先日、金融経済読書会という勉強会に参加した際に、課題図書となっていた『資本主義と自由 (日経BPクラシックス)』。今回は、本書について備忘録を兼ねたメモをまとめておきたいと思います。フォーマルなまとめでは全くありませんが、代表的なフリードマンの主張を多数引用していますので、ご関心のある方は眺めて下さい。分量があるので、本日は前半部分をアップさせて頂きます。

1章:経済的自由と政治的自由

38:自由な社会をめざすうえで、経済は二つの役割を演じる。まず経済体制の自由は広義の自由の一構成要素であるから、経済上の自由それ自体が一つの目的となる。と同時に、経済的自由は政治的自由を実現するために欠かせない手段である。

本書の中でフリードマンは政治的自由の達成には経済的自由が必要不可欠であることを繰り返し主張している。

38:とかく知識人というものは、お金の絡むことを物質的とみなし、これを軽蔑しがちである。そして、自分たちが高尚と考える価値の追求は別格でありはるかに大事であって、そちらに注意を向けるべきだと主張したがる。だが、知識人はどうあれ、ほとんどの市民にとってはそうではない。市民にとっては、経済面で自由であることの方が、政治的自由を実現する手段としての間接的な意義よりも、どうかすると重要なのだ。

頷く部分が多かったので引用。

2章:自由社会における政府の役割

78:自発的な交換を通じた経済活動では、政府がそのための下地を整えることが前提となる。具体的には、法と秩序を維持し個人を他者の強制から保護する、自発的に結ばれた契約が履行される環境を整える、財産権を明確に定義し解釈し行使を保障する、通貨制度の枠組みを用意することが、政府の役割となる。

政府の介入を極端に嫌う自由主義者のフリードマンも、通貨制度の管理・運営については、政府に任せることに疑念をはさんでいないようだ。これは貨幣発行自由化論を唱えたハイエクと対照的。

83:政府が介入の理由に温情的配慮を持ち出すのは、多くの点で自由主義者にとってじつに好ましくない。政府が介入するのは、当事者に代わって別の誰かが決断することを是認しているからだが、自由主義者にとってこれは受け入れ難い考え方である。

Nudge(実践 行動経済学)などで大きく取り上げられた、リバタリアン・パターナリズムに対して、フリードマンはどのようなスタンスを取るのだろう?

3章:国内の金融政策

98:完全に自動的な商品本位制は実現不能であり、また自由社会の通貨制度として望ましくもない。実行不能と考えるのは、商品本位制が機能するうえで必要な絶対的な信頼感が得られていないからである。そして望ましくないのは、物品貨幣をつくるには資源が必要で、膨大なコストがかかるからである。

商品本位への考察その1。

111-2:ごく少数の人間にあまりに多くの権限と裁量を与え、その失敗が、たとえ無理もない失敗だとしてもあれほど重大な結果を引き起こす可能性があるとしたら、それは悪い制度である。まず、自由を重んじる立場から見て悪い制度である。一握りの人間に権力を集中させ、合議などによるチェックが働かないからだ。これが、中央銀行の「独立性」に私が反対する政治上の理由である。加えて、自由より確実性を重んじる立場から見ても悪い制度である。責任は分散させながら権力だけが少数の人間に集中し、したがって、その人たちの知識や能力に高度な政治判断が委ねられるような制度では、容認できる失敗にせよそうでないにせよ、とにかく失敗は避けられないからだ。これが、中央銀行の「独立性」に私が反対する現実的な理由である。クレマンソーはかつて「戦争は将軍に任せておくには重大すぎる」と言った。この言葉を借りるなら、通貨は中央銀行に任せておくには重大すぎる

コミットメントがもたらす利点としてのルールの重要性ではなく、自由への脅威、問題の重大性から裁量に反対する立場を取っている。

4章:国際金融政策と貿易

126:政府が金価格を決めるのは、他の品物の価格を決めるのと同じく、自由主義経済と矛盾する。金本位制と似て非なるこのような制度は、金を貨幣として使用する本来の金本位制とはまったく別物と心得るべきだ。本来の金本位制であれば自由主義経済と矛盾しないが、ただしこちらは前章でも述べたとおり実現不能だという致命的欠陥がある。

