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就職活動がしんどいのは当たり前

そういえば四月になってました。東京の街を歩くと、至るところで新入社員らしき人を見かけます。不思議なもので、「あ、この人は新入社員なんだろうな」というのはちょっと見ただけですぐにわかる。リクルートスーツを着ているからだろうか。

最近はそうでもないそうだが、僕が入社したのは2011年の春で、就職活動をしていた2010年ごろというのはいわゆる「就職氷河期」と呼ばれていた頃で、まわりには100社も面接を受けている猛者がゴロゴロいるような状況だった。

最近はどちらかというと人手不足のところが増えているそうだから、学生のほうが有利とされているけれど、それでも人気のある企業は競争率が高いことに変わりないので大変なことは確かだろう。いまリクルートスーツを着ている人は、みんなそうした競争を勝ち抜いてきたのだ。

ところで就職活動がしんどいのは当然のことで、なぜなら就職活動とは営業活動の一種だからだ。「新卒採用枠」というのは一種のキャンペーンのようなもので、そのキャンペーン期間中だけ「特に実績がなくても就職できる」枠が発生し、そこにこぞって学生が応募する。

そういう仕組みだと考えると、なかなかうまくいかないのも頷ける。多くの大学生は、アルバイトこそしたことがあっても、何かものを販売したりした経験のある者は少ない。就職活動とは、「自分を売り込む場」そのものだからだ。

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新卒一人を採用するのはなかなか高い買い物だと思う。手取りが18万程度だとしても、なんだかんだでその倍近くの金額を会社は負担することになるわけで、月40万程度だとしたら年間で480万円。そんな「自分」という商品を、他の学生と競争しながら(コンペ)勝ち取れというのだから、確かに大変な話だ。

僕はよく新規の営業に行くことがあるからよくわかるのだが、全くの新規の相手にものを売り込むというのはハードルが高い。通常、ある程度は人間関係が作れないとなかなかものは売り込めないものだ。ましてや、年間480万円の、かつ一方的に打ち切れない契約をしようというのだから、企業側が慎重になるのも当然だ。

通常、新規でものを売り込みに行く際には、こちらのメリットばかりをズラズラと並べ立てても効果は薄い。むしろ、「セールストークをされている」と思われて、逆効果だ。効果的なのは、「売り込みにきている」と思わせずに、相手と自然な会話をし、相手のニーズを引き出すことだが、就職面接ではなかなかそれも難しいだろう。でも、それを意識するだけでだいぶ変わってくるとは思う。

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ものを売るというのは商売の基本なので、どのような職種の人であれ身につけておいて損はない能力なのではないか、とよく思う。相手の要望をそのまま聞き出すだけなら誰でもできるし、ましてや自分の商品をそのまま語るだけならパンフレットを渡すだけでいい。

重要なのは、相手の悩みを聞き取ることであり、その解決策を提示することだ。これが自然な流れでできるようになれば立派な営業になれる。だが、相手は重要なことを会ったばかりの人に明かすはずがないから、それは一筋縄ではいかない。そこをなんとかするのが営業の力、というわけだ。

なんにせよ、人生で最初に行った営業活動が「就職」だという人は少なくはないはずだ。これから長い社会人生活をともに楽しんでいきましょう。 

「夢を与える人間は夢を見てはならない」

綿矢りさは昔から好きな作家だが、近年になってその確信は揺らぎのないものとなった。

そんな彼女の作品、「夢を与える」という小説をあらためて再読した。

夢を与える (河出文庫)
綿矢 りさ
河出書房新社
2012-10-05



ネタバレというほどのネタバレはしないが、そういうのが苦手な方は是非読み飛ばして欲しい。この作品は、子役のタレントが成功をおさめ、そして没落していくさまを描いた小説だ。

はじめて読んだのは数年前だが、そのときの読後の感想はわりとしらけていて、「まあ、ありきたりの筋書きの小説です」ぐらいの感想でしかなかったのだが、あらためて再読してみるとものすごいパワーを持った小説ということがわかった。読書においては、やはり「再読」の重要性をあらためて認識した。

主人公の夕子は、最初、「スターチーズ」という国民的な食品メーカーの主力商品のイメージガールとして採用される。小さなうちから定期的に成長を追いかけるCM構成にすることで、商品がいかに「安定」していて国民に愛され、ともに成長しているか、ということを表現しようというコンセプトである。

とはいえ、無名の新人からのスタートなので最初の扱いはきわめて地味で、みんな「顏は知っているもののよくは知らない子役の子」という印象からのスタートになる。しかし、小学校、中学校、高校と進学し、キャリアを積み重ねていくに従って徐々に人気を集め、やがて完全にブレイクする。

ところが、終盤になると、あることをきっかけとしてスキャンダルを起こしてしまい、没落していく様子が描かれる。最初に読んだときはこういったあまりにも「わかりやすい」筋書きに感情移入することができず、現実感も感じられなかったので「まあ、こういう作品もあるよな」ぐらいの感想しかなかった。

しかし、あらためて再読してみると、これがものすごく心に刺さったのである。なぜかはよくわからない。自分に照らし合わされる人生経験でもあったのかもしれないが、よくわからない。息をつく間もなく、没入して読んでしまった。

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本書の読みどころはいくつかある。スキャンダルを起こして芸能界を干されてしまう物語、と読むのが一般的な読み方だろう。しかし、今回再読してみて、「スキャンダルを起こして芸能界を干された結果、人間性を取り戻す物語」というふうに僕は読めたのだ。

芸能生活が絶頂のときには、睡眠時間もほんの数時間しか取れず、ふらふらになりながら激務の日々を送る。街中で、夕子の姿を見ない日はない。食事の味さえよくわからない日々。

芸能界を干され、同業者からも「もう終わったな」と見られ、完全に見放されたかのような終わり方をするので、深い喪失感を覚えるのだが、同時に、「べつに、芸能界で生き残る必要なんてないんじゃないか」と客観的に見ることもできる。芸能界でしか生きられない人というのももちろんいるのだろうけれど、夕子はそうじゃないだろう、と読むことができたのだ。

あらためて、フィクションの持つ力の強さを感じる。フィクションというのは、「物語の器」であって、決して「作者が作り出した世界」というだけのものではない。フィクションというのは、言うなれば虚構であり、嘘である。だが、嘘は嘘でも、ただの嘘ではなく、「IF」の嘘なのだ。「もし、こういう人が、こういう状況だったら」とことを示し、読者に提示するのが虚構の物語、すなわちフィクションの力だ。ある意味、今回の再読で、あらためて夕子という登場人物に本当に没入して物語を読むことができたのだろう。

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「夢を与える人間は、夢を見てはならない」というのは、作中である人物が言うセリフだ。そのとおり、人の夢であり続ける限り、その人自身は夢を見てはならない。あくまでもキャストになり切る、ということだろう。

バッドエンドとも取れる本作だが、再読してみると、個人的には希望を感じさせるような、そんな終わり方にも読める。興味のある人は是非読んでみて欲しい。

誰が聖書を作ったか?

