やひログ!

日々文章を書いたりしているんです?

29歳の勉強における戦略

資格関係の講座を受けてきた。次の仕事で必要になるやつで、わりと専門性は高い。全国で年に数回開催されているようだが、人数からすると極限られた人のみが受講しているような感じだ。

学生とは違い、30歳近くなった今では、「集中的に勉強する」という状況に置かれた際に、「どういう戦略でそれに臨むか」というのがかつてと比較すると変化しているように思う。学生の頃は、時間は無限にあるものだと思っていたし、とにかく時間をかけさえすれば万事解決する、と思っていた。だが、ある程度年を取ってくると、時間は有限だし、他人より長い時間の集中力を保つのは難しい、ということに気付いてくる。時間は有限なので、なるべく無駄のないように使わなければならない。

最近よく思うのは、人間は未知のことを一回で理解できるようには出来ていない、ということだ。新しい物事が一発で理解できる(ような気がする)のは、大部分が「既に知っている知識」である場合に限られる。全くの未知の物事に取り組む場合、一回では到底理解には追いつかない。同じ事を何回か刷り込んで行く必要がある。

まずはちゃんと一度、自分の脳に知識をインプットさせることが重要なのは言うまでもない。きちんと物事を「理解しながら」インプットすることが肝心だ。駄目なのは、板書などに気を取られて、理解することを逃してしまうこと。どうせ物事を一度で「覚える」ことは無理なのだから、「暗記」は潔く諦めて、まずは理解に徹するべきだ。しっかりと「理解」できたとき、記憶は自ずとついてくる。

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記憶というのは不思議なものだ。記憶のメカニズムに関しては、いまだにどういう仕組みなのか解明されていないらしい。日々の些細ことはすぐに忘れてしまうが、わりとどうでもいいことでも何年も覚えていたりするものもある。

日記を書くとそれが実によくわかる。どうしても思い出せないような事柄もあれば、ハッキリとその情景まで思い出せることもある。もちろん、重要な記憶であればあるほど覚えている確率は高いわけだが、けっこうしょうもないことでもずっと覚えていることもある。そのメカニズムは明らかにはされていない。

どうせ完璧に記憶することなど不可能なのだから、もういっそ「覚えよう」とせずに、ただただインプットに費やす、という姿勢のほうが気が楽ではないだろうか。

記憶の仕組みはよくわからないが、どうやら記憶というのは芋づる式に思い出されていくものらしい。Aという記憶に関連づけられた記憶B、Cは、それ単体ではなかなか思い出せないが、Aという記憶を思い出した瞬間に、芋づる式に引き出されていく。そのとき、大事なのはAという記憶をしっかりと刷り込むことであって、それさえできれば、付随的なB、Cもあとからついてくる。つまり、「基本」となるものをまず最初にしっかりと踏襲する必要があるのだ。

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そうやって「戦略」を立てると、授業の受け方もおのずと変わってくる。授業はなるべく無駄な板書などはせず、先生の言う内容を一言一句、聞き漏らさないように注意深く聞く。教科書の特定の個所を暗記するようなことはせず、まずは全体をざっと見渡し、重要なところを把握した上で記憶を体系化していく。

今回の授業はそんな感じで、なるべく先生の話を聞き漏らさないことに注意しながら授業を受けてみたのだが、やはりこれは効果があったように思う。人の話を聞き漏らさないように注意深く聴く、というのはなかなか集中力を要するし、理解力も必要になるので、これは良い訓練になった。

こういった「勉強法」というのはいろんなところで紹介されたりしているのだろうが、もっと人に色んな人に広まればいいのにな、と思う。

人はなぜ廃墟に行くのか

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旅行で長崎に行った。九州に行ったのははじめてだったが、軍艦島の上陸ツアーがあると聞いて、以前から行ってみたいなと思っていた。

軍艦島上陸ツアーは、現在5社ほどの業者がいて、日に二回ほど運行しているそうだ。廃墟マニアにはもちろんよく知られている島だが、世界遺産に登録されてから、一般での認知度も高まったのだろう。ツアーに参加してみたが、定員200名にも関わらず満員だった。ツアー費が約4000円だったので、けっこう良い商売になるのではないだろうか。

ツアーにはいかにも廃墟好きっぽい男性もいたが、女性だけのグループもいたし、家族連れみたいな人もいた。いまは、長崎ではメジャーな観光スポットになっているようだ。

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人はなぜ廃墟に行くのか。廃墟の魅力とは、一体なんなのだろう。

ツアーに参加する前に、「軍艦島デジタルミュージアム」という施設があってそこで当時の写真や映像などの資料を見ることができたのだけれど、当時はまさに時代の最先端をいっていた島だったのだ。日本初の鉄筋コンクリートの建物があり、当時は三菱の私有地だった島からは豊富な石炭が取れたという。わずか0.063平方キロの敷地には5000人もの人が住んでいたという。

当時が立派だっただけに、現在の廃墟と化した「むなしさ」のようなものがそこにあるからだろう。かつては栄えたものが埃にまみれ、朽ち果てているというのは、それだけで美しいものだ。

今回の旅でわかったのだが、かつて栄えていたものを「再現」することは自分はあまり好きではない、ということを知った。過去の英華を再現することにはあまり意味を感じない。過去の英華を再現するぐらいならば、未来に向かって何かを作るほうがよほど生産的だ。

廃れていったもの、朽ち果てていったものは、ただそれそのものが美しい。それこそが時代の流れだろう。軍艦島は、かつて石炭が主要なエネルギーだった時代の産物であり、その時代とともにそこに置き去りにされるのが正しい姿なのだ。近年、軍艦島は老朽化によって崩壊が著しいらしいが、それをそのままに放置しておくのもいいのではないかと思う。修復・保護する活動も行われているようだが、崩壊にまかせるのも、それはそれで美しいのではないだろうか……。

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廃墟マニアでなくても、軍艦島の魅力は、行けば実感できるのではないかと思う。時代の流れがそこにある。

電車内での人間の拡散運動

東京に行った。東京で、久々に電車に乗った。今までは田舎暮らしだったので、メインの移動手段は自動車になる。自動車に乗り馴れていると、たまの電車にすごく違和感がある。

田舎だとだいたい人がたくさん降車する駅などは限定されているので、そこまで激しい人の動きがない。ところが東京だと、いろんなところで人が乗ったり降りたりする。人の動きが激しいので、待っていると普通に座れたりもする。

座席に座ったとき、席がかなりギチギチだと、苦労して座ることになるわけだが、なにしろ人の動きが激しいので最初はギチギチでも人が降りると途端にスカスカになったりする。そのとき、隣の席に人がいた場合、ガラガラなのにピッタリ横に人がついているような状態になる。はなはだ不自然だ。

だから、ガラガラになったときに隣に人がいるような場合、少し離れて座る。どうせまたすぐに別の人がやってきて間を埋めるから問題はないのだけれど。 

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しかし、ギチギチだと気にならなかった 「空間」が、あたりに空白が生じると、途端に気になり出すのは何故なのだろうか? 人同士は以前も以後も変わらずにそこに座り続けていて、ただ周囲の環境が変化しただけなのに、なんとも不思議なことではないだろうか。

水の中に固体を入れたときのように、時間をかけて少しずつ、均一に拡散していくかのようだ。

しかし、それにしては、みんな人口の集まる東京に集まりたがって、地方に拡散しよう、とはならない。不思議なことである。 

信用の売買をすること

久しぶりに日本でマンションの賃貸契約をしたのだが、いまは「連帯保証人」というものがあまり主流ではない、ということを知った。
前に日本で賃貸契約をしたのは六年ほど前だが、そのときは連帯保証人が必要だったので父にサインしてもらったような記憶がある。不動産屋にそのことを話すと、いまは連帯保証人の場合、それでもシラを切り通したり支払いができるような状況ではない人が多いので、最近は保証会社に保証してもらうケースが多いのだという。

僕が契約しようとしていたマンションも、個人の連帯保証人ではなく、保証会社の保証が必要だということだったので、その契約をした。僕はもちろんクレジットカードの審査に落ちるようなことはしていないし、なんのブラックリストにも載っていないのですぐに審査は降りた。

