やひログ!

日々文章を書いたりしているんです?

なぜ子どものほうが学習能力が高いのか?

大人よりも子どものほうが学習能力が高いという意見に、大半の人は同意するだろう。年をとってきて、物忘れが激しくなってきたりすると、「年のせいだから……」などと言い訳する人をよく見かける。

だが、ほんとうに子どもは物忘れがなく、いとも簡単にものを覚えられているのだろうか? 思い出して欲しいのだが、子どもだってよく物忘れをする。小学生のとき、学校で忘れ物をしなかったと言い切れるだろうか? あなたはしていなくても、しょっちゅう忘れ物をしていた同級生もいたはずだ。すべての子どもが物覚えがよかったわけではない。

かけ算の九九も、あれは単純な暗記といえるが、けっこう覚えるのに苦労した記憶がある。1の段から9の段まで、合計で81の「呪文」のようなものを覚えるだけだが、覚えるのは簡単ではない。実際に、九九が覚えられずに進級していく子もいるらしい(どこかの段階では覚えるだろうが)。九九を習うのは小学校二年生だから、いちばん脳がやわらかい時期のはずだ。

つまり、子どもと大人では、単純な記憶においては、そこまで差はないのではないか、と感じる。大人だって、仕事などで膨大な量の記憶をこなしているし、子どもだって万能ではない。ドラえもんの道具で「暗記パン」という、丸暗記をするためだけのひみつ道具があったが、あれは小学生だって欲しい。なんでもかんでも丸暗記することができれば、テスト勉強の手間が大幅に少なくなる。そういえば、中学生むけの雑誌の裏表紙に「記憶術」なんていう広告が載っていたような気が。

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では、子どもの脳が大人の脳よりも「学習能力が高い」と言われる理由はなんだろうか?

僕は、子どもの脳は大人の脳よりも「記憶が少ない」ことが「学習能力が高い」理由なのではないかと考えている。つまり、それまで培ってきた経験が少ないので、脳は「何にでもなることできる」。大人の脳は、良い意味でも悪い意味でも完成されてしまっているので、あとから変更することがなかなか難しい。

脳は、いろいろな記憶を詰め込み、それを脳のなかのネットワークにしていくことによって「記憶の体系」をつくっていくのだと思う。子どもの脳はそもそものネットワークがあまりないから、どういうものにでもなれる。幼児をフランスで育てればフランス人に、アメリカで育てればアメリカ人になる。日本人を大人になってからフランスに連れていっても、脳は日本人のままだろう。

小説を書いたり、音楽を作ったりするとよくわかると思う。書き始めは、まっさらな状態に文字を重ねていくだけなので、どういう作品にもなる。だが、20%、30%と書き進めていくにしたがって、作品の「方向性」というものがしだいに定まって行く。それ以降は、どういう修正を加えようが、作品のなかに「枠」が出来てしまって、難しい。これが「大人の脳になる」ということだ。

大人は子どもよりも頑固で、新しいことに対する拒絶がある。それは、過去の経験から、「こういうのは失敗する」と予測できるから。あるいは、いまの自分には理解できないものが出てくると、「邪道だ」と拒絶する。「大人が新しいものを否定する」のはこの2つのパターンが大半ではないかと思う。

だから、大人の脳で学習能力を高めようと思えば、過去の経験を切り捨てる必要がある。逆にいうと、過去の経験を切り捨てられる人だけが、子どものような学習能力を獲得することができる。

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過去の経験を切り捨てるというのは、口でいうほど簡単なことではないと思う。過去の経験とは、過去の失敗も含まれる。「過去、こういうことをやって失敗した」ということを、先入観なしに再度繰り返すということだ。

子どもはよく失敗をする。子どものが成長して青年になっても、まだ経験が浅いから、いろいろなものに騙されて、よく失敗する。マルチ商法に引っかかったり、結婚詐欺にあったり、ブラック企業に入社してしまったり。

親はそういうのをよくわかっているから、「やめておきなさい」と忠告できる。ある程度、そういう失敗を重ねていくと、「ああ、こういう手にはかからない」と「学習」していくわけだが、そうやって経験していくことこそが、成長を妨げる要因のひとつにもなる、と。……ある種のジレンマのようでもある。

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大人が過去の経験を切り捨てて新しい価値観を鵜呑みにするのは、確かに学習能力は高まるかもしれないが、はっきりいって愚かな行為といえるだろう。若者に対して、大人は「経験」しか優位に立てるものがないのだから。

だから、もっとも「知的なスタンス」としては、新しいものが出て来たとき、それを否定するのではなく、「そういうものもあるのか」と保留して、それについて客観的に分析することではないかと思う。それを意識するだけで、学習能力というのは衰えないような気がする。 

いにしえの名もなき宗教

イエス・キリストが人類の罪を代表して磔になってから2000年以上が経過した。いまの暦では、100年を「1世紀」という単位で表す。いまはキリストの磔から数えて21個目の世紀の最中である。

「世紀」という単位を聞くと、なんだかとても長い時間を感じる。1世紀前の世界はどうだったのか、動画やテキストなどを参考に想像することはできるが、なんとなく、実感としてはつかみづらいだろう(100年前の1917年は第一次世界大戦が行われていた) 。

キリスト教がちゃんとした宗教として形成されはじめたのが、だいたい2000年前のこと(定義によって多少は前後する)。イスラム教は6世紀ごろ、仏教は紀元前5世紀ごろ。どれも途方も無い過去につくられたもののように思えるが、それでも大雑把にいえば、だいたい2000年ぐらい前に出来た宗教である。

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世界最古の宗教はなんだろうか。現在、発見されているうちで最も最古の「宗教的」な芸術品は、「ライオンマン」と呼ばれる、ドイツで発見された象牙彫刻である。

画像検索してみるとわかると思うが、頭部がライオン、身体部が人間の像である。当時はまだ文字技術が発達していなかったため、この像がなにを意味するのか、どういう文化的背景から創造されたものなのかが全く分かっていない。

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文字が発明され、現在も出土品などを通じて確認されているのは紀元前8000年ごろが最古である。この「ライオンマン」の象牙彫刻は、最新の測定により、32000年前のものだと推定されているらしい。「ライオンマン」は、文字の発明よりも20000年近く前に作られたものなのだ。

文字よりも昔に発明された宗教は、それがどういう背景によって成立していたのか、まったくわからない。どういう信仰があったのかも、 テキストが残っていない以上、はっきりとはわからない。

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ラスコーの壁画などもそうなのだが、古い宗教というのは、いったいどういう信仰をしていたのだろう。いまの世界で最もメジャーな宗教はキリスト教だが、それでもたかだか2000年程度の歴史しかない。ライオンマンの象牙は、32000年も昔に作られたのだ。当然、これよりも古い宗教というのは存在したかもしれない。たまたま、現代においてその宗教の道具が発掘されていないというだけで。

名もなき、いにしえの宗教はどういうものだったのか、僕は非常に興味がある。宗教は、生活と密接に関わっている。彼らが、なにを信仰し、なにを大事なものとして生を全うしたのか。 

わからないからこそ、ロマンがある。僕はライオンマンの象牙の画像を見るたびにそう思う。 

トランプ当選は集合知の限界?

ドナルド・トランプが米国大統領になりましたね。昨晩遅い時間に就任演説をやっていたみたいですが、寝ていたので見ておりません。と思ったら、全文がすでにネットにアップされていたので読みました。 

【米政権交代】 「アメリカ第一」 トランプ新大統領の就任演説 全文と和訳 (BBC News) - Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170121-38702737-bbc-int 

うーむ。就任前からのツイッターなどによる情報発信となんら変わらないな。しかし、これ以上ないというほどシンプルな内容ですね。中学レベルの英語でもかなりの程度理解できるんじゃ?

