やひログ!

届く人には届くというタイプの読み物ブログです。

天才も凡人もない?

天才だ凡人だという区分はあるものの、人間の能力はだいたい似通っている、乱暴にいえば同じである、という考え方がある。どんなに足が速い人でもチーターには勝てないし、どんなに身軽な人でも空を飛べるわけではない。逆に、健常者で100メートルを走るのに1分かかる人はいない。凡人や天才という区別はあるものの、本質的に、人間の能力にそれほどの差はないのではないか、というのである。


たしかに、「この人には一生かかってもかなわないな」と感じるレベルの天才は、そうそういるものではない。大学などの学校は似たようなレベルの人が集まる場所なので、なおさらである。しかし、社会を見渡してみても、圧倒的な能力差を実感することは少なく、能力を均質化しよう、とする動きのほうが多い。そもそも学校教育がそうだ。世の中にはいろんな能力をもった人が必要なのに、読み書きを中心した学力の高い低いで能力を評価するのはおかしい。会社でも、もちろん部署や役職によるが、なるべく平準化された仕事を人並みのこなすのが大事だったりする。

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昔、トラックのドライバーをしていて、コンビニにものを届けるのだが、一日で100店舗に配送をしていた。当然、分刻みのかなり無茶のあるコース設定なのだが、それはドライバーが早く帰りたいためにかなり無茶して配るので、「まだこのコースは余裕があるな」と判断され、間にどんどん配送先が差し挟まれる、という現象が起きていた。しかし、慣れというのは怖いもので、最初は「無茶でしょ」と思った設定でも、いつしかこなせるようになってしまう。しかし、「こなしてしまう」と、そのあとの人が苦労する。つまり、「人なみに働く」のが正であり、「人よりも働く」と迷惑になる世界、というのは確実にあるのである。

能力に大きな差が出るような気がするのは、上記のように定型化された仕事ではなく、個人の力量によって裁量の大きい仕事をやるときだろうか。たとえば、起業直後というのは一人でなんでもやらなくてはならないため、個人の力量が非常に左右される。僕もどちらかというと新規事業を担当することが多かったため、そういう自由度の高い仕事をよくやっていたのだが、そこではあまり制約を感じなかった。

しかしそれとて、「そういう状況になったら人はやる」というだけであり、やはり能力にはそれほど差はないのでは? というような気もする。まあ、「能力の高い低い」は定義によってもちろん変わるものなので、そもそもこの議論に結論はないのかもしれないが。


しかし、物理学者のように、一人の天才によってゴリゴリに推し開かれる世界は確実にある。しかし、ほとんどの世の中の人には関係のない世界なので、「人間の能力にはほぼ差がない」と総括してもそれほど間違いはないのではないか……、というような気はする。

むしろ、ちょっと人よりも好奇心が強いとか、ちょっと人よりも忍耐強いとか、そういった「性質の差」が最終的にものすごい差となって現れるような気もするのである。

歯医者に通っています

歯医者に通い出して、半年弱ほどになる。きっかけは、ある歯が痛かったので通い出したのだが、歯医者に行ったのが十年ぶりぐらいだったということもあり、実際に見てもらうといろんなところに問題が起きていることが発覚したりした。もともと、ある歯に違和感があって歯医者に行かなければと思っていたのだが、なんとなく行くのが嫌だったので、一年近く違和感を持ちながら放置していたのがよくなかった。もっと早く行っておけば、と反省している。

最近は、予約の都合もあり、月に1、2度ぐらいのペースで通っている。いま行っている歯科は土曜日もやっているところなので、仕事にも支障がなく、ありがたい。


虫歯治療に加えて、歯科衛生士の方から指導も受けている。30歳を超えたいい大人が、歯磨きの仕方などを指導してもらうのは滑稽なのだが、実際の磨き残しなどを見ながらなので、反論のしようもない。しかし、指導の甲斐もあり、目に見えて歯磨きの精度は上がっているということらしい。最近は、歯磨きはもちろんだが、口腔洗浄液(リステリン)を使ったり、デンタルフロスを使ったり、歯間ブラシも使ったりしている。ちょっと前には考えられなかったことだが、やはりこれらを適切に使用することで、口内の状況はだいぶ改善しているような気がする。デンタルフロスというのはいわゆる糸楊枝のことで、ちょっと前までは、そんなものを使うのはよっぽど意識が高い人だけかと思っていた。いまでは、一日に一回やらないと、なんとなく気分が落ち着かない。

