2013年06月08日 23:32

 ちょっとしたことで、また喧嘩をしてしまった。ほんとうに些細な食い違い。

 半泣きで家を飛び出した私は、とりあえず当てもなくふらふらとその辺の道を歩く。

 「……ナイター、はじまっちゃうよなぁ」

 私の呟きが夕焼けの街に溶けていく。

 彼と私は幼馴染の腐れ縁、という奴だ。親同士で仲が良く、その流れで殆どの月日を一緒に過ごしてきた。

 共通の話題は、野球の話だ。私も彼も中日ファン、とりわけ山本昌が好きだった。

 はじめて野球を生観戦した日の先発は山本昌。
 ふたりではじめて見に行った日も山本昌。
 そして今日の試合の登板も山本昌で、二人で楽しみにしていたのだけれど。


 「……はぁ」

 溜息をつく。オレンジの空がゆっくりと夜の藍色に溶けて行く。携帯も持たずに外に出たため、時間もよくわからない。

 確実に試合開始時間は廻っているはずだった。

 私は喧嘩の内容を思い出す。ほんとうにどうでもいいことだった。

 もう一度溜息をつく。どうしてこう、喧嘩ばかりになってしまうのだろう。出会ったとき、付き合い始めてからはこうではなかったはずなのに。

 一緒に住むようになって、互いのいろんな面が見えるようになってきて。

 洗濯物のたたみ方とか、
 掃除のしかたとか、
 食事の時とか、

 そんなどうでもいいことがいちいち気になりだしたのだ。

 私は、ずっとこのまま変わらないものだと思っていた。彼も私が好きで、私も彼が好きで。

 それでもいろいろと変わっていく。
 変わり続けて、いつか終わりを迎えるのだろう。

 そんなことを考えるとなんだか泣けて来た。

 空に広がる星の量が増えて来た。今日は空がきれいだなぁとかどうでもいいことを思う。


 ふと、彼の話を思い出した。


 「近い未来、ベテルギウスが無くなるらしい」

 
 近い未来って何だよって思ったし何より、ベテルギウスってなんですかって話だ。私は星座には疎い。

 「……何それ」

 「オリオン座のちょうど腕の部分の星だね。冬に見ると綺麗だよ。ちなみにもう球形を保てないほどに膨張してるらしい」

 「いや、わけわかんないんですけど。いま春だし」

 「まぁまぁ」

 そして彼は楽しそうに口を開く。

 「でもさ、普遍的にそこにあるものがふっとなくなるってなんかなんともいえない気持ちになんない?」

 「というと?」

 「変わらないものはないってことさ」

 「随分気障ったらしい台詞だこと」

 そして私はテレビに目を向けた。そう、その時もナイターを見ていたんだ。

 「……変わらないものが、目の前にあるけど」

 彼はきょとんとした目で私を見つめると、その目をテレビに向ける。そして、はははと声をあげて笑う。

 先発投手が山本昌だった。

 「……この人、何年現役でやるんだろうね」

 「……私たちが生まれる前から現役なのよね」

 「今年入団した高卒選手の生まれた年に、最多勝取ってるはず。94年だったかな」

 「名球界入りの選手、何人引退まで見届けてんだっけ……」

 なんというか、とてつもないなぁと思いながら話を続けたことを覚えている。その時飲み込んだ言葉も、私は覚えている。忘れてない。

 “ねぇ、私たちはこのままでいれるのかなぁ”


 ……感傷に浸り過ぎた。帰ろう。もうとっくにナイターも始まってるだろうし、彼もきっと私を待っているだろう。

 そして来た道を戻っていると、
 息を切らして走ってくる彼の姿が見えた。

 「ごめん」

 彼が先に謝った。でも謝らなくてはいけないのは私の方だ。

 「ごめんね」

 勝手にわがまま言って、家から飛び出して。

 そしてどちらからともなく、手をつなぎ家までの道を歩く。

 「ねぇ、」

 「なにー?」

 「私たちはこのままでいれるのかなぁ」

 「うーむ」

 彼は少し考え込む。私は言葉を続ける。

 「てか、このままっていっても変わっちゃったよね、今は喧嘩ばっかりだし。そんなんでいいんかなぁって思うの」

 変わらないものなんてない。

 ベテルギウスはいつか消える。
 山本昌もいつか引退する。
 私たちもいつかは終わる。

 変わらずいる事は無理だ。私はそれが怖い。


 「……よくわかんないな」

 彼が言葉を落とす。

 「でも、変わらない中でこうやって二人でもがくのは、すごく楽しいよ。喧嘩はちょっとうーんってなるときもあるけど、それもまた、君の新しい一面を見れるってことだし」

 そうやって変わっていく僕らを楽しもうよ、と彼は続けた。

 そして私は彼を抱きしめる。その言葉がとてもうれしかったから。

 「……照れるね」

 「うるさいばーか」

 彼も強く抱きしめ返してくれる。数秒そうした後に、また歩き出す。

 「……普遍的なものって結局ないのよね」

 「……そうだね、前話したベテルギウスにしたって、僕らが生きているうちになくなんないかもしれないし、明日なくなるかもしれない」

 「山本昌も私たちが生きているうちに引退しないかもね」

 「それはさすがにないんじゃないかなぁ……」

 そうして、二人で笑い合う。

 終わりが来ないものも、変わらないものもこの世界にはない。これから私たちは何度も喧嘩をして、なんどもわかりあって、そうやって生きて行く物だと思う。

 いつか来るその日まで、二人でずっと一緒にいる事が出来ればいいな、と私は強く思った。
















☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 「ねぇママ、また野球見てるの?」

 「わたし、別のがいい」

 「駄目、今日は特別な日なの」

 「なにそれ」

 「パパとママの、始まりの日」

 「わたしにはわかんない!!」

 「ふふふそうかもね」

 “……中日ドラゴンズ、本日のピッチャーは――――”
 





