連載/富島健夫と『ジュニア小説』

2011年07月18日

富島健夫と『ジュニア文芸』

雑誌『ジュニア文芸』(小学館)の読者層は、他誌と比べて年齢が高かったのではないか、あるいは高い年齢層に編集の照準をあわせていたのではないか、とぼくはずっと考えていました。

先日ぼくは『ジュニア文芸』の創刊から廃刊(5巻8号54冊)まで編集長をつとめた林力氏とお会いして、貴重なお話をうかがってきたのですが、その質問をぶつけると、最初の疑問はあっさり否定されました。『小説ジュニア』と同じ層が読者だったといいます(平均年齢17歳という証言があります)。ぼくは富島がこの雑誌に特に力を入れて書いたのは、ひとつには、雑誌の対象年齢層の問題でもあったのではないかと思っていたのですが、違いました。

しかし、編集の照準をどこに合せるかという点では、林編集長は否定しませんでした。誌名に「文芸」の名を冠したというプライドがあったようです。

富島の考える、少女小説とは一線を画した、社会性のある、青春前期を主題にした青春文学の創造には、読解力のある読者が必須条件でした。草柳大造の「ジュニア小説の王者・富島健夫」(『勝利』68年5月号)では、富島は「ぼくには五万人の読者がいればいい」と語っています。幼稚な読者、読解力のない読者を富島はこの時期、切り捨てます。少なくとも『ジュニア文芸』では、切り捨てていました。

発行部数の多い『小説ジュニア』には、とうぜんそうした読者がたくさんいました。ジュニア小説がブームになると、その読者はとうぜん他誌にも流れ込みました。つまり、それはジュニア小説雑誌の全体の質の低下を呼ぶことになります。

ぼくが読者層を問題にしたのは、『小説ジュニア』が小学校高学年から短大、大学生にまでの広範な読者を抱えていたからです。雑誌を作る側に立てば、この広範な「ジュニア小説ファン」層のどの年齢に照準を合わせていけばいいのか、むつかしい。ひっきょうそれは、ひとつの雑誌の目次に小学生向け、中学生向け、高校生、大学生向け、あるいは12歳~15歳、16歳~19・20代向けという小説や記事を載せたり、当時のグループサウンズや野球選手、芸能人の、いわば世代を越えた共通の記事を載せたりするしかない。小説雑誌としての質は、底上げされない状態になります。もっとも多くの発行部数を持っていた(言い換えれば、水ぶくれしていた)『小説ジュニア』はそういう編集の仕方をしていたと思われます。

マスコミでそろそろジュニア小説の中に、性愛描写があらわれはじめたことを取り沙汰された時期、『小説ジュニア』はそういう小説を載せない方針を取っていると編集長が語りました。

『ジュニア文芸』はそれと逆に、積極的に十代の〝愛と性〟をテーマに据えた文芸作品を志向しはじめます。人生相談に寄せられる内容を見ても、この問題は看過できないと考えたのでしょう。人生相談は三浦哲郎が担当し、その真摯な回答ぶりが人気でしたが、その内容はというと、ジュニア小説のキレイごとを嗤うかのようでした(読者から、あれは本当に読者投稿なのかという質問が寄せられるほどでした)。

『ジュニア文芸』はしばしば小説や記事の内容がむつかしい、偏っているという年少読者からの指摘を受けました(誌面にそれらの批判投稿を掲載しました)。しかし、林編集長は編集方針を変えた形跡がなく、むしろ「文芸」を冠した雑誌としての旗色を鮮明にしていった感があります。富島の「ジュニア小説を文学に」という主張に共鳴していたのでしょう。

とりわけ、それが先鋭化するのが、1969年ごろでしょうか。69年10月号から70年6月号まで林編集長は、常連作家たちに「私はこう思う―ジュニア小説の中の愛と性」というエッセイを書かせます。どれも60年代ジュニア小説ブームを考えるうえで貴重なものですので、タイトルを列記しておきましょう。「責任と自信をもってとりあげる〝性〟」(森一歩)「書きたいものをぼくは書く」(富島健夫)「肉体を持つ少年と少女を書きたい」(三木澄子)「健康的な場所で大らかに考えたい」(中村八朗)「愛にも性にも限界はない」(吉田とし)「私は読者のために書く」(諸星澄子)「ふたたび書きたいもの書く」(富島健夫)「だれに性を語る資格があるのか?」(宮敏彦)「愛も性もわが手で選ぶもの」(佐伯千秋)。

富島の最初のエッセイが載った69年11月号には『おさな妻』が掲載されていました。

45年4月号には、「少女小説にセックスがいっぱい」という朝日新聞の報道に抗議した特集をしています(小学館は朝日にたいし文書で抗議し、朝日はこれにたいして記事の不適切を認め、謝罪しました。さすが、大朝日です。しかしその論説委員たる入江徳郎は最低でした。彼が『おさな妻』攻撃の先鋒でしたが、テレビで「読んでいない、読まなくてもわかる」ことを公言して、オリジナルを読まずに批評する批評家の存在を明らかにしました)。

