やひログ!

日々文章を書いたりしているんです?

原発リスクは排除できるのか?

四国にある「伊方原発」に、運転差し止めの仮処分が下ったようです。

愛媛 伊方原発3号機の運転停止命じる 広島高裁 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171213/k10011257181000.html
・愛媛県にある伊方原子力発電所3号機について、広島高等裁判所は「熊本県の阿蘇山で、巨大噴火が起きて原発に影響が出る可能性が小さいとは言えず、新しい規制基準に適合するとした原子力規制委員会の判断は、不合理だ」と指摘し、運転の停止を命じる仮処分の決定をしました。
・愛媛県にある四国電力の伊方原発3号機について、広島県などの住民4人は「重大事故の危険がある」として、運転の停止を求める仮処分を申し立て、広島地方裁判所は、ことし3月退ける決定をしました。
リスクとして想定されているのは、九州にある阿蘇山の噴火らしい。伊方原発は四国にあるので、仮に阿蘇山が噴火して影響が出るにしても、マグマが海を渡らないと影響は出ないわけで、もしそんなことになれば九州全域がすでに全滅してしまっているような。

ちなみに、阿蘇山は9万年前にその規模の噴火を起こしたとされているそうだ。
 
どういうことだろうと思ってツイッターを検索していたら、かつての首相のツイートが。



まあどっちが正しいとか言うつもりはないけれど、いずれにしても、予想外のリスクというのは起こりうるから、なんとでも言えるということですな。個人的には、村上龍の「オールド・テロリスト」じゃないけど、テロリストに原発を狙われるほうがよっぽどリスクだと思うけど。
 
個人的には、原発が安全かどうかというよりは、原発が「非核三原則」に矛盾しないのか、ということのほうが気になりますけどね。
 
「ミサイルの発射技術の開発」と、「宇宙ロケットの開発」はどちらも同じ技術、という有名な話があるけれど、現代社会では、便利さはリスクと危うさ、政治的意図で常にいろんな側面を含んでますな。
 
いずれにしても、原発は人間の手に余る、これだけは間違いない。

体調管理に秘訣はあるのか?

風邪が流行っています。うちの会社でも風邪が流行していて、常に誰か一人は休んでる感じ。爆発的に流行したりして、全員が休んだりしていないのは不幸中の幸い。それでも、ただでさえ忙しいこの時期に風邪で休まれるとなかなか業務フォローが大変なのが現状だ。

ところで、僕は周囲でどれだけ風邪が流行ろうが、風邪を引かないのである。せいぜい、今日はちょっと喉が痛いな、と感じる程度。熱を出して寝込むのなんて数年に一度しかなく、それも二十代になってからだ。これまでの人生で、風邪を引いた回数は10回に満たないのではないか、と思う。

特別に身体が強いとかそういうわけではないのだが、どういうわけか、風邪に強いのだ。体力は平均的か、むしろちょっと弱いほうだとすら思う。しかし、風邪にはとにかく強い。

こないだ、あまりにもみんなが休んでいるにも関わらず、僕だけピンピンしているので、社長から「体調管理に秘訣があるのか?」というふうに聞かれたのだが、特に何もしていないのだから答えようがない。

体質だ、としか言えないのである。


ところで僕は酒が弱く、ビール一杯で酔っぱらってしまう。しかも気持ちよく酔っぱらえるわけではなく、頭はガンガンするし、気分も悪くなるので、何ひとつ楽しいことがない。昔から、弱いのは知っていたのだがとにかく限度を超えて弱いので、むしろはじめから全く飲まないことも多い。

しかし、「なぜ弱いのか?」と言われても、「体質だから…」としか言えない。

同様に、僕は朝は目覚めがとても良いほうなのだけれど、朝が弱い人というのがいる。朝が弱い、というのも、きっと、何か理由があって弱いというよりは、単純にそういう「体質」なのかもしれないな、と最近はよく考える。

こういうのは、何か大きな理由があるわけではないのだ。


こういうのが巡り巡って、「長生き」などにも通じる話になっていくのだろうな。不健康な生活を送っているくせに健康的に長生きできる人もいるし、その逆もいる。大切なのは、自分の「体質」がどういうものなのかを把握することなんだろうな。

僕はあきらかに朝型人間で、夜はとても弱いので、もう大人になってからはなるべく早くねて早く起きるようにしている。そのほうが自分に合っているからだ。

若者は恋愛離れをしているのか?


・今の20〜30代は、恋愛を必需品ではなくて嗜好(しこう)品と捉えており、手間やリスクを考えると割に合わないもの、と考える人が多くなっていると感じます。
・それでも、少し前まで女性には恋愛願望がみられましたが、最近は男女を問わず「恋愛は面倒」という声が多くなりました。おそらく最大の理由は、常にスマホでネットや人とつながっている「超情報化社会」になったことです。
まあ、言いたいことはわかるけれど、必ずしもそうではないような。社会が高度になっていくと、「恋愛」というものの必要性が薄まる、ということなだけだと思う。

社会の高度化というよりは、むしろ社会の「都市化」というべきか。いまだって、田舎にいけば結婚する人は多い。嫁を貰わないとやっていけない社会というのはあるだろう。

農家とか、夫婦でやるのが基本スタイルだし、独身で農家というのもいるんだろうけれど、まだまだ主流じゃないと思う。こんなことを言うのはアレだが、田舎のヤンキーの結婚率は半端じゃないし。


バングラディシュなどの途上国にいくと、確かにITなどは発達していて「情報社会」にはなっているけど、まだまだ「結婚」というものの重みが強い。

バングラディシュに出張にいくと、必ず、「なぜまだ結婚しないのか?」と聞かれるし、「おれがお前の嫁を探してきてやる」とか言われる(真顔で)。インドなんかもそうなのだが、結婚式も壮大な結婚式をやるし、人生において「結婚」にかける気合いの入れ方が半端じゃない。もはや結婚なんてしないでも成立する社会になっているはずだが、そんなふうになっていない。
 
家族をつくる人が減った理由は、簡単なことで、家族をつくる必要がないからだ。いまは親の面倒を見ないで都市に出て行く若者が増えたが、親は年金をもらって、施設に入って、勝手にやっていく社会になったから、かならずしもすべての面倒を見ないでもよくなったのが一番の要因だろう。

昔はそういう社会保障の制度もなかったから、親は子どもに頼るしかなかったし、そういう親を見ているから、子どもは親になろうとする。いまは別に老人になっても一人で生きていくことが可能だから、別に子どもなんていらない、となってもむしろそれは流れとしては自然だと思う。


むしろ「恋愛」というなら、いまの若い世代はいちばん「恋愛」しているだろう。「恋愛」というのはつまり、本当の意味での「愛」ではないわけで、恋人がいる甘酸っぱい状態を持続させる行為なわけだから、普段はSNSで繋がって、たまの休みに遊びにいくなんてのは一番「恋愛」なのではないだろうか。

昔みたいに、家族と家族同士が一緒に助け合って行くのなんて、泥くさくて「恋愛」感はない。映画「この世界の片隅に」では、戦時中に若い夫婦が結婚するところから映画がはじまるが、家族というのはああいう「重い」ものだろう。

そういうのがない分、いまのほうがよっぽど本来の意味での「恋愛」に近いような感じがするのだが。

2000年からやり直したらどうなるか?