ちなみに、オバマ大統領の演説も検索したら、ありました。

オバマ大統領の就任演説を英語で読む<日本語訳と解説付き> | 英語学習お助けサイト http://english-learninghelp.com/obama_president_speech/ 

こちらはずいぶん落ち着いた印象。内容は難解というよりも、何が言いたいのかよくわからないところがある。トランプの内容と比較すると、あまりの温度差に驚いた。

ブッシュ政権からの交代ということで、「平和」だったり「人権」だったりがキーワードになっていたんだろうか。トランプはもうとにかく「アメリカ第一、アメリカ第一」その一点張り。オバマ大統領の平和路線とは打って変わって。

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まあ、誰が当選しても本当はそんなに変わることはない、と僕個人は思うけどね。トランプだって、今までの発言はまだ就任もしていない状態で、しかもツイッターで非公式に言いたい放題言っていただけだったので、これからは少しは変わるはず。

このところ、本屋に行くとこの大統領選にまつわる本ばかりが出ていたけれど、大前研一の「日本の論点」という本を読んだら、「トランプが当選するかヒラリーが当選するかわからないが、どちらが当選してもあり得る今後の未来を書く」みたいな文脈で未来が語られていた。佐藤優も同様。いくら米国大統領とはいえ、時代の潮流を加速させるか、減速されるかぐらいしかできないのでは、と思う。少なくとも短期間では。

しかし、アメリカみたいに自分の国の代表を国民投票で決めるというのは、色々と欠陥がありそうな仕組みだなあとつくづく。盛り上がるけどね。日本も、総理大臣を誰にするかというので投票できたら盛り上がると思う。おそろしくて想像できないけど……。

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「三人寄らば文殊の知恵」という言葉がある。これは、三人が集まって相談すれば文殊のごとく有用な知恵が出てくる、というもの。

だけど勘違いされがちなのは、三人いるから知恵が三倍、という意味ではない、ということ。三人いると、いい知恵が出てくる可能性が上がるというだけであって、実際には三人の意見が同程度に扱われるということではない。悩んでいるうちに、一人がいいことを思いつくかも、というだけの話。

科学の世界では、ほんのひとにぎりの大天才によって大きく進歩を遂げてきた。三人いれば文殊の知恵だけれど、凡夫を何百人集めたところでアインシュタインにはかなわない。

政治の世界は、なかなかこうはいかない。「これがベストだ」というのは科学と違って示せないから。だから、声高に「アメリカ第一!」と叫ぶ大統領に、たとえば失業者なんかは「そうだそうだ!」と期待をこめて投票する。 テレビに出てるトランプ支持者も、多くは生活が厳しい人たちみたいだし。

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もうなっちゃったものはしかたが無いから、とりあえず日本人は、これから日本がどのような扱いになるのか要注目ですね……。 

雪がたくさん降りました

15日ぐらいから、「今年最強の寒波」とかいう寒波によって、全国的に大雪に見舞われた。僕の住む三重県もたいへんな雪に見舞われた。周りの人たちによると「20年ぶりの大雪」とか言っていたので、 じつに珍しい現象だったのだろう。

ふだん雪があまり降らない地域なので、数日間におよぶ積雪によって周囲の景色は一変してしまった。ふだん雪が降らない地域というのは、公共の除雪対応がほぼ期待できない。積もり積もった雪は、住人がそれぞれの家からスコップとかを持ち出して雪かきしていた。

雪が降ると、やっぱり雪というのは災害だなというのがわかる。道路が滑るというだけでなく、新雪が積もると車が通れなくなる。車が通る道は獣道みたいに通れる「わだち」ができるが、どうしても道幅が狭くなるし、凍り付いたりするともう大変。

祖母の家が実家近くにあるのだが、雪かきができないので、ほぼ二日間ぐらい幽閉されたような状態になっていた。市街地にいながらにしてクローズド・サークルになるとは。おそろしい……。

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僕は幼少の頃、アメリカに住んでいたことがあるのだが、 内陸部で、冬はおそろしいほど雪の降るところだった。だが、冬になれば雪が降ることが日常なので、除雪車がひっきりなしに走り回っていて、道路に雪が溜まっているなんてことはなかったし、家もセントラル・ヒーティング(家の地下室に暖房設備があり、家全体を温める機構)だったので冬でも家中が温かく、普通にTシャツで過ごしていたりした。

結局、問題が起きるのは「想定していなかったこと」に対して起きるんだな、と。「日常的に発生するリスク」であれば、日常的に対策をしている(対策にお金をかける)。想定していないレベルの災害が起きれば、当然問題も起きる。

「想定していなかった」って、なんか、どこかで聞いたような文言ですね。気のせいかな……。

僕が思うに、「想定していない」という事態は、存在しないのではないかと思う。専門家は想定していないわけがないし、想定していなければ専門家ではないだろう。

想定していなかったのではなく、お金をかけていなかった、それが正解。

人類の話題の大多数を占めるもの

小説を書いていると、小説の人物にあらゆる会話をさせるわけだが、ふと、世間一般の人々はふだんどういう会話をしているのだろう、と気になることがある。小説のなかでは、なんらかの物語の流れがあるから、ストーリー上、必要なことを喋るのだけれど、ふと、世間一般の人たちはどういう会話をしているのか、というのが気になることがあるのである。

同僚同士、先輩と後輩、または知り合い同士。いろいろな人間関係がある。たとえば仕事仲間だったら仕事の話をするだろう。家族だったら、もっと生活に沿った話題に違いない。でも、たとえば同級生同士だったり、部署の離れた同僚だったら、どういう会話をしているのか? 話題が枯渇することはないのだろうか。

じつは、人類の会話における話題で最も多いのは「うわさ話」だという調査があるらしい。しかもこれは現代に留まらず、古今東西、人類に共通する特徴だというのだ。

現代ではコミュニケーション手段が発達して、ショートメールやLINEなどでいろいろな情報をやり取りすることができるようになったわけだが、そこで交換されている情報の大多数が「うわさ話」なのだという。

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言語を持つのは我々人類のみに与えられた特権というわけではなく、あらゆる生き物に「言語」が存在するということは研究によって明らかになっている。ある種のサルは、ライオンを見かけたときには「ライオンがきたぞ」という声を発するし、鷲を見かけたときには「鷲がきたぞ」という声を発する。研究チームがそれらの声を録音し、その反応を確かめた研究があり、ほぼ確からしいものとして結果が立証されている。

ただ、「うわさ話をする」動物というのはいるのだろうか。「ライオンがきたぞ」程度のシグナルであれば、言語としていろいろな生物が持っているものの、それは言語というよりは信号に近い。ある種の信号のONとOFFでしかない。うわさ話を、単なる信号によってできるようになるとは考えにくい。「言語が高度かどうか」は、「うわさ話ができるかどうか」と考えることはできないだろうか。

うわさ話は、単なるゴシップなので、低俗なものと思われがちだが、けっこう人類はうわさ話によって情報を得ようとする傾向にあるようだ。ビジネスにおいても、外交においても、公式の会談のみならず、「うわさ話」をすることによって自分にしか得られない独自の情報を収集しようとする。これだけあらゆるコミュニケーション手段が発達しても、じかに人に会って話をすることを現代人が好むのは、まさに「うわさ話」ができるからに他ならないのではないだろうか。

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仮に人工知能ができるようになれば、うわさ話ができるレベルまで発達しないと、人間が「これは面白い」とコミュニケーションが取れるようにはならないだろうな。ペッパーくんだって、確かに面白いけれど、なんかすぐに話題が枯渇してしまいそうだし。

いろんなペッパーくんが相互に情報をやり取りして、より高度なうわさ話ができるようになったら……。まあ、それはそれで怖いけど、人気が出ることは明らかだろう。と同時に、人類にとっては大きな脅威となるに違いない。 

数学と抽象化

数学は抽象化の学問だといわれる。「数字」は具体的なもののように思えるが、数字そのものは見ることができない。数字とは、あくまでも結論を導き出すための道具にすぎない。

