吉川由香里のブログ

世の中には、たくさん、変なことがある。が、大変なことは変えていかなければならないと思う。

革命

アラブ諸国を巡って、民主主義を考える 義務と自由 現実と理想

 エジプトを、一つの記号だと考えたほうが、ぶれない考えを持てるだろう。エジプト的性格に戻して考えてしまうと、豊かさや、いくらかの蓄えなどの余裕からきた、独立自衛の気質ということになるが、民主主義の一端と考えると、体制の変革まで余儀なくされる思考に繋がる。社会への参画ということになる。

 国際社会への参画ということが、エジプトの記号という思いを、大多数の人々が抱いた。単なる反政府運動というだけでなく、エジプトの静かなる運動は、速やかなる政権委譲を要求する。

 広がった、アラブの民主主義の運動は、民主主義へ向かうことが、正統であることを、世界に知らしめた点で、その功績は、果てしなく大きい。猫も杓子も浮かれ騒いだ日本の自由民権運動を思い出すし、ポリスの民主主義政治が、再び、政治の場に、戻ってきたような気もする。

 やはり、政治は、国民が選択するものという一つのルールと、民主主義の選択は、世界の人々を、励ましたと言える。世界は、いつも、そういった共感で、民主主義を向かえ入れているのだ。一つの共感は、多くの実りを結ぶ。このアラブ諸国の運動によって、これから、多くの議論が交わされることになったのだ。

 そして、人権の問題が、国家という大きな枠組みから、享受という小さな枠組みに、移りつつあることも、民主主義の運動の引き金になったのは、事実だろう。享受できないものがある時、非人間的と感じる、ひとつの共感において、それは、同時発生的である。

 こうした普通の人達の結び付きを忘れてはならない。普通の人達によってでしか、民主主義は達成できないし、われわれは、手助けをすることが、一番に、求められる。日本人として、手助けできることは、何だろう。人として、何をすればいいのだろう?

 日本人という肩書きより、人として、何ができるかを考えることのほうが、先決であろう。これから、共に、民主主義の道を歩むために。アラブは、つまり、普通の西欧諸国の人権を享受していないと言われる。まだ、ポストモダンの段階に至らない、モダンの段階で、足踏みをしている。

 リビアも、大規模な反政府運動が、起きている。アラブ型の政治というものへの拒否反応(アラブは、部族からnationへの歩みのなかにいる。アラブ民族主義http://t.co/PFQh9Bp)というものがあるのだろう。

 アラブ諸国全般にある、家父長的政治体系が、否を突きつけられているのである。たぶん、アラブ諸国の国民と共に、われわれは、デモそのものを語るのでなく、民主主義そのものを語らねばならないのである。

 私は、今、エジプトに興味のある者は、真に、民主主義そのものに興味がある者であると思うのだ。だから、われわれは、民主主義について、語り続け、また、語り合い続けなければならない。

 タイムズスクウェアに来てるみたいである。全てが、あべこべだ。民主主義への移行は、歴史の必然なのに、すでに、自由権や知る権利を知っている。こんな、あべこべを作った政権を許せないといった思いはある。

 まず、第一に、われわれは、現実を知らなければならない。そして、何が、理想かを、知らなければならない。理想のない、この世界で、理想を、知ることは、とってもとっても、大切なことである。

 理想がない、この世界は、何よりも、現実感覚が最優先されるからだ。現実感覚と理想とは、表裏一体の同じものでなくてはならないだろう。それは、義務と自由のかたちに似ている。

 義務を怠った自由などないように、現実感覚を離れた理想など、誰も、知らない。政府や、国家という大きな枠組みを持ち出さないまでも、これは、民主主義の原理だと言える。

 民衆は、義務のない、政府の自由に、反対することがある。アラブの民主主義運動も、こうしたなかに、起こった出来事である。そして、アラブ諸国の、こうした民主主義の運動は、理想について、語っているような気がする。

エジプトにおける正統性の問題  レヴィナス的なものからフーコー的なものへ

 革命の枠を越えて、民主主義政治の施策を取り、国民を納得させる必要があるのは当然だし、宗派やエスニックの対立ではないのだから、政治の対策をしっかりと打ち立てるべきである。正常化しつつあるエジプトに、安堵しつつ、施策を願う。

 だからと言って、中国のように、情報規制にまわってしまうのは、政治の後退だし、対策を立てれないと、開かれない政治になる悪循環を、早々に止めなければならない。

 ナハル以来の終身制という革命の伝統を維持するのも大切だが、大衆化が民主主義に進んだ良質の国民を打つのは、政治の傲慢。大衆化が進んでいるのは、アラブ諸国だけではない。エジプト暴動が終息しないとどうなるのかと思う。大衆化の政治形態を、いち早く考え、進む道を見つけてほしい。

 ムスリム同胞団も、移譲後の政権に参加をするということ。新しい政治が始まるといいですね。

 今回のエジプトのデモをについて、いろいろなことを考えてしまったのだった。

 たとえば、民主主義は、如何にして、可能かとか。また、結束の自由、運動の自由について、このことに関わっている、フーコーの認識論的問題について。つまり、革命と類似するスクラム、人の輪、団結、結束について。

