やひログ!

日々文章を書いたりしているんです?

about me

名前: yahiro
年齢: 1987年8月5日生まれ 28歳
住所: 愛知県某所(三重県出身)

職業: サラリーマン 流通業(入社6年目)
趣味: ブログの執筆、作曲

ニコニコ動画mylist: http://www.nicovideo.jp/mylist/11422201
twitter: http://twitter.com/yahiro2000
読書メーター http://book.akahoshitakuya.com/u/203764
フォト蔵 http://photozou.jp/photo/top/2883324


☆ BANDCAMPにて、アルバムフリー公開中です。
http://kvold.bandcamp.com/

2015年に読んだ本からのお勧め(選書10選)

2015年は123冊の本を読みました。そのうちから特に良かった10冊を紹介します。読書の参考にしてみてください…
 
以下、読んだ順のお勧め本です。

●『 21世紀の貨幣論』 フェリックスマーティン

>冒頭の、「歴史上、物々交換による経済は存在しなかった」という学術的な主張が面白いです。マネーの本質について考察する一冊。
続きを読む

壁を超えるには

自分は、さほど優秀な人間ではない。学歴もたいしたことはないし、立派な資格を持っているわけでもない。最近、転職を決断し、転職先の会社に履歴書を書いていたのだが、そのことを痛感した。

転職先の会社は、貿易関係のエージェントの会社なのだが、いわゆる少数精鋭で経営している会社で、非常に優秀な人が多い。それも、アカデミックに優秀な人が多くて、海外留学なんてのは当たり前、社長は東大卒だし、他にも東大を出ている人がいるらしい。自分のような、二流の私大しか出ていない人間としては、ついていけるのか、やや不安ではある。

履歴書を書いていて不安になったのだが、職務経歴書を書いていたら、少し自身が出て来た。仕事を通じて、自分はいろいろな経験を積んできて、それらの経験は次の仕事にも生かすことができるのでは、と思ったからだ。

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自分の強みはたったふたつで、「思考して」、「軌道修正ができる」、これだと思っている。 たいした能力を持っていないので、最初からそつなく仕事をこなすことはできない。しかし、うまくいかなかった結果に対してレビューして、失敗だったところはどうすればうまくいくか考え、うまくいったらどうすればもっと手間をかけなくてもすむかを考え、そして人にこれを流していくにはどうすればいいのかを考える。その過程で、軌道修正したほうがいい場合はどんどん軌道修正をかけていく。

そうやって、常に「どうすればいいか」ということを考えているつもりなので、結果として、必ずできるようになる。ポイントは、自分のことを肯定も否定もしない、というところだと思う。肯定してしまうと改善ができなくなるし、否定してしまうと自信と意欲をなくす。肯定と否定を同時にもつ、といいかえてもいいかもしれない。

うまくいったところはこう、うまくいかなかったところはこう、と冷静に分析して、改善可能なところは改善する。改善の必要がないところは継続する。たったのこれだけである。

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仕事においては、いちいち評価なんて気にしていたらもたない、というのはある。けっこう散々な評価だった人が、短期間で持ち直す、ということもよくある。その逆も、もちろん。ただ、他人の評価なんてのは他人の中の問題であって、自分はただベストを尽くすだけなので、気にしないでいいことは気にしないのがコツだろうか。

重要なのは、やっぱりプライドをなくすことだと思う。自分をなくして、ただ目の前の問題解決に取り組む。たったのそれだけ。そう、たったの……。

哲学は現実の問題をどの程度解決してくれるのか?

哲学書の入門書を読んだ。



前にもブログで書いたが、僕は哲学書にさほど興味はない。

やひログ! : vol.912 僕が哲学をあまり好きになれない理由 http://blog.livedoor.jp/yahiro2000/archives/5050942.html#more

自分のエントリも読み返してみたが、大枠の考え方は変わっていない。

哲学を好きになれない理由は、科学的、客観的な事実をベースに理論を構築する学問のほうが有用性が高い、と考えるからだ。「自我」や「存在」を、理屈によってこねくりまわすよりは、脳科学的に、脳の機能を分解していって、どこに「自我」があるのかを科学的に突き止める研究のほうが、自分は関心がある。社会的にも、そのほうが意義のある研究だろう。

一方で、科学では答えを出せない問題もある。たとえば、人工知能がかつてないほどの進化を遂げているが、どこまでが人で、どこからがロボットか、そういう明確な境目はあるのか、といった問題だ。ここらへんになってくると、もはや科学ではなく、神の領域といえる。

自分が生誕したときに自分であったもの以外は自分ではないと定義するならば、人間の細胞は常に生まれ変わっているわけだから、またたくまに「自分は自分でなくなってしまう」。 だが、当たり前だが、一個体の人間が何度も死んだり生まれ変わったりしているわけではない。常に流動はしているが、「自分は自分」だ。自分だという認識をもてばなんでも自分になる。

また、ロボットが人権を主張することもあるかもしれない。ロボットはロボットなのだから人権などはなさそうだが、たとえば人間の身体を少しずつ機械に取り替えていき、最終的に脳の一部しか残らなくなっても、その人は「人間」だといえるだろうか。その状態になった「人間」が、人権を主張したらどうなるのだろうか。

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科学技術の発達によって、倫理観や生物学上の問題で、科学では答えを出せない問題が増えてきたのではないかと思う。科学では答えを出せない命題に、思考によって答えを導き出すのが、哲学の役割だと思う。

だが、哲学は「答えを出す」のが目的なのだろうか? とてもそうは思えない。抽象的な問題について議論し、抽象的な結論を出す、それが哲学のように思えてならない。彼らはそれでいいと思っている。

であれば、やはり哲学は現実の問題を解決してはくれないのではないか、と思えるのだ。

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少し哲学について考えてみたが、哲学の役割とは、まさに答えの出ない問題を「考える」という行為をうながす学問なのかもしれない。ハッキリと普遍的な答えの出る問題は哲学は扱っていない。それぞれが、それぞれの問題について、考え、それぞれの結論を出していく。それをうながすのが哲学。

であれば、自分はやはり、哲学書にはあまり関心が沸かないかな。「こういう問題があるのか」という問題に出会うためのツールとしては、有用かもしれないが。 

やっぱりkindleには勝てなかった、そして、電子書籍の今後の課題

「日本に帰って来てから紙の本ベースになった」と思っていたのだが、ここ最近、ふたたびkindle主流に回帰しつつある。

紙の本はもちろんいいのだが、kindleはkindleで魅力的なので、なかなか抗うことができない。むしろ、紙の本という形態が好きだからこそ、完全kindleに踏み切れない、というようなところもある。両者のあいだで揺れ動いていて、複雑である。

紙の本もkindleも愛好しているので、逆にメリットとデメリットもよくわかっているつもりだ。少し、それらについて整理してみよう。

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<電子書籍(Kindle)のメリット>

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電子書籍はいつでも買うことができる。kindleの場合、パソコンでkindleストアを開けばワンクリックで買える。また、出先でも、携帯で本を探して買うこともできるから、実質、巨大な図書館を普段から持ち歩いているような感覚に近い。

買ったその場でダウンロードしてすぐ読めるのも魅力。宅配を待つ必要はないし、一度に何冊もの本を買って積んでおく(いわゆる『積ん読』)を防げる。そのときに読みたい本を買うわけだから、積ん読になりにくい。

