2019年02月02日

「集団就職文学」のこと

 石牟礼道子の『苦海浄土』を手にしたころ、わたしは小説を書いていたが、この本を読んで、文学にはこういう仕事もあるのだと知った。石牟礼道子はこの本を書くために「十余年にわたって、患者一人ひとりから克明な聞き書きを記録し」てきたのだ。派手な仕事ばかりが文学の仕事ではないと、二十歳のそのころ知った。わたしは小説を書きたかったのではなく、漠然としてはいたが、世に残る仕事がしたいとおもっていた。石牟礼の講談社初版後ろカバーには、書棚を背にした四十代の著者写真があって、著者の背後に「西南役伝説」と記された四冊の取材資料が写っていた。後に『西南役伝説』として結実する資料である。ありていにいうと、『苦海浄土』よりもこの著者写真のほうに刺激を受けた。
 集団就職に関心を持っていて新聞雑誌の切り抜きをしていたわたしは、石牟礼道子のマネをして、スクラップブックを求め、マジックインキで背表紙に「集団就職定時制高校史」と記した。そのスクラップブックに集団就職関連記事を貼りつけていった。これは次第に生活に追われて一冊きりで頓挫したが、関心はずっと持ち続けてきた。

 一九九八年に小説家の富島健夫が没した。少年期に傾倒し、多少の親交を持った作家の死は、わたしに二十代のころ「富島論を書く」と約束を交わしたことを思い出させた。
 ほぼ十年がかりで地道に取り組んだ『富島健夫書誌』第一版は二〇〇九年に私家版で出した。
 二〇一七年には『富島健夫伝』を河出書房新社から上梓することができた。
 まだ書誌の改訂版を出す仕事は残っているが、この二つの仕事で不当な評価を受けてきた作家像はかなり変わってきた。少なくとも識者の間では富島評価は変化している。『週刊読書人』では宮崎公立大学の坂元博志氏が一七年一〇月に三島由紀夫、源氏鶏太とつづけて私の評伝をもとに富島を論稿の対象としたし、『文藝年鑑』二〇一八年版では川村湊氏が今年の文学界の動向に取り上げた。現在小学館からペーパーバックで刊行がつづいている大長篇『女人追憶』の作者紹介なども「代表作は『雪の記憶』『恋と少年』など」と評伝通りになっている。富島健夫の顕彰はわたしに出来る範囲では成功したといっていいかとおもう。
 で、つぎの仕事に着手することになった。もうひとつのテーマが、集団就職であった。

「集団就職文学」
 集団就職とは何か。ある年代の人ならみんなが知っているが、説明するとなるとむつかしい。カラオケ好きなら、井沢八郎の「あヽ上野駅」を引き合いにだすかもしれない。説明が煩わしいので旧稿から引用すれば、

 一九五五年、中国から引揚げ者や復員者八百人以上を乗せて興安丸が舞鶴に入港した。まだ戦後は終わっていなかった。
 この年の三月、渋谷区内の商店や工場が職業安定所の仲介で新潟から百人余りの中学卒業者を集団上京させた。翌年は神武景気であった。福島、宮城、山形など二十道県から八九八三人の中学卒業者が集団で上京した。五九年の岩戸景気には、一八五四五人。JTBのマークの入った集団就職列車が走るのは六三年のことで、一八七六一人の少年少女が学生服やセーラ服姿で上野駅や東京駅に降り立った。この年、京阪神や中京への就職者もふくめれば七八四〇七人が、延べ三百本の専用列車で大都市に送り出された。
 都内の集団就職者が一万人を割るのは、一九六七年からである。池田内閣の所得倍増計画、佐藤内閣の高度経済成長政策が日本の隅々にまで豊かさをもたらしはじめ、高校進学率が全国平均八〇パーセントに達した結果である。この頃から、中学卒の就職者、集団就職者が「金の卵」と呼ばれだした。
戦後の高度経済成長は、この若年労働力の大量な創出によってはじめて可能だった、と『集団就職 その追跡研究』(小川利夫・高沢武司編著 明治図書 一九六七)は書いている。都内だけでも二十万人の若年低賃金労働力が送り込まれたのだった。戦後の日本の技術革新も設備投資も生活革命も、この安価な労働力の存在なしにはありえなかった。
 これは、計画的組織的に農村から労働力を調達したという意味でも、日本史上例のない出来事だった。この若年労働力はほとんどが零細な企業や商店になだれこんで、未組織労働者層を形成することになった。
(「戦後史から抜けおちた」学校図書館問題研究会東京支部『GAKUTOKEN』一九九九年二月号)
というものであった。
 この集団就職という現代日本史のトピックにたいする思い入れは一九六九年からの定時制高校における〝高校全共闘〟経験で、そこで多くの集団就職者を知ったことによる。
 長いこと、集団就職があった一九五六年ごろから七二年に至る技術革新、高度成長を支えた低賃金労働者は現代文学にどう反映してきたのか、小説を中心に読みあさってきたが、これがとてつもなく貧しいのである。かつて高度成長を純文学の作家たちはほとんど小説に描かなかったと指摘した評論家がいたが、純文学でもわずかに大企業の下での労働を描いた黒井千次や『大罷業』の佐木隆三がいた。
 大衆文学では、企業社会の矛盾を描いた梶山李之、清水一行の仕事があるし、他にも枚挙にいとまがないほどある。鎌田慧は『自動車絶望工場』(一九七三)で潜り込み取材をして季節工を描いた。
 しかしその高度成長の柱となった、地方から都会へ、民族大移動とも称されるべき集団就職については大衆文学でもほとんど見るものがない。純も不純も、文学に反映しなかったといって過言ではない。文学だけでなく、手軽に教養が得られるはずの新書形式、日本史のトピックについてはほぼ取り上げられている岩波新書、中公新書の目録を見ても一冊もないのだから、この現代文学の現状はしかたのないことかもしれない。