「この雑誌はまじめな小説の雑誌だし、読者の質も高い、とぼくは思っている。だから、ぼくの書きたい、訴えたいテーマを、力いっぱいぶっつけて、ちゃんと書いている。ぼくは『ジュニア文芸』にはぼくのほんものを書いているんだ」(『ジュニア文芸』70年12月号 奈良林祥との対談)と、本人がこの雑誌に力のこもったものを書いてきたことを認めています。編集側の林力氏も「富島氏は、一番いいものを『ジュニア文芸』に書いてくれた」とぼくに語りました。編集者の熱意と作家の熱意が幸福な一致をみたということなのでしょう。じっさい、この雑誌は号を重ねるごとに一種の熱気を帯びてきます。

富島はここに、今になっても読むに耐える青春小説をいくつも書きました。『心に王冠を』『朝雲の序曲』『生命の山河』『かりそめの恋』『純愛一路』『不良少年の恋』『おさな妻』『吹雪のなかの少年』『きみが心は』『青春前夜』『青春劇場』『少女の像』『月は赤かった』『サイン・ノート』、書き連ねるとほとんど富島の代表的〝ジュニア小説〟です。

71年8月、『小説ジュニア』とともにジュニア小説ブームを牽引していたこの『ジュニア文芸』は突然廃刊になります。8月最終号は、編集長林力の挨拶文とともに富島のエッセイ「明日のために」以下主要執筆者のエッセイを掲載しますが、だれもが戸惑いとおどろきを隠さない。

富島も「あるいは一部の皮相なるジャーナリズムは、本誌の退陣を評してとやかく言うかもしれない」と裏事情をのぞかせています。おりしも前年から「ジュニア雑誌の性描写」がマスコミに取りざたされ、前面に立ったのがこの雑誌でした。『おさな妻』掲載誌であったこともありましょう。前述したように、林力率いる『ジュニア文芸』はこの問題の矢面に立つなど雑誌の編集方針を先鋭なものに変えていました。だれしも、雑誌廃刊に「民間文部省」と呼ばれた出版社の裏事情を読んでも不思議ではありません。

これには、じつは大手出版社内部の組織力学もからんでいたようですが、廃刊時にも十万部の部数を誇っていたとのことで、富島は直に小学館の社長にかけあったということです。ジュニア小説というジャンルに新しい青春文学の創造の道を見出して、「『ジュニア文芸』にはぼくのほんものを書いている」作家は、ここで「ジュニア小説の限界」(中村八朗の富島評にある)を感じさせられたのかもしれません。

富島は亡くなる前年のエッセイでも、この雑誌の廃刊を惜しみました。



      (富島健夫と「ジュニア小説」その5)



 

 

 

 



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2011年06月26日

富島健夫の執筆拒否

富島健夫は66年以降ジュニア小説専門誌の競合のなかで、慎重に小説を書きつづけます。
とりわけ性描写については、慎重でした。「十七、八歳になったら、もうおとなですよね。人間の気持ちの底に流れる異性へのあこがれは、ぼくたちの頃と、今の若い子と少しも変わっていません」。だが、「ベッドシーンを入れてもいいと思っているが、必然性がないのでまだ使っていません」(
新告知板 ジュニア小説作家」『アサヒグラフ』67年9月22日号)とインタビューに答えています。

この当時、富島は読者の読書力を測っていたところがあります。性的な描写ばかりでなく、題材的にも炭鉱、感化院、定時制高校生、学生運動、植民地朝鮮、戦時中の青春と幅広く社会性を持込みながら、読者の反応を窺がっています。反応とは、雑誌のアンケートと月に2百通は来るというファンレターのことで、作家対読者の直截的なものでした。読者の観賞力と質の高さが、富島の考える新しい青春文学にとって不可欠だったからです(次回『富島健夫と「ジュニア文芸」』で詳述します)。

また、小説のリアリズムをきわめる=人間をありのまま描くことが、富島の作家デビュー初期のころからの主題でした(それゆえ、大江、石原、小田実らの同世代作家たちの小説のもつ観念性とは無縁だった)が、十代雑誌のなかでは性的なものにたいする読者の〝潔癖感〟にもきわめて慎重に配慮していました。


