、変えなければならない事柄であり、この手続きの問題こそが、社会学でもなく、法学でもなく、哲学の問題ではなかっただろうかという問題である。マルクス主義やヘーゲルの歴史観を生んだ手続きは、生んだことが第一義に置かれたのであって、レヴィナスは、それを勘違いして、この世のすべての解決と考えたのである。マルクス主義やヘーゲル歴史観を生んだ手続きが、そのまま、政治を生むとは限らない。レヴィナスにおける、政治の問題も、政治という分野の問題ではなく、政治を生んでいなかったという問題であったような気がする。 つまり、マルクス主義とヘーゲルが生んだ政治の脆弱性、あるいは、偏向性こそが、問題とされなければならないのだろう。そして、マルクス、ヘーゲルが、一つの偏向自体を意味するものでなければならないことを、レヴィナスは、哲学という不言性を備えている手続きに、課したと言えるのではないか。

現象学に見る、レヴィナスの問題提起 ページ1



アンリはレヴィナスの外在性を、ヒュレー的問題として、マリオンは内部性の問題として考えていることは、レヴィナスの過ち以前のプロブレマティークとして在らしめてている。

このことは、レヴィナスが、スキャンダラスである以上に、二人のこうした定立ということは、現象学以前の問題への必然性の有無を、問うことだろうかと思われる。

ドゥニーズは、現象学の意識の体系は、完結していて、精神の対象には、プロセスを経ずには、一致しないことを述べ、レヴィナスの志向性も完結していることを示す。

人をリスペクトすることは、いいことだと思う。リスペクトをして得るものは、大きいし、リスペクトしないことと比べると、雲泥の差だ。

ドゥニーズは、意識の対を、『精神の現象学』の注釈者が意識、自己意識、絶対知に配列したことに関わるとしたが、現象学、そして、ヘーゲルに、ヘーゲルと同じく、「意識から精神への発展」、すなわち「意識の歩みの連続性」を強調する。


哲学者というのは、芸人に似ているなと思うことがある。それは、考え方に手続きを踏むところかはだろうが、しかし、哲学の手続きは、現実の法律などのような手続きではない。手続きが面倒臭くて、先送りされてしまう問題がある。

とすれば、現実の手続きに限らず、ドゥニーズが言うように、哲学自体の目的があるならば、その目的が損なわれ、何の解決者でもない、芸人となっていることは志向性そのものだろうし、もう一つの現象学の問題であるだろうが、過去の志向性のみが問題とされていると思う。

ドゥニーズは、現象学が持つ志向性の根本的解決として、ヘーゲルの『精神の現象学』に、その解を求める。それは、意識と、内容である概念とが、結合され、自身を拘束するということである。このことは、彼が『精神の現象学』で引いている「このまだ残っている対立の外観は、移行そのものによって、言い換えれば手段によって止揚される。」という「三段論法に関わる思弁的手段」を、思考は自らの道具であるということが止揚するということである。(Ⅰヘーゲル「『精神の現象学』における「理性」」『現象学と形而上学』P.58)

ギイ・プランティ=ボンジュールは、『精神の現象学』において、「「現象学」とは「経験の学」に等しいと考えざるをえない。」と、述べている。(Ⅰヘーゲル「現象なき現象学」P.70)

つまり、「経験は、ヘーゲルが熟知していたカントの概念である。しかし、自分の経験理解をカントのそれに対比させようとするときにヘーゲルが強調するのは、カントは、闘争、労働、家族、経済生活、芸術生活、宗教的生活の経験といった複数の経験がつねに問題になるということを理解できなかったということではない。ヘーゲルが言っているのは、自分の哲学は、カントの哲学よりも多くの領域を含んでいるから、自分はカントより優れている、ということではない。自分がカントより優れているのは、カントがその哲学的反省を経験の可能性という超越論的な概念に限定したのに対して、自分、つまりヘーゲルにとっては、経験という概念は現象学的概念であるからだと主張しているのである。一方にとっては、起源は可能性のア・プリオリな条件であるが、他方にとっては、起源は現れることにおいて自身を与えるものの現実的な叙述なのである。」というわけである。(Ⅰヘーゲル「現象なき現象学」P.72)

人は、どうして無礼講に憧れるのだろう。衣食足りて礼節を知るというが、すでに、衣食足りた状態では、力がでないし、つまり、ハングリー精神でもってしか、ことを成し遂げられないという、見解をきく。


『現象学と形而上学』
原書名:PHENOM´ENOLOGIE ET M´ETAPHYSIQUE(Marion,Jean Luc;Planty Bonjour,Guy)
マリオン,ジャン・リュック〈Marion,Jean Luc〉 プランティ・ボンジュール,ギイ【編】〈Planty Bonjour,Guy〉 三上 真司 重永 哲也 檜垣 立哉【訳】
法政大学出版局(1994/03/18 出版) 375,8p / 19cm / B6判