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学生の頃、片道一時間半の電車通学をしていたので、本は欠かせなかった。ただ、一冊を読み終えると読むものがなくなってしまうので、常に2冊はカバンに入れていて、教科書なども持ち歩いていたのでかなりしんどかった。ビジネスパーソンでも、本を2冊入れておけるだけの容量のカバンを持ち歩くのは大変なはずだ。

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最近、強く意識するのが、電子書籍は可読性が高い、ということだ。「ディスプレイを見ていると目が痛くなるのでは?」という意見もあるが、自分は設定でライトをかなり暗くして読むのでその心配はない。また、ディスプレイが紙の質感に限りなく近い「kindle paperwhite」も持っているので、これを使えばその心配はなくなる。

紙の本を読んで感じるのは、じつは紙の本を読むとき、視覚情報としてはきわめて歪んだ映像を脳に取り込んでいるな、ということ。紙の本は当然、開いて読むわけだから、視覚映像としては歪曲している。

特に、本の内側の文章を読むときは、しっかり開くか、本自体を少し傾けながら読む必要がある。無意識にやっていることではあるが、その「補正」を脳内で行っているわけで、それは読書には本来必要のないエネルギーである。その分の神経を、内容理解に使いたいところだ。

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上の「可読性」にもやや通じるものがあるが、電子書籍は端末なので、専用のスタンドなどを使えば机に置いて読むことができる。紙の本でも読書台などというものがあるようだが、それを使って読書するのは一般的ではない(僕も持っていない)。文庫本程度なら片手で持って読めるが、ハードカバーになると大変だし、いずれにしても、ページを繰るときにはもう片方の手が必要になるわけだから、結局、両手を使わなければならない。

机に置いて読むのが普通になると、たまに紙の本で手に持つ必要性に迫られると、ちょっと不便を感じる。

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これはkindleの機能なのだが、kindleは端末を変えても、同じところから再び読み始めることができる。僕は自宅ではiPad、出先ではiPhoneで読書するのだが、勝手に同期してくれるのでスムーズに読み進めることができる。

上で「持ち運びが楽」と指摘したが、kindleに関して言えば、持ち運ぶ必要すらない。出かけるときの携帯端末で読書ができるからである。

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まあ、ざっとこんなところだろうか。では、逆に、デメリットと課題について考察する。

<電子書籍(Kindle)のデメリットと課題>

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本好きの最大のデメリットがこれだ。本というのは、ただの文字情報ではなく、「本」という存在そのものに価値がある。特に、個人の本棚をどう作っていくか、というのは永遠に追求していくべきテーマである。

電子書籍は本という実体がないわけだから、本棚も脆弱なものになってしまう。これを解決する方法は2つある。

ひとつは、「読書メーター」などの、読書記録サービスを利用して、自分が読んだ本を登録しておき、それを本棚がわりにする、という方法だ。要するに、本棚の機能としては、「自分が読んだ本を振り返る」「お気に入りの本を並べる」ことにあるので、本棚すらも電子化してしまう、という解決方法である。実際、自分は読んだ本はすべて「読書メーター」に記録しているので、たまに感想とともに見返すのだが、本棚を眺めているのと同じぐらいの効果がある。

ふたつめは、本当に良いと思った本を、紙でも購入することだ。僕は年間でだいたい120〜140冊ぐらいの本を読むが、「手元に置いて本棚に入れたい」と感じる本は10冊前後がせいぜいで、あとは一度読んだらもうどうでもいい本ばかりである。どうせいつかは処分することになるので、だったら、最初は電子書籍で読んで、どうしても紙でも欲しかったら紙でも買う、という流れは合理的であるように感じる。もちろんコストはかかるが、逆に、そのコストを乗り越えてでも欲しいか、という判断基準のひとつにすることもできる。

値段が高い


電子書籍は、電子データのやり取りなので、原理上、「古本」というものが存在しない。すべて新品同様の価格である。kindleであれば、新品の本よりも1〜2割程度は安いものが多いが、それでもただの電子データにしては高い。最近はkindle unlimitedなどの新しいサービスも始まったので、ここらへんはゆくゆくは是正していきそうだ。だが、例えばブックオフなどで買える100円の本などには到底かなわない。ある程度の経済力が必要。

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アマゾンで扱っているすべての本が電子化されているわけではなく、書籍全体からみればまだ一部だろう。これは年々是正されていて、いまでは、本屋におかれているような新しい本はほぼ100%、Kindleで配信されている。ただ、文芸はジャンル的に少し電子化が遅れているような気がする。

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これはすべての電子サービスにいえることだが、ある日突然アマゾンが営業停止を食らってしまったりすると、それまでに購入した本のデータが使えなくなる懸念がある。端末にダウンロードしたりしてあればその端末で読むことはできるだろうが、システム上、本データを別メディアに保存しておくことはできない。当面は心配ないだろうが、当然、電子というデータである以上、懸念される問題ではある。

ただ、この手のリスクはありとあらゆる分野で存在する(それこそ、銀行から何から)。なんの予兆もなく突然消滅することは考えにくいし、なんらかの救済措置は期待できる。なので、あまり神経質になる必要もないだろう。

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iPadの読書の最大のデメリットは、ページを繰る動作にもたつきがあることだろう。順に最初から読んで行く分には問題ないのだが、何か目的の箇所を探すためにパラパラとページを繰っていくのが大変だ。調べものをする際に、ページを適当に繰ることができるのは、紙本だけの特性だと思う。これは、今後、ページをめくって表示する時間を短縮してもらうしか解決方法がない。

頻繁に知りたい箇所を引用するような書籍(たとえば参考書など)は、電子書籍には向かないので、紙本で所有するべきジャンルなのだと思う。

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色々書いたけれど、基本的に、電子化への移行は抗いようのない流れであるように思える。いつの時代も、新しいテクノロジーに抵抗する流れは存在するが、電子書籍の場合、資源やエネルギー効率の観点からいって、これが主流にならない理屈がない。

考えてみれば、輪転機をまわして、まったく同じ内容の文字情報を、紙に何千部、何万部と印刷するというのはナンセンスだ。会社で仕事をしている人は、会議資料などを複数枚印刷する機会があると思うが、たかだか十数人でもうんざりするぐらいの量の紙をコピーする必要があり、あれが何百倍、何千倍あると考えると、資源の無駄以外の何ものでもない。それだけ価値のある書籍ならまだしも、印刷する価値のなさそうな書籍は多い。

また、近年では、本を書く行為も完全に電子化している。みんなパソコンでキーボードを打ち込んで「書いて」いるのに、読むのだけは紙に印刷されたものでないと、という理屈はないだろう。

2016年現在でも電子書籍のほうが優勢になりつつあるように個人的には思えるが、今後、この流れは加速していくだろう。でも、紙の本は決してなくならないし、本屋もなくならないだろう、とは思う。

紙の本は、むしろ「高級品」のような扱いで、みんな基本的には電子書籍なのだけれど、人に贈ったり、本棚に飾ったりする「高価なもの」という扱いになるのではないかと思う。また、本屋も、本屋に行くこと自体が好きな人はもちろん大勢いるので、どちらかというと展示スペース的なイメージになるのだろうか。本屋にいって、好きな本を探して、それを電子書籍で購入する、それが一般的なビジネスモデルとして確立することが、今後の課題となるように思う。

2020年ごろ、上記の内容はもっと違った状況になっているように思う。

 