最近よく考えることがある。世界を西暦2000年まで巻き戻したらどうなるのだろうか。西暦2000年だから、いまからだいたい18年前だ。
 
いまをときめくIT企業は、2000年以降に誕生した。Twitterは2000年にはまだないし、YouTubeだってまだない。我が国のニコニコ動画だって、2000年にはまだない。

アップルはあったしマイクロソフトもあったけれど、まだiPhoneはもちろん、スマホなどもない。インターネットだって、まだ一般的ではなかっただろう。
 
2000年からやり直したら、例えばスマホは何年に発明されるのだろう? それはやはりジョブズなのか、それともジョブズ以外の誰かなのか?
 
僕の予想は、ジョブズかどうかはもちろんわからないが、2010年ぐらいまでには誰かが発明するんじゃないかと思う。

例えばYouTubeが生まれたのは2005年だが、95年に似たようなサービスを思いついたとしても、そもそもインターネットがまともにないような時代にそんなサービスはそもそも成り立たないだろう。2005年だって、そんな動画が満足に見られるだけのスピードはなかったはずだから、ギリギリのラインだ。
 

いまは「スマホがイノベーションになって、いろんなサービスが生まれた」とか言われているが、実はインターネットがこれほど広範囲に整備され、スマホのディスプレイ技術を支える基礎的な研究があって、はじめて「スマホのイノベーション」は可能になったんじゃないかと思う。

スマホを使ったサービスを生み出すことなんて誰にだって出来る。問題は、どうやって「その時期が整ったか」を見極めるかどうかなのだ。
 
何かの本で読んだのだが、いま一般的に広く信じられている「地動説」は、コペルニクスが唱えたとされているが、実際にはもっと昔、紀元前の時代から地動説を唱えた人はいた。

ただ、そのときはそれを立証するだけの環境もなく、それを広く伝えるだけの環境もなかったので、マイナーな説として埋もれていってしまったのだ。けっこう、そんな「タイミングの差」というのは多いのではないかと思う。

一方で、科学というのはじわじわと進歩していくものも多いので、そういう「偶発的な」要因に左右されない前進というものもある。インターネットの発明は偶発的かもしれないが、インターネットのインフラの進歩は偶発的な要因に比較的、左右されないのではないだろうか。

どこかの段階で「機は熟す」のである。
 

2000年から世界をリセットしたら、どうなるだろう。案外、いまのインターネットのサービスは2020年ぐらいまでにそろい、名前や人間だけが違うだけの状態だったりして……。

少なくとも、「国の力」とかのパワーバランスは、20年やそこらではあまり変わらないだろうな。もちろん、地形なども20年では変わらない。
 
2000年からリセットするのを10回ぐらいやって、一番住みやすい世界に住んでみるというのはどうだろう。案外、どれも変わらなかったりして……。

なぜ、やりたいことをやるべきなのか?

子どもが何かを見て、「これ、やってみたい」と思うのはとても自然なことだ。子どもは好奇心旺盛だから、なんでもやってみようとする。

そういうときに、「危険だから」とか、「まだ早いから」といって制止してしまうと、そこで興味が終わってしまうかもしれない。見ている側としてはハラハラしてけっこう怖いものだけれど、「やりたい」と言った時にそれができるだけの環境があることってとても大事だな、と思う。
 
といっても、昔ほど典型的に、受験だけを意識して詰め込み教育をする「教育ママ」的な人って、今は少なくなったのかな、とも思う。

昔は、「受験勉強こそが人生で成功する唯一の方法」みたいに信じ切っている人は多かったけれど、最近はどうなのだろう。少なくとも身の回りではそんなに聞かないから、やはり「勉強さえできれば人生は安泰」という神話は、崩れ去ったのだろうか。
 

僕は、自分がやりたいと思ったことをやることはとても大事だと考えている。こんなことはもちろん、わざわざ口に出すまでもなく大事なことなのだが、自分のやりたいことをやろうとすると、「自由と責任」がセットでついてくるので、人生経験のためには大事じゃないかと思うのだ。
 
やりたいと思ったことはやればいい。忠告として止めてくる人はいるかもしれないけれど、気にせずにやればいい。村上龍が昔、エッセイで、「小説を書きたいと思ったら、村上龍がなんと言おうが書いちゃえばいい」と言っていた。

しかし、人と違うことをしようと思えば、それには責任がつきまとう。自分で決めたことなのだから、誰にも言い訳をすることができないのだ。しかし、これこそが人を成長させる原動力なのではないかと思う。

自分で言い出したことなのだから、最後まで貫き通さなければならない。これは人生で強くなるための秘訣ではないか、と思う。
 
といっても、現代で「やりたいことをやりなさい」と言ったら、何をやりたいと言い出すか、わかったものではない。子どもだと当然ながら人生経験が浅いわけだから、何を言うかは見当もつかない。

最近の流行りだと、小学生ぐらいだったら「YouTuberになりたい」などと言い出すのだろうか。YouTuber、なりたければなればいいと思うのだが、今から参入しても大物になれる見込みはかなり低いだろう。

もう寡占化というか、なりたい人の数が多すぎて、実力があってもよほど運でもよくない限りは人気が出るのは難しいだろう。事実上、ほぼ無理だといってもいい。
 
しかしそれでも、やりたければやればいいんじゃないかと思う。やってはじめてわかることもあるだろう。もちろん、YouTuberになるためには特にお金も必要ないから簡単になろうと思えば誰でもなれるのだが、例えば声優になるために専門学校に行きたいとかだったら、お金もかかるし、人生の他の選択肢を狭めてしまう可能性もある。
 

先日、人気声優の神谷浩史という人が、人気声優となった今でも、基本的に役をつかむためにはオーディションを受けているらしい。なんと不安定な世界だろうか。

だが、それでも挑戦できるようなら挑戦してみたらいい、と思う。こういう専門学校に入るなどの実際のお金とリスクが必要な場合は、条件をつけて、それをクリアできたらお金を出す、といったようなことが必要かもしれないが。
 
……と書いてみたものの、実際にはなかなか難しいんだろうな。

成果に情熱は必要か?

