富島健夫と「筑紫太郎」『心に王冠を』

2011年05月08日

『制服の胸のここには』

1965年の冬、集英社の編集者N氏から富島健夫に電話がかかります。
「今夜はどこへも行かずに家にいてくれないか」
理由を言わなかったのは、これから会議だったからでしょう。
富島が承知すると、一時間ほどしてまた電話が入り、これから自宅へ伺うと言います。
やがてやって来たN氏は、
「新しい小説雑誌を出すことに、今さっき決定した。自分が編集長になった。創刊号に巻頭三百枚を書いてほしい」と言いました。大役を任された人間の興奮と気負いが表情にあらわれていたことでしょう。
N氏はこのとき、富島が「虹は消えない」を連載している『女性明星』の副編集長でした。「虹は消えない」の連載は、この年の1月号から始まり、66年3月号までつづいたので、このとき終盤に差しかかっていました。富島が締切りを聞くと、言いにくそうに、二週間後だと言います。
「そりゃあ無理だ」
富島は、日数がないことを理由に断ります。

じつはこの年、富島はすでに〝青春小説〟の書き手としてかなり多忙になっていたのでした。『女性明星』のほかに、4月から『マドモアゼル』に「青春海流」を連載。5月から『週刊平凡』に、松本孝、戸川昌子、三浦哲郎(66年から、三浦、田辺聖子、佐藤愛子)とともに競作「恋愛百景」を連載。9月から『女学生の友』に「夜明けの星」を連載していました。とくに『マドモアゼル』の「青春海流」は、師匠の丹羽文雄の小説といっしょにスタートしたので、力をこめていたし、「虹は消えない」は超人気作家の梶山李之「女の斜塔」と目次にならんだので、これも力が入っていました。『週刊平凡』の競作も、大学同窓の芥川賞作家・三浦哲郎が毎回、結構の整った短篇を書いていたので、短篇小説に自信のある富島としては負けられなかったのです。

富島はそんな事情で、断ったのでしたが、N氏はめげなかった。N氏としては、二週間で三百枚の長篇が書ける筆の早い作家などおいそれと見つけることができないし、それも新雑誌の成功がかかっている巻頭長篇なので、読者に人気のある作家でなければならなかった。たぶん、その格好でいいから、と無理やりドテラ姿の富島をタクシーで練馬のキャバレーに連れて行って、かき口説いたのでした。いくら地元とはいえドテラ姿で入って来た客に、店もおどろいたことでしょう。N氏は富島に酒をすすめ、自分も飲み、「雑誌の成功は、富島さんの原稿次第なんだ。頼む」と口説きつづけたでしょう。情に弱かった富島は、酔っておおまかな気分になってついに承知します。
応諾されたN氏は、これも富島より酔って涙してよろこびます。N氏にとっては、新雑誌の編集長となっためでたい日に、富島の原稿が取れて、祝いの美酒となりました。富島は、多少ろれつの回らぬ口調で、「雑誌の創刊と君の編集長就任の祝いに書くぞ」「書くからには、青春小説の傑作をものにするぞ」くらいのことは言っただろうと想像されます。
新雑誌の編集後記に、「巻頭を飾る長編純愛小説『制服の胸のここには』は、青春文学の第一人者である富島健夫先生が、特に本誌の創刊を祝って書いてくださった傑作です」と、編集者のひとりは書いています。
のちに富島はこのエピソードに訂正を加えています。〝キャバレー〟が〝居酒屋〟になったのです。有名な小説となり、映画化もされた清純小説に〝キャバレー〟は合わないと思ったのでしょうか。しかし、やはり場所はキャバレーであったと思います。

一週間で「制服の胸のここには」三百枚を書き上げました。原稿料は十万円でした。高見順の『わが胸の底のここには』をもじったのですが、富島はそのもととなった島崎藤村の『若菜集』を中学生のころから愛唱してもいたのでした。

そのN氏の「新雑誌」が『小説ジュニア』でした。66年の1月に書店に並びました。富島は、作者のことばを記しました。
「16歳の春、福岡県立豊津高校2年2組のひとりに、ぼくはなった。