ユニクロの潜入取材について

週刊文春にて、ユニクロに潜入取材した記者のルポがあがっていたので読んだ。


思ったよりも短いルポで若干がっかりしたけども、さわりだけでもなかなか面白いと思った。

記者の横田増生氏は、「ユニクロ帝国の光と影」という本を著した際に、ユニクロ側から名誉毀損で訴えられたが、最高裁まで争った結果、勝訴したという経緯をもつ。

その中で、ファーストリテイリング社長の柳井氏から、「ユニクロを批判したければ、是非お店で働いて欲しい」というコメント(?)を受け、法的に名前を変えて1年間、本当に潜入取材をしたというもの。のべ800時間、3店舗におよぶ勤務を経て書かれたレポートだけに、柳井氏も「ぐうの音もでない」といったところだろうか。

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ネットでも「これこそジャーナリスト」とわりと絶賛されている。確かにこの行動力はすごい。すごいが、若干、狂気じみたものも感じる。まるで親の仇でも取るかのような行動である。ユニクロをはじめとする「ブラック企業」を取材したい、という強いジャーナリスト魂が彼を動かしたのだろうか。

「ブラック企業」という表現もすっかり定着して、その代表格のように扱われているユニクロだが、消費者的には安くて品質がいいので労務環境に関してはまったく気にせず利用している、という印象。まあ、消費者なんてのはそんなもの。しかし、その裏にひそむ闇はなかなか深いようだ。この潜入取材も、いずれ書籍化すると思われるので、ちゃんとしたレポートはそれを待つことにしたい。

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企業イメージというのは大事だ。企業イメージが悪いと、会社の経営にダイレクトに影響する。行政が動いて、監査や捜査が入れば、もちろん会社にとっては大打撃だ。だから、経営者は自分の会社を「ブラック企業ではない」と言う。これは当たり前の話。

そして、世間的なそういう風当たりはもちろん障害になるわけだから、積極的にそれを是正しようとする。「ワークライフバランス」をかかげ、長時間労働を禁止する。残業も極力なくしていく。この前の電通の社員の自殺も象徴的な事件だったと思う。いま、自らを「ハードワーク」な社風だと標榜する上場企業はないのではないかと思う。個人的に衝撃だったのは、日本電産の永森会長も同じようなことを言っていたこと。これは時代の流れなのだね。

でも、当たり前だが企業としての実体がそう簡単に変わるわけがない。トップが「ワークライフバランス」といえば、下はそれについていかざるを得ない。それでいて、こういう会社は、数字的な実績をあげるのは以前までと変わらない水準を要求されるから、当然、現場はついていけない。結果、上に報告がいかなくなる。どこかの段階で、情報が遮断される。

だから、自分としては、柳井氏は本当に現場の実体は知らないんじゃないか、と思うのがひとつ。報告がどこかの段階で遮断され、都合のいい情報だけが上層部に行き渡る。ブラック企業って、要するにそういう構造なんじゃないかと、自分は思っている。建前上は労働時間を短縮しているが、利益率は以前と変わらない水準を保てている、と。普通に考えれば、そんなことはありえないのだが。

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もっとも、「お客様がいる空間で、休憩して食事なんてできるわけがない。水ぐらいですよ」と公然と言っていた某居酒屋チェーンの会長などもいるから、なんともいえないのだが……。いずれにしても、ルポの書籍化が待たれますね。 

どうでもいいですが、2016年は文春の年でしたね。12月になってもスクープをぶっこんでくるとは。 

情報を偏りなく摂取するには?

スマートフォンが登場したことで、さまざまなニュースアプリが登場して、それぞれが特徴を打ち出してしのぎを削っている。なかでも強いのは「スマートニュース」だろうか。「グノシー」はテレビニュースなどでも、よく目にしますね。

僕は、一時期、中国関係のニュースを集める必要があったので、「カメリオ」というアプリを使っていた。これは、指定したテーマに沿った記事を自動的にあつめてくれるサービスで、トピックスを絞り込むと業界的な動きの情報を収集してくれる。ビジネスマンなどで、専門の分野の情報を集めたい人にはもってこいかもしれませんね。

「ニュースピックス」というアプリもなかなか面白い。これは、コメントを付与することを前提としたアプリで、さまざまな著名人のコメントを見ることができる。ただ、あまりにも「意識高い」記事が多いので、ちょっと見すぎると胸焼けするような感じがするのも事実……。

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ニュースをどう見るか、というのはなかなか自分にとっては難しいテーマで、それなりに深くニュースを見たいと思う一方で、そんなに多くの時間をニュースチェックに割くことはできないので、ある種のジレンマを抱えている。落としどころがなかなかわからない。

一番効率がいいのは、自分が「知りたい」と思う情報をダイレクトに摂取することだが、これはこれで問題が生じる。

つまり、「自分が知りたい情報」にのみアクセスするようになると、「知りたくない情報」が入ってこなくなるのである。情報は俯瞰的に、偏りなく摂取することが大事。心理的バイアスによって、都合の悪い情報は自分の中に入ってこないようにどうしてもなってしまうと、ニュース全体を俯瞰することが難しくなってしまう。結果、自分の都合のいい情報ばかりに触れ、自分の主義主張に反する情報に触れる機会がなくなってしまう。

「スマートニュース」が優勢で、「グノシー」が劣勢なように僕には見えるのだが(申し訳ありませんが主観です)、それはこの「情報摂取のバイアス」によるデメリットをユーザ自身も感じているからなのでは、と思っている。

「グノシー」は、自分が知りたいと思われる情報を、グノシー自身が学習して、記事を選んでくれる。だから、グノシーを開けば、自分が知りたいと思う情報にアクセスすることができる。しかし、そのせいで、似たような記事、似たような情報ばかりが集まってしまい、極めて視野の狭い情報のみが集まることになる。それを受けてか、グノシーはユーザー用にキュレーションする機能に加えて、ニュース全体のトピックスを見れる機能を追加したようだ。

偏りなく、あらゆる情報にアクセスするには、どうしたらいいのだろうか。

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僕はスマートニュースもよく見ていたが、最近はyahooニュースを良く見るようになった。なんだかんだいって、老舗のこのサイトの選ぶ記事が一番安定性が高い感じがする。「主要」の記事を選ぶと、だいたい毎日60〜80記事ぐらいが集まるから、一通り目を通すと、その日に起きたことがなんとなくわかるようになっている。

そんなに俯瞰した情報が欲しいなら、新聞を読め、と言われるかもしれないが、確かに新聞も悪くはない。むしろ新聞はちゃんと読むべきだと思う。しかし、新聞だって色々なカラーがあるわけで、どれを選ぶか? という時点でバイアスはある。

また、ネットニュースだけで、どこまで新聞に対抗できるか? というのも、自分の関心事のひとつなので、なるべくネットのニュースのみでいろんな情報を入手したい、と自分は考えている。

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ネットニュースで特徴があるとすれば、コメントの機能ではないだろうか。上記のyahooニュースって、コメントがユーザーによってつけられるので、ユーザーの反応を見ることができる。ニュースによっては、なんのことだかわからないことや、「これは違うだろう」と思うような記事もあるのだが、そういうのもコメントによって容赦なく指摘されている。これは新聞ではなかなか実現できないだろう。

新聞を読むべきだ、というのもわかるのだが、いまの時代に、ネットニュースだけで、偏りなく情報を摂取することは可能なのだろうか? 自分もまだ、模索している段階である。

まあ、日経新聞は読んでいないと、そもそも「話題」についていけない場面もあるので、なんとも、なんだけど……。 

アホな脳と天才の脳は容量が違うのか?