会社で仕事をしていると、「意気込みはいらないんだよ!」と怒られることもあれば、「意気込みが足りないんだよ!」と怒られることもある。

言葉だけ聴くと、両者は矛盾している。いや、まあ、少なくともいまの会社ではそんなふうに怒鳴られることが無いので、前職特有の罵倒だったかもしれないのだが。
 
それらの言葉が発せられる背景について考えてみる。「意気込みはいらない」というのは要するに、「意気込みで作った計画はいらない。もっと理路整然と、客観的事実に裏打ちされた綿密な計画を持ってきなさい。」という意味だ。

一方、「意気込みが足りない」というのは、つまり「まるで他人事のように情熱がないから、あと一歩というところで成果に結びつかないのだ。」というような意味だと思う。

どっちも、言いたいことはわかるし、ある意味正しいと思う。しかし、あらためて考えてみたいのは、「成果に情熱は必要なのか?」ということだ。
 
理路整然と作成された計画を、淡々と実行し、完了すれば、それが成果に結びつく。もしそんなことが可能であれば、そんなに素敵なことはないだろう。ストレスとかもぜんぜんなさそう。是非ともすべてのプロジェクトがそうでありたいものだ。

しかし、たいていのプロジェクトは計画通りにいかないし、仮に成功したとしても、それは当初計画していた道筋とは異なっていることが多い。

たいていの場合、会社というのは最終的にお金が儲かればそれでいいので、「儲かる方法」がしっかりしていれば、最終的に出来上がったものがどういうものであれ、許容はされる。


成果が出るかどうかは、まあ、はっきりいって、運みたいなものだ。道を意気揚々と進んでいったら道がなくて、目の前が崖なので、違う道を探したら偶然にも道があって、それをつたってなんとか辿りついた、みたいなものだ。
 
成果に情熱が必要なのか? それはわからない。成果までの道筋がしっかりと見えていて、それをなぞることができれば、情熱は不要かもしれない。しかし、実際にはそんなにわかりやすい道はないので、情熱が必要になるのかも。
 
「あと少しだけ押せば成果が出る」みたいな場面で、「ちょっとした無理ができるかどうか」もけっこう成果に関わってるんじゃないかな、と最近は思っている。人間、持続的に無理を続けるのは難しい。

でも、「ここさえ乗り切れれば成果が出る」といったギリギリの場面で、一時的に、ちょっとした無理ができるかどうか。これはやっぱり、ある程度の情熱は必要なんじゃないかと思う。
 
しかし、情熱だけで乗り切れるほど世の中は甘くない。基本は情熱抜きでやって、ここ一番というときにちょっと自分の能力を超える、そういう案配がいいのかもしれないな。

抽象性を持っているか?

仕事をしなければならないとき、パソコンの画面をぼーっと眺めているときがある。そういうとき、自分の思考力が衰えているなと感じる。

仕事をするためにはパソコンが必要だが、パソコンをぼーっと眺めている時間というのは意外と長い。パソコンは思考や創造性を助けてくれるものなのだが、創造性を削ぐこともあると思う。
 
どうもぼーっとして仕事が捗らないときは、紙のノートにタスクリストを書き出す。たいてい、タスクリストを書き出しても、非常に抽象的な内容なので、それらを噛み砕いて具体的なものに置き換えていく作業が必要だ。

具体的なものに置き換えても、まだ具体性が足りないものは、どんどんブレイクダウンしていく。やがて、非常に具体的なタスクリストが完成する。これが完成してしまえば、あとは実行に移すだけだから、ぼーっとする時間はなくなる。淡々と実行していくだけである。


物事を実際に動かしていくためには、具体性というのはどうしても必要だ。具体的なものがないと、人はぼーっとして物事を実行することができない。「こういうふうに行動する」というものがないと、動くことができないのだ。

しかし、具体的なタスクばかりでは、何も創造性は生まれないだろう。ファーストフードの店員や、コンビニの店員は、確かにキビキビと動いてはいるが、マニュアルで定められた所定の所作をこなしているだけだ。

自分で抽象的な仕事をブレイクダウンしたわけではなく、あらかじめブレイクダウンされた指示をこなしているだけなのだ。創造性はそこにははない。
 
実際に人間が動くときには、具体的な指示がないと動けない。他人はもちろんだが、自分に対してもそうだ。抽象的すぎたり、複雑すぎたりするオーダーでは、実際的な行動に移れないのだ。

だが、抽象的なものを具体的にブレイクダウンする能力を身につければ、抽象と具体のあいだを行き来することができる。抽象的に考え、具体的に行動ができるようになる。創造性の正体とは、実はこういうことではないかと思うのだ。


「もっと具体的に考えろ」という指示はよく聴くが、「もっと抽象的に考えて」みてはどうだろうか。あとは訓練次第で、それを具体的に実行できるようになるはずだ。

パラダイムシフトを経験しているか?

進撃の巨人というマンガが好きだ。



このブログでも何回か紹介しているはず……と思って検索したら、二回ぐらいしか書いてなかった。しかし、とにかく好きです。あまりこのブログではマンガの話は書かないのだけれど、あまりにも好きなので書いてみます。


もちろん人気作品なので読んだことのある人は多いのだろうけれど、一般的な認知度はあまり高くないように思う。「オタクに人気がある」というか、普段からマンガなどをよく読む人には知られているけれど、あまりマンガに馴染みのない人からはそんなに知名度は高くないのかなと思ったり。

コミックスの表紙にある通り、巨人が襲ってきて、それを迎え撃つ人類、というのがコンセプトなのだが、この作品はいわゆる「パニックもの」ではない。もちろん巨人が襲ってくる、ということ自体は恐怖でしかないのだけれど、作品の骨子がそこにあるわけではない。

この作品の面白さを、作品の中身に触れずに語るのは非常に難しい。なぜなら、この作品は、「世界の謎がだんだんと解き明かされて行く」ところにあるからだ。面白さを話せば、それがネタバレになってしまう。「とにかく読んでみて欲しい」としかいえない。読んでみないとこの面白さはわからない。


だが、「謎解き」というのは物語を推進させる基本的な要素のひとつだ。全く謎解きがない作品というのはあまりないだろう。そこであらためて、この作品が他の作品とどう違うのか、というのを考えていたのだが、この作品の骨子は、「謎解き」ですらないのだ、ということがわかってきた。

「謎解き」がメインの作品は、「謎」が解かれた瞬間に物語が収束する。SF作品などによくみられる。謎を解くためにストーリーがあり、謎が明かされてストーリーが終わる。だが、進撃の巨人は、謎が解き明かされても物語が進んで行くのだ。そこが面白いのだ、ということが最近わかってきた。

謎が解き明かされても、人生は進んでいく。これは人類が数多く直面してきた現実のひとつだ。科学者たちがよってたかって研究をして、世界の謎を解き明かしてきたが、謎を解き明かしても人生というのは終わらない。謎が解き明かされたあとの世界が続いて行く。

戦時中、日本人は「天皇」を「現人神」だと信じて戦って来たわけだが、戦争の終了と同時に、その価値観の転換を余儀なくされた。それでも、価値観を転換させて、その後の人生を歩んできた。謎が解き明かされても人生は続いていくからだ。

80年代には、「地価は決して下がらない」という土地信仰があり、バブルが起きたが、バブルがはじけても人生は依然として続いていく。人生は、自分が死ぬまで終わるということがない。


なんだか、進撃の巨人を読んでいると、そういうことを考えさせられる。巨人が人類を補食するために襲ってくるのだが、その巨人の正体とはなんなのだろうか? その謎がまず最初に提示されるのだが、その謎が明かされても物語は終わらない。その謎が明かされた前提で話が進んでいく。

価値観の転換のことを、「パラダイムシフト」という。パラダイムシフトは、謎が解き明かされたときに起きるものだと思う。だが、「シフト」は転換であり、終わりではない。

進撃の巨人、まだまだ続いていきますが、次号でいよいよ100話です。物語がどう動いていくのか、ファンとして見逃せません。

テンプレ化が創造性を生むのか?

