やひログ!

届く人には届くというタイプの読み物ブログです。

基本の和食

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外国に行くといつも困ることがある。日本人はいつも何を食べてるのか? とよく聞かれるのだが、外国人のこの素朴な質問に対して適切に答えるのが難しいのだ。いつも何を食べているのか? つまり、日本の代表的な料理は何なのだ、というシンプルな問いに対して、適切な回答をするのはなかなか難しい。
 
世界のどの都市に行っても基本的に日本料理店は存在する。僕は海外に出張に行くことが多いが、日本料理店に行くことも多い。「和食」として並べられている料理を眺めてみると、これほんとに日本の料理なの? というものがじつに多い。とんかつ、ラーメン、豚キムチ、カレー……。寿司はある国とない国があるが、衛生上の懸念もあり外国であんまり寿司は食べたくない。「鉄板焼き」という、外国ではなぜか和食ということになっている謎の料理もある。まあ確かに、カレーとかも日本人にとっては「国民食」というべき食べ物ではあるけれど、メニューを並べてみると無国籍というかなんというか。外国にある和食店は、日本人が経営していようがいまいが大体こういう感じなので、日本人はいったい何を食べているんだろう? というのが、彼らにはわかりにくいのだと思う。


一人暮らしをしてかなりの年月が経つが、あんまり自炊ということを意識してこなかった。最初に一人暮らしを始めた時に意気込んで調理用具を一式揃えたが、たいして活用はされなかった。適当にやると自炊はコスパが悪く、仕事が忙しくて時間もそんなにとれないので、あまり積極的にはやってこなかったのだ。コンビニ弁当は個人的にあまり好きではないのでほとんど食べないのだが、弁当屋はかなりの頻度で利用している。スーパーの惣菜にパックご飯、という組み合わせなども多い。しかし、さすがに30を超えると、ずっとこんな調子では健康に悪い。
 
食にそこまでこだわりがない方なので、だったら自分で簡単な料理を作った方がやり方次第ではコスパもよく、栄養的にも適切なものが作れるのではないかと思い、自分に合った食生活について少し考えてみた。実家では、白米はあまり食べず、いつも雑穀米を炊いていたのを思い出し、スーパーで探してみると、白米に混ぜれば雑穀米になるパックが売られていたのでそれを購入してみた。また、味噌汁をつくって、その中に野菜や肉などを入れることで、栄養をたくさんとることができるのではないか、と考えた。白米を中心とした雑穀米に加えて、野菜を多く盛り込んだ味噌汁。これをベースに、何か一品、魚でも煮物でもなんでもいいので付け加え、漬物でも添えれば立派な「和食の自炊」になるのではないか、と思った。できる範囲からやっていけば、難しいことはなにもない。
 
日本人は普段何を食べているのか? という問いに対しては、何でも食べる、という答えが正しいだろう。パスタを作るのが妙にうまくて、そればっかり食べてる人もいるだろうし、ラーメンが好きなのでそれをよく食べてしまうという人もいる。それが日本の料理かというと確かに疑問符がつくけれど、そういうのを食べる人が多いということは事実だ。しかし日本の伝統的な料理は何かということを考えてみると、米に味噌汁、それに豆腐などの発酵食品、それに煮物、旬の魚等を加えたものが日本の伝統的な食事になるのではないか、と思った。「代表的な料理は何か?」というのはそもそも質問自体のピントがずれていて、和食の基本は、シンプルな一汁三菜にあるのではないか、ということだ。「料理」ではなく、「一汁三菜」が「和食」なのだ。


白米は日本の米でなくてはならないし、味噌汁ももちろん日本の味噌でなければならない。魚や山菜なども、なるべく地産地消、旬の新鮮なものが良い。こういう風に考えていくと、日本の料理を外国で楽しむこと自体が極めて難しいということがわかる。料理の名前というよりは、日本において食べられる基本的な食事、これが「和食」なのではないだろうか。
 
今度外国人に日本の代表的な料理とは何かということを聞かれれば、一汁三菜の画像を探してきて、こういうシンプルな食事が日本人のスタイルなんだ、というように説明しようかな、と考えている。
 