純文学・大衆文学
 さて、そういうわけで、書きはじめたもののいっこうに進捗しない。首をかしげるほど材料が少ないのである。プロレタリア文学が壊滅しなかったらなあと嘆息することしばしばであった。こう断定的に書くと叱られそうだが、現代文学は視野狭窄である。
 早船ちよには、早い時期に『集団就職の子どもたち』『キューポラのある街』があり、児童文学だが、『キューポラ』には、いまふうにいえば貧困問題、労働者の子どもたちの問題、零細企業、中小企業の実態、わけても在日朝鮮人、その「北朝鮮帰還運動」と、盛沢山の問題がもりこまれていて、これは別に論じるに値するとおもわれる。三木澄子『星の広場』(一九六六)は夜間中学生に取材して、定時制高校に進むつもりだという子の話も出てくる力作で、おどろくのはこれが雑誌「女学生の友」の別冊付録で前・後編で発表されたことだ。
 拙著『富島健夫伝』にも一章をもうけた『のぶ子の悲しみ』(一九六三)や『燃ゆる頬』(一九五九)も集団就職と切っても切れない定時制高校生がヒロインである。富島は働きながら学ぶことをあきらめない人たちに、じぶんも高校、大学で苦学生であったからシンパシーがあったので、ジュニア小説全盛のころにも定時制高校生の『はじめての微笑』(一九六八)を描いている。しかし集団就職者は描かれることがなかった。
 直木賞に何回も候補になった中村八朗は、ジュニア小説の全盛時代に働く高校生を多く描き、集団就職で都会に来た少女の話もあるが、これは集団就職でなくても単身上京でもいいようなものであった。
 畑山博の『狩られる者たち』は七〇年五月に「群像」に発表され、七一年三月に文藝春秋社からこれを含む作品集が刊行された。これが知る限り、集団就職者を題材にした純文学の最初の作品である。畑山はその経歴がすごい。自筆年譜(旺文社文庫『狩られる者たち』一九七五)によれば、祖父は戊辰戦争の敗者側にあったもののいい家柄で、それが畑山七歳のころに、亡父の義母と娘たちに家作、生命保険、預金の一切を横領され、家を追い立てられる。以後は母親とともに困窮生活となり、肉体労働を転々として、「連日残業四時間、休日は月に一度か二度。明日の日曜日のお天気は…というラジオのアナウンサーの声を憎み、下請けを犠牲にする親会社のベースアップ闘争を憎んだ」ということから、集団就職者を人ごとと思わない立ち位置にあったのである。大企業と下請けという戦後日本の経済構造の、もっとも零細な場所に十五歳で送り込まれた集団就職者は、松下幸之助の人生哲学や「次郎物語」ふう人生哲学に糊塗された最底辺の保守層を形成した。そういう人生観を持たされた階級が出来上がったのである。全共闘運動のころ、町内会に自警団を作り、逃げてくる学生を袋叩きにして警察に突き出したのはこの層である。
 七六年十二月には、外岡秀俊『北帰行』が文藝賞受賞作として「文藝」に載り、同十二月に河出書房新社から刊行された。これは集団就職で都会に出てきた青年が、石川啄木とじぶんを重ねる筋で、参考文献がすべて啄木関係書なのでも判るとおり啄木論といってもいいかとおもうが、こんな集団就職者がどこにいるか、と茶々をいれたくなるほどだった。外岡は札幌出身の東大出で、その後新聞社に入り海外を経て東京支局長も務めるエリートコースを歩んだが、『北帰行』にはしかし、集団就職者を取り巻く労働環境の劣悪さまで描こうとしていてこの点は『北帰行』の取り柄だといえる。もしかすると外岡は、六九年の連続射殺事件の永山則夫が獄中で思想的に覚醒したことが頭にあって、こんな主人公を生んだのかもしれない。外岡は中原清一郎の名でふたたび小説を書くようになったが、もう『北帰行』の面影はない。この河出書房新社の初版には帯がついていて、野間宏と江藤淳の選評がついている。どちらも集団就職者の設定については触れず、秀れた文学的思考力(野間)、現代の青春(江藤)ととんちんかんなこと甚だしい。現実社会を洞察する力の鈍感さは左右同じである。二人とも集団就職のことを知らなかったのではないか。吉行淳之介の短篇「樹々は緑か」(一九五八)は定時制高校の教師が主人公で、「陸橋の上で、伊木一郎は立止まって、眼下に拡がっている日暮れの街に眼を向けた」ではじまる出勤の風景が描かれ、ああ夕方定時制に出かけるときの感じがさすがに捉えられているなとおもったが、夜学について「其処で待っている単調な仕事のことを、彼は鬱陶しい気持ちで考える」とあっては、夜の教室で学ぶ人たちへのシンパシーは望めない。これもいつもの吉行文学の主題である。吉行は女学校での講師のアルバイト経験はあるが定時制はないようだ。
 大衆文学では、奥田英朗『オリンピックの身代金』(二〇〇八)も出稼ぎで急死した兄の仇をとるべく東京五輪を妨害する主人公の青年は東大生である。こちらは青年が綿密な犯罪計画を練るのでやはり東大生でなければならないかもしれない。集団就職という用語は出ないものの五輪の工事に狩りだされた下層労働者の実態がつぶさに描かれ、川本三郎が角川文庫解説(二〇一一)で「死んでいった労働者たちへのレクイエムになっている」と評した。
 小杉健治『土俵を走る殺意』(一九八九)も主人公の力士は集団就職者。東京オリンピック、高度成長を支えながら、その高度成長の恩恵に与ることがなかった下層労働者たちを描く。小杉健治は時代小説を除くすべての作品を読んでいるが、ヒューマニズムの立場から〝社会的弱者〟を描きつづけ、関東大震災時の朝鮮人虐殺を主題にした『死者の威嚇』(一九八六)や東京大空襲を特異な視点から描いた『灰の男』(二〇〇一)などの硬派な作風はもっと評価されるべきだろう。
 藤原審爾の『新宿警察』シリーズ(一九六八~)も下積みの者や下層に生きる者たちに温かい視線を持つ作品群で、集団就職者を描いたものがあってもよさそうだが今のところ見つからない。 
 稲田耕三の『高校放浪記』(一九七二)はよく読まれた自伝風読み物だが、主人公が大学医学部をめざす少年ではたいした「放浪」ではない。浜田省吾の「路地裏の少年」(一九八九)みたいなものだ。他になにがあるだろうと思いめぐらすが、今のところそれくらいで材料が尽きる。
 永山則夫が獄中で書いた私小説や直木賞作家の出久根達郎など当事者の証言はとりあげない。この狙いは、あくまで当事者以外の「集団就職はどう描かれたか」「描かれなかったか」である。

六〇年代歌謡曲
 広い意味で歌謡曲(歌謡映画)やフォークソングも「文学」として取り上げるひつようがある。これは藤井淑禎の『望郷歌謡曲考 高度成長の谷間で』(一九九七)『御三家歌謡映画の黄金時代』(二〇〇一)などの〝高度成長文化研究〟に示唆されている。歌謡曲では六〇年代「望郷歌」は三橋美智也を代表的存在として広く作られ歌われた。文学の世界とは違って、活字より一般大衆が身近だったのは、知識人たちが嫌った歌謡曲だった。宮本百合子の『道標』に男装の女性として描かれるロシア文学者湯浅芳子が、六八年ころ読物雑誌に「美空ひばりなどの俗悪歌謡」とエッセイに書いていたのを覚えている。その俗悪と目されていた歌謡曲が、当時『オリンピックの身代金』で描かれたような下層労働者たちに受けていたのだ。
 集団就職で都会に出てきて向学の思いやみがたく定時制高校に入った子どもたち。定時制高校生を舟木一夫、三田明などが歌ったが、もっとも多く歌ったのは舟木だろう。「定時高校生」(一九六四)の歌詞はこうである。

古い校舎を夕暮れが/今日も包んで夜が来る/僕等は定時高校生/ノートブックに走らすペンも/明日の希望につづいているさ (三浦康照 作詞)

 「定時」高校生とあるのは、「制」がついては歌にならないからだろうとおもったが、企業高校では昼の部、夜の部と定時制があったようでやはり「定時」でいいらしい。しかしこういう言い方は聞いたことがない。やはり舟木の「待っている人」(一九六五)では、

