初出のものがあまりにも甘い文章だったため、
後に、改訂版を書かせていただきました。
ここに載せたのは改訂版です。

◆ ◆ ◆
「六月の楽園〜Sweet Honey Moon〜」


私はこんなに軽い女だったかしら?

国際線の飛行機の中でナナは思う。
でももう空の上だから、後悔したって遅いんだけど。
ナナはシートを少しだけ倒して、うとうとと、軽い眠りに入った。
目的地まではまだ時間がかかるのだ。

それは突然だった。
5月、ナナは連休とは関係のない仕事をしているので、
ゴールデン・ウィークの旅行などは無縁だった。
しかし、ある朝新聞を取りに郵便受けを見に行くと見た事のない封書が
ナナ宛に届いていた。
一瞬、不審に思ったがどうせ金融関係の勧誘だろう、と乱暴に開けた。
けれど、そこから出て来たのは1枚の航空券だった。
しかも行き先は海外だ。
ナナは慌ててもう一度、宛名を見直した。
どう見ても自分の名前と住所だった。
はっとした。
その字には見憶えがあった。
それはナナを動揺させるほど懐かしい字だった。
6月18日、グアム行き、方道航空券。
そして、予約を入れてあるというホテルの名前の走り書き。
ナナは走って家の中に戻り、その航空券を胸に抱いた。心臓がうるさかった。
「どういうつもりなのよ・・・」
言葉とは裏腹にナナはスケジュールを確認した。
6月は、空いていた。

機内食が運ばれてきて、その匂いでナナは目を覚ました。
日本を出る時はあんなに迷っていたのに、食欲だけはきちんとあるなんて。
ナナはそんな自分に苦笑しながら、スチュワーデスから食事を受け取った。
グアムに着いたのは夜中だった。
ホテル・ニュー・オークラのフロントに、ナナはおずおずと自分の名前を告げた。
日本人のフロントの男性は「承っております」と微笑んだ。
ナナはとうとう来てしまったんだ、とあらためて緊張した。
「お連れの方は出掛けておりますが、すぐお戻りになるそうです。
 リラックスなさっていて下さい、とのメッセージです」
すぐに会えるものと思っていたナナは拍子抜けしたが、
自分の気持ちを落ち着けるにはちょうどいいか、と思い直した。
ナナは案内された部屋を見て思わず声を上げた。
今は暗いが海が見渡せる美しい部屋なのだ。

ナナはとりあえず、二つあるベッドの荷物が置いていない方に座った。
もう一つのベッドの上には無造作にシャツや本が置かれてあった。
「あのひとの・・・?」
ナナは大きく深呼吸してできるだけ体の緊張を解いた。
「こんな夜にどこに出掛けているのよ・・・。」
心細くてナナは独り言を言いながら窓に向かった。
それでも波の音が聴こえると解放感に包まれた。
目をこらすと、その浜辺に人影が見えた。
その人影はナナのいるホテルに入って行った。
懐かしい猫背の歩き方。間違いなくナナに航空券を送った「彼」だ。

しばらくすると、ナナの部屋のドアベルが鳴った。
「どなた?」
「アナタにチケットを送った者です」
その聞き慣れた声に、息を詰めてドアを開けた。
ナナは怯えるようにして彼の顔を見た。
「・・・よく来てくれたね」
少し痩せたようだったが、
口角の上がる笑い方が以前と変わっていなかった。
「・・・どうしてこんなことを?」
「会いたくて」
「私が来るって、確信があったの?」
彼は首を横に振った。
「じゃあ何故。騙されたらどうするの?」
「それは俺の台詞だな」
そう言って彼はドアに立ちはだかっているようにしているナナを一瞬、
抱き寄せるようにどけて、部屋に入った。
彼の言う通りかも。
騙される確立はナナの方が高い。
ナナは言ってしまった自分の言葉を反芻して恥ずかしくなった。
「元気だったか?」
「うん、あなたは?」
「この通り」
「真面目に聞かせて。どうして私を呼んだの?券も方道よ?」
「帰りは君に決めてもらおうと思ったんだ」
「どういう事?」
「・・・質問はとりあえず置いといてくれないかな。必ず話すから」
そう言われてしまってはナナも言い返す言葉がない。
航空券を送る方も送る方だが、それで来る方も来る方なのだ。
二人はちょっとした共犯者のようだった。
「いつまでホテルをとってあるの?」
「21日まで」
じゃあ、それまでに聞けば大丈夫、とナナはゆっくり考える事にした。4日間。

二人は6年前、恋人のようなものだった。
打ち開けあった訳ではなかった。
けれど、強い風に押されるようにふわりと二人は一緒にいた。
彼は芸術を職業にしている人で、とてもワガママで純粋だった。
普通に話していても傷ついてしまう事もあった。
ナナはその度に、感性が鍛えられるような気がして身を引き締めていた。
ある日、彼の作品が話題になり、忙しくなって二人は会えなくなった。
しかし、その後、彼は姿を消した。
元々、テレビなどに出ない人だったので翻弄されて傷ついてしまったのだ。
しばらく連絡を待っていたナナだったが、痺れを切らして彼に電話をした。
しかし、電話は解約されていて消息がつかめなくなった。
そのまま、会えなくなって6年が過ぎていた。

