吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

ベルグソン

時間の存続 10

a-3 外在的時間が生む生活


 外在的時間においては、構造化の失敗による統治が反映され、文化が生まれ、生活が生まれる。

 外在的時間は、経済圏を作ることで、生活圏を作る。

 生活圏において、文化を消費する者であるのが、生活者である。しかし、生活者としては、文化を享受することはできない。文化において、育まれた教育や教養は、更なる新たな人格を産む。生活と文化とは、根本的に違うものなのである。

 外在的時間が生む生活は、本質的に、統治の延長である。つまり、その時代の経済や政治体制によって生活は決まるが、生活の本質は変わらない。

b-3 内在的時間が生む文化


 そして、文化とは、構造化の延長である。

 皇帝という役割のイデア化と地位の市民による止揚が、同時に起こった姿が、宗教である。つまり、内在的時間と外在的時間とが組み合わされたように見えるが、統治がイデア化されたというより、祈りという秩序形成が主となり、生活が乗り越えられ、流布という構造化の現象を伴う。

 また、ある国において、男より女が聖徳を体現している時、男によって女が選ばれるのである。それが、この国の恋愛の構造となる。


 また、ある国において、皇帝の本当の妃である女が、聖徳の皇帝を守るために、城下町で、馬鹿で悪徳を有する振りをして、皇帝の継続を実現させたのならば、何を意味しているのだろうか。

 この場合、女は、妃でなくても構わないのだが。ただ、聖徳であるということを、選んだということだけが条件である。

 この時に、男社会は、統治を継続するか、乗っ取るか、どちらにしても、悪しき統治を意味する。

 女が内在的時間を表し、男社会が外在的時間を表したということになる。

 しかし、女の選択によって、正しい時間が選ばれた時には、新たに正しい構造化がなされる。

 妃が馬鹿なふりをしていたことが原因となって、この皇帝と妃の恋愛が悲劇に終わったとして、聖徳の皇帝を選び直したのは、男ということになり、更なる構造が用意される。

 この帝国の中では、常に、男と女の恋愛の悲劇が類型、定型として行われるとしたら、男が統治の象徴である場合は、統治の象徴として、それは、ある。そして、それ以来、恋愛の悲劇ばかりが上演されることになり、行われることになる。

 女が男より、劣っていた場合、男が皇帝から選ばれたことになる。それは、それで、新しき構造化が始まる。

時間の存続 9

a-2. 内在的時間との近似性


 内在的時間とは、君主は地位ではなく、あって然るべき役割であり、つまり、国策に思考が置かれていて、然るべき対策により、市民が市民に行動する。外在的時間は、礼儀により、概念に止揚される。

 内在的時間においては、国家の普遍性が布えんされるのに、イデアが形成される。つまり、概念は、イデアによって、オーラとなり、人の「日常」を形づくるのである。

 ハイデガーの「日常」とは、君主の地位を止揚された「日常」である。イデアにおける「日常」と似ているが、全然違うものである。

 外在的時間では、大勢の君主の「日常」のために、外部において、プランテーションを作り、その「日常」を支えるのである。

 このように、外在的時間においては、国家の普遍性は実現しないのである。

 外在的時間においては、外部に、「日常」の保証が行われない場合は、国内において、「搾取」によって、「日常」の「生活」の保証が行われることになる。

 内部「搾取」によって、資本家の形成はなされる。

 輸出入などの国交は、お互いの国同士、外在的時間を持つが、つまり、内在的時間を幾分か体現するが、本質的には、異なるものである。

 外在的時間を補填するのが、内在的時間と言えるが、国内における終身雇用だけでなく、平等原則にも則る筈である。早く、君主制の外在的時間から目覚めなければならないことは、言うまでもないことである。

時間の存続 8

a-1. 外在的時間の失敗

 概念化された地域においては、既に、一定の時間が流れており、民族性などは、生まれるわけがないのである。生まれるのだとしたら、まだ、「承認」されていない、「市民」以前の「男」や「女」、「子供」から生まれるのである。この三者は、構造化される以前の「市民」であり、然るべき「平常さ」により「市民」に入れられない場合、つまり、構造化されない場合、時と場合によっては、「法」、「権利」を象徴する。これが、民族的な特徴を持つ原因である。

 構造化の失敗は、統治の失敗であり、この統治の失敗から、すなわち、民族性から再び、統治を行うことは、不可能である。このことは、新たな、悪しき国境線をつくるのみである。

 ハイデガー-ヘーゲルの統治の時間は、君主と伴に泣くことによって、我が身を質すものである。これが、外在的時間であることは、以下のように、立証される。

 ハイデガー-ヘーゲルの「市民」による統治の時間が、外在的なのは、この統治が、君主の地位のみを止揚したものであり、統治外部へ、統治の意味を向けるからである。つまり、戦地へ、君主然として、赴くのである。