遅れちゃ悪い すまないと/夜学を終えて急ぐ僕/夜更けの街でただひとり/待ってる君が愛しくて (西沢夾 作詞)

 「待ってる君」は定時制には通っていないのだろう。学校に行く時間に合わせて職場を抜けるのも、まだ働いている同僚たちの冷たい視線などがあって大変だったが、そもそも定時制に行かせない町の経営者もいた。授業の終了は九時であるから、夜更けのデートに出てこられるのはやはり働く十代なのだ。
 三田明の「みんな名もなく貧しいけれど」(一九六一)には、

昼は楽しく働く仲間/みんな名もなく貧しいけれど/学ぶよろこび知っている (宮川哲郎 作詞)

とある。「楽しく働く」者がどれだけいただろうとおもうが、ここには無名で貧しい青年が世の中を変えるのだと讃えた文革時代の毛沢東思想が入っているような気がする。しかし「学ぶよろこび知っている」には戦後民主主義教育の残照があって、なんど聞いても胸をうたれる。山田太郎の町工場で働く青年や新聞配達で生計を支える少年の歌なども代々木系文化路線の匂いが濃厚である。七〇年に入ると、歌謡曲の中からこうした働く青年の歌はほとんど消えてしまうが、反戦フォークの中に「山谷ブルース」「俺らの空は鉄板だ」などが残り、しかしこれらは以前の工場で働く青年の希望をうたった歌謡曲に比べると、世を拗ねて攻撃的である。
 しかしあまり知られてはいないが「賞状」という歌がある。小室等が曲をつけて歌ったが、詩は新聞に投稿された無名詩人のものだという。飲食店に勤めて十年で「はげた頭の会長」から褒章を受ける集団就職者の感慨。

向学に燃えた少年の心を/引き裂くように 裸行李 一つ/母の顔を見ずに/雪の夜道を兄と歩いた/男なら志を立てよ/十年辛抱しろ/十五もちがう 兄の言葉に/やっとの心で 涙を押えた/その日から 俺の ふるさとは/俺の心に はいった
金に困りたくない/そんなちっぽけな気持を/向学心にかえて 持ち続けた/胸を突きさす 陽の道を/肌をも凍てる 夜寒の道を/身をかたよらせ 出前を運んだ/幾年も 年は過ぎても 俺の心に/正月の やってきたのは/幾度 幾度だったか (滝沢耕平 作詞)

 たぶん歌詞としては、小室等による手が入っているのだろうが、「身をかたよらせて出前を運んだ」などリアリティがあって、わたしはこの新聞投稿詩を縮刷版で探したが、見つからなかった。小室等の初のアルバム「私は月には行かないだろう」(一九七三)が谷川俊太郎、別役実、高橋睦郎、吉増剛造ら錚々たる作詞者であるのにこの歌のみ無名作詞者で異色である。この詩に目をとめ曲をつけた小室等の共感と想像力の幅広さは明らかだろう。
 吉田拓郎にも岡本おさみ作詞の「制服」(一九七三)という歌があるが、集団就職の娘たちを皮肉っぽくうたった歌である。

家を出る前の晩は 赤飯など食べて/家族揃って 泣き笑いしたのかい/里心だけは まだ田舎の家に置き/それでも家を出てくる魅力に負けて

と、まるで都会に憧れて少女が集団就職を希望したようで、吉田拓郎は〝反体制フォーク〟の出身なのに、おどろくばかりの無知さである。十五歳といえば都会への憧れはあるにせよ、まだ親の側にいたい年頃で、しかもひとりで他人の窯の飯を食いに行くのである。不安で泣きたいくらいだったろう。まあ全共闘運動には学生になりたくともなれない人々への排除と無関心さがあったから、吉田拓郎を責めるわけにはいかない。都会への憧れ派では、松山善三のミュージカル「その人は 昔」(一九六八 舟木一夫歌唱)などがそうだったが、これは、いやもおうもなく集団就職列車に乗せられ上京した十五歳の少年少女と、都会に憧れて単身上京し都会の毒牙に翻弄される少年少女を混同した結果である。
 週刊誌はそのころ「集団就職/都会に憧れて/犯罪者に転落」といった報道をよくしていた。だが、主要都市がことごとく東京化したいまとなっては、太田裕美「木綿のハンカチーフ」をもってこの類型も終わったといっていい。

ノンフィクション
小川利夫・高沢武司編『集団就職 その追跡研究』を皮切りに加瀬和俊『集団就職の時代―高度経済成長のにない手たち』(一九九七)、山口覚『集団就職とは何であったか <金の卵>の時空間』(二〇一六)など数冊があるが、すべて研究書である。何で岩波新書などが出さないのか不思議でならない。
岩波新書といえば、農村の戦争未亡人九人に取材した菊池敬一・大牟羅良編『あの人は帰ってこなかった』(一九六四)には、こんな話が拾われている。戦争中は夫や兄弟をお国に召集されたが、戦後は、出稼ぎと集団就職によって、夫や子供たちを都市に送り出した婦人たちは「何か大東亜戦争が来たようだ」とよく言っていたと。戦中は召集令状によって、戦後は札ビラによって夫や息子を奪われる農山村はまるで「銃後」だというのだ。この感覚は正しく、集団就職者を送り出す風景はまるで〝出征兵士〟を彷彿させるものがある。
 たぶん戦前から戦後、戦争犯罪は戦勝国によって裁かれたけれども、一般の人々は無反省に慣習を継承したのである。わたしは身体の脆弱な生徒を集め学業をつづけながら集団生活をする海辺の養護学校に小五で入れられ、三か月の辛い生活を送った経験があるが、のちに戦時中の学童疎開の小説を読んで、まったく同じやり方を踏襲していることにあきれたものだった。そうして戦前・戦中・戦後、現在まで無反省をつらぬいた庶民が、二世三世を作りだし、何も変わっていない日本国を形成しているわけだ。
 澤宮優氏はスポーツを得意としているノンフィクション作家として知られるが、九州・沖縄側に取材した『集団就職 高度経済成長を支えた金の卵たち』(二〇一七)を出している。発表当初「働くことの真髄、働くことの根幹」という観点について少し批判がましいことをしたのでそれを読んだ澤宮優氏から恐縮するようなメールをもらったが、この本も「集団就職文学史」に一項をもうけて不思議ではない労作である。
 人の労作にあれこれ言っている余裕はない。集団就職文学探しはいまのところ手詰まりになって机上にある。

    
 (盛厚三個人雑誌『北方人』2018年11月第30号に掲載したものに加筆。原文縦書き) 






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2019年02月01日

幕開けはインフルで(1月日録)