ちょっと前に、「小学校の掛け算問題」が話題になった。

かけ算の順序問題 - Wikipedia 
  • 日本では、1972年に朝日新聞で報道されて以来、数学者らにたびたび取り上げられた。「かけ算の順序強制問題」「かけ算の式の正しい順序」「かけ算の順番」などとも言われている。
ちょっと前に話題になっていると思ったら、1972年から論争は続いていて、先日のはそれが再燃したものらしい。暇な人というのはいつの時代にもいるものですね。

論点になっているのは、「かけ算を小学生に教える際に、どういう順番で式を組み立てたかを評価するか」というもの。
  • 「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい」というかけ算の問題において、交換法則から6×4は4×6は同じ値になるため、不正解にすべきでないという主張がある。 
ほんとこれ。「6人のこどもに、1人4こずつみかんをあたえたい」という問題において、それを数字に置き換えた段階で、「具体から抽象」への移行を済ませている。数字になってしまえば、6×4だろうが、4×6だろうが、同じ答えを導き出すことができる。

これは、数字に置き換えたからはじめてできること。もともとの文章を「4人のこどもに、1人6こずつみかんをあたえたい」と変換することはできない。まだ抽象化への移行と済ませていないからだ。

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面積を求めるのも、速度×時間で距離を求めるのも、必要となる道具は掛け算になる。いったん、数式に置き換えてしまえば、同じ数学の法則で答えを導くことができる。しかし、面積と距離は同じものではない。「数式化」した後だったら「数学のルール」で答えを導くことができる、というだけ。

小学校程度の数学だと、まだ具体的にイメージできるものが多いが、中学、高校と進むにつれて、連立方程式、微積分、虚数、等々、どんどん抽象的になっていく。

「なぜ数学を学ぶ必要があるのか?」とはよくある問いのひとつだが、数学はそれ自体に意味はなく、道具のひとつなのだ。どんなに簡単な事象でも、どんなに複雑な事象でも、いったん数式に変換することができれば、あとは数学のルールで答えを導くことができる。その答えを、ふたたび現実世界に「還元」することで、はじめて現実世界の役に立てる。

僕自身は文系なのでほとんど数学の恩恵に預かっていないが、工学などの分野ではもちろん数学は必要不可欠な道具のひとつだろう。抽象化は、人類の英知のなかでも最大のものだと思う。 

情報の賞味期限

情報には賞味期限がある。「最新の情報」であればあるほど、賞味期限は短い。たとえば、学術的に何か新しい発見があったとしても、それ自体は単なる「速報」にすぎず、情報としての鮮度は瞬く間に薄れてしまう。一週間後、一ヶ月後には、また新しい情報に更新されてしまうからだ。

科学的な発見も、きちんとそれが立証され、他のあらゆる研究者のあいだで定説となるまでには時間がかかる。そして、「定説」となったときには、もう少し賞味期限の長い新たな「情報」として再構築される。それを繰り返し、やがて教科書に載るようなレベルの情報に成長していく。

ホリエモンこと堀江貴文は、よくエッセイやインタビューの中で、「情報のシャワー」という言葉を口にする。「まるでシャワーを浴びるように、日々、膨大な情報に触れる」のが彼の流儀なのだ。スマートフォンなどを使って常に膨大な情報にアクセスし、自分の中に知識として溜め込んで行く。あらゆる人に会い、色々な話をすることで、ビジネスチャンスを模索する。

IT業界は移り変わりが激しいので、ビジネスモデル自体も賞味期限が短いから、情報もそれだけ鮮度の高いものでなければ意味がない、ということなのだろう。だが、そのような情報はすぐに古くなっていってしまうので、次々に新しい情報を入手しつづけなければならない。

反対に、賞味期限の長い情報を入手するためには、古典を読めばいい。古ければ古いほど、人類にとって普遍的な情報であり、どんな時代でも通用する情報だ。現代で全く通用しない情報は次々に淘汰されていくから、現在まで「名著」として残っている古典は、それだけで賞味期限の長いテキストの情報である証明なのだ。

これらの情報を得ても、自分が活用できるレベルまで落とし込むのは非常に困難なのだが、賞味期限の短い情報を次々に入手していく手間を考えると、効率は良い。賞味期限の短い情報を次々に摂取しても、自分の中で体系化することができないかもしれないが、古典を読んで、自分の中に思考の軸をつくっておくと、「情報に振り回される」ことがなくなる。両者をバランスよく摂取することが必要であるように思う。

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自動車で走る道路を憶えるとき、僕はこの「賞味期限の短い情報」と「賞味期限の長い情報」を意識することで効率よく道路を憶えられることを経験的に知っている。

はじめて住む土地の道路を憶えるときは、まず街を縦断する大きな道路を走って憶える。だいたい、主要な道路はどこかで交わるから、走っているうちに、街のおおまかな構図が見えてくる。

主要道路さえ憶えてしまえば、どこに向かって走っても、いずれ主要道路にぶつかるので、道に迷うことがない。適当に走っていても、頭のなかでは主要道路の位置関係がわかっていて、「このまま走ればあの道路のあのあたりに出るな」ということがわかるので、不安になることがない。

どこか買い物に出かけたりするとき、目的地が必ずしも主要道路沿いにあるとは限らないが、主要道路さえ押さえておけば、あとは「ここの交差点を曲がるだけでいい」とか、枝葉の情報をくっつけてやるだけで簡単に目的地に到達することができる。

主要道路がわかっていない人は、いちいちどこかに出かけるたびに、自宅から目的地までの詳細な地図を必要とする。ひどい人は、カーナビに頼りすぎて、何年も住んでいるのにカーナビなしではどこにも行けなくなってしまう。

主要道路 = 賞味期限の長い情報
目的地  = 賞味期限の短い情報

このふたつを組み合わせることで、効率よく土地の道路構造を把握することができるのだ。この考え方は、あらゆることに通じると思う。

たとえば、将棋の棋士は、膨大な棋譜を憶えることができるが、プロ同士の対局は極度に合理化されているため、「こうくればああなる」という道筋が読みやすいため、物語として棋譜が作られているので憶えられるのだそうだ。素人のデタラメな対局は、そういった「道筋」がバラバラなため、憶えるのは非常に難しいという。

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やみくもに読書をしても、得られる情報は少ない。枝葉の情報で最新情報をつかみつつ、「これだけは押さえておきたい」という古典を読むことによって、自分の中に思考体系を構築し、さまざまな問題解決にあたることができるのではないかと思う。

ブラタモリにあるのは「敷衍」の技術

文章技術で、「要約」という言葉は良く聞くと思う。長い文章の要点をまとめ、短い文章でそれを表現する技術のことだ。

では、「敷衍」という言葉を聞いたことがあるだろうか? これは「ふえん」と読むのだが、「要約」と対を成す存在である。「意味をやさしく言い換えたり、詳しく述べたりする」という意味だ。要約も現代社会を生きていく上では必要な技術なのだが、敷衍に関してはあまり語られることが少ないように思う。が、敷衍の能力は、じつは結構大事だよな、ということを良く感じる。

学校の教科書は、あらゆる知識体系が網羅されている。「地理」「化学」「日本史」などと科目ごとに一括りに体系化してあるわけだが、たとえば日本史を語り尽くすのにあの程度の書物で網羅できるはずがなく、かなり乱暴に要約されている。要約されつくし、これ以上はなかなか削れないというところまで要約されたものが学校の教科書だと思う。

その要約され尽くした教科書を、敷衍の技術によってわかりやすく説明するのが教師の役割だ。教師の評価は、「わかりやすいかどうか」ということに尽きる。生徒が理解できないのは生徒の責任ではなく、敷衍の技術が足りなかった教師の力量不足によるものだと僕は思う。

一般企業でも、官公庁でも、プレゼンテーション能力の多寡はよく問われる。プレゼンテーションは、スライドなどに要約された資料を、わかりやすく語るところに技量の差が出る。どうでもいいところは飛ばし、重要なところはかいつまんで詳しく説明する。このときに、「敷衍」の能力がないとうまくいかない。

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テレビで「ブラタモリ」という番組があり、父が好きで僕もよく見ているのだが、あれはかなりマニアックな内容をゴールデンタイムでやっているので凄いと思う。母などは「面白いけど、あれがあの時間帯でやっていることに違和感を感じる」とよく言っている。

しかし、あの番組はマニアックなようでいて、あくまでもタモリがあたりを「ブラついている」というコンセプトでやっている番組なので、堅苦しいところがまったくない。いつも研究者などが解説についていっているが、あの解説員だけでは面白い番組にならないだろう。たまにタモリがどうでもいいことをはさみつつ、「興味深そう」にしているのが「面白さ」につながっているのだ。

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とはいえ、あの番組はあくまでもエンターテイメント番組なので、「地質学を勉強しよう」という目的にはもちろん向かない。ただ、タモリによる「敷衍の力」がすごい、そういう番組なのである。

バーチャルが現実を超えられないただ一つの理由?