キリスト教の聖典は聖書だ。聖書を大別すると、旧約聖書と新約聖書に分けられる。旧約聖書とは、キリスト誕生以前の神と予言者の契約をまとめたもので、新約聖書とは、キリスト誕生以後の、キリストの言葉や奇蹟などをまとめたものである。

一般に、教典などというと教祖が教義を伝えるために編纂したものと思われがちだが、実はそうではなく、新約聖書はキリストの弟子たちがキリストの死後にまとめたものがベースとなっている。キリストは一度目の復活ののちに、再度また復活するとしてこの世を去ったが、いつまでたってもキリストが復活しないので弟子たちがキリストのことを記述して残しておく必要があると考え、記録したものとされている。

キリストの弟子たちがそれぞれのキリストに関する記述をまとめたものが新約聖書である。それぞれの著者が記述したものを「福音書」と呼ぶ。マタイによって書かれた福音書は「マタイによる福音書」、ルカによって書かれた福音書は「ルカによる福音書」などだ。

それらを編纂したのは、古代の教会である。各弟子たちが記述した「福音書」をまとめ、ひとつにしたものが「聖書」である。つまり、現代でいうところのアンソロジーに近い。

ただ、このやり方だと当然、選ばれなかった「福音書」もまた存在する。少し前に、イエスを銀貨30枚で売ったとされる裏切り者ユダの「ユダによる福音書」が発見され、話題になった。ユダによる福音書は最近になって発見されたものなので、聖書にはもちろん組み込まれていない。だから、ユダによる福音書は「外伝」扱いされているのだ。

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キリストが生きていた当初は、キリスト教は単なる田舎のいち新興宗教にすぎず、まさか全世界でこれほどまでにメジャーな宗教になるとは誰も予想してなかっただろう(全知全能の神は知っていたかもしれないが)。世界でいちばんメジャーな宗教と言ってもいいかもしれない。

キリスト教がこれほどまでに力を持つようになったのは、ひとえに聖書の力が大きいのではないかと思う。14世紀にグーテンベルクが印刷技術を発達させて以降、世界で最も多く出版された書籍がキリスト教の聖書だという。キリストが各地を巡って教義を広めていただけでは考えられないほどの多くの人にその思想は伝えられた。

となると、ここまでキリスト教という宗教をメジャーなものに押し上げたのは、やはり教会による聖書の「編纂力」がすさまじかったから、といえるだろう。もはや、キリストの当初の意図すらも超越していたに違いない。キリスト教は、キリストが「作った」のではなく、教会が「作った」のだ。

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ネットでこんな記事を見つけた。

イエス・キリストの顔を科学的に再現したらこうなった / ネットの声「誰?」「描き直されたフレスコ画に似ている」 | ロケットニュース24 http://rocketnews24.com/2015/12/16/680025/

キリストの顏を科学的に再現してみると、こんな人物だったのではないか、というのを研究した似顔絵。一般的なイメージだと、キリストは白人、長髪なのだが、それは中世の絵師たちによる創作なのかもしれない。

キリストの最もメジャーなお祭りはクリスマスだが、あの雪の中の納屋でキリストが生まれたとされるイメージも、事実とは大きく異なるだろう。キリストは現在でいうところのイスラエルで生まれているので、「雪の中のイメージ」は完全な創作だ。どちらかというと、中東のイメージのほうが現実的だろう。

宗教が共同幻想である、というのは誰もが知るところだが、キリスト教ほどそれが成功した事例はないのではないか、と思う。キリストを神に「押し上げた」教会の力、そして聖書という出版物の力がそれを可能にしたのだ。 

無償の投資のすすめ

世の中には品の良い人がいる。どんな人、どんな時でも笑顔で丁寧に接する人のことだ。その人に会った人は、その人に好印象を抱く。いわゆる「腰が低い人」のことだが、社会的に地位が高い人でもこういう人は多い。むしろ、経験上は、社会的な地位が高い人ほど「品の良さ」を兼ね備えている。

だが、僕はこれは投資の一種だと考えている。相手に対してにこやかに接することは、投資なのだ。とりあえずこちらから提供しているものは何もないのに、相手に好印象を与えることができる。相手に好印象を与えることができれば、繋がりを持つことも可能になるだろう。

つまり、生存戦略を思えば、「周囲に対してにこやかに接する」のが最適解なのだ。進化論者のリチャード・ドーキンスは、著書「利己的な遺伝子」で、生存戦略は「しっぺ返し戦略」が最も効率の良い戦略だと紹介している。「しっぺ返し戦略」とは、最初は相手に友好的に接し、相手がこちらを裏切ったらこちらも裏切り返す戦略のことである。あらゆる生存競争では、このシンプルな戦略が最も有効なのだという。

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社会的地位の高い人やお金持ちは、相手に「貸しをつくる」のが非常にうまい。金銭のやり取りのみならず、生きていく上で「便宜を図る」ことで、相手に貸しを与える。「貸し」を与えられた人は、その人に「借り」をつくることになり、精神的に服従せざるを得なくなる。

相手に「貸し」をつくるのが上手い人は、きっと「ここだ」という絶妙なタイミングでその「貸し」を返してもらうのだろう。ひょっとすると、相手からは何倍にもなって返ってくることがあるかもしれない。そういうのを期待して貸しをしているわけではないだろうが、結果として、「借り」のある人は「返す」、そういうことが起きる。

世の中には図太い人もいるので、「借り」があっても返さない人がいるかもしれない。最も、金銭以外の「貸し」は返済を前提にしていないので(あくまで贈与ベースだから)別に返さなくとも問題はない。しかし、「借り」があるのにそれを無視し続けると、だんだんと社会的な信用を失っていってしまう。

よく、「あいつはずるいけど要領がいい」というタイプの人がいる。一般には「世渡りがうまい」と認識されているような人だが、長期的に見ると「ずるいけど」と看過されているわけだから、いつか信用を失ってしまう。一方で、「あの人は徳があるな」と思われれば、長期的にはリターンが大きい。一般に成功者と呼ばれる人は、あらゆる形で「貸し」を作っているに違いない。

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社会的生活を営む上で、「コネクション」というのはとても大事だ。分業がこれほどまでに発達した社会では、自分ひとりでは何もできないから、ビジネスのコネクションがないと何もできない。

だが、「コネ」を使うというと、通常は、こちらから何か「お願い」をするためにコネを使うと思いがちだ。だが、上記のような考察でいけば、相手から施しを受ければ受けるほど社会的な地位を低下させる要因になるから、「コネ」を使うのは好ましくない、ということになる。

ひょっとすると、色々な形で相手に「貸し」を作っておくのが一番いい戦略なのではないか、と思う。相手から「借りて」ばかりでは、いつしか破産してしまう。いかにして相手に「与える」か、それを考えて生きて行くのが大事だろう。

社会的地位の高い人や成功者は、その成功の影でいろんな人に支えられながら成功を手にしている。おそらく、相手に「貸し」をたくさん作って、投資しているからに違いない、と思っている。 

損をしない本の買いかた

僕は本が好きだ。月に10冊ほどの本を読むので、年間では120冊を超える本を読む。読書好きは世の中にたくさんいるからあまり大きな声では言うことはできないのだが、平均的な日本人よりは読んでいるといえるだろう。

基本的に本は買って読む。それも、古本より新品の割合のほうが多い。だが、本は安くはないので、結構な出費になる。一般に流通している書籍は平均すると1000円以上はするから、仮に1000円だったとしても月に最低一万円。多い月では、二万円近くは使っているような気がする。

お金を出して買っているのだから、なるべく損のしない買い方をしたい、と思う。ただ、こうやって自分の金で本を買う習慣をつけると、しょうもない本は読まないように用心深くなってくるから、個人的には良い習慣だと思っている。

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本を買う理由は、本を読み返す必要性があるからだ。もちろんすべての本を読み返すわけではないが、好きな本は二回も三回も読み返す。

だが、ここでひとつルールがある。それは、一度読んだら、その本は365日間は読み返さない、という制限を設けている。つまり、どんなに気に入った本であっても一年間は全く読み返すことはしない、というルールを自分に課している。

僕は読んだ本はすべて読書メーターというサイトに登録しているから、どの本をいつ読み終えたかがネット上でわかるようになっている。再読すると決めた本は、その「一年間」の期日が来るまでは読み返すことができない。

なぜそんなルールを作ったのかというと、本の読み返しを効率よくするためだ。人は、どんなに印象に残った内容の本でも、一年も経てばほとんどの内容を忘れてしまう。期間を置かずに読み返してもいいのだが、なるべく本にかけた金銭的な投資を思うと、初読時のような驚きが欲しい。また、一年も経つと自分という存在が確実に変化しているので、本そのものの解釈が変わってくる。それを楽しむのである。