1月1日
晴れ。恒例の新年会。11名、1名風邪で欠。昨夜から煮物をしていたお節料理と、寿司11人前でもてなす。うちの父が生きていたころからやっていたはずで、父が逝ってもう30年だから歴史は長い。お客さまが帰って、よし、カラオケ行くぞーと弟がいう。娘たちとさと子さんと、夜はこれも毎年恒例のカラオケへ。煙草臭いという娘たちと別れて2部屋をとって歌う。アルコール飲み放題プランで朝の5時まで居られる、というので昼にあれだけ飲んでいたにもかかわらず、弟と10杯以上飲む。「サライ」をうたっている最中に娘たちが別部屋を引き払ってきて、合唱になる。疲れて12時に引き上げる。
1月2日
晴れ。風邪をひいたような症状がでる。さと子さん来た。吉田とし読む。
1月3日
晴れ。府中本町の親戚の新年会、発熱のため欠席し、娘だけ行く。年賀に文明堂の干支カステラを持たす。府中の新年会に欠席するのははじめて。吉田とし『たれに捧げん』『ラブレターの書き方』など読む。
1月4日
盛さんから賀状メール。夕方さと子さんが来て、ふらふらするので母の使っていた杖を突いて徒歩5分ほどの春日部厚生病院に行くと、インフルエンザAと診断された。正月、インフル、となると4年前にうちの奥さんがインフルが引き金になって亡くなったことを想起して禍々しいのである。さと子さん、ワクチンを打っているからうつっても軽い、大丈夫だという。
1月5日
「あを句会」1月作品一覧くる。マスクして春日部までチャリンコで買い物に。さと子さんが様子を見に来て、きのうは杖を突いて歩き、きょうは自転車に乗って買い物か、と笑う。やっと賀状書く。
1月6日
日曜。晴れ。選挙に立つ小林れい子さんの選挙事務所開き、遠慮する。うつしでもしたらたいへんだ。久々に盛田隆二さん、小林さん、会ったことのない小林さんの旦那さんに会えると、楽しみにしていたのにがっかり。新年早々、予定が総崩れ。
1月7日
晴れ。日本の古本屋に年末ぎりぎりに注文した『だ・かぽ』8冊到着。もうかなり資料本を買っているので、これでものにならなかったら水の泡である。嘉藤洋至『沖縄拝所巡礼⑥』(烏森同人社)届く。那覇に移住してなんと6冊分の拝所巡礼をしている。健脚である。お礼メール送る。
1月8日
晴れ。「あを」句会に選句送る。みんな忙しかったのか、自分もふくめていいものがないなあ。原稿書く。 
1月9日
晴れ。北風吹く。寒いのでどこへも出ない。寒がりになった。これが年を取るということなのか。ストーヴとエアコン。富島健夫書誌改訂版の校閲はじめる。
1月10日
休みのさと子さん来て、朝ごはん。彼女は午後こども食堂に出かけて行く。『だ・かぽ』の吉田としの初期短篇「ちいさな者のひとり」読む。これは児童文学なのかとおもうほど純度が高い。少年少女小説は、ほんらい少年少女を主人公にした小説の意味ではないか。井上靖の『しろばんば』などと同じように。富島健夫書誌を校閲。
1月11日
晴れ。せんげん台まで電車に乗って散歩。ブックオフで一冊。駅前でお弁当買って帰る。廉くて量があればいいだろうという弁当で、不味い。床屋に行って例によっておばちゃんの愚痴を聞きながら病人のような頭を刈ってくる。さっぱりした。盛さんからメール。書誌校閲。
1月12日 
土曜日、曇り。ぐぅぐ、病院に。2時間待たされ、ぐぅぐも飽きたのか、鳴く。首を開けてやると器用に外に出てきてしまうので、抱っこする。この子は抱っこが好きなので逃げない。隣の主婦にも抱っこする。帰りつくころ、霰が降る。帰ってきてダイニングテーブル&仕事机のベンチに寝ると、ぐぅぐもお腹の上で寝る。
1月13日
日曜。午後、さと子さんと東京駅へ出る。地下街の喫茶店で一服して、八重洲ブックセンターを覗く。直木賞イベントへ。真藤順丈『宝島』(講談社)を推すが、反政権的で、タイムリーすぎて賞にはいたらないだろうとぼくは言う。作者は、本土人だが、沖縄独立論に共鳴しているのではないかとおもう。候補作5作、ぜんぶさと子さんが買ってきたが、なんとか読んだのは2冊のみ。大多和伴彦さん、川口則弘さんらと八重洲の居酒屋、もう一軒は庄屋。終電ギリまで。日本古代史(『水底の歌』などよく読んだ)の梅原猛、女優の市原悦子が亡くなる。
1月14日
晴れ、三月の陽気である。さと子さんが来たので、春日部まで散歩。美味しいパン屋のテラスで珈琲飲みつつパンを齧る。それからララガーデンで、猫の草を買い、ユニクロなどを見て歩く。途中、地震警報が鳴るが、揺れはまったくなし。震度4だったという。帰りは電車で。久々にカレーを作る。応募していた向島文化サロンの2月、3月講演「乱歩と清張」当選ハガキ来る。藤井淑禎さんの連続講演なので聞きたかったのだ。
1月15日
「あを」一月句会、「みまかりし人また一人あり冬の凪」で地を。高取英さんを偲ぶ一句。肉じゃが作る。上手くできた。原稿進む。飽きると、『沖縄拝所巡礼⑥』をめくる。
1月16日
高取英を送る会に○出席のハガキ投函。芥川・直木賞発表、芥川賞はまったく知らない若者たち2人。直木賞は『宝島』に。会見を見たが、やはり沖縄に問題意識を持つ人だった。反政権的ともいえる内容なのに、よく受賞させたなあ。関川夏央『林芙美子と有吉佐和子』(集英社)よむが、二人には脈絡がなくつまり「女流」で括って二人の一冊評伝にしただけ。参考にならぬ。
1月17日
晴れているので2階の窓を全開する。阪神淡路大震災25年はまた妻の命日である。なにも供物がないので、伊勢屋で妻の好きだった豆大福、塩大福など餅菓子を4つ買って供えた。図書館に行き、調べ物。大判の学研の現代日本文学アルバム『林芙美子』を借りてくる。年譜参照のため。夕方、娘が花束をもって現れる。そのあと、さと子さんが大きな花束を持ってきてくれたので、仏前は遺影が隠れるほど花盛りに。
1月18日
晴れ。朝から原稿に没頭、たちまち11時。咳が抜けない。頭痛がしてきたのでみるく、ぐぅぐと昼寝。『林芙美子』読む。あるもので夕食のあと原稿書き。
1月19日
土曜日。快晴である。朝から原稿に。途中カレーで昼飯。3時まで原稿に向かい、ひとまず終了。夜、さと子さんと近所のお好み焼き「どんどん」に行く。高取英さんを送る会から正式の招待状来る。新しく作った名刺200枚もきた。
1月20日
洗濯物を干さないと勿体ないような晴れである。朝、那覇の洋爺工房に『富島健夫書誌(改訂版)』の原稿を送信。原稿はきのうの続きを夕方まで。新潮の日本文学アルバム『堀辰雄』を読む。茨城県の郷土料理すみつかれを作る。初午のころに食べる料理だ。仏前に供えた。大根がちょっと古かったので新鮮なものを買いにゆく。ぽかぽか陽気におどろく。鮭も買った。鮭はいま高くなっている。夜はへんな取り合わせだがドリアを作って、勤め帰りにきたさと子さんに供す。夜、大多和伴彦さんに「あを2月句会」の課題送る。
1月21日
6連勤が明けて休みのさと子さんが来たので、すみつかれで朝食。散歩にゆく。うちから緑町に出て、古利根川の橋を渡ると、ホームセンターがある。そこで大判焼きを食べ、猫たちの布小屋を買い、ちょうど逆扇の形に藤塚を回り、「麺房朝日屋」で藤そばを食べつつ、さと子さんはビール、ぼくは蕎麦焼酎雲海ハイボール。そこからてくてく橋を渡って一ノ割に帰ってくる。古着屋で2枚ジャケットを求む。風冷たいが晴れ。玉井永子さんから封書で豊津の錦凌会に出す原稿の送付。永子さんは文章も巧い。嘉藤洋至さんからメール、いま掛っている作家を知っていて「また売れなさそう」な作家だと(笑)。玉井永子さんにメール返信。夜、月が赤くなる、宇宙ステーションが肉眼で見えるというので、近所の古本屋まで散歩。月冴え冴えと、兎が餅を突いてはいたが、それだけ。文庫本四冊買って、さと子さんをアパートに送って帰ってくる。