バーチャルリアリティの技術が発展したことによって、あらゆる現実のモノがバーチャル上で再現できるようになった。このブログでも、ドワンゴが開発した「超人工生命体LIS」について言及したことがある。

 ドワンゴで産まれた超人工生命LIS、ハッカソンでカンブリア紀に突入! - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース) https://wirelesswire.jp/2016/04/52114/

人工知能生命体……。「自分で学習していく人工知能」というのは、SFネタとして古典的なので、多くのSF作品で見られる。藤子不二雄のマンガ「ドラえもん」では、未来世界ではロボット学校というのがあって、人間社会で人間の役に立つための勉強を「学校で教える」、という情景が描写されていた。

もちろんマンガの世界だから、読者である小学生が読んだときに親近感を持ちやすいようにそのような設定にしたのだろう。しかし、当時、「ロボットなんだから、情報を強制的にインストールしてしまえばそれでいいのでは?」と子ども心に思った。しかし、あらためて考えてみると、あんがい、「ロボット学校」というアイデアは現実的なのかもしれない。

なぜなら、常に世界の状況は常に変化しているから、情報をインストールする手法だとアップデートの手間がかかる。というよりも、状況が変化するごとに新たな情報をインストールしなければならないから、最新情報を常にアップデートすることは不可能だ。

最もシンプルな仕組みで、あらゆる状況に対応するためには、「自律的に学ぶ」ほうがいい。「ロボット学校」は、効率は悪いかもしれないが、いろんなことを学ぶことができるに違いないので、本当に採用される可能性がある。ロボット同士の社会でもいじめや上下関係があって、社会勉強をしていくとか(笑)。

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だが、どんなにバーチャルリアリティや人工知能が発達しても、おそらく実装されないものがある。僕は、それは「痛み」だと思う。バーチャルリアリティの世界や、人工知能生命体に、果たして「痛み」は実装されるだろうか?

バーチャルな表現が発達しても、「痛み」は実装されていない。映像表現が発達しても、「痛い」という痛覚は感じないだろう。ゲームをやっていて、撃たれるたびに痛みを感じていたら大変。コントローラが震えたりして、「痛み」のシグナルを出すことはできるかもしれないけれど、それは到底「痛み」とは呼べない。本物に近い「痛み」が実装されることはないだろう。「痛そう」ならあるけれど、実際に痛いわけではない。この感覚は近いようで、全然違うと思う。

同様に、人工知能生命体に「痛み」は実装されるだろうか。人工知能生命体を育成する空間で、生き物を育てる。当然、「痛み」という仕組みを作らなければ、「痛み」を知らないまま生き物は育って行く。しかし、「痛み」を知らないで、高等な知能を持つ生物に育つだろうか?

「危険なことをすれば痛い」というシグナルがないと、平気で危険なことを行うようになる。腹痛の痛みは筆舌に尽くし難いものがあるが、そういうものがないと道ばたに落ちてるものを平気で食べてしまうようになるかもしれないし……。自分に痛みがなければ、他人の痛みも理解できず、他人の痛みが理解できないと、平気で暴力的になる。

「痛み」というのは、合理的な考え方とは相反する「感覚」であり、これこそが人間を人間たらしめているものだと思う。他人の「痛み」をリアルに感じることができる人は、決して人を傷つけることはできないだろう。逆に「痛み」を感じない人は、いくらでも残虐になれる。

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イヤな記憶によるトラウマも痛みの一種だろう。そういった「痛み」「イヤな記憶」「ネガティブな感情」……そういった、「不快感をもたらす信号」が、生物にはどうしても必要だと思う。まだLISも原始的な段階だからそういう痛覚が必要な段階にはなっていないが、さらに発展してくると、立ちはだかる壁のひとつになるのではないだろうか。

そう考えると、「痛覚」というのは神が与えた仕組みの中でも最も高度なものだ、と思える。本当に、リアルな痛覚を備えたバーチャルというのは実現するだろうか? 

僕は、実現しないと思う。それが、バーチャルは現実を超えられないただ一つの理由である。 

すぐ隣にある知らない世界

このエントリを読んでいた。

武豊騎手の『吉野家』と、僕の家族の『すき家』 - いつか電池がきれるまで http://fujipon.hatenablog.com/entry/2017/01/10/120000

騎手の武豊氏は、これまでの生涯で一度も「吉野家」に行ったことがない、という話。それに対して、ブログ主は「住む世界が違うんだなあ」と感慨深げ。

吉野家に入ったことがない……。体重管理がまず最優先される騎手という職業柄、そんなジャンクフードのようなものを食べる習慣がないのはもちろんだが、なんとなく、入る機会を失してしまったんだろうな。

僕は吉野家に入ったことはあるが、競馬を見に行ったことはない。武豊騎手が当たり前のように目にしている世界を、逆に僕は見たことがない。

世界は本当に狭くなったと思う。国内であれば、その気になれば、たった今から準備しはじめても今日中、あるいは明日中には行くことができるだろう。地球の反対側へだって、三日もあれば行けるに違いない。

本当にやりたいことがあれば、そのためのお金は死ぬで準備すればたいていは何とかなる。いろんなところから借金したっていいわけだし。豪華客船で世界一周旅行だって、500万円ぐらい用意すれば行けるのではないだろうか。もちろん少ない金額ではないが、本気で用意しようと思えば十分に対応できる金額だ。

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世の中の大半のことは、「やれない」んじゃなく、「なんとなく、やってない」のではないだろうか。武豊騎手が吉野家に行ったことがないのは、体重管理のためが主要な要因ではないだろう。「ただ、なんとなく」なのだ。僕はパチンコ屋に入ったことがないが、これも「ただ、なんとなく」。別に深い理由があるわけじゃない。

仕事だと、このハードルはけっこう簡単に超えられる。仕事だと、「ただ、なんとなく、やらない」というわけにはいかないからだ。「どうしても、やる必要がある」ので、やるわけだが、自分の意思とは無関係に世界が広がって行くような感覚があって、それがけっこう面白いこともある。 

違う世界は、遠い場所にあるのではなく、実はすぐ隣にあったりするのだ。「特に、行く必要もないから」行かないだけで、行ってみたら、けっこう面白い体験が出来たりするかもしれない。 

クラウドファンディングは未来をつくるか?(メモ)

(この記事は批判・批評ではなく、自分の思考メモ的なものなので悪しからずご了承ください。)

最近、クラウドファンディングという仕組みがよく話題になる。仕組みそのものはずいぶん前からあったみたいだけれど、クラウドファンディングを利用して資金集めをしたサービスだったり、プロダクトだったりが最近になって注目を浴びるようになってきたらしい。

最近では、映画「この世界の片隅に」という映画がクラウドファンディングを使って資金を集めた、ということが話題になった。



クラウド(群衆)からファンディング(資金調達)する仕組みというのは、インターネットの仕組みをうまく使って、いろんな人から資金調達できる素晴らしい仕組みだ、というふうに認知されている。果たしてクラウドファンディングは未来をつくるのだろうか?

