やひログ!

届く人には届くというタイプの読み物ブログです。

反・反・自分探し

昔から、「自分探し」という言葉は一定の市民権を得ている。(最近は昔ほどは聞かなくなってきたような気もするが)。自分探しなんてくだらない、自分を探してどこかに行ったとて、結局何も見つからないから無駄だ、という意見がある。自分も、どちらかといえば今までそのように考えているところがあった。

数年前、バングラデシュでの仕事を終え、帰り道にバンコクでトランジットした際に、三日間の休暇をとったことがある。ちょうどクリスマスの時期で、日本に帰ってもただ寒いだけなので、少し羽根を伸ばそうと思ったのだ。

初日はバンコク市内でホテルを取り、あちこち観光した。仕事では何度かバンコクに来ていたが、プライベートで来るのはそれがはじめてだった。市内をぶらぶらし、夜はムエタイの試合を見に行ったりしていた。しかしとにかく疲れていたので、二日目はバスで数時間のところにあるパタヤビーチというところに行った。とにかく、嘘みたいに綺麗な海で、イギリス人の避暑地としても有名な場所だった。

そこで何をしていたかというと、ひたすらビーチで寝ていた。海辺にパラソルとビーチチェアがずらーっと並べてあり、お金を払うとそこで寝てもいいということだったので、そこでひたすら寝ていた。たまに気が向いたらマンゴージュースを買って飲み、腹が減ったらステーキを食べに行った。とにかく一日じゅうそうやってのんびりしていて、夕方になったら、海に沈む夕日を一時間かけて見た。とにかく、東京にいた時には考えられないほど贅沢な時間の使い方で、かなりリラックスすることができた。

帰り、バンコク行きのバスで、偶然日本人の観光客がおり、日本語で会話をしていたので、すべてを台無しにされたような気分になった。なんというか、異国の地で、完全にリラックスしていたのに、急に現実に引き戻されたような感じがしたのである。



自分探しなんてしに海外に行っても、何も見つからない、とよく言われる。それは確かによくわかる。しかし、日本を離れて、よくわからない外国に行き、日常生活から完全に切り離された空間にいることによって見えてくるものというのは多い。そして、それは不思議なことに、いろいろなものを観光してまわった初日よりも、ただパタヤビーチでひっくり返っていた二日目のほうがより顕著に感じたのだ。なんというか、より非日常感が強かったのだと思うし、「何もしなかった」ことにより、結果的にわかったことも多々あったのだ。

日常からたまに切り離されてみる、というのは重要だ。別にタイまで行かずとも、どこかの山に登ってキャンプをする、でもいいかもしれない。しかし、できれば周囲には誰も人がいないほうがいい。



自分探しの旅に出れば、自分に出会える、というのが最近の意見である。それは上記の理由による。本当の意味の旅とはちょっと違うかもしれないが、「何もないもの」を求めていくのも、ちゃんと意味があるものである。

変化こそが人生?

学生の頃からずっと、個人的な日記をつけている。こうしてネットに公開しているものではなく、本当に自分だけが読む用のやつだ。毎日書くということ以外、特にルールは設けていなかっただが、最近、一日の文字数をちょうど800字にするのにハマっている。文字通り、一文字もはみ出さずに、ちょうど800字に調整するのだ。当然、数文字ははみ出てしまったりするわけだが、最後は句読点や、言い回しを工夫したりして調節する。やってみると案外できるものである。これをやると何が面白いかというと、やったことが盛りだくさんで書く内容が豊富にある場合はシンプルに、何をしたかの記述だけになるのだが、特に一日、代わり映えのしない日を過ごすと、書く内容に困るぐらいになる。しかし、それでもどうでもいいことを探せばそれなりに書くことはあるわけで、なんとか800字を埋めるのである。つまり、日によって「書く密度」が異なるわけだ。何もないスカスカの日は、文章がスカスカになるのだが、日常のどうでもいいことが書かれていたりして、それはそれで面白い日記になる。

日記は書くものの、滅多に読み返さない。なので、何を書いたのか、ほぼまるごと忘れてしまっている。読み返すときは、先月の、とかではなく、一年前の同月の日記を読み返したりすると面白い。5年分ぐらいさかのぼって、同月の日記を読むと、一年間の変化もだいたいわかる。