清水亮「よくわかる人工知能」を読んでいる。


 
清水亮といえば、IT企業の社長で、ブロガーとしても知られているのだが、人工知能関係のビジネス展開をしつつ、それに関する書籍も多く書かれている。この本もなにげなく読み始めたのだが、かなり内容の濃い対談がメインの書籍で、人工知能研究の最先端にいる方々とのインタビューが多い。

なかでも面白いな、と思ったのは、LIS(Life In Silico)の話題。 

この記事からでも概要はつかめる。

ドワンゴで産まれた超人工生命LIS、ハッカソンでカンブリア紀に突入! - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース) https://wirelesswire.jp/2016/04/52114/

要は、単に「思考する」だけの存在ではない人工知能に、コンピュータグラフィックスによる「身体」をあたえて、その中で試行錯誤させるようにすると、あらゆることを学習していく……というもの。

「仮想空間」というと、あくまで人間が操作するバーチャルな空間をイメージしがちだけれど、仮想空間の中のみで生きる生命の可能性を示されると、なんだか胸熱ですね。映画「サマーウォーズ」のような世界は、あんがいリアルに今後実現されるかもしれない。(映画のようになったら困るんだけど……)

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人工知能を研究するということは、人間の知能を研究することに等しい。僕は、人間の「記憶」というものに昔から強い関心があって、人間の記憶の実体とはなんなのだろう? ということを考えてきた。

パソコンなどのデータは、少ないデータであればデータ量は少なく、多いデータであればデータ量は多い。単純に、バイト数(キロバイト、メガバイト、ギガバイト……)でそれらは表現される。

しかし、人間の脳は、どういう記憶の「保存」になっているのだろう? たとえば、同じ画像を記憶したとして、AさんとBさんでは、同じ「記憶量」になっているのだろうか?

たとえば文章などのテキストデータは、もちろんテキストそのものの情報量は一定だが、それを読んだ人間がどのぐらいの「情報量」をそこから得るかは、個人差による。知能の多寡によって決定される、といってもいい。自分に関心のあるテーマであれば、多くの情報を得ることができるし、また、そこから派生した思考なども同時に獲得する。一方で、外国人が日本語の文章を読んだとしても、内容がわからないので、ほとんどなんの情報も得ることができないだろう。

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LISの話題で面白いと思ったのは、「学習」を繰り返して「賢くなった」LISの生命体の記憶を保存すると、膨大な量になるということだ。けっこう単純な学習結果でもあっても、それまでの学習成果を学んで複雑になっているから、そのすべてを保存すると、相当な容量になる。

だから、保存をするときはその一部のみを保存するらしいのだが、次に起動したとき、その生命は記憶の一部を失ってちょっとアホになっているという(笑)。また時間をかけて学習させていくと、以前とは違った「記憶」を得て、違う知能に成長していく。

これってつまり、人間の「経験」と同じことだと思うのだよね。どんな人間でも、まったく同じ経験を積んでいる、ということはない。人間社会を取り巻く外部的環境は、天文学的に複雑な要素に満ちていて、外的要素の少ない仮想空間ですら、「経験」に差が生じるのであれば、人間の「経験」をスキャンして保存するという行為がもし可能になるのであれば、じつはめちゃくちゃすごいことなのでは……? などと思うわけです。

で、「アホな人」(というとやや差別的だけれど)と、知識量豊富な「 識者」の脳をスキャンしたら、容量的には違いが生じるのだろうか? というのが、自分の疑問。

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おそらくこういったことも研究はなされているはずなので、それ関係の論文を調べたりすればある程度あきらかになることなのかもしれないけれど、個人的な仮説としては、記憶とは、ニューロンのネットワークによるものなので、ある種の「模様」のようなものなのではないだろうか、と思っている。

頭のいい人は理想的な「模様」を持っている。アホな人は、それなりの「模様」。あ、これって、いわゆる「脳のシワ」みたいなものですかね。頭のいい人は、「頭のシワが多い」みたいな。あの比喩って、実は比喩でもなんでもないんですかね?

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自分は、文章を書いたり、人と話したり、アウトプットも好きなのだけれど、本を読んだり音楽を聴いたりして、インプットするのもすごく好きだ。いろんな雑多な情報を、のべつまくなしに詰め込んでいったら、自分の脳の「模様」はどうなるのだろう、というのがすごく気になる。

まあ、スキャニングしたら容量的にはみんな同じなのかもしれないけれど。でも、頭のいい人は、きっと理想的な「模様」から、理想的な「解」を導くことができるのだろうな。 

創作で残されるのは、最終的には感性による選択だけ

最近、モノクロ写真を撮ることにちょっとはまっている。社会人になったときに、少しだけいいカメラを買おうと思って、キャノンのG12というカメラを買った。



いわゆるコンデジなのだが、ちょっとガタイが大きく、それなりの写真が撮れる。だが、これを使ってもあまり写真というものに興味が持てず、しばらく放置していた。

最近、休みの日にどこか出かけたりするときに写真を撮ろうと思って、とりあえずこれを持って外に出るようにしている。しょうもない写真ばかり撮っているのだが、何十枚、何百枚と撮っていくと、たまに「あっ」と思うようなものが撮れるときがある。別に被写体が特別だったりするわけではないのだが、なにかしら、自分の心の琴線に触れる写真が撮れるときがあるのだ。

ただ、写真というのも愛好家が死ぬほどいるので、どんなにいい写真を撮っても、どうしても「ありきたり」なものになってしまう。特別な一枚なんてのはそうそうない。たとえば、富士山を撮ろうと思っても、「自分しか撮れない富士山」なんてものはもはやこの世にはないはずだ。 ありとあらゆる角度、時期、方法によって撮られた富士山が無数にあるはずで、たとえば富士山が見えたからといってiPhoneで写真を撮っても、類似のものはネットを探せばほぼ無限に出てくるだろう。「自分だけの」ものなんてのはどこにもないのだ。

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であれば、写真撮影というもののクリエイティビティはどういうところにあるのだろうか。写真撮影にまつわる技術面において、素人と玄人がほぼ同程度になるのだとしたら、僕は、最終的には「感性による選択」ということになるのだろうな、と思う。

今まで、世界で撮られた無数の「富士山の写真」のなかから、「これだ」と思う一枚を感性でえらぶ。この行為が「創作」になるのではないだろうか。

写真撮影なんて、いろんな技術はあるし、技法も特殊なものまで含めてあるのだろうけれど、一瞬で終わる芸術行為だ。シャッターを押せばそれで終わる。では、何がクリエイティビティなのかというと、「何を撮るか」、「どう撮るか」、「どう映っているものを選ぶか」、このぐらいに収斂されそうな感じがする。

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作曲なども、昔は音楽理論を勉強して、楽器の演奏技術を習得して、楽譜の書き方を勉強して、それでやっと作曲ができるようになったと思うのだが、いまはDTMを使えばすぐに製作からレコーディングまで行うことができてしまう。ハードルは信じられないほどさがっている。

今後、作曲の分野で何が起こるかというと、おそらく、もっと自動で音楽が作られるようになるのではないかと思う。すでに自動で作曲する人工知能は開発されているようだが、無数に「自動生成」された音楽的断片から、最終的に「何がいいか」を選ぶのが創作という行為になり、その クオリティを競い合うようになるのではないかと思う。