実例があります。

70年4月に学習研究社『小説女学生コース』から立風書房に発行元が変わり、改題された『女学生ロマン』には、71年にいちども富島の執筆がありません。ジュニア小説界の絶大な人気を誇る、いちばん客を呼べる作家がいちども作品を書かなかったというのは、異常です。佐伯千秋、三木澄子、諸星澄子、大木圭などの常連作家たちは登場しているのにです。
奇怪なのは、『女学生ロマン』5月号に載った6月号予告に〝他誌を圧倒する豪華執筆陣〟として〝巻頭長編 富島健夫〟〝巻末長編 佐伯千秋〟〝ユーモア 大木圭〟の名が載っているが、6月号はまったく違う執筆陣で、「編集部の手違いから先月号の次号予告で、富島健夫、佐伯千秋、大木圭先生のお名前を発表してしまいました。三先生と読者のみなさまにご迷惑をおかけしたことを、心からおわびいたします」という編集長の謝罪が入ったことです。この6月号の目次は、おそらくジュニア小説誌はじめてではないかと思えるほど、人気作家のいない精彩の欠いたものになりました。じっさいこんな〝手違い〟があるものでしょうか。富島のファンはさぞがっかりしたことでしょう。いったい何が起こったのか。

じつは富島の執筆拒否なのでした。

ことは『女学生ロマン』70年12月号から連載のはじまったある性医学者の「あなたのための性講座」にありました。

「あるジュニア雑誌に、ある性医学者の書いたエッセイが載せられた。そのなかに、ぼくが目をみはった個所がいくつかある。/そのひとつに、外国の少女の告白例として、オナニーのしかたが克明に描写されているのである。しかもその用語も過程もすべて、完全に具体的であった。/ぼくが目をみはったのは、ぼくがそれまで知らなかったことが書かれていたからではない。/その〝みごと〟といっていいくらいの露骨さについてである。ぼくは今まで東西の名作といわれている非合法出版の本、名作ならぬそれらのものを何回も読んだ経験を持つが、まったくそれと同程度の露出ぶりであった」。
「ぼくがそれと同程度の露出ぶりの小説ないしエッセイを発表したならば(まちがってもぼくはそういう節度のないことをするはずがない)、たちまち世の非難はぼくに集中し、いやそれ以前にその雑誌は発禁になったことであろう。/ぼくはただちにその雑誌の編集長に厳重抗議し、連載中の作品を打ち切ることを通告した。ぼくはぼくの尺度によってものをはかる。ぼくの小説の読者のなかの中学生、高校生の彼女たちに、そのような記事を読ませたくなかったからである。これは善い悪いの問題ではなく、ぼく自身の神経の問題だ」(「性を明るみに」『平凡パンチ』1970年12月21日号)。

富島は、1970年6月号から『女学生ロマン』に「日本の乙女たち」というシリーズで短篇を連載していました。全国を取材して少女たちを描くことになっていて、鹿児島、飛騨、秋田、横浜、浜松、佐渡、広島と書き進んだ同年12月号の『広島幻想』で「作品を打ち切」ったのです。「ぼくの小説の読者のなかの中学生、高校生の彼女たちに、そのような記事を読ませたくなかったから」で、つまり富島は、自分が書かなければ「ぼくの小説の読者」はこの雑誌を買わないはずだと言っているのです。

富島は、雑誌『女学生ロマン』から読者をひきつれて去ったのでした。凄い自信ですが、そういう圧倒的な人気に支えられていたということでもありました。『女学生ロマン』の売れ行きは毎号下り線を描いたことでしょう。

問題としたこの医学者の連載は、71年5月号で終わりますが、70年12号の分を除いてずっと控えめなまともな記事になっています。

富島は、ジュニア雑誌の小説に性の問題を持ち込んだ張本人でしたが、それは富島自身の文学的な美意識と文体に裏打ちされていました。野放図に、そういう女性週刊誌的興味で書いていたわけではない。それどころか、ジュニア作家たちがわが世の春のようにいたずらに性描写を書きこんでいることに眉をひそめていたのです。

しかし、このジュニア小説雑誌の世界で、富島健夫の作品を外して、雑誌がやって行けるはずがありませんでした。それほどの大御所でした。

編集部には富島の作品が載らないことを訝る読者からの投書がたくさん来たことでしょう。『女学生ロマン』の編集者は、ほとぼりの冷めたころを見計らって、4月号の次号広告に小さな活字で「特集・私のおふくろ」に富島の名を出しますが、5月号にはこれは掲載されず(断られたのでしょう)、6月号になって、佐藤愛子たちのエッセイを掲載しました。5月号で問題記事が終了したので、6月号の小説依頼をしたのかもしれません。宣伝が先行して、予告に書いてしまい、依頼に行ったところ、富島からすげなく断られたのではないでしょうか。宣伝が先行したこと自体を責められたのではないか。富島は律儀な性格だったから、こういう原則論にはうるさかった。また一度言い出したことは、頑固にこれを通しました。

それを「編集部の手違い」とするには、佐伯千秋、大木圭をその巻き添えにしなければならなくなった。その〝謝罪〟文はそんなふうに読みとれるのです。

のちに富島は一回だけ翻訳小説を手がけますが、そこでも「きわめて露骨な性描写があった。そのなかの非文学的な部分は可能なかぎり削除した。それらはぼくの文章表現上の美的感覚に反しているからである。外国の作家は(日本の一部の作家もそうだが)、無神経になまの表現をするものである。これは到底ぼくの神経の許容するものではなかった」(『ダモン DAMON』「訳出を終えて」1976年)と書いています。

