2007年03月15日

言葉で言うほど簡単ではない

毎日“目を通している”日経新聞の広告欄に、ある本の広告宣伝が出ていた

タイトルは「ゆるすということ」

非常にシンプルなタイトル

【ジェラルド・G・ジャンポルスキー】という精神医学者が書いた本らしい

本屋で探して即購入

新聞の広告で166ページと数字だけ聞くと分厚つ感じたが、実際は文庫サイズだし文字数は思っていたより少なかった

内容は・・・うん、まぁ、その〜、かなり“神の領域”に近い

資本主義や自由競争、金と権力、破壊と欲望に満ちた現世に響くだろうか?と心配してしまうくらい宗教色が強い

何より、私はなぜこの本を買おうとし、現に買い、読んだのだろうか?

それは、自身の中に「特定の誰かが許せない」という思い、「不特定の対象が許せない」という思い、そして「自分自身が許せない」という思いが数え切れないほど存在し、それをどうにかしたいと頭の片隅で願っていたからこそ、この本にその答えを求めたのかもしれない。

道に痰をを吐く奴が許せない

タバコのポイ捨てをする奴が許せない

酒を飲んで絡んでくる奴が許せない

電車の中でマナーモードにしていない奴が許せない

路上駐車しているドライバーが許せない

駐輪禁止の区域に自転車を止める奴が許せない

人の弱みにつけこむ奴が許せない

口先三寸の評論家やコメンテーターが許せない

漫画喫茶の漫画を窃盗するヤツが許せない

俳優くずれが格闘家に転向して、パフォーマンスばかりでリングにあがり、2〜3戦して1勝もせずに引退などとぬかし、俳優に戻り「ハケンの品格」の最終回に、のうのうと出てくるヤツが許せない(ぶっちゃけ、金○賢のこと。ぜんぜん“賢く”ないじゃん。名前負け甚だしい)

不正をはたらく政治家が許せない

その不正をはたらいた政治家を槍玉にあげて、国民の味方です!みたいに予算委員会などで正義を振りかざしている政治家も許せない(民主党の蓮○みたいな)

犯罪者が許せない

冤罪の人をつるし上げるマスコミが許せない

自分の父親が戦後の焼け野原で1から立ち上げた会社を潰そうとしている馬鹿な息子が許せない(あ、これ親戚のおじさんのことね)

人の失敗を許せないヤツが許せない

定年間近な親にラクさせてやれない低収入な自分が許せない

日々の筋トレを、「今日は調子悪いから止めようかな」と言い訳する自分が許せない

そんなことにイチイチ怒りや憎しみを感じ、イライラしている自分が許せない

などなど

許せない対象は星の数ほどいる

そして、この許せないには若者言葉の「ムカつく」とか「ウザい」も含まれているような気がする。

これでも、この数年間でずいぶんと許せるようにはなってきたのだが・・・

まだまだあるね。

“許せた数”と“新たに許せないものの数”を比べると、明らかに後者のほうが増えるのが早いような気もする。

長く生きればそうなるのが自然なのかも

なぜ許せるようになってきたのか?

そのキッカケは、ふとした発想から。

“はたして相手は「許してほしい」と思っているのか?”

相手が私に「許してほしい」と意思表示したならともかく、ほとんどの相手は私の存在など知らず、「許さない」と言われるような対象になっているとは思ってもおらず、許してほしいなどとは微塵も思っていないことに気づく

では、この“許さない”という言葉で表現されている感情はどこに向ければいいのか?

できることと言えば、直接その対象に「あなたの○○が許せない」とはっきり伝えること

カウンセラーに話すこと

2ちゃんねるなどで誹謗中傷することくらいか・・・

その対象に直接伝える以外は“代理”をたて、感情をぶつけるしかない

実はブログに書き込むことも実はその代理の1つ

こうして書いている間にも、少しずつ感情が冷め、穏やかになってきている

だが、本当に許すということとは違うようだ

“許す”という思いと、“諦める”という消極的な発想が紙一重になっているようにも感じている。

「どうせ言っても直らないだろう」

「オレが発言したって何も変わらない」

「発言したことによって、報復されたら怖い」

許したフリをして諦め、実はくすぶり続けているのではなかろうか?

人の失敗を責めず、温かく見守っているフリをして、実は自分が失敗したときに責められることを恐れて人の失敗を責めずにいるのではないか?

買った本によれば、この負のスパイラルの現況は“エゴ”らしい

私はまだエゴの声に耳を傾けているようだ

私がカウンセラーを目指した理由の1つは「過去の贖罪」

「本当に誰かのためになることをしよう」と目指していながらも、もう一方で「カウンセラーとして誰かのためになれば、オレは救われるのではないか?」と期待してもいた。

キリスト教でいう“自己犠牲的”な発想よりも、「自分が救われたい」という利己的な発想のほうが強いと感じることがよくある。

これもエゴの声か?

もし利己的な発想からだったとしても、私はキャリアカウンセラーとしての活動を辞めることはしない

それは、そんな利己的な発想からカウンセラーとして活動している私と接しても「話を聞いてもらえてよかった」と言ってくれる人がいたからだ。

エゴの声が耳から離れなくとも

許せない対象がどんなに増えても

許すことができず、諦めるという選択になったとしても

自分の贖罪だったとしても

それでもカウンセラーとして活動しようと思う。

葛藤やジレンマとの戦い

つまり、自分自身(特に理想的に振舞おうとする自分、欲にかられた自分)との戦い

私は他の誰でもない、自分自身との戦いをやめるわけにはいかない

そうやって戦っていなければ、生きている感覚が無いのも確か

戦うことを止めた時が、私の最後か・・・もしくは本当に「許し」ということを理解できた時だろう

たかだか30年しか生きていない私には、まだ「許す」ということの意味は理解できないのかもしれない

ほとんどの人は私と同じように自分自身と戦っているだろう

他人から見て、些細なことでも自分自身の中では第二次世界大戦級の戦いが生じているはず

一時休戦するには、誰かにその胸のうちを開放するしかないだろう

その“誰か”のうちの1人がカウンセラーなのかもしれない

誰かの“安息の地”として選んでもらえるカウンセラーになりたいものだ























y_tanny at 19:20│Comments(0)TrackBack(0)clip!その他 

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