たとえば詩の分野だと、「言葉えらび」という単語が存在する。詩は、言葉ではない現象を言葉で表現する行為だが、この世にない言葉を使ってそれを表現するのではなく、もちろん既存の言葉を使ってそれを表現する。つまり、「選ぶ」のが詩という芸術なのだ。言葉を「発明」しているわけではない。あくまでも選んでいるだけだ。

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時代が進んでいけば、小説や映画も「選ぶ」のがクリエイティビティになるのだろうか。しかし、どんなに感性の優れた人工知能が誕生しても、やはり「人間がつくる」ものが芸術作品になるのだろうな。そうやって考えると、人工知能はどこまでいっても道具にすぎず、やはり、人間の感性こそが芸術になるのだろうな。

 

消えたプログラマが残したもの

消えたプログラマの残したものは - megamouthの葬列 http://megamouth.hateblo.jp/entry/2016/11/27/002340

読んだ。開発中のシステムが、プログラマの失踪によって頓挫し、あとを引き継いだ人がその内容、というかコンセプトを理解することができずに、その場限りで引き継いだ結果、誰にも理解できない奇妙なコードになっている、という感じの話。

IT業界のことはよくわからないけれど、他の業界でもわりとこういうことって起きてるんじゃないかと思う。うちの職場でいうと、もう辞めてしまった人が作成したエクセルのシートが、ありとあらゆるところからデータを引っ張ってくるラビリンス的構造になっていたのだが、ある日、サーバーの主要なファイル名が書き変わってしまい、ラビリンスを繋ぐ構造が崩壊した。結果、誰にも構造が理解できなかったので、僕が新しく作り直したりしていた。

エクセルでなくても、ほかの仕事とかでも同じことがいえると思う。昔からなぜだか続いている業界の慣例とか。それをつくった当事者はもはやいないけれど、連綿と、よくわからないことが続いていて、その理由もよくわかっていないような状態。

完全に人に引き継いでいけるような仕事は、要するに他の人でも出来てしまうというわけだから、自分の存在が必要なくなる訳で自分の首を絞める結果になってしまう。かといって、人に引き継げないような仕事は、システム自体が崩壊したとき誰もそれを修復することができない。けっこうジレンマ。

人生の基本は、選び取るだけ

わりと変動の多い二十代を過ごしてきた。だいたい1〜2年で、自分の環境が激変している。会社は変わっていないけれど、周囲を取り巻く環境だったり、自分があるプロジェクトに抜擢されたりと、本当にさまざまな要因で、自分の環境というのはどんどん変化していっている。

日記を書くと、 そういう変動が手に取るようにわかる。面白いのは、渦中にいると、この「日常」が永遠に続くのではないか、と思っていることだ。

僕は、わりと「日常」の重みに耐えきれないタイプのようで、「日常」が連続すると、自分から変化を求めてしまう。ただ、自分がわかっていなかったのは、「日常」なんてのは、永遠に続くものではなく、どんどん変化していく。自分から変わることもあれば、周囲の事情で変わることもある。

人生は、選択の連続だと思う。どんなに平凡な人生でも、何かを選ぶ瞬間は来る。だが、人生レベルの選択というのは、なかなかできるものではない。そんな時、自分が自分の気を楽にするため、言い聞かせていることがある。

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人生とは選択の連続だが、逆に言えば、「選び取るだけ」でいいのだ。これは、自分ではどうしようもないことは、潔くあきらめる、ということでもある。また、過去はどうやったって変えられない。重要なのは、未来を「選ぶ」ことのみであり、その積み重ねが、人生を作っていく、ということだ。

こうやって考えると、わりと精神的な負担は軽減する。どうしようもないものは、どうしようもない。あきらめよう。そのかわり、いま、自分の目の前にある選択肢で、最善のものを選んで行く。将棋の盤面で、「最善手」を探すようなものだ。将棋のルールを変更するわけでもないし、将棋の盤面がいじれるわけでもない。いまの盤面から、「最善」の手を探して、選ぶ。たったのそれだけでいい。

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自分に限らず、世の中の人で、くよくよと悩んだり、また、他人から理不尽なことをされたり、環境の変化に取り残されたりしているたびに、怒ったり、落ち込んだり、無駄なエネルギーを使っている人が多いように思う。

自分もそういうところが全くないわけではないけれど、「人生は、選び取るだけ」というのは、ひとつのおまじないのようなもので、なるべく無駄なエネルギーを使わないようにしている。

誰の言葉だったか、人生はシンプルだ、と言った人がいた。人生はもともとシンプルで、あなたがそれを複雑にしているだけなのだ、と。 

WEGの新譜が出たようです

かなり久々となる、World's end girlfriendの新作フルアルバムが発売となりました。

LAST WALTZ
world`s end girlfriend
Virgin Babylon Records
2016-11-26







うーん、本当に久々なんですよ。前のフルアルバム、seven idiotsが出たのが2010年とかなので、じつに6年ぶりになります。その後も、ちょこちょこと単発の曲だったり、EPだったりは出ていたのだけれど、フルアルバムという形式では本当に久々です。

公式PVもあるようなので、そちらも是非チェックしてみてください。

 

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なぜか猛プッシュするこのWEGことWorld's end girlfriend、自分にとってはものすごく大事なアーティストなので、ついブログにも書いてしまいました。

自分の中で、ガーン!と衝撃を与えてくれたアーティストというのがいくつかいて、WEGはその中のひとつです。このアーティストがいなかったら、自分は作曲をしていなかったと思う。それぐらい、自分にとっては重要なアーティストなのです。

自分は音楽をつくるのが趣味で、好きなのだけれど、いわゆるちゃんとした音楽理論に則って作っているわけではなくて、けっこう感覚で作曲をしているわけです。いまはそれが自分の強みでもあると思っているけれど、「これは、音楽とは呼べないのではないか?」という悩みは、わりとずっと持っていました。

世の中に溢れている音楽は、わりとちゃんとした理論に則って、ちゃんとした構成をとって、音楽の体を成しているわけです。そもそも、打ち込みだけで作っている音楽というのはあまり多くはなく、だいたいはボーカルだったり、ギターだったり、何かの楽器を録音したものを使っている。

でも、自分のつくる音は打ち込みオンリーで、世の中の大多数の音楽の流れにはあまり沿っていなくて、あくまでも亜流、極端なことを言ってしまえば、音楽ですらなく、ただのおもちゃの音を並べただけ、そういうふうに聞こえることもあるわけです。そんな中、WEGの音を聴いていると、「あっ、音楽って、こういうふうに作ってもいいんだ」ということを気付く。WEGはそういう意味で自分にとっての救世主で、「音楽製作」というものの楽しさを教えてくれたアーティスト、自分にとっては、そういうふうな位置づけです。

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自分の音楽に対するスタンスというのは、ここ数年は一貫としていて、「音楽なんてのは単なる空気の振動にすぎない」というのが自分の考え方です。どんなに素晴らしい旋律も、不快なノイズも、所詮は単なる空気の振動なのであって、それを「良い」か「悪い」かと評価するのは、あくまでも人間の感受性によるものだな、と思うわけです。

打ち込みだろうが、生演奏だろうが、関係ない。音楽理論に則っていようが、そうでなかろうが、それも関係ない。すべては同じの、空気の振動にすぎない。ただ、その空気の振動にすぎない音楽を、よりみずみずしく、スリリングに、かつエモーションを感じるように操作するのが、作曲者なのだと考えるようになりました。 

