2004年04月03日

東北高校敗退に見た、ゆとり教育

 教育の場は、生徒が常に確実な成功を目的にしなければならない場というよりも、社会に出るまでの通過点として失敗を経験できる唯一の場であるとすれば、東北高校の若生監督の采配は教育者としてあるべき姿だったと思う。若生監督がまるで進学塾の教師のように、生徒の志望校合格を確実にすることを教育者の義務と考える人だったら、あのとき真壁投手を降板させていただろう。
 正直、今回の試合を見て、東北地方の高校野球は「したたかさに欠け、詰めが甘い」という特徴を再認識したのは事実だ。しかし野球を教育の場として考え、あえて「したたかさに欠け、詰めが甘い」となっても構わないと考えているのだとすれば、東北地方はいまだそういう教育が出来る場であるのかもしれないなという捉え方も出来る。

 「ゆとり教育」が「教える内容と授業時間」に基準をおいたため学力の低下をまねいたのだとしたら、今回の試合で若生監督が採った采配こそが本当の意味での「ゆとり教育」ではないか。失敗の可能性があっても生徒の意思・立場を尊重する教師の余裕、懐の深さ。それにより生徒が失敗から学ぶ力(学力)を高めることになる。目的は甲子園優勝よりも、生徒の人生。そう考えれば「ゆとり教育」自体、そんなに新しい教育方法ではなかったことに気付く。

この記事へのトラックバックURL