科学者の落合陽一が、「ヒゲは自宅マンションのエレベーターで降りるときに剃る」と言っていた。途中で誰かと居合わせても、おかまいなしらしい。これは、忙しすぎてヒゲを剃る時間もないのではなく、「行動をテンプレ化している」のだという。忙しいのは事実だとは思うが、何もエレベーターで剃る必要はあるのだろうか。

行動のテンプレ化、これはひとつのキーワードになりそうだ。朝起きてから、顏を洗い、身支度をして、家を出る。この一連の行動は、どのような思考回路で行われているだろうか。

おそらく、多くの人は何も考えずにこれらの行動を実行しているはずだ。なぜなら、これらは日常的に、毎日行われる行為だからだ。ここに、いちいち思考が入り込む余地はない。

行動をテンプレ化するということは、つまり、「思考」や「決断」をいかに排除するか、ということだ。あらゆるソリューションをパターン化して、対応できるようにする。

人が一日のうちにできる決断の「量」は限られている、という研究結果があるそうだ。ということは、なるべく瑣末なことに「決断」を使わないほうが良い。日常的な行為、毎日行う行為はどんどんパターン化して、何も考えずに解決できるようにしていくことが望ましい。

そのほうが、より創造的なことに自分のリソースを投じることができるようになるはずだ。

頭の中に図書館はあるか?

読書猿さんと対談した: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2017/12/post-a3b8.html

人文系のブロガーでは知らない人はいないであろう、「読書猿」氏と対談されたらしい。うらやましい。読書猿氏は、言うまでもなく有名ブロガーなので説明はあまり必要ないと思っているが、あえて説明すると、とにかく膨大な知識をもった歩く図書館とも評されるブロガーである(小並感)。

 世の中に「頭のいい人」がいる。1をいうと10伝わる人、頭の「回転」が速い人、いわゆる「地頭力」がある人、引き出しを沢山もっている人、緻密に語れる人、とっさに適切な一言が返せる人、知識がある人、勉強ができる人など、様々な言い方がある。

 もちろん読書猿さんも「頭のいい人」なのだが、上記のどれもうまく当てはまらない。知識があり、緻密に語り、回転が速いのは確かだが、そんな人は沢山いる。しかし、読書猿さんが凄いのはそんな即興的な所から離れたところにあることに気づいた。

 何か―――例えば「自転車」について調べるとしよう。わたしなら、辞書から意味を汲み、イメージされる分野を調べ始める。たとえば、「自転車の仕組み」や「自転車の歴史」といったテーマから始める。だが、読書猿さんは違う。調べたい「何か」について、図書館の十進分類表に放り込み、そこから照射しはじめるのだ。つまりこうだ。

 自転車の総記(00)
 自転車の哲学(10)
 自転車の歴史(20)
 自転車の社会科学(30)
 自転車の自然科学(40)
 自転車の技術・工学(50)
 自転車の産業(60)
 自転車の芸術・美術(70)
 自転車の言語(80)
 自転車の文学(90)

 十進分類表は、いわば、知りたいことへの「知り方」を分類したものだ。言い換えるなら、人類の知を分類したものだから、そこには必ず自転車について知りたいことへの道筋が存在する。読書猿さんの頭の中に、この十進分類表が入っており、そこから抽象度を徐々に下げてゆく。

 たとえば、文学(90)>英米文学(930)>小説(933)と行くと、きっとそこに「自転車」に言及した小説が見つかるだろう。あるいは、産業(60)>運輸・交通(680)>交通政策(681)と絞っていくと、間違いなく「自転車」に関する行政施策が見つかるだろう。重要なのは、数字の左に行くほど抽象度が上がり、右に行く抽象度が下がり具体性が増すところ。この抽象度を上げ下げを駆使することで、「自転車」を文学からも行政からも絵画からも調べることができる。

 そして、図書館に行くと、この抽象度の並び順に並んでいるのだ。十進表の通りに並んでいるのは知っている。でないとどこで何を知ることができるか分からなくなるから。重要なのは、抽象度の並びで書棚が構成されているのだ。だから、実際に図書館の書棚で、左へ目を向けると、より抽象度の高い本が見つかり、右を見ると、より具体性のある本が出てくる。何年も図書館に通い、何度も見てはいたものの、これは気づかなかった。

 読書猿さんの頭の中には、図書館があるという。十進分類を駆使して、抽象度の高いところから俯瞰したり、より詳しく知りたいときは拡大して具体的な目で見始める。頭の中の図書館で目星がついてから、やおら腰を上げてリアル図書館に行くという。やみくもにGoogleったり、図書館や書店に突撃するよりも、はるかに効率的・網羅的なり。いつでも図書館を召喚できるということは、いつでも知の巨人の肩に乗れることなのだ。

引用が長過ぎて恐縮なのだが、この部分は率直に「すげぇ…」と思ってしまった。読書猿氏の頭の中に図書館がある、とは以前からなんとなく言われていたことではあったが、まさかそういう意味だとは思わなかった。

最近よく思うのだが、人間の能力にはそれほど大きな違いはないと思う。どんなに暗算が優れた人間であっても、計算機にはかなわない。同様に、「知識を持っている人」であっても、基本的には人間には違いないのだ。

では、読書猿氏と普通の人は何が違うのか。読書猿氏は、「頭の中に図書館をつくる」ことで、「抽象から具体的なものへ」物事を整理して考えることができる人なのだと思う。これによって、「知らないことを知るためにはどうすればいいか?」を知ることができる。


普段仕事をしていても感じることなのだが、「知識を教えてもらう」ことよりも、「どうやったら知ることができるかを教えてもらう」ほうが圧倒的に役に立つ。トラブルの対処法を学ぶよりも、「どうやってその対策にたどり着いたのか?」のプロセスを学んだほうが、明らかに役に立つ。プロセスを勉強できれば、応用がきくからだ。

読書猿氏は、頭の中に図書館があるので、どんな疑問でも「知らないことを知るためにはどうすればいいか?」を考え、それを調べることができるのだろう。その能力を身につけることが、「哲人」になるための条件なのかもしれない。

すごいことを知ってしまった。できれば自分もそうありたいものだ。

東大生は頭がいいのか?