しかし、現代社会は信用社会だな、とつくづく思う。どういう契約をするにも、どこの馬の骨とも知れないわけのわからないやつを信用することは少なく、まずは大手の銀行だったり保険会社だったり商社だったりが間に入って仲介することが多い。何かあったときはそのあいだの人がなんとかしてくださいよ、というシステムになっているわけだ。まあ、実際には問題が発生するのは稀なので、何かが具体的に発生したときに動けばいい、という話なんだけど。

保険会社だって、銀行だって、本質的には何もしていない。何もしていないと言うと語弊があるかもしれないが、具体的に何かを生み出すことはしていない。やっているのは、信用を確保することだけだ。しかし、その「信用を確保する」ということが現代社会では重要なことなので、金融が大儲けしているのである。

小さいころからの教育で、とにかく「人からの信用を失わないようにしなさい」などと言われたものだが、確かにそれは現実的な教育だな、と思う。

信用は小さなことをコツコツ積み上げることで実現できるから、決して難しいわけではない。日頃の小さな約束をコツコツ守って行くと、信用が大きくなり、より大きなことができるようになる。お金を例に例えると、100円を借りてちゃんと返すということをコツコツ続けていけば、やがて1000円、10000円と貸してもらえる金額が大きくなっていく。その「信用」は、コツコツ積み上げてきた結果、得られるものだ。

それを続けていくと、手っ取り早く信用を得たいと考える人が出てくる。そして出てくるのが、他の誰かが「信用」を肩代わりしますよ、というシステムだ。それがいまの社会の保険屋や銀行だ。別にそれが悪いとは言わないが、世の中の仕組みとは便利なのか便利じゃないのかわからなくなるときがある。

情報の断絶を乗り越えるには?

学校や仕事などを通じて、世の中には色々な階層があるな、というのがおぼろげながら見えて来た。

現代社会には、見えない階層が間違いなく存在する。それは、昔の貴族や農民などのように、「階級」としてわかりやすく存在したものではないかもしれないが、なんとなく、存在する「断絶」である。

平たくいえば、情報に断絶があり、その断絶が階層をつくりだしている。ポイントは、その情報の断絶は、誰かが意図的に作り出しているものではない、ということだ。

過去、江戸時代に遡ると、農民が武士になることは基本的に不可能だったが、現代においてはどんな人間でも官僚になることはできる。そのための情報を取り揃え、人並み以上の努力をし、社会制度を最大限に利用すれば、(能力があるという前提があってだが)ほとんどコストをかけずに「上流階級」に行くことが可能だろう。

現代は、誰でも意思さえあれば情報が手に入る時代だ。インターネットを使えば無料であらゆる情報にアクセスできるし、図書館に行けば無料で本が読める。勉強しようと思えばいくらでも勉強できる。インターネットを使えば、お金をかけずに自己投資ができる方法も学べることだろう。

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会社の後輩で、中卒で会社に入社した子がいるのだが、海外に一度も行ったことがないと言っていた。それ自体は何も悪いことではない。だが、「海外に行ったことがない」のは、「経済的に行けない」からでもなく、「時間的に行けない」というわけでもなく、ただ単に「行く理由が見当たらない」、ということだった。 

別に海外に行くことがどうだというつもりはないのだが、情報に対する飢餓感が薄い感じがする。新しいことにあまり目を向けようとしない。昨日までと同じ仕事をして、昨日までと同じ仲間とつるみ、昨日までと同じ飯を食う。決して仕事ができないわけではなく、責任感もあるし、周囲からも慕われている。しかし、スマホゲームとパチンコぐらいしか娯楽がない。

こういう感じの子が、外界に関心をもって、殻を破ることは稀だ。もちろん、そういう志向がないわけだから、自分から何かについて勉強しよう、という気持ちもない。

情報から隔絶されているわけではなく、自分から情報に触れないところで生きることを選択している。誰かが意図的に隔絶しているわけではないのだ。

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このブログを読んでいる人たちは、こんなインターネットの辺境のページを熱心に読むぐらいだから、よほど情報に対する飢餓感が強い人なんだと思う。あまり知り合いにこのブログの存在は知らせていないので、定期的に読んでいる人たちは僕の知り合いではないと断言できる。

情報から断絶されているわけではなく、情報が少ない人は、それだけ情報から離れたところに自らを置いているだけ。そうやって考えると、不思議なことだよなと思う。冒頭で「階層」というふうに書いたが、本当はそんな階層なんてないのだと思う。ただ、結果として、情報に対する飢餓感が階層という形で顕在化しているだけだろう。

重要なのは、目先のことばかりを考えないで、なるべく広い視野をもち、偏りのない情報を摂取すること。それができるようになれば、より広い選択肢を得ることができるだろう。 

フィクションの矛盾をどう乗り越えるか

フィクションには矛盾があります。だって、作者だって人間だもの。

作者に出来ることとは、「可能な限り、矛盾をなくす」ことであり、受け手に出来ることは、「可能な限り、矛盾に目をつぶる」ことであります。作者が矛盾しまくりなストーリーを作成し、受け手が矛盾に気付きまくると、ストーリーとして成立しません。受け手が矛盾を気になりすぎてしまうと、作品世界に没入できないからです。

ということは、作者がとんでもなく矛盾の少ないストーリーを作成し、受け手がとんでもなく矛盾に気付かないぐらい鈍いと、ストーリーは完璧になります。要は、フィクションなんてのははじめから「お話」なので、いかに「お話だと自覚させないか」がポイントになるんだと思います。そして、作者側に責任があるのはもちろんですが、受け手側にも、ある種の「努力」は必要になってくる気がします。

「空想科学読本」という本があります。有名な本なので、知っている人も多いと思う。人気があるので、シリーズ化していて、何冊も本が出ている。どういう本なのかというと、みんなが知ってるマンガやアニメなどの作品の設定を、科学的に分析してみよう、という本。

僕はそんなに熱心に読んだことはないのだが、端的に言ってしまうと、ゴジラとかウルトラマンが歩いたり戦ったりするのを科学的に解析してみましょう、という本である。現実に存在しないものを解析しはじめるのでナンセンスなのだが、著者もナンセンスだとわかった上で、「シャレで」やっているのがポイントである。そして、読む側も「シャレで」読むのが流儀なので、「こんなことやって夢をぶちこわすな!」という声をあげるのはお門違い、ということになる。まあ、もはやそんな人はいないと思うのだけれど……。

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「進撃の巨人」というマンガがあるのだけれど、面白いのでかなり前から買って読んでいる。最近は、話の展開が佳境に入り始めたので、単行本のみならず雑誌まで購入して読んでいる(kindleだけど)。

進撃の巨人という作品、作者は諫山創という方なのだが、この「進撃の巨人」がデビュー作である。非常にインパクトのある作風なので人気を博し、単行本の売上げがスゴイのはもちろん、アニメ化、映画化までされている大ヒット作品である。

しかし、「人類の土地は広大な壁に囲まれていて、外部から巨人が襲ってくる」という荒唐無稽な神話的ストーリーなので、矛盾というか、気になるところが多々出てくる。もっとも、作者はとても頭の良い方なので、そういった「気になるところ」がストーリーが進行するごとに明かされていく形を取るのだが、それでも説明されないところは多い。

同じような疑問を抱いている人はいないのだろうかとネットを漁っていた結果、「突撃隊長」こと山本一郎氏が、長大なエントリにて指摘しているのを発見した。

やまもといちろう - 『進撃の巨人』の「調査兵団」による偵察作戦が酷すぎる件(抽象的ネタバレあり) - Powered by LINE http://lineblog.me/yamamotoichiro/archives/2998815.html
  • たまたま士官の方とチャットをしていたところ、余談で『進撃の巨人』の話になりまして、いくら物語であったとしてもあの作戦の遂行を命じる軍人がいたら203高地の乃木希典さんなみのアレではないかという結論に落ち着いたわけです。
  • もっとも、架空戦記であり、歴史上の合理性をかなり排除して、特殊な世界観を築いているわけですから、現実的な観点からツッコミを入れてもしょうがないわけですけれども、仮にすべてあの設定の中ですべての構成要素を前提としたとしても、作中で行われている作戦はあり得ないよね、という話でありまして。
 「たまたま」士官の方とチャットをしていたらしい。たまたま士官の方って。そりゃ、プロということだろうか。プロの目で批判されたんじゃ、作者もたまらないな。