 様々な形の運動を考えると、それぞれの正統性の証明は、他者を内包している。こうした正統性にこそ、他者に反映する真実、エッセンスは宿るので、明証性は、これまで問題にされてきたが、明証性は他者を措定してあるのに、こうした主体性を無視しているのは、一つの欠落と感じる。

 他者においては、明証性になり意味を持つものが、主体性においては、正統性としてはじめて意味を持つという事象なのであるが、この正統性こそ、エッセンスの源であり、それ故に、真理であり得るということである。

 この運動の場を、様々なレベルの運動を前提する、自由でなく、様々な運動の外面を対象にする正統性の問題として考えると、レヴィナスのような過ちは、決して犯さないだろうし、他者の問題も解決できる。

 エジプトの動乱においても、求められているのは、他者の不在である。 他者の不在とは、ナチズムの独裁政治に象徴されるものから、様々な運動自体における正統性の承認の問題へと、場を、変えるべきだと考える。

 勿論、正統性の問題に移行するとき、他者とは、無に解消されるなにものかであり、解消されるべきなにものかであるのだけれど。

 つまり、われわれは、他者の不在を要求されているのだと、感じるのである。

 このことは、フーコーとは逆に、人間性の復活を意味するだろうし、文字通り各々の主体性の回復を意味するだろう。 こうしたことを考えるとき、レヴィナスの外在性は、まだ、他者を肯定するような、主体性なき、思想であると感じる。

 そして、このレヴィナスの外在性の問題について同様のことは、ハイデガー、サルトル、デリダにおいて、感じることでもあるのであった。

ネットの炎上とテレビの炎上 エジプトの暴動と小沢一郎の強制起訴 

イラクでも、大衆化のなれのはての民族化が起こったが、イラクの大衆化は、日本の大衆化と比べものにならなく、民族主義の政策を取ったのは、イラクの決断であった(http://blog.livedoor.jp/y11269/archives/3462826.html)。エジプトの民主主義化も、大衆化の一種類なんだろうか。

エジプト元年。もはや、ネット上では、人権が常識化していて、はやい話、崩壊したのか? http://ptom.nifty.com/index.php?http://sankei.jp.msn.com/world/news/110129/mds1101292308024-n1.htm

人権が常識化しているというのは、ネット空間の特徴でもあるからね。その常識化に、はまってはいけないのではあるが。日本でも、それが、経済の発展で、隠されていただけだが、日常化しているわけだけど。

結局、エジプトでは、大規模デモが発生した。 http://ptom.nifty.com/index.php?_ucb_d=hbqqvcsfs2nfkbe6fl60282og86tp8u2&_ucb_u=http%3A%2F%2Fsankei.jp.msn.com%2Fworld%2Fnews

エジプトでは、ツイッターや、Facebookが、大規模デモの参加の呼びかけに使われた。エジプトは、ようやく規制に乗り出したが、規制より、独裁という怠慢が、ネット上で、通用するわけがない。ネットでの予定調和的炎上をもたらし、規模デモにつながったのではないか。

このデモは、明確なメッセージ、そして指導者を持たないと言われる。 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110128/mds1101281034009-n1.htm では、何が起こったのか。ムバラク政権とは、アンチ国家における、国家の象徴である。

 日本人には、小沢一郎のテレビ報道があるので、馴染み深いのではないか。テレビにおいての、小沢炎上は、推定無罪の原理より、汚職政治の象徴としての像を掴まえる。

小沢が、テレビとは、異なるメディアに、多く出演するのは、テレビというメディアが、政治=汚職という報道のいろはというものを、決して手放さない、民主主義の代弁者であるジャーナリスト魂=テレビの歴史を甘く見ていないからだろう。だが、政治家が、メディアを選ぶ権利があるのも、確かである。

こうしたところに、選挙を知らない炎上というものがある。選挙による民主主義より、報道による民主主義の正義が貫かれる。それでは、ネット上の民主主義とはどういうことであるのかを、やはり、考えなくてはならない。

エジプト政府は、25日から利用できなくなっていたツイッターを、27日に復旧させ、「表現の自由を尊重している」と政府当局者は話している。 http://sankei.jp.msn.com/world/news/110127/mds1101271021025-n1.htm

ネット上では、確かに、知識としての人権や民主主義が蔓延りやすい。国内の民主主義の実際や人権の不達成とのギャップがありすぎる時、ネット上は、議論の場となるのでなく、反抗への手段と化すので、中国のテンアンモンと同様に、民主化の波が押し寄せたということだろうか。

こうした民主化が、暴動という波として訪れるのを避けるためにも、議論のできる場を持つことが、または、そうした場を持つ力量を持つことが、改めてわれわれの政治に求めらていることを認める良い例として、エジプトを確認することができる。

このことは、民主化の波に限らず、ネット社会において、どの国においても求められる、一つの原理となりそうであるという憶測も立った。
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