吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

資本主義

『資本主義はどこに行くのか 二十世紀資本主義の終焉』「序章」~2~――世界の資本主義。

 この書籍の「序章」では、各章の要約が紹介されているが、第四章から最終章第七章までを、ここで、紹介する。アメリカ、ドイツ、日本の資本主義の解析と、欲望論である。
 第四章では、平出尚道が、担当執筆している。資源・環境条件による制約から逃れることを可能にした経済システムであるアメリカ型資本主義が創出された十九世紀前半に、その創出の原動力となった地域間分業体制の構築を導いた、当時の経済政策の拠となった思想を再考。当時の経済空間と政治空間は、別のものとしてあり、拠とされた思想は、地域特有の経済利害の貫徹に基づく地域分業を主張し、政治的影響力を保持するに至った。
 第五章は、田野慶子が、執筆を担当。田野は、ナチス経済と企業との親和関係の存在を、ナチズムが「現代的」、かつ「合理的」なシステムであったことを意味すると指摘。両大戦間期のドイツの経済的「合理性」と政治的・社会的「後進性」という相反した事象からナチズムが生まれたと見解を提示。
 第六章は、上田章による執筆。上田は、情報革命の進展が、日本的経営の一つの特徴であった長期相対取引の優位性を失わせ、日本資本主義に再編を迫ったとし、オイルショック後の企業、家計の過剰防衛姿勢は、バブル発生の下地をつくったとした。バブルの原因を巡る「低金利主犯説」「マネーサプライ超過供給主犯説」を批判。グローバリズムの一環である金融自由化のなかで、政府の政策ミスと金融機関の貸出行動ミスとが重複して、バブルが発生したことが論証。
 第七章は、杉浦勢之の執筆。杉浦は、マルクスの価値形態論、交換過程論では、商品の使用価値を具体的有用労働と直接対応させたので、商品の使用価値が、他者の欲望によってしか担保されないことが見失われたとし、市場の欲望にフロイト、ラカンを参照し、市場に「症候」を見つける。
 以上が、本書の「序章」である。
 日本の資本主義に論が集中していて、日本資本主義の輪郭線が、よく理解される。また、世界の資本主義の論点も鋭く、又、的を得ているのである。




「資本主義的状況」


 アメリカ主導の「資本主義的状況」に嫌気が差し、EUも巨大化してきているし、そろそろ、日本としても、独自路線を見つけていきたいという動きもあるのは解る。安保条約協定だけで、将来像を探るより、もっと生産的な路線がないのかと世界的なことを考えるのは、しごく、当然なことである。

 一方で、すでに、A・A会議、ASEANを始めとする、地域毎の活動は、グローバルスタンダードとして定着化していることであるのだから。

 であるが、当の資本主義自体が、成熟を迎えていない状況を省みず、あまりに無考慮に違う看板を立てるのは、どうかとも思う。今、日本が欧米亜どこを大事にするかは知らないが、どこに頼っても、それも「閉塞化」の動きである。あまり、偏り過ぎるのは、良くない程度の話しだろうが…。

 ここに、引用していいか解らないが、気まぐれでやっているのか、何か思考した結果なのか批評家がやっている共通通貨も考えるアソシエーションも同じものだと思う。これは、第三勢力的思考だと思うが、一方で、かつて、帝国に赴いたロシアのような、マルクス主義自身の発展に似せた右傾化に似ているような気がしないでもない。

 現代もはや行き詰まりしか見せない、マルクス主義の批評の選択としては、時代錯誤的ではあるが、意味を求めて正しいと思う。だが、しかし、第三勢力的思考であることに意味を求めず、国単位の活動でないことを、無思慮に、やたらめったら流行らせることは、どうなのだろうか。いや、流行ってないから、流行らせるのか?確かに、流行ってないことも、不健康であると思うのだが。

 戦争が付随した革命論の時代の後に、更には冷戦の後に、「資本主義的状況」を抱えながらの対応策としてそういう論理が流行っくるのは分かる。そして、有効策であることも解る。反面、どう世を渡っていくのかも大事なことだと思うが、たぶん、それは、パワーポリティックスの閉塞感だけに籠ることを言うのだろう。ここで言う、「資本主義的状況」とは、社会主義との軋轢が、経済格差の問題に集約し始め、第三世界、国内格差も、大きくクローズアップされ、新たなるパワーポリティックスの要請が言われることを意味するのである。

 構造主義者レヴィ=ストロースは、左翼の時代を、次のように、「歴史意識の黄金時代」として言っている。「いわゆる左翼の人間は、実践の要請と解釈の図式との合致という特権が与えられていた現代史の一時期にいまだにしがみついている。この歴史意識の黄金時代は多分もう終わったのであろう。終わったのかも知れぬと考えることは少くともできるが、そのこと自体、黄金時代が偶然的状況に過ぎぬことを証明するものである。」※1

 どちらの思考を取るほうが時代の閉塞感かと言われると、そういう批評家の動きもある通り、ここで、レヴィ=ストロースが言う左翼的思考に頼るよりは、第三勢力的思考回路に頼るほうが、説得力もある。レヴィ=ストロースの言う、「実践の要請と解釈の図式との合致という特権が与えられていた現代史の一時期」を信じずにあるとも思う。

 しかし、批評家のやることは、そして構造主義よりいたずらな流行りに見えなくもないが、そのような意味もある。しかし、その歴史観は、レヴィ=ストロースによって、「黄金時代」と言い当てられているのも事実。

 しかし、やはり一方で、異なる思考も生まれるべきなのであろう。新たな動きを、期待したいものだ。

 構造主義にも残っていた悪しき西洋中心主義の伝統が、第三勢力的思考、あるいは活動の中で、通用しなくなってきているのも現実であり、喜ぶべきであり、だからではあるが、鳩山論文にあるように、流行るのはしょうがない。

 そのことを考えてみると、今、問われるべき、流行るべきと考える。

 霍見芳浩は、次のように、言っている。
 「アジアの高度経済成長の延長線上には、『アジア共通通貨』の実現を目標としておくべき。その背景となる東アジア地域での恒久的な安全保障の枠組みを創出する努力が必要だ。」。※2

 なにも閉塞感にだけこだわっているわけではないが、資本主義なんかが、開かれていると思ったら、そうではなかったということだと考えるところと、同時平行的な状況ではないだろうか。

 そういった面も合わせて、「資本主義的状況」といった問題を考えていきたい。

 つまり、マルクス主義とは関係のない形で、資本主義を考えていきたい。マルクス主義においても、日本の政治と同じで、政治が真面目に考えられず、意味がないもののように扱われている気がするのも事実。

 ヨーロッパでも、ハバーマスのような思想家には、行き詰まりを感じるし、左翼的思考より、EUのような、第三勢力的な構築が、生まれているのだから。



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