吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

レヴィ=ストロース

哲学的「選択」という問題~5~◎「自由」と「選択」

「哲学」は、「選択」を体現しており、「思考」は、「自由」を体現している。

「哲学」の背景には、「状況」があり、「思想」の背景においては、「無限」が置かれている。

「選択」という問題は、「理性」の問題に拘わる、「知性」の問題であると言える。そして、「知性」とは、「場」の理論にもなりうるものである。

 ポパーは、ラッセルに代表される、「ロック,バークリ,ヒューム,およびミルの名と結びついた偉大な伝統」のもとにある「イギリスの認識論」を評価し、カント以後の、「ドイツ観念論」を「邪道」とした。ポパーにおいて、「観念」論は、「妥当性」のなかで、ひとくくりに纏められてしまうのだろうか。

 ドイツ観念論の全体を見ると、「選択」という契機において、「科学」的でなく、「倫理」的である故に、背後に、無限があるため、「自由」論的であると言える。※3つまり、ドイツ観念論は、「思想」の契機を分析するのであって、「哲学」の契機を分析するのではない。

 シェリングは、実際の権力を、無限の権力に並べ、権力という、自由である有限の無化を言う。しかし、彼は、無限という神の下に、自由を携える人の姿を想像する。だから、自由は、対立物なのかと、彼は、問う。つまり、思想の契機は、本当に、体系的知ではないのかという問いである。思想とは、権力を内在していることによる、既に体系的な知ではないのか、体系的に内在された知ではないのかという問いである。これが、知の契機である。

 しかし、命題として措定された、一般的名称である「汎神論」は、万物の内包を意味するが、それが、本質的結びつきであるかは、自由の現地からは、否である。

 シェリングは、存在者が神から「惹き起こされたるものはそれ自身としては無である。」と言うが、「惹き起こされたるもの」は、「無」なのだろうか?

 日常から、組み立てられるものではないだろうか。その時に、体系は、状況的把握として、留まり、このような時、体系は、思考の源流ではあり得ない。これが、自由論の骨格である筈である。

 しかし、先のように言う、シェリングは、体系的哲学と、何ら変わらない。シェリングの言う「自由」も、二律背反性において、理性や、体系の哲学を補完するだろう。

 つまり、真に、哲学的なのは、ベルグソンの哲学であるということが分かる。

 ラッセルのように、「選択」という契機において、「科学」的であるならば、真に「科学」的だということしか言えない。真に「科学」的という言葉は、方法論的な言葉ではないが。

 しかし、「選択」は、「科学」的であっても、「倫理」的、つまり、「自由」的であっても、一つの「選択」と呼ばれる。

 ひとつの例として、そして、これは、「科学」的比喩の問題であると思うけれども、「~である。」という語尾は、前後の文に明証性があり、「科学的」な「選択」と言うことができるが、「~ではないか。」という語尾が、ひとつの文脈の「倫理」的な「選択」と、文脈の中の判断が指示してあり、無限の中から、一つの判断が提示されたと言える。この判断を選択する力、選択が則った理性が、真理であるのである。つまり、真理には、「倫理的」な「選択」を有しているのである。このことを考えると、ここにも、「選択」という問題の使用の重要性が窺われるのである。※4


※3ドイツ観念論は、フランス革命に比せられる。カントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルが代表的な人物だと言える。

※4 そして、もう一つ、比喩の一例。「意識の動き」が分かって面白い。

何時なんどきも、「娼婦」が、「美しい」ことに感動すること。余談(予断)は、それっきり、その「娼婦」の虜になること。虜にされて派生した事柄は、その「魔性」の「本性」は、「娼婦」だったと言うこと。「娼婦」だったというのは、「選択」を巡る「意識の動き」である。

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哲学的「選択」という問題~4~◎科学的な見方

 科学的な哲学と、科学的な見方を同じに取ることは許されない。

 科学的な哲学における、「選択」という問題は、認識哲学において、反省的なコギトの問題になるだろう。

 ベルクソンの哲学は、コギトの問題に回収不可能だが、科学的な哲学や、ラカンの<大文字の他者>において、還元が可能である。このことを論じる時、哲学は、さらなる発展を実現する。

 ラカン自身の哲学は、哲学の概念を技術的に用いるという意味で、視覚的な弁証法である。コミュニケーション枠組みののなかにいることによって、心理的な現象学の真理に到達し、科学的な見方をしながら、哲学の真理に接近する。その時、思考を道具的に有効に用いていると言える。

 思考が道具的であることは、世界においての善意を表す(ハイデガー)。

 思考において、哲学を、道具的に扱うラカンは、視覚的である。そして、視覚的であることは、本質的に、わかる\わからないという関係である、コミュニケーションの問題であるという意味で、人間的であると言える。