気づくと、彼がシャワーを浴びる音がした。
久し振りに一つの部屋で眠るのだ。ナナは緊張した。
「ナナ、シャワー浴びた?」
「ううん、まだ」
「すごくお湯の温度が気持ちいい。入ってこいよ、待ってるから」
「ありがと」
待ってる、ってどういう意味よ。
ここに来させた訳も話さない人とは何もしないわよ。
ナナは心の中で彼に舌を出した。
シャワーの湯は彼の言うように本当にいい温度だった。
うっとりしながらゆっくりシャワーを浴び終え、
ナナは持って来たワンピース型のナイティーに着替えてバスルームを出た。
彼は白いシャツを羽織り、床に座って小さな音で音楽を聴いていた。
心地良くなる素晴らしいボサノヴァだった。
ナナも彼の横に腰を下ろした。
「いい曲ね」
「うん。大好きなんだ」
「誰?」
「カエターノ・ヴェローゾ」
「ふぅん」
ナナと彼はしばらく音楽に身をまかせていた。

「黙って消えて、ごめん」

彼が急に6年前の事を切り出した。
ナナは何か言おうとして口を開いた瞬間、涙が溢れた。
自分でも驚いたナナは慌てて口元を抑えた。
「大丈夫か!?」
「大・・・」
言葉が出なかった。
ナナはずっと、恋人を作らなかった。作れなかったのだ。
長い間、彼は見えない何かでナナの恋愛の自由を奪っていた。
「私も会いたかった、ずっと。・・・ひどい、一人にしてひどい」
ナナは彼に想いをぶつけた。
「ごめん、時間をかけ過ぎたな、本当にごめん」
彼はナナの背中を優しく撫でて謝った。
ナナはそれ以上、彼を責めたりしなかった。
ヴェローゾの曲は二人を優しく包んでいた。

次の日の朝。
ナナが最初に見たものは至近距離の彼の顔だった。
案の定、目を丸くして跳び起きた。
「よく寝てるなあ、と思ってさ」
「悪趣味!人の寝顔覗きこむなんて!」
ナナは枕で彼を叩いた。所詮、羽枕で軽いのだが。
彼は叩かれながら楽しそうに笑った。

二人は朝食の後に、澄んだ空気を吸いに海に出た。
「すごい!日本の海と全然違う」
そう言ってナナは仁王立ちになって伸びをした。
彼はそんなナナの姿にまた楽しげに笑った。
そんな彼を振り返り、唐突にナナは質問した。
「・・・ねえ、笑ってた?」
「え?」
「私といた時、あなたいつもそうやって笑ってた。その笑顔大好きだわ。
 ずっとそうやって、笑ってた?」
彼は波を見つめて黙った。
「・・・いや、笑えなくなってた」
「6年も?」
「6年かけて、笑えなくなってた」
ナナは胸が痛んだ。
「話せる?」
「座ろうか・・・」
二人は砂浜に座った。

「ナナと会わなくなって日本を離れて、1年くらい恋人がいた」
先ほどとは違う痛みがナナを襲ったが、頷いて聴いた。
「彼女を壊しちまった」
「壊した?」
「精神を」
ナナは黙って話を促した。

「最初は良かった。でも俺は外出が好きで彼女は逆だった。
 俺が外に出る度、嫉妬に狂ったようになった。
 戻ってもまるで尋問を受けてるようだった。
 段々、彼女の怒りが俺には判らなくなってきたんだ。
 何も言わずに出掛けて帰って来たある日、彼女は手首を切ってたんだ。
 もちろん狂言だったんだけど、もう一緒にはいられないと思った。
 どうして自分の好きなことを見つけないんだ?、って言ったよ。
 そしたら自分が好きなのは、あなただけだ、って・・・。怖くなった」

彼は目を伏せた。
その頃の痛みを思い出すかのように。
それから彼は黙り込んでしまった。
ナナもそれ以上聞く気はなくて、静かに彼の手を取った。
「一つだけ聞かせて。その人はどうしてるの?」
「生きてる。何とか自分の道を見つけて」
「会ったの?」
「うん。それから一人になって色々考えた」
「あなただけのせいじゃない、あなたと彼女の事だわ。
 私にはそれ以上言えない。だから、自分を責めないで」
「君も俺に言いたい事が沢山あるだろ?」
ナナは風に髪を乱されながら、少しの間考えた。
「ない」
「嘘だ」
「本当よ、疑り深いわね。今あなたに会えてる。それが嬉しい」
そう言ってナナが彼に向かって微笑むと、彼はナナに短くキスをした。
キスが温度を増しそうになった時、ぽつり、と雨粒が落ちてきた。
「スコールだ!ナナ、走るぞ!」
「え?え?」
ナナは初めての経験に驚くしかなかったが、雨は突然強くなった。