なんだかこうやって書いていくと、自分の音楽の正当性を主張しているだけにも見えますが、そういうことを教えてくれたのがWEGというアーティストなのだということが言いたかっただけです。

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まだちゃんと聴いていないから、一曲一曲、噛み締めるようにして味わっていきたいと、そういうふうに考えています。 

「そうだ、新卒を採ろう」

友人と名古屋駅近くの沖縄料理店で飯を食っていた。友人は、上海で知り合った32歳男性で、いまは愛知県で、とある会社の役員をしている。役員というか、父親が創業者なので、その二代目社長となるべく、現在は修行中なのだ。

僕らは上海のとある会合で知り合った。当時は僕は上海であらゆる営業をかけまくっており、二年間で1000枚近い名刺を配って歩いていた。

その友人とは営業先のひとつとして知り合ったのだが、なぜか妙に馬が合って、互いに日本に帰って来てからも交流がある。
 
父親が創設した会社なので、やはり苦労も多いらしい。一番大変なのは、父親の方針と自分の方針が微妙に違うことだそうだ。

しかし、これはまあ、よく聞く話ではある。誰だって、まったく同じ方針で会社を経営することはないと思うので、自分の色に染めたい、と考えたときに、そのギャップで苦労するのは、誰だってそうだろう。

しかし、とにかく苦労しているのは、社員のレベルが自分の思うレベルになかなか育たないことだという。

業界的に、あまりちゃんとパソコンを使えるレベルの人が少ないのだそうだ。エクセルのマクロ、関数などはもちろん、ちゃんとした報告書ですら、昔からいるベテランの人はなかなか作成することができない。

だが、最近入社した高卒の若い男の子は、はじめはあまりそういったスキルはなかったものの、物覚えがいいのでだんだんあらゆることを吸収して、成長していっているとのこと。そういう感じの子があと何人かいると違うんだけど、と友人は言った。 
 
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そういう人が欲しいんなら、 大卒の新卒でも採ったらいいんじゃないの。そう発言すると、うーん、そうなんだよな、としばらく考え込んでいた。うん、そりゃそうなんだよな、それしかないか。
 
自分で言ってみて気付いたのだが、新卒というのは実に使い勝手のいい存在なのだ。仕事を進めていくためのビジネスマナーやら何やらはある程度は身につけているし、何より、メールなどの簡単な文面を作成したり、エクセルの簡単な集計表ぐらいなら作成する能力ははじめから身につけている。

それに、昔ながらのベテランの人を「説得」するよりは、何も知らない新卒を採用して「仕込む」ほうが、圧倒的にコストがかからない。新卒を採って教育するのは、時間は多少はかかるかもしれないが、企業としては存続するために欠かせない要素だといえる。 
 
つい数年前までは、自分がその「新卒」だったというのに、ずいぶんと年を取ったような感じがする。しかし、そうやって客観的に「新卒」というものの存在について考えてみると、会社というのは宗教みたいなものだな、と感じる。
 
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すでになんらかの色に染まっている人を自分色に染めるよりは、まだ何にも染まっていない人をつかまえてきて、自分色に染め上げるほうがいい。

新卒が有利に出世するためのカード、いわゆる「新卒カード」というのは、いわば「自分は何にも染まってないですよ。うちの会社だけに染まってるんですよ」というのを売りにしたにすぎないのではないだろうか。うわ、ますます宗教っぽい。

多かれ少なかれ、「新卒を採用したい」という動機で、いちばんナチュラルなのは、やはりこのパターンなのではないだろうか。新卒を採用することで、新しい風を入れるのと同時に、会社の色に徹底的に染め上げた人間がいたほうが何かと事をすすめやすい……と。
 
「新卒カード」を、チャンスと取るかどうかはあなた次第……といったところだろうか。 

宮崎駿激怒と岡田斗司夫の客観的視点

ちょっと前にカワンゴこと川上量生が宮崎駿に激怒されていた。

 やひログ! : vol.961 宮崎駿が川上量生に怒ったこと http://blog.livedoor.jp/yahiro2000/archives/5131855.html

んで、まあネットでは色々な意見があって漁っていると面白かったんだけど、なかでもオタキングこと岡田斗司夫の視点が個人的にはすごく面白かったんですよね。

 

実際に放送を見ながら解説しているような感じなので、若干見づらいかもしれないけれど、まあごらんください。
 
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これを見ると、「客観的視点とは何か?」ということを考えさせられる。宮崎駿は、カワンゴに対して、人工知能によって作り出されたCG生物の動きを、「痛みを感じる、ということを想像しない人によって作られたもので、この映像から生命に対する侮辱を感じる」と発言。

それに対し、カワンゴは何も言い返すことができない。困り果てた顏で黙るだけ。おなかもでてるし。
 
でも、その映像を見た岡田斗司夫は、それは宮崎駿が正常に動作しているから起こったことであって、むしろ「正常稼働したがゆえの稼働音」にすぎない、と解説。宮崎駿が怒った、生理的に不快感を感じたということは、それに対して、彼が何か強く影響を受けたということを示している、と。

カワンゴは、その後投稿した匿名のエントリで、「あの映像を見せることによって、否定的なコメントが出るとは想定していたが、何かの刺激になればと思って紹介した」と弁明していたが、岡田斗司夫的にはちゃんとカワンゴの当初の目論み通り、「宮崎駿の刺激」になった、と評価している。この評価の違いは面白い。
 
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つまり、これは当事者と客観的な人との見方の違いである。カワンゴがいまはこの事件(?)をどう捉えているかはわからないが、岡田斗司夫によれば、当初の目論みは達成できているということなので、むしろ「正解」に近かったのではないだろうか。

しかし、カワンゴは放送でもヘコんでいたし、その後のエントリでもなんだか元気がないような感じがする。だから、当事者的には「あれは失敗」という位置づけだったのではないか、と推察される。
 
主観的視点と客観的視点の違いというのは面白い。どんな人でも、自分が当事者だと客観的に見ることができない。

あとから考えてみると、なんてバカなことをしたんだろうとか、なんであんな発言をしたんだろうと思うことは多々あるが、時間が経つと多少は客観的な視点を獲得できるから、そういう振り返りができるのではないだろうか。

それほどまでに、当事者と第三者のあいだには大きな隔たりがある。

岡田斗司夫とカワンゴの立場が正反対でも、同じことが起きたと思う。両方ともとてもかしこい人なので。
 
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当事者的な視点だけがすべてではない。自分の人生をディスプレイ越しに眺めるように、客観的視点を失わないようにしたいものです。 

こどもはなぜ「ままごと」ができるのか?