要約すると、「進撃の巨人」の作品の中で活躍する組織に「調査兵団」という組織があるのだが、その調査兵団の戦法にはかなりの無理があり、現実では絶対に行われないであろう作戦が平然と行われているという指摘である。

厳密にいうと、これは矛盾ではない。要素Aと要素Bが成り立たない、という話ではないからだ。言うなれば、「調査兵団がアホ」ということになるのだけれど、そのおかげで作品に没入できなくなった場合、この作品を楽しむことができなくなる。

そして、なんと作者本人からブログでレスがついた。

『進撃の巨人』の作者・諫山創氏と山本一郎氏が城外で戦闘を開始!? | 亜細亜ノ蛾 http://asiamoth.com/mt/archives/2012-05/07_2239.php

まあ、本エントリの主旨からは外れるので、興味のある人は読んでみて欲しい。 

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重要な点は、山本一郎氏は「進撃の巨人」における軍事作戦に無理があるとしながらも、作品を「面白い」と評していたことだ。バクマンというマンガで、とある人物が「マンガは面白ければいいんだ。面白い作品は連載される、当たり前だ」という名言を残したが、まさしくその通りで、フィクションにおける最も大事な点は「面白いこと」、ただその一点に尽きる。

作品世界における無理に気付きながらも、山本一郎氏に「面白い」と言わしめる作品とは、いったいどんな作品なのか。「面白い」と言わせることができているのだから、「進撃の巨人」には、設定の無理を克服するだけの「何か」がある、ということなのだろう。

フィクションには、作者の努力と、受け手の努力が不可欠なのである。あらさがしをするような読み方だけでは、決して面白さに気付けないだろう。だからといって、批判の手を緩めてはならない。難しいところだが、その双方の姿勢がある限り、これからもフィクションの世界は発展し続けるだろう。 

映画「スノーデン」を見てきました

現在公開中の映画「スノーデン」を見てきました。わりと話題になっておらず、公開している映画館も少ないため、ちょっと探さないと上映している映画館はないかもしれない。僕は、最寄りの映画館では上映していなかったので、若干遠出をしてこれを見に行きました。

内容は、かつてNSAというアメリカのCIAのような組織でインテリジェンス業務に就いていたエドワード・スノーデンが、政府による違法なハッキング行為をメディアに暴露したのち、ロシアに亡命するまでの経緯が語られる本。多くの人は、亡命するかしないかぐらいのときに盛んに報道されていたニュースで彼のことを知ったと思うので、「最終的にこうなる」というのがわかった上で観るタイプの映画である。

NSAに所属していたが、もともとはCIAにも所属していたということで、相当な切れ者だということはわかっていたのだが、この映画を観て、その中でもさらに群を抜いて優秀だったのだな、ということがわかった。しかし、彼はインテリジェンスの世界には向いていなかったのだろう。

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政府が、ハッキング行為を違法としながら、政府自らが違法なハッキング行為を行っている。こうした事実に直面したとき、我々はそれをどう思うだろうか?

親と少しこの話をしたら、親は「まあ、自分はテロリストではないし、政府だったらそれぐらいのことはやるんじゃないの」とのこと。要は、自分のような一般市民のSNSやPCにハッキングしたところで何も出てこないから、かまわないということだろう。これは僕もまあ、同意見である。

「テロを未然に防ぐため」「犯罪行為を未然に防ぐため」といった大義名分で、政府が一般市民の動向を監視することに対して、皆さんは抵抗を感じるだろうか。正直なところ、僕はそうでもない。理由は、母が言ったこととほぼ同意見だ。別にやましいことは何もないので、多少ハッキングされたところで不利益なことなど何もないのである。

ネットで検索してみると、こんな記事が見つかった。

ネット監視社会の本当の「危険」な理由 | 両角達平 http://www.huffingtonpost.jp/tatsuhei-morozumi/surveillance-society_b_5407590.html 
  • グリーンウォルド氏は、ユビキタスな監視システムは、抗議活動などの抑圧や制限を進めるだけでなく、人々の意識下における「反対意見」すらも殺してしまうことにつながることを、1975年のスタンフォード大学の心理学者によって行なわれた大規模実験「監視の萎縮効果」を引用しながら述べている。
  • またイギリスの哲学者ベンサムの「一望監視装置」を引用し、「監視されている」という意識を囚人に植え付けることが、服従、盲従、予定調和的な行動を導くという主張をしている。
  • つまり監視システムは、「観られている」という意識を人々に埋め込むことで、人々に同調的な行動を求め、反対運動を起こさせないようにし、社会の「異端」を排除し、多様性を否定した社会へ導くことになるのだ。
なるほどねぇ。「観られている」という意識が、自然と「反対意見」を摘み取り、多様性を押し殺す結果となってしまうわけか。

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しかし、これだけスノーデンが話題となったのだから、これまでにこういうことをしようとした人はいなかったのだろうな。

ところで、スノーデンがらみでこんな記事を見つけた。

スノーデン容疑者引き渡し検討か=ロシアがトランプ氏に「贈り物」―米報道 (時事通信) - Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170211-00000037-jij-int

どうなるスノーデン? 

ハンドルの切りかた

自動車の免許を取るまで、自動車の運転とはどうやってやるのだろうとずっと疑問だった。

アクセルはどの程度踏み込んだらいいのか。ブレーキはどの程度踏んだら減速するのか。ハンドルはどのぐらい回せばカーブを曲がれるのか。アクセルとブレーキは、とりあえず速度の問題だからなんとかなるとして、ハンドルの切りかたは問題だ。 どの程度切ったらどの程度のカーブが曲がりきれるのか。大人はみんな熟知しているに違いない、と思った。

試しに父に、「ハンドルを一回転させると、どのぐらいのカーブが曲がれるの?」と訊いてみた。結果、父は「さあ?」と首をかしげた。

これには衝撃を受けた。普段運転している車ですら、どの程度ハンドルを切るのかわからない、というのである。乗ったことのない車ならいざ知らず、毎日運転している乗用車ですら、わからないというのだ。それでいて、ほとんど何処も見ないで、会話をしながらでもスイスイとカーブを曲がっている。一連の事象に説明がつかない、と思った。

なので、実際に車を運転してみるまで、どうやって車を運転するのかは想像もつかなかった。恐怖でしかなかった。 

しかし、実際に車を運転してみると、なんの問題もなく運転できた。そして運転してわかったことだが、「カーブをまがる」のは、「ハンドルをこれぐらい切る」と「覚える」ことではなかったのだ。

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車を運転するとき、我々の脳の中では何が起きているのだろう。ハンドルを切りながら、周囲の風景を見て、「このぐらい切ったからあとこれぐらい切れば曲がりきれるだろう」という判断を行っているわけだ。目で見て、情報を即座にフィードバックしている。目を閉じながら車の運転は絶対にできないだろう。

人は自分の行動を常にフィードバックしなければならない、と最近つねづね感じる。やみくもに前進するのは、目をつぶって自動車を運転しているのと同じだ。進行方向を見て、軌道修正することでちゃんと車を運転することができる。

それと同時に、事前にある程度、物事の準備をすることはできても、完全にすべての情報を揃えることはできない。自動車のハンドルの切り方を膨大な文字数でマニュアル化しても、車の運転ができるようにはならないだろう。とにかくやりはじめて、フィードバックすることが大事なのだ。 

ジョニー・デップのお金の使い道

映画俳優のジョニー・デップ氏が破産寸前だと報じられている。

真偽のほどはよくわからないものの、毎月2億円単位で浪費をして、月々のワイン代だけで8000万円ぐらいにのぼるというのだから「世界最大規模の浪費」だろう。世界中に別荘を持って、高級車も何十台も所有し、クルーザーや自家用ジェットまで所有しているらしい。まさに贅沢ここに極まれり、という感じである。

