2004年04月25日

家族社会について

 「渡る世間は鬼ばかり」の「幸楽」の家族に「今の日本」を重ねてしまう。祖母が「いまだ残る日本の前近代」の象徴で、母親が「子供の自由に理解を示す日本の親」の象徴で、孫が「その親に育てられる日本の子供」の象徴、そして父親が「日本政府」の象徴である。
 孫が問題を起こしたら、責任をとるのは家族の代表である父親で、彼は先代である祖母を尊重するからこそ、孫に対して制裁を加えて示しをつけなければと考える。しかし母親は「子供には子供の考えがあってやったの。自分たちの将来を考えたからこそやったの」と父親に反論する。祖母は「父親のお前がしっかりしてないから、嫁がつけあがるんだよ」と嫌みのひとつふたつを言う。「幸楽」は、いつもこの繰り返しで、けっきょくそれだけをやっている。まさに先へ進めない「日本の象徴」である。

 この、先に進めない状態の打開は孫にかかっている。孫は「幸楽を継ぐ選択肢」をのこしながら「それ以外の方向性」を、家族社会に所属しながら模索している。だから孫は「前近代」を捨てきれないでいることになる。だから時々店を手伝う。いずれ「自立」か「所属」かを選ばなければならないのに、そのどちらも曖昧にしている中途半端な状態を維持しているから「幸楽」は、いつもこの繰り返しで、けっきょくそれだけをやっているのである。

 家を継ぐのならそれでいい。それは「自分の生き方を自分で考えられる近代」においてそれでいい。しかし「それ以外の方向性」を望むのなら、早々と家を出て自立すべきである。それは「国民が国に頼らず自立する」ようなものである。だから「家を出て自立する」とか「会社を辞めて独立開業する」という近代的な行為は「なんてアナーキーな行為なのだろう」と、ときどき私は驚くことがある。

 アナーキーとは「無政府で無秩序であること」だから「家を出て自立するとか、会社を辞めて独立開業する」は「自分自身で政府なり秩序なりをつくる」ということである。自立を受け入れる状態が、これまで日本にあったということは「日本は十分に近代化していた」ということでもある。しかしそれはあくまでも「近代化を受け入れる環境がある」でしかなく、日本人全てが「自分自身で政府なり秩序なりをつくる」をしていたわけではないのである。

 だから「自分自身で政府なり秩序なりをつくる」をすでにしている人にとっては「いざとなったら親や会社の面倒になるような人」が「あまちゃん」に感じられて、だからそこに生まれる言葉が「自己責任」である。「自己責任」に敏感な人は、おそらくそういう人だとしか思えない。そうでもないのに「自己責任の認識を他人に強要できる人」はそうそういないと思う。いるとすれば、それはたんなる「自分の無力を棚にあげた、憂さ晴らし」である。

 「幸楽」の父親は、孫の意志によっては「店は自分の代で終わってもいい」とさえ考えているようで、祖母はそれを聞いて困惑の表情をする。それは「幸楽」だけでなく「国とか企業」もそうなのかもしれないなと、私は思うばかりである。

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