2011年03月

2011年03月31日

みんなちがって・・

ウザイとかうるさい、とか偽善的だとか、洗脳されそうだ、とか
色々評判になっているACのコマーシャルの中の

「こだまでしょうか
 いいえ、だれでも」

というあれが、金子みすずの詩だと知らなかった人に
金子みすずの名前と詩が広まっている、とか。

それはそれとして

もし金子みすずの詩をお使いになるのなら
こっちもとりあげて欲しいな^^

わたしと小鳥とすずと」

著作権とか考えて全部は載せませんが
検索すればすぐ出ます。

「みんなちがって
 みんないい」


✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽

誰も経験したことのない大惨事に見舞われているのだから
人々の心の動きや反応に
予測不可能なことが次々起こるのは仕方ないけれど
こういう時にわたしが本能的に一番気持ち悪いのが

「ひとつになろう!ニッポン!!」

の号令のもと
みんなが同じ方を向いて
同じやり方をするべき、と言わんばかりに
普通の人どうしで自粛を強要しあったり
大きい流れに乗らない少数派を糾弾したりする空気。

おそらく生物学的に言っても
全員が同じ方向に向いて走り出したら
その種は、絶滅の可能性が高くなる。
多様性こそが、種が生き延びる大事なポイント
かも。


何かしたい、と思っている人たちが
それぞれ自分のやり方で
被災地の方たちの支援をどんどん始めているのを見るのは
すごく元気になるし
自分が動き出す力にもなる。

でも、
どういう方法をとるかは自分が決めること。
それぞれの得意分野で
自分のやり方でやれば良い。

自分の肌や身の丈に合わない、と思うものは
断れば良い。

無理はしない方がいいと思う。
一時的な盛り上がりではなく
ずーっと長く続けていかなければならないことだから。

✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽

わたしが思っているのは。

日本赤十字に送られる募金や
避難所にあてた物資の支援もしているけど
小さい活動でいいから
個別に自分の関わりのある繋がりを通して
具体的に情報をやりとりしながら出来る支援を続ける。

それから
原発をやめよう、と25年言ってきた立場として
こういう被害者を出さないためにやってきたのに
被害に合わせてしまった方たちへの
申し訳ない、ごめんなさい、の気持ちからの支援。

今も、高濃度の放射能の環境の中で
危険な作業をしている方たち。

いつまで続くかわからない
深刻な放射能汚染を経験してしまった
福島原発周辺に住んでいる方たちや
農業や漁業に対して。

どういう支援が可能か
今出来ることから始めているけれど
本当に何が大事か
何が出来るか
やりながら考えます。

金銭的な支援。
今後、保証に関する裁判が起こった時の支援。
応援のメッセージを届ける。

そして何より
続けること。

✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽**✻ฺ✽

節電は・・。

地域によって状況が違うと思うので
札幌の場合。

北海道電力の電気は
本州に送れる分は100%送っていて
それでも余っているらしい。

節電、自粛をすることで
被災地と同じ辛さを味わって気持ちを共有する
という意味はあるかもしれないけれど

むしろ、元気な人は元気な生活をして
その元気を被災地のために使う
という方が理にかなっている、とも思う。

でも。

わたしは、是非とも
まずプルサーマルで発電が予定されている
泊原発3号機を凍結させたいので

こうします。

「節電します!
 だから、とりあえず泊原発3号機を
 ペンディングでも、凍結でもいいので
 計画を中断して下さい!」

小鳥みたいに
上手に空は飛べないけれど
わたしに一番馴染むのが
このやり方です。














y_csm521 at 13:56|PermalinkComments(0)世界 | ことば

2011年03月27日

私の歴史(2)

3月11日の震災と福島原発事故から9日目の
3月20日。

原発の話を聞こう、という集会に出た。
場所は、もう8年も行きつけの玄米ご飯屋さんの
3回目に引っ越したところで
わたしも行くのは初めてだった。

番地で探していたら
携帯で話しながらうろうろしている人が
あっちにもこっちにも居る。

お互いすれ違う時に

「あ、もしかして、○○○、探してるんですか?」
「そうです!」
「なんか、こっちらしいですよ」

そしてそちらに向かいながら話してみたら

「今まで原発のこと、何も知らなかったんですけど
今度のことで、これは知っておかなきゃ、って思って
初めてこういうのに出るんです」

と若いお母さんらしき人が話してくれた。
うれしかった。

会場に入り、33年もの間、泊原発を監視し続け
(つまり稼働前から)
温排水の温度を測り続けている方の話を聞き
講演が終わってからアピールの時間があって
いろいろな人がそれぞれの活動について話した。