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僕は今まで知らなかったのだが、クラウドファンディングにはいくつか種類があるらしい。

  1. 寄付型……金銭的なリターンのない、いわゆるお布施のようなもの
  2. 投資型……株式などと同じように、プロジェクトの収益に応じた金銭的なリターンのあるもの
  3. 購入型……プロジェクトに関わるなんらかのサービスや物品を買うことで支援するもの

いろいろな種類がありますね。

僕は、「民衆から資金調達」をするのだから、2の「投資型」がメインになるのだろうなと思っていたのだが、どうもそういうわけではないらしい。

というのも、「投資型」になると、金融商品のようなものになってしまうので、金融商品取引法などによって送金が制限されてしまうらしい。なるほど、言われてみればそうかもしれない。

1の「寄付型」も、一定以上の金額になると税制上の制限を受けたり、個人の場合は控除を受けることができないなど、 どうも無尽蔵に無税で寄付してもらえる、というものでもないようだ。

だから、日本では3の「購入型」が主流になるようだ。家入一真氏が主催する日本最大級のクラウドファンディング・プラットフォームの「campfire」でも、まず目につくのはこうした「購入型」のプラットフォームである。

クラウドファンディング - CAMPFIRE(キャンプファイヤー) https://camp-fire.jp/


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「購入型」は、金銭以外の様々なメリットを提示する。一番多いのは、その商品そのものを対価として差し出す、というパターンだろう。ある製品を開発・製作するための費用をクラウドファンディングで調達し、実際に作ったものを資金提供してくれた人に返す。また、イベントを主催する費用をクラウドファンディングで調達し、リターンとしてそのイベントに招待する。非常にわかりやすい。

だが、この仕組みには違和感がある。これって、要するにその商品を「販売」しているにすぎないわけだから、クラウドファンディングといいつつ、単なる商品のネット通販と変わらないのではないか、ということだ。

ネット通販と違う点は、まだプロジェクト自体が完成していないことと、クラウドファンディングそのものが「支援」の性格を持つため、プロジェクトの価値=リターンではない、ということだ。通常の製品開発の手順としては、まず先行投資をして開発をし、製作をし、その上で販売をするわけだから、先行投資のための資金調達や、在庫リスクなどを抱えなければならない。その点においてクラウドファンディングのほうがはるかにリスクが少ないといえる。確かに未来的かもしれない。

ただ、いくつかクラウドファンディングの内容を見て行くと、けっこう「リターン」に苦戦しているものも多い。製品開発の場合はその製品自体がリターンになるのでわかりやすいが、なかなかリターンに還元しづらいプロジェクトの場合、たとえばグッズをつけるとか、投資してくれた人に限定して何か特別なサービスをするとか、けっこう苦労してリターンをつけているように見える。

リターンがないと購入してもらえないので、過剰にサービスしなければならないのはしかたが無いと思う反面、これではリターンのためにプロジェクトを立ち上げるようなもので、本末転倒なのではないかと感じる。本来は、リターンではなく、プロジェクト自体に全神経を注ぐべきなのに。また、リターン目的ではなく、プロジェクトそのものに支援しなければならないはずなのに。

こうした状況を無くすには、むしろ、「投資型」と「寄付型」のふたつにハッキリ分かれていたらすっきりするのに、と思う。「購入型」は、リターンにばかり目がいくせいで、中途半端になっているような印象を受ける。

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クラウドファンディングが未来をつくるか? という疑問に対して、僕はやや懐疑的である。面白い仕組みだとは思うが、一時的なイベントや試作品を作ったりするのに役には立っても、長期的な利潤をあげられるようなビジネスはなかなか生まれにくいのでは、と思う。

通常のビジネスでは企画をしてもなかなか企画は通らない。いろいろな障害が、ビジネスをスタートさせる前に行く手を阻む。サラリーマンにしてもそうだし、外部のコンサルタントにしてもそうだし、起業して新しいプロジェクトを生み出す際に、銀行やベンチャーキャピタルから資金調達する際にしてもそうだ。新しい試みはことごとく否定され、糾弾される。先見的であればあるほど、そういう扱いを受ける。

それは理由としては単純で、資金を出す側が「プロ」だからだ。さまざまなプロジェクトを見てきて、「このプロジェクトは失敗する可能性が高い」ということが事前にわかるから、「出直してこい or 他を当たってくれ」と言うことができる。

そして、そういう人たちの意見というのは、たいてい正しい。もちろん予言者ではないから、否定したプロジェクトがそのままの状態で成功することもあるかもしれないが、大部分においては、企画が否定される場合にはなんらかの落ち度がある。それを否定されるたびに検証し、磨いていかなければ、まともな企画になっていかないのだ。

クラウドファンディングの資金調達元は、いわば何も知らない群衆なわけだが、当然、金融のプロでもなんでもないから、そのプロジェクトにその費用がかかる妥当性もわからないし、成功するかどうかも当然わからない。

資金調達側も、はじめてそのプロジェクトをやる、というパターンの場合、コスト試算を誤って、思った以上に資金がかかることがわかり、計画が頓挫する可能性も考えられる。ひどい場合には、最初からプロジェクトを遂行させるつもりもなく、詐欺のようなデモをして資金を集めて逃走してしまうパターンだってあるかもしれない。

最終的に、プロジェクトそのものの価値で資金が集まるのではなく、ただ単にその人の知名度の多寡によって資金が集まったり集まらなかったりするだろう。もはや民主的な要素は、最終的には消え去ってしまう。 

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仕組みとしては面白いと思うし、それによって従来なかったようなプロジェクトやイベントが起きるのは面白いと思うが、 どちらかというと「お祭り」用であって、長期的なビジネスに繋がる可能性はあまりない、と僕は思う。

「この世界の片隅に」のクラウドファンディングも、全制作費を調達したわけではなく、デモ用のパイロットムービーの製作のために3000万円ほどを調達しただけのようで(それでも最大規模の調達だったらしいが)、実際の製作には2億5000万円ほどがかかっている。また、映画もそれ単体では「お祭り」のようなもので、長期的なビジネスではないと思うので、まあそういうものなのかもしれない。

もちろんクラウドファンディングを否定するわけではないが、僕はなんだかんだいっても「投資型」が最も健全であるように感じる。ただ、「投資型」であれば、ベンチャーキャピタルやエンジェル投資家のほうがはるかにシビアにプロジェクトを審査するし、その後のサポートもするはずなので、さらに健全だと思うのだけれど……。 

「つまらない労働」がすべてを変えた

最近、「サピエンス全史」という本が話題になっているらしい。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2016-09-08


僕はまだ読んでいない。読んでいないが、面白そうな内容だったので、いずれ読むと思う。マーク・ザッカーバーグやビル・ゲイツが本書を強く推薦しているようで、だからというわけではないが、少し面白そうな本だな、と思った。

テレビで、販売促進のプロモーションとして、内容の一部がざっくりと解説されていて、なるほどと納得させられるものがあった。テレビでは、農業の発明が人類を不幸にしたと伝えていた。曰く、狩猟時代には人間の労働時間は一日にたったの数時間しかなかったが、農業を発明したことにより、我々の労働時間は飛躍的に増加し、かつ単純労働が増えたことによって一人当たりの幸福度が減った、と。つまり、「農業の発明」が結果的に人々に不幸をもたしたのだ、と。

この主張はどうなのだろう。一見すると正しいように思えるが、果たしてその通りなのだろうか?