1月22日
晴れ、きのう買ったジャケットなど選択して干す。嘉藤さんにきのうのメール返信。嘉藤洋至さんからメール。原稿書き。伝記執筆のため、不便なので近くの本棚に資料移す。ファイルも作る。牛カルビを焼いて、ウヰスキー数杯、で夕食。
1月23日
晴れ、ゴミ当番である。うちの町内のゴミは2時過ぎても回収されないこともあって、何度も外に見にゆく。ヤフオクから三木澄子『星の広場』届く。廉く落としたのに手厚い包装で気の毒になる。猫たちと転がって、読了す。女学生の友に連載された、夜間中学生の物語で、三木の知られている作品。家出少年、少女が多いのは三木の個人史からだろう。最後は丸く収めているが少年少女文学としては仕方ないか。ちなみに舟木一夫に「星の広場へ集まれ!」というヒット曲があるが、1967年で、この作品の約1年あと。働く若者たちの賛歌であることもこの長篇を連想させる。豊津に送る原稿書きに熱中して夜9時過ぎまで。ほぼ出来上がったのでプリントアウト。
1月24日
朝から原稿書き。評伝の目次を作った。『ジュニア文芸』の三木澄子の短篇「流氷は言ってくれない」(69・2)「早春の深き傷」(69・5)「一年たったあとで」(69・8)「雪白のドレスの上で」(70・2)「忘れねばこそ」(76・1)を読む。簡単な夕食のあと、また原稿書き。元全都定時制高校共闘会議のMさんから、ダイレクトメールでアジビラまがいのものを長々と送ってきて、長すぎて読まぬ。Mさんはいい人だが、焦りがあるのか、寛容さがない。
1月25日
曇って寒い。室内に洗濯物干す。エアコンにストーヴの室内のほうが乾くし、適度な湿気をもたらすはず。Mさん、ツィッターでぼくに「天皇論」をやらないか、という。ばかなことをいうなあ。天皇、元号、領土、どれも左翼が口を挟むようなことじゃない。朝から原稿書き。ぐぅぐがうちに来て3か月目。大きな顔をしているが、まだ2か月なのだ。郵便局に日本の古本屋2冊の本代振り込む。資料である。夕方、盛田隆二さんがツイッターで「荒川さん、吉田和明さんが亡くなりましたよ」と報せてくれる。その前にすが秀実さんのツイッターで知っておどろいたところだった。高取英さん、吉田さん、みな急死だ。文芸批評家、吉本隆明論で知られる。まだ64歳だった。夕飯は、簡単マーボー豆腐でウヰスキー、吉田さんに献杯。
1月26日
土曜日、北風吹く。さと子さんが来たので一緒に朝飯。さと子さんは友だちと横浜の赤レンガまで行った。日本の古本屋に注文した、三木澄子『わたしの女満別開拓史』(オホーツク書房)札幌の書店から届く。またもや三木の献呈本。自費出版である。〝わたしの〟は三木ではなく、画を書いた大江省二のことで、女満別開拓民の子の〝開拓史〟であった。大江が開拓史を絵に描いてみせ、三木がその説明を文にした。出版も三木が自費で出したのだろう。温かい気持ちになって、読了した。『ジュニア文芸』の三木の短篇「早春の朝の笛」(68・4)「暗い夜のかたみ」(70・4)読む。夜9時まで、60年代ソングをかけながら、評伝書く。
1月27日
晴れだが、北風の日曜。鷲田小彌太・井上美香『なぜ、北海道はミステリー作家の宝庫なのか?』(亜璃西社)を読む。「あを句会」の句作、6句。夕食はさと子さん、娘と、寿司を買ってきて食す。三木澄子の短篇「白いレースの季節」(66・6「別冊女学生の友」)「バラはきらい」(66・10「別冊女学生の友」)「真冬に愛して」(67・2)読む。どれも他愛のない少女小説。
1月28日
仙台の古書店から三木澄子「北極星を見よ」(『女学生の友』68・12別冊付録)届く。単行本化されていないのである。別冊付録を買うとは想像もしていなかったが、買って正解。底ぬけの善人だった「霧多布の大川原という姓の漁夫が、漁に出て、函館に寄った時、生後間もないあかんぼうを、あんもち売りの女からもらった」子が、主人公で、彼は16歳の「小さい詩人」という設定である。あきらかに菊田一夫が投影されている。釧路と神戸を舞台に展開して、少女小説の範疇を超えている。三木がジュニア小説を多作しながら、次第に60年代ジュニア小説に内在した「人生いかに生きるべきか」という読者の要求(純文学的要素)に応えるようになり、68年ころには自伝的なものをジュニア小説に持ち込んで行ったことが読み取れる。他に札幌の古書店から『私の女満別開拓史』も来るが、すでに持っている。操作の仕方がわからなくなって、ダブルブッキングとなったが、まあいいや。玉井永子さんから封書届く。講演を聴くので、藤井淑禎『清張 闘う作家 「文学」を超えて』(ミネルヴァ書房)を読む。
1月29日
早朝から原稿書き。途中〆切を思い出して、大多和伴彦さんに「あを新春句会」5句を投句。大空町女満別図書館に三木資料の所在を確認する電話をする。原稿、短歌、エッセイなどのファイル「三木澄子氏原稿」一覧をファックスで送っていただく。未読多数あり。しかし期待した初期作品の発表誌、原稿などはなし。網走に移住するさいに焼却されたのだろう。吉田和明さんの葬儀に参列した大多和さんからメール。吉田さんは孤独死ではなかったようだ。さと子さんと養老乃瀧で食事。
1月30日
早朝から原稿書き。ブログに「佐伯千秋年譜」をあげる。結構見にきた。DVDで映画「光州5・18」を見る。前にも書いているとおもうが、光州蜂起のときテレビで刻々と情勢が伝えられ、当時政治活動の拠点として営んでいたおにぎり屋でおにぎりを握りながら、背中を突かれているような思いがあって、こんなことをしていていいのだろうか、と友人と言い合っていた。光州はそういう、他を燃やす力をもっていた。映画としてはいい出来ではないが、光州で犠牲になった人たちもベトナム戦争時代勇猛さと残虐さで知られた韓国軍の兵士だったことを描いているのが取り柄か。夕飯は菜の花ごはん。ひき肉の甘辛炒めに煎り玉子をのせて食す。夜中、さと子さんに買ってもらった猫のトンネルに、ぐぅぐとみるくが興奮して駆け回る。一軒家でなければ苦情が出るような騒ぎ。
1月31日
月末は木曜日。なんとか支払がすみ、今月は社長給与も出た。ほっ。郵便局で3軒の古書店から3冊買った代金をそれぞれ振り込み、春日部図書館に寄り、女満別図書館からの本の貸し出しをお願いする。東京の年金事務所に会社の保険料を、市役所でじぶんの滞納税金を払う。要領よく回ったせいで、昼前にぐぅぐの出迎えを受けて帰ってくる。途中ローソンで買ったサンドイッチ食す。春日部図書館の司書さんが電話をくれ、三木が関係していた『文芸網走』の全巻がべつの図書館に保存されているが、どうするか、という。なんと協力的な司書さんだろう。それも取り寄せていただくことにする。午後は原稿進める。盛厚三さん、川柳作家の江畑哲男さんからメール。娘がきて、大事な保存食を食べてかえってゆく。夜は鍋で焼酎のお湯割り。1月も終わり、原稿は60枚ほど。