25年前の時に見た顔が、たくさんあった。
それぞれ、地味に地道に、続けていたんだなぁ。
と、これまら感慨深い。

中でも一番インパクトがあったのは。

わたしたちも少し関わった
チェルノブィリの子供たちの受け入れを続けているグループが
今でも、支援のために
放射能の強い地域に札幌から毎年訪問している
ということがわかった。

今回の震災と原発事故について
その地域の方たちはことの他心を痛めている、と
メッセージを読んでくれた。

チェルノブィリ事故の立ち入り禁止地域の近くに行くと
頭が痛くなるんです、と話してくれた。
今は、当時の子供たちで無事に大人になれた人たちが
結婚して子供を生んでいて
いわゆるチェルノブィリ2世ということなんですが
その子たちのかなりの数が・・・・
と、つらい状況も話してくれた。

「でも、そこに取り残されている人たちのことを思うと
放射能が怖いから、行かない、という気持ちにはならない。
ずっと応援し続けます、という気持ちを表したいから行くのです」

この言葉を聞いて、大事なことをひとつ、気づくことが出来た。
(それについては、後で・・明日かも?^^;書きます)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・と、つらつら考えていたら
もっと昔のことをどんどん思い出した。

わたしは、長崎で生まれた。
父は戦争に行っていたし
母は満州に疎開していたので
被爆はしていない。

でも、終戦後すぐ、両親は、母方の実家がある長崎に戻り
しばらくそこで滞在した。
父は、長崎大学で教鞭をとっていた時期もあったらしい。
3年後の1948年にわたしを生んだ後
1年か2年後(なにしろみんな死んでしまったので、よく知らない^^;)
東京に居を移した。

両親、離婚。
母は、妹一家の家に、わたしを連れて居候。
その3年後。
1953年、母は、当時は珍しい病気だったが
急性骨髄性白血病で死亡。40歳。

5歳でひとりぼっちになったわたしを
一緒に住んでいた母の妹である叔母一家が
養女にしてくれた。

ここから後は、この母(今湯河原に居る)の教育の
たまものだった、ということだが・・。

特に左翼的な家だったわけではない。
義理の父は国家公務員だったから
特に政治的に偏った思想の家ではなかった。

でも、わたしは多分、小学校に入るか入らないかの時に
「これは見ておかなきゃね」
と言われて、母に連れられて
「原爆許すまじ」
という記録映画を観に行った。
白黒の画面で見た悲惨な場面をいくつか、覚えている。

それ以上にわたしの中に刻まれたのが
この映画の主題歌。

「ふるさとの町焼かれ
 身寄りの骨埋めし焼け土に
 今は白い花咲く
 あぁ、許すまじ、原爆を
 三度許すまじ、原爆を
 我らの町に」

おそらく、短調で、ストレート、というか
単純なこのメロディーが
わたしの何かを刺激したのだろう。

小学校一年生の女の子が
ひとりで遊びながら
この歌を何度でも口ずさんでいたわけで
親の思想を、何も知らない子供に植え付けて洗脳している、と
思うむきもありそうだけれど(笑)
当時は、原爆の被害がようやくわかり始めて
日本中が原爆反対、という風潮だったのだ。

後からわかったことだけれど
長崎の原爆はプルトニウム爆弾だから
長崎の被爆者
(直接被爆しなくても、残留放射能、つまり、
今で言えば体内被曝の影響大)
は、白血病の割合が多い。

原爆が落とされた当時は、「新型爆弾」と言われて
いったい何が起こったのか
ほとんどの人は知らなかったのだ。
だから、直接被爆しなかった人が次々深刻な病気になって
初めて
これは普通の爆弾とは違う、と徐々にわかり始めた。

一方アメリカは(ここから先は、憶測でしかないけれど)
ある種の人体実験の意味もあって
もうほうっておいても敗戦は明らかだった日本に
二種類の原爆を落とした・・・のかもしれない。

敗戦直後から、GHQの調査団が入って
放射能の影響を詳しく調べたらしいから。

長崎に落とされて
そして今、福島からもう出ているか、いやまだ出ていない、と
恐れられているプルトニウム(半減期2万4千年)は、
カルシウムと似ている。
人間の身体は、放射性物質とそうでないものとの区別がつかないから
骨にとりこんでしまう。
故に、骨髄が癌になって、白血病をひきおこす。