電通の自殺騒ぎに連動して、日本のメディアは「もっと人々が幸福に働くためには、どうすればいいか」ということを騒ぎ立てるようになった。それが、現代の人々の最大の関心事なのかもしれない。メディアは大衆の声を代弁しているのだ。

ベストセラーになる本というものは、その内容が素晴らしいだけでなく、時代の波にうまく乗っている。時代がその情報を求めていて、それに対してクリティカルにヒットしたものがベストセラーになるのだ。

この「サピエンス全史」は、少なくとも農業の発明に関しては、人々の幸福度を下げた元凶として、自説を展開しているわけだ。

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ちょっと前に読んだ本「銃・病原菌・鉄」も、似たような、人類史に関する内容の本ではあるのだが、 もう少し客観的に、農業の発明が人類にどのような影響をもたしたか、ということを説明してくれた。




その本では、農業は狩猟中心の社会から突如として「発明」されたが、農業の発明によって、しだいに狩猟中心の社会は「淘汰」されていき、農業中心の社会に置き換えられた、と書かれていた。

狩猟中心の社会は、農業中心の社会に淘汰された。つまり、太刀打ちできないのである。農業中心の社会がまず可能にしたのは、備蓄可能な食料の確保だった。食料を大量に確保することができるようになると、直接農業に従事していない人間を大量に養うことができる。

農業中心社会は、土地の面積に対して、大勢の人間を養うことに成功したわけだ。そういう余剰食料によって、職業軍人を養うことが可能になり、官僚組織が形成され、それらを束ねる「国家」が形づくられていく。

さらに、彼らは基本的に同じ土地に定住をするので、移動の必要がなく、技術や設備を継承することができた。狩猟中心の社会は、それができなかった。つまり、移動の必要があるために、持ち運べるものは限られていたし、職業的な軍人も、それを組織するだけの組織力もなかったので、農業中心の「国家」に淘汰されてしまった、というのだ。

我々がいま生きている文明も、そうした「農業国家」の延長線上にある。農業を発明した人類は、次に工業を発明した。軍事力の強化とともに、文明を進歩させてきたのだ。

こう考えていくと、農業の発明は、果たして我々に「不幸」をもたらしたのか? と疑問に思ってしまう。

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確かに、狩猟採集時代と比較すると、農耕社会はつまらなく、やりがいのない仕事かもしれない。しかし、つまらない仕事が、より強大な力を生み、政治と権力を生み、小さな勢力を薙ぎ払っていった、と歴史は証明しているのである。 

こういう時代にあって、我々はどう生きていけばいいのか? その答えを、この本は知っているかもしれない。 

「今後、機密文書は紙で」(キリ

文科省で、人事情報などのデータを含むメールを、誤って全職員に一斉送信してしまったらしい。

「今後、機密情報は紙で」文科省のメール誤送信対策に驚きの声、話を聞いてみた http://www.huffingtonpost.jp/2017/01/10/mext_n_14075062.html

  • 本来は一人の部下だけに送信するつもりでした。今月からメールシステムを変えたばかりで、職員が操作に慣れていなかったことが原因です。
  • 人事情報などの秘密保持を要する情報は、メールを使わないようにして紙や口頭でのやり取りに切り替えます。

うーむ。

 これに対して、「メールではなく紙を使うというのは時代に逆行してないか?」という批判があがっているとのこと。

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こういう省庁で、「機密文書」に関してどの程度リテラシーをもって情報を取り扱っているか、というのがすごく気になる。機密文書とひとことで言っても線引きは難しくて、内部の情報で、内部の人は別になんでもないと思っているようなものでも、けっこう外部の人でそれを欲しがっている情報って多いように思う。

「名簿」なんかはその最たるものだろう。内部の人は誰がどのポストでどういうことをしているかは内部の人にとってはなんてことない情報だけれど、外部の人からはなかなかそれはわからない。 省庁の人事情報だと、たとえばテロリストの攻撃対象になっていたとしたら真っ先に入手したい情報なわけで。

メールシステムを変更したから、その基本操作に慣れていなかったことが原因らしい。

そういえば、ちょっと前に「プロフェッショナル仕事の流儀」で、省庁に対するサイバー攻撃を守るサイバー自衛官の動画を見た。

 

この動画は全篇ではなくて、デモムービー的なやつだけど。

このサイバー自衛官の名和氏によれば、省庁のネットリテラシーが低いがために起こる問題というのは多いらしい。番組「プロフェッショナル仕事の流儀」では、取材中に省庁から呼び出しがあったのだが、職員がソフトをネットでダウンロードして使ったところ、不正なマルウェアが潜んでいる可能性があり、問題になった、とのことだった。

仮にも省庁の職員が、ネット経由でダウンロードしたソフトをそのまま使うなんて……とつい思ってしまう。その尻拭いをさせられているのが、名和氏のようなプロであり、口には出さないが、 けっこうネットリテラシーについては頭を悩ませているような場面があった。

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「重要な機密をやり取りする方法」って、実際のプロ中のプロの現場ではどういうやり方をされてるんでしょうね。よく、映画なんかだと、寂れた公園のベンチに情報提供者同士が同じ方向を向いて座って、無言で茶封筒を交換したりするシーンがあるけど、あんな感じなんだろうか。

元外務省の情報分析主任だった佐藤優は、ノートはすべて紙に手書きで取るらしい。仕事でevernoteなどを使うこともあるそうなのだが、基本的にはすべてノートに手書きするとのこと。やはり、パソコンに潜入されて情報を盗まれないための対策で、外務省時代から継続して行っている、とのことだった。

ノートに手書きだと、仮に情報を盗まれたとしても、「盗まれた」ということがその場でわかる。デジタルのデータだと、不正にアクセスされても痕跡が残っていなければ「盗まれた」という事実が発覚するまでに時間がかかることがあり、それがリスクになるのだという。なるほど。

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文科省の職員レベルだと、そういうリテラシーは持ってないんですかね。まあ、どんなにネットリテラシーをもっていたとしても、基本的にネットの内部はアメリカの諜報機関には筒抜けらしいけどな!

……という、エドワード・スノーデンの映画が、今度公開されますね。絶対見に行きます。

 

すべては、だいたい昼食のせい

会社の出社時間が9時ぐらいだとする。だいたい出社直後は朝礼があったり、メールチェックだったりバタバタするので、なかなか自分の仕事に取りかかることができない。少し落ち着いてきて、やっと仕事ができる環境が整うのがだいたい10時前後。

10時ぐらいから仕事を片付けはじめても、11時半にもなれば「そろそろお昼だな」とソワソワし、「今日はちょっと、お店が混むかもしれないな」と昼食の店舗の混雑事情が気になったりする。12時に昼食を食べに出かけ、それで午後1時まで時間が潰れる。もちろん、午後は食後で眠くなるので2時ぐらいまではなんだか眠い。 まるで仕事に身が入らない。

そう考えると、仕事の生産性があがらないのは昼食のせいなのでは、とも思える。10時ぐらいから仕事をはじめて、 12時には食事に行って、13時から眠くなるのでは、いつ仕事をするのか、と思える。別にいつ食事を取ろうがまったく支障はないはずなのに、なんでみんな12時前後に昼食を取るんでしょうね。

休日、一人で図書館に行くようなときは、なるべく昼食を軽めに、おにぎり2つぐらいにして、それも14時前後に取ることが多い。サラリーマンだと、どうしても付き合いで昼食に出たりすることもあるけれど、自分は仕事が進まないのはだいたい昼食のせいだと思っているので、昼食は軽いほうが好みですね。

いろんなライフスタイルが考えられるのに、なんでみんなお昼はわざわざ12時前後に、しかもガッツリ取るのか、というお話でした。 

なぜ我々は社会問題に逃げるのか

ツイッターでこのマンガが出回っていた。


なぜ社会問題に逃げる若者が多いのか? というマンガ。なんとも手厳しい。私的な問題から回避するために、社会問題に「逃げる」らしい。

「若者起業家」「ボランティア活動」「NPO法人」といったキーワードに、なんともうさん臭さを感じてしまうのは、上記のような要因によるものかもしれない。「社会的に意義あること」というのは、一種のキラーワードで、「これさえ言っておけば反論できない」という悪魔の言葉。なんと言われても、「社会的に意義がある」と言われると、言い返せない。

ちょっと前に流行したSEALDsも、すっかり下火になってしまったことを考えると上記のマンガの内容に合致するのかもしれない。目の前の問題をとりあえず棚上げで、仲間と一緒に「正義」を振りかざす日々。