2013年05月25日 21:39

 
 野球に対して興味がない私の手元に野球のチケットがあったのは、彼氏と野球に行く予定があったというただそれだけに過ぎない。

 まぁ、そいつとは別れたんだけれども。


 そして私は今ヤフードームに向かっている。これもほんの気まぐれである。天神界隈をうろうろして、そういえばチケット財布につっこんだままだなぁ、とか思い出したのだ。

 あいつはチケットを友人にあげたという噂を聞いたので恐らく会うことはないだろう。

 天神からバスに乗って、ヤフードームに向かう。最寄りは国立医療センター前だとかなんか本に書いてあったが、ホークスタウンをふらふらしたいのでヤフードーム前で降りることにした。

 ドーム内に入る。一番安い、外野席のチケット。どうやら今日は女子高生デーとやらで、妙に女子率が高かった。

 ……若いなぁ、とか思ってしまう自分が心から憎い。


 そしてなぜかチケットがビジター側だった。横浜DeNAベイスターズ。全くわからん。あいつは横浜ファンだったのかもしれないな、とか今になって思う。

 もっと話を聞いてやればよかったんかね。

 そして気付けば試合は始まっていた。

 応援をしていて思う、外野席は女子が来るところでない、と。ましてやこんなとこにカップルで来るのはどう考えても可笑しい。

 なんせ、しゃべる暇とかそういうのが一切ないのだ。相手の攻撃の時もなにがしか声援を飛ばすし、こちらの攻撃の時は全員起立で応援しなくてはならない。ビジター側の客の方が露骨に少ないため、座っている方が逆に目立ってしまうのだ。

 挙句ベイスターズの応援なんてまったくわからない私は結構ミスが多い。荒波、という選手の応援では『しょう!』と叫ぶのだが叫ぶ回数がわからず、私の『しょう!』という声だけが響いた時はほんとにどうしていいかわからなかった。


 そして、試合展開がなかなかにしょっぱい。横浜が先制したのはいいが、以降は無得点が延々と続いているのだ。野球好きなら息を呑む投手戦! とかで盛り上がるのだろうけど。

 4回の裏、ホークスの攻撃で試合が動く。本多がヒット。ヤフードームがうわっと盛り上がる。次の打者は凡退するも、カブレラが鋭い打球を放ち、2死1,2塁。

 私のいるビジター席はにわかにざわめき始める。前に座っている人が祈るように投手を見つめている。

 そして、松田が併殺に倒れた。

 ヤフードームが大きなため息に包まれる。ビジター席の横浜ファンが歓声をあげる。私も思わず叫んでしまった。

 すると、

 「いやぁ、ドキドキしますね!」

 前の席のおっちゃんが話しかけて来た。私は思わずたじろいでしまう。

 「えっ、あああ、はい、そうですね……」

 「なんか危なっかしいけど、このままなんとかいってくれないかなぁ」

 おっちゃんがそう呟くと、

 「そうですよね! ブランドンも頑張ってるけど勝ち運に恵まれてないですし!」

 と、隣の女子高生が乗ってきた。ベイスターズのユニフォームに、ハムスターみたいなマスコットがついている。なんかかわいいな。

 「いや、ベイスターズが勝てるのは、三浦の時だけだから。誰も勝ち運ないよ!」

 「やだもー、そんなこと言わないで下さいよ! わたしは借金5までなら我慢できます!!」

 そういって二人で笑い合っている。話がさっぱりわからないが、すごく楽しそうだ。

 「ねー、おねーさんは誰のファン?」

 「はい?」

 女子高生に話しかけられた。誰のファン? って言われても、そもそも野球見ないしなぁ。うーむ。

 「……わかんない」

 「なんですかそれ!」

 彼女がけらけら笑いながら私に言う。どうしよう、こういうときはなんていえばいいんだろう。

 「それは僕も気になるねえ。そもそも福岡に住んでて横浜ファンの女性ってだけで、僕は気になってしまう!」

 おじさんも笑いながら、言う。女子高生がやだもーセクハラですか―!と笑い、おじさんも、馬鹿言うな僕は妻子持ちだ!と笑う。

 私、私は。

 「わたしはですねー……翔さまなんですよ!ふふふ」

 彼女が勝手にしゃべりだした。誰だろう翔さま。

 「だって、ロクな若手が出てこない中、まさに荒波を掻きわけてあれよあれよというまにレギュラー定着ですよ!永遠のブレイク寸前が永遠にブレイクしないで消えるベイスターズでやっとレギュラーがっ!!」

