しかし、ここにも、手続きの問題がある。つまり、手続きこそ、礼節こそ、困っている人を救えないのではないかという問題である。無礼講の様式そのものも、上下なしのこの世の在り方を体現しているではないかと考える。今現在の生活に、宗教があるのは、なぜだろう。 この世のすべては、現世の手続きに、託されるなら、手続きは、人にとって、障害になり得るだけなのである。そして、手続きとは、何だろうという問題を、ようやく今、知ることができる。 すなわち、手続きとは、その目的、時勢、状況によって、変えなければならない事柄であり、この手続きの問題こそが、社会学でもなく、法学でもなく、哲学の問題ではなかっただろうかという問題である。マルクス主義やヘーゲルの歴史観を生んだ手続きは、生んだことが第一義に置かれたのであって、レヴィナスは、それを勘違いして、この世のすべての解決と考えたのである。マルクス主義やヘーゲル歴史観を生んだ手続きが、そのまま、政治を生むとは限らない。レヴィナスにおける、政治の問題も、政治という分野の問題ではなく、政治を生んでいなかったという問題であったような気がする。 つまり、マルクス主義とヘーゲルが生んだ政治の脆弱性、あるいは、偏向性こそが、問題とされなければならないのだろう。そして、マルクス、ヘーゲルが、一つの偏向自体を意味するものでなければならないことを、レヴィナスは、哲学という不言性を備えている手続きに、課したと言えるのではないか。