「東大生って意外と大したことないよね」問題 - Togetter https://togetter.com/li/1178136

「お前ごときが会える東大出身者は東大の中では最弱(または変人ゆえのアウトロー)」バイアスと、
「お前が会える高卒は、逆に大卒と同じ土俵で働けるところまで努力を重ねた優秀な人」バイアス
が同時発動した結果なんだよね。

平たく言うと、認知の歪みが生じてるわけです

けっこう仕事で東大生に会ったりするんだけど……。確かに言われてみれば、そんなに自分と圧倒的な知能の差を感じるほどではないかも。でもそれがまさか、「東大生の中では最弱」というのは知らなかったな……。

こんなことをいうと変な誤解を受けるかもしれないが、前の会社で働いていたとき、高卒で色んな子を採用したりしていたのだが、高卒の子はけっこうヤバい子がいたりして、なかなか衝撃的だった。

それまでの人生では、高卒の子に対して「仕事ができる印象」しかなく、全体的にプラスのイメージだったのだが、現実はそうでもないな、と。やはり平均値でみれば、大卒の子と比較すると違うことは間違いない。これは偏見ではなく。

当然、東大にもいろんな人がいるだろうから、そりゃ一概には言えないだろうけど……。でも、なるべくなら学歴なんかで人を見るような人間にはなりたくないものですね。

いちばん好きな棋士は誰か?

一番好きな棋士は誰か? という問いがあったとしたら、誰が出てくるだろうか。

まず、羽生善治が出てくることは間違いない。理由は単純で、羽生は強いからだ。羽生の強さはもう誰もが知っているレベルなので、もちろん、あえてここで書く必要はない。
 
弱いけれど好き、という棋士は普通はあまりいない。将棋は勝負の世界なので、強いことがすべてだ、いまは弱いけれどいずれ強くなる、だから好き、という棋士はいるかもしれない。

むろん、最初から強い棋士もいる。ちょっと前に新聞を騒がせた藤井聡太四段は、社会現象になるほどの人気ぶりだが、最初から強いから注目されているのだし、これから「羽生を超える」と期待されているから人気があるのだ。
 
昨年、松山ケンイチ主演で映画になった「聖の青春」という本を読んだ。
 
聖の青春 (角川文庫)
大崎 善生
KADOKAWA/角川書店
2015-06-20


小説かと思っていたが、ノンフィクションだった。98年に癌で亡くなった、村山聖という棋士の生涯を綴った物語だ。

僕はこの棋士の存在を知らなかったが、当時は「東の羽生、西の村山」と言われたほど、名棋士だったらしい。幼少からの難病の持病に加え、癌を発症したことにより、29歳の若さで亡くなるのだが、羽生から「天才的なセンスを持つ」と評価されるほどの棋士だったそうだ。
 
幼い頃から持病を持っていて、長くは生きられないと覚悟して生きてきた。幼少期に出会った将棋に、それこそ全身全霊を持って取り組んだ。人は誰しも無限に時間を持っているわけではないが、時間が有限であると気付いた瞬間に、自分の命の意味について考えるようになる。

はじめから人よりも残り時間の少ない村山聖は、プロ棋士の周りからみても異常なほどに、将棋というものに打ち込んだ。
 
時代背景は90年代だから、もう20年以上も前の話だ。作中には、まだ若い羽生善治がよく出てくる。この本の良いところは、著者の大崎氏も作中に登場することだ。

客観的な視点ではなく、大崎氏の視点も入った物語であることがわかるようになっている。そして、大崎氏、そして村山の師匠、その他の棋士たちが、将棋を中心に生きた日々が鮮明に描かれている。
 
物語は村山の死によって突然終わる。それは誰もがわかっていたことだ。
 
どんな人でも、劇的に死ねるわけではない。何かを達成して死ぬ人もいれば、達成できなくて死ぬ人もいる。

続・ニコニコの衰退に関して思うところ

先日、ニコニコ動画の衰退が著しいという記事を書いた。

あまり注視していなかったというのもあるが、正直、ニコ動が衰退気味である、ということを知ったのはつい先日のこと。友達と焼き肉していたときに、雑談として、「ニコ動の再生数が、昔は1000再生ぐらいすぐに行ったのに、最近は1000再生すらいかなくなってきたんだよね」という話をしたら、「ニコ動見てる人自体が減ってからでは?」という回答を聞いた。

そこではじめて、ニコ動の衰退を知った次第である。
 
そんな「衰退ムード」の最中に、川上量生氏の下記の発表がさらに話題を呼んでいる。
記者「dアニメストアに既に登録しているのですが、ニコニコ側で連携は出来るのでしょうか?」
川上「出来ません」
記者「えっ・・・(絶句) じゃあニコニコ側でも登録しないといけないのですか?」
川上「はい」
記者「あの、お金を二重に払わないといけないのですか?」
川上「まあそこは本家のdアニメストアの方を解約してもらえればww」
上記の発表の内容の是非については、ここでは判断を保留するが、これが「痛いニュース」という、2ちゃんねる系まとめサイトとしては最大手のまとめサイトでまとめられたことにより、「ニコ動衰退ムード」はさらに加速することが予測される。

少なくとも、この記事はそういう視点でもってまとめられている。


インターネットは色々な人の意見が見られる場所として見られがちだが、実際のところは、「ひとつの意見」に収斂する傾向にあると思う。今だって、「ニコ動が衰退している」というムードがまず前提としてあり、そのムードに乗っかって色々な意見が出ているわけで、肯定的な意見はなかなか出てきづらい。

同じような事例として、ネットでは必ずバッシングを浴びる不憫な有名人もいれば、ネットでは擁護される有名人もいる。

例えば、芸人の江頭2:50などは、ネットではほぼ常に肯定的な評価が見られる。最近だと、ピコ太郎氏などもネットでは好意的な意見が多い。


話をニコニコ動画に戻すと、もともとニコニコ動画は、クリエイター的な人が集まってワイワイやるためのプラットフォーム、という感じで、もともとメジャーではないし、メジャーを目指すものでもないのではないだろうか。

例えば、僕のように、ニコニコ動画に音楽の動画を投稿して楽しんでいるような人がYouTubeに投稿しても、はじめから「プロレベル」のクオリティが求められるから、今みたいに楽しく創作はできなかったのではないかと思う。少なくとも、100曲以上を投稿しようとは思わなかったはずだ。
 
でも、いまは人気コンテンツのひとつである「ゲーム実況」が生まれたのもニコニコ動画だし、ボーカロイドが育ったのもニコニコ動画だった。文化の発信地のひとつであることは間違いない。
 
今の時代は、同じモデルが永遠に続く時代ではないと思う。重要なのは、衰退していったときに、どう「衰退に適応するか」がポイントだと思う。昔の英華を取り戻すのではなく、「衰退に適応した」モデルを構築するのが大事かな。
 
とりあえず僕は、1000再生行かない動画に適応して、活動していきたいと思います。

東京ディズニーSF

先日、奇妙な小説を読んだ。タイトルは、「横浜駅SF」。

横浜駅SF【電子特典付き】 (カドカワBOOKS)
柞刈湯葉
KADOKAWA / 富士見書房
2016-12-24


タイトルは奇妙だが内容はもっと奇妙だ。いつまで経っても完成せず、増改築を繰り返して決して工事が終わることのない横浜駅は、やがて自己増殖を開始し、自らの意思でどんどん拡張を続け、やがて日本列島を横浜駅が覆ってしまう、という世界観。かなりぶっ飛んでいる。

増殖した横浜駅にはもはや電車による移動手段という機能はなく、ただただひたすら世界を飲み込む有機的な構造物として存在している。物語を盛り上げる他の世界設定も、「スイカネット」や人型ロボットの「自動改札」など、とにかくセンスがおかしい。
 
そんなネタ感満載の小説なのだが、長編小説として面白く、なかなか読ませる。アイデア的には星新一に近いような感じだが、このネタで長編小説に仕立ててしまう技量には脱帽である。
 
しかし、僕は関東に来て日が浅いため、件の「横浜駅」がそんなに増改築を繰り返しているとは知らなかった。これは関東民にとっては、有名なのだろうか。試しに「横浜駅 改装」でググってみると、確かにそうなっているらしい。

1800年代から増改築を繰り返し、完成はまだまだ先だとか。なるほど、これなら「横浜駅が自動で有機的に増改築を繰り返し」ても、さほど違和感はない……のだろうか?