市民感情という存在について

 最近、人権侵害が、日本では横行している。一週間で辞められた、震災復興委員会の松本大臣の言い草といい、雇用法といい、議員の女性の割合といい。しかし、女の人は、何を毎日考えているかわからないので、こっちから尋常な人なのか、聞いてみたいが。これも、人権侵害か。

 人権侵害が横行しているのは、市民社会が破綻してる証拠である。ここは、市民の手によって、人権侵害だと思う事項を国会に提出したらどうだろうか。裁判にかける手前の事柄についてまとめると、頭の中がすっきりする。国会でなくても、市民の手による、公的広場を設け、話し合いを広く市民に知ってもらう。当事者に来てもらい、話し合う場所があってもいい。

 そこでは、職場の悩みも、国歌国旗掲揚問題も、当事者双方に来て、話し合ってもらう。勿論、双方、社会意識が高くないとできないことだが、社会意識を高めるきっかけにもなっていいと考える。社会保証や、節電、災害避難。他にも、話し合うべきことは沢山あるのだから。

 市民で話し合う場を設ける必要性が、社会の複雑化を伴って浮上してきているのは確かだ。前松本大臣の言葉ではないですが、市民感情を市民のコンセンサスまで高めなければならない。社会の複雑化で、市民意識を放棄している人達が多くいることを重く考え、市民の意識を在らしめていくことが求められているからだ。

 市民感情と法律解釈は、異なることがある時がある。京大入試のカンニング事件が、いい例だと思う。山形の家庭裁判所は少年を不処分にしたが、ただのカンニングにかかわらず、その方法の新奇さから、ずいぶんと、さわがれました。これは、カンニングなので、通常、罪量は問題にはなりませんが、刑法に抵触する犯罪に関しても、法には、法の罪の咎め方があり、情状酌量だってあります。 http://t.co/gBnAyIf

 市民感情が正しいと思う時も、法律と食い違う。被害者の方の感情は、なおさらです。市民には、市民の考え方があっていいと思うし、それが、新しい時代の考え方にもなってきている。この新しい動きを、大事にしたいと考える必要もある。

 市民感情と国の政治(裁判所裁判官の判決)の感情が違うのが、今話題の原発の問題。裁判官が受けることは異例であるテレビインタビューで、原発問題に関して、裁判官は、次のように言っていた。原発に反対するという、歴史を変え前例をくつがえす判決は、責任を伴うので判決しにくいと。国政も、全て正しいとは言えないし、大きな問題を覆すには、困難もつきまとう。

 しかし、原発問題は、一国の問題ではなくなってきている。イタリアも、早々に、国民選挙で、脱原発を決定したし、【RT @sohbunshu ドイツが政治主導で原発全部を止めた。】という、新しい動きを生み出した。

 これに対して日本の議論は、ヨーロッパ諸国は、隣国から電力を買えるから、原発を手放せるのだという地理的条件による、脱・反原発への反論もあれば、一方で、日本は、原発を、他の国の標準で設計するには、地震の多い土地柄という地理的条件を忘れているというような異論もあり、市民感情というよりは、国政を安易に憂慮するような似非国民感情になっていて、一筋縄ではいかない。

 日本でも、市民感情は、原発を止めてほしいという人が大半だろう。だが、経済優先の思索が、国政の感情である。しかし、これからは、市民感情をまとめ、整理していくことが必要なことも確かである。

 日本では、原発問題での市民感情は、国政を止められない、第二次世界大戦の時の左翼のようであるらしい。市民感情と国政の衝突は、こんなところでも、続いていたのだ。

 市民団体が頑張って、裁判にまで、持ち込んだ、小沢一郎献金問題も、市民感情の暴走と揶揄されたが、一つの受け入れるべき、現実となった。市民感情の暴走を作ってはいけないが、市民感情を、コンセンサスを高めていく必要もある。

 当たり前だと生活を受けとるだけでは、享受者に過ぎない。経済の場においても、享受するだけの消費者社会に変わりつつある。香山リカ(http://goo.gl/4UIvR )ではないが、生活自体を、リフレッシュすることが必要だと思うが、一方で、確かに、メッセージ性のない人が増えてきたし、社会参加に億劫な人が増えてきたのは、今に始まったことではない。しかし、何らかの反省をすることは大切だし、そういう自覚症状に気づきはじめてきたは新しいことと、過保護かもしれないが無理矢理でも、肯定的に捉えていくことは、社会的にも道義的にも必要なことである。享受するだけの生活ばかりしていると、みんなの社会を支える柱になれなくなってしまうと反省することは、大切なことである。社会参加をする機会を持つことは、いいことである。それが、反原発や脱原発であっても。

 市民の新しい道は、これから、始まるのではないかと考えるし、始められなければならないのだった。

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