僕は本を読むときにはビニールのふせんを活用して、気になったところにふせんを貼る。あとからそのふせん部分を見返すと、どういうところが気になったのかがわかるようになっている。 一年経ってから再読するときに、このふせんが重要になる。「一年前は、こういうところが気になったのか」というのがわかるようになっていて、逆にいまの自分に関心の深いところがあっさり飛ばされていたりする。そういう対話ができるようになるのだ。

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たまに「おすすめの本はないか」「最近読んだ本でいい本はなかったか」という質問を受けるのだが、これは難しい質問だ。相手の知的な背景がよくわからないし、嗜好がわからない場合には特にそうだ。僕も、自分がどういう本が好きなのかは厳密にはよくわからない。とにかく大量に読んで、選別していくしかない。

「金を出したからには必ず読む」「良い本は時間をおいてまた読み返す」この二つの原則から導き出される結論は、「本は買って読むべし」ということだ。それも、一度にたくさん買うのではなくて、一冊一冊買っていったほうがいい。僕も、本を買う際はなるべく2、3冊まとめて買うのではなく、一冊読んだらまた一冊、という具合に一冊ずつ買うようにしている。そのほうが、「真剣勝負」のような感じがするからだ。

やっぱりそうやって考えていくと、書籍代というのは無駄なようで無駄ではない。良い本を買えば、3度、4度も読み返すことができるのだから、安いものだろう。ふせんを挟むのを習慣にするとなおのことだ。

一番無駄な買い方は、一気に何冊も買って、「積ん読」しておくことだろう。本は一冊ずつ買って、大切に読む。それが損をしない秘訣だ。 

シンゴジラとはなんだったのか

シンゴジラのDVDが発売となりました。そして買った。なんか特典映像がついているというので安心してたんだけど、メイキングなどの特典映像がめっちゃ入ってるやつはブルーレイの3枚組だったらしいですね。うっかり通常版を買ってしまったので、そちらも合わせて買おうか悩み中。

さてシンゴジラだけれど劇場で3度見て、DVDを買ったので無論また見た。家で見るとまた新鮮でいい。映画館で見ると迫力はあるのだけれど、細かいところをやっぱり見落としていて、家の液晶で見るとそのあたりが補完できるのでDVDで見るのもやっぱりいいもんだな、と。いい買い物をしたな、とあらためて実感した。

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公開当初はかなり話題になったので、見に行った人も多いのではないでしょうか。映画そのものの最終的な興収は80億円だったみたいです。エヴァンゲリオン新劇場版の「序」が20億円とからしいので、記録的な大ヒットといえると思います。 

シンゴジラを知ったのは、仕事中に営業先に向かう途中のラジオだったのだけれど、正直、シンゴジラというタイトルと、庵野監督が実写映画を撮るという前情報だけではあまり期待はできなかった。アニメ監督で実写映画を撮って成功した人は少ない。しかもその内容がゴジラということだったので、一体これはどうなんだろう、と。これはちょっと様子見かな、と思っていた。

ところが蓋を開けてみるとネットなどを中心に大好評で、「実写版エヴァンゲリオンだ」という意見が多かった。それならばということで見に行ってみるとこれがとんでもなく面白い作品だった。 まず圧倒的なセリフの量、文字の量、展開の量で、とにかく「質量に圧倒された」感じ。それは見に行った人はほとんど感じたことだと思う。

そして一回では満足できなかったので二回目を見に行ったのだけれど、僕は二回も同じ映画を見に行くことはまずない。それでも、詰め込まれている情報の量があまりにも多いので、二回目も消化しきれず、また行きたくなった。それで少し悩んだが、三回も行ったのだ。

正直、こんなに凄い作品だというのは予想していなかったのだけれど、まだその余韻の中にいる。その余韻の中にいながら、DVDまで出てしまったので、この作品を本当に「消化」するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。

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ところで、 この映画に否定的な意見があることもまた事実である。意外にも、軍事関連や科学方面での矛盾点の指摘は少ない。識者が大真面目にこの映画の「現実的な」指摘をしているのも見たが、かなり重箱の隅をつつくような意見だったので、エンターテイメント作品でこのレベルに仕上がっているということは間違いなく及第点をはるかに超越しているといっていいだろう。綿密な取材の賜物だと思う。

友人とこの映画について少し話したのだが、多いのは「なんとなく刺さらなかった」というものだ。「情報量が多いので疲れる」という意見も。こういうのは「だったら見なければいい」と却下する人も多いが、こういう意見ももちろん立派な意見だ。「何かはわからないが、刺さらなかった」というのも意見としては尊重すべきだ。「何かはわからないが、刺さった」人も存在するのだから、逆もまた然りである。「それが何か」というのは、後でゆっくり考察していけばいい。

もちろん僕は「何かはわからないが、刺さった」人の一人だ。原因は不明だが、とにかくこの映画が最高に面白いと思った。庵野監督やスタッフ、キャストは、壮絶な現場で凄いものを作ったと思う。これからもまだ、堪能させて頂きたいと思っている。

では何がそんなに「刺さった」のか。あらためて考えてみることにしたい。

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僕はどんな映画でもそうなのだが、「好きな映画」というのは「好きなシーン」が多い映画、というように解釈している。DVDで所持している「好きな映画」は、「好きなシーン」をやたらとリピート再生してしまう。僕の好きな映画に「プライベート・ライアン」という戦争映画があるのだが、あの映画の冒頭20分は「映画史に残る戦闘シーン」と言われていて、あのシーンだけを繰り返し何度も見た。映画自体ももちろん何度も見たのだが、あのシーンは特に何度も見たのでほぼ完璧に脳内で再生できる。

「シンゴジラ」は、そういった「好きなシーン」の数がとにかく多い。ネタバレになるので詳細を書くことは控えるが、とにかく冒頭の会議のシーンから終盤の作戦まで、好きなシーンのオンパレードである。特に、軍事行動関連のオペレーションの部分は震える。そのあたりは、軍事オタクにも評価されている通りだ。

シンゴジラは、「仕事の物語」だと思った。あの映画で貫徹されているのは、徹底的なまでのプロフェッショナル精神。誰もが、役割を割り当てられていて、「ゴジラを撃退する」という大目標に向かって邁進する。言ってみれば、ただそれだけの映画である。

シンゴジラの主人公は矢口蘭堂という政治家だが、彼が戦闘機に乗ってゴジラにミサイルをぶち込むわけではない。彼はあくまで政治家として、官僚たちを引っ張って行く存在として映画に存在する。官僚は官僚で、化学分析から物資の手配まで、あらゆるコネを総動員して調査・分析・実行する。自衛隊は、作戦の立案を行い、もちろん現場のオペレーションも担当する。誰もが、自分の役割をわかっていて、それをプロフェッショナル精神溢れる仕事ぶりで貫徹してみせるのだ。

この映画の「仕事ぶり」はすさまじく、登場人物の仕事をしている以外の姿はほぼ描かれない。本当に少しだけ、家族の存在をにおわせる程度で、家族の存在は徹底して排除されている。ハリウッド映画の場合、もっと主人公は明確に存在していて、家族の姿があって、家族と国家のために戦うとか、そういう描かれ方をするだろう。シンゴジラの登場人物は、すべてが職人肌で、プロだから仕事をする、それだけの論理で動く。海外ではこの映画はあまり理解されなかったというが、それはなんとなくわかるような気もする。

というわけで、この映画が「刺さった」人は、おそらく、登場人物の仕事ぶりに鼓舞され、テンションがあがったのではないだろうか、というのが僕の推測。言ってみれば、「プロフェッショナル 仕事の流儀」のゴジラ版である。ありとあらゆるプロ集団が、知恵と技術を結晶してゴジラを倒す。そういう映画である。