大木圭の〝ユーモア〟は次号に掲載されているが、佐伯千秋は掲載されることがありませんでした。この雑誌は9月号でほとんど終刊を迎え、10月号は、誌名はそのままですが、11月からの『サムウェイ』というまったく違った傾向の青年雑誌の準備号のようになるからです。

『女学生ロマン』の発行元、立風書房は6年後に短編集『城下町の少女』を出し、翌77年に学習研究社版『富島健夫青春文庫』の新装版全5巻を刊行しますが、これは和解のために出版社が企画を持ち込んだのではないかと思われます。もちろんこれはぼくの邪推です。

富島はのちに、この執筆拒否の原因を作った医学博士と、「おそるべき十代の性典」(『週刊実話』74年10月3日号)というタイトルで、佐藤愛子もいっしょですが、鼎談をしています。富島はきっとその『女学生ロマン』の記事を書いたのが対面している医学博士だったことを忘れていたのでしょう。しかし医博のほうは覚えていたにちがいありません。

古週刊誌を調べていてその鼎談を発見したぼくは、唖然としました。富島健夫という作家には、そういう大雑把な面がありました。



               (富島健夫と「ジュニア小説」その4)



 


 



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2011年05月18日

富島健夫の付録小説

前稿で、富島は、菊池寛『心の王冠』を単行本で読んだのだろうと書きましたが、やはり初出誌の『少女倶楽部』のような気がします。富島にはこれを購読する年齢の姉がひとりいたからです。富島少年は『主婦之友』『キング』のような大人の雑誌を盗み読みしていたということなので、これは想像できます。


これらの雑誌には、本誌の中に付録と呼ばれるものが数点ついていました。現在、とりわけ女性誌の付録は豪華になって、ブランド小物の付録で購読者を釣っているところがありますが、昔はもっと創意工夫がありました。

ぼくの記憶では昭和30年代前半『少年画報』の中に、別冊付録として手塚治虫ら人気作家の漫画などが、多いときには5、6冊もついていた記憶がありますし、組み立て式の紙でできた蓄音機(ソノシートも付いていたような!)などもありました。

富島健夫の幼少年時代はどうだったでしょうか。
じつはありました。加藤謙一「付録の明暗」(『少年倶楽部時代』1968年講談社)には、『少年倶楽部』1914年(大正3年)は創刊当初から新年号に双六をつけた、とあります。それによれば、昭和2年8月号に付けた「考え物宝典 少年智恵合戦」という「豆本みたいな小冊子」が「別冊付録の元祖ともよばれている」そうです。付録は、もちろんぼくの紙製蓄音機のように、「日時計」「大飛行艇ドックス号模型」「名古屋城の発光大模型」「乃木大将直筆の教育勅語」なんてものまであったそうです。


昭和後期になると、少女雑誌と呼ばれるものにはいくつかの付録に、必ず1冊の別冊小説がつきました。学習雑誌には、小説のほかに世界の名作ダイジェストとか英語豆辞典のように数冊ついたものもあったようです。

津村節子の自伝小説『瑠璃色の石』(新潮社)によれば、『女学生の友』の「別冊付録は、二百三十六枚ぴったりという枚数の長篇で、文庫本版である。別冊付録が書けるのは、富島健夫、三木澄子、佐伯千秋のジュニア雑誌御三家と私のほか一人か二人で、四、五カ月に一度は廻ってくる」。これはしかとは年代が記入されていないのですが、前後の文章からすると、どうやら昭和33、4年から39年の間のことであるらしい。と、すればまだ富島は、〝ジュニア雑誌御三家〟ではありません。

この自伝小説には少女雑誌の記述にいくつか誤りや混乱があって、惜しいのですが、富島が最初に書いた『また会う日に』という付録小説は、昭和40年で、まあちょっとのずれだからそれは構わないとしても、〝ジュニア雑誌御三家〟だから別冊付録小説を当然書いたと津村は思い込んでいるようですが、じつは富島は「四、五カ月に一度」なんて書いていません。『女学生の友』はたった2回です。

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富島には少女雑誌の付録小説が3点あります。『また会う日に』(「女学生の友」昭和40年7月号)『春の坂』(「美しい十代」昭和41年4月号)『制服の庭』(「女学生の友」昭和42年4月号)です。

この他に『花ひらくとき』(「中三時代」昭和46年6月号)というのもあるのですが、これは同誌に昭和45年9月号~12月号まで連載したものを、別冊付録にまとめたもの(単行本としては未刊行)なので、書下ろしとしては3点です。

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ところで、この最初の付録小説『また会う日に』は、武村一郎という別名で書かれました。