自分の身辺では、ちょうど二年前に結婚・転職・引っ越しがあったため、その前後一年間の変動が非常に大きかった。なので、一年前、二年前と遡っていくと、二年前と三年前に大きな断層のようなものがある。日常というのは少しずつ緩やかに変わっていくように見えて、どこかの時点でバツっと大きな変化が訪れるものなんだな、とそのとき思った。たぶん、これはどんな人にだって言えることだろう。

以前ここでも書いたのだが、新卒の最初の仕事は、トラックでパンをコンビニに配送する仕事だった。基本的にずっと夜勤で、なかなかハードな仕事だったのだが、おそろしいのは、毎日が全く同じような内容で過ぎていくため、時間の流れ方が半端なく速い、ということだった。一日のルートは完全に固定されており、分刻みでスケジュール通りの行動をとらなければならない。そんな中で、トラブルなどで少しでも変化があれば「変化があった」ということで記憶に残るのだが、何も変化がなく、すべてが無事に終わった場合、何も「変化」がないということで、何も記憶に残らない、ということに気づいた。極端な話、一ヶ月間、なんのトラブルも発生しなかったとしたら、何も記憶に残らないということで、その一ヶ月、生きていたのか死んでいたのかもわからない、ということだ。


日記をつけることで、そういった「変化の差分」を拾い集めることはできる。その「差分」こそが人生なのでは、と思うのだ。変化がありすぎても大変だが、変化のない人生は、本当に薄い内容のものになってしまうだろう。

自分の頭で考えるな?

ネットを周回していたら、たまたま面白い記事を見かけた。世間では「自分の頭で考えること」が大事だとよく言われているが、「自分の頭で考えない」ことを勧めている記事があったのだ。
著者は有名なベテランブロガーで、自分は読者ではないものの、ときどき書かれた記事を見かけることがある。長いことブログの世界で活動してきたということは、長い期間「自分の頭で考えてきた」というが言えるはずだ。なのになぜ、それまでの自分を否定するようなことを言うのだろうか。

いまは「フェイクニュース」という言葉が一般的になった。なんといっても、AIでニュースを捏造できる時代である。上の記事の中で、AIに作成させたと思しき洪水の画像があり、それが真実であるかのように拡散されていることが例として扱われている。AIがつくる画像の精巧さは年々増しており、自分たちで見破るのは不可能になるときがいつかはくるだろう。だから、「自分の頭で考えて」「自分で嘘を見破ろう」とするのではなく、NHKや新聞などの大手メディアが報道することを信じているほうが、結果としては騙されないのでは、ということを言っているのだ。それが「自分の頭で考えない」ということに繋がってくる。


少し前から「フェイクニュース」はよく話題になり、政治などの絡みでよく言われたりもするが、個人的な感覚ではあまりピンときていない。僕個人は、フェイクニュースが気になったことはないし、これはフェイクニュースだからけしからん、と思ったこともあまりない。きっと、そんなフェイクニュースなんてどうでもいいと思っているからだろう。先ほど例で挙げられた洪水の写真も、その写真の真贋を見極めるのは確かに難しく、自分だって完全に見極められるとは思っていないものの、そもそもそれが真実であるかどうかなど、どれほどの意味があるのだろう、と思うからだ。実際に静岡で洪水被害があったのは事実なので、画像が捏造されたからといって、いったいどういう実害が具体的にあるのだろう、と。

ニュースなどで気になるのは、画像などではなく、たとえば統計的なデータである。しかし、こういった統計データですら、国によっては平気で嘘をつくこともあるだろうし、そもそもいい加減でちゃんと集計ができていない、というケースもあるだろう。なので、そういったデータを見るときは、そういうことが起きているだろう、と割り引いてチェックすることになる。書いてあることが一言一句、真実だと信じ込む人はどれぐらいいるだろう。

フェイクニュースで問題になるのは、きっとスキャンダルだろう。やったこともないこと、言ったこともないことがスキャンダルになるのが問題だ。その場合、フェイクニュースというよりは、ただの捏造である。しかし、それとていまにはじまった話ではないので、画像だけを「確たる証拠」として考える人がどれぐらいいるのだろうか、と。百歩譲って、CGなどでの加工技術がなかった時代は「確たる証拠」として使えたかもしれないが、ただ単に現代は「画像が確たる証拠にならない世界」に突入しただけだろう。どういう証拠画像があろうが、話半分に捉えていれば、そう簡単には騙されることはないのでは、とも思う。