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この映画が外国人にウケなかったのは当然で、つまり、日本人による、日本人のための映画だからだ。ゴジラが震災のメタファーなのは描かれ方からすると当然で、「震災後の日本」を描いた作品ともいえるだろう。この映画が「刺さった」人は、「まだ日本も捨てたもんじゃないな」と思いたいのだと思う。

この映画をみて、「明日からまた仕事を頑張ろう」と思いたい。自分はそういう映画だと思いました。 

組織の内在的ロジックをさぐる

佐藤優の本を読んでいると、よく「内在的ロジック」という言葉が出てくる。世間一般ではあまり聞かない言葉だが、佐藤優は多用する。佐藤は外交官として外務省に勤務していた経験があり、その当時の「霞ヶ関」や「永田町」がどういう論理で動いていたのかを知っている。

佐藤優は背任容疑で五百日以上も拘留された経験もあるので、東京地方検察庁のロジックもわかる。組織というのは、理屈で動く。だが、理屈というのはひとつとは限らない。日本には日本のロジックがあり、中国には中国の、アメリカにはアメリカのロジックがある。重要なのは、その組織がどういうロジックで動いているのかを把握することなのだ。

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新しい会社に入社してからというもの、週に一度以上のペースで同僚と飲みに行っている。飲み行った先ではそれは雑多な話をするのだが、社長や会社についての話も多く出る。

僕はそれほど目上の人に怒られたりしたことがない。要領が良い奴だと思われていることも多いのだが、組織の内在的ロジックに注意を払えば、標的とされることは少ないのではないか、と思う。

僕は、会社員は、どこまでいっても会社に貢献している人間が正義だと思う。努力しているとかそういうことではなく、その社員が「どれだけ稼げるか」、ロジックはそれだけだ。会社員の内在的ロジックは、究極的にはこれだけである。

間接部門も、営業も、現場部隊も、それは全く変わらない。その人が、どれだけ稼いでこられるか。会社員の最大の内在的ロジックはこれに尽きる。

その「稼ぐ」という行為を実現するために、社長なら社長の方針があり、基本的にはそれに沿った形で仕事を進めて行く必要がある。僕がいま所属している会社は、同業他社からするとかなり高額なサービスを提供しているのだが、社長はとにかく値下げして提示することを許さない。高いことは承知で、それに見合ったサービスを付加しろ、と、ただこれだけを言うのである。

会社の内在的ロジックに加え、社長の美学を考えていくと、だいたいその組織はどういう論理で運営されているのかが見えてくる。あとは、それに沿って動くだけだ。その原則を守る限り、組織から睨まれることはない。ある意味で、「自分を捨てる」ことがとても大事になる。

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なんだか宗教的だと思われた人はいるだろうか。その通り、会社とは宗教なのだ。 本当に宗教じみている会社も世の中にはたくさんあるが、わりと普通な顏をしている会社も、ある同一の目的のもとに人々が集まり、社会的な活動を行っている以上、宗教的だといえる。

宗教的だと敬遠するのではなく、宗教的であるということをメタ的に自覚した上でどう動くか。それができる人が、内在的ロジックを踏まえて行動できる人になるだろう。

将棋からまなぶ

映画「三月のライオン」を観てきました。元々好きだった作品というのもあるし、友だちの「ぼくのりりっくのぼうよみ」が映画主題歌を歌っているので見に行きたかった、というのもある。羽海野チカによる原作マンガがアニメ化され、映画にもなり、盛り上がっているようで何よりだ、と思う。

三月のライオンは将棋マンガである。あまり本格的に将棋のことにクローズアップした内容ではないが、将棋を題材にしている作品だ。けっこう将棋を題材にした作品は多いし、AI将棋などが流行ってもいたから、あらためて将棋って結構メジャーなんだな、と思う。

僕は将棋はぜんぜん指せないが、たまにプロの対局の棋譜を見る。プロの対局は面白い。最初は定石通りに指していくのだが、だんだん定石から外れていって、混戦に持ち込んでいくと先がどうなるのかわからなくてハラハラする。棋士たちの脳内はいったいどういう状態になっているのだろうか。

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将棋は「守り」と「攻め」がはっきりわかるので、けっこう素人でも楽しめる。スポーツ観戦に近いかもしれない。作戦を立てて相手陣営に攻め込んで行く感じは、サッカーのようでもある。

もちろん将棋は両者が同じ数の駒を持って対戦するボードゲームだから、持っている資源は互いに同じである。だが、持ち駒が少ない状態で攻め上がったりするのをみると、「え、こんな状態で攻めるの!?」という驚きがある。

羽生善治の将棋は本当に凄い。持ち駒がピッタリ無くなる、無駄のない将棋である。「こんな状態で攻めるの!?」から、どう生きてくるのかわからないような奇手を打ち、最終的にはその駒が生きてきて相手を詰ませる。発想の飛躍が凄い。それは俗に「羽生マジック」と呼ばれる。

どんな戦略でも、ロジカルさは必要だ。理論を積み重ねていって、ある結論を導き出す。しかし、羽生の将棋の凄いところは、それがどう今後に繋がるのかわからない手を指すことだ。その場はロジックでは説明ができない。大盤解説が解説に困るような奇手を、ここ一番というタイミングで指す。しかし、「後になって」それが決定的に詰みに寄与していることがわかる。その感覚が天才的だ。

僕は羽生名人のファンなので、色々なインタビュー集などをチェックしているが、羽生名人の理想の将棋とは「考えない」将棋なのだという。「大局観」という言葉がある。細かく物事を見るのではなく、大雑把に時流を捉え、広い視点でものを見るということだ。羽生は大局観で将棋を指すことを理想としている。細かいロジックではなく、全体を見渡すように指す、と。羽生マジックはまさにそうした訓練から生まれているように思う。

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僕は何事でも「戦略」を立てるのが好きだが、なかなか羽生のようにはいかない。どうしても、細かいロジックの積み重ねになってしまう。本当に大事なのは、そうした枝葉の部分ではなく、物事を大局で捉える能力だというのに。

手持ちの資源をピッタリ使い切って相手を「詰ませる」というのは天才にしかできない技で、ほれぼれする。ビジネスにおいては、余分な資源を持たずにビジネスで成功させることに例えられるだろうか。

経営資源は大きくカネ・モノ・ヒトに分かれるというが、それらが潤沢に揃っていれば戦略など要らない。本当に凄い経営者は、それらの資源がないにも関わらず相手を打ち負かすような手を打つ。羽生は将棋ではなくて実業界に行っていたとしても、そういう視点で見ることができる人のような気がする。

将棋から学べることはたくさんある。僕は将棋は弱いのだけれど……。 

戦闘モードになると

通常時は、どんな人でも自分の肌に何かが触れれば、「触られた」という感覚がある。肌には触感を感知するセンサーがついているのだから当然だ。

同じように、他人から悪意を持たれていると、それを感知することができる。直接に暴力をふるわれたり、嫌がらせをされたわけじゃなくても、相手が悪意を持っていることを感じることができる。それは人間が持って生まれた能力だから、避けられないものだ。

陰湿ないじめなどはこういった感覚を刺激するものだから、直接的な暴力よりもよっぽど嫌だ、という人は多いだろう。

悪意のみならず、「人からどう思われているのかが気になる」といった感情は、とにかく人を行動を抑制する。他者の目が気になって、自分のやりたいことがなかなかできない。「外国に行って自分探しをする」人は多いが、海外に行くと「他者の目」がなくなって開放される、ということはあるかもしれない。日本にいると息苦しさを感じるのは、そういうことだろう。

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一方で、殴り合いの喧嘩になったときなどは、脳からアドレナリンが出て興奮するので、あまり痛みを感じなくなるのだという。そういう状態になると、「他人からどう見られるか」なんてあまり関係なくなるだろう。これは、戦闘モードというふうに表現できると思う。

