吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

ヘーゲル

アイデンティティーの万華鏡から内在性の欲求へ

 ヘーゲルの外延性は、マルクス主義やナチスを呼び戻し/生み出しましたが、それは、ヘーゲルが、共時性や事物の本質(哲学の本質でなく)を論じたあまり、統一か革命かのあいだで大きく心が揺さぶられ、民主主義の合意を軽んじ、何らかの前進というものを、一つも、達成しなかったからであろうが、「概念」から価値の判断に移行しなかったからとも、言える。

 こうして、われわれは、安易なる迷妄を探らぬように、「概念」の外在性から離れ、内在性へと、向かうのである。

 外在性を現す「概念」について、マリオンが、「偶像」という言葉を用いて、表している。「もしくはまなざしの落下点」であると、すなわち、「偶像が現われるときには、まさにまなざしが停止したばかりである。偶像はこの停止を具象化するのである。」と。*1この、死んだばかりの視線にのみ現れる「偶像」とは、あるべき認識の落下速度を表しているのかもしれない。

 そして、「偶像」は、あるべき認識から、現存在のほうへ寄り添うようになる。「[現存在]の神的な機能として、偶像は、[現存在]のつねに有効な経験の指標を提供している。」*2

 マリオンは、「概念」に対して、マリオンは、「イコン」について、考える。一方で、「イコンは見ることから生じるのではなく、見ることを生じざせる。」*3つまり、見ることを落下させないために、現存在から離れて、世界を見るという行為である。

 国家においての、「概念」の理解は、富の分配や、何らかの誇りを可能にするが、価値ではなく、あるひとつの特有の世界観を生んでしまう。つまり、現存在からの連続である世界観が人間存在を越えてしまうのである。それは、民族のアイデンティティーにはなるが、主体そのものを拘束することになる。つまり、偶像に隷属することに他ならない。

 「概念」の理解は共時性を理解することになるが、共時的存在を放棄することにつながる。こうした断続的なものの切断は、国家という概念を、実存的なものにしてしまう。こうしたアイデンティティーを越えた罠は、ポリシーを生み出したのだが、それだって、国家のアイデンティティーに縛られるものでした。


 ここに足りないのは、 「観念」における「客象的完全性」(デカルト)により、神を呼び込む、妥当性だと言えないか。マリオンさえ、迂回して、西洋哲学史のなかで、あるいは、神学的思考のなかで考えた現象学を、そっと、黙るという行為の外に出て、哲学の思考のなかで、考える。( ボンサンスの為に… ~1~ http://t.co/KZJTFpE)この妥当性は、前進を意味するだろうし、初めから、対外性を持たないものであり、マリオンのような神学的迂回を避けている。

 さて、ヘーゲルの終焉は、対外性の終焉である。それは、良い意味で、世界史の終焉を既に先取りすることで、歴史を終焉させるのである。


 これと共時的な空間とである流通とは、外を無くすこと。従って、流通とは、内部構造そのものである。外部を消費しつくして、内部にした筈のわれわれは、再び、外部を外部と認めるのは、内部ではない外部であった。内部として、取り込むことを止めた外部は、神学的な展開を待つまで、外在性として認められることになかったのである。

 

*1 ジャン=リュック マリオン『存在なき神』Jean‐Luc Marion 原著者、訳者永井晋、中島盛夫 法政大学出版 2010年8月 *1P15

*2 ジャン=リュック マリオン『存在なき神』P39

*3 ジャン=リュック マリオン『存在なき神』P23


民主主義と自由主義の違い

 開国が国家の構築の時期に生まれたように、歴史とは、とりもなおさず、一回性のことであり、前進のことである。

 気がついてみると、民主主義とは、戦後期に、アメリカから譲り渡された概念として君臨している。未だに、民主主義を追い回し過ぎると、偏った自由主義の道を、脈絡なく歩むことになる。

 丸山は、天皇制批判をしたことで、結局、建国の一回性を論じたことになる。

 その一回性的な出来事が、様々な可能性として存在することは、天皇制批判という、丸山がライフワークとして選んだ研究を支えることになったわけではあるが。

 そして、丸山がこだわったのは、こうした一回性であったような気がする。

 日本における民主主義も、敗戦時の一回性のものと考えることはできる。これは、ヘーゲルの一回性から、考えるということである。すなわち、民主主義への適合は、段階的なものとして捉えなければならないということがある。しかし、日本人は、民主主義を、段階的なものと考えず、便利な政体のようなものとして、考えてきたと言える。まさに、普遍的な、ヘーゲルの一回的な歴史の成果として考えてきたのだった。