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とはいえ、あらゆる活動はかりそめでも正義感がなければスタートさえしないものだと思うのだけれど。こういった活動は、成功すればとりあえず持ち上げられるけれど、私的な問題が放置されたまま、社会的な活動に身を投じる人というのは少なくない。というか、スタートアップのCEOでも、プライベートで問題を抱えている人は多い。だから、上図のマンガは、自分の感覚としてはちょっと手厳しすぎるのでは、と感じる。

問題なのは、とりあえず直面している課題を放置して、「群れる」ことに重きを置いてしまうことなのでは、と思う。仲間とただ群れることで得られるものは少ない。同じ目的を共有して、それを達成するための「同志」は良いと思うけれど、ただ群れてもそこからは何も生まれない。

会社組織だって似たようなものだと思う。会社の同僚は、同じ目的を共有しているが決して友人ではない。なかには友人であり同僚である人もいるけれど、そんなのはごくごく一部であって、大部分の人は違う。 そして、友人同士で仕事をするより、「会社の同僚」として仕事をしたほうが生産性は高い。「仕事として」の付き合いは、馴れ合いがない分、面倒なことも少なく、あらゆる物事がドライに円滑に進む。やっぱ、ちゃんと物事を進めるにはこういったドライな関係性も大事かな、と。

貿易実務の勉強をしています

毎日、貿易実務の勉強をしています。貿易実務ハンドブックという500ページぐらいの分厚い参考書みたいな書類があって、その内容を暗記しています。転職先の会社は貿易のフォワーディングを専門とする会社なので、貿易系の知識が必要となり、とにかく無心で詰め込んでいます。一応、三月までに基礎的な知識を溜め込んで行く予定。

それにしても、貿易系の業務は憶えることが多い。今までは、ドメスティックの、つまり国内物流の仕事をやっていたのだけれど、色々と勝手が違う。国内物流ではわざわざ明文化していなかったような事項でも、しっかりと契約書に盛り込む必要があるようだ。

つまり、買い手側が責任をもつのか、売り手側が責任をもつのか、しっかりと明文化しないと、何か問題が起きた際に揉めるからだろう。 国内だったら、揉めた場合は電話をかけたり、当事者と話し合ったりしてその都度解決していくような問題でも、貿易の世界ではなるべく曖昧にはしないらしい。国際物流だとトラブル処理が大変だからだ。言語も違うし、現場を確認しようと思っても物理的に距離があるわけだから、事前の取り決めが命となる。

こうやって、「事前の取り決め」を明文化しまくる業務の場合、それを暗記したりすることは大変だけれど、そうやって明文化したりすることで得られるものって大きいな、と思う。いわば、これは「交通ルール」みたいなもので、みんなが使うものを事前に細かく取り決めてしまうことで、 無駄な作業を省こう、というわけだ。先人たちの知恵といえる。

こういうのは、こういった業務だけに留まらない。数多の冠婚葬祭などのルール、礼儀礼節などのルール。あらゆる儀礼、儀式。こういったものは、「定められた手順に則って行う」からこそ、逆に効率的なのだろう。相手に対して無礼のないように、最大限のもてなしをするように、いちいちその場その場で考える必要があったら大変だ。ある程度、「この場合はこうするものだ」というルールがあると、楽なのである。そんなことを、貿易実務の勉強をしていて感じた。

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どんな業界にも「最初にこれだけは憶えておかなければならない」というようなものがある。まだ入り口の段階に過ぎない。今後、どうなるかはわからないけれど、精一杯やっていきたいと思う。 

小さい神社のほうが絶対にご利益がある

今年も初詣に行った。滋賀県に多賀大社という神社があるのだが、そこまで両親と車で行った。大社、神宮と名のつく神社は規模が大きいから、当然あらゆる人が参拝に来る。平常時でも混んでいるぐらいのところだから、こんな時期であれば混んでいるのは当然だ。

参道のあたりの人はまばらだったが、境内に入ると溢れんばかりの人がいた。参拝までの道が長蛇の列で、お参りするまでに二十分ほど並ばなければならなかった。

こういう大きな神社に、こういうタイミングでお参りすれば当然こうなる。これが嫌いだというわけではない。こういう習慣が、正月気分を盛り上げるというものだ。大多数の人はこういうときでないと参拝には来ないのだから、それが正月気分をもり立てる。

数日経ってから、実家の近所の神社を参拝した。実家の裏はいわゆる里山になっており、ほとんど誰も寄り付かない神社が山頂にある。途中までは道路があるのだが、途中からは獣道になる。山頂の神社に着くと、いちおう正月仕様になっているのか、社の中に電気の明かりが灯っていた。誰か、ここを手入れしている人がいるのだろう。

正月の寒風が吹きさらす中、ほとんど誰も参拝に来ない、古びた神社。こういうところに来ると、むしろこういうところにこそ、神がいるような気がしてならない。

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神社参拝の常識として、お参りの際にはまずお願い事を言うのではなくて、まず自己紹介をするべし、というものがある。いきなりお願い事をしても、相手の神はこちらが誰だかわからないからだ、というのがその理由だ。神とはいっても、日本の神は万能ではないのである。神通力もそこまで強いものではない。まず、こちらから自己紹介をしないと、誰だかわかってもらえないのだ。

だから、ある程度の規模の神社に初詣に行こうものなら、人が多すぎてこちらのことを認識してもらえない可能性は高い。いや、ほとんど全くわからないのではないだろうか。なにせ、数千人、数万人の規模で人々が押し掛けるわけだから、こちらのことは認識できなくて当然だろう。アイドルのコンサートに行って、アイドルからこちらのことを憶えてもらおう、としているようなものである。当然、そんなことは期待できない。

寂れた神社の神であれば、神通力は人気のある神社よりは劣るかもしれないが、きっとこちらのことをちゃんと認識してくれるのではないだろうか。競争率が違う。誰も参拝に来ないような寂れた神社こそ、神も寂しがっているに違いないので、そこがチャンスだ。寂れた神社のほうがご利益がある、と感じるのはそうした理由による。

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神社はもともと、「神の象徴」として祭られるものだから、こういう認識は必ずしも間違っていないと思う。日本はアミニズムの信仰が古来よりあり、どんなものにでも神が宿っている、というような民族的信仰をずっと持って来た。いまでも、ネットスラングであらゆるものに「神」をつけたがるのもその名残だろう。一神教であるキリスト教徒は、たとえネットスラングでも「神」という呼称をあらゆるものにつけることに違和感があるそうだ。違和感がさほどない時点で、日本人の中にはそうした文化が根付いているものと推察できる。

実家の裏山にある神社は、その山の神を祭っている場所だ。だから、そこにいるのは、その山の守り神、ということになる。であれば、当然、参拝の際には自分の願望を押し付けるのではなく、その山、自然に対する感謝の言葉を念じるようになる。神社とは、もともとそうしたものだし、それが自然だと思う。

自分の願望を神社にお願いしたりしてはいないだろうか? もともと神社はそういうところではない。古事記などを読むと、誰かが泣いたりしていると神がそれを聞きつけて相談に来てくれる、ということは往々にしてある。初詣などと言いながら、特に生活に困ったりしているわけでもないのに神社に行ったところでご利益など期待できないだろう。

せめて正月ぐらいは、地元にある小さな神社を参拝してみてはどうだろうか?

