吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

スピノザ

アドルノによる、ヘーゲルの「文章」論への、「違論」

 デカルトや、スピノザや、ライプニッツや、「現象学」だと、真理が導き出される質のものではないというのが、捉え方として、正しいだろう。カント、ヘーゲルになると、「真なるもの」は、少しは、証明され得るということになる。

 前者の一人である、デカルトは、「真」について、次のように、言う。「自然の光、即ち神から我々に与えられた認識能力は、この能力によって捉えられるかぎり、即ち明晰判明に認識されるかぎりでは、真でない対象を捉えることは、決してあり得ないということである。」とした。

 デカルトのレイアウトは、スピノザ、ライプニッツ的な、汎神論だと思う。

 ヘーゲルの場合、やっぱり、「真なるものは全体である。そして全体とは、自分を展開することによって自分を完成してゆく実在に他ならない。」※2と言い、「真理」は、「全体」、「完成」という「程度」によって、図られる。
 ということは、少しは、真理は、証明され得るものである。

 デカルトの「認識」論を、非常に迂回して成り立った、ヘーゲルの観念的把握は、「程度」という概念を導入することになったけど、ヘーゲルは、もはや、「現象学」を標榜しなくなったと言える。

 ヘーゲルは、デカルトの「認識」と「良識」との間を往復するようになったのであり、ヘーゲルの哲学は、その為に、「観念」の問題にならず、哲学という「比喩」の問題になる。

 ヘーゲルは、『精神現象学 序論』という著作で、「現象学」について、次のように、述べている。『精神現象学 序論』は、いたって、自己言及的テクストなんです。
 「この現象学において精神が自分のために用意してきたものは、知識のエレメントにほかならない。以後はこのエレメントにおいて、精神の諸契機が、対象は自分自身であることを知っている[単純性の形式](点ルビ)において、展開されることになる。それらの契機は、もはや、存在と知識との対立に分解することなく、知識の単純性のうちにとどまり、真なるもの本来の形式における真なるものであり、それらのあいだの差異もただ内容の差異であるにすぎない。こうした諸契機がこのエレメントにおいて有機的な全体へ組織されゆく運動、それが[論理学](点ルビ)あるいは[思弁的哲学](点ルビ)である。」※3

 すなわち、デカルトとヘーゲルとの間には、デカルトが「良識」的なら、ヘーゲルは「認識」的であるという、「差異」にもならない「差異」があるだけである。

 ここに、ヘーゲルの鈍さを見ることができるのだが、アドルノは、その原因を、思想の存在に見たが、デカルトの「良識」の問題を、ここに見ることが正しいだろう。

 カント的市民社会は、「主語」と「述語」の文体からできていて、「コギト」も、この「主語」である「主体」から「止揚」されているが、「歴史」からは、「止揚」されえない。

 ヘーゲルを、「文体」論から見るアドルノの試みは、それ自体、「歴史」を、市民で止揚する考え方、方法になるだろう。文体へと焦点化するという試み自体が、すでに方法論的に成り立っている、「歴史」を「止揚」するという方法として考えられるのである。

 ヘーゲル自身も、「認識」論と、「哲学」の叙述についての齟齬を語っている。すなわち、真理の現実化は、概念化ということになるが、哲学の叙述には、「感情」と「直観」(ヘーゲルが、ここで、「思考によって分離されたものをいっしょくたにする」と、言っている意味。)が要求され、精神世界にたち戻り、「反省」を以って、「実在に対する感情を仕立て上げる」べき、つまり、「洞察よりも信心を与えるべき」だと。※4

 ヘーゲル自身の信仰告白として捉えられてもおかしくないところだと思うが、これは、ヘーゲル自身が言う「喰いついてくるのを誘うための恰好な餌」であり、また、ヘーゲルが、「教養」について論じた直後なので、デカルトの言う、「良識」として捉えて、おかしくない。フッサールなんかとは、異なるところだと思う。

アドルノは、ヘーゲルが、外的歴史を、内的歴史性にすっぽり呑み込んでいることが、よく分からない※5と言っているが、原因は、ここら辺なのだと思われる。



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デカルト的省察~3~


「古い主体」にとっては、「ジャンル」は、「暴露」に似た何かだと思う。

 一般的には、それは、「良識」として片付けられ、「日常」においては、本質を含む、装飾品以外のものとして考えない見方である。

 つまり、「悟性」とは、前「歴史性」を、悟ることであり、それは、ラカンの言う「象徴」を生むことと、何ら変わりはない。

「ジャンル」とは、「現在」=「過去」を、常に、「良識」=「伝統」へと「再生産」させる「思考スルモノ」である。「ジャンル」によって、「消失」された「生」は、既に「ジャンル」からの引用だったということになる。

「ジャンル」が認識される現場には、「需要者」の「存在」という意味での、そういった「何者か」「某か」の「価値観」という意味での、「現在」が「反映」されていると考えられる。「現在」を認識される「過去」とする(異化する)「ジャンル」は、デリダに倣い、「記号論」的に考えらるわけである。

「読者(需要者)」としての「存在」は、「context」だということである。

実際に、前「歴史」的状な態に、その「存在」を負う、様々な「ジャンル」(「文学」「歴史」「芸術」etc)は、「一つの[ア・プリオリ的完了](ルビ)であって、この完了は現存在自身の存在様式を性格づけている。」※1以前の状態を、保持していると言える。つまり、ジャンルというものは、「存在」にとっての「現代」であり、「過去」であり、時には、「未来」でもある「歴史」ということになるだろう。


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