これじゃ商品としては格落ちです。編集者は、富島健夫・作でいきたかったでしょう。

しかし富島は、別名じゃないとイヤだとゴネタのでしょう。幼少から親しんだ『少年倶楽部』などの別冊付録の、いかにもオマケのような形態が頭にあって、抵抗したのではないか。本誌は残るが、オマケは打ち捨てられるという印象がつよかったのではないでしょうか。

集英社コバルトブックス創刊の最初の1冊として刊行されたとき、『また会う日に』は富島名にもどされました。げんきんなものです。

武村一郎という別名は、このとき一回切りで、あとの2冊は富島健夫で書かれました。


これらの別冊にも恒例の「作者のことば」が付きましたが、『制服の庭』は「この小説は、『女学生の友』編集部の熱心なすすめによって、一九六七年一月十九日から二十五日までの六日間で書いた。というようなことなら、気軽に書けるのだが」といった素っ気ないもので、『春の坂』は「〝美しい十代〟の読者の、この四月の進級進学へのプレゼントとして書いた。水野豊編集長の熱心なおすすめに降参したからでもある。/これを読んでおもしろいと思ったならば、本誌連載の「赤い一本の道」を、あらためてはじめから読みかえしてほしい」と、イヤイヤ書いた雰囲気が濃厚で、本誌の方は力を入れて書いている、といわんばかりです。


富島の雑誌の付録への偏見は抜きがたいものがあったようですが、逆に考えれば富島健夫にとって少女雑誌の小説は書き飛ばしではなく本腰を入れて文芸作品として書いていたという証明でもあります。


          (富島健夫と「ジュニア小説」その3)




※付録小説資料は所蔵者「富島健夫作品読書ノート~ふみの実験記録」のふみさんからの提供によります。撮影もふみさんです。



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2011年05月14日

『心に王冠を』

『セブンティーン』の誌名に富島の関与があったのではないか、というのはぼくの〝邪推〟です。週刊誌創刊よりずっと早くに、「十七才のこの胸に」(1964年)「十七才は一度だけ」(1965年)などの歌も流行していましたから、富島が十七歳にこだわったからというのは、関与の理由が希薄かもしれません。

もうひとつ、富島健夫が関与したのではないかとぼくが疑っている雑誌は『ジュニア文芸』です。これはもっと濃厚な〝邪推〟です。
小学館の『ジュニア文芸』は『小説ジュニア』に遅れること一年して、創刊されますが、当初は『女学生の友 ジュニア文芸』となっており、老舗の『女学生の友』の別冊のようでした。

『女学生の友』は1950年4月に、吉屋信子の連載小説を柱に創刊した、十代の女性向け総合誌で、少女小説の連載・読切小説が毎月かなりの数で掲載されていました。当時の書き手たちは西條八十、北條誠、森山啓、城戸禮、藤原てい、三谷晴美(瀬戸内晴美)から、三木澄子、佐伯千秋、津村節子、中村八郎らそのままジュニア小説全盛期を支えた作家たちもいました。
この『女学生の友』は、1954年ころ売れ行きが落ちたため、佐伯千秋を起用して、それまで少女小説にはS(女学生同士の恋愛)が描かれていたところを、男女交際に主題を転換させたら、売り上げが伸びたということです(木本至「思い出の雑誌研究」『ダカーポ』1984年7月20日号)。編集長、桜田正樹はそれで小学館の番頭格から男女交際なんかを小説の売り物にして「小学館の看板に傷をつけるとは何事か」と叱られたそうですが、このときから恋愛問題が少女雑誌に持ち込まれたことになります。もともと「ジュニア小説」という呼称を最初に使ったのがこの雑誌で、昭和34年10月号の目次から、とつぜん読切小説は「少女小説」から「ジュニア小説」に変わりました。この木本至のインタビューで桜田正樹は「ジュニア小説という呼称を作った」と言っていますが、このことだと思います。

ですから、『小説ジュニア』の成功に追随した、というのは正確ではないかもしれません。本家は『女学生の友』のほうでしたから。げんに集英社コバルトブックスの最初の作品群は、すべて『女学生の友』掲載小説で占められました。

『ジュニア文芸』は、先に『小説ジュニア』があったにも関わらず、「日本で唯一の若い女性のための小説誌」を標榜し、
「日本には〝子ども〟の小説と〝おとな〟の小説しかありません。《ジュニア文芸》は、現代一流の作家に依頼して〝若い女性のため〟のほんとうのロマンを生み出していきます」と創刊に当たって書きました。

ぼくの〝邪推〟はこれに反応しています。これは、富島の青春小説の志向と合致するものだからです。『ジュニア文芸』の林力編集長と富島は、古くから知り合いで、こののち富島の小説をめぐってマスコミが有害図書として騒ぎ出してからは同伴者のように富島擁護の論陣を張って、この雑誌尖鋭化することになりました。林力編集長は、数少ない富島健夫の理解者のひとりでした。