ある程度の時間と手間をかけてきちんとケアするようになった要因としては、やはり治療費が高いからである。虫歯治療として、保険適用できないセラミック治療を選択したところ、20万近くも金がかかってしまった。予想外の出費でこれはかなり痛い。そもそも、前提知識として歯科治療費がこれだけ高いという認識がなく、今まで、行ったとしても保険適用の範囲内の治療しかしたことがなかったので、これはなかなか衝撃だった。


歯を磨く、なんらかの方式でケアする、というのは一種の投資だといえるだろう。もちろん歯に限らず、その他の健康についても言えることではあるが。だが、歯はなくなったらそれきりなので、とりわけ神経を使うような気がする。問題がなくても、定期的に歯医者に行ったりするのも大事かもしれない。

歯の生え変わりは一生に一度しかないが、やっぱりこれがどうも納得行かない。試しに「なぜ歯は一生に一度しか生えないのか」とググってみたりしたのだが、もちろん納得のいく答えはでなかった。できれば、年一回ぐらいの頻度で生え変わってほしいものである。そうなると、おそらく大半の歯科医は廃業してしまうと思うが。

「インデックス」にならないメモは……

「小説の読書メモ」についての意義付けを語る内容のnoteを読んだ。

世の中の読書人のうち、ちょっとマイナーではあると思うのだが、読書メモをマメにとる人というのが一定数いる。ただし、多くは実用書であり、小説の読書メモをとる人はかなり少数派ではないだろうか。少なくとも自分はとらないし、とったこともない。

平均すると月に10冊のペースで本を読んでいるが、そもそも詳細な読書記録はとっていない。一応、どの本を読んだかの記録のために読書メーターというサービスを利用してはいるが、あまり詳細な感想は残さない。そもそも、読書メモなどをとっていたら、たちまちすごい分量になってしまい、肝心の本を読む時間が減ってしまいそうだ、という懸念がある。もしそうなれば、なかなか本末転倒な事態である。


「忘れてしまう物事は、所詮忘れてしまう程度のものだった」という言葉があり、自分もそれに従っている。その名の通り、忘れてしまって内容も思い出せないような本は、そもそも記憶しておくだけの価値のないものだったのかもしれない。仕事で使う必要のある文献だったり、勉強のために読んでいる本ならばなかなかそうもいかないだろうが、趣味としての読書であれば、忘れてしまうものは忘れてしまった、で別に構わないのでは、と思う。

ただし、それは「情報の記録」という面に着目した場合であって、メモをとる行為にはまた別の側面もある。すなわち、メモによって「記憶を呼び覚ますトリガーになる」ということだ。本当は覚えているのだが、何か「きっかけ」がないと取り出すことができない。そのメモによって、その記憶そのものが呼び覚まされる、というわけだ。「自分にしかわからないメモ」とはえてしてそのようなものである。自分はその内容を記憶しているので有用だが、自分以外の誰かが読んでも意味が繋がらない。

僕は日記をつけているのだが、そのような作用に期待している。日記に書いてある情報そのものが重要なのではなく、日記に書かれている文章をもとに当時の記憶が「再現できる」、これを重視している。逆にいうと、再現できないぐらい瑣末なことは、もう本当の意味で「忘却」してしまっているのだろう。そのようなものは、もはや自分の脳内からは「不要なもの」として消去されてしまっているのだから、メモとしてとっておくことにあまり意味を見出せない。


メモを取るとき、要点だけを箇条書きにしておいて、その要点をもとにすべての記憶が再現できる、というのが理想であるような気がしている。その場合、メモとは、情報というよりは「インデックス」である。「インデックス」の用途を成さないものは、もとから意味のない情報なのだ。

というようなことを並べて、メモをとらない、という行為を正当化しているのである。

専門用語と省略

難しいカタカナ語を使うのはカッコつけている、逆にダサい、みたいな風潮がある。確かに、最近の会社で使われているカタカナ用語は、「いや、日本語でええやん」というものは少なくない。一方で、もうわりと定着してしまい、なかなか日本語に訳すのが難しいものも存在する。たとえば「モチベーション」とか。日本語に訳すと、「やる気」? でも、「やる気」という言葉だけでは、ちょっと代替不可な感じはしている。僕がいまの会社にきた時、初歩的なことをレクチャーすることを「KT」と表現していて、なんのことやらと思ったら、「ナレッジ・トランスファー」の頭文字とのことだった。まあ、こういう言葉でも、いざ使いはじめるとそれなりに便利なものである。