葉影に身を潜めて、ナナは雨を見た。
「これが、スコールかあ!」
ナナは腕を伸ばして雨を触った。
「何を言い出すかと思えば」
「ねえねえ!飲めるのかな?きれいな空気の場所って水もきれいよね」
「おいおい」
「シャンプーがあったら髪を洗えるわ!」
ついに堪え切れなくなった彼は大笑いした。
「なによぉ」
彼は濡れたナナの髪をかき上げてくちづけた。
ナナも彼の体を抱きしめてくちづけに応えた。
激しいスコールの中では何もかもがヴェールに包まれているようだった。

スコールが止んで、二人はホテルに戻った。
シャワーを浴びて濡れた服を着替え、二人は落ち着いた。
ナナは不思議そうにからりと晴れた空を見ていた。
「そんなに不思議か?」
「不思議よ。だってあんな豪雨の後にこんなにきれいに晴れるんだもの」
彼も思わず空を見た。
彼はよくグアムに来ていた。骨休めをしたい時などに。
けれど、こんなにゆったりと景色を楽しんだ事はないような気がした。
「ナナは何月生まれだっけ?」
「5月」
「過ぎちゃったか。誕生石ってなに?」
「知らない」
「普通、女の子って知ってない?」
「宝石って興味ないんだもの」
そう言えばナナはアクセサリーを一切、身に付けていなかった。
「付けてるのも忘れちゃうのはOK?」
「うん、そうね。水に濡れても平気なやつとか」
「じゃ、平気かな」
彼はベッドサイドからビロードの小箱を取り出した。
中を見なくても判ってしまうそれは、ダイヤモンドの指環だった。
そのダイヤもホワイトゴールドの中に埋め込まれていて表面は滑らかだった。

「ナナ、結婚しよう」

彼の言葉にナナは驚きを隠せない。
けれど、
何故とか、
今更とか、
6年も離れていたのに、
なんて、
そんな質問は口にできなかった。

「・・・うん。結婚しよう」

ナナはそう返事をした。
「良かった・・・」
彼は倒れこむようにナナを抱きしめた。
緊張が解けたせいか彼の体は今までに感じた事がないほど重かった。
彼はナナを抱きしめて泣いていた。
そんな彼の姿にナナはただ髪を撫で、口唇で涙を拭った。
二人はひとしきり抱き合った後、照れて微笑み合った。

昼食は海の側のレストランで、
たっぷり時間をかけて昼食を楽しんだ。
少しだけ酔いたくてピンク・シャンパンも注文した。
ナナは時々、様々なトッピングや蜂蜜の入ったガラス瓶を見ていた。
「ナナ、夜に海を散歩しに行こうか」
「うん、行きたい」
ナナは口唇にパスタソースをつけたまま顔一杯に笑った。
彼はそのソースを指ですくって舐めた。何よりもおいしい味だ。
ピンク・シャンパンは二人の頬をほんのり染めて昼間の素敵な時間を
彩ってくれた。

夜、
二人で歩く浜辺の空には細い細い、猫の爪のような三日月が浮かび、
星が沢山、瞬いていた。
「きれい。ふわふわになって海に映ってる」
「うん」
「ねえ、月の色が昼間の蜂蜜に似てる」
「そう言えば、あのガラスの瓶ずっと見てたな」
「きれいだったから。光があたっていて」
「指環より夢中になってたぜ」
「やだ、一緒にしないでよ。きれいなものはきれいなんだから」
そう言ってナナは左手の薬指に嵌めた指環を星空にかざした。

半分ムキになるナナを彼は心から愛しいと思う。
あの時、蜂蜜の小瓶は太陽の光を受けて美しく輝いていた。
ナナは本当はダイヤモンドよりも蜂蜜の入ったガラスの瓶に感動してしまう、
そんな女性だった事を今更ながらに彼は思い出し、思わず笑みがこぼれた。
どちらからともなく手を取っていた。
二人の指が絡み合う。
子どもがおもちゃで遊ぶように。
波の音だけが耳に聞こえる。

随分と時間が経っていたので「眠くない?」とナナが問いかけた。
「ん?全然。眠くなったか?」
「ううん。ただもう遅い時間だから」
「・・・俺は6年間、ずっと眠っていたような気がする。
 だから目覚めてるって貴重なんだ。眠りたくない」
ナナは駄々をこねるような彼の言葉をからかわずに微笑んで言った。
「二人で眠ろう、これからは。眠るって大事よ。
 嫌な事を忘れさせてくれるんだもの」
猫のようにまっすぐな瞳でナナは言う。
この島に着いたばかりの時のナナのように、今度は彼の方が言葉にならない。
そんなナナについ、彼はまた今までの事を謝りそうになってしまう。
けれどそんな時決まってナナは彼の口唇を指でふさぎ、
怒ったように首を横に振る。

遅くなかった。
彼は今在るすべてに感謝したい気持ちで一杯になり、
泣き出しそうになって、跪いてナナの胸許に顔を埋めた。
心を柔らかくしよう。この月に誓って。この楽園で。


<Fin>

初出 2004-05-03
改訂版 2004-09-05