長篇『心に王冠を』は、『女学生の友 ジュニア文芸』昭和42年1月創刊号に掲載され、2月号に完結編が載りました。富島にはこの前に『湖は慕っている』というやはり読者の好評を得た長篇がありましたが、これは『別冊女学生の友』に昭和41年9月・11月に発表されたものなので、『ジュニア文芸』の第1作はこの長篇です。

この反響は大きいものがありました。意地の悪い継母と異母弟妹と、少年に冷たい仕打ちをするじつの父親という悪環境のなかで、ぼくはぼくの王である、とある日とつぜん覚醒して意識的に生きようとする少年。それを暖かく支える母子家庭の少女とその母親。まあ設定としては一昔前の少女小説や漫画などにありがちなものでしたが、富島的なのは自己確立をめざす意識を持った少年の設定でしょう。
ぼくも一読者として、主人公が受ける虐待に腹をたて、少女の母親や、少年を住み込み店員にして、やがて大学へ進む援助を申し出るラーメン屋のオヤジの愛情に目頭を熱くしたものです。読み終わるのが惜しかった。この続編が読みたいという読者の投稿がいくつかあったのを覚えていますが、それは小説の成功を示すなにものでもありません。

しかし、少年が周囲の環境のなかで、卑劣な者心まずしい者を〝ブタ〟と吐き捨てることが頻出するので、これに小気味よさを感じる読者もいたのですが、逆に抵抗感を覚えた読者も少なくなかったようです。主人公の少年の感想だけでなく、作者も一緒になって地の文章のなかで罵っていますので、これも当然のことで、小説としては疵だらけでした。しかし作者の体臭がこれほど感じられる小説もそうありません。

さて、この当時、富島は〝ジュニア〟小説を「あなたやあなたのお姉さんやおかあさんが読んでも等しく感動するものを書く」、つまり文芸作品として書く、という基本線では『若人』『美しい十代』などから一貫していたものの、どう書き進めていくか、ということでは、試行錯誤していたのではないかと思われます。

いきなり、「ジュニア」小説専門誌が続々とあらわれ、自分の書くものが読者の喝采を浴びて、つぎつぎに注文が舞い込む状態になったが、これは今までの『女学生の友』に代表される「少女小説」とどこがどう違うのか。

この状態で、「〝子ども〟の小説と〝おとな〟の小説しか」ないまずしい現状を打破する「〝若い女性のため〟のほんとうのロマン」、つまり新しい青春文学が生みだしていけるのか。

げんに少女小説の専門作家たちも目次に並ぶありさまで、富島はジュニア小説誌の小説の書き方、書き進め方に迷ったのではないでしょうか。

矢継ぎ早に発表する小説がどれも年若い読者に迎えられて、自分がこのジュニア小説雑誌の世界でイニシアチブを取っていることを強く自覚しはじめるにつれ、責任感も増したのではないかと思います。うまく導ければ新しい文学の分野が開ける。下手をすれば、ポシャりかねない。あるいは、富島の毛嫌いした「星よ菫よ調の少女小説」の一変種になってしまう。富島は走りながら、走る方向と方法を考えていたと思います。

試行錯誤していた、と言うのは、『心に王冠を』が少年小説にほかならなかったからです。『制服の胸のここには』も三人称で少年と少女の側から書かれたものでしたが、やはり少年小説というものだったでしょう。

『心に王冠を』は、富島が子どもの頃に読んだにちがいない菊池寛の『心の王冠』(1939年)を借用したものであり、菊池のそれは内容こそ異なりますが、少年小説でした。富島はこれを単行本で読んだと思いますが、初出は講談社の『少女倶楽部』です。ジュニア小説誌からの注文に、富島はかつて読んだ『少年倶楽部』の小説や吉川英治、佐藤紅録の小説が頭に浮かんだのでしょう。同じ昭和42年1月創刊の『小説女学生コース』の巻頭長篇は『若草燃ゆる』で、佐藤紅録ばりのタイトル。〝ジュニア〟の名を冠した雑誌に書くけれども、「少女小説」と思われるのを避けるために、少年を主人公として、少年の理想主義を描く小説、少年小説という形で提示していったのが、富島の初期のジュニア雑誌との関わりだったのではないでしょうか。

この〝ジュニア〟という言葉にあらわされる〝レベルの低さ〟にずっと抵抗を感じていた作家は、当初(『ジュニア文芸』の創刊年のころ)、少年小説の依頼に応じるような気持ちで筆を執っていたふしがあります。レベルを下げるという意味ではなく、肩の力を抜いて、人生の先輩として弟、妹に直截に人生の理想、青春のあり方について語りかける小説。富島は大人数の兄姉の末っ子でしたから、語りかける弟妹を持たなかったこともさいわいしたかもしれません。

富島は生真面目な文学青年気質の抜けない作家でしたから、面白いストーリーを追いながらもその中に「文学性」を盛り込むことを忘れませんでしたが、昭和39年に秋元書房から書下ろした長篇『のぶ子の悲しみ』が、富島の代表作『雪の記憶』『恋と少年』などにまっすぐに連なる文体で書かれたことを思うと、『制服の胸のここには』『心に王冠を』『初恋宣言』など初期のジュニア雑誌小説に使われた文体は、明らかに異質です。