和食とは何か。和食とは文化であり、日本のスタイルそのものだ。僕みたいな素人が適当なこと言えないが、そんなふうに今、「和食」を解釈しております。

自分語りは他人語り

200601

ずっとこういうエッセイのようなものを書き続けているが、基本的に書いている内容は全て自分語りである。あまりプライベートなことを固有名詞をあげて書く事は少ないけれど、しかし自分の周りで起きたことや経験したことをベースに、自分の頭で考えて書く、というスタイルをとり続けている。たまに、気になった特定のトピックについて話したりする事はあるものの、アクセスされている数字を追いかけていると、そういう記事は意外と読まれていない。需要があるのは、あくまで「自分語りの記事」のように観察される。
 
僕個人の経験や意見、思考などを読んだところでそこまで参考になるのかなというのは正直思うこともあるけれど、事実としてそうしたものが読まれているようだ。しかし考えてみれば、僕もそういったものを中心に読んでいるし、読みたいと欲しているような気がしてきた。例えば、チベットの奥地で暮らしている同年代の若者のモーニングルーティーンなど、もしあればとても気になるだろう。そもそも何時に起きるのか、起きてまず何をするのか、欲しいものは何か、どういったことが自分たちの組織にとって問題であると考えているか、そういったごく個人的な意見や所感などを聞いてみたいと思う。逆に、よくわからない専門外の事について持論を述べているものに対してはそんなに興味がないかもしれない。自分について語るよく知らない人に興味をもつようにできているのかもしれない。


結局のところ、「人間というのはそもそも似ている」だ、ということが考えられると思う。古代エジプトの人たちの価値観は現代人からすると大きく違うかもしれないが、同じ人類なのだから、共通するところだってそれなりにあるはずだ。古代エジプトのパピルスには、中間管理職である男性が、部下が仕事をせず、上司から発破をかけられてしんどいみたいなことが書かれていた、というような話もある。もし、赤裸々に自分語りをしているものが見つかれば、そういった差異が見つけやすい。だから人は、自分語りをする「他人」の物語に惹かれるのかもしれない。
 
宮崎駿の言葉で、「半径5メートル以内で起きている事はきっと東京でも起きている、東京で起きている事はきっと世界でも起きている」という言葉がある。宮崎駿の映画は世界中で共感を集め、親しまれているけれど、宮崎駿からしてみれば半径5メートル以内で起きていることを想像力を持って拡張しているに過ぎず、それ以上の事は何も書いていないのだという。半径5メートル以内にあることをしっかりと観察して、普遍的なものを生み出しているのだろう。究極の自分語りだと思う。そして自分語が洗練されたものであれば、それを他人について語ったものと同義であるのだ。


外国の人と話すときにも、同様のことを思う。まず、外国人と話すためには、日本のことをしっかりと勉強して、詳しくならなければならない。日本の地理、歴史、宗教に通暁していれば、外国人とのコミュニケーションもスムーズになることだろう。逆に、自分の国のことについてろくに知識もなく、海外の付け焼き刃の知識を持っていたとしても、相手にされることは少ないだろう。
 
自分をよく知り、自分を観察し、自分を語る。それによって、他人について語っているのと似たものにつながっていくのでは、と。

遠くへ行くための「学習の杖」について

200531

仕事で英語を使うため、英語学習を継続的に続けている。最近入ってきた新人は、英語の能力に危機感を覚えたためにオンライン英会話を始めたとのことだ。確かに最近はあまりお金をかけずに英語学習することが可能になったので、オンライン英会話を活用するというのも悪くない選択だろう。ちなみに僕はあまりこういった「教育」的なところにお金や時間を使うのはあまり好きではないので、自分なりの英語学習法を継続している。


基本は、英語の本を読んでいる。普通の本屋に行って、自分が読みたいと思った洋書の邦訳本を探す。日本語に翻訳されているレベルの洋書であれば、必ずKindleで英語版が発売されているので(元が英語でなかったとしても)、日本語の翻訳と一緒に英語版をKindleで購入する。
 
Kindleで英文を声に出して読みながら、そこに該当する箇所を後追いで読んでいく。意味が掴めたらもう一度同じ箇所の英文を声に出して読む。このやり方で毎日少しずつ本を読み進めていく。
 
