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村上春樹さんの小説「1Q84」 に参加中!

■さっそく読み終えました。まずこのエントリーは「※※※※※※※※※」がある部分までは、ネタバレはしませんのでご安心ください。
■事前にネットで注文しておいたので、金曜日の夜に自宅でGETしました。読む前に『1Q84 BOOK1』と『1Q84 BOOK2』とこの『1Q84 BOOK3』を机の上に並べてみる。
■とくに装丁が変わったとか、仕掛けがあるようにも見えない(『1Q84』ってブックデザインがイケてないですよねぇ…)。ただただ上下巻完結のニュアンスから3部作に変化したように見える。この事実が何となくぼくの興味を惹く。
■不思議ですよね。対を成すように見えた『1Q84』、予定調和的に3作目が登場した、という。50年後に村上春樹を知った人間は、この3部作を前にして同時刊行されたニュアンスを感じ取ることと思います。でも、本当は約1年のスパンがあったわけです。
■ぼくらにとっては対を成すように見えた作品は、3部作をもって有機的に絡み合うことを認知する。作品の世界と読むぼくらの時間軸のずれが面白くもあります。「1Q84は3冊同時刊行された」と「1Q84は最初に2冊出て、後でもう1冊出た」というのは大きな隔たりがあります。
■これまでも『ねじまき鳥クロニクル』で同様の刊行方法が採用されてました。

■3部作でなく、2部作+1部であることの裏付けになるかもしれないのが、前作のレビューでぼくは「偶然なのか狙っているのか、文学的に統制の取れたこの作品が、そのバッハの「平均律クラヴィーア」同様に24個のユニットから成立しており、全2巻という点でも奇妙に一致しているのが興味深いですね」と、書きました。
■これですが、村上春樹さんが刊行後のインタビューにて、まさに平均律クラヴィーアを意識していたことを語っており、最初から3部構成を意識していたかどうかは怪しいところがあります。
■現実問題として、約1年前に読んだ小説なので作品の世界観があやふやな自分(笑)。まずは、BOOK2の最後の2ユニットを読む。そこで、青豆が死ぬ直前までしか描写されていないことに気づく。
■そして本作を読みはじめました。

※※※※※※※※※
■まず数値的な感想を言えば「5個満点の星2.5個だった前作」から、本作を通して「1Q84という作品は星3.5個」という印象です。ぼくは面白かったです。1995年以降の「コミットメントの時代」(阪神大震災・地下鉄サリン)の作品群では一番良かったです。
■青豆と天吾の2軸構成だった前作から、本作は牛河のストーリーラインが追加された3軸展開での作品でした。『海辺のカフカ』で、これまでの村上春樹さんの文学的な世界観が行き詰まったものの、『アフターダーク』という佳作を通して「三人称の小説」という新しい足場をしっかり築き、本作でそれを獲得・展開した。こんな印象をざっくりと抱きます。
■青豆は高円寺のマンションに身を潜め、天吾は房総半島の先・千倉で父を看病し、牛河は青豆と天吾の繋がりを調査していく。そのなかで、青豆は自らの妊娠に気づき、天吾は自分の知らなかった部分の人生に逡巡し、牛河はふたりがそれぞれ住まう場所を探求/解明していく。
■青豆は自らの妊娠を天吾の子であることを悟り、天吾はふかえり自身には性欲がなかった激しい性交に考えを深める。そして、牛河は青豆のボディガード的役割のタマルによって制裁され、青豆と天吾の引き合わせに成功する。
■最後は、青豆と天吾が滑り台のある高円寺の公園で手を取りあい、青豆が1Q84の世界に迷い込んだ発端である高速道路へ向かう。ふたりは月がふたつではなくひとつの世界へと回帰し、都心のホテルで一夜を共にし、夜明けの消え行く月を眺め見る。
■ざっとまとめるとこんな内容でしょうか。前作で呈示された謎の事象や人物が、ごく建設的に解明され、構築された印象を持ちます。

■気になるポイント、ぼくは3つありました。

| しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、
| それは倫理の担い手として生きる以外にない。
| よく覚えておいた方がいい

| P.228 タマルの発言より

■このことは、突飛かも知れませんが、ぼくは大宮アルディージャと水戸ホーリーホックにいつも同じことを感じております。
■日本のサッカーにおいて埼玉のサッカークラブは浦和レッズであり、茨城のサッカークラブは鹿島アントラーズなのです。しかしながら、大宮と水戸にもJ1とJ2にそれぞれ籍を置くクラブチームがある。浦和と鹿島に観客動員もクラブ規模も負けていますが、クラブとしてちゃんと愛するファンが存在している。
■「埼玉には浦和が、茨城には鹿島があるから、大宮と水戸はいらなくね?」という意見はあるかも知れませんが、タマルが言うように「しかしいったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない」のです。
■村上春樹さんは文芸批評をいっさい読まず、読者とのメールのやりとりで「総体として正しい理解が得られる」と語るかた。たとえば、こういったマイノリティなサッカークラブを愛するファンの存在のようなかたとのメールのやりとりで勝ち得た裾野の広さ、それが織り込まれているように、ぼくには感じられました。

| 主観と客観は、多くの人々が考えているほど
| 明瞭に区別できるものではないし、
| もしその境界線がもともと不明瞭であるなら、
| 意図的にそれを移動するのはさほど困難な作業ではないのだと。
| 
| P.252 牛河の回想より