子どもを「教育する」ということへの違和感について

僕ももう30に近くなってきたので、周りの友人などで結婚する人が増えている。子どもがいる人も多い。

まだ結婚していない友人と飲みに行ったりすると、熱心に婚活している人もいれば、結婚なんてまず関心がないといった人もいる。それぞれである。その振れ幅が極端なので、傾向が読み取れない。おそらく、平均に均せば、「結婚はしたくないし、子どももいらない」という人が多数派だろう、とは思う。

要は、結婚する・しないに対して、選択肢がある。結婚してもいいし、結婚しなくてもいい。子どもがいてもいいし、いなくてもいい。個人がそれぞれ、やりたいようにできるようになった。昔は、今よりは「結婚をする」という事に対する社会的な圧力が強かったと思われるので、そのぶん、現代では少子社会に移行しつつあるのだろう。

しかし、現代社会は、子どもにお金をかけすぎなんじゃないか、とよく思う。「子どもを作ったら大変なんだから」とはよく聞く意見だが、だったら子どもなんて別に要らないけど、となる。

なにしろ現代は選択が可能な時代になっているのだから、「子どもいると大変だ」とアナウンスすれば、「じゃあ、いらない」となる。簡単な話だ。うちの親などは、顏を見せるたびに「結婚しろ」と言うのだが、同時に結婚の大変さもアナウンスしてくる。そんなことを言われれば、「じゃあ、しない」という結果になるのは当然だと思うのだが、いかがだろうか?。 

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少子化社会問題を解決するのは簡単で、要するに、子どもを産むメリットを作ればいい。結婚するメリットなら、もしかしたらあるかもしれない。いまは女性も経済的に自立できるぐらい稼げるようになっているから、二人で生活するようになれば、一人当たりの生活コストが下がるのでメリットはあるだろう。でも、子どもができると、基本的にはお金がかかる一方だから、それだけではメリットはない。

なんていうことを書くと身もふたもないし、なんだか道義的に間違っていることを言っているという批判を受けかねないのであまり言えないのだが、それが事実だと思う。子どもをつくることに、愛情うんぬんを別にすればメリットはないのだ。だから、子どもをつくって育てている人を見ると感心してしまう。すごいな、と。

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そもそも、人とは教育するものなのだろうか。あるいは、教育されるものなのだろうか。僕は、もちろん教育を受けているけれど、「教育された」ような感じはあまりしない。

いま、自分が考えたり行動したりしていることは、どちらかというと、教育以外の要因によるものが大きいような気がしてならない。自分の好きなことだったり、こちらのほうがいいんじゃないか、と思うようなことに頼って少しずつ前進してきた。それが子どもであっても、「教育する」なんてのは、あまり自分にはピンとこないのだが。

面と向かってかまってもらうよりも、大人の背中を追いかけるのが子どもだと思う。言葉にして教育した以外のこと、親の姿や大人の姿を見て子どもは大きくなっていくのではないだろうか。

そういう自由な子育てでいいのならば、やってみたいとは思うのだけれど。 

海外旅行と治安について

最近、海外では物騒な事件が増えてきましたね。特に、最近はテロがらみ事件が多いので、昔とはなんだか世情が変化しているのを感じる。先日のトルコ・イスタンブールでの銃乱射でも、30人以上が亡くなったらしい。調べてみると、けっこうトルコってテロが頻発していて、30人規模の死傷者が出る事件は半年に一回ぐらいのペースで起きている。

よく、海外旅行に行きたくない人に共通する理由として、「海外は治安が悪いから」というものがあるが、最近の海外の事情を見るに、あながち大げさでもないのかな、と思える。ただ、実際にはニュースで取り上げられる事件は「異常」だから事件になっているのであり、実際にどの程度の危険性があるのかは統計などの資料で調べるべきだし、実際にどういうことに気をつければいいのかは外務省のホームページなどを参照するほうが確実である。 国によっては、死傷者が出ることなど日常茶飯事のところも存在するので。

一昔前までは、治安の悪さは「貧困」に由来するものが多かったのだが、最近はそうでもなくなっているところが違うと思う。僕はアメリカに住んでいたことがあるのだが、やはり貧困街、つまりスラムというのは存在して、そういうところではいきなり銃を発砲されたりということはもちろんないが(当たり前)、スリやひったくりの類いの犯罪にあう可能性は高い。実際、彼らの目的は金銭である場合がほとんどなので、お金や貴重品などを手渡せば解決することは多い。渡したくないからもみ合いになって暴力をふるわれる、というケースがほとんどだ。

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思えば中国は治安がよかった。僕は2013年から約2年間、上海市に仕事で住んでいたのだが、治安は良好そのものだった。2012年ごろ、反日デモなどが活発になり、日本のデパートや料理店がデモ隊に襲撃されたりしていたが、2013年ごろにはすっかりなりを潜めていた。

なんでだろう。いろいろな要因はあると思うが、ひとつは、中国当局の締め付けが強い、というのが理由だろう。中国では、勝手に政治的なデモを行ったり、集会を開いたりすることが禁じられていて、やるためにはちゃんと申請を行う必要がある。また、インターネットの規制が厳しく、中国のネットではツイッターやフェイスブックにアクセスすることができないし、外国のサイト自体を開くのもやたらと時間がかかるようになっている。中国当局から嫌がらせを受けたりすることはあるかもしれないが、街でいきなり暴漢に襲われるようなケースは極めてまれだといっていいと思う。

国民を締め付けていることが、結果として治安の高さに繋がっているのだろうか。これは僕の推測にすぎないのだが、あながち間違ってもいないと思う。警察がほぼ機能していない発展途上国の治安の悪さは、想像を絶するものがある……。

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トルコの件を聞いてから、僕でもちょっと海外にはあまり気軽に行けないな、と思うようになった。まだアジアは安全だと思うけれど、今後どうなるかはわからない。

東京オリンピック、どうなんですかね。その頃に、イスラム関係の問題が解決しているなんてことは……あるわけがないし。 

事前に「名曲を書く約束」は可能か?

このブログもそうなのだが、何かを作り始める際、事前にアイデアがあることは少ない。だいたい、行き当たりばったりで製作していく。作曲などは特にそうだ。作曲は、その場その場で思いついたことを次々に実行していくしかないから、事前に「こういう曲にしよう」と計画することが難しい。

自分で勝手に作って勝手に発表するだけなら別にそれでも問題ないのだが、他人から依頼されて曲を作る場合、途端に困難に直面することになる。「曲を書いてください」と言われても、現時点においてアイデアが何もないわけだから、できるかどうかの確約ができない。ビジネスにおいて、こちらが「できるかどうかわからない」状態で、「はい、できます」と請け負うのはハイリスクだ。作曲を仕事にしている人は大変だと思う。

したがって、事前に「名曲を書こう」と思っても書けない、というのが結論になる。良いかどうかはわからないけれど、とりあえず書くしかない。「良い曲を書こう」と思えば、書く過程におけるトライ&エラーを通常よりも多くする必要がある。あらゆるパターンを試してみて、本当にそれが良いものかどうかを吟味していく必要がある。すなわち、クオリティは労力にほぼ匹敵する。

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 クリエイティブなことを仕事にしたい、という人は多いと思うが、実際に仕事にするとあきらかにしんどいと思う。労力的な部分ももちろんだが、原資がないのに一定のクオリティを捻出しなければならないプレッシャーがすごい。僕なんかはそこまで本格的にビジネスとして関わっているわけではないが、それでもそのプレッシャーの片鱗を感じる。これを本格的にやっていこうと思えば、このプレッシャーが十倍、二十倍になるだろうな、と想像できるのである。

結論、アマチュアとしてクリエイティブなことをやっていくのが自分には合っている、と思う。アマチュアとプロの違いは、一番は報酬を得ているかどうかの違いだと思うが、自発的に製作するか、請負的に製作するか、の違いが一番大きいと思う。自発的に作ったアルバムを流通させるのももちろんプロの仕事だが、音楽を必要とする人からの発注を受注する、という形で製作するのが多くを占めるだろうとは思う。世の中の大半の仕事がそうだからである。

でも、真にクリエイティブな仕事は、前述の通り原資がないので、「作りながらいいものにしていく」しかなくなる。事前に名曲を確約することは、本来できないのである。できるとすれば、「なるべく良いものに仕上げられるように尽力します」ぐらいだろうか。しかし、それは単なる意気込みであってビジネスのコミットメントとは少し違う。

テレビなどで、クリエイターがうんうんうなって創作している場面がよく描かれるが、この「創作の苦しみ」は前述の「プレッシャー」が正体だと思う。自由奔放に、自分のやりたいように創作できるのなら苦しいはずがない。

僕は、いつまでもアマチュアでいようと思います。 
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