 この「承認」による統治は、国策的な本質がないので、富を求めて、外部に向かう本質があることは明白である。

時間の存続 7

a.外在的時間

 つまり、ハイデガー的な存在とは、皇帝と伴に泣く外在的な時間である。それは、人生のエッセンスでもある。皇帝の地位というものが、止揚されている。 そして、人生のエッセンスは、「権威」という形に集約されていく。

 主人と奴隷の関係による「権威」とは、「武力」、闘争による勝敗の「承認」が、先に、内面化されたものであり、自分の内側にある動物を乗り越えたものである。先に、構造化される場合は、「武力」を盾にした「承認」による維持を生むのである。しかし、この「武力」による「承認」が、統治の本質である。

 この「武力」の「承認」における統治の「武力」は、「承認」が内面化されたものであるだけでなく、外部からの無秩序を拒絶するという意味でもあり、統治の象徴として考えられる。

 しかし、「武力」による統治は、本質的に、統治を意味しているとは、構造化の失敗を意味している。つまり統治を基礎とし、いわゆる「統治の失敗」を結論とする。外在的時間においては、国家の普遍性は、作られないのである。



b.内在的時間

 一方で、 「女は、悪だ。」「女は、馬鹿だ。」と言う時、これは、価値判断ではない。概念化された場合の結果を言っているのである。これは、一つのイデア主義だが、ある男が、皇帝の位置にあるとして考えると、この一つの概念化は、構造化を意味し、国家概念の形成を意味している。このイデア主義は、ある男が、皇帝という存在として仮定されていることを表している。

 この時間は、内在的時間である。

 この内在的な時間は、皇帝を担いで、国家を形成する時間なのである。この内在的な時間においては、皇帝というのは、仮定された概念、つまり、イデアによって止揚される存在である。

 皇帝とは、あるべき姿として、概念化されたものになる。そして、吟味を重ねた姿が、イデアになる。

 皇帝という存在が仮定された概念であることにより、思考において、国家の形成が、概念化という時間として、進行するのである。

 この時、権威などのパーソナルなもの、人間関係は、この概念化によって、その地位を奪われる。

 主従関係を越えた、概念形成が進行するので、契約関係を支えるあるいは越える、裁判所などの公的機関の設置が考えられる。

 統治は、きっかけであって、「生活」の本質ではないのであり、オーラに還元される「生活」の秩序形成が求められる。この場合、秩序の維持が大事なのではなく、秩序形成の形成において生まれる概念か大事である。これらは、オーラという「生の要素」から生まれる概念である。

 プラトン、アリストテレスは、「市民的」であるのに対し、つまり、構造主義的なのに対し、ヘーゲルが、構造主義的でなく、「市民主義的」なのは、ヘーゲルが「市民」という「権威」による統治を目指しているからである。

時間の存続 6

 さて、先の二者ベルグソンの時間とヘーゲルの時間の並列に、プラトンのイデア論が形成される契機がある。 この二者は、止揚はされ得ない。この二つは、直接的な形での、過去からの知識ではないからである。 もっと言うなら、ベルグソンの知性は、もう一つの時間の質より、感覚的な知性である。

 アリストテレスのプラトン「イデア」の理解/定義は、この「哲学」の根本問題を思考している。「プラトンは彼(ソクラテス)を継承して、定義の問題は感覚的な事物に関わるものではなく、別種の存在に関わるものだと考えた。感覚的な事物はつねに変化しつつある以上、それらについての一般的な定義はありえない」※1

 つまり、このもう一つの時間の継続において、時間が主体化される代わりに、現在化されて、概念形成がなされるのである。観念からは、観念しか生まれない。また、概念からは、概念しか生まれない。

 外在的な時間じゃない次元において、サーヴィスという概念が、生まれる。概念という言葉も生まれる。概念という言葉は、価値によって、左右されていない。騎手が、君主の為に、剣を抜くということも。それは、一つの道徳の契機でもある。

 つまり、時間とは、外在と内在とに分かれるのである。内在的時間が、世界に関係してはいない。ハイデガーの時間ではない時間であると考える。

 外在的時間と内在的時間とは、止揚され得ない。

 すなわち、存在の止揚はあり得ない。外在的時間だけが止揚され得るのである。存在と思っていても、止揚されるのは、外在的時間である。

 プラトン的な国家の普遍性とベルグソンの時間とは、止揚されえないということになる。

※1ブラック,R.S.<Bluck,R.S.>『プラトン入門』 原書名:PLATO’S LIFE AND THOUGHT 訳者 内山勝利 岩波文庫岩波書店 1992年6月16日
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