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2019年01月30日

佐伯千秋年譜

年譜の並びは ①雑誌発表②連載③単行本④事項とした。書籍刊行月は付けたものと不祥のものがある。事項も同じである。原稿は縦書きのため漢数字のまま。以後、発見資料があれば補完していく。(19年1月)一九八八年の項補足しました。(19年2月)一九六七年の項補足しました。(同月)


一九二五年(大一四)
十二月六日、広島県広島市西大工町に生まれる。本名は佐伯千賀子。三姉妹の末っ子で、生まれつき身体が弱く小学校も休みがちであった。佐伯家は広島駅の近くで果物問屋を営んでいた。娘時代に株主総会に行かされたというから株式会社形式で大きく営んでいたのだろう。父親は佐伯を京都、奈良、大阪に同行させ、歌舞伎や文楽を見に連れて行ったという。
一九三七年(昭十二)十二歳
四月、広島県立第一高等女学校に入学。女学校では国語教師を中心に同好者が集まって「万葉集」を読んでいた。
一九四二年(昭十七)十七歳
三月、広島県立第一高等女学校卒業。
一九四五年(昭二〇)二一歳
四月、日本女子大学に入学。
八月六日の原爆投下により、お手伝いさんと一緒にいた母親を失う。被爆した父親が疎開していた姉たちの所にたどり着き、「おかあさんを探しに行け」と言ったという。佐伯は日本女子大に通うため上京して三カ月目だった。父親の看病のため大学を中退するが、間もなく父親も死去した。「生き残った友だちを数えたほうが早い」という。
一九五〇年(昭二五)二六歳
「広島図書の学年誌にダイジェスト、インタビューの記事を書いていた」という本人の証言がある。四八年~五一年にかけて広島市で『ぎんのすず』を出していた広島図書株式会社のことだろう。このころ『文藝首都』同人となり、なだいなだ、北杜夫、佐藤愛子らを知る。
一九五一年(昭二六)二七歳
『文藝首都』十・十一月合併号に佐伯千賀子名で「美貌の文学」を書く。
一九五二年(昭二七)二八歳
生活の糧に、三本の少女小説を書いて「文藝首都」の友人経由で『少女の友』に持ち込む。それがデビュー作となった(筆名を使っているか雑誌欠号のためか作品を確認できない)。それまで「少女小説は読んだ記憶がない」という。ペンネーム「千秋」は性別がどちらともとれるというので選んだ。
一九五三年(昭二八)二九歳
『少女世界』七月号に「まぼろしのグラナダ城」を、『一年ブック』十一月号に「きえないろうそく」を、『四年の学習』十二月号に「クリスマスのお話」を、『五年の学習』十二月号に「名作詩物語 少女ハイジ」を発表。
一九五四年(昭二九)三〇歳
『六年の学習』一月号に「幸福ものがたり」を、三月号に「鈴の音よとこしえに」を、『一年ブック』三月号に「三ぼんのきんのかみ」を、九月号に「まほうのいずみ」を発表。
一九五五年(昭三〇)三一歳
『女学生の友』三月号に「イエスの花嫁」を、『小学六年生』に「秋空晴れて」を発表。児童文学者協会の会員となった。
一九五六年(昭三一)三二歳
『女学生の友』一月号に「中村錦之助物語」を、『女学生の友』二月号に「雪と花と王子さま」を、『少女ブック』二月号に「おとめのいのり」を、『プレイメイト』四月号に「まーやとなかよし」を、『女学生の友』五月号に「久保明 忘れえぬことば」を、『プレイメイト』五月号に「ごがつのおきゃくさま」を、『少女ブック』六月号に「スター物語 夢みるお人形」を、七月号に「のろいの面」を、『プレイメイト』八月号に「ちびくろサンボー」を、『女学生の友』九月号別冊付録に「光と風のおとめたち」を、十二月号に「ふたりのバイオリン作り」を発表。『女学生の友』八月号別冊付録「文芸入門百科 小説の書き方」を担当した。裁判所勤務の夫と結婚し、薦田千賀子となった。
一九五七年(昭三二)三三歳
『女学生の友』一月号に「潮風の丘」と別冊付録に「エルムの丘」を、四月号別冊付録に「エルムの丘 みどりの巻」を、五月号別冊付録に「エルムの丘 真紅の巻」を発表。『少女クラブ』三月号に「スター物語 白鳥の歌」を書く。『小学二年生』三月号に「ヘンゼルとグレーテル」を、『小学四年生』に「おどるねこ」を、『小学二年生』十二月号に「しあわせの王子」を発表。『女学生の友』に「みどりの灯」を連載(四月~十二月まで)。『『現代日本児童文学代表作選一九五七年鑑』(東光出版社)に「美しい祈り」が収録された。
一九五八年(昭三三)三四歳
『少女クラブ』一月号に「少女と風船」を、『女学生の友』一月号別冊付録に「白い十字架」を、『小学二年生』一月号に「犬をぶたないで(ヘレンケラー)」を、『女学生の友』九月号に広島原爆投下を背景にした「燃えよ黄の花」を、十月号に「藤田ミラノ先生を訪ねて」と別冊付録「花と風の季節」を、十二月号に「ねこも花もわらってる」を発表。『女学生の友』に「みどりの灯」を連載(四月~十二月まで)。『りっぱな人のはなし3年生』(小学館)に「がんばりやのくりひろい(塙保巳一)」が収録された。『りっぱな人のはなし3年生』に「犬をぶたないで(ヘレン・ケラー)」が収録された。
一九五九年(昭三四)三五歳
『女学生の友』四月号別冊付録に「二人だけの虹の橋」を、『四年の学習』五月号に「ロマン・ロラン ピェールとリューマ」を、『中学生の友1年』六月号に「(シュトルム)海のおとめ」を、八月号に「世界名作 りんご園の少女」を、九月号に「高原にいななけ」を発表。『小学五年生』に「カナリヤさん」を連載(推定三月~六〇年十二月まで)。『女学生の友』に「赤い十字路」を連載(一月~六一年三月まで)。「燃えよ黄の花」で小学館児童文学賞を受賞した。長男が生まれた。
一九六〇年(昭三五)三六歳