僕は彼の金銭感覚というものが全くわからないが、少なくとも破産はするつもりがないので、その意味では彼よりは堅実な人生を歩んでいると思う。しかし、「人間としての価値」でいけば、間違いなくジョニー・デップのほうがあるだろう。彼は映画俳優で、ヒットメイカーだから、ひとたび映画に出演すればまた数十億のお金を稼ぐことが可能だろう。僕は映画に出る機会ももちろんないし、出たとしてもそんなお金が稼げるわけがない。彼のほうが、「俳優として」の資産価値を持っているので、「価値」は当然ながら、彼の方が高い、ということになる。

客観的に見ていて思うのは、映画俳優がこれだけの莫大なお金を持っても、とにかくその用途は「浪費」することにしかないのだな、ということだ。別荘も、高級車も、ワインも、自家用ジェットも、クルーザーも、それそのものが価値を産むわけではない。土地を買ってそれを運用したりしていればまた違うのかもしれないが、とにかく、ジョニー・デップの場合はエンドユーザーとしてお金を「消費」しているだけだ。彼の消費が、また新たな「価値」を産むことはない。

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世界有数の資産家で、株式投資の世界では「神」とまで崇められているウォーレン・バフェット氏は、推定6兆円もの資産を持ちながら、質素な一軒家に住み、簡素な生活を送っている、という。6兆円もお金があるわけだから、それを一体に何に使うのだろうかと普通の人はそう思うわけだが、バフェットは投資家なので、当然、「投資」にお金を充てる。儲けたお金を、またどこかの株式に投資するわけだ。

マイクロソフトの元チェアーマンだったビル・ゲイツ氏も、莫大な資産を持ちながら、質素な生活をすることで知られている。マクドナルドのフィレオフィッシュが大好きで、来日したときも部下に買いに行かせていたとか(そのときの逸話で、朝の時間帯だったからフィレオフィッシュがなかったが、ビル・ゲイツが欲しがったので現在は朝マックの時間帯でもフィレオ・フィッシュがオーダーできるようになった、という逸話がある)。

バフェットも、ビル・ゲイツも、数兆もの資産を有していながら、浪費をするということがない。それは、節約が趣味だとか、倹約を心がけているというわけではなく(もちろんそれもあるだろうが)、ただ「お金の使い道」を知っているからなのだ。

ビル・ゲイツは自身の資産をさまざまな支援団体に寄付していることで有名だ。以前、ビル・ゲイツがTEDで講演している動画を見たのだが、現在、彼は世界のエネルギー問題の解決に向けて取り組んでいる。核廃棄物を生み出さない原子力発電の技術を生み出すための研究に投資していて、その技術がモノになるためにはまだあと数十年の歳月が必要で、数十、数百もの会社の協力が必要なのだそうだ。

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別にジョニー・デップを批判したいわけではないが、彼にとって「お金」とは「使うもの」であって、「何かを生み出す道具」というわけではないのだろうな、ということを思った。数十億あれば、映画だって自費で撮ることができるだろう。そういえば、宮崎駿はジブリで稼いだお金で幼稚園を作ったりしていた。

成金趣味を否定したいわけではないけれど、「お金の使い道」というところで、有意義に、社会のためになるような使い方をしたいものですね。

「俺ら」は誰なんだ?問題

「俺ら」という概念がある。「俺」という一人称代名詞の複数形である。通常の文脈で用いられる場合は、発言者がなんらかのグループに所属していて、その所属グループを呼称する際などに用いる。

だが、これは同時にネットスラングでもある。「2ちゃんねる」などの匿名掲示板においては、コテハン(固定のハンドルネーム)などを用いない限り匿名であり、書き込みをしたのが誰かというのはわからないし、明かさない。しかし、2ちゃんねるなどの掲示板でもしばしば「俺ら」という呼称を用いる。2ちゃんねるで「設定」されている、「俺ら」像は、以下のようなものである。
  • 無職あるいはニート、ひきこもり、またはぼっちの学生。非リア充。
  • 自称情報強者(情強)で、パソコンの操作に強い(と思っている)。
  • インターネットで常に正しい情報の最先端に触れている。
  • おたくであり、アニメが好き、もしくはほかの造詣の深い趣味を持っている。
  • 中立公平で、正しい価値観を持っている。常勝無敗。
  • 脳内に嫁がいる(俺の嫁、脳内嫁)。 
(参考:ニコニコ大百科)

なるほど。これは、一般的な「ニート」や「ぼっち学生」の特徴を、やや作為的に抽出したものだ。2ちゃんねるなどで「俺ら」という呼称を使うと、たとえ自分が上記の条件に該当していなくても、上記の人格として振る舞う必要がある。たまに、既婚者でありながら「俺ら」という呼称を使う人もいて、そうするとちょっとした設定破綻のような空気が生まれる(それはそれで面白いけれど)。

2ちゃんねるを利用している人で、ニートや学生が大半なのかというと、僕はそうは思わない。むしろ、社会人が圧倒的に多いのではないだろうか。しかし、「俺ら」というとニートや学生である、という暗黙の了解がどこかに、ある。

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たとえば、2ちゃんねるの掲示板を利用して、ある相談を持ちかけたとする。「俺ら」に対して相談するわけだから、書き込んだ人から見れば「お前ら」に相談したことになる。

「お前ら」は、相談者に対して色々な助言をするだろう。中には、相談者が思いもしなかった、画期的な解決方法があるかもしれない。喜んだ相談者は、日を改めて「お前ら」に感謝の言葉を口にする。

しかし、相談をしたときにそこにいた「お前ら」は、もうそこにはいないかもしれない。それでも、掲示板の向こうには確かに「お前ら」がいて、相談事が成功したことを喜んでくれるかもしれない。そんな「お前ら」とは一体なんなのだろうか?

「俺ら」も「お前ら」も存在しているわけではなく、掲示板が生み出した架空の人格だ。その掲示板にいる限り、「俺ら」も「お前ら」も機能する。

掲示板にはログが残るから、その日はじめてその掲示板を目にした人でも、過去ログをあさっていけば経緯がわかるので、簡単に「俺ら」になることができる。いつそこにいっても、「俺ら」は存在するのだ。

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この世には「法人」という奇妙な存在がある。会社というのは影もかたちもないものなのに、「法人」という人格を与えて、あたかも人であるかのように振る舞うのだ。「会社に切られた」「会社に殺された」というのは、会社の社屋が殺人を犯したわけではない。あくまでも、「会社」という総体があって、それに「法人」という架空の人格を与え、それから切られたり殺されたりしているにすぎない。奇妙なことである。

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ちなみに、同じニコニコ大百科で「お前ら」を調べたら、次のように出て来た。
  • 「お前ら」とは、つまるところ俺らのことである。 
うーむ。

「深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ」(ニーチェ) 



<参考サイト> 
*「俺ら」「お前ら」に関して
俺らとは (オレラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BF%BA%E3%82%89
お前らとは (オレラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%8A%E5%89%8D%E3%82%89 

自分の立ち位置を知ること

ネットでこの記事が話題になっていました。

ADHD傾向のある人向け、お仕事手荷物ガイド - 発達障害就労日誌 http://syakkin-dama.hatenablog.com/entry/20170131/1485803199

主にツイッターなどで活動されていた「借金玉」というハンドルネームの人が書いたブログ記事です。ブログ自体はつい先日から運用されはじめたそうですが、早くも多くの注目を集めています。

記事の内容は、タイトルにもある通り、「ADHD傾向のある」人のために書かれた、仕事用のカバンの運用ガイド(TIPS)です。巷に「仕事術」なるものは数多くありますが、「そういうのを参考にしても全然ダメなんだけど……」という人でもきちんと運用できるように丁寧に書かれています。

読んでみるとわかるのだけれど、著者は自身が「ADHD傾向にある」としたうえで、「じゃあどうすればいいのか」ということを理詰めで考えていっています。きわめて適応能力の高い人だと思う。何か障害にぶち当たったとき、周りのせいや自分のせいにしたりするのではなく、重要なのは「じゃあどうすればいいのか」を考えることです。人間に与えられた能力のうち、こういう思考は最も有用なものだと感じる。