人は痛みを感じる生き物だ。痛い、と思うような行動はなるべく避ける。しかし、「肉を切らせて骨を断つ」という言葉もあるように、ときには小さな犠牲を生むことで大きな犠牲を避けるというような考え方もある。目先の痛みに捕われていては駄目なこともあるのだ。

僕は仕事をするときはなるべく「戦闘モード」に入るようにしている。自然と戦闘モードに入る人もいるかもしれないが。戦闘モードになると、他人からどう思われているかとか、痛みとかはそんなに気にしないようにする。大事なのは方向性だ。大局で見て、良いと思われる方向に進んで行くことが大事だ。 

新聞とのつきあいかた

最近、ネットニュースをやめて新聞を読むようになった。別に新聞のほうが立派だとかネットニュースは信用できないということを言いたいのではなく、単純に読み物として新聞は面白いと感じているからだ。

新聞は定期購読してもしなくても大して金額は変わらないので、毎朝六時に起きるとコーヒーを淹れたあと外に出て、近所のコンビニまで歩いて新聞を買いに行く。日経新聞は160円なので安いものだ。日刊新聞は文字量としては一冊の本に相当するというが、そんな分量の文字情報が160円で手に入るのは凄いことだと思う。安いし、役に立つので、これは便利だ。

いままでニュースは大量のニュース記事を見て自分に関心のあること、自分の仕事に関わることを見つけ出して読む、という読み方が主流だったが、このやり方は効率が良いようでいて、そうでもないのではないか、と感じるようになった。

自分に関係する記事だけを読んでいると、確かに情報を集めるという観点においては効率がいいかもしれないが、「自分の知らない情報」に触れることができない。情報収集において最も大切なのは、自分の知らないことを知ることだ。そのためには「こういう情報が欲しい」というバイアスがあるとなかなか手に入らない。

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昔、佐藤優の本に書いてあったのだが、アメリカの政府の情報分析官は「情報収集をする人」と「分析をする人」に完全に分かれているのだそうだ。「情報収集をする人」はたとえばCIAの職員などが、対象国に潜入したり、人と接触したりして情報を集める。そして集めた情報をもとに分析をするのだが、「分析をする人」は決してその国に行かないようにしているのだそうだ。その国の言葉を学ぶことすら禁止するという。

それは、一次的情報に触れすぎるとバイアスがかかってしまうからだろう。分析官はあくまで、あがってきた情報を基に「客観的に」分析することが求められている。その分析結果を、さらに上の人間が政治的判断材料にしていくわけだ。これが、情報と接するときに最も大事なことだと思っている。

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新聞はオールドメディアなどと言われて久しいが、日経新聞なら、最も重要なことが1面に書いてあり、2面、3面と重要性が薄れていくように構成されている。3面以降は各企業の経済動向などが記載されている「枝葉の情報」になる。

だから、とりあえず新聞を読むときは1面から3面までは興味がなくてもすべての記事に目を通すようにしている。まともに読むと、この3ページだけで40分ぐらいかかる。しかし、ここに目を通すと、他のあらゆる事象にリンクしていることが多いので、あらゆることがスムーズに理解できるのだ。

ニュースとは繰り返しだ。話題になっていることは繰り返し報道される。最初は小さなニュースでも、繰り返し話題になり、重要性があきらかになってくると、1面〜3面の範囲内に浸食してくるだろう。逆にいうと、枝葉の状態では「そういうのがある」ぐらいの理解でいい、ということだ。

3面まで記事を読んだら、あとは見出しに目を通して、自分に関心のあること、関連の記事を読む。新聞とはよく出来ていて、見出しと最初の1段落を読めばどういう概要なのかがわかるようになっている。仕事で使えそうな情報は、数字もしっかり見ておきたいので記事全体に目を通す。

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なんだかんだいって、こういう情報収集のほうが効率がいい。 枝葉の情報をかき集めたほうが、自分に関連する情報を効率良く集められるので効率的に思えるが、社会的に重要性の高い情報をまず摂取し、徐々に自分に関連するパーソナルな情報に触れるほうが、結果としては無駄が少ない。ネットニュースの場合は、情報の「重み付け」があまりないから、こういう情報の取り方ができない。

「とにかく新聞を読みなさい」という人はいるけれど、「なぜ新聞を読むのか」ということについて、もう少し考えてみたほうがいいと思う。ちなみに、本当に自分の仕事に直結する分野は「グーグルアラート」などを活用して、グーグルにかき集めてもらっている。使い分けが大事だな、とあらためて思う。 

「幼稚さ」の定義

元東大の主席で、いまは弁護士やタレントなどをされている山口真由という人がいる。

東大主席の名前に違わず、ものすごい努力家で、その常軌を逸した勉強姿勢は著書にもまとめられている。




けっこうためになることが書かれていて、東大に合格したのも伊達ではないな、と思わせられる。特に司法試験の勉強のあたりは壮絶で、睡眠時間以外はすべてを勉強にあてていたら、窓の外から「蛍の光」を歌う声の幻聴が聴こえ、「狂気の淵を覗いた」とまで言われている。

とはいっても、そんなアブナイ勉強法が載っているわけではなくて、きわめてまっとうな勉強法が紹介されている。受験や資格取得などを目指す人は参考になるところも多い本なので、ぜひ読んでみて欲しい。

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ただ、これはずいぶん前に読んだ本なのだけれど、あらためてパラパラと読み返してみると、けっこう幼稚だな、と感じるところが多い。いや、幼稚なことが書かれているわけではないのだが、「東大を主席で卒業した」というわりに、文章から「知性」のようなものが、あまり感じられないのである。

文章から知性が感じられないなどと僕などが偉そうに言う立場ではないのはもちろんなのだが、この人は勉強に特化しすぎた結果、他の教養を涵養する機会を失してしまったのではないか、と邪推してしまう。この人にとっては、「勉強」とは「教科書の中身を暗記すること」であり、その勉強の結果、エリートになれたのだという強烈な自負がある。

もちろん、それは本人の努力によるものだし、立派だとは思うのだが、どうも底が浅いというか、「勉強だけ頑張って来た人」のように見えてしまう。本を読む限りでは参考になることも多いのだが、実際に話してみたらすぐに話題が尽きてしまうような感じがするのだ。

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僕は学生時代、ずっと「勉強なんかしていたら頭が悪くなる」と思っていた。勉強とは、つまり指定されたテキストを覚え、指定された問題を解く能力を身につけることだから、「人と違った能力」を得ることが難しい。どうせ読むなら、他の誰も読んでいないテキストを読みたい、と思っていたのである。そうでなければ、差別化ができないからだ。他の人があまり読んでいないテキストを読んで、自分の頭で考えることが、最も重要なことだと思っていたのだ。

これは、29歳になった今でも同じ意見だ。特別におかしな本を読んでいるわけではないが、なるべく普通の人が手に取らないような本を読みたい、と思って生きている。幸い、現代では本を読む人自体が少ないから、一般的な本屋にある本を読むだけで差別化を図ることができている。

こうやってブログを書いたりしているのも、自分の頭で考えるための訓練のつもりで書いている。学校の勉強よりも、自由な読書と、自由な文章を書くことが大事だと考えているからだ。

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世間一般に「エリート」と呼称される人々と仕事をする機会がある。確かに彼らは頭の回転が速いし、記憶力、判断力に優れる。総合力では僕は及ばない、とつくづく思う。

しかし、話を聞いていると、「原動力は小学生の頃にいじめられたことがあって、奴らを見返すために努力している」などということを言い出す人がいる。「見返すために一生懸命勉強をして、いい大学に入ったのだ」と。

