思想的な「選択」は、「神学的」なものとして構築され得る。一方で、「美しい」くなければならないという「バイアス」が掛かる、このような措定が、哲学的「選択」である。

「把握」、「行動」のうち、「把握」の比喩として理解される。「臆見」、「遠慮」などの状況論。

「把握」と言っても、「行動」への「把握」というものがある。「バイアス」である「把握」自体を尊ぶのでなく、「行動」自体を尊ぶ、「倫理的」、「美しい」などは、「選択」自体が、「行動」としても、理解される。これは、フィヒテの「必然性」※2を前提とした分類でもある。

これらは、何らかの「知性」の比喩として、つまり、「価値判断」を介した「知性」の比喩としてある。

「知性」が及ばない事柄には、「行動」が尊ばれる。その痕跡は、「真理」によって、痕づけられる。

しかし、実際は、「選択」の問題は、「把握」の問題として、存在する。

つまり、「選択」とは、段階的に、「把握」の問題として回収されるものだからである。

ドイツ観念論が、体系的な「神学」に赴くように。

具体例として、「遠慮」、「積極的(美しい)」などについて、論じてみよう。「遠慮」は、「断る」ことによって、「良い」とされる「行動」より「把握」を尊ぶものである。「積極的」であることは、ある「問題」に対になるものとして、「良い」「行動」として、「把握」される。「ほんとうは、美しい」なども、誉め言葉である。日本は、‘心’(「美しい」)を大切にする「民族」であるとか。民族的契機ではあるのだが。

逆に、「選択」したことに対しての、「省察」の「方法」とは、常に、ほとんどは、認識することへの「選択」として論じられる。

「選択」したことに対しての、「把握」の「方法」とは、既に、体系的な構築への「選択」として理解される。

又、「神的」なものでは、「選択」には、「賭け」という要素が加わる。「場」の理論というのは、無意識的であり、「神的」である「賭け」に支配されている。又、「選択」自体が、「賭け」を選ぶことはあり得る。


※1 そして、もう一つ、比喩の一例。「意識の動き」が分かって面白い。

何時なんどきも、「娼婦」が、「美しい」ことに感動すること。余談(予断)は、それっきり、その「娼婦」の虜になること。虜にされて派生した事柄は、その「魔性」の「本性」は、「娼婦」だったと言うこと。「娼婦」だったというのは、「選択」を巡る「意識の動き」である。

※2フィヒテ『知識学への第一序説』『世界の名著 9』責任編集者 岩崎武雄 中央公論社 1974年9月10日 P.77~78
 フィヒテは、不可分離の「物自体」と「知性」という、「経験」に敵対し越える要素からなる、二つの「哲学体系」、「独断論」「観念論」を指摘している。この二つの哲学によると、「必然性の感情を伴った表象」は、「表象」よりさきに置かれるべき要素である「物自体」と「知性」による所産である。

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