 やはり、政治とは、アクチュアリティーのことではないか。

 でも、文学研究は、プルースト的な主観やスピノザ的な視野に脱出する、その時代時代の人間の条件を、常に模索してやまないところがある。

 しかし、たとえば、心のやましさは、一人では解決できることではないので、常に文学は政治に向かう、そんなふうにも、考えます。だから、文学は政治の礎とも考えます。志ある人と話すのは、楽しいですね。そう考えさせられるのは、自然なふうに感じる。

 丸山は、戦後、天皇制の一回性を論じたが、肝心な民主主義を問題にはしなかった。

 しかし、民主主義こそが、議論する上での、根幹なのです。民主主義は、脱構築を含む何かのような気がする。

 日本のポストモダンの騎手たちは、これまで、自分たちが、何を、やってきたのか、提示すべきである気がするのだが、どうだろうか。

 そうした提示のなかにこそ、本当の民主主義、あるいは民主主義の成果があるのではないだろうか。

 そういうわけで、民主主義は、民主主義以上のものを、意味している。

 一方で、民主主義は、停滞を意味することがあるということである。

 こうした国際的に幅を持った考えのなかで、あるいは、場のゆらぎのなかにおいて、ネグリの帝国論などの議論が始まっているのだろう。

 しかし、帝国論などの、このような、新しい議論に、決定的に欠落しているのは、本当の民主主義である。

 なぜなら、現代においては、既知の概念を確認し、広く視野を持つというより、前進していることが必要とされているからである。帝国論のような議論は、自由主義を、助長させるだけである。
 
 だが、歴史を振り返ると、戦中の左翼思想研究のアクチュアリティーは、後鳥羽上皇の歌のごときに、文学研究として、拝見されるのは、事実です。現代の市民主義も、国家の縛りをうけている。かつての左翼のようで、前進と言えるのかと考えますが、帝国論は、左翼思想が叶わぬ夢だった帝国主義の時代のコンプレックスを、現代の自由な思想の中において、リバイバルし脱構築し、超剋するものなのかもしれませんね。

 そして、帝国論も、ヘーゲルの歴史の一回性の中にいることには、変わりません。

 冷戦、フランシス・フクシマの歴史の終わり、冷戦後のパワーヘゲモニーも、その実、このヘーゲルの歴史の一回性の中にあるのですが。

『マルクスその可能性の中心』柄谷行人から、マルクスの脱構築へ


柄谷は、『マルクスその可能性の中心』の時、マルクスを論じることは、テクストを論じることだと言い、テクストの意味ではなく、テクストに宿る論理に向かった。

それは、何を意味するのか。柄谷にとっては、マルクスのテクストは、テクストというよりは、記号だった。織物以前の記号だった。

このことは、価値や美学などの意味を前にする時、柄谷に、それを見る場所や視点を、問題にさせている。マルクスには、彼は、流通経済を問題にする。そして、意味を、無意味なものに変換する。そして、そこでは、享受する者とされる者だけがいるのである。

柄谷行人の記号論的見解に、以下の疑問を導き出せる。なぜ、人は、搾取されるのか。いや、資本家により、搾取されて働くのか。マルクスは、労働により、排斥されると言う、柄谷もこの事を引用するが、労働者は、最初から、排除されていたので、排除されて働くのである。つまり、労働以前に、排除するものがあるのである。

つまり、その資本家が、労働者を搾取するのではなく、資本家さえ、排斥していることが、労働者を排斥している。労働者も資本家も、等しく、排斥され、何らかの外にいるのである。

つまり、外にいるからこそ、他者であるからこそ、蓄積と信頼のゲームを行うのである。

日常において、人を排斥していたものは、市場経済において、競争の原理として、移行して、現れるのである。また、競争の原理は、市場経済において、等しく、人を排斥している。 これは、市場主義経済のシステムそのものであり、マルクスが、目をつぐんだものである。マルクスは、資本主義経済のシステムの相対化だけを免れている。