それが悪いわけではもちろんないが、そういうものだろうか、とつい思ってしまう。幼稚さを定義するのは難しいが、どうも幼稚なように感じてしまうのだ。 

約款を読む、防衛術

どんなサービスであっても、必ず「約款」がついている。ウェブサービスなどでも、最初に登録するときなどに、細かい文字でズラズラ表記される。それに「同意」しないと先に進めない仕組みになっているので、必然的にみんな「同意」したことになっている、アレである。

約款というのは細かい文字であらゆることが書かれていて、まともに読む人などほとんどいないだろう。特に、店頭でその手の書類にサインするときは、急かされているような空気になることも多い。手続きの一環で、約款を熟読している人がいたら、さぞ店員はイライラすることと思う。

だが、約款はとても大事だ。約款は契約書のようなものだからである。約款はなんのためにあるのかというと、通常は気にならないサービスの「例外的」な事態が発生した場合に、企業がどのように対応するのか、ということを文書化したものだ。それに「同意した」ということは、相手のルールに従うことに同意したのと同じ、ということになる。

企業側の立場に立ってみると、約款をきちんと用意することはとても大事だ。不測の事態が発生した際に、自社の損害賠償などに関わってくるからである。あるいは、付与しないサービス範囲についても、そこで明記しておくことができる。消費者が「そんなこと、聞いてないよ」と言い出しても、「約款に明記してあり、署名をもらっている」と反論することができる。約款を読まずにサインする、というのは消費者にとってはとてもリスクなのだ。

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では、約款をどう読めばいいのか。ポイントは2つある。

 〔簑蠅発生したときに、会社はそれに対応するかどうか
◆‖弍する場合、どういう対応をするのか

これだけである。サービスの概要や、サービスの範囲などは、消費者はいちばん気になるところなので、事前に情報を入手したり、その場で店員に尋ねたりするだろう。問題は、それを購入した後、なんらかのトラブルが発生した際に、会社がそれにどう対応してくれるのか、という点である。

約款の成り立ちを考えてみればわかる。トラブルが発生した際に、何をトラブルの範囲とするのか、それにどう対応するのか、それを書くのが約款のメインの役割なので、いわば企業の「防衛策」なのだ。約款は大部分は読み飛ばしてもかまわないが、トラブルに対してどう対応してくれるのか、という部分はキチンと読んでおく必要がある。

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約款にまで目を通すなんて、なんだか面倒くさい客だなと思われるかもしれないが、こういう細かい文書に目を通すことは、ある種の防衛術なのだ。世の中は、文書で動いている。法律も文書だし、契約書も、覚え書きも文書だ。文書になったものが、世の中で最大の効力をもつ。であれば、文書を読む「習慣」をつけることが、最大の防衛になるのだ。

「情報弱者」という言葉が一時流行したけれど、「情報を得ること」が防衛とは限らない。細かい文書に目を通す細やかさが、意外と防衛術になるのでは、と思う。 

転職してから、新しい職場で、仕事をつくる

今月から新しい職場に転職して、三週間が過ぎた。全社員合わせても十人足らずのベンチャー企業なので、みんな家族のように温かい。すぐにメンバーとも打ち解け、順調な転職生活の滑り出しとなった。

新しい会社は完全にフラットな組織で、管理職などは存在しない。みんな、同列という位置づけで、日々の業務をしている。営業や経理のように、職種が分かれているわけではない。専門性の高いベンチャーなので、みんなはそれぞれ、専門的な仕事に就いている。営業や経理は、すべて社長が行っているようだ。

僕に先んじて一年程前から、営業職として採用された人もいるのだが、営業をやったことがないらしく、まだ一人で営業に行ったことがないらしい。一応、研修という名目で、ほかの人たちと同じような業務を担当している。 

職種が分かれていないような職場なので、当然、僕の位置づけもはっきりしない。だが、自分の強みは営業や管理業務にあると思っているので、猛然と、自分の仕事を作り始めた。

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営業は社長のコネクションをフル活用した営業方針だったが、新規の開拓をしていくために営業パンフレットを大幅に更新したり、過去の顧客の傾向分析を行ったり。これまで誰もしていない方面へのアプローチを提案したり。「会社が良くなるためにはどうすればいいか」を考えて、どんどん提案をしていった。

どちらかというと、「そういうことやらなければと思っていたけれど、誰もやろうとしていなかった」という経緯があったようで、僕の「つくっている仕事」は、概ね好意的に受け止められている。結果が出てくれば、もっと能動的に動けるようになって、やがては営業部という部署を作ることができるかもしれない。そう考えると、仕事は面白くなる。

「仕事は与えられるものではなく、つくるものだ」という言葉があるけれど、意味のない仕事を増やしても誰からも認められない。会社である以上、会社の利益になることをしてはじめて認められるのだ。そして、会社の利益を増幅させる確約を得られれば、正式にそれが仕事としてどんどん認められていく。これは社内における起業のようなものだと思うのだが、いかがだろうか。

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僕は、サラリーマンでも、考え方を少し変えれば、フリーランスのように働くことができるとよく考える。サラリーマンとは、要するに、会社と専属契約をしたフリーランス、ということだ。自分は自分で独立した存在だと考えると、自分にとって会社とは「顧客」である。「顧客」が何を求めているか、ということをよく考えれば、「仕事をつくる」のは簡単なことだろう。相手に不足していて、自分にできることをどんどんやっていけばいいのだ。

先はどうなるかはわからなけれど、これからもどんどん活動していきたいと思う。

東京の散歩と、人口の偏在

今月から東京に住み始めた。これまで、上海、名古屋、いろんなところに引っ越しをしてきたけれど、新しい街に住むととにかく辺りを歩き回ることにしている。車を持っていても、とにかく歩く。歩くと、その街の地理感覚を手っ取り早く掴むことができるからだ。

東京はとりわけ散歩が楽しい。予定のない休みの日は、ルートを決めて歩くことにしている。先日は秋葉原から新宿まで歩き、こないだは上野から池袋まで歩いた。だいたい10キロを二時間ぐらいのペースで歩く。東京で10キロ歩くと、軽く縦断したような感じになる。街によって特色が違って面白いな、と思う。

日比谷から霞ヶ関、赤坂、六本木、乃木坂、青山を抜けて新宿へ行くルートも面白かった。六本木も場所によってはさほど人はいないのだが、青山のあたりに近づくと少しずつ人が増えてくる。新宿は、新宿御苑のあたりはそんなに人がいないが、新宿駅の周りはまるで人の海だ。見渡す限りの人の洪水。正直、これだけ人がいると、どこも混雑していそうでお店に入る気にもなれない。

東京はどこもかしこも人で溢れかえっているような印象があったが、実際に歩いてみると、大部分はそうでもない。日本の人口は東京に集中しているというが、東京の中でもさらに集中しているエリアがあるのだ。新宿駅、渋谷駅は日本でもトップクラスの人口密集地帯だろう。キロあたり何人の人がいるのか、想像もできない。でも、あの地域は特に密集している地域なのであって、東京のすべてがそうであるわけではない。

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人の偏りというのは見ていて面白いものだ。神の視点で、天から眺めたら面白いと思う。別に新宿や渋谷に特殊な施設があるわけではない。メッカのように、イスラム教の聖地があるわけでもないのに、なぜ人がそんなに集まるのだろうか。

「人が集まるから、さらに人が集まる」のでは、と推測している。人がたくさん集まっているところでは、それだけで何かが起きそうな気がするからだ。人がたくさんいれば、商売も繁盛する。特に実体があるわけでもないのに、「人がたくさんいる」という理由で、さらに人が集まってくる。これは客観的に見てみるとなかなか面白い。

東京を歩いていると、たまにものすごい行列のお店がある。ラーメン屋やカフェ、あるいはスイーツの店など、形態はさまざまだが、お店の前どころか前の通りをはみ出し、向かいの通りにまでそれが到達していることもある。何もない空間に人が並んでいたりしていて、いったい何を待っているのかとぎょっとしてしまうことがあるほどだ。