 なんか熱く語りだす。そしてようやくあの応援の意味が繋がった。『荒波 翔』な訳か。

 おっちゃんもうんうんと頷き、

 「わかるよ。鈴木とか金城以来ロクな外野出てこなかったもんねぇ……」

 とかしみじみと語る。

 「僕は藤江や加賀と言った中継ぎ勢にロマンを感じるね。縁の下の力持ち!98年のベイスターズはマシンガン打線と大魔神もさることながら、中継ぎもよかったんだよ!」

 そして一気に語りだす。すげぇこの二人筋金入りだ。さっぱりついていけん。

 「なんかすいません」

 思わず口をついて出た言葉。しかし二人とも「何言ってるんだ!」という表情を浮かべて私をみる。

 「これから知って行けばいーんです!」

 女子高生。

 「こうやって見に来るんだろうから、感じるところはあると思う。試合の中で、好きな選手を見つけるのもまた醍醐味だよ」

 おっちゃん。

 「……そうですね」

 そして、イニングが変わる。ベイスターズの攻撃だ。皆が立ち上がる。私も立ち上がる。

 声を張り上げる、叫ぶ。試合が少しずつ動いていく。しかしどちらも、ヒットは出るが後続が続かないという状況だった。

 点差は一点。それも、初回に入れた一点だけ。以降は淡々とゼロが並ぶ。投手のブランドンもふらふらながら淡々と押さえる。

 そして7回。投手が交代した。おっちゃん一押しの、加賀という投手。横手投げのフォームがかっこいいなぁ、なんて思った。
 しかしカブレラがいきなり二塁打。続く二人は見事に三振に切って取ったが、次の打者にフォアボール。

 2アウト、1,2塁。

 そして、代打松中がコールされる。

 その時、ヤフードームが揺れた。比喩でも何でもない。揺れたのだ。地鳴りのような歓声。


 流石に野球に疎い私でも松中くらいは知っている。それでも、ここまで人気があり、期待されているとは知らなかった。肌で感じた事はなかった。

 そして、ベイスターズのピッチャーも変わる。篠原という投手らしい。

 そしてその瞬間、わたしはさらにすごい歓声に巻き込まれた。松中がコールされた時、確かにものすごい歓声と唸りに巻き込まれたが、ビジターのベイスターズファンは、固唾をのんで見守るような、張り詰めたような緊張感があった。

 しかしピッチャー篠原がコールされると、ベイスターズファンも、ホークスファンも、同時に地響きのような唸りを上げた。まるでそれは一匹の猛獣のように、どよめきが、歓声が、球場を包む。

 ドームがこうなっているさっぱり意味がわからず固まっていると、おっちゃんが

 「篠原はもともと、ホークスのピッチャーだったんだよ。ネェちゃんもさすがにダイエーホークス黄金期はわかるだろ?篠原はその時期の中継ぎエース。松中はその頃の主砲。福岡のファンからしたらどっちもなじみある選手。その二人の対決なんだ。しこもこの場面で……」