ぼくたちは50人だった。それは50の星であり、50の個性ある光を放っていた。そして、それぞれが孤独であった。肩を組んで、歌声はそろっていたが、ぼくらのほんとうの胸のうちを誰が知りえたろうか。
2年2組は、早熟でわがままで情熱的なクラスであった。そして、うつらうつらと日を送りながら、やがておのれの前に現れるであろう少女のために、胸に一輪の花を育てていたにちがいない。思い出の2年2組をこの小説にとりいれたのは、そこに生きた旧友たちに郷愁を感じていたからでもある」

この作者のことばを誤読した某新聞は、のちにこのジュニア小説ブームのきっかけとなった小説を、富島の〝私小説〟と書きましたが、これはもちろん誤解です。この作者のことばでも明らかですが、『制服の胸のここには』は〝少女小説〟ではなく、言うならば少年小説として書かれました。ジュニア小説ブームの先駆けとなった小説が、少年を主人公としたものであったことはもっと注目されてもいいことでしょう。
『制服の胸のここには』は、富島の青春小説の名作とも代表作とも称されるものになりました。じっさいジュニア小説のブームはここから始まったといって過言ではありません。富島みずから「ジュニア小説の古典」と言っている作品です。

『小説ジュニア』は売り切れになりました。雑誌としては珍しい増刷を行っています。はじめ季刊であったのに直ぐに月刊となって、ジュニア小説ブームを牽引しつづけます。
かわりに『女性明星』は7月号で廃刊となり、富島が「虹は消えない」につづいて同誌に3月号から連載していた小説「ちぎれ雲の歌」は、8月号から『小説ジュニア』に連載が移されました。(『虹は消えない』は66年に集英社から刊行されると、産院の赤ん坊すりかえ事件の悲劇の物語は、テレビドラマらしい内容だったのか、その後二度にわたってテレビの連続ドラマになっています。)

つまり、『女性明星』の読者が初期の『小説ジュニア』の読者になったということでした。雑誌社の編集者にとっては当初〝ジュニア〟は〝若い女性層〟と同義であったのだと思われます。
この時点で、すでに富島は若い読者の人気作家となっていました。『小説ジュニア』創刊の年の8月から、学習研究社版『富島健夫青春文庫』の刊行が開始されているのです。だから、『小説ジュニア』の創刊から、富島健夫の人気が沸騰したというのは事実ではありません。しかし、『制服の胸のここには』ではじめて富島健夫を知った読者は、『青春文庫』の読者となったことでしょうから、学研のこの選集は売れました。


『小説ジュニア』の成功を見て、他社からも追随するジュニア小説誌がぞくぞく創刊され、ジュニア小説の隆盛を招来することになりました。
67年に入ると、『女学生の友 ジュニア文芸』(小学館 のち『ジュニア文芸』)、『小説女学生コース』(学研)、『ジュニアライフ』(旺文社)が創刊。創刊号の巻頭長篇はすべて富島が執筆しています。以後、四年ほどこれらのジュニア小説専門誌や少女雑誌、学年雑誌、週刊誌に富島の名がない月が見当たらないほど、一挙掲載長篇、中短篇、連載、エッセイを書き続けることになります。いかにも疲労した表情の富島のスナップが、ときおりそれらの雑誌に載りました。文壇の長者番付に入らないのが不思議なほどの売れっ子ぶりでしたが、書いた本は単価が安く、雑誌も一般誌と比べると稿料が安かったのでしょう。しかし、富島はこの世界ではもっとも稿料の高い作家となりました。どの雑誌にも読者アンケートのハガキが付いていて、「今月号でいちばん良かった小説は」場合によっては「面白くなかった小説は」というのもあり、翌月には結果が出て作家の生死にかかわる、それは非情な世界でしたが、富島はいつもトップランナーでした。

68年、少女週刊誌として登場した『セブンティーン』の創刊号も富島の連載小説が目玉でした。ぼくはこの週刊誌のタイトルにも富島の提案が働いているのではないかと疑っています。十七歳というのは、富島がとてもこだわった年齢で、というのも学制改革で男女共学が実施された年齢だからです。富島健夫の青春文学が、この十七歳のときに男女共学のはじまった豊津高校で涵養されたものであることは明らかで、ジャーナリズムから未成年者に害のある読み物を書く作家だと袋叩きされた時期にも、富島は「十七歳はおとなである」と主張してはばかりませんでした。恋愛をしていた富島少年の経験がそれを裏打ちしていました。


(富島健夫と「ジュニア小説」その1)



y_arakawa1970 at 04:05│Comments(0)TrackBack(0) 連載/富島健夫と『ジュニア小説』 

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