『中学生の友1年』二月号に「森鷗外 思い出の舞姫」を、四月号に「リラの花咲く家」を発表。『四年の学習』に「青い風の町」を連載(四月~六一年三月まで)。『中学生の友1年』に「太陽のうた」を連載(十月~六一年三月まで)。『小学三年生』に「バラ子ちやん」を連載(四月~六一年三月まで)。
一九六一年(昭三六)三七歳
『女学生の友』一月号別冊付録に「三色すみれ」を、『女学生の友』十一月号別冊付録「ジュニア小説三人集」に津村節子、園田てる子と小説を発表。『中学生の友2年』に「太陽のうた」を連載(四月~六二年三月まで)。『女学生の友』に「潮風を待つ少女」を連載(三月~六三年九月まで)。次男が生まれた。
一九六二年(昭三七)三八歳
『中学生の友1年』八月号に「音楽家物語 愛の花束」を、『女学生の友』十月号別冊付録に長篇「森から来た天使」を発表。『中学生の友1年』一月号に「(生活小説)ムギの歌」を連載(一月~三月まで)。『女学生の友』に「潮風を待つ少女」を連載(一月~十二月まで)。『中学生の友2年』に「ムギの歌」を連載(四月~六三年三月まで)。
一九六三年(昭三八)三九歳
『小学六年生』二月号に「幸せを呼ぶ歌」を、『女学生の友』二月号別冊付録「バラは枯れない」を発表。
一九六四年(昭三九)四〇歳
『女学生の友』六月号別冊付録に「若い樹たち」を発表。『女学生の友』に「風の町かど」を連載(一月~十一月まで)。『小学五年生』に「青空とうたおう」を連載(十二月~六五年三月まで)。「潮風を待つ少女」でレコードデビューする新人安達明の吹き込みに立ち会う。歌はヒットした。
一九六五年(昭四〇)四一歳
『女学生の友』一月号別冊付録に長篇「花の口笛」を、『小学六年生』に「青空とうたおう」を連載(四月号~十二月まで)。九月、初の単行本『潮風を待つ少女』を集英社より刊行。
一九六六年(昭四一)四二歳
『別冊女学生の友 オール小説』六月発行に「エルムの丘」を、九月発行に「エルムの丘」解決編とグラビア「スターと作家(安達明)二年間の成長」を、『女学生の友』十二月号別冊付録に「ふたつの愛」を、『ジュニア文芸』十二月号に「(作家の日記)一人三役の多忙な日々」を発表。一月、『マドモアゼル』に「花燃える」を連載(十二月まで)。一月、『若い樹たち 燃えよ黄の花』を、八月『赤い十字路』『赤い十字路(続)』を集英社より刊行。このころ「女学生の友ジュニア短編小説」の選考委員(三木澄子・津村節子・宮敏彦)をつとめる。
一九六七年(昭四二)四三歳
『ジュニア文芸』一月創刊号に「芽ばえ」と「作家インタビュー〝失われた青春〟をペンにかけるママさん作家 佐伯千秋」(山本容朗)を、三・四月合併号に「はじめての抱擁」(二百枚)を、五月号に長篇「かぎりない愛への船出」(三五〇枚)を、『文芸春秋』八月号に「ジュニア小説のヒロインたち」を、『女学生の友』八月号別冊付録に長篇「十六歳の心の歌」を、『アサヒグラフ』九月二二日号「新告知板 ジュニア小説作家」にインタビューを、『ジュニア文芸』十月号に長篇「非行少女A子の死」(四百枚)を、十二月号に「読者座談会」と「読み捨ては実りなし」を発表。『限りない愛への船出』『若い愛はみどり』を、十一月、『エルムの丘』を、十二月、『花と風の季節』を集英社より刊行。三月二七日、フジテレビ小川宏ショー「ジュニア小説と現代っ子気質」に林力ジュニア文芸編集長、富島健夫とともに出演した。小学館「学生小説コンクール」の選考委員(佐伯千秋・津村節子・新田次郎・富島健夫)をつとめ、四月二八日、九段の料亭「阿家」で選考会。
一九六八年(昭四三)四四歳
『女学生の友』一月号別冊付録に長篇「雪と山と若者たち」を、『ジュニア文芸』二月号に長篇「早春を行く者たち」を、『女学生の友』四月号に「ふたりの友」を、『小説ジュニア』四月号に「作家と読者のホームルーム」を、『ジュニア文芸』四月号に対談「はばたけジュニア小説!」(富島健夫・佐伯千秋)を、六月号に長篇「さらばわが愛」を、八月号に「佐伯千秋先生を囲んで 長野版」を、『小説ジュニア』八月号に「選を終えて」を、『女学生の友』八月号別冊付録に「チェリーハイランドの青春」を、『小説ジュニア』十月号に「わたしの好きな町」を、『ジュニア文芸』十月号に長篇「遠い初恋」を、十二月号に学生小説コンクール「若さあふれる主題を」を発表。『高一時代』に「光る季節」を連載(四月~六九年三月まで)。一月、『風の街かど』を、三月、『風の街かど(続)』を集英社より刊行。四月、『別冊ジュニア文芸 佐伯千秋作品集』が小学館より発行され、「私の歩いてきた道」を書き下ろし、「燃えよ黄の花」が再録された。六月、『青い太陽』を、八月、『青い太陽(続)』を、十月、『あしたはもう来ない』を、十二月、『若い海流』を集英社より刊行。九月二四日、九段の料亭阿家で開かれた「学生小説コンクール」選考会に出席。「小説ジュニア新人賞」の選考委員を石坂洋次郎・津村節子・富島健夫・三浦哲郎とともにつとめる。
一九六九年(昭四四)四五歳
『女学生の友』一月号別冊付録に「霧の中の愛」を、『小説ジュニア』二月号に「初恋」を、『ジュニア文芸』二月号に「招かれた家出客」を、三月号アンケート「ジュニアの愛の限界はどこまで?」に答えを、四月号に長篇「燃えた海」を、『ジュニアライフ』四月号に座談会「あなたに涙はいらない」(佐伯千秋・三木澄子・吉田とし・富島健夫・柚木象吉)を、『高二時代』五月号「名士随想 青春テクリ旅」に短文を、『ジュニアライフ』五月号に「あじさい色の愛」を、八月号に掌編「はじめての愛」を、『女学生の友』八月号別冊付録に長篇「あした若者たちは」を、『ジュニアライフ』九月号に「プレイボーイとわたし」を、『ジュニア文芸』十月号に長篇「山頂にバラあり」を、『ジュニアライフ』十二月号に長篇「青春の序曲」を発表。『小説ジュニア』に「青春飛行」を連載(五月~七〇年四月まで)。二月、『雪と山と若者たち』を、四月、『さらばわが愛』を、七月、『チェリーハイランドの青空』を、十月、『遠い初恋』を、十二月、『光る季節』を集英社より刊行。このころ東京都保谷市ひばりが丘一ノ一四ノ一四に住む。  