捏造や嘘を見破るには、整合性がとれているかどうかを見ればいい。そのため、たくさんの「常識」を入れて、世界を解釈していくことが必要なのだろう、と思う。ひとつひとつの各論の真偽はわからなくても、長い目で、いろんな事例を見ていけば、それがハリボテかどうかはある程度は見抜けるのでは、と。そのために必要なのが「教養」なのでは、と思うのだ。

天才を言語化して、前に進んできた

昔から、僕は「天才」の仕組みに興味がある。まあ、世の中は天才が好きなので、僕に限らず、世の中の人の大半の人は「天才」という存在が好きなのだろう。なので、また少し「天才」というものについて考えてみる。

「天才」を定義するのは難しいが、能力的に、飛躍的に他者を凌駕する者、と定義できるのではないだろうか。「天才」の対となる存在として「凡人」がいるが、同じく優秀な人を表す言葉として「秀才」という言葉もある。「天才」と「秀才」は、どう区別すべきなのだろうか。

もちろんこれも人によって定義は異なると思うが、僕は「天才」というのは、発想が飛躍しているものを指すのではないか、と思う。つまり、既存の感覚を「飛び越えて」しまうのだ。「天才」の多くはごく若いうちから頭角を表したりするが、他の人が感覚的に処理できないようなことが、感覚的にできてしまう。教えられてもいないのに、正確に投球コントロールができる子どもは、野球の天才なのだろう。逆に、「秀才」は、既存の物事を、人よりも早いスピードで習得することができる、というイメージだ。これは感覚的なものというよりは、言語化され、アーカイブ化されたものを、素早く、大量に処理することができる能力を指すのではないだろうか。だから、「天才」は感覚であらゆることをやってしまうのに対し、「秀才」はすでに体系化された学問などを修めるのが得意、というイメージである。

「天才」というのは感覚をもって、既存の概念を飛び越えてしまう。結果として、時代を前に進めてしまう力があるのではないか、と思う。


先日、アニメスタジオの「トリガー」の話をした。トリガーの有名なアニメーターたちは、先人たちが作った「リミテッド・アニメーション」という、日本の制約されたアニメ制作環境の中で生み出された技法をリスペクトしている、と。そこで思い出したのだが、彼らの中でも「金田伊功(よしのり)」というアニメーターが、特に名前を出されている、と。アニメーターたちは、口々に「金田イズム」だの「金田系」だとの口にしているのだ。

伝説のアニメーター、金田伊功について語る - ひたすら映画を観まくるブログ https://type-r.hatenablog.com/entry/20170721

しかし、その意味では、「金田イズム」という言葉があるということは、後世のアニメーターたちは金田の技法を習得し、自分たちで使いこなしていることに他ならない。つまり、先人を生み出したものを、習得し、より洗練されたものへと昇華させていっているのである。その意味では、天才はただ天才に止まらず、「その次の時代のスタンダードを先駆けている」ともいえる。天才でないとそれは生み出せないが、いったん生み出したあとは、それはいつしか常識になっていくのだ。

そうやって考えていくと、世界的に有名な「カイゼン」という言葉を生み出し、実践したトヨタ自動車の大野耐一なども、同じく「天才」と分類したほうがいいのかもしれない……、などと思えたのである。

僕はなぜか子どもの頃から漫画の「ドラゴンボールは読むまい」と心に決めていて、大人になるまで読んだことがなかったのだが、大人になってからドラゴンボールを少し読んでみると、意外と普通なんだな、と思ったりした(ファンの人は怒るかもしれないが、聞いてほしい)。しかしそれは、作者の鳥山明があまりにも天才なのであり、鳥山明が切り開いた技術を、後世の人間が真似したからこそ、「後世のスタンダード」となったのだろう。つまり、天才だからこそ、未来から振り返ってみると「結構普通」となるのかもしれない。


天才のセンスは言語が難しい。少なくとも天才本人にはできないし、する必要もない。しかし、それを誰かが言語化して、いつの間にか「技術」そのものに変換できてしまう。そうなれば、それを習得するのが「当たり前」となり、いつしかスタンダードになっていくのだろう。人類史というのは、もしかすると、数多の天才を模倣することによって発展してきた、と言えるのではないだろうか。