前者を簡単に、硬質な文体(純文学の文体)とすれば、後者は軟質の文体、作者の体温が直接感じられて、人柄が滲み出ている文章です。いわば、語りのスタイルです。読む者は作中の少年に、富島健夫という作家を重ねやすい。いやじじつ重ねていました。少年が嫌悪している人々は作者も嫌悪している人々で、少年の怒りは作者の怒りで、地の文章でも作者はそれを露骨に出しています。

ここに、富島健夫という作家が、この時代、異常な人気に支えられた大きな理由があるような気がします。

こののち、富島は『のぶ子の悲しみ』のような硬質な文体で、「社会性のある小説」をめざして、ジュニア小説雑誌(ことに『ジュニア文芸』)に書くことになるのですが、それは理解力・読解力のある読者の存在を(読者の投書やファンレターで)知って、それに力を得た面があります。

しかし、ジュニア雑誌小説の多作で編みだし、洗練した、かなりラフな、この軟質の文体も適宜使いつづけることになります。
                     (富島健夫と「ジュニア小説」その2)



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2011年05月08日

『制服の胸のここには』

1965年の冬、集英社の編集者N氏から富島健夫に電話がかかります。
「今夜はどこへも行かずに家にいてくれないか」
理由を言わなかったのは、これから会議だったからでしょう。
富島が承知すると、一時間ほどしてまた電話が入り、これから自宅へ伺うと言います。
やがてやって来たN氏は、
「新しい小説雑誌を出すことに、今さっき決定した。自分が編集長になった。創刊号に巻頭三百枚を書いてほしい」と言いました。大役を任された人間の興奮と気負いが表情にあらわれていたことでしょう。
N氏はこのとき、富島が「虹は消えない」を連載している『女性明星』の副編集長でした。「虹は消えない」の連載は、この年の1月号から始まり、66年3月号までつづいたので、このとき終盤に差しかかっていました。富島が締切りを聞くと、言いにくそうに、二週間後だと言います。
「そりゃあ無理だ」
富島は、日数がないことを理由に断ります。

じつはこの年、富島はすでに〝青春小説〟の書き手としてかなり多忙になっていたのでした。『女性明星』のほかに、4月から『マドモアゼル』に「青春海流」を連載。5月から『週刊平凡』に、松本孝、戸川昌子、三浦哲郎(66年から、三浦、田辺聖子、佐藤愛子)とともに競作「恋愛百景」を連載。9月から『女学生の友』に「夜明けの星」を連載していました。とくに『マドモアゼル』の「青春海流」は、師匠の丹羽文雄の小説といっしょにスタートしたので、力をこめていたし、「虹は消えない」は超人気作家の梶山李之「女の斜塔」と目次にならんだので、これも力が入っていました。『週刊平凡』の競作も、大学同窓の芥川賞作家・三浦哲郎が毎回、結構の整った短篇を書いていたので、短篇小説に自信のある富島としては負けられなかったのです。

富島はそんな事情で、断ったのでしたが、N氏はめげなかった。N氏としては、二週間で三百枚の長篇が書ける筆の早い作家などおいそれと見つけることができないし、それも新雑誌の成功がかかっている巻頭長篇なので、読者に人気のある作家でなければならなかった。たぶん、その格好でいいから、と無理やりドテラ姿の富島をタクシーで練馬のキャバレーに連れて行って、かき口説いたのでした。いくら地元とはいえドテラ姿で入って来た客に、店もおどろいたことでしょう。N氏は富島に酒をすすめ、自分も飲み、「雑誌の成功は、富島さんの原稿次第なんだ。頼む」と口説きつづけたでしょう。情に弱かった富島は、酔っておおまかな気分になってついに承知します。
応諾されたN氏は、これも富島より酔って涙してよろこびます。N氏にとっては、新雑誌の編集長となっためでたい日に、富島の原稿が取れて、祝いの美酒となりました。富島は、多少ろれつの回らぬ口調で、「雑誌の創刊と君の編集長就任の祝いに書くぞ」「書くからには、青春小説の傑作をものにするぞ」くらいのことは言っただろうと想像されます。
新雑誌の編集後記に、「巻頭を飾る長編純愛小説『制服の胸のここには』は、青春文学の第一人者である富島健夫先生が、特に本誌の創刊を祝って書いてくださった傑作です」と、編集者のひとりは書いています。
のちに富島はこのエピソードに訂正を加えています。〝キャバレー〟が〝居酒屋〟になったのです。有名な小説となり、映画化もされた清純小説に〝キャバレー〟は合わないと思ったのでしょうか。しかし、やはり場所はキャバレーであったと思います。