英語はそれなりにできる方だと思っているが、仕事で英語を使えるということと、ネイティブなみに英語ができるのは違う。仕事で使う英語は言い回しや内容がある程度固定されているし、お互い同じ業種のプロ同士なので、コミュニケーションミスは少ない。仕事上では特に支障がないが、僕の英語力では、普通のアメリカ人が読むような本を原文で読んでも、おそらく半分ぐらいしか意味が拾えていない。だから、原文を読む間に邦訳を挟むことで、大意をつかみなおして、どんどん先に進んでいく。
 
高校までの英語学習のように、単語を一つ一つ覚えていくということをしない。とにかく質より量という感じで、大量に英語を流し込む。こういう大雑把な英語学習法ではあるが、今のところそれなりに効果をあげているので、悪い方法では無いのかな、と思っている。これを継続していきたい。


これを僕は「学習の杖」と呼んでいる。いきなり英語の本を翻訳なしで読み進めていくというのはハードルが高い。わからない単語が出てきたときに一つ一つ調べていたら時間がいくらあっても足りない。そこで、「邦訳」という「杖」を使う。おそらく英単語力だけでいえば、大学受験を控えている高校生の方が圧倒的にあるかもしれないが、ビジネスの英語の長文が読める、ビジネス会議が英語でできる、という点においては、僕の方が能力があるのでは、と思う。
 
20代までの学習は「自分の足でどれだけ歩けるか」というのが問われるように思うが、20代以降の学習は、パソコンや自動翻訳など、使えるものは全て使って、「道具を使ってでも、どれだけ遠くへ行けるか」が問われるような気がする。
 
一人で歩けないなら杖を使う。杖を使ってでも、どこまで遠くまで歩けるか、が問題だ。
 
今後も学習を継続していきます。

積み重ねか、死か

200530

習い事が苦手だ。小さい時はピアノや水泳などの習い事があったような記憶があるが、やがてぜんぶやめてしまった。どうも、人から何かを教わるということが根本的に好きではないらしい。やりたいことは、すべて自分の我流でやる。そういう気質が根本的に染み付いているようだ。
 
一方で、習い事が好きな人と最近話す機会があった。習い事が好き、というのも何だかよくわからないが、教わったことができるようになる、というのが純粋に快感らしい。なるほど自分と正反対のようだ。


習い事があまり好きではない理由としては、そもそも他人から何かを教わるのが好きではない、というだけでなく、何かの技能を身につけたとしても、ブランクがあるとそれが失われてしまうのが耐えがたい、と感じるからかもしれない。例えばピアノ数年間習ったとしても、しばらく弾いていなかったとしたらまた弾けなくなってしまう。そういったことを持論としてその人にぶつけると、「それでも昔と今とでは今の方が圧倒的にできることが増えているので、なんだかんだ前進している。進化している。」と自信をもって答えていた。まぁ、習い事というのは基本的には修練の積み重ねだから、後になればなるほど上達するというのは間違いではないのかもしれない。その習い事の師匠にあたる人だって、積み重ねによってその地位まで来たのだろうし。
 
僕は基本的に、創作を趣味としている。その点においても、いわゆる「習い事」とは少し趣が違うのかもしれない。とても良い作品が生み出せたら、それはその後の僕の技量とは関係なく、良い作品としてこの世に残り続ける。その感覚が気持ちいい。別に自分の技能を無理して維持していく必要はなく、完成された作品としてそこにあるわけだから、何かを残せたような気持ちになれる。これは一種の真実だろう。


せっかく覚えたことが失われてしまうというのはとてももったいなくて、僕にはどちらかというと耐え難いことだ。しかし創作にしたところで、創作の技術も向上したり衰退したりする。昔の方が良い作品を生み出せた、ということだって、今後は十分に起きうるだろう。歳をとって成熟し、より洗練された作品を生み出すことができるようになる人もいるかもしれないが、若い頃の方が勢いがあって素晴らしい作品を見出せたと言う人がいるかもしれない。素晴らしい作品を生み出し続けていたとしても、どこかでマンネリ化してしまったりもするかも。
 