僕は自分がADHD傾向にあるかどうかはわからないのだが、確かに書類の整理などは死ぬほど苦手だ。というか、片付け自体が死ぬほど苦手だ。だから、とても参考になった。ここに書いてあることをそのまま実行しよう、とまでは思わなかったけれど、考え方の軸はとても参考になる。

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人間の能力にはバラつきがあり、それぞれ得意・不得意がある。基本的に、なんの障害も持っていない人同士の場合、能力は「ある程度は同じ」とみなされるわけだけれど、それでも要領のいい人と悪い人がいる。要領の悪い人はいい人に決して勝てないのかというとそんなことはなく、悪いなら悪いなりに「どうすればいいのか」を考えればいいのだ。簡単なことである。

僕は自分は記憶力がかなり悪いと考えていて、仕事ではけっこうマメにメモを取るようにしている。特に、数字を覚えることがぜんぜんできない。世の中というのは本当に能力のバラつきがあると感じるのだが、一年、あるいはもっと前に使ったお金の金額などを覚えていられる人がいるのだ。僕には到底そんな能力はないので、とにかくノートに書く。あるいは、印刷してノートに貼っておく。そういうのを参照しないと、仕事で使う細かい数字などがいちいち覚えられない。

でも、とりあえずノートを活用すればやっていけるので、そこまで不便を感じたことはない。重要なのは、「自分が平均的な人間よりも何に劣っているのか」を把握すること。 そして、そのために何をするか、それを考えて実行すること。これだけではないだろうか。

実際のところ、「普通な」人というのはそうそういるものではないな、というのを社会に出て実感するようになった。どんなにスゴイ人でも、必ず「人並み以下」のものはあるものだ。というか、正直なところ、「人並みにできること」がちょっとでもあれば、社会で生きて行くことはできるのではないか、と思っている。世の中は「人並み」でも十分に評価してくれるのだ。

でも、人並みにできないことをできなこととして放置するのは良くない。自分の「人並み以下」の部分をカバーするために、より多くのリソースを費やさなければならない場面も出てくるかもしれない。だから、できれば「人並み以下」のものは最小限に抑えたい。このブログから得ることができるのは、そういう知見であるような気がする。

正義が危険な理由

よく日本人は控えめな民族だと言われる。

欧米人などと一緒にお茶したりするとよくわかるのだが、日本人というのは確かに控えめだ。話に割って入るようなことはしないし、身振り手振りを交えて何かを主張する人も少ない。むろん、なかには自己主張の激しい日本人もいるが、相対的に、ということで言うと、そういう傾向にある。

だが、歴史を振り返るとけっこう日本人というのはアグレッシブだ。1930年代には中国に入植して満州国を立ち上げているし、それより前にはブラジルに移民に行っている。主要な商社は原料やエネルギーの買い付けのために平気で地球の裏側まで行ったりするし、いまでもメーカは少人数で東南アジアや中東の国に行って工場を立ち上げたりしている。

歴史をひも解くと、日本人は異常にアグレッシブなところもあれば、異常に控えめなところもある民族なのである。両方の気質が存在し、矛盾している。

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問題は、日本人個人で見た場合と、日本人集団で見た場合のギャップだ。日本人個人は非常に控えめなのだが、集団になると力を発揮するのだ。集団として一致団結すればするほど、強大な力を持つ。

日本人や欧米人などという括りを外して、人類全体の普遍的な傾向した見た場合、自分個人のために自己主張したり我を通すというのは難しい。非常にエネルギーが要る。完全に自分個人のために意見主張をしたりすると、排斥・拒絶に合う可能性が高まるし、そうなった場合に受けるダメージも大きい。

しかし、他人のためだとしたらどうだろうか。誰かかけがえのない人のために自分の意見を主張する必要が生じたら。自分のために動くよりも、よりアグレッシブに動くようになるはずだ。多少の批判や非難程度なら気にもならない。目的が完遂されるまで、懸命に取り組むはずだ。

「他人」だけでなく、「社会」や「正義」のためとなると、そのエネルギーはさらに強力になる。「社会」や「正義」まで行き着くと、もはや普遍的な概念なので、自己利益ですらない。本当にそれが社会のため、正義のためになるとしたら、自己が犠牲になることさえ厭わないかもしれない。

これが自己利益との最大の違いだと思う。自己利益のために動く場合、自己犠牲の行動に至ることは絶対にない。自己利益のために自己が犠牲になるというのは、定義が矛盾している。

一方で、他人のため、正義のため、社会のためなど、「利他的な」行動は、その行動範囲を活発化させることのみならず、自己犠牲を伴うものまで発展する可能性がある。ここが大きく違う。おそらく、昔の日本人は「日本のため」「会社のため」に自分を犠牲にする覚悟が出来ていたのだろう。だからこそアグレッシブに見えたのかもしれない。

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翻って、最近毎日テレビ等でその姿を見かけるトランプ大統領だが、これだけの批判に晒されながらも手を止めないのは、「自己犠牲の精神」がもしかすると彼の中にもあるのかもしれない。保身だけを考えるならば、もっと抑えたほうがいいはずだ。いまのやり方のほうが4年間勤められないリスクは高い。米国大統領には弾劾の制度があるし、暗殺されるリスクも高まる。

正義は常に正しい。なぜなら、勝ったイデオロギーが正義となるからだ。しかし、正義は危険である。



<参考動画>

*自己利益よりも利他的行動のほうが活動レンジを広めるという考察に関して
アダム・ガリンスキー: はっきり主張できるようになるには | TED Talk | TED.com https://www.ted.com/talks/adam_galinsky_how_to_speak_up_for_yourself?language=ja 

オシャレにかけるお金とは

僕はオシャレにかけるお金がとても少ない。少なくとも、毎月のように服を買ったりしていない。引っ越しをわりと頻繁にするので(これまでに8回)、そのたびに古い服などを処分したりしているうちに着るものが減少してきて、否応なしに買う、というパターンがけっこうある。

また、僕には姉が二人いるのだが、姉の旦那(つまり義兄)の服をもらったりする。けっこうブランドもののいい服を持っていたりするのだが、たまになにかのきっかけでもらったりする。こういうのが本当に重宝している。

学生の頃は、パンク的なファッションがかっこいいのではと思ってブーツを買ってみたり、革ジャンを買ってみたりしていたのだが、もう30にもなるのでそういうのはしんどい。個人的には、薄いジャケットの下にTシャツを着るような、佐藤可士和のようなファッションが好みである。

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だが、いちおうスーツはオーダーメイドのものを2着持っている。レディメイドのものも2着。スーツは仕事着なので、ある程度ちゃんとしたのが欲しい。特に、一時期は法人の代表をしていたこともあるので、なるべく偉そうな感じに見えるスーツが欲しかった。オーダーメイドだからそれなりに高かったのだが、まあいい買い物だったのでは、と思う。

要するに、オシャレにお金を使うというのは、「消費行動」にすぎず、それ自体は何も価値を生まないから好きではないのかもしれない。もし、「このファッションであればもうどんな状況でも対応できる」というようなものがあれば、そのファッションで固定してしまうかもしれない(黒いタートルネックばかり着ていたスティーブジョブズのように)。

会社の先輩が、「男は結婚するとオシャレにお金を使わなくなる」と言っていた。

曰く、「結婚するとカネがかかるので物理的に支出を抑えざるを得ない。しかし、もっと主要な要因は」と言葉を区切って、「女にモテる必要がなくなるからだ」と言った。

なるほどこれは一家言ある。「オシャレ」というのは、要するに「モテたい」からするのだ。男子であれば女性にモテたい。女性であれば男性にモテたい。同性同士で互いを牽制するためにカネをかける場合もあるだろう。つまり、オシャレの支出は軍拡競争に例えることができる。各国の軍事力は、軍事予算をどれだけ割いているかによって決まる。日本は安保条約に安心して世界の50%以上を誇るアメリカの軍事力頼みになり、軍事にお金を割かなくなった結果「エコノミック・アニマル」と揶揄されたりしたが、「オシャレにお金をかけず、より生産性の高いものに投資する」というのは日本の姿勢に近いともいえる。

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実際のところ、「見栄のためにお金を使っている」という人は多いのではないだろうか? まあ、だからどうだ、というわけではないが、「周りの目」というものがなくなれば、もっと使うお金も減るよな、とは思う。

情報化社会で自由意志を失わないために我々はどう行動していけばいいのか??