 それだけいうと、おっちゃんはグラウンドに目を向ける。

 「篠原は、ホークスで怪我して駄目になって首になったあとベイスターズに拾われたんです。去年は散々な成績でした。でも今年は、左殺しとして帰ってきて……」

 女子高生も話してくれたが、そのままグラウンドに目を向ける。

 球場のすべての人間の目が、二人に注がれている。異様な雰囲気だった。私も思わず食い入るように見つめてしまう。

 かつての戦友同士がこうして対峙する。その光景はとても神聖のものだと思えた。

 一球一球で球場がざわめく。

 「篠原ぁ……」

 おっちゃんが祈るように見つめる。

 「しのさん……!」

 女子高生も同様。

 私もだった。

 チームから蹴り落とされて、不死鳥のように這いあがったらしい、篠原。

 蹴り落とされても、立場が変わっても、それでもそこで生きていく。

 
 野球場に行く人間は、みんなそうなりたいのだ。

 好きなチームが勝ったって、現実は変わらない。当たり前の事だ。それでも、一瞬一瞬で戦い続ける彼らの姿は、私たちにも現実と戦う力をくれる。

 魂のぶつかり合い。

 気付けば私も祈った。

 そして。

 松中の打球は、とんとんとショートに転がって行った。そのまま一塁に送球される。

 その瞬間、球場が歓喜と悲鳴の入り混じるとんでもないうねりを巻き起こした。

 もちろん私たちは歓喜の声を上げる。よくわからない声をあげて、おっちゃんや女子高生、そのほか周りの人とハイタッチをし、喜びを分かち合った。

 外野席は、喜びを他の人とわかちあえるし悲しみも一体になって分かち合える。それにも気づいた。

 あいつが外野席を選んだ理由もわかった。きっとこういうことだろう。


 その後のイニングは淡々と進む。おっちゃんお気に入りの藤江投手もさっくりと抑えた。

 9回の表もあえなく三者凡退。この一点を守りきらなくてはならない。スコアボードは初回以外、すべてゼロが並んでいる。

 9回の裏、最後のホークスの攻撃。

 投手は山口。二人の打者はすぐに抑えたが、続く多村、松田に連続ヒット。

 また、球場が揺れる。

 もう私たちには祈ることしかできない。
 ホークスファンが必死の声援をあげている。

 そして、代打城所。

 読みにくい名前だなぁ、とか呑気なことを思った。

 一球一球で世界が揺れる。この狭い箱庭の中がどよめく。獣のように。そして、

 城所が三振。

 ああ〜という悲鳴が球場にこだまする中。

 私たちベイスターズファンは大きな歓声に包まれた。

 女子高生が勝ったあああああああああああと声を上げ私に抱きついてくる。おっちゃんがよっしゃあと叫びみんなにハイタッチをする。私も思わず手を出してハイタッチする。

 なんだろう、私もすごくテンションが上がる。その一方で、ああ、終わったのかぁなんて虚脱感もある。不思議な感覚だった。

 「いやぁ!少ない福岡での試合でまさか勝つなんて!」

 「ほんとっすよ!しかもスミ1!」

 ……スミ1ってなんだろう、ときょとんとした顔を浮かべていると、おっちゃんが解説してくれた。

 「初回の一点だけで勝つ事をスミ1って言うんだよ。ほら、スコアボードの隅に1があって後は全部ゼロだろう?」

 なるほど。

 女子高生がキャーキャー叫んでいる。おっちゃんもとてもうれしそうだ。

 私も何とも言えない高揚感に包まれていた。

 ブランドンがヒーローインタビューを受けている。それをぼうっと見つめていると、おっちゃんが

 「明日もこようかな」

 と呟いた。女子高生も

 「先発番長ですしね。これは連勝ありますよ……!」

 と目を輝かせている。ちなみにあたしは行きます。と女子高生。

 「いいなぁ、僕は仕事だよ……」

 「おねーさん、どうします?」

 「へっ?」

 私は、明日は予定があると伝える。彼女は残念がっていたが、予定のあるものは仕方がない。すると

 「まぁ、ここでこうやって僕らが知り合ったのも、野球があったからこそだよ」

 と、おっちゃんがしみじみ呟く。そして帰り支度をはじめる。ヒーローインタビュー見たいけど、妻を待たせているんだと苦笑していた。

 「それじゃ、また縁があれば!」

 そしておっちゃんが女子高生とハイタッチ。そして、

 「縁があれば是非!」

 私も全力でハイタッチした。おっちゃんはそのまま、ゲートをくぐっていく。

 ブランドンのヒーローインタビューが終わる。今日は女子高生デーということでなんかイベントがあるらしい。まだ残ってる人も多い。
 
 「んじゃ、あたしもかえりまーす」

 ホークスのイベントに対して興味ないし。と呟く彼女。そしてまた、同じセリフを残した。


 「縁があればまた!明日会えなくても、来年またあえるかもですし!」

 そして、ハイタッチ。彼女は笑顔で手をぶんぶん振りながら帰って行った。


 縁があれば、また。


 そういえば私は二人の名前も聞いていなかったな、と今更ながらに気付いた。

 でも、そういうものなのかもしれない。

 顔も名前も知らない行きずりの人と感情を共有して、日々の辛さを忘れる。そして、試合が終わりそれぞれの日々を過ごす中で、少しの炎を心に残す。

 外野席を一度ぐるっと見渡す。
 見た事のある影が見えたが、それはきっと気のせいだと思った。でも、そいつの言いたい事は、わかった気がする。


 「……縁があれば、また」

 そう口にして、私も球場を後にする。
 
 心地いい風が、私の火照った体を包み込んだ。

2012年12月13日 23:38

 その日は流星群の降る日だったというのは知っていたけど、なぜぼくがその日に彼女に呼ばれたのかは皆目見当がつかなかった。


 「やぁ、久しぶりじゃないか」

 昔会った公園で待ち合わせる。
 数年ぶりに会った彼女にはかつての面影はあまり感じられなかった。肩ほどまでにしかなかった髪は腰近くまで伸びていたし、眼鏡はもう掛けていなかった。小さな明かりで浮かぶシルエットは、あのときと違い、女のそれになっていた。

 「急にどうしたんだよ」

 急に、というか唐突にというほうが正しい。ぼくと彼女は家が近くの幼なじみであったものの、小5の時にぼくが他県に引っ越してから疎遠になってしまった。当時の僕らは携帯電話も持っていなかったし距離があまりに遠すぎて会うのは難しかったのだ。

 まぁ、今では大した距離ではないのだけれど。

 「ん、別にコレと言って理由はないんだよ。ただなんか君に会いたくなったのさ」

 「……なかなか乙女な理由じゃねえかよ」

 「そうかもしれないね」

 そういって彼女は公園のジャングルジムに昇った。ワンピースが夜風にはためく。すらっと細い足が見えた。その奥の下着も見えそうになった。
 その様子を凝視していると、彼女が眉をひそめる。
 
 「……そんなに見たい?」

 「見たくない訳がないね」

 即答。僕も健康な男子なのだ。

 「そういうところも嫌いじゃないよ」

 と、いいつつてっぺんにたどり着くと、見えないように足を合わせた。

 「君も昇らない?あんがい懐かしい景色も悪くないよ」

 こんなに狭いもんだとは思わなかったけどね、と小さく吐き捨てたのを僕は聞き逃さなかった。

 僕もジャングルジムに昇る。数年ぶりの感覚。でもそれは思ったより狭く、そこから見える景色は確かに悪くはなかった。だけどあの日感じた広さとか胸の高鳴りを感じることはできなかった。

 「悪くはないけど、って感じだな」

 僕がそういうと彼女は小さく笑って、そうだよねぇと呟いた。あの頃の僕らは公園の中と外に大きな可能性を感じたし世界の広さを感じた。けれど今は、その外の意外な狭さを知ってしまった。