一九七〇年(昭四五)四六歳
『ジュニア文芸』二月号に「傷ある翼」と対談「十代は純潔であれ」(富島健夫・佐伯千秋)を、『ジュニアライフ』四月号に「友よ握手を」を、六月、『児童文芸』に「二度目の出発点となった受賞」を、『小説ジュニア』八月号に長篇「ヒマワリは紫に咲いた」を、『ジュニア文芸』九月号に「野美の愛」を、六月号にエッセイ「愛も性もわが手で選ぶもの」を、十二月号に長篇「青春流浪」を発表。『女学生の友』に「白い鳩を見た」を連載(四月~七一年三月まで)。二月、『白い春の道』を、八月、『青春飛行』『霧の中の愛』を、七月、『山頂にバラあり』『青い愛 黄の愛』『光る季節』を、九月、『あした若者たちは』を集英社より、『燃えた海』を主婦の友社より刊行。『少年少女世界の名作14 秘密の花園』(小学館)を刊行。
一九七一年(昭四六)四七歳
『ジュニア文芸』二月号に「はじめてきみを愛す」を、五月号に「ガラスの人形」を、『児童文芸』七月号に「広島の碑」を、『ジュニア文芸』八月終刊号に「永遠に燃える」を発表。『銀色のバラを見た』『青春の序曲』『愛あるとき』を集英社より刊行。
一九七二年(昭四七)四八歳
『素足の青春』『燃えた海』『青春流浪』を集英社より刊行。
一九七三年(昭四八)四九歳
『小説ジュニア』四月号に長篇「わが愛は海わが船は白き帆船」を、『週刊セブンティーン』「美しい愛のための十二章」に短文を発表。『わが愛は海わが船は白き帆船』を集英社より刊行。
一九七四年(昭四九)五〇歳
『週刊セブンティーン』に「愛への旅だち」を連載(二月~七五年一月まで)。『夏の愛の旅』『心に青き砂あり』を集英社より、母と子の世界の伝記シリーズ『ディズニー』を小学館より刊行。
一九七五年(昭五〇)五一歳
『星の城』を旺文社より、『だれにも言えない』『われら青春』を集英社より刊行。『少年少女世界の文学52』(小学館)に「竹取物語」を収録。
一九七六年(昭五一)五二歳
九月、『児童文芸』に「わたしとジュニア小説」を発表。五月、コバルト文庫『若い樹たち』『青春放浪』を、六月、コバルト文庫『燃えた海』『若い愛はみどり』を、七月、コバルト文庫『花と風の季節』『素足の青春』を、八月、コバルト文庫『遠い初恋』『涙の川をわたれ』を、九月、コバルト文庫『遠い初恋』『あした若者たちは』を、十月、コバルト文庫『青い太陽』『青い太陽(続)』を、十一月、コバルト文庫『限りない愛への船出』を、十二月、コバルト文庫『青い恋の季節』を集英社より刊行。
一九七七年(昭五二)五三歳
『中二時代』に「オーロラを見た旅」を連載(二月~『中三時代』七八年三月まで)。一月、マーガレット文庫『(オルコット)花物語』を小学館より、コバルト文庫『心に青き砂あり』を、二月、コバルト文庫『雪と山と若者たち』を、三月、コバルト文庫(オリジナル)『風にきいた旅』を、四月、コバルト文庫『白い春の道』を、五月、コバルト文庫(オリジナル)『わたしの赤いつばさ』を、七月、コバルト文庫『われら青春』を、八月、コバルト文庫『夏の愛の旅』を、九月、コバルト文庫『わが愛は海わが船は白き帆船』を集英社より、十月、『白い牙(J・ロンドン)』を小学館より、コバルト文庫(オリジナル)『青春の序曲』を、十一月、コバルト文庫『緑色のバラを見た』を、十二月、コバルト文庫『さらばわが愛』を集英社より刊行。
一九七八年(昭五三)五四歳
『児童文芸』一月号に「わたしの飛躍」を、『児童文芸』七月号に「随想」を、『本の窓』八月号に書評「アンネの青春ノート」を発表。一月、コバルト文庫(オリジナル)『愛あるとき』を、三月、コバルト文庫『若い海流』を、六月、コバルト文庫(オリジナル)『光る季節』を、八月、コバルト文庫『青春飛行』(上巻)を、九月、コバルト文庫『青春飛行』(下巻)を、十二月、コバルト文庫『だれにも言えない』を集英社より刊行。
一九七九年(昭五四)五五歳
二月、コバルト文庫(オリジナル)『君はなぜ青い花を見たのか』を、五月、コバルト文庫(オリジナル)『青い愛 黄の愛』を、七月、コバルト文庫(オリジナル)『海色の愛が見えますか』を、十一月、コバルト文庫(オリジナル)『青春ライブ』を集英社より刊行。
一九八〇年(昭五五)五六歳
二月、コバルト文庫(オリジナル)『愛は透明なかがやき』を、四月、コバルト文庫『潮風を待つ少女』を、九月、コバルト文庫『赤い十字路』を集英社より刊行。
一九八一年(昭五六)五七歳
二月、『野口英世 アムンゼン』を小学館より、九月、コバルト文庫(オリジナル)『夕陽のアンダルシア』を集英社より刊行。
一九八二年(昭五七)五八歳
『小説ジュニア』三月号に「白い馬は駆けて行った」を、『本の窓』九月号に書評「この母親あってこそ『少年期』を読んで」を発表。
一九八七年(昭六二)六三歳
『児童文芸』三月号に「思春期は翼を持つとき」を発表。
一九八八年(昭六三)六四歳
二月、三木澄子が夫の七回忌法要に網走から上京し足関節を骨折して都内のホテルに長逗留していたので、諸星澄子、小学館の野口晃史、井上明子夫妻と見舞う。土産に、三木の好きな花とチョコレートを持って行った。四月十六日、三木澄子が逝去した。『本の窓』七月号に「永遠に青春の人―追悼三木澄子先生」を、八月『文芸網走』第十三号三木澄子追悼号に「心に泉ありて」を発表。
一九九一年(平三)六七歳
『児童文芸』九月号に「わたしの初恋物語」を発表。
二〇〇九年(平二一)八三歳
『児童文芸』四月号誌上で訃報が伝えられ、死去したことがわかった。


                    


                     (18年12月作成 荒川佳洋) 



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