一週間で「制服の胸のここには」三百枚を書き上げました。原稿料は十万円でした。高見順の『わが胸の底のここには』をもじったのですが、富島はそのもととなった島崎藤村の『若菜集』を中学生のころから愛唱してもいたのでした。

そのN氏の「新雑誌」が『小説ジュニア』でした。66年の1月に書店に並びました。富島は、作者のことばを記しました。
「16歳の春、福岡県立豊津高校2年2組のひとりに、ぼくはなった。

ぼくたちは50人だった。それは50の星であり、50の個性ある光を放っていた。そして、それぞれが孤独であった。肩を組んで、歌声はそろっていたが、ぼくらのほんとうの胸のうちを誰が知りえたろうか。
2年2組は、早熟でわがままで情熱的なクラスであった。そして、うつらうつらと日を送りながら、やがておのれの前に現れるであろう少女のために、胸に一輪の花を育てていたにちがいない。思い出の2年2組をこの小説にとりいれたのは、そこに生きた旧友たちに郷愁を感じていたからでもある」

この作者のことばを誤読した某新聞は、のちにこのジュニア小説ブームのきっかけとなった小説を、富島の〝私小説〟と書きましたが、これはもちろん誤解です。この作者のことばでも明らかですが、『制服の胸のここには』は〝少女小説〟ではなく、言うならば少年小説として書かれました。ジュニア小説ブームの先駆けとなった小説が、少年を主人公としたものであったことはもっと注目されてもいいことでしょう。
『制服の胸のここには』は、富島の青春小説の名作とも代表作とも称されるものになりました。じっさいジュニア小説のブームはここから始まったといって過言ではありません。富島みずから「ジュニア小説の古典」と言っている作品です。

『小説ジュニア』は売り切れになりました。雑誌としては珍しい増刷を行っています。はじめ季刊であったのに直ぐに月刊となって、ジュニア小説ブームを牽引しつづけます。
かわりに『女性明星』は7月号で廃刊となり、富島が「虹は消えない」につづいて同誌に3月号から連載していた小説「ちぎれ雲の歌」は、8月号から『小説ジュニア』に連載が移されました。(『虹は消えない』は66年に集英社から刊行されると、産院の赤ん坊すりかえ事件の悲劇の物語は、テレビドラマらしい内容だったのか、その後二度にわたってテレビの連続ドラマになっています。)

つまり、『女性明星』の読者が初期の『小説ジュニア』の読者になったということでした。雑誌社の編集者にとっては当初〝ジュニア〟は〝若い女性層〟と同義であったのだと思われます。
この時点で、すでに富島は若い読者の人気作家となっていました。『小説ジュニア』創刊の年の8月から、学習研究社版『富島健夫青春文庫』の刊行が開始されているのです。だから、『小説ジュニア』の創刊から、富島健夫の人気が沸騰したというのは事実ではありません。しかし、『制服の胸のここには』ではじめて富島健夫を知った読者は、『青春文庫』の読者となったことでしょうから、学研のこの選集は売れました。


『小説ジュニア』の成功を見て、他社からも追随するジュニア小説誌がぞくぞく創刊され、ジュニア小説の隆盛を招来することになりました。
67年に入ると、『女学生の友 ジュニア文芸』(小学館 のち『ジュニア文芸』)、『小説女学生コース』(学研)、『ジュニアライフ』(旺文社)が創刊。創刊号の巻頭長篇はすべて富島が執筆しています。以後、四年ほどこれらのジュニア小説専門誌や少女雑誌、学年雑誌、週刊誌に富島の名がない月が見当たらないほど、一挙掲載長篇、中短篇、連載、エッセイを書き続けることになります。いかにも疲労した表情の富島のスナップが、ときおりそれらの雑誌に載りました。文壇の長者番付に入らないのが不思議なほどの売れっ子ぶりでしたが、書いた本は単価が安く、雑誌も一般誌と比べると稿料が安かったのでしょう。しかし、富島はこの世界ではもっとも稿料の高い作家となりました。どの雑誌にも読者アンケートのハガキが付いていて、「今月号でいちばん良かった小説は」場合によっては「面白くなかった小説は」というのもあり、翌月には結果が出て作家の生死にかかわる、それは非情な世界でしたが、富島はいつもトップランナーでした。

68年、少女週刊誌として登場した『セブンティーン』の創刊号も富島の連載小説が目玉でした。ぼくはこの週刊誌のタイトルにも富島の提案が働いているのではないかと疑っています。十七歳というのは、富島がとてもこだわった年齢で、というのも学制改革で男女共学が実施された年齢だからです。富島健夫の青春文学が、この十七歳のときに男女共学のはじまった豊津高校で涵養されたものであることは明らかで、ジャーナリズムから未成年者に害のある読み物を書く作家だと袋叩きされた時期にも、富島は「十七歳はおとなである」と主張してはばかりませんでした。恋愛をしていた富島少年の経験がそれを裏打ちしていました。


(富島健夫と「ジュニア小説」その1)



y_arakawa1970 at 04:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)