 「この公園、なくなるんだって」

 彼女は口を開いた。

 「へ?」

 僕の反応を待たず、彼女がしゃべり出す。
 
 「まぁしょうがないよねえ。そばの空き地もなんか封鎖されちゃったし、もうこの街に子供なんてほとんどいないし。でもなんかさ、」

 いったん言葉を切る。

 「なんかさ、寂しいじゃない」

 「まぁ、しょうがなくはあるけど、腑に落ちねえわなぁ……だから、呼んだの?」

 「そんなとこ」

 「でもさ、それなら他の友達もいたろうに。なんでわざわざ俺を?」

 やっぱ俺のことが忘れられないからかなぁ、とか考えたりもして。

 「この街に友達なんていなかったよ」

 彼女ははっきりとそういった。

 「この街に友達なんていなかった」

 そう、言った。

 「わたしはこの街が大嫌いだった。なにもなくて、その癖近所付き合いだけは活発で、自分のことより他人のことばっかりで。そういうのがいい人はいいかもしれないけど、わたしは嫌だった」

 「それをずっと隠してた。ほんとはみんな嫌いだった。でも君はずっとそんなわたしと友達でいてくれた。煩わしくはあったけど、それは幸せだった」

 「君が転校してから、純粋にわたしのことを思ってくれる人はいなくなった。だからかな。いじめられるようになって」

 彼女の言葉は止まらない。

 「学校なんて行きたくなくて。家に引きこもって。そうしていると家族だけでなく周りの人も私を追い込むようになって。それが嫌で」

 「私は手首を切った」

 そうして彼女は左手を掲げた。リストバンドが巻かれていた。だけどその下は当然見えない。
 空に掲げられた腕を見て、その腕の向こうに月が見えなくて、そういえば今日は新月だなぁとか唐突に思い出した。

 「逃げるように街を出て、なんとか学校にも行けるようになって。そんでふとここに立ち寄ったら、取り壊されるって聞いて、君に会いたくなった」

 「それだけの話だよ」

 彼女はそういって口を閉じた。
 ぼくは、何もいえない。

 ぼくはなにも気づけなかったのか、それとも気づかなかったのか。当時のぼくは何を考えていたのか。彼女と一緒にいてなにを思っていたのか、それすら思い出せない。なんで思い出せないんだろう。ぼくは確かに彼女のことが好きだったはずなのに。あの時は、あの時はだけど。すると、


 「……なんて。冗談だよ」

 彼女は小さく舌を出した。ぼくは一瞬ぽかんとした。

 「全部、嘘って事。あははは。引っかかるとは思ってなかった。あははははっ」

 彼女はそういって笑い、リストバンドを外す。そこに自傷行為の跡などなかった。

 「……んだよ、それは……」

 僕は思いっきり脱力した。ちょっと前の僕の苦悩を返して欲しい。ほんとに。

 「いや、ごめんごめん。悪かった。心配性なとこは変わらないんだね」

 「んだよー、ったく。んじゃなんでわざわざ俺を呼んだし」

 「公園がなくなるのはほんと。今もう私もこの街にすんでないのもほんと。友達はまぁ、みんな県外。そんで私がもっと遠くに行くことになってしまったんで」

 そうして彼女は僕の顔をつかみ、そのまま唇を僕の顔に押しつけた。

 「昔大好きだった君に会いたくなったのさ」

 見えないけど、きっと今の彼女の顔は赤いはずだ。だって僕の顔も赤い。

 「それだけだよ」

 そういうと、空から流れ星。それはいくつもいくつも降り注いだ。きれいだな、と思った。

 「きれいだね」

 彼女が呟く
 
 「きれいだな」

 ぼくも呟く。

 僕と彼女は、昔にもこうやって星を見上げた事を思い出した。あの日も流星群がくると聞いていたけれど、結局流れ星は見えなかったのだ。一瞬、昔に戻ったような気分になった。

 それから、僕らは取り留めのない会話をたくさんして、それぞれの帰路についた。また会う約束はしなかったけどまたいつか会える気がしたし、今度は僕から誘ってどこかに行こう、とか思った。

 遠いあの日と、そばの現実。僕らなら、それぞれで歩んでいける気がした。


 



 少しして、いじめを苦にして自殺したという少女の死体が見つかった。右腕のリストバンドの下は自傷行為の跡が引き連れるようにしてあったという。


2012年09月21日 20:40

 9月だというのに、蝉が鳴いていた。みーやみーやと騒がしく。ただそれが8月の風景と違うのは、鳴いているのはただその一匹だけである、ということ。

 「届かなかった言葉や気持ちって、どこに行くんだろうね」

 彼女がぽつりと口を開く。その言葉は静かな部屋の中にとても空虚に響き渡った。ぼくはそれに応える術を持たないのでそのまま黙っていた。部屋の中に沈黙が降りる。

 蝉の声が響く。

 「言葉じゃ入りきれないこととかどうしても伝えきれないこととかっていうのはきっと、心を交換するくらいしかないと思うの。でもそんなことって到底できるわけないじゃない。わたしはわたしで、あ
なたはあなたなんだから」

 そういうと彼女は膝を抱えて座り込む。空の色がだんだんと変わっていく。蝉の声も消えて行く。ぼくは彼女の事が外にいる蝉のように思えた。誰に届くやもしれぬ思いを持ち。かなかなと鳴く。

