2004年04月26日

希望について

 けっきょく日本はいまだ「ムラ社会」であり、同時に「家族社会」でもあって、そこから離脱しなければ日本人に「近代化」は訪れないと私は言っている。「ムラ社会」や「家族社会」に「そこから離脱できる手段」があるということは「近代化を実現できる環境がある」ということである。だから「そこから離脱」して「自分自身で政府なり秩序なりをつくる」が「近代化を実現すること」である。しかし「それが容易にできない矛盾した環境」が日本にはある。だから日本には近代化は訪れない。日本はやっぱり堂々回りの「幸楽」である。
 なぜそこに「堂々回り」が生まれるかといえば、そこに「近代の認識」があるからである。「近代の認識」がなければ、それは「ただ前例に従うだけの前近代」である。そこに「自分で考えることができる近代」の「認識」があるからこそ「前近代」と「近代」との間で「堂々回り」が成り立ってしまうのである。

 以下に記載する「ムラ」は、おそらく「家族」「国」「企業」そして「現代」と同義である。

 それまでムラは平和(であるかのよう)であった。なぜなら「ただ前例に従うこと」でしか人が生きる方法がない「単純な社会」だったからだ。それに疑問や不満を抱けば、その人間はムラから排除(=村八分。家族の場合は勘当、企業の場合はクビ、国の場合は自己責任?、現代の場合は負け組?)すればいいだけのシンプルな社会だった。しかしムラの外側に「ムラに対する疑問や不満を受け入れる価値観」つまり「自分で考えてもいいよ」の「近代」があらわれた。

 ムラはムラのままで「近代なんて関係ないや」と思っていたが「近代とは、ムラに対する疑問や不満を受け入れる価値観」で「そんな人間でも(こそ)生きていける社会」であるから「もともとムラに疑問や不満があった人間」は、どんどんムラを去っていった。

 そんなふうに多くの「もともとムラに疑問や不満があった人間」に去られたムラが「近代を理解しようとしてやってしまうこと」つまり「近代を誤って理解してるからこそやってしまうこと」が、よく田舎に突如として誕生する「近代風の建築物」である。そしてそれが「六本木ヒルズの回転ドア」でもあると私は考える。だから日本は「木を見ても、森を見てもムラ=前近代のまま」なのだと思う。

 「近代を認識したムラ」で「近代的な思考や行動」をすれば、それは「ムラが近代を認識している範囲内」では容認されるが、そのムラが「近代を認識してるだけ」で「近代化を達成していない」であれば「ムラが認識している範囲内を超越した、近代的な思考や行動」は「ムラにとって理解を超えている」であり、つまり「ムラにはわからない」である。だから「都会を知る田舎の若者は、田舎の限界を知ってしまって、それを実現するには田舎では無理なので都会に移住する」のだが、奇しくも日本とは「都会が、そのまま田舎だったりする」のである。

 だから「都会から見て田舎に感じる奇異」は「都会にも同様に存在する奇異」なのである。つまり「日本自体が奇異」なのである。それが「外国から見た日本の奇異」である。そして「外国から見た日本の奇異」があって「○○○○○から見た世界の奇異」もあるとすれば「世界さえ奇異」なのかもしれない。そこまで考えてしまうと「お先真っ暗」であり「絶望」さえ感じる。「もはや世界に希望はない」である。

 ただ気になるのは「○○○○○」である。それは何なのか。それは書き手である私が知っている。「○○○○○」は「二十一世紀」である。「二十一世紀から見た世界の奇異」とは「二十世紀の世界の奇異」「二十世紀を引きずった世界の奇異」である。

 「二十世紀」は「近代化を達成した時代」ではなく「近代化を模索した時代」であると私は考える。だから今すべきことは「都会を夢見る田舎の人の気持ちになること」である。「都会を夢見る田舎の人」には「わからないこと」などなにもなく「恐れること」さえなにもなく、ただただ希望にあふれているだけなのである。なぜなら「現代の状態」が「田舎」なのであり「都会」とは「その先にある未来」なのだから。そして、その「未来」でさえ、いずれ「田舎」になってしまうのだから。

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