現代は「情報が氾濫する社会」だとよく言われる。

しかし、よくよく考えてみると、情報が氾濫しているからといって、ただちに問題が生じている人は少ない。あまりにも情報が溢れているため、たとえば街を歩いていて目に入ってくるのは広告ばかりだから、「いまこういうのが人気あるんだ」と錯覚して消費行動に走る人がいたとして、何か不都合なことがあるだろうか? 

結局のところ、浪費するのはその人の責任だし、ある程度その消費行動で満足することがあるのだとしたら、それはそれでいいと思うのだけれど。たとえばうちの姉はかなりミーハーなのだが、それはそれで楽しそうな人生だし。

たまに立ち止まって、「あれ、これってもしかして自分で選択しているんじゃなくて、選ばされているだけ?」ということに気付いたとしても、そうやって気付いた時点で「選ばされて」いないことがわかる。逆に、そういう「選択させられてばっかり」な人は、それはそれで幸せなんじゃないかと思う。生き方はそれぞれだ。妙な悩みを抱えることもなさそうだし。

この「自由意志は本当にあるのか?」は深いテーマで、それこそ古代からあらゆる哲学者によって論じられてきた。なので、一口に「こうだ」と定義することは難しい。しかし、この「情報化社会」において、どのように「自由意志」をもって行動すればいいのか、について考えてみよう。

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まず前提として、どれだけの情報に晒されたとしても、我々の脳はパンクしない。ぜんぜんだいじょうぶだ。朝から晩までツイッターを見続けていたとしてもなんら問題ない。疲労したり精神的にしんどいということがあるかもしれないが、脳がパンクしたりはしない。朝から晩まで英単語を暗記してもそう。英単語を暗記して発狂したり死んだりした人がいるだろうか?

なぜか? 脳には「忘却」する機構が備わっているため、どうでもいい情報はどんどん切り捨ててしまうからだ。大事なことだけを「記憶」するように、脳がフィルタリングしてくれるのである。この機構はほんとうによく出来ていて、いくら情報を詰め込んだとしても、いらない情報はどんどん捨てて、必要な情報だけを長期記憶に移行するように手配してくれる。古代と現代では、入ってくる情報の量は違うはずだが、この機構は現代においてもじゅうぶん有効に動作しているように感じる。

「自由意志」を発動させるために必要となるのは、その人のユニーク(他と同一でない)な「人格」だと思う。同一の体験をさせても、人によって受け取り方は異なる。また、同一の状況下に置かれた場合でも、人によって下す判断は異なる。それは、その人の「人格」が異なるからではないだろうか。

では、「人格」はどうやって形成されるのかというと、上記の「記憶」の集合体によって形成されるのでは、と思う。1000の体験をさせて、記憶に残るのが100の体験だとする。Aさんの記憶に残った100の体験と、Bさんの記憶に残った100の体験は、種類が違うはずだ。どういうものを記憶に残すかによって、人格が変わってくる。

そういうものが積み重なるに従って、その人の「人格」が形成されていく。その「人格」が、「自由意志」をつくる。僕はいまはそのように理解している。

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そもそも、現代はほんとうに「情報が氾濫している」のだろうか?

確かに、デジタルデータが高速のネットワークによって世界中を駆け巡るこの時代において、情報の「通信量」は膨大になっただろう。しかし、そのほとんどが「ジャンク」、つまりほとんど意味のないデータなのではないだろうか。

有名人のゴシップ記事、株価があがったとかさがったとか、どうでもいいワイドショーのネタ、駆け巡っているのはこんな情報ばかりである。そして、それらはほとんどが誰かの利害関係(=ビジネス)に間接的に繋がっている。世界中でやり取りされているメールなどのメッセージのうち、大半を占めるのが「どうでもいい噂話」である、という統計結果も聞いたことがある。そういうデータを10年後に残す必要がどこにあるだろうか?

仕事のデスクを整理するとそれが如実にわかる。会議のために作らされた、膨大な資料の数々。最新の数字を拾ってきて、それっぽい表にして、グラフにして、会議にかけ、すぐに忘れ去られる膨大な資料。半年も経てば、情報は古くなり、何の意味もなくなる。数年が経過したら、本当にただのゴミになってしまう。一所懸命作ったプレゼン資料だってそのありさまなのだから、世界を駆け巡る情報がどうでもいい、というのは自分にとっては本当に納得のいく話。

一方で、「古典」として、前の時代から現代に残っているテキストは、情報としては古いし、データ総量は現在飛び交っている情報量におよばないかもしれないが、それは「生き残っている」こと自体が、あらゆる時代に通じる普遍性を内包している証だとみなすことができる。古典は、あらゆる情報が「忘却され」、「削ぎ落とされた」なかで、生き残った「重要な記憶」なのだ。 

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情報化社会の中で、自由意志を失わず、自我を保って生きて行くためにはどうすればいいのか?

僕が考える方法は二つだ。

 )賃腓幣霾鵑縫▲セスし、片っ端から忘れていくこと。
◆,覆襪戮まんべんなくあらゆる情報にアクセスすること。

この二つを心がければ、情報の海の中で溺れることはないはずだ。どれだけ情報を詰め込んでも、最終的に不要なものは忘れ去られるという事実は、僕を安心させる。最大容量が決まっていて、「これ以上詰め込んだら脳がパンクしてしまいます」という状況になったら、定期的に蔵でもこもって情報を遮断しなければならない。「ああ、余計な情報をインプットしてしまった。もったいないことをした」というのは、人間には起こりえない。それは朗報である。

膨大な情報にアクセスするとき、一方的な情報にばかりアクセスしていては自由意志は偏ってしまうだろう。たとえば、原子力発電に関する情報にアクセスするときは、「原発肯定派」と「原発否定派」の両方の意見にアクセスする必要がある。その上でどう思考するか? は、自分の脳で考える。それこそが自由意志だ。

自分にとって、不快な情報、無益と思える情報にもアクセスした方が良い、という結論になる。むろん、それは苦痛を伴うかもしれないが、それを乗り越えた者が、本当の「自由意志」を獲得することができそうだ。

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むしろ、これだけの情報にアクセスできる時代に、感謝の気持ちのほうが大きい。情報の海に溺れることなく、あらゆる情報を「削ぎ落として」行くことだろう。


<参考図書>
※記憶の生成に関して


 

プロゲーマー業界が繁栄するためには?

プロゲーマーの梅原大吾の講演動画を見ていた。



梅原大吾は、格闘ゲームの世界で活躍するプロ・プレイヤーだ。いわゆる、「格闘ゲームで食べている人」である。主な収入はスポンサー料。ゲーム関連メーカーにスポンサーになってもらってお金をもらっている。それに加え、大会などでの賞金も収入になる。

梅原大吾は格闘ゲームの世界では「神」と称されるほどの絶大な強さを誇るが、かつて梅原大吾が活躍しはじめた時代、まだ「プロゲーマー」という職業は存在しなかった。ゲームの世界は「単なる遊び」でしかなかったのだ。

いや、いまも、「ゲームによって生計が立てられている」というだけであって、ちゃんとした職業として確立しているかどうかは怪しい。なにしろ、プロゲーマーとして生計を立てることが出来る人は、本当にトッププレイヤー、一握りの人々しかなしえないことだからだ。

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前述の動画の中で、梅原大吾が、「プロゲーマーの世界を、もっと体系的に成立させられるようにしたい」というようなことを言っている。梅原大吾は勝負師であり、プレイヤーだから、あまりそういった「環境を整備したい」というようなことは不得手かもしれないが、「もっとゲームの世界を盛り上げていくためには何ができるか」ということを考えていることは確かなようだ。

「格闘ゲームなんてただの遊びなんだから、それがちゃんと仕事として成り立つわけがない」という意見があるかもしれないが、僕はそうは思わない。たとえば、スポーツだってただの遊びだし、音楽だってただの遊びだし、将棋などもただの遊びだ。「ただの遊びだから職業として成り立たない」という意見は、数々の前例によって否定できる。