僕には姉が二人いるのだが、両方とも二人ずつ子どもがいる。実家に帰ると近所に住んでいることもあり、よく遊びにやってくる。

一緒に公園などに行くと、子どもたち同士で泥でだんごを作ったりして、「ままごと」をやっている。家にいても、レゴで「ままごと」をはじめる。子どもなのだから普通のことなのだが、よくよく考えてみると不思議なことだよな、と思う。
 



子どもは「ままごと」をするが、それができるということは、それは「現実ではない」ということを認めている、わかっている、ということになる。

たとえば、僕が出された泥だんごを「食べて」と言われてそのまま口にしたとしたら、姪はおそらく唖然とするだろう。 僕は実際に食べる必要はなく、食べる「ふり」をするだけでいい。それで姪は納得する。

人は、小さいうちから、現実と虚構のちがいがわかるのだろうか。これは本当に考えてみると驚くべきことで、なぜなのかよくわからない。もしかすると、もっと小さいうちは区別がつかないのかもしれないが、だいたい3〜4歳ぐらいからこの能力を獲得するようだ。不思議である。
 



本当に小さい子には「いないいないばあ」というあやし方が通用する。あれは、顏が「見える」のと「見えない」のとで、「いる」「いない」を判別する幼児ならではのあやし方なのだが、このように、生まれたばかりの幼児には「いる」「いない」の判断をすることがまだできない。

だから、顏が見えなくなれば「いなくなった」と思い込む。視覚的に、「見える」「見えない」だけが、存在の有無を確認するための指標なのだ。それが、いつのまにか「見えなくても、そこにある」という概念を獲得し、それを発展させていくと「現実と虚構」の区別をつけられるようになる。

「ままごと」なんてのはまさに虚構の世界なわけで、それを虚構だと知りながら楽しんでいる。うーむ、考えてみればみるほど不思議。
 



小さいとき、日本書紀の絵本か何かを読んで、イザナギとイザナミが矛で海を突いてかき回したら日本が出来た、という話を親にしたら、それは神話であって現実じゃないのよ、と諭された。

だが、僕はそれを現実だと思い込んだわけだ。現実と虚構の区別がついていなかったといえる。

 


「これは虚構だとわかっている虚構」と、「これは現実だとわかっている虚構」、そういうものが世の中にはあるのだろうか。

うーん、結論は出ないけれど、幼児期から獲得する「虚構を虚構と思いつつも、それをちゃんと認識できる能力」というのは、人類が獲得した謎の能力ではないだろうか? もしかすると、昔の人は神話などもまじめに信じていたというが、本当は、「虚構を虚構のままに楽しんでいた」のかもしれない。

それができない人は、幼児以下、……ということになるのか? 

「脳は疲れない」は本当か?

昔、糸井重里と池谷裕二という脳科学者の対談本で、「脳は疲れない」という発言を目にした。



読んだのはずいぶん前なので詳細は忘れてしまったが、「脳は基本的には疲れない。脳が休んでいるとされている睡眠中でも、むしろ脳は記憶の整理などを行い、活発に活動している」というような内容だったように思う。

それに対して、糸井重里が「おおお」みたいに興奮して反応していた。コピーライターも、やはり脳を酷使するのだろうか。
 
池谷先生によると、長時間、仕事をしたりして、脳が疲れたりするのを感じるとき、それは脳ではなくて「目」とか「身体」が疲労しているから、脳が疲労したように感じる、とのことらしい。

それを読んだときは、なるほどそうなのか、と思ったのだが、よくよく考えてみると、これは、日常生活を送る上での実感からは離れているよなぁ、と思う。
 


例えば、簡単な計算をしてみる。10000から7を引くという単純な暗算をずっと行ってみる。 9993、9986、9979……。これを永遠に続ける。

一桁まで行くことが出来る人は凄い人だと思う。多くの人は、途中で頭が混乱して挫折してしまうはずだ。これは、視覚的なインプットは何もなく、ただひたすら、純粋に、脳内のみで行われている作業である。

ここで疲労感を感じたのならば、これは脳の疲れといえるのではないだろうか。なんなら、聴覚情報、視覚情報を遮断するため、暗室でこれをやってもいい。これでも脳は疲労していない、と言えるだろうか。間違いなく、途中で寝てしまいそうだが……。

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しかし、そうやって考えていくと、リフレッシュするのって難しいよな、と思う。会社にいると、息抜きにタバコを吸っている人を見るのだが、よくみると皆ひっきりなしにスマホゲームをやっている。

休憩なのだから、どうやって過ごそうがそれは個人の自由なのだが、休憩時間に余計な脳の能力を使って休まるのだろうか、などと考える。そういう僕も、あいまの休憩時間にはよくkindleで本を読んでいるけれど……。

だが、「おれはそうしたほうが脳が休まるんだ」と主張するのであれば、まあ、お好きにどうぞ……という感じではある。
 


脳は疲れないというのは本当だろうか? 実感としては、脳は疲れる感じがする。学生のとき、集中して試験が終わったあとは、やっぱり開放的だし、脳を使わずにぼーっと電車なんかで帰宅するときは至福の瞬間だ。 しばらくはゲームも読書もしたくない、こうやってぼーっとしていたい、と思ってしまう。
 


同時通訳ができる友人にきいたのだが、同時通訳というのは脳を酷使するので、あまり長時間は集中力がもたないらしい。だから、連続で仕事ができる時間は限られている、と。

そういえば、空港の管制官も、多大な集中力を要求されるために、連続して仕事ができる時間が限定されている、と聴いたことがある。脳が疲労するから、というより、ある物事に「集中する」能力が限定されているのではないだろうか、とふと思った。
 


リフレッシュにはぼーっとするのが一番。集中を拡散して、自由きままに思考を走らせる。

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一時間、何もせずにぼーっとする人って、現代だとほとんどいないのではないかと思う。さらなる集中力を得るために、あいまの時間はぼーっとしてみてはどうだろうか? 

やはり、ジュンク堂

名古屋駅の近くで友人と会う約束があり、名古屋駅付近で本でも読もうと思った。

いまは、本はアマゾンで買ってコンビニで受け取る、という流れが一番多い。海外にいたときはkindleで読んでいたのだが、帰国してからは本は可能な限り紙のものを買う方針に切り替えた。だが、買う場所は同じだ。

僕が欲しいと思う本でアマゾンで手に入らない本は少ない。だが、アマゾンばかりだと買うジャンルも限定されてしまうので、たまには本屋に行きたくなる。
 
名古屋の大型書店というと、高島屋の上階にある三省堂か、栄にあるジュンク堂、丸善、あたりだろうか。丸善は、自分がもともと就職を志望していた書店で、学生時代にインターンシップをしたこともあった。最近、栄に新しいビルが出来て、本ならなんでも揃う、という感じになっているようだ。一度だけ行ったことがあるが、栄に用事がある事が少なく、あまり行く機会がない。

三省堂にはあまり行かないので、せっかくなので行ってみた。 人が多い。中央に東急ハンズの売り場があって、かつてよりも売り場面積は狭くなっている感じがした。が、とにかく人の多さが凄い。

平日の夕方だったのだが、ビジネスマン風の人もいるし、学生もいるし、とにかく色々な人がいる。平積みされていたのはドナルド・トランプ関係の本や、「君の名は。」の小説版などがあった。僕は本屋が好きなのだが、購買意欲がそそられない本屋ではほとんど何も買わない。

いちおう、一周ぐるりと回ったのだが、特に買いたいと思う本はなかった。一応、清水亮の「よくわかる人工知能」という本を買おうと思っていたのだが、検索をかけても在庫はなかった。出たばかりだから、ある程度は平積みなどで売られる本のはずだ。マイナな本に分類されるのだろうか。釈然としないまま、高島屋をあとにした。
 
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名古屋駅東口を出て大名古屋ビルヂングを過ぎるとすぐにジュンク堂がある。フロア面積としては栄のロフト店より狭いが僕はこの店舗が大好きで、名古屋駅にくるとだいたいここに寄る。

店に入るとすぐに店員によるお勧めの本が並べられている。並べ方は、平積みだけではなくて、面陳列といって本の表紙が見やすいように並べられていることが多い。 店員のお勧めがわりとダイレクトにわかる並べ方だ。