もっとも、何かを残した、といっていても、未来永劫残るわけではなく、どこかの段階であっけなく消えてしまうものなのかもしれない。たったの100年前に生み出された作品ですら、現存しているのはほんの1部であって、多くの作品は現代においては忘れ去られてしまっているだろうし。
 
結局、何かを「残す」「維持する」など、ほんの一瞬の違いでしかなく、長い目でみたら誤差のようなものなのかもしれない。いま、この瞬間を大事にしよう。

ゴルフはいいぞ

200529

数年前、ゴルフにハマっていた。おおよそスポーツには一切縁がないといってもいい僕なので、ほとんど唯一ハマったスポーツといってもいい。ハマった、といってもそこまでのめりこみまくったというわけでもなかったが、月に1回弱、2か月に2、3回のペースでラウンドしていた。
 
昔から父に連れられて打ちっぱなしなどに練習に行っていたので、もともとある程度は打つことができた。しかし、実際にラウンドした経験はほとんどなかったので、自分の実力がどの程度なのかはわかっていなかった。ある日、経理部の課長と話をしていたら、今の会社のゴルフ仲間は全員がしょぼいから、とりあえず気楽に来てみたら、と誘ってくれたので、それならば、と軽い気持ちで参加することにした。父親からゴルフセットを一式譲ってもらい、ゴルフウェアとシューズを揃えて、5時過ぎの会社の駐車場に集合し、何台かの車に乗り合わせてゴルフ場に向かった。


ゴルフのスコアは100を切ると、「脱素人」だと言われる。経理部の課長を中心としたゴルフ仲間はほとんどが100を切れない連中で、ベテランの部長クラスの人たちだけがなんとか100を切る。そういう感じのレベルだった。つまり、ほぼ全員しょぼい、というのは言葉通りだったので、初めてでも気楽にラウンドすることができた。僕が最初にラウンドした時は130ぐらいのスコアを叩いてしまったのだが、やっていくうちにスコアは良くなり、一番調子の良い時は103まで迫った。だが、残念ながら最終的にも100を切ることはなく、僕は東京への転職が決まってしまい、会社のゴルフ仲間とはおさらばすることになった。
 
ゴルフは、田舎でやるならばかなりコスパが良い。僕は愛知県に住んでいたのだが、愛知や三重には平日のラウンドであれば5000円ちょっとで回ることができる。半日遊べて5000円ならば、相当にコスパが良い。
 
ゴルフの魅力は、いろんな楽しみ方があることだと思う。道具だって別に指定されていない。自分の好きなものを買って楽しめばいい。一番ヘッドの大きなクラブのことをドライバーと言うが、ドライバーは飛距離が伸びる代わりに結構扱いが難しく、軌道が右と左に大きくそれていってしまうことがある。ゴルフというのは指定されたコースの中を、球を打ちながらカップを目指して前進していくゲームなので、飛距離があるほどコントロールが要求される。飛ばしまくっても、軌道が逸れていたらすぐにOBしてしまう。僕はなぜだか一般的に難しいとされている、ドライバーの次に大きな「スプーン」というクラブの扱いが得意だったので、ついにドライバーを封印してしまった。極端な話、クラブ一本で全ホール回ってもルール違反ではないのだ(そういうゴルフ漫画もあった気がする)。自分が打ちやすいと思うクラブを使って、なるべく少ない打数でカップを目指す。とても自由だし、戦略の立て方も人それぞれで個性的であり、面白い。


いろんなスポーツをやる人いるけれど、なんか最終的にゴルフに行きつくような感じがする。プロ野球選手やサッカー選手でも、ゴルフはそういったスポーツの枠を超えてやる、と言う印象がある。もちろん普通のサラリーマンや会社役員でもゴルフをやるし。アスリートでも、素人でも楽しめる懐の広さがある、というところだろうか。
 
実力が全然違う人同士でもそれなりに楽しめる、というのも大きい。上手い人は下手な人にアドバイスしながら、コミュニケーションをとることができる(うっとうしい場合もあるが、それはそれでご愛嬌)。
 
またゴルフやりたいなあ。気が合う人と一緒がいい、というのだけが絶対条件ではあるが……。
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yahiro

87年生まれ。エレクトロニカと読書とブログとモノクロ写真。
twitterアカウント@yahiro2000

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