極めて刺激的なタイトルをつけてしまいました(照)。斬られた、といってももちろんフィジカルにではなく、更に言うと、最近岩井先生が力を入れている法人の解釈を巡るコーポレート・ガバナンスの一連の著作に関してでもありません。
斬られたのは20年以上も前の話で、彼が英語で書いた処女作Disequilibrium Dynamics (Cowles Foundation Monograph)
についてです。この本は300ページ以上に渡る大作で、日経・経済図書文化賞特賞を受賞されています。斬ったのはマクロ経済学のハーシェル・グロスマン教授。批評はThe Journal of Political Economyの91号(1983年4月)に収められています。(情報提供していただいたLazyzooさん感謝です!)

批評の中身
さて、グロスマン教授による批評の中身についてですが、一言で言ってしまうと「けちょんけちょん」に叩いています。ただし、2ページと分量が少なめなこともあり、具体的な問題点の指摘はそんなに多くはありません。だからこそ、より一層彼の岩井本に対する否定的なスタンスが目立ちます。以下では本書を部分的に引用しながら具体的に内容を見ていきたいと思います。

イントロで、新しい古典派(New Classical Macroeconomics)をめぐる論争と、不均衡アプローチの実りの少なさを言及した後、実質的な最初の段落である第二段落冒頭は以下のように始まります。

This book by Iwai reports another unsuccessful attempt to rationalize the non-market-clearing approach.

いきなりunsuccessfulと来ました。これは随分と手厳しい!そして続いて

Iwai does not recognize that he has not solved the essential problems.

と来ます。何が本質的な問題かと言うと
・Iwaiは新古典派の手法を否定しているが、にも関わらず自分自身がその手法(従来の最適化理論)を使って終始分析している
とのこと。具体的には
・彼の主たる結果は通常の企業の期待利潤最大化に基づいており、しかも不均衡を生み出す賃金と価格調整の仮定は既存研究で広く知られているものである
・しかし、それらの仮定については、学界で既に問題が指摘されている(売り手と買い手の双方にとって利益となる追加的な取引が事前に認識されているのに取引が起こらないのはおかしい)
・当然言及すべきであるこういった既存研究はほとんど触れられていない
といった点をグロスマンは指摘しています。
つまり、岩井先生の研究は1)目新しいものでも何でもなければ、2)その手法自体も問題含みで、3)さらに当然行うべきである既存研究の紹介も不十分、というわけです。
他にも細かい問題点の指摘は続きます。例えば以下のようなもの。
・暗黙の労働契約の解釈が誤りである
・合理的期待に基づく自然失業率モデルと、基づかないモデルの区別が出来ていない
・「合理的期待がセイ法則を意味する」というIwaiの主張は一般的ではなく、証明は不適切な強い仮定に依存している
・本の中で「不幸な失業者」という単語が繰り返し登場するが、Iwaiのモデルでは労働供給の分析が欠如しているので「不幸」かどうかといった規範的な議論はそもそもできない

ううむ、経済学の文献や論文に対してここまでネガティブかつ高圧的な批評文を読んだのは初めてかもしれません。僕自身は岩井先生のこの本自体を読んだことがないのでグロスマンの批評文の是非を判断しかねますが、日本人の研究者で岩井本を批判する人に今まで出会ったことがなかったのでとても新鮮でした。僕の恩師である東大の植田・吉川両先生も高い評価をされていたように記憶しています。この批評文は非常に短い記事なので、興味のある方は是非一度自分の目で眺めてみて下さい。JSTORから見られます。
ちなみにグロスマンは最後の段落で、「自分は決して新古典派の擁護者でもなければ、マクロモデルは新古典派の手法にのっとっていなければならないとも考えていない」と述べていますが、批評文からは新古典派的手法への傾倒・心酔が明らかに伺えます。彼自身は70年代にいくつか不均衡分析に関する論文を書いているのですが、その後転向したのでしょうか?


脱線コーナー
毎年数人の受賞者が選ばれる日経・経済図書文化賞と異なり、Disequilibrium Dynamicsが受賞した特賞はめったに選ばれません。一番最近の受賞は98年の林文夫による次の洋書です↓
Understanding Saving: Evidence from the United States and Japan


岩井先生の本は不均衡動学の理論
として日本語バージョンが岩波モダン・エコノミックスから出版されましたが、残念ながら絶版になってしまいました。モダン・エコノミックスのシリーズには名著が多く、例えば奥野・鈴村の『ミクロ経済学機Ν供戮鰐い世乏愽上級・大学院レベルでもっとも定評のある国内テキストですし、伊藤・大山の『国際貿易』もやや内容が古くなってしまいましたが上級の貿易論を学ぶ学生の必読文献としてしばしば挙げられます。他にも学説史を学ぶ上でのバイブル猪木武徳『経済思想』や、ファンが非常に多い石川経夫『所得と富』など名著の宝庫です。(後者の2冊は絶版です。岩井先生の『不均衡動学の理論』と合わせて是非復刊を期待したいです。お願いします<岩波書店の方)

脱線コーナーその2
グロスマンの名前を見て、「おっ、聞いたことあるぞ」と思われた方が多いかもしれません。が、しかしほぼ間違いなくここで登場するグロスマン教授とは別人だと思います。ハーシェルさんも、ブラウン大学の正教授で数多くのパブリケーションがある一流学者ですが、経済学の分野では彼よりもはるかに有名なグロスマンが少なくとも二人います。一人はミクロ経済理論&ファイナンスのサンフォード・グロスマン。彼はノーベル賞よりも難しいと言われるジョン・ベーツ・クラーク賞を受賞し、「合理的期待均衡を用いた不完備市場の分析」、とりわけそのファイナンス理論への貢献でノーベル賞候補にも挙げられることがあります。二人目はジーン・グロスマン。私の所属するプリンストン大学の看板教授で、去年までは学部長を務めていました。一流ジャーナルへのパブリケーションの数では一人目のグロスマンを遥かに凌ぎ、ハーバード大学のヘルプマン教授との共同研究である「政治過程を考慮に入れた国際貿易の分析」は一大センセーションを巻き起こしました。ジーンの奥さん、ジェーン・グロスマン(この二人の名前は極めて紛らわしい!)も公共政策大学院ウッドロー・ウィルソン・スクールの教授ですし、CUNYにはヘルス・エコノミクスで有名なまた別のグロスマン教授がいると聞きました。いや〜、たくさんいますねグロスマン(笑)