 ラカンは、自らの周辺に、コジェーヴの言う「純粋な現象」を、視覚的な弁証法によって、ある一定の概念を用いて、析出している。

 この析出は、科学的な見方によるものに過ぎないので、この析出が、存在論的に、有効な場合、論理が後を追わなければならない。※1

 科学的な見方への批判ということでの、もう一つの例では、レヴィ=ストロースによって宣言された、科学的な歴史主義への批判をしなければならないということがある。

 そして、反省的なコギトへ、立ち戻る必要がある。この時に、科学的な哲学と言えるのかもしれない「選択」の問題は、経験されるのではないか。

 <歴史性から反省的コギトへ 1 http://blog.livedoor.jp/y11269/archives/305078.html> <2 http://blog.livedoor.jp/y11269/archives/169996.html>

 さて、「選択」の問題に戻ろう。

 「選択」とは、つまり、運命的直観と、自身への価値判断からなされる、社会的臆見による調和を計るものである。

 「選択」という概念に対称的に置くことができる、「自由」という概念は、「明晰」さを欠いた「無限」として、常に一方に、据え置かれる。

 「哲学」について考える時、「思想」の問題ではなく、「選択」の問題が、問われているのである。


※1アレクサンドル・コジェーヴ 『権威の概念』 訳者 今村真介 原書名 La notion de l’autorite´.法政大学出版局 2010年4月 P.42

「どの理論も説明できないような「純粋な」現象が見出されるとしたら、さらに別の理論を作らなくてはならない。」P.42とし、理論の分析は、体系的であることによって、現象学的分析から形而上学的分析へ進むべきとし、存在論的水準にまで及び、諸現象の体系として分類されなければならないとする。(P.42~43)


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哲学的「選択」という根拠~3~◎科学哲学の視野

 体系的な知とは、物事を、真理へと止揚させるが、更に、真理に相向かう存在事物へと、止揚しない。そこには、常識が欠けているからである。常識がないところに、本当の知は、生まれない。

 ヘーゲルの止揚とは、同一律であり、理由律という概念に負ったものである。この「依存性」は、必然と対立するものではなくて、本質と対立するもののようである。

 サルトルは、体系的知を、「[自己への現前]presence a soi」と呼び、「平衡状態にある一つのありかた」として、考えている。「[自己]とは、[それ自身との一致であらぬ]一つのありかたであり、「同」を「一」として立てることによって「同」から脱れ出る一つのありかたであり、要するに、いささかの差別もない絶対的凝集としての「同」と、多様の総合としての「一」とのあいだの、つねに安定することのない平衡状態にある一つのありかたである。」※1

 つまり、サルトルは、真理へと向かわない「一」という存在を認める。 
 このように、体系にはならないが、かえって、真理を科学的な概念が含んでいることはあり得る。それが、科学的な哲学の存在理由と言える。


※1ジャン=ポール=サルトル『存在と無』訳者 松浪信三郎『世界の大思想29サルトル 存在と無 唯物論と革命 方法の問題』河出書房新社 1965年3月1日 P.105

「歴史性」から「反省」を伴ったコギトへ―レヴィ=ストロースへの批判 (3)

 デカルトは、自らの「コギト」を、「理性あるいは良識が私どもを人間たらしめるもの、私どもを動物と区別する唯一のものであるかぎりは、それは完全にひとりひとりにそなわると私は考えたい。」と述べている。※1
 さて、「歴史」において、「歴史」以前のものとの遭遇、つまり、時系列で捉え切れない出来事との遭遇があることが意味される。
 そこでは、同時的存在があり、「補償」という概念を含んだものがあり、「歴史」の発見という形が取られるだろう。
 そして、我々が直面している「歴史」とは、謝罪である「反省」という「過去」を含んだ「歴史」という形であるかもしれないし、純粋に省みるという「反省」が「歴史」という概念に含まれるような、「歴史」であるかもしれないのである。
 どちらにしても、「歴史」の時系列とは、「反省」という概念から生まれる得る。
 「反省」がある時、「歴史性」は実存し、「歴史」の始まりとして、「歴史」と呼ばれ得るのである。
 例えば、この「反省」は、ベンヤミンによって、以下のように語られる。 「歴史の連続を打ち砕いてこじあけようとする意識は、行動の瞬間にある革命的な階級に特有のものである。フランス大革命は新しい暦を導入した。」※2
 「ポストモダン」も「モダン」の時代的「反省」においてあり、それは、革命後の「暦」と同じ、歴史的意義てあるのだ。
 歴史的唯物論者においては、歴史は否定するべきであり、ベンヤミンによって、次のように語られる。「移行点ではない現在の概念、時間の[衡](ルビ-さお)が釣り合って停止に達した現在の概念を、歴史的唯物論者は放棄できない。というのも、この現在の概念こそ、ほかならぬ彼自身が歴史を書きつつある、まさに[その](ルビ)現在を定義するものだからだ。」※3
 現状を現状として捉え直すことができない者が、歴史的唯物論者だという批判は、明瞭で、間違っていないと思う。
 歴史を、安易に、レヴィ=ストロースのように、科学的な方法において捉えることは、ベンヤミンの言うように、停止した時制としての「現在」をしか指し示すことでしかないのである。つまり、歴史という発展を、図れない。 
 この点においては、ベルグソンは、歴史に言及しないが、時代に言及できる点が評価されるべきであり、止揚を含む、ヘーゲルの歴史主義に似てくるのである。