哀哀、愛愛。

かなかな、かなかな。


 「ねえ、応えてよ」

彼女がぼそりと呟く。


 「応えてよぉっ……!」


 彼女の声に涙が交じった。


 彼女の声はぼくには届かない。ぼくはもう死んでしまったから。ここにいるのはぼくだけどそこにあるのはぼくだったものだ。

 「死ぬかと思った」

 まさかこれが最期の台詞になるとは自分でも思わなかった。ぼくは普通に横断歩道で青信号を渡っていたところ車に吹き飛ばされたのだ。そのあと一度だけ意識を取り戻したのだけども結局死んだ。頭を強く打ったのが原因らしい。

 彼女は泣いている。かなしい、かなしいと。

 ぼくも泣いている。かなしい、かなしいと。

 ぼくもずっと彼女に叫び続けているが、届かない。ずっとずっと叫んでいるけど、届かない。なんどもなんども叫んで届かなかったので、ぼくもやがて考えるのをやめた。

 それでも。

 もう、届くことはないとわかっていたけど。

 9月の蝉のように、誰ともなくかなかなかなかなと泣き続ける。

 いつか、ぼくのこの声が届くように。


 「泣かないで、笑っていて」


 これだけをただ、繰り返す。大好きな、大好きだった君がこれからどうか笑っていられるように、これからどうか、かなしいことになりませんように。


 かなかなと、泣く。

2012年06月09日 12:42

 眠気に目を擦る。今日もまたなにもない今日がきた。毎日がくるくると動き回る。日々の早さについて行くのにはもう慣れてしまった。

 仕事場に向かい淡々と歩く。歩く、ということは同じはずなのに、僕は多くの人を追い抜いていく。子供や老人など、それぞれの場所に向かう。歩くスピードは僕の方が早い。昔の自分よりも当然、早い。歩く早さは早くなったのに、その場所に行くための心の歩みは、徐々に徐々に遅くなっているように感じる。

 昔は、心のはやさに体が追いつかなかったはずなのに。

 早さの違いに戸惑っていたけど、しかたがないと割り切ってそれをねじ伏せたのはいつのことだっただろうか?

 窓に映る僕はこうやって日々を追いながら歩いている。僕は変わらない「この空の下」を歩いているはずだった。だけど今は、晴れていても、朝でも、浮かぶ言葉はひとつだ。

──「この夜空の下」。

 なにかが見えてるようで見えない気がする。なにも追いつけないようなめまぐるしいほどの早さで時は流れる。

 夜空は星が見える。月明かりで見えないものも見える。といっていたのはあの日の君だったか、僕だったか、誰だったか。思い出せない。この空の下を僕は今この夜空の下、と書いたのは事実である。

 黙々と歩く。誰かの言葉を想い出しながら。
 ふと、地面に目を向けた。工事か何かで切り開かれた広大な荒れ地。その一角。なにかの花が咲いていた。名も知らぬ花がそこだけ綺麗に咲いていた。それはなんともいえない小さな空間で、おそらくなんらかの雑草なのだろうけど、そこにただあった。

 この夜空の下でもそれぞれが笑っている。きっとあの花たちも、風か何かか、自分も思っていない早さでそこにたどり着き、それでも花を咲かせている。彼らは彼らのペースで歩く。歩く早さも気にせずに。長い早い時間をかけて、「この空の下」で生きている。

 だったら僕も、その早さで歩いていこう、と思った。自分に嘘をつかないように。


──僕も歩こう、今日のスピードで。
 

 


2012年05月28日 23:34

ざあざあ、ざあざあ。まるでチャンネルの合わないテレビが吐き出すノイズのように雨が降っている。テレビはノイズで押し潰すように他の音を潰す。

雨のノイズは他の音を包むようにそれを掻き消す。

「――――」

聞き慣れたはずの声が聞こえないのは、雨が音を包み掻き消すからだと思う。
受話器の向こうの声も、雨で掻き消えるのかどうかはぼくには理解できないけど。
雨はざあざあと降っていた。雨の向こうの声は届かない。聞こえてるのかもしれない。聞き慣れたはずの声が震えているように聞こえているのはきっと雨だからだ。


雨のノイズは他の音を包むようにそれを掻き消す。


いつもと違うことくらいすぐにわかる。だけどそれを認めたくないのは、きっと寂しいからだ。なにかの予感がしたからだ。聞こえないよ、電波が悪いのかな。とだけぼくはいった。雨音に隠れて揺れる声が、なにかを発して、ぷつんと消えた。

雨が窓と心を叩く。明日の朝、晴れていたら君に会いに行こう。なにかを話そう。
でも明日雨だったら? それならそれでいいかと思う。いつも通りの毎日をすごそう。

雨のノイズは
他の音を、
包むように、
それを、
掻き消す



「――さよなら。」


2012年04月08日 21:37

きっかけは覚えてない。ただ、彼はクラスの中でも特に誰ともつるむでもなく、かといって友達がいなかったり、内向的で暗いタイプの男子とは違うというなんともいえない人だ、と思ったのを覚えている。

はじめて話をしたのは図書室。わたしが本を借りようとしたら、彼が声をかけてきたのだ。
積極的に男子と話すことはあまりないので少し緊張したけど、彼が楽しそうに好きな作家を語るのを見て、ああ、この人はこの作家が好きなんだなぁ。わたしも好きだし嬉しいなぁと思ったことは覚えている。