当たり前だが、専門用語はカッコつけのために使っているわけではない。主な目的は、コミュニケーションの省略である。ただ、使い込んでいくうちに、その用語の「文脈」というものが形成されていく。なので、はじめはなんらかの言葉で代替可能だった言葉が、いつしかそれ独自のニュアンスをもつようになる。そうなったとき、その「ニュアンス」も含めた部分を「その一言」で表現できてしまう、というわけだ。この効率性は計り知れない。


僕は前職では、国際物流をやっていたので、貿易関係の専門用語は一通りわかる。国際貿易の世界は、言葉が通じない人同士が円滑に仕事を進めるために、非常に簡略化されたコードがいくつかある。その中でも最たるもは、「どの料金をどちらが負担するか」を決めた、インコタームと呼ばれるものだ。船に乗っけるまでが売主の負担で、船に乗っかってからが買主の負担、というように、「線引き」をするのである。国際貿易の世界は英語のメールなどでやりとりするのだが、前述の「船に乗っけるまでが売主の仕事」は「FOB(フリー・オン・ボード)」というコードで表現できるため、「インコタームはFOBで」と言えば一発で伝わる。最初はとっつきにくい専門用語だが、慣れてくると物事を表現するのにこれ以上便利なものはない。


もちろんこれはどの業界にも必ずあるはずなので、「小洒落た専門用語ばかりで、スカした連中だな」と思っているうちは、まだまだその業界に浸透していない、という見方もできる。とはいえ、明らかに不合理なレベルで話し合われている専門用語なども存在するはずで、それにどれだけ慣れているかがひとつのポイント、と言えるかもしれない。

無論、なかには、ただカッコいいから使っているだけ、という人もいるかもしれないが……。まあ、そんな人はそっと見守ってあげましょう。

思い出話という儀式

あまり友達付き合いがいいほうではないが、高校時代の友人とか、大学時代の友人などにたまに会う。だいたい年2回ぐらいの頻度で会うようにしている。そうやって会いたいと思う人の大半は、特定の時期にかなり集中的に一緒の時間を過ごしていた友人だ。かなり一緒の時間を過ごしてきた間柄なので、慣れ親しんでいるはずなのだが、久々に会うと、どういうテンションでしゃべったらいいのか、わかりにくいときがある。

そこで、あることを思いついて、最近は実行している。つまり、旧友に会ったときは、話題として思い出話をはさむといいのだ。近況を詳細に話すのももちろんいいのだが、どこかで、一緒に過ごしていた頃の思い出話をするのがいいのだ、と最近になってから気付いた。


あまり思い出話をすることが好きではなかった。どうしても、過去のいい時代を懐かしんでいる、というニュアンスがあるからだ。思い出話に浸るのは年寄りがやることだ、とも思っている。しかし一方で思うのは、人というのはずっと同じ状態を保っていない。日々を生きているだけで、細胞レベルでどんどん変わっていくし、経験や思考によっても変わってしまう。見た目だってどんどん老けていくし、痩せたり太ったり、という見た目の変化だって激しい。よく「7年経つとほとんどの細胞が入れ替わってしまう」というような話があるが、たしかにそうかもしれない。置かれた環境によっても、人は変わっていってしまう。なので、久しぶりに誰かと会う場合は、「おれたちは、あのときあの時間を過ごした同じ人間だ」ということを確かめる作業が必要になるのだ。別にそんなものはなくてもいいのかもしれないが、そのほうが、「そうだ、確かに同じ人間だった」と盛り上がる。大袈裟にいうと、そういうことなのだと思う。


人生はどこかからきてどこかへ向かうという点では列車のようなものだが、ずっと同じ列車に相乗りしてきて、かつ同じ場所に向かっている人間というのは限りなく少ない。同じ列車に乗っていても、全然違う景色を見ているかもしれない。相手は窓の外を見ているのに、自分は文庫本を読んでいるかもしれない。もちろん座っている座席も違うし、下車するタイミングも、目的地も違う。学生の頃は気づかなかったけれど、そういうものなのである。

たまに誰かと待ち合わせをしたら、「そういえば、このときはこの列車に一緒に乗っていたよね」と確認し合うのは、必要なことではないか、と思うのである。それはちょっとした儀式なのだ。
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yahiro

87年生まれ。エレクトロニカと読書とブログとモノクロ写真。
twitterアカウント@yahiro2000

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