おそらく、食べログなどの口コミサイトで高い評価を得ているお店などだとは思うのだが、何もそんなに特定のお店に集中しなくても、とつい思ってしまう。行列のできていないお店で、美味しいお店を探せばいいと思うのだが、好みはそれぞれだろうから文句は言うまい。

あれも、「人気があるから、きっと美味しいに違いない」という期待から、さらに評価が高まって行くスパイラルだと推察される。逆に、駄目なお店はたとえ味が良くても駄目だということである。シビアな世界だ。

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散歩の醍醐味は、こういったことを感じられることにあるのかも知れない。土地勘を掴んで、街の特色を感じるだけでなく、人口の偏在に注視してみても、色々と得られるものはあるだろう。

さあ、次はどこを歩こうかな。 

「積ん読」はしない主義

「積ん読」という言葉がある。本屋で買ってきた本を、なかなか読まず、積んで置いてある、という意味だ。比較的新しい言葉だが、けっこう多くの人が使用しているので、わりと一般化した言葉といえる。

僕はあまり「積ん読」しないほうだと思う。ゼロではないが、買って来た本は9割以上読んでいる。読む予定のない本を買うような経済的な余裕がない、というのもあるかもしれない。

「積ん読」を予防するための一番有効な方法は、一冊ずつ本を買うことだと思う。一冊を読んだら、はじめて次の本を買う。もちろん、読む本が途切れてしまわないように、次に読む本ぐらいは確保しておいてもいいかもしれない。しかし、2冊以上先は買わない、などのルールを決めておくといいかもしれない。

昔からわりと個人的に気をつけていることなのだが、読みたい本があっても、まずはいま読んでいる本を消化してから次に行こう、という姿勢が重要だと思っている。本は最後まで読まないと意味がない。たとえよくわからない本であっても、最後まで読んでみれば何か発見があるかもしれない。「よくわからなかった」というのも、ひとつの読書体験だと認識している。

本屋に行く回数を増やす、本屋で本を探す回数を増やす、それもひとつのポイントかもしれない。

どんなに欲張っても、人は同時に複数の本は読めない。実用書ならいざ知らず、一冊一冊処理していくのが大事ではないだろうか。 

本屋には何冊の本があればいいのか

3月から上京した。29歳にもなって上京した、という表現が正しいのかはわからないが、とにかく、東京に住みはじめた。

東京は出版社が多く、田舎の人と比較すると本を読む人が多いという。確かに、電車などでも本を読んでいる人は多い。代表的な本屋ももちろん東京に支店をたくさん出していて、大きな駅のひとつのコンテンツになっている。

本屋というのは僕にとってとても大事な空間で、大型の本屋がある東京に来れたことは素直に嬉しい。東京に来た最大のメリットはこれだ、と感じているぐらいだ。

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だが、 本というのは基本的には流通しているものなので、田舎にいようが東京にいようが、本質的に同じものが届けられるはずだ。であれば、田舎と東京の違いは、「蔵書の多さ」ということになる。

しかし、ただ蔵書が多いだけではメリットになりえないものだな、と感じた。量が多いと、単純にそれだけ選択肢が増えるということであり、選択が難しくなる。また、地方都市であっても最近は大型の書店がかなり出てきているため、蔵書の点ではあまり不足を感じない、ということもある。

あらためて本屋に行ってみて感じたのは、僕は本屋に以下のようなものを求めていた、ということだ。

 .▲セスしやすいこと。できれば毎日、最低でも週2〜3回は行きたい。
◆〕澆靴に椶あること。
 行くたびに発見があること。

この条件を満たす本屋でなければならない。,話噂磴卜地の問題だが、◆↓は「本屋としての真価」が問われるような気がしている。

ただ本が並んでいるだけではただの「本置き場」だ。みんな、「何か新しい情報が欲しい」、という思いで本屋に行くので、本屋はそれを提供する義務がある。

僕のいちばん好きな本屋は、名古屋駅東口にあるジュンク堂だ。あまり広いとはいえないが、棚の作り方がとても好みで、行くたびに何かの刺激が得られる。

「棚」というのは、本屋の唯一にして最大の表現方法だ。どういう本を並べて棚を作るか、本屋の真価はそこで問われる。いい書店員がいるかどうかで、その本屋の価値が変わってくるのだ。

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東京には大きな本屋がある。それはわかった。だが、重要なのは、自分にとって重要な本屋はどこなのか
、ということだ。 

美術館鑑賞流儀

美術館に行くことが好きで、旅行に行くと高い頻度で立ち寄っている。特別にアートに詳しいわけではないが、美術館の独特の雰囲気が好きなのだ。

美術館というのはふしぎな空間だと思う。美術館というのは、たいていは広い空間だ。広い空間の壁に、絵が掛けられている。壁でないと、絵を掛けることができない。だから、美術館という建物自体がアートだともいえる。魅力的な壁を擁した美術館でなければ、魅力的な絵を掛けることはできないからだ。

美術館で絵を鑑賞するとき、どういう順番で絵を見るだろうか。僕はこれまで、まず作者を見て、タイトルを見て、解説を読んでから絵を見る、という順番で絵を鑑賞していた。だが、これはあまり良いやり方ではないのかもしれない。タイトルや解説を先に見てしまうと、その絵が何をモチーフにしたのかがわかってしまうため、自由な発想で絵を見ることができなくなってしまうからだ。

先日、上野の森美術館というところに散歩をかねて行ったのだが、そこでは、絵を見る順番を少し変えてみた。まず最初に絵を見て、その絵から得られる情報をすべて受け取る。その上で、作者やタイトル、解説を読むことにしたのだ。

このやり方だと、まず「この絵は何を表現しているのだろう?」というところに意識を十分に向けることができるし、たとえ作者の意図とは違ったものを受け取ったとしても、自分が「そう感じた」ことを事実として受け止めることができるから、自分にとっては有意義な「アートの体験」だ。さらに、「なぜ作者はこのようなタイトルを付けたのか?」というところまで想像を伸ばすことができる。このやり方は自分にしっくりくる。

絵というのは写実的なものもあれば抽象的なものもある。写実的でも抽象的でも、「なぜそれをモチーフにしたのか」を考えるのはとても楽しい。自分の受けた印象と、作者の意図を、頭の中で戦わせることは、知的体験と言い換えてもいいかもしれない。

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先日、長崎に旅行に行っていたのだが、そこでも美術館に行った。長崎県立美術館という立派な美術館である。

そこで、ある大きな絵が展示してあって、しばらくガーンと衝撃を受け、立ちすくんでしまった。

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ネットで探したら画像があったので張り付けてみた。

これは実際には巨大な絵で、2〜3メートルほどはあるだろうか。ポップな海岸線の風景に、男性の顏がふたつ並んでおり、その下には正体の不明な物体。外枠には規則的に配置されたハエの絵と、さらに外側に鉄と木で出来たハエの模型が張り付けられている。ものすごくポップなのに、なぜか不穏な感じがする。僕は、この絵を見たときに衝撃を受けて、しばらく動くことができなかった。

この絵から感じられるのは、まさに狂気だ。なぜかはわからないが、この絵からは「死のイメージ」しか感じ取ることができなかった。

この絵のタイトルは「ハエの楽園、あるいはヴァルター・ベンヤミンのポル・ボウでの最期」。男性はヴァルター・ベンヤミンという思想家がモデルらしい。 画面中央の物体は、ひっくり返った乳母車だそうだ。

ヴァルター・ベンヤミンは、戦火を逃れてスペインまで行ったものの、入国を拒まれ、絶望し、ポル・ボウで大量のモルヒネを飲んで自殺したらしい。右側の割れた眼鏡が、彼の死を暗示し、さらに規則的に配置されたハエは、死の使いと、軍隊を象徴しているのだそうだ。