ヘーゲルに帰るわけではないが、もうすでに、醜落しているマルクスを追うことは、できない。

柄谷行人は、労働により、排斥されると引用こそするが、マルクスのテクストには、ただ排除の構造のみを見たきらいがある。その見方こそ、マルクスを脱構築するものである。柄谷行人が見ようとする論理とは、私が、抱いた疑いを必然的に導き出す。


黙らない国民 柄谷行人

 柄谷行人は、小林秀雄を越える場所を求めて、『差異としての場所』を執筆している。

 柄谷行人が、この著作で、初めに気にしていることは、小林秀雄の科学の性質についてである。この小林秀雄の科学の性質と、柄谷が比較する西洋の思想家、哲学者の科学との差異は、柄谷において、そのまま、西洋との遭遇を表している。

 その西洋との差異を、柄谷は、交通という言葉で解決しようとしている。しかし、柄谷に、真に、向かい合うことになっているのは、普遍化ではなく、対象化である。

 普遍化をすれば、論理的正統性だけで足りるが、日本において、物事を見ている以上、普遍化の基礎になるものを見つけなければ、客観視された客体のまま、思考を手に入れることはないだろうからだ。

 柄谷の言う交通とは、そうした、普遍化へ向かう基礎的なものを、本来意味する筈ではなかったろうか。

 この著書においては、コジェーブの言う動物化は、柄谷行人によれば、「"交通"の密度」という存在によって解かれる筈である。

 そして、その基礎的なものを本来意味する場所が、この著書のタイトルにもなっている「差異という場所」であるのだろう。

 だが、柄谷は、戦争においても、交通の概念を読み取っている。その例に、柄谷は、ヤコブソンとレヴィ=ストロース、二人のアメリカにおける出会いをあげる。しかし、ヤコブソン、レヴィ=ストロース二人の出会いは、戦争を否定する、もう一つの遭遇であり、出来事である。こうした事柄が、交通としてあるということではないだろうか。

 柄谷行人に、そうした曖昧な概念の把握があるのは事実だが、その筆先は、常に、交通を遮断する観念や体系に向かう。

 柄谷行人は、その筆を西洋の哲学、思想に向ける。そして、柄谷の筆先は、西洋哲学自体が自壊する過程で辿ることになった、ポストモダンの道程を辿ることになったのだった。

 その過程で、柄谷行人は、文体を否定する。そして、柄谷行人が文体を否定しようとする時、ヘーゲルの文体をピックアップしている。ヘーゲルにおいて、文体とは、形式と内容の表裏一体を意味しているし、そのことは、小林秀雄にも通じることである。これらのものが、柄谷が批判しようとしているものである。柄谷によると、文体とは、「真理」への闘争であり、個性という幻想が付着する、単なる織物である。文体とは、唯一無二のものとされる。

 このことは、柄谷にとって、交通が遮断された後の交通を意味する。つまり、交通の形そのものであり、形骸化された交通そのものになっている。

 形骸化された交通とは、人間の形以前に交通があるという事態である。柄谷は、こうした偽りの人間の価値に、疑問を呈すのである。
      
 ポストモダンの走りであるサルトルまでは、文体、即ち人間の形に意味を有すことを、常としていたし、そのことの存続を価値としていた。柄谷は、マルクスの交通を引用するが、マルクスの交通は、ヘーゲルの思想、即ち文体の凡然化である。それは、文体からの脱出ではあるのだが、一方で、未だ、一つの思考への換骨脱胎である。

 柄谷は、マルクスと同じように、ヘーゲル文体を否定し、小林秀雄の文体を否定しようとする時、日本文学の場に遭遇している。

 そして、日本文学を迂回し、柄谷行人が証したのは、柄谷行人が、黙らない国民の一人であることに他ならないということである。そのことは、西洋のポストモダンが、黙らない国民の出現に他ならならなかったことを意味する。それが、柄谷の「発明」であり、交通である。このことを以て、時代への決別は、思想への決定的な決別となったのである。
    

民主主義の「形」一.ネグリの「帝国」は、西洋中心主義を感じるので、レヴィナスの「他者」に戻るということ。

 民主主義の台頭は、建築家であるアイゼンマンに、マルクス理解へ向かわせるものであった。同時に、デリダにおける脱構築が法\権利を内包しようとすることも、同じような事態として、伺える。