※1デカルト「第一部」『方法序説』訳者 落合太郎 岩波文庫 昭和28年8月25日 P.13

※2ヴァルター=ベンヤミン「歴史の概念について」 『ベンヤミン・コレクション? 近代の意味』編訳者浅井健二郎 訳者久保哲司 筑摩書房 1995年6月7日 P.660 

※3ベンヤミン「歴史の概念について」 『ベンヤミン・コレクション?』前掲書 P.661 
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「歴史性」から「反省」を伴ったコギトへ―レヴィ=ストロースへの批判(2)

 リオタールによれば、「前衛的作家・思想家たちは、言語の使用法にテロル[恐怖政治]を蔓延させた」お偉方集団による、フランスの60~70年代の文脈において、ポストモダンは生まれたと言う。つまり、この、お偉方集団は、「モダン」の側にいた「知識人たちにひとつの共通の話し方、つまり歴史家たちの話し方を課すことによって、実りある討論のできる状況を回復しなければならない」ことの趣旨を強いたということである。「『話す機械』からの挑戦に直面した大陸的思想」という存在において、ポストモダンという存在の認識がなされてきたのである。※2。
 ここで、今、この世を振り返る。テロルであった近代の思考/実態を前にして、新たな知的状況を謳っただけのポストモダンが過ぎ去ったかのようである。後は、ポストモダン批判を再燃させている、ポストモダンの側の、言語のテロルの問題(科学実証批判)を考慮し、思考をすることにおいても、我が身に省みて、「マニフェスト」者足らねばいけないので、今、不用意に、「大陸的思考」を「実体」として、振りかざすつもりはないのだが。
 しかし、言語のテロルという意味においても、ポストモダンを経由した後で、更にまた、ポストモダンの一歩手前に留まり、「反省」を生じさせる「コギト」を考えたいし、留まることにしたい。
 サルトルは「反省」を伴うコギトを、次のような説明で、現在を止揚しない、「失効的」なものとしている。このコギトを、対象を立てる意識として、次のように、説明している。「フッセルも認めているように、《見られる》という事実は、おのおのの体験にとって、全体的な変様をひきおこす。けれども、われわれはすでに示したと思うが、あらゆる反省の最初の条件は、反省以前的な[コギト](ルビ)である、かかるコギトは、たしかに、対象を立てることをしない。それはあくまでも内部意識的である。けれども、自分自身によって見られるということが非反省的な意識にとって最初の必然性としてあらわれるという点では、やはり、このコギトも、反省的なコギトと同種である。」※2
 つまり、今一度、哲学的に、「思考」という側面を考え、「反省」という概念を考えてみたい。現在を止揚する意識でなく、現在に止揚する意識である。
 何故なら、言語のテロルを問題にする時、すでに、われわれは、歴史的にも、「近代」の外に、文字通り、葬り去られているからである。
 「反省」とは、フッサールが、デカルトの成果について言及した「素朴な客観主義から超越論的な主観主義へという、根本的な転換を行った。」という主体の発明である「コギト」にあるものということになる。
 そして、このことは、質において、近代的思考である以上に、特に、時代という物差しにおいて、近代的な思考であったことを意味している。
 サルトルは、「コギト」を、次のように述べている。「コギトとは『私は考える』という意味であるが、現代哲学の用語では『私は意識する』=コギトは、意識すなわち対自存在とほとんど同義」※3である。


※1ジャン=フランソワ・リオタール『こどもたちに語るポストモダン』訳者 菅 啓次郎 筑摩書房 1998年8月10 P.13

※2サルトル『存在と無』『世界の大思想42』訳者 松波信三郎 河出書房新社 昭和49年6月1日
P.102

※3『存在と無』続きを読む
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