でもそのときはまだ『そう』ではなかった、と思う。
それから何度か、図書室で話したけど接点は同じクラスであるということ以外なかった。
委員長という役柄上、校則違反とか提出物忘れ以外のやつとは話すけど彼はそういう事はなかったので、ほとんど話さなかった。



文化祭前のこと。部活動のさんか申請書類の提出期限を一週間以上破って、あげくに泣きついてきた女子と喧嘩になった。
割としっかり言いたいことはいった。ちょっとした言い合いのはずだったけど、とある一言が、わたしの心を折った。

なによ、いいこちゃんぶって。委員長厳しすぎ、なんでそこまで一生懸命なの。たかが学校の行事じゃない。

その時いろんなことが浮かんだ。

普段わたしになにかを押し付けてなにもしないくせに
なんでもかんでも適当にやってるくせに
面倒事は全部任せればいいとか思ってるくせに
自分ではなんの責任も負わないくせに

泣きそうになったけど、なくもんかと思った。でも堪えきれなくなった。

そのままわたしは教室を出た。あてはなかった。
でもこの時間は準備室だれもいないよなぁと思った。だからそこにいた。

いろんなことがぐるぐると頭を回った。その時なぜか、彼の事を思い出した。
図書室の彼のこと。
わたしが頑張って頑張って、責任を負って頑張ってやっと自分をつくる。『委員長』という自分を。
だけど彼はあくまで自然体で生きている。それが少し羨ましいと思った。
ゆったりとしたいなー、なんて思った。

ドアを開けて彼が部屋に入ってきたとき、何かの間違いかと思った。

彼が近づいてくる。わたしは何?といった。
なんかよくわからないけど来た。と彼は答えた。

よくわからないってなんだそれ、と思ったからわたしはなにそれ。と笑った。
彼は一瞬静かになって、泣きそうだったから。とわたしの目を見て答えた。

それが嬉しかった。『委員長』じゃない、わたしを見てくれている気がした。

わたしは立ち上がり、彼のそばにいった。

なにを言ったかはよく覚えていない。でも喋りながら、声が涙に震えた。
なくもんか、なくもんか、と思った。でも泣いていた。
もうだめだ、と思ったとき、彼がわたしを抱き締めていた。
わたしはそのまま彼に包まれながら声をあげて泣いた。

ああ、男子って大きいなぁ、と思った。すっぽり体が収まってしまった。

そしてごつごつしてるな、でもあったかいなと思った。少し汗の匂いがした。

そこから先はあまり覚えていない。ただひとしきりないて、その後保健室にいって熱があるっぽいことを言われたのは覚えている。ベッドにつれてかれ、制服のまま寝た。


目を覚まし、布団の上で彼の事を考えた。いろいろなことを思い出した。
ゆったりとしている彼。でも本のことになると熱くなる彼。
ぼーっとした顔、真剣な顔、汗の臭い。

思い出すと、熱とは別に体が熱くなる。この気持ちはきっと、そうだ。

ああ、わたしは、あのおとこのこのことが――


きっかけは覚えていない。ただ、彼女がクラスの『委員長』であること、かといって単なる堅物ではなく、ちょっとだけ真面目で厳しい女の子ってだけ。普通だった。
彼女がてきぱきとよく動き、クラスの奴等に指示を出したり服装違反を注意している姿をなんとなく見ていた。
無気力な自分とは違い、しっかり自分の考えを持っている彼女の事を、僕は密かに尊敬していた。

はじめて話をしたのは図書室。借りようとした本を彼女が借りていったのだ。だからつい声をかけてしまった。

それからその作家について話をした。彼女もその作家のファンであるとのこと。普段の凛とした姿から想像できないきらきらと柔らかい笑顔を覚えている。

でもそのときはまだ『そう』ではなかった、と思う。
それから何度か、図書室で話した。そこしか接点はなかったし、それ以上の発展も望んでいなかった。

ある日の事。文化祭前後だったと思う。彼女がクラスメイトと喧嘩になった。そいつはどうも、提出書類の締め切りを盛大に破っていたらしい。
喧嘩といっても男のそれとは違う、言い合いみたいな物だったがなかなかに壮絶だった。女こええ、とさえ思った。

先に負けた……というか折れたのは彼女の方だった。彼女はなにかを言い、教室から出ていった。クラスに漂う気まずい沈黙。いつものように自分はぼうっとしていればよかったのに。

彼女が出ていく瞬間の涙を堪える顔を見てしまった。その時、本について語るきらきらした笑顔と、いつもの凛とした顔が浮かんだ。

なにが自分を動かしたかわからない。気づけば教室を飛び出していた。
あてはない。だけど、いろんな彼女の顔が、僕の中に浮かんだ。

彼女は図書準備室にいた。泣いてはいなかった。

僕は彼女に近づいた。彼女が小さく、何?といったのが聞こえた。
なんかよくわからないけど来た。と僕は答えた。

すると彼女は薄く微笑んだ。なにそれ。と笑った。
泣きそうだったから。と僕は答えた。

彼女は立ち上がり、なにかを言った。
ぽつぽつと放たれた言葉は、徐々に形を持っていく。

なんでわたしだけ責任を負うの?委員長だから?いつのまにかこんなことになってて、どうしていいかわからない。だってだれもしないじゃない。委員長なんて。ならなったことのあるわたしがやるしかないじゃない。なにもしないくせにめんどうなことばっかし押し付けて、それで文句を言うの。どうして?何かいってよ、駄目なときだけ責めないでよ。なんなのよ