格闘ゲームの世界が参考になるのは、将棋の世界かもしれない。将棋の世界は歴史が長く、プロのリーグは制度としてよく出来ているからだ。

プロの棋士となるためには、まず奨励会という組織に入会する必要がある。そこには年齢制限があり、例えば満23歳までに初段に昇格できないと退会処分させられてしまう。晴れてプロになってからも、厳しい実力の世界であり、リーグから降格していくと「プロ棋士」の称号は剥奪される。

年齢制限によって「芽が出る見込みのない」人は早々にあきらめがつくようなシステムになっており、プロとなってからも厳しい実力の世界がそこには待っている。最大の定員数が決まっているため、その定員の中に入れないプレイヤーは存続できない。

しかし、その排他性によって、リーグ全体の水準を高度に保つことができるし、実力の十分ある人はリーグ内にいる限りは生活の心配をする必要がない。良く出来た仕組みだと思う。

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格闘ゲームの大会の賞金は、大規模なものでいくと5000万円以上のものもあるそうだから、賞金だけで食べて行くことも可能だし、十分な賞金を稼いでいれば「プロ」とみなす、というような見方も可能だろう。しかし、仮に将棋の世界がそのような賞金のみだった場合、現在のような盛り上がりになっただろうか?

プロの世界をきちんと整備することも、「遊びを仕事にする」ためには大切なことだと思う。そのために必要なのは、「実力や条件を満たしている者のみ参加可能にする排他性」だと思う。

今後、プロゲーマーの世界がどのように変遷していくか、注目ですね。 



<参考図書>
*梅原大吾氏に関して


 

世界は、どんどんスリムになる

現・アップルのCEOは、ティム・クックという人物である。

ティム・クックは、故・スティーブジョブズが後継者として指名した人物だ。彼は主としてロジスティクス(物流)の分野の仕事をしていた。

現在、アップルの主力商品であるiPhoneやiPadなどの小型電子製品は、高度に発達した物流技術によって支えられている。世界中から集めた部品(パーツ)を、中国にあるフォックスコンの工場に集約し、加工・組み立てを行って、また販売のために世界中にバラまかれる。

アップルはファブレス(工場を持たない)企業として有名で、部品の調達から製造、販売まで、すべての流通を外注で行っている(小売店なども持っているが、販売までの物流網は外注)。では、米国にあるアップル本社では何をしているのかというと、商品の企画・製造、オペレーティングなどを行っている。これが、アップルが「グルーバル企業」と言われる所以だ。自社で完結しているわけではなく、外注によって成り立っているのだ。

自社で工場を持っていないわけだから、当然ながら外部のものを利用して作ることになる。フォックスコンなどはその仕事を一手に引き受けることで大きくなったわけだが、それでも「外注先」の企業にすぎない。実態として、iPhone一台分の利益でみればアップルの取り分が一番多いらしいから、トータルでみればアップルのほうがビジネスとして「おいしい」。

また、フォックスコンは自前で広大な工場と圧倒的な社員を抱えているから、もし最大の「お得意先」であるアップルから干されてしまった場合、かなりのビジネス・リスクを背負う羽目になる。だから、いろいろな企業を買収したり(シャープなど)して、自社ブランドを立ち上げることでリスクヘッジしようとしているのだ。

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つまりアップルは、物流をコントロールし、広大な物流網を確立させることで、リスクの少ないビジネスを展開することができているわけだ。「外注」に特化して、自社では何も持たない。これがアップルが強い理由である。

だが、アップルはさらに利益をあげる余地を残している。もし仮にアップルが自前で工場を持って、自社ですべての製造を行えば、もっと多くの利益をあげることができるはずだ。一般的に、自前でやるほうが外注よりもコストを抑えられる。ただ、それだと時代の変化に対応できなくなるから(動きが鈍くなるから)リスクが大きい。アップルは、確かに利益を出している会社だけれど、さらなる利益を犠牲にして外注をかけているはずだ。

そして、それは賢明な選択である。ことに、この現代においては。

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僕が前に働いていた会社の事業所は、物流のトラック関連はすべて外注していた。僕が物流網をすべて管理し、色々なところと折衝しながら物流を仕組んでいた。

利益を出そうとするときの最大の切り札は「自社化」だ。「今後、この仕事は10年ぐらいなくならなそうだな」と思う仕事があれば、自社化したほうが絶対に利益が出る。コストは半分、いやうまくやれば四分の一ぐらいになるかもしれない。しかし、自社化はやっぱりリスクも大きい。車輛や人も揃えなければならないし、何かトラブルが発生したときも自分たちで対処しなければならない。そのリスクを思えば、外注のほうがいいか、となる。

重視すべきは、利益ではない、とすら最近はよく思う。利益を重視してすべてを自社でやった瞬間、「重い」ものを抱え込んでしまう羽目になり、「身動き」が取れなくなる。

いまの時代、狙うべきは「利益」よりも、「身軽さ重視」に変化しているのではないだろうか?

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世界は間違いなく「外注化」のほうに動いている。人やモノ、情報が世界を駆け巡るようになり、圧倒的にコストが安くなったからだ。

iPhoneを生み出したのは確かにアップル社のテクノロジーかもしれないが、その実現を可能にしたのは、現代の高度に発達したグローバルな物流網に他ならない。現在の技術力を江戸時代に持っていったとしても、iPhoneは絶対に作れない。部品を世界中から調達する必要があるし、その部品の部品も、さらに世界中から調達する必要がある。iPhoneの部品をバラバラにして、それぞれの「ふるさと」に帰る旅をすれば、地球を何周もする必要があるだろう(基本的な部品だけでも、10周はくだらないはず)。

昔と比べるとあきらかに外注の比率が高まっていることは確かだ。この動きはしばらく続いて行くものと推測する。

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卑近な例で恐縮だけれど、僕は今月から東京に引っ越す予定なのだが、もちろんマンションは賃貸だし、家具・家電なども「レンタル」しようと思っている。東京で車を持つことほど金のかかることはないので、「カーシェアリング」のサービスに登録しようとも思っている。

情報技術、物流技術が発達した現代だからこそできる選択だと思う。世界は、これからどんどんスリムになることだろう。 

利益よりも、身軽さ重視。これが未来である。 


<参考図書>


 

映画「沈黙」の現代に通じるメッセージ

マイケル・スコセッシ監督の映画「沈黙」を見て来た。

映画『沈黙‐サイレンス‐』公式サイト http://chinmoku.jp/

遠藤周作の同名の小説をスコセッシが映画化した作品になる。内容は、江戸初期の島原の乱以後、キリスト教徒の弾圧を幕府が押し進めていたとき、日本にて連絡の取れなくなった宣教師を探しにポルタガルから二人の宣教師が捜しに行く、という物語。

欧米人、しかもカトリックであるスコセッシが、日本人原作で、しかも日本を舞台にした小説を映画化したということで、話題になった。しかも、スコセッシはこの企画を三十年近く温めていたらしい。映画自体も二時間半を超える大作で、映画館で見ていてそれなりにくたびれた。しかもとんでもなく「重い」映画だった。

日本にキリスト教を布教するために渡来した宣教師の受けた迫害、そして百姓などの「隠れキリシタン」が受ける受難。タイトルの「沈黙」の由来は、「このような受難に対し、お前たちの神(デウス)はなぜ、『沈黙』しているのか」から来ている。このような受難に際しても、なんら手を差し伸べはせず、沈黙しているじゃないか、と。

映画の中で、幕府側の論理も説明される。これは歴史的な経緯からも追うことができるのだが、簡単に言うと、幕府にとっては統治上の危険性があるため、キリスト教を受け入れるわけにはいかない、というのだ。宣教師や隠れキリシタンが受ける受難は艱難辛苦を極めるものだが、一方で、棄教しさえすれば生命は保証されるようにも描かれている。どちらかが一方的に悪だと描かれていないのもこの映画の評価を高めていると思う。

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少し俯瞰して、宗教というものが果たす役割というものについて考えてみる。