大衆文化として発展すること

「ラーメン才遊記」という漫画を読んでいるのだが、これが非常に面白い。

この漫画はシリーズになっており、「ラーメン発見伝」「らーめん才遊記」「らーめん再遊記」と、いまのところ三部作のシリーズになっている。「才遊記」はそのうちの二部にあたり、創作料理としてのラーメンと、ラーメン屋の経営と、ラーメン文化について、深く掘り下げられている漫画である。

「美味しんぼ」などのグルメ漫画は、ひとつの料理だけではなくいろいろな料理を扱うが、本作はラーメンの話だけである。結構有名な漫画なので以前から読んでみたかったのだが、やっと読むことができた。一応、シリーズごとに主人公は異なるのだが、いずれの作品も「芹沢達也」という強烈なキャラクターが主軸となっている。「発見伝」では主人公のライバル、「才遊記」では主人公の上司、そして「再遊記」では主人公なのだ。かつて、創作ラーメンが世に出始めた頃にニューウェイブ系の旗手として一世を風靡し、その流れでラーメン・コンサルティング会社を立ち上げ、最後は自分で作った会社を離れてラーメンを模索していく物語だ。芹沢は「理想のラーメンを追い求める」芸術家肌の職人である一方、冷徹なビジネスマンとしての側面もあり、なかなか奥深い人物として描かれている。



ただ「うまいラーメンをつくる」話ではなく、ラーメン職人たちの生き様について触れている。理想のラーメンを追い求め、独立開業するものの、閑古鳥が鳴いて行き詰まってしまう話があり、その打開策として、「餃子とチャーハンのセットを作る」とか。「夢と現実」に折り合いをつけつつ、打開策を模索していくさまは非常にドラマチックである。

カリスマラーメン職人たちによる物語なので、考えたこともないようなラーメン観に触れることができるのが面白い。もちろん笑わせるつもりなどないのだが、なんだか深過ぎて、ちょっとしたギャグになってしまうのである。

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【引用】久部緑郎、 河合単「ラーメン再遊記(2)


はじめはチープな大衆文化としてスタートしたものの、だんだんと権威を得て、変容いくものって結構あるよなあ、と思う。蕎麦や寿司だって、江戸時代は庶民のファストフードみたいなもので、気軽に食べられるものしかなかったのだろう。もちろんいまでも大衆料理としての側面は大きいものの、高級蕎麦や高級寿司といった、洗練された上位互換のジャンルは存在する。ラーメンはまだ大衆料理として区分されているが、文化として成熟していくに従って、高級ラーメン店、というのもそのうち出てくるのではないだろうか。


こういう流れを見ていると、アニメスタジオの「トリガー」の今石監督のことを思い出す。「キルラキル」というアニメがあるのだが、その制作ドキュメンタリーを見たことがある。トリガーのアニメーターで、自分たちの理想のアニメを追い求めて作品づくりをしており、当然ながら、アニメを制作することにプライドがあり、少しでもクオリティを上げようと日々奮闘しているのだが、そうやって情熱を燃やしつつも、アニメを「チープで、大衆的な文化のひとつにすぎない」ことを意識している節がある。どれだけ素晴らしいものを作っても、あくまで「大衆文化」として捉えているそのスタンスが非常に好きなのだ。

日本のアニメは、一週間ごとに放映する都合上、作画コストを大幅にカットするために「リミテッド・アニメーション」という技法を駆使して制作されている。フルで動きをつけるわけではなく、ところどころ省略したり、誤魔化したりして表現する技法のことだ。 要するにそれは妥協の産物なわけだけれど、トリガーの面々は「先人たちが生み出した知恵」としてリスペクトし、積極的にリミテッド・アニメーションの技法を採用しているのだ。なんというか、「いいアニメをつくる」ことと、「大衆文化として発展させる」ことが両立しているのである。簡単にいうと、自分たちの作っているおのを「高尚なものだ」と思って気取っていない、ということだ。このスタンスが非常にカッコいい。

わかりやすい形で文化的に高尚なものになってしまうのではなく、大衆文化的な要素が残っている文化のほうが長生きする。蕎麦や寿司だって、高級なものしかなかったら、ここまで親しみのある日本文化になっていたかどうか。

ラーメンを通じていろんなものが見えてくる。それがなかなか面白いのだ。
livedoor プロフィール

yahiro

87年生まれ。エレクトロニカと読書とブログとモノクロ写真。
twitterアカウント@yahiro2000

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