個人的には、完成せずにずっと増築し続けている印象が強いのはディズニーランドだ。どんな遊園地も、日々新しいアトラクションは増えて行くものだが、東京ディズニーランドに限っては、その比ではない規模の投資が新しいアトラクションに対して投じられていると思う。

先日、東京ディズニーランドが新しいアトラクションを追加するというニュースを見たのだが、そのとき、東京ディズニーランドに年間3000万人が訪れているということを知った。東京の人口は900万人ちょっとだから、東京都の人口の3倍以上の人間があの浦安市のあの区画を訪れているということになる。

日本の人口1億2000万人から見れば、4分の1だ。これだけの規模で人が来場しているのであれば、やがて増殖した東京ディズニーランドが意思をもって自ら有機的に増改築を繰り返し、やがて日本列島を覆いつくしたとしても、さほど違和感はないだろう。
 
東京を飛び出した東京ディズニーランドは、果たして何と呼ばれるのだろうか。……あ、そういえば、はじめから千葉県でしたね。

「思い出の非同期」が、感情をつくる

こないだ、映画「ブレードランナー2049」という映画を見た。SF映画の古典、「ブレードランナー」の続編に位置する作品だ。
 
この作品に、ジョイというキャラクターが登場する。彼女は人工知能だ。人間ではない。

しかも、実体はホログラムであり、ボディすら持たない。しかし、主人公の恋人役として登場する。
 
生身の人間ではなく、人工知能の、しかもホログラムの女性がヒロインとして登場する。これは現代社会の感覚に照らし合わせれば、奇異に映るだろう。しかし、のちのちこういう現象は確実に起こるだろうし、もしかしたらもう起きつつあるかもしれない。人工知能がこのまま発達していったら、やがて人間と区別がつかなくなるだろう。
 
だが、恋人が人工知能だったとき、その恋人を本当に愛することはできるのだろうか。

人工知能であれば、ネットワークに自らの意識を接続することができて、メモリもすべてデジタルだから、記憶を「同期」することができる。つまり、人工知能の持っているデータを、別の場所に保存することができる。

もしこれが恋人ではなく、汎用的な、「知能としての」人工知能だったら、知能の強化のために記憶のバックアップを取り、他の端末と同期させることだろう。ここにいる端末と、別の離れたところにいる端末の記憶は同期し、共有される。

もしそういうことになれば、目の前の端末を「愛する」ことはできるだろうか?


人格とは「記憶」そのものだ、というのをある脳科学の本で読んだ。記憶が人格に影響を与えるのではなく、記憶が人格そのものだというのだ。どういう意味だろう、と思ったが、過去の自分の記憶によって、自分の性格が決定されているというのは、じつは真実なのかもしれない。
 
恋人とはじめて会った時は、互いが共有する記憶は何もないわけだから、お互い、過去の記憶をベースとした人格同士で会話がはじまることになる。

だが、時を経て、同じ時を共有すれば、それが思い出になっていく、やがて、二人だけしか持っていない記憶が多くなり、それが二人に特別な感情をもたらすだろう。

もし、そうした記憶が失われたり、別な記憶に置き換わったとしたら。その人は、「以前と同じ人だ」と言えるだろうか?
 

人工知能はこれから間違いなく発達する。人間と同じように思考し、同じように市民権を得る日が来るかもしれない。

しかし、もしそういう時がやってきたときに、その人工知能の「記憶」が、他の端末と同期していたとしたら、その人工知能は「人」として扱われるだろうか? アメリカで育った人工知能と、日本で育った人工知能、ともに記憶が同期したら、「彼」は、どういうバックグラウンドをもった「人」として扱われるのだろうか?


つまり、人工知能が市民権を得る為には、意図的に「非同期」にすることが求められるのではないかと思う。人工知能であれ、最終的に行き着くのは、人間と似たような知性になるのではないか。

もしかすると、知性を強化した人間と、記憶を非同期させた人工知能は、本質的に同じものになるのかもしれない。

ブルーオーシャンが甘いなんて、誰が言った?

「ブルーオーシャン」という言葉を聞いたことがあるだろうか。日本ではかなりメジャーで、ビジネスの世界ではよく聞く単語なのだが、言うほど世界的にはメジャーでもないらしい。

ブルーオーシャンとは、「ライバル企業の少ない、成長幅の大きなビジネス市場」のことで、対義語は「レッドオーシャン」という。ビジネスは、なるべくブルーオーシャンで展開すべきであって、レッドオーシャンでやるべきではない、とよく言われる。
 
僕がいまやっている仕事は、ブルーオーシャン領域に近いのではないかと思う。ライバル企業が極端に少ない、というか、ほぼいない領域だからだ。

ただし、それはこの市場が革新的だからではなく、悲しいほどニッチな市場だからであり、市場規模や成長性が小さいのでほぼ領域を独占できているだけで、本当の意味のブルーオーシャンとは少し違うかもしれない。
 
だが、ニッチな市場でよかったな、と感じることも多い。なぜなら、本当のブルーオーシャンであれば、これから確実にあらゆる企業が参入してきて熾烈な争いがはじまることは必至であり、その中で「生き残り戦略」を図らなければならないからだ。

まだ、ニッチな市場で、市場規模も成長性も小さいだけに、大手の参入はそこまで見込めないからこそ、しっかり足場を固めることができたのではないか、と思う。


新興の、有望なビジネス市場はまさに、生き馬の目を抜く熾烈な世界だ。この「ブルーオーシャン分野」としてはITなどの分野が挙げられるが、この分野の戦略に関しては数多のビジネス書が出ている。

だが、「ビジネスはブルーオーシャン領域で展開すべき」などを滔々と語るビジネス書の大半は何もわかっていない馬鹿か、それで商売をしている詐欺師のどちらかなので、読み応えのあるビジネス書が読みたければ、もっぱら「失敗した」経験がしっかり書いてあるビジネス書を読むのが良い。