彼女の言葉は涙になって流れた。言葉と共に涙がぽたりぽたりと落ちていく。

気づけば僕は彼女を抱き締めていた。彼女はそのまま、声をあげて泣いた。
なんだかよくわからなくなった言葉を呟いて。体を震わせて。
思った以上に女子って柔らかいんだな、と思った。いい匂いがした。
とてもとても、暖かかった。そして、小さかった。
こんな折れそうに小さな柔らかい彼女が、クラスを支えているということに、なんともいえない気持ちになった。

ひとしきり泣くと、ありがとごめんね、といいふらふらとした足取りで部屋を出ようとするので、とりあえず保健室に連れていった。なんかだるそうだったし、今のまま教室に帰るのもどうかと思ったからだった。

保健室ですぐに横になると、彼女はすうすうと寝息をたてて眠った。疲れと発熱もあった、とは保健の先生の弁。

彼女の寝顔を見て、いろいろな事を思い出した。
凛とした顔、きらきらとした笑顔。何かを堪えるような顔、泣いた顔
柔らかさ、小ささ、暖かさ。

顔が妙に熱くなるのを感じた。

その時思ったのだ。

ああ、僕は、このおんなのこの事が――


2012年04月05日 21:58

はじめてのセックスは、中学2年の時だった。
僕は当時スクールカーストでは決して上ではなかった。かといって最下層でもない、よくも悪くも普通の人間だった。なにを考えてた、というわけでもない。性欲とかはまぁ普通にはあったが、保健体育程度の知識しか僕にはなかった。

幼馴染みと体を重ねた。彼女の家で委員会の話をしていた。
彼女と僕の間には特に恋愛感情は無かったし、同じ委員会で話す、家が近い友達というだけであった。委員会の話をしていると、そこから日常の話になった。だれだれがだれそれの事を好きとか、そんな感じだ。

「馬鹿らしいよね」

彼女がぽつっと呟いたのを妙に覚えている。

それは単に、ぼくもそうだった。僕らははっきり、恋愛というものに興味を抱いたことはない、ある意味異常な中学生だった、といえる。
そこから更に話がそれた。女子の下着の話になったのだ。女子相手に。

「実際、見えないより見えた方がいいって言うけど、私はそれがよくわからない。男子はなににそんなに興奮するのか」

「……うーん、俺もやっぱ好きだけどな、なんか普段見えないものが見えるってよくね。透けブラとかぱんちらとかかわいいし。どうせ一番みたいであろう胸や尻は見えないんだけど」

「でもさ、」

彼女は言葉を切った。

「つけてなかったらどうするんだろうね」

彼女はいつもの調子で話す。何事もないように。

「そんな女子、今時いるのかよ」

僕は笑って返した。それに、彼女が返答。

「今の私だけどね」

沈黙が降りる。こういうとき僕はどういう反応を返せばいいのだろう、と思う。なにを言えばいいのだろう、どう動けばいいのだろう、よくわからなかった。

「背中、さわってみる?」

そういって彼女は体を前に倒す。背中が見えた。浮かばなければならないものは何も見えない。僕は背骨の付け根から首の下までを、すうっとなぞった。普通あるはずのものはそこにはなかった。それがなにか僕の大切なものを焼ききった。

そこから先は、あまり覚えていない。



まぁ、そんな感じの初体験だった訳だが当然僕のなかではなんともいえない記憶であって。
その後も普通に日々をすごしていたが、彼女とは高校が別れ、会う機会はまるで無くなってしまった。背中をなぞったときの感覚、思ったより柔らかだった胸、意外と大変だった行為そのもの。ついでに言うと、彼女とそれをしたのは後にも先にもあの一回が最後であった。


時折思い出すそんな記憶。行為を重ねる度に彼女の事を思い出す。
爪痕のように、それは深く刻まれている。彼女の顔も名前も思い出すことはもう減っている、というのに。ただそこにある事実。ブラ線のなかった背中。
彼女がなにを思ってそれつけたのかはわからない。気まぐれだったのかもしれないし、本当は僕の事を好きだったのかもしれない。だけどそれはもうわからない。


彼女はただ、写真の中で笑っているだけだから。


2012年01月05日 21:15

「おおかみが来る!」

少年は叫ぶ。それはもちろん嘘。
一回目、村人は信じて逃げた。
二回目、村人は訝しんで逃げた。

少年は逃げ惑う村人を見て笑った。
空っぽの村で笑った。

三回目、村人は逃げず、少年を嘘吐きと罵った。

「おおかみが来る!」

少年が叫ぶ。それは何度目の事であっただろうか?


少年は村人を見て笑った。
空っぽの村で笑った。

もうここには誰もいない。
何かが転がるだけだった。
遠吠えが、響く。


少年は小高い丘の上から町を見下ろした。
まだたくさんの人がいる町を見下ろして、笑った。

そして彼はまた叫ぶ。これから何度も叫んだ言葉を。これから何度でも叫ぶであろう言葉を。

「おおかみが来る!」

やがて、遠吠えが重なった。