もちろん、流行りの本も並べられているのだが、けっこうマニアックな選書なので、これを見ると、購買意欲がそそられる。三省堂のあとで、ジュンク堂にくると、ああ、帰ってきたな、という気分にさせられるのだ。
 
そして、目的の人工知能のコーナーにいくと、三省堂では在庫がなかった清水亮の「よくわかる人工知能」がなんと面陳列されていた。

さすが、わかっている。僕の好みを知っていたのかというほどの精度で、欲しい本がバーンとダイレクトに展示されている。これは凄い。

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学生の頃から、三省堂よりは丸善のほうがいいと思っていたが、父がジュンク堂派だったので、試しにいってみたらすっかりハマってしまった。書店は基本的に、出版された本を同じ価格で並べるだけだから、差別化をはかるのが難しい。

なので、僕は「購買意欲が高まるか、高まらないか」で書店の価値を判断している。いまでは、おそらく書店に来る人というのは、何か目的があって来るというよりは、「少し時間があいたから本でも買おうか」というような感じで来るのではないだろうか。

本当に欲しい本ならネットで買うし、すぐに読みたい、すぐに読む必要のある本はkindleで読むだろう。本当に欲しい本を求めて、書店に来る人は少ないのではないかと思う。 
 
もっとも、並んでいる本に大きな違いがあるわけではもちろんない。また、陳列だけが書店の違いを生むわけでもないだろう。ただ、重要なのは、「買いたくなるか」という点なのではないかと思う。

見た感じだと、三省堂のほうがにぎわっていたから、あちらのほうが「買いたくなる」書店なのかもしれないけれど……。
 
書店はどんどん大規模化していって、小さい書店は潰れる、みたいなことをよく言われるけれど、自分の肌感覚としては大型書店だったらなんでもいい、という感じでもないんですけどね。自分が「買いたい」と思える書店を、持っておきたいものです。 

元請けだって、ラクじゃない

「下請けいじめ」という言葉がある。IT業界などで、発注元の企業は実際にコーディングは行わず、それをどんどん下請け・孫請けに投げていって、孫請けに届く頃には納期も予算も激減して悲惨なことになっている、という話。

そういうのはよく聞くことではあるのだが、なんだかあまりピンとこない。IT業界だから成り立つのだろうか。つまり、いろんな会社が似たようなところにひしめいていて、いくらでも発注先があるような業界の場合は、そういうことが通用するのだろうか、という話だ。

僕は人手不足もはなはだしい物流業界にいるので、どんなに探しても人もトラックも捕まらない、そういう状況によく追い込まれている。

僕は配車担当という仕事をしていて、自分の会社で取ってきた仕事を他の物流会社に振ることで飯を食っている。自分たちのセンターにはトラックを所有せず、ほぼ100%、外注の業者を使っている。

だから、いわゆる仕事としては一番上流の、「元請け」になるのだろうが、一番、客先に近いところで仕事をしているわけで、リスクとしては一番高いところにいる、ともいえる。

外注先は、仕事ができなくなれば「できません」で済むようなところを、とにかく自分たちでなんとかしていかなければならない。これはしんどいな、とたまに思う。
 
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要は、パワーバランスの問題なのだろう。買い手と売り手、どちらが偉いかなんてのはないのだと思う。たとえばスーパーやコンビニで買い物をする場合には、買い手のほうが売り手に強気の態度をとることができるが、そういうわけにはいかないときもあるだろう。

たとえば、難病を引退した名医に引き受けてもらう場合などには、法外な値段を請求されても「払わさせて頂きます」というような態度になるはずだ。単純に、パワーバランスの問題だけなのである。

個人の労働でも同じようなことが言えるかもしれない。就職活動で、「売り手市場」「買い手市場」という言葉があるが、どんなに頑張っても就職できない時期がある一方で、どんな会社でも就職できてしまう時期がある。そのときどきの需給バランスによってそれは決まるわけだ。

 というわけで、「下請けいじめ」なんてできるうちは、平和な証拠じゃないのかな、とつい思ってしまう。色々なバランスをよく吟味したうえで、仕事を選んでいきたいものです。

vol.961 宮崎駿が川上量生に怒ったこと

ドワンゴ・川上量生が宮崎駿にガチギレされる… | ニュー即ブログν http://2chblog.lliy.biz/archives/17354

ネットで話題になってたので、動画を見た。うん、確かに怒ってるな。いや、怒っているというよりは、「不快になった」という感じだろうか。もともと、「気持ち悪い動き」を作ろうとして川上氏がそれを作ってみせたわけだから、ある意味では狙いは的中したともいえるが。

ネットでは、川上が怒られて当然というものもあれば、これは宮崎駿は暗に障がい者を見下しているのではないかなど、肯定意見と否定意見が同時に見られる。僕は宮崎駿のファンなので、けっこう彼のドキュメンタリは見ているのだけれど、宮崎駿ってわりと子どもっぽいところがあるのでたんに「不快になった」のであって、それに対して「そう思った」ことを率直に語っただけなのではないだろうか、と思った。

意気揚々とプレゼンしてショボンとなっている川上氏は、それはそれで面白くはあったけれど……。

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動きとしてグロテスクだ、というのはあると思う。川上氏がプレゼンしてみせた内容は、人工知能を利用して、動きを「機械学習」させた結果のものであるらしい。確かに、人は「頭部」という概念があるため、腹這いで進む場合には「頭」から前方に向かって前進していくのだが、それを取り除くとこういう動きになりますよ、というのは興味深くはある。

しかし、宮崎駿はそれを生理的に嫌悪した。それはそれで率直な感覚だと思う。つまり、もし生まれながらにして視力を失った人がいたり、なんらかの障害を抱えているひとであれば、「自然と」ああいう動きになってしまうかもしれない。そしてそれは、苦痛を伴うものであるはずだ、と。

宮崎駿の作品の中にも、グロテスクな動きのキャラクターはいる、という意見もあった。考えてみれば、もののけ姫に出てくる「タタリ神」なんて非常にグロテスクだし、風の谷のナウシカに出てくる蟲たちも非常にグロテスクだ。宮崎駿は、それを人間の「業」のようなものとして描いてきた。

人間の業の結果、生み出されたものとしてそれを扱ってきたのだろう。だからまあ、川上氏が嬉々としてそれを紹介したことに対して、嫌悪感でただ返したのは、それはそれでかわいそうではあるのだけれど……。

しかし、人工知能を使って形成されたものって、少なからず、「まともな」人間にとっては嫌悪感を与えるものになるのだろうな。人工知能によって作られた政策とか、すごいことになりそう。

「高齢者、障がい者は、程度によっては処刑しましょう」なんていう政策が出て来たらどうするのか。「人間性」というのは、「合理性」の対極に位置するのではないだろうか。

vol.960 カラオケとケレン味

「ケレン味」という言葉がある。日常生活ではあまり聞かれない単語だが、演劇や映画の世界、または漫画などの世界ではわりとよく使われる言葉らしい。要は、「現実っぽさを出すために、あえて誇張した」ような表現を指すらしい。

たとえば、仙人のキャラを出すために、「仙人っぽい格好」をさせるのは大事だ。映画「ロード・オブ・ザ・リング」では、ガンダルフという魔法使いがローブを着て杖を持ったりしていたが、本物の魔法使いがみんなあんな格好をしているのかはわからない。魔法使いが甲冑とかに身を包んだりしていても別に本来、不自然ではないのかもしれない。
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