社長失格
板倉 雄一郎
日経BP社
1998-11-21


HARD THINGS
ベン・ホロウィッツ
日経BP社
2015-04-17



今まで読んだ本の中で、最も「教訓」が詰まっているのが上記の2つだ。

上の「社長失格」は、日本でIT企業を興したもののさまざまなライバル企業の登場によって退場を余儀なくされた社長の話。下は、最終的には会社を売却することで成功を収めたが、会社が倒産する危機に何度も見舞われながら、吐き気と不安の日々を送った社長の話だ。

どちらも、「華々しい大成功」とは言い難いかもしれないが、その湾曲されたハイウェイを駆け抜けた経験談は、ビジネスにおいて多くの知見を与えてくれる。本書にも書いてあるのだが、「レモネードの屋台すらも経営したことのない、コンサルティングの人が書いた本など、読むべきではない」のだ。

そして、成功している企業は例外なく、「華々しい大成功」のみを収めてきたわけではない。


ブルーオーシャン戦略が難しいのは、前述したように、それが有望であればあるほど、ライバル会社が波のように押し寄せるということだ。

もちろん、誰よりも早くその市場に到達したら、先行者利益で逃げ切れる可能性はある。しかし、すぐにあらゆるライバル会社が雨後の筍のように勃興し、たちまちそこは戦場と化すだろう。そして、ひとたび戦場になれば、動きの素早いベンチャー企業よりは、幅広いネットワークと資金力をもつ大企業のほうが、長期的には絶対に強い。

大企業の何が強いかというと、規模にものを言わせて、サービスの低価格化を実現できることだ。ベンチャー企業は、自社でできることが限られているため、どうしても価格が高くなってしまうことは避けられない。

もっとも、価格競争に巻き込まれるような段階になったら、そこは既にブルーオーシャンではないと思ったほうがいい。

だから、ポイントは、ブルーオーシャンに到達したら、どうすればのちにやってくるライバル会社に市場を荒らされないか、その方法を模索するところにある。技術的に革新的なものを発明し、特許を取るのか、他社が決して真似できないような「何か」を発明するか。あるいは、レッドオーシャンに変化する前に、さっさと会社自体を売ってしまうか。いろんな方法があると思うが、口で言うほどラクではない。

だが、いまのマイクロソフトなどの大企業も、ベンチャー時代からこうした生き馬の目を抜くような世界で、狡猾な企業戦略を打ち立て生き残ってきたのだ。特にマイクロソフトは、そうした「エグい」戦略の宝庫なので、興味のある人は調べてみても面白いかもしれない。


いずれにしても、ブルーオーシャンは決して甘くない。しかし、レッドオーシャンよりはマシなことは確かだ。

魔法使いは、ファンタジーじゃない

筑波大の助教授であり、メディアアーティストとして有名な落合陽一氏がテレビ番組「情熱大陸」に出ていた。

あまり氏のことに詳しくわけではないが、同年代で(誕生日が二ヶ月違い)精力的に活動している人なので、活躍を見ていると刺激になる。研究者でありながら、メディアへの露出も多く、YouTubeでも出演している番組を観ることができる。

不思議な科学現象を研究した果てについたニックネームが、「現代の魔法使い」だ。


高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない、とよく言われる。実際、僕らは身の回りにある工業製品が、いったいどういう仕組みで動いているのかを説明できない。

どんなに単純な家電製品でも、その仕組みを完全に説明することはできない。例えば、江戸時代の人間を連れてきて、家電製品の構造について納得させる説明をすることは困難を極めるだろう。世の中はすでに魔法で溢れていて、むしろ僕ら自身が魔法使いのようなものだ。
 
しかし、魔法が使えるということと、現実社会がファンタジーであることはイコールではない。いかに世界にインターネットが張り巡らされていて、スマートフォンで瞬時にそれにアクセスできるとはいっても、それで情報格差がなくなるわけでもない。

便利なものがこの世にあることと、それを使って何かをすることのあいだには大きな隔たりがある。結局のところ、便利なものがこの世にあれば、それをうまく使いこなすことのできる人間と、できない人間に分かれ、自然と格差は起きるものなのだ。

すべてが自分の思い通りになってしまうファンタジーとは、そこが一番大きく異なる点だろう。
 
科学やテクノロジーについて、その革新性を語る人間は多い。現代の「魔法」を、ファンタジーとして語る人間もいれば、現実として語る人間もいる。しかし、科学は万能ではないのだ。新しいテクノロジは、それまでにできなかったことを可能にするかもしれないが、依然として解決できない問題もある。どの部分が革新的なのかを見極めることが大切だ。
 
僕が落合陽一の話しているところを聴いて一番面白いな、と感じるのは、そういった「夢」と「現実」の折り合いをつけて話しているところ。過度にテクノロジに期待をしていないし、かといって悲観もしていない。

冷静に、それを使って何ができるかを、「まっとうに」考えている。科学者なのだから、その態度は当然のことだろう。民衆を煙に撒いて煽動する、ペテン師とは違うのだから。


テクノロジを過度に喧伝する人種には2つの種類がいる。それがペテンだとわかっててやっている人と、わかっていないでやっている人だ。

ペテンだとわかってやっている人は、それがビジネスだから、それで人を騙して儲けるためにそう喧伝している。一方、それがわからずに喧伝しているのはただの馬鹿だ。だがもっと馬鹿なのは、それをどっちともわからずに騙される人たち。願わくば、そのどれにも当てはまらないように生きて行きたいものだ。
 
魔法使いは、ファンタジーではない。だが、魔法は、自分の思った以上の世界を描き出すこともある。とにかく、その第一歩を踏み出すために必要なのは、「知る」ことではないかと思う。

汚職と可視化

90兆円資産の没収ねらう?サウジ、汚職名目の一斉捜査:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASKC95WRKKC9UHBI01L.html

新聞を読んでいて目を疑ったのだが、サウジの王族関係の資産差し押さえで、その総額が90兆円にも登る見通しだという。
 
90億ではなく、90兆である。目を疑うとはこのことだ。2017年度の日本の国家予算が97兆4547億円だから、これは日本の年間国家予算に匹敵する。まさに桁外れの金額だ。想像すらし難い。
 
これを見て思ったのは、「汚職」というのは今世紀に入ってからどんどん「可視化」されていくな、ということ。これはいまになって表面化した問題にすぎず、実際は昔はこれが普通の状態だったのだろう。歴史的に、王族やその近辺が、庶民と比較してどのぐらいの富を持っていたのかはわからないが、革命が起きる寸前の王政などは、現代の感覚でいえばいまのサウジなみの金額の富を所有していたのではないだろうか。

もっとも、サウジは国家の概念が他の先進国とは違うから、「国家としての」金と、「王族としての」金が混同している部分も絶対にあるはずで、例えば日本人が思う「個人資産」とはまた意味合いが違うのかもしれないが。


つくづく思うのだが、政治家と呼ばれる人たちは、よくやっているものだなと思う。ちょっと前に、カラ出張の申告をしてマスコミに血祭りにあげられ号泣謝罪した哀れな地方議員がいたが、カラ出張で小遣いを稼ぐなんてのは妻に財布を握られているサラリーマンのようで、むしろけなげで涙ぐましいな、と思う。