人類の歴史は、宗教の歴史だ。人類が誕生してから何万年も経過しているが、最古のものでは3万年ほど前に、頭部がライオン、身体が人間の像が発見されており、詳細はわからないものの、これは「神」を偶像化したものではないか、と考えられている。

宗教は、人々を結びつけ、結束する効果がある。宗教がなければ、人々は小さなグループでしか行動ができないが、特定の宗教を信仰することにより、より多くの人を結集することができる。そうして、「宗教を持つ人類」が、「宗教を持たない人類」を淘汰してきた。宗教によって得た「力」によって、常に人類は争いをしてきたのだ。

結果的に、江戸初期に幕府がキリスト教を食い止めたことで、現代日本において、キリスト教はマイナーな宗教となっている。もし江戸初期に宣教師を迎え入れ、グローバル社会に身を埋めていたら、いまの日本はないだろう。それが良い日本か悪い日本かはもちろん断定できないが、少なくとも今のようでなかったことは確かだと思う。

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いい映画は、その世界を「体験させる」。作者の主義主張を押し付けるのではなく、ただその世界を「通過させる」。

この映画を見た人は、さまざまな立場の人間を通じて、色々なことを思うだろう。信仰とは何か、統治とは何か。このとき日本がしたことは正しかったのか、間違っていたのか。 



<参考図書>
*原作小説


 

ファックスは不滅

こんな記事を見つけた。

 痛いニュース(ノ∀`) : 「この世からFAXを消し去ってください」匿名ブログが話題に 小学校の欠席連絡はFAXのみ メール不可 - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1912863.html

この記事によると、学校への連絡の際、電話やメールでは受け付けてもらえず、ファックスでないと受け付けてくれない、とのこと。そのために固定回線やファックスを購入する必要がある、と。

「いまどき、ファックスもないでしょ」という主張らしいのだが……。まあ、一理あるけどな。こんなインターネット全盛の時代に、電話回線を利用したファックスの需要がどこにあるのだろうか?

たぶん、「連絡をまわす」のに一番便利な方法はLINEのグループチャット機能だろう。LINEだといろんな人に一斉に送ることができるし、レスポンスもしやすいし。その際に何か疑問点があれば、全員で共有できるので、これほど便利なツールもないだろう。会社でも、連絡程度の情報共有にはLINEをもっぱら利用している。

でも、ファックスはファックスで現役なんですよね……。仕事の上では。

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業務上、ファックスが好まれる事例は現代でもある。毎日送られてくる報告だったり、業務連絡だったりは、メールや電話よりもファックスが好まれる場合がある。電話が疎まれる理由は明らかだろう。電話によって業務が中断されるから、文書で送って欲しい、というわけだ。これはわりと簡単。

メールは万能ツールのように思えるが、メールで相手のアドレスを指定して送る場合、毎日の報告だと、つい送信先のうちの一人を削除してしまったりすると、次の日からその人宛でメールが送られなくなったりする。気付いて修正したりすれば問題ないのだが、気付かずに放置していると、永遠にその人にはメールが届かなくなってしまう。

メールのグループ機能を使えば良いではないか、と思われるかもしれないが、グループ機能だとそのアドレスの中に誰が含まれているかが見えにくいし、ついうっかり送信者を削除してしまう可能性は否定できない。まあ、メールは使ってはいるけれど、万能ではない、ということですね。

それに対して、ファックスの場合は物理的に相手に「紙」という形で届けられるから、ミスが少ない。例えば、上記の「毎日送信される文書」などの場合は、事務員がファックスで来た文書をキチンとファイリングしておいてくれれば、事務所にいる誰もがそれを参照できる。こちらのほうが漏れが少ない場合もある。

ファックスで送られたきた書類を、そのままホワイトボードに貼って全員が見られるようにする、という使い方もありますね。まあ、これも、「メールを印刷する」ことをすれば解決する問題なのだけれど……。

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まあ、僕もどちらかというとメール派だけど。しかし、仕事をする上では、まだまだファックスって現役だよな。業界にもよるかもしれないけれど……。

連絡網ぐらいならLINEでやって欲しいですよね。 

「仲間内」要素の大切さ

母がだいぶ前からジャズをやっていて、もう10年ぐらいになる。ちょっと名の通ったミュージシャンだった人が近くに住んでいて、その人がレッスン教室を開いていたので、そこに通い始めたのがきっかけだったみたいだけれど、次第に知り合いが増えていって、今では全然知らない人とセッションできるほどになっている。依頼があって出演する、というのが最近では増えてきているみたいだ。

とはいっても、趣味の延長線上なので、観客は大抵は仲間内。中にはプロで活動している人もいるので、純粋な「観客」もいることはいるのだが、半分以上は仲間内だろう。本人は趣味でやっているのだからそれでいいと思っていて、楽しそうに活動している。

僕はインターネットで不特定多数の人に音楽や文章を公開したりしているのだが、どちらかといえば「外」に開かれたところで作品を発表している、と自己評価している。だけど、最近、やっぱり「仲間内」要素がないとなかなか面白くないよな、ということを思い始めた。

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ドワンゴ会長の川上量生がスタジオジブリの鈴木敏雄の元でカバン持ちをしていた時、鈴木Pは雑談ばかりしていて、しかもその対象が宮崎駿や自身の周りに関連する人たちのことばかりらしく、非常に「世間が狭い」と評していた。また、宮崎駿も、「世界に冠たる映画監督」という感じではなく、「ちょっと気難しい町工場の親父」ぐらいの感じでやっている、ということも同時に書かれていた。

やっぱり何かを作ったり、活動したりする上では、こういう「仲間」っていうのは実は大切なことなのかもしれない、と最近思うようになった。不特定多数の人たちに、「どれぐらい」受け入れられたか、ではなくて、ごくごく少数の、仲間内に対してモノを作る。褒められることもあればけなされることもあるだろうけれど、そういう「仲間内」の感覚を最近は失っていたのかもしれないな、とふと思った。

同人界隈のリアルイベントが盛んなのも、結局、「仲間内」で顏を合わせる場だからなのではないだろうか。

今まで「仲間内」なんて別に関係ないよな、などと思っていたけれど、やっぱりインターネットの世界でも仲間って大事だな、と思った次第です。 

行き先の定まらない文章術

文章を書くのにはコツがある。文章が書きづらくなったとき、なるべくこの方法を思い出すようにしている。そして、このコツは、他のあらゆることに応用できる。

文章を書く上で一番大切なことは、とにかく書き始めることだ。最初の一文を書き始める。そのときに注意しなければならないのは、まずひとつの文をすべて頭の中で考えることだ。最初の文章を頭の中で考える。その時に、小さく口に出してもいい。最初に、ひとつの文全体を、頭の中でつくってしまう。

そしてそれをなぞるように、紙に書いたり、パソコンで打ったりすればいい。ひとつの文を書き終えてから、次の文を考える。そしてまたそれをアウトプットする。それをずっと繰り返す。書いていくうちに新しい発想が浮かんでくるから、なるべく脱線しないように注意しつつ先へと進んで行く。文章全体のことはあまり考えなくてもかまわない。書いているうちに、自分が何を言いたかったのか、どんどん自分で理解していく姿勢が大切。

要するに、文章を書くというのはとてもシンプルな行為だということだ。誰だって、他人と会話はできる。しかし、文章が書けない人というのは驚くほどたくさんいる。僕は、文章が書けない人は、シンプルに文章を書こうしていないからなのでは、と考えている。 自分の頭の中で文章を作ってからアウトプットするようにすると、自然と文章の構造がシンプルになるから、どんどん先へ先へと書き進められるのだ。

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マンガや小説などを読んでいて感じるのは、事前の構想が込み入っている作品ほど、展開に無理があるように感じる。事前に計画を立てることは大切だとは思うが、もっと大事なのは、作りながら考えること。作りながら、どうすれば自然な展開になるかを考える。作りながらどんどん新しい発想が浮かんでくるから、それを取り入れる。そうやって作られる作品が『良い作品』なのでは、と思うようになった。

どんな人にだって作品は作れる。大事なのは、シンプルに考えること。内容が込み入っていて複雑な作品は、それだけ「言い訳」が多い作品なのでは、と感じてしまう。
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