■これはぼくが社会人になってからようやく気づいたことでした。大学時代、美術批評を勉強していたのにも関わらず。
■端的に言ってしまえば「客観は主観の一部」ということ。会社の会議で「でも、このプランって客観的に見れば、まだ規模の小さい話だと思うよ」といった発言は、そのひとの「主観の一部」であって、本当の「客観」とは言いがたい。たとえばこういうことです。
■世界史を紐解いて考えてみれば、主観的な意見にも関わらず、客観として言説を投下することによって悲劇を巻き起こした人物はヒトラーに留まらず、枚挙にいとまがありません。
■まぁ、牛河が回想するように「(主観と客観とを)意図的にそれを移動するのはさほど困難な作業ではない」のです。問題はこれに気づいて、気づいてないひとに暴力的なまでに振りかける存在だったりするのですが(それが麻原彰晃と間接的に言いたいのかも知れない)。

| この世界の中に私が含まれ、
| 私自身の中にこの世界が含まれている
| 
| P.476 青豆の思惟より

■むー。ノーベル文学賞を意識した思惟ですね。…なんて冗談です(笑)。
■小説って、ぼくらが今生きているこの瞬間に読む、フィクションなわけです。でもそのフィクションの世界にあって、この目の前の瞬間と時として同質化するような場面があったり、目の前の瞬間ではありえないことが展開されるわけです。そこで、読了後に読者の目の前にある世界への捉え方が変わっていくわけで。
■かつて井上陽水さんは「ミュージシャンの仕事は、聴くひとをたぶらかすこと」って言ってましたが、作家もまたこれに近い(笑)。
■本当はこうであったかも知れない世界とか、あなたが選ばなかった人生はこちらです。といった世界観を呈示することが小説家の健全な役割とぼくは思ってます。それを1Q84という世界に紛れ込んだ青豆に、『空気さなぎ』を読んだ青豆が語り、読者に投げかける。
■「刑事ドラマでこういうの見ました!」というセリフが刑事ドラマによく出てきますが、これほど陳腐でない手法でもって「この世界の中に私が含まれ、私自身の中にこの世界が含まれている」を示すのはなかなかに爽快でした。

■その他、ちゃちゃを入れるとしたら、P.466の描写でしょうか。

| ペットボトルの緑茶を飲み、
| クラッカーを何枚か食べ、
| 
| P.466 牛河の描写

■本作は1984年が舞台設定とされており、日本の緑茶飲料のパイオニアである「お〜い、お茶」の登場は1989年。前モデルだった「煎茶」も1985年の発売であり、缶入りでした(80年代サブカルおたく・yadb)。つまり、1984年の日本にあってペットボトル入りの緑茶があったとは想像しがたいところです。
■とはいえ、これはフィクションであり、1Q84の話という設定ですから何でもアリですが(ウザい読者ですね・苦笑)。

■この物語が興味深いのは、1Q84というパラレルワールドから1984年という世界に戻ってくる点です。これまでの村上さんの作品はどちらかというとパラレルワールドからラストは読者をスポイル傾向がありましたが、今回は見事に書き切った点がぼくは好きです。ファンの間では「まさにここが気に食わない」という声もあるだろうと想像します。
■そこで、まとめに向かってシフトチェンジします。
■20世紀を代表する現代芸術の作家にマルセル=デュシャンというひとがいます。この芸術家の有名な作品に『L.H.O.O.Q.』(1919年発表)という作品があります。この『L.H.O.O.Q.』をフランス語で発音すると「Elle a chaud au cul(女は性的に興奮している)」と聞こえます。
■で、『L.H.O.O.Q.』という作品がこちら。

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■何と『モナリザ』にひげを落書きしただけの作品です。発表当初は「ふざけている」とかさんざん文句を言われたそうです。しかしながら、デュシャンは1965年に凍り付くようなスルーパスな作品を発表します。それがこの作品です。

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■何の変哲もない『モナリザ』ですが、この作品のタイトルは『ひげを剃ったL.H.O.O.Q.』(笑)。つまり「世界中の図版として使われている『モナリザ』は、わたしの『ひげを剃ったL.H.O.O.Q.』でもある」という哲学的な視座を表明したのです。
■本作『1Q84』でも「本当はそうであったかも知れない世界」について詳述する構成となっており、ぼくはこのデュシャンの作品を思い出さずにはいられませんでした。
■しかしながら、このインタビューを読むと、村上さんはオウム事件の林泰男死刑囚の不運な人生に畏怖を感じているようです。
■林泰男死刑囚の場合、地下鉄サリン事件にて8人を殺傷し、逃亡後に逮捕されたという量刑の重さにも関わらず、一審では「およそ師を誤ることほど不幸なことはなくその意味において被告人もまた不幸かつ不運であったといえる」と裁判長が述べるに至ってます。人生を左右する運命のタンスを前に、開けた引き出しは「全て不運」だったことへの同情、とも捉えられる発言です。
■先日、気になって調べたのですが、地下鉄サリン事件って今のぼくが毎日乗っている日比谷線とダイヤを比較すると「ほぼアウト(死亡していた可能性が高い)」なんですよね。乗車駅も乗っている車両も。これもまた人生を左右する運命のタンスかも知れないし。
■まぁ、デュシャンのように美しい蝶番のようなふたつの世界でなく、もっと人間臭さのある畏怖に満ちたもうひとつの世界。これを本作からぼくは感じ取った次第です。

■ぼくの意見としては「BOOK4」はいらないかなぁ。むしろ、1995年以降の「コミットメント時代」の最後作として、次のステージに向かっていって欲しい。そう思えた作品でした。
■みなさんはいかがでしたか?