このような民主主義の波は、コジェーブが、ルソーによって、主体を読むことから始まっている。このことは、フランシス・フクヤマによって、「歴史の終わり」として論じられ、ネグリによって、デザイン化された。

デリダは、「法\権利」を、場に持つことにおいて、イデオロギストだが、イデオロギストというのは、「脱構築が起こるのは、正義の脱構築不可能性と法\権利の脱構築可能性とを分かつ両者の間隙においてである。脱構築は、不可能なものの経験として可能である。」デリダ『法の力』P.35、ディコンストラクティビズムという手法自体をも言うのだろうし、民主主義政体の台頭を、背後にしている。

 民主主義か国家主義かで、「自由」の足元が、その起源が掬われようとする時、脱構築が、ニヒリズムではないということを、デリダは、記すようになる。「(1)記憶を前にしての限界のない責任\応答可能性(responsabilite´)の感覚。限界がないのであるから、それは必然的に過剰であり、また計算不可能である。そこからでてくる次のような使命。 すなわち、正義・掟・法\権利といった諸概念、そしてそれらに自分を担わせ、それらに沈殿し、そのときから程度の差はあれ、読み取りのできる状態や前提されているという状態に置かれつづける価値・規範・指示、これらの歴史・起源・意味、したがってさまざまな限界を想起すべき使命。 正義という名で、一つならざる言語のなかでわれわれに遺贈されたものについて言えば、ある歴史的で解釈するのに適した記憶に対する[使命]が、脱構築の中心にある。」『法の力』P.46

 なるほど、「自由」の足元を掬うのは、「法\権利」でなく、「他者」である。デリダは、「法\権利」か「他者」を論じようとする時、「法\権利」を選ぶのは、そこに、「正義」の存在があるからである。

ネグリの「帝国」は、ハイデガー的な、西洋中心主義を感じるので、レヴィナスの「他者」の規定に戻らなければならないと思う。

外に開かれた秩序の構築も必要だと感じる時、レヴィナスを有意義だと感じる。レヴィナスは、ハイデガーを、次のように、批判する。

「したがって、われわれは、最初に、孤独を他者とのあらかじめ前提となる関係のただ中で考察するハイデガーの考え方を棄てさることにする。」『他者と時間』P.4と、批判している。

「[存在][l'etre](横書き)は空虚な概念ではなく、それ固有の[弁証法](デイアレクテイツク)をもつこと、そして、孤独あるいは集団性とは人が他人に対して抱き得る[欲求](ブゾワン)や、

この欲求のうちに含まれている他者の予見、予感、あるいは予期といった、心理学的な概念でさえもないということを明らかにすることなのである。→われわれは孤独を存在の」P.4レヴィナス『時間と他者』

孤独については、「私のなかの存在、私が実存しているという事実、まさに私の[実存すること]こそが、絶対的に自動詞的な要素を、つまり、志向性や関係性をもたない何ものかを構成するのである。」レヴィナス「〈実存すること〉の孤独」『時間と他者』P.8

「孤独が乗り越えられる状況に思いをめぐらせてみること、それは実存者とその〈実存すること〉との間の繋がり〔関係〕の原理そのものを試練にかけることである。実存者がそこで実存を結びつけるところの存在論的出来事に向かって行くことである。実存者がそれを通して自らの〈実存すること〉を結びつけるところの出来事を、私は[位相転換]〔品詞転換〕hypostataseと呼ぶ。」レヴィナス第2章「〈実存すること〉の孤独」『時間と他者』P.10

「Geworfenheit〔被投性〕──ジャンケレヴィッチによれば、「ハイデガーとかいう人の表現」──という概念がある。」レヴィナス3「実存者なき〈存在すること〉」ハイデガー批判P.12

「Geworfenheit〔被投性〕──ジャンケレヴィッチによれば、「ハイデガーとかいう人の表現」──という概念がある。」レヴィナス3「実存者なき〈存在すること〉」ハイデガー批判P.12「ハイデガーには、区別はあっても、[分離](セパラシオン)〔切断〕はない。」P.12

「私にはハイデガーが実存者なき〈実存すること〉といったものを認め得るとは思われないし、そのようなものはハイデガーには不条理なものと映るに違いない。」P.12

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