常日頃から行動を他人に監視され、金の流れを監視され、いざとなれば血祭りにあげられる政治家なんていう職業は、いまは絶対に割に合わない職業なのではないかと思う。少なくとも、僕は全くやりたいとは思わない。

よく、政策を進める議論で行き詰まると、「議員報酬を下げて捻出する」、などというあほな意見が見られるが、個人的には逆に、報酬を上げるかわりにちゃんと仕事をして、知恵を絞って欲しい、と思う。

少なくとも、表に出ている議員報酬なんて日本全体からしてみればたいした金額ではないわけで、ちゃんと日本のためになる仕事をしてくれるのなら1億でも2億でも堂々と取ればいいと思う。サウジに至っては、汚職していた金額が90兆なのだから、先進国たる日本からの1億や2億はたいした金額ではないだろう。
 
内心そう思っている人はいるはずだが、あまりそういうのは表に出てこないな。「モリカケ問題」なんてのを議論しているヒマがあるなら、少しでも日本のために知恵を絞った議論をしてもらいたいものだ、と思う。

ニコニコ動画の衰退に関して思うところ

 ニコニコ動画の衰退が著しい。

しかし現在は、2016年9月〜2017年9月の1年間で、プレミアム会員が30万人減少するなど、衰退の一途を辿っています。
しかも、2017年の第2四半期連結累計期間での利益は、前年同期比77.4%減という悲惨な数字に…。

これを衰退と定義するかどうかは人によるだろうが、少なくとも、プレミアム会員は減少傾向にあるようだ。

動画サイトの運営は、広告を表示することで収益を得る広告費モデルや、有料の会員になることで高度なサービスが受けられる会員制モデルなど、いくつかビジネスモデルがあるが、ニコニコ動画は主に「プレミアム会員」と呼ばれる、有料会員からの会費による収益が主な柱だから、プレミアム会員が減少することがすなわち収益に直結する。

もちろん、プレミアム会員が減少したから衰退したわけではなく、衰退したからプレミアム会員が減少したのだ。時代が進み、他にも良質な動画サイトがたくさんできたからである。
 
一方で、YouTubeはいまになっても盛り上がり続けているので凄いな、と思う。YouTubeといえば数多ある動画サイトの先駆け的な存在だが、いまも第一線でいるのは純粋にすごい。

ただの先行者利益というか、「はやくはじめただけ」ではなく、いまになってYouTubeにどんどん「流入してきている」流れもあるぐらいだから、サイトの実力は本物だろう。動画サイトの代名詞的な存在である。


とはいえ、ニコニコ動画がこのまま衰退し続ける一方だとも限らないので、上記の状況は、あくまで現状を客観的に見て、といったところ。しかし、僕もいまだにニコニコ動画に動画を投稿し続けているものの、10年ぐらい前と比較すると雰囲気はずいぶん変わってきたなあ、という感じはする。

だが、ビジネスモデルという観点からいえば、そもそも全盛期だってニコニコ動画はたいして収益化できていなかったわけで、純粋なビジネスとしてみればニコニコ動画って、終わったも始まったもないんじゃないだろうか。

むしろ、ニコニコ動画の本質は、メジャーなコンテンツを楽しむものではなく、素人が身内だけでワイワイやるようなところにあるような気がする。そんな素人文化が楽しいのがニコニコ動画の本質だ。
 
細かいところで最近思うのは、「ゲーム実況」というジャンルがいまになっても衰えないどころか、ますます盛り上がっているのが凄いな、ということ。

ゲーム実況といえば10年以上前からあるけっこう古参のジャンルだが、近頃はYouTubeでゲーム実況の動画が伸びており、いまだにコンテンツとして成立しているのが凄い。

昔は、それこそニコニコ動画でゲームメーカーに隠れてコソコソやるものだったのが、いまはジャンルが成長しすぎて、逆に広告としての価値が出始め、メーカーの協賛を得ながらやっているものもある。凄い。
 

ニコニコ動画は「成熟」してしまったのだろうな、と思う。もともとは素人が素人同士で盛り上がる場だったのが、プロ崩れが大量に流入してきたり、アマチュアのレベルの高い人が育つことによって、全体の作品のレベルが妙にハイクオリティになってしまい、なかなか素人が気軽に投稿できる場でもなくなってしまった。

かといって、プロがプロモーションとして使えるほどインターフェースの使い勝手がよくないので、プロからは見放された、という感じだろうか。

たとえば、企業の広告用のプロモーション動画が、YouTubeに投稿されて、公式サイトに埋め込まれることはあっても、ニコニコ動画に投稿されて埋め込まれる、という場面は想像しにくい。そもそも、ニコニコ動画は会員であることが前提だから、不特定多数に向けて発信するためのものではない。

そういう意味でいうと、「衰退」というよりは「本来の姿に戻りつつある」という感じだろうか。むしろここから新しい文化が生まれていくものと期待したい。
 
ずっとニコニコ動画に投稿してきたけれど、別にこだわる理由もないので、YouTubeにも並行して楽曲を投稿しようかと考えているところ。

アーティストは、いろんなプラットフォームを試して、自分にあったところを探すのも悪くないかもしれない。

「銀の玉などない」から学ぶ、トラブルへの対処法

「システム構築関係の唯一の古典」とも称される、フレデリック・ブルックス「人月の神話」を読んだ。



この本が書かれたのは30年以上も前だが、いまだに「古典」として語り継がれている。システム開発の現場のために書かれたものなのだが、書かれている内容は、あらゆるプロジェクト・マネジメントにおける普遍的な内容も多く、特に表題でもある「人月」の概念に関しては大いに参考になる。

仕事をしていると、「見積もり」というものが、仕事を進めるうえで大きなウェイトを占めていることを知る。金額を見積もるのもそうだし、工数を見積もるのもそう。

これから取りかかろうとする仕事に、どれだけの金額を、どれだけの労力を、どれだけの時間がかかるのかを事前に計算するわけだが、これは仕事の一部というよりは、むしろこれこそがプロジェクトマネジメントの奥義のような気さえしてくる。それほどに、「見積もる」というのは難しい。
 
システム開発の現場では、もちろんコーディング作業をして実装していくわけだが、プロジェクト全体からいくと実際にコーディングをしている時間は6分の1ほどらしい。それ以外の時間は、システム設計やら修正やらに追われる。

すなわち、コーディング作業を軸にして、しかも甘く見積もってしまうと、ゆくゆくスケジュールがプロジェクトを圧迫するようになってしまうわけだ。
 
こういうことを考えると、マネージャの仕事とは、正確にプロジェクトのスケジュールを見極めること、そしてその見通しが外れたときに、すぐに最悪の事態を想定して、手を打てるか、そういうことにかかっているのではないか、と思えてくる。本書に収められている、「銀の玉(特効薬)などない」という言葉も、すべてを解決する魔法の手段などないことを象徴している。


人生は、「そこまでする必要あるの?」からの、「あのときああしておけばよかった」の連続である。
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