わたしが小学生の頃は
米ソの対立がどんどん激しくなり
核兵器開発競争がエスカレートして
両国がどんどん核実験を始めた。

1954年にアメリカの水爆実験で
マグロ漁船の第五福竜丸の乗員が死の灰を浴び
半年後に死亡した。
これはかなり大きく報道されて
我が家でも話題になった。

「雨が降ったら、濡れないように気をつけて
必ず傘をさしなさい。
放射能が入っていますから」

と、学校の先生に言われたのだったか
親に言われたのだったか・・。

核実験で放射能に汚染されたマグロを食べると
病気になる、という話が広まった。

5歳の時に別れた父は、というと
その後、一年に数回、会いに来てくれていたけれど
母が亡くなって20年後、内臓の癌で65歳で死亡。

母は58年前、父は37年前に、ともに癌で死んでいる。
今でこそ、癌はありふれた病気で
今や2人に一人が癌になり、3人に一人が癌で死ぬ、と言われているが
当時は、とても珍しい病気だった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・・で、何が言いたいかと言うと

わたしの中には、放射能はいのちに反する、という思想が
わたしの存在の中心になっている、と言ってもよいほど
根付いている。

誰かに(誰に?笑)洗脳された
反原発カルト、と片付けられるような
簡単なものじゃないんです。

たとえ安全に稼働したとしても
一年間で広島型原爆1000発分
の放射能をもったゴミが出る原発が
日本に50基以上もあり
その放射能の毒性は3万年も残り
その確実な処理方法はまだ確立されていない。

しかも、いったん事故が起これば
人命と環境に予測不可能な重大な被害をもたらす。

こんな原発を、これからもどんどん作り続けるなんて
本能的に受け入れられません。

やめ方は、いろいろな選択肢があろうかと思います。
代わりのエネルギーの問題もあります。
でも、もう黙っているのはやめます。

なので
万が一、原発推進派の方がわたしと関わろうとなさっても
わたしを説得するのは無駄ですから
そのエネルギーは他でお使い下さい。

よろしく~~^^







y_csm521 at 21:59|PermalinkComments(0)世界 | essay

私の歴史(1)

たしか、今から33年ほど前。
結婚して、2歳の子供が一人(Yosuke)居たころ。

当時通っていた世田谷の教会のおば様で
「キリスト教僑風会」という団体に属していた方たちが
・・・思えばあのおば様たち、今のわたしよりも若かっただろうなぁ・・

「日本はエネルギー政策が変わって
 今はもう原子力で発電するようになりました。
 けれども、この原子力による発電は、実は
 『平和利用』という呼び声とはほど遠い
 大変危険なものです」

と、話された。
もしかしたらこれが、わたしが「原発」という言葉を聞いた
最初かもしれない。

「え?日本って、もう原子力で発電しているの?
 しかも、唯一の被爆国として
 核兵器は決して許してはいけないけれど
 平和利用すれば原子力はすばらしいものだ、って言っている
 政府の見解は、やっぱり疑わないといけないのね・・」

と、この時30歳ぐらいだったわたしは思った。

それから、平和憲法を勉強する会などに顔を出すようになって
原発の危険性も、文字の上ではかなり目にするようになった。

でも、正直、
「確かに大きな事故になったら危険だろうけれど
 どうしても今すぐやめさせなければならない、というほどの
 インパクトが無いなぁ・・」
と感じていた。

25年前、1986年4月。
東京から札幌に転勤になった。 
4月3日。
初めて北海道の地を踏むのでドキドキしながら引越し。
4月26日。
チェルノブィリ原発、核分裂反応暴走による大事故発生。

引っ越してたった3週間しか経っていなかったけれど
開催される集会を調べて参加した。
どういうつながりか忘れたけれど
地域で同じ思いの女性(ほぼ主婦で母)が集まって
小さいグループを結成。

いろいろな活動をしている団体とコンタクトを取っては
時に応じて自分たちなりの活動を始めた。

<泊原発>
チェルノブィリ事故後、初めて新しく稼働することに決まっていた
泊原発の、凍結を求める運動。
全国から泊をとめるためにたくさんの人が集まった。

この運動の特徴は、いわゆる左翼運動の組合主体ではなく
普通のお母さんたちが、自分の子供の未来を守るために
いてもたってもいられなくなって、動き始めた、ということだった。
動員されてデモに参加するのではなく
ひとりひとりが個人として、出来ることをやろう
という空気が、わたしの肌にとても合った。

北海道電力に電話をかけたり
道庁の担当者に話しに行ったり
(大勢で押しかけて・・っていうのは肌に合わないので
 ひとりで)
いろいろな集会やデモに参加して
電力会社の、どうにもならない体質は肌で感じた。

1988年7月
「泊原発の可否を問う道民投票条例制定の直接請求」運動が起き、
100万筆を超える署名を集めながら、
道議会においてわずか2票差で否決されてしまった。
この時の署名は、いつも特に原発に関心が高いわけではない人たちも
かなり署名してくれた。
しかし、残念ながら、
泊原発は1989年に一号機が、1991年に二号機が
運転開始してしまった。