商品本位制への考察その2。

144:上記の政策が実行されれば、国際収支の不均衡問題は一気に解決するはずだ。(中略)為替レートが自由に変動して収支を均衡に向かわせるので、国際収支はつねに均衡するはずだ。もはや買い手がみつからなければドルを売ることはできない。その逆も同じである。

変動相場の国際収支調整機能にかんするこの予測は当たっていない。

5章:財政政策

167:私の知る限りでは、ケインズ理論を裏付ける系統的なデータや一貫性のある証拠は存在しない。言ってみれば経済神話のような説であって、経済分析や定量的な研究で実証されていないのである。にもかかわらず絶大な影響力を持ち、政府が経済活動や生活に大規模に介入することについて幅広い支持を得るにいたっている。

他のパートと比べると、ケインズ理論に対する評価がやや主観的な気がするのは穿った見方だろうか…

6章:教育における政府の役割

171-2:教育への政府の介入は次の二つの根拠から正当化できる。第一は、実質的な外部効果が存在することである。(中略)第二の根拠は、子供など責任能力のない人に対する温情的な配慮である。

こうした整理は、教育のような複雑な問題を考える上で有難い。

182-3:こうした点を検討するとき、貧しい家の子供も豊かな家の子供も同じ一つの学校に通うしかなかった昔の小さな町のイメージで考えていないだろうか。そのような状況では、公立学校はたしかに機会均衡等の役に立っただろう。だが大都市やその近郊が発展して、状況は劇的に変わった。現在の学校制度は、機会を均等化するどころか、逆の効果を引き起こしていると考えられる。並はずれて優秀な子供たち - 未来の希望が託されているこれら少数の子供たちが、貧困から這い上がるのを阻んでいるのだ。

現代の日本における教育/学校制度を考える上でも非常に示唆に富んだ指摘。

183-4:これまでに挙げた根拠から最も妥当と考えられる制度は、少なくとも小中学校に関する限り、公立学校と私立学校の共存である。そして私立学校を選ぶ親には公立学校の学費に相当するバウチャーを支給し、バウチャーは政府が認定した学校で使うことを条件とする。このような仕組みにすれば、技術的独占論で指摘された問題は解決する。また私立学校を選択する親にしてみれば、公立学校に充当される税金と私立学校の学費とで二度までも教育費を払わされるのは納得できないところだが、こうしたしごくもっともな不満も解消できる。さらにこの仕組みは、競争を促進するはずだ。公立私立を問わずあらゆる学校ができるだけ多くのバウチャーを集めようと、改善に励むようになるだろう。また競争原理の導入により、学校の健全な多様化や制度運用の弾力化といった望ましい効果も期待できる。ほかに大きなメリットとして、教員の給与に市場原理が働くようになることが挙げられる。政府は市場に準じて公立学校教員の給与水準を決められるようになり、需給状況の変化に応じた調整もしやすくなる。

バウチャーや学校選択に関する立場が違えど、この問題に携わる人が抑えておかなければいけない元祖フリードマンの主張。教育費の二重支払いの問題は日本ではあまり指摘されていない気がする。

187:創意工夫に富み勇気と自信にあふれる先生を追い払い、魅力もやる気もない凡庸な先生ばかり寄せ集めた教員採用制度と給与体系をつくりたい - そういうつもりなら、現行制度を見習えばよろしい。(中略)こうした制度にもかかわらず小中学校の先生の質がこれほど高いのは、まことに意外と言うべきだろう。

金銭的なインセンティブ付けを通じた賃金の差別化を行わないことの正当化としては、(契約理論の)マルチタスク問題や、社会選好(公平性の重視・羨望の排除)などが考えられそう。