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絵によってしか表現できないことというのは存在するのではないだろうか。僕は、この絵から、言葉以外の情報を確かに受け取った。

しかし、それは、まず絵から受け取る「一次情報」があってのことだ。

アートからしか受け取れない情報というのは確かにある。 

日本語を英語に直す作業には限界がある

仕事で英語のEメールを出すようになった。英語のメールというとなんだか難しいように思えるが、実際はメールというのはほとんどが定型句の塊のようなものなので、いったん定型句を身につけてしまうと、あとはラクだ。極端なことをいうと、メールのひな形があれば、その中の文字を入れ替えていくだけでメールとして成立する。

日本語で書かれたメールを英語に直すほうがよほど不自然だ。日本語のメールは「いつも大変お世話になっております」からはじまるが、これをそのまま英語に直しても意味不明だ。また、結びは「よろしくお願い致します」で締めたりするが、これもそのまま英文にはしづらい。英語のメールは英語で考えたほうがいいのだ。

しかし、考えてみれば会話などもこういう「パターン」のようなものなのかもしれない。中身があって会話があるのではなく、会話というのはある種、「型」の応酬なのかもしれない。英語をそのまま日本語に訳すと変な日本語になるが、英語だと自然だ。それと同じで、日本語をそのまま英語に訳すと変な英語になる。「英語は英語で考えたほうがラクだ」とよく言うが、それは英語には英語の流れがあるからなのだ。

外国人の日本語を添削することがあるのだが(lang8というウェブサービスを利用しているので)、外国人の書いた日本語というのは、直しようがないことが多い。文法的には合っているが、日本人はこういう言い方はしないよな、と感じることが多い。そういうときは、部分的に直すことは不可能なので、「日本人が言いそうなニュアンス」に書き換えて全文を訂正する。そうでもしないと修正できないことが多いのだ。

英語を勉強したければ、映画のセリフなどを丸暗記すると案外効果があるかもしれない。「英会話」が勉強したければ、映画などは「英会話」の塊のようなものだから、効果は見込めそうだ。

29歳の勉強における戦略

資格関係の講座を受けてきた。次の仕事で必要になるやつで、わりと専門性は高い。全国で年に数回開催されているようだが、人数からすると極限られた人のみが受講しているような感じだ。

学生とは違い、30歳近くなった今では、「集中的に勉強する」という状況に置かれた際に、「どういう戦略でそれに臨むか」というのがかつてと比較すると変化しているように思う。学生の頃は、時間は無限にあるものだと思っていたし、とにかく時間をかけさえすれば万事解決する、と思っていた。だが、ある程度年を取ってくると、時間は有限だし、他人より長い時間の集中力を保つのは難しい、ということに気付いてくる。時間は有限なので、なるべく無駄のないように使わなければならない。

最近よく思うのは、人間は未知のことを一回で理解できるようには出来ていない、ということだ。新しい物事が一発で理解できる(ような気がする)のは、大部分が「既に知っている知識」である場合に限られる。全くの未知の物事に取り組む場合、一回では到底理解には追いつかない。同じ事を何回か刷り込んで行く必要がある。

まずはちゃんと一度、自分の脳に知識をインプットさせることが重要なのは言うまでもない。きちんと物事を「理解しながら」インプットすることが肝心だ。駄目なのは、板書などに気を取られて、理解することを逃してしまうこと。どうせ物事を一度で「覚える」ことは無理なのだから、「暗記」は潔く諦めて、まずは理解に徹するべきだ。しっかりと「理解」できたとき、記憶は自ずとついてくる。

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記憶というのは不思議なものだ。記憶のメカニズムに関しては、いまだにどういう仕組みなのか解明されていないらしい。日々の些細ことはすぐに忘れてしまうが、わりとどうでもいいことでも何年も覚えていたりするものもある。

日記を書くとそれが実によくわかる。どうしても思い出せないような事柄もあれば、ハッキリとその情景まで思い出せることもある。もちろん、重要な記憶であればあるほど覚えている確率は高いわけだが、けっこうしょうもないことでもずっと覚えていることもある。そのメカニズムは明らかにはされていない。

どうせ完璧に記憶することなど不可能なのだから、もういっそ「覚えよう」とせずに、ただただインプットに費やす、という姿勢のほうが気が楽ではないだろうか。

記憶の仕組みはよくわからないが、どうやら記憶というのは芋づる式に思い出されていくものらしい。Aという記憶に関連づけられた記憶B、Cは、それ単体ではなかなか思い出せないが、Aという記憶を思い出した瞬間に、芋づる式に引き出されていく。そのとき、大事なのはAという記憶をしっかりと刷り込むことであって、それさえできれば、付随的なB、Cもあとからついてくる。つまり、「基本」となるものをまず最初にしっかりと踏襲する必要があるのだ。

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そうやって「戦略」を立てると、授業の受け方もおのずと変わってくる。授業はなるべく無駄な板書などはせず、先生の言う内容を一言一句、聞き漏らさないように注意深く聞く。教科書の特定の個所を暗記するようなことはせず、まずは全体をざっと見渡し、重要なところを把握した上で記憶を体系化していく。

今回の授業はそんな感じで、なるべく先生の話を聞き漏らさないことに注意しながら授業を受けてみたのだが、やはりこれは効果があったように思う。人の話を聞き漏らさないように注意深く聴く、というのはなかなか集中力を要するし、理解力も必要になるので、これは良い訓練になった。

こういった「勉強法」というのはいろんなところで紹介されたりしているのだろうが、もっと人に色んな人に広まればいいのにな、と思う。

人はなぜ廃墟に行くのか

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旅行で長崎に行った。九州に行ったのははじめてだったが、軍艦島の上陸ツアーがあると聞いて、以前から行ってみたいなと思っていた。

軍艦島上陸ツアーは、現在5社ほどの業者がいて、日に二回ほど運行しているそうだ。廃墟マニアにはもちろんよく知られている島だが、世界遺産に登録されてから、一般での認知度も高まったのだろう。ツアーに参加してみたが、定員200名にも関わらず満員だった。ツアー費が約4000円だったので、けっこう良い商売になるのではないだろうか。

ツアーにはいかにも廃墟好きっぽい男性もいたが、女性だけのグループもいたし、家族連れみたいな人もいた。いまは、長崎ではメジャーな観光スポットになっているようだ。

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人はなぜ廃墟に行くのか。廃墟の魅力とは、一体なんなのだろう。

ツアーに参加する前に、「軍艦島デジタルミュージアム」という施設があってそこで当時の写真や映像などの資料を見ることができたのだけれど、当時はまさに時代の最先端をいっていた島だったのだ。日本初の鉄筋コンクリートの建物があり、当時は三菱の私有地だった島からは豊富な石炭が取れたという。わずか0.063平方キロの敷地には5000人もの人が住んでいたという。

当時が立派だっただけに、現在の廃墟と化した「むなしさ」のようなものがそこにあるからだろう。かつては栄えたものが埃にまみれ、朽ち果てているというのは、それだけで美しいものだ。

今回の旅でわかったのだが、かつて栄えていたものを「再現」することは自分はあまり好きではない、ということを知った。過去の英華を再現することにはあまり意味を感じない。過去の英華を再現するぐらいならば、未来に向かって何かを作るほうがよほど生産的だ。

廃れていったもの、朽ち果てていったものは、ただそれそのものが美しい。それこそが時代の流れだろう。軍艦島は、かつて石炭が主要なエネルギーだった時代の産物であり、その時代とともにそこに置き去りにされるのが正しい姿なのだ。近年、軍艦島は老朽化によって崩壊が著しいらしいが、それをそのままに放置しておくのもいいのではないかと思う。修復・保護する活動も行われているようだが、崩壊にまかせるのも、それはそれで美しいのではないだろうか……。

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廃墟マニアでなくても、軍艦島の魅力は、行けば実感できるのではないかと思う。時代の流れがそこにある。
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