<風下のこどもたち>

チェルノブィリの事故の翌々年
事故当時の南風に乗って流れてきた放射性物質により
汚染された地域の子供たちを
一時疎開させるプロジェクトが札幌で始まり
わたしたちのグループも4人の子供たち(男子2人女子2人)
を受け入れることになった。
我が家にもベラルーシの小学生の男の子が二人、数日滞在した。

ロシア語と日本語とみぶり手振りで
当時1年生だったムスメは、彼ら、彼女らと仲良くなった。

4人のうち何人かは、事故以来、血尿が止まらなかったのが
札幌で過ごして放射能が含まれない空気を吸い
水を飲んでいるうちに、かなり症状が改善された。

でも、また自分たちの町に戻ったら・・・。

<その他の活動>

当時はまだみんな若かったので^^;
(わたしが40歳ぐらい。ほかの人たちは同じぐらいか、少し若い)
年に2回ぐらい、リサイクルのバザーをやって
売り上げをチェルノブィリの子供たちの支援のために送ったり。

地域の子供たちのために
原発のこと
差別のこと
など、いろいろな問題を考えるための映画会を催したり。

バザーも映画会も、12年ぐらいは(つまり、それぞれ20回ぐらい)
かなり頑張って、たくさんの人に参加してもらった。

当時の中心メンバーは6~7人。
それぞれが参加しているグループの
情報交換などのために
特に自分たち主催の行事が無い時にも
毎月26日。
チェルノブィリの日であり、
日本の東海村で最初に発電に成功した「原子力の日」でもあるこの日に
曜日にかかわらず、毎月集まっている。

思えば、25年×12回=300回・・・え??^^;

これは凄い(笑)

<この10年ぐらい>

全国の原発の危うい事故や
作業員の死亡事故
六ヶ所村
プルサーマル
東海村JCO臨界事故

などなど、そのつど勉強会に出たり
署名を集めたりしたけれど
わたし個人的には
便利であることに満足しているように見える世の中に対して
これ以上わたしごときが警告を発しても
無駄だろうな・・・と、諦めの気持ちになり始める。

きっとみんな、原発の危険性や、核のゴミ問題や
事故が起こった時にどういう状況になるか
知っていながら、これでいい、って思っているんだろう。

そういう思いもあった。

そして、2011年3月11日・・。

(つづく)








y_csm521 at 20:36|PermalinkComments(0)世界 | essay

2011年03月26日

ツイッターより

3/24

・わたしのやり方。政府の対応やマスコミの報道は確かにひど過ぎる。必要だと思ったら、個人としての抗議はするつもり。でも、恐怖心や苛立ちを、誰かを悪者にすることで発散しても無意味。自分たちの未来を守るのは自分たちだけ。賢く情報を読み取って行動に移すのみ。と思おうとしている^^;


・しない、と決めていること。「十把一絡げ」されるのが嫌い。「女って・癌患者って・反原発の人って・クリスチャンって◎◎だよね」いや、一人一人違いますから^^;だから自分もしないように気をつける。冷静に多方面からの情報を、枠組みに惑わされずに読み取る眼を育てたい。


・福島原発の事故が起こる前までは、大変な救援活動に携わっている方々に「ありがとう!お願いします<(_ _)>」という気持ちだったのに、高いレベルの放射線を浴びながら活動して下さっている方々(報道されない方も含めて)への言葉が、まだ見つからない・・。


・原発事故は、どう見ても人災。原発推進、原発反対、無関心、いずれの立場の人をも含む私たち大人全部がその責任を負わなければならない。責任をとる道は多様だけれど、目的地は同じ、だったらどんなに良いだろう。

3/26

・久しぶりに一人で温泉。源泉かけながしの露天風呂に浸かったら、今までいかに身体を固くしてたか初めてわかった。 身体が緩んだらいつもなら元気になるのに、じわじわ悲しくなった。でも、今私がするべきことは、前よりはっきりした。


y_csm521 at 17:15|PermalinkComments(0)ことば 

2011年03月25日

十代の日記

もう出回っているので
お読みになった方もあると思いますが
アイドルの女の子のブログです。

そう、このまっすぐな感覚が必要なんです。

長年、脱原発に関わっていると
諦めに覆われて
この大事な時にまっすぐ言えなくなり勝ち。

でも、自分の子供や孫の命を考えたら
こう思って当然でしょう?

という、その原点に還って
まっすぐ語りたいと思います。

もしかしたら消されちゃうかもしれないから
今のうちに、コピーしておきます。

http://ameblo.jp/cocoro2008/entry-10839026826.html





y_csm521 at 17:00|PermalinkComments(0)世界 | いのち