やひログ!

日々文章を書いたりしているんです?

お金を「買う」こと


「みんながあがる」と思っているから価値があがり、「みんながさがる」と思っているから価値がさがる。その実、価値なんて最初からない。みんなが「価値がある」と思っているだけ。それが、仮想通貨に限らず、すべての通貨に共通する真実だと思う。
 
貨幣について考えるとき、最もシンプルに考えるには、貨幣という「モノ」を買ってる、と考えると一番わかりやすいんじゃないか、と思う。貨幣、つまり紙幣や硬貨だ。日本円なら、一万円札などの紙切れ、あるいは500円玉などのコイン。あれをせっせと毎日労働をして、「買ってる」と思えばいい。
 
一万円札はなんの役にも立たない。食べることはできないし、着ることもできない。紙だけどメモ用紙にも向いていない。燃やすことはできるけれど、一瞬で灰になってしまう。あんな紙切れを数十枚受け取るために、僕らは毎日働いている。
 
じゃあなぜ、あんな紙切れを受け取ることが嬉しいのか。それは、他のものと交換することができるからだ。一万円札とパンは交換できるし、一万円札と服は交換できる。だから、あんな紙切れでももらうと嬉しいのだ。
 
それだけの価値を保持することができるのは、貨幣には偽造防止の技術が詰め込まれているからだ。一万円札を偽造するのは難しい。もし、一万円札を誰でも簡単に印刷することができたら、誰も一万円札を欲しくなくなる。もともとただの紙切れであって、価値は全くないのだが、「偽造ができなくて」、みんなが「なにとでも交換できると思い込んでいる」ので、「価値がある」という幻想を持っても支障がないわけだ。
 

仮想通貨界隈はものすごく盛り上がっているけれど、貨幣としての日本円と比べてみた場合、どうだろうか。何か日本円よりも価値のある理由があるだろうか。ビットコインは、「通貨」として成り立たせるだけの技術を確立した「仮想の通貨」だ。ブロックチェーンという技術がそれを可能にした。送金するときには、国家や銀行を介さなくてもいいから、外国と取引をするのがとても便利だ。しかし、通貨として優れている点は、それぐらいだろう。日本円より「強固」である証拠はない。
 
「仮想通貨を持つと儲かる」という幻想があるから、みんな仮想通貨を買っている。だが、結局は単なる貨幣なのだから、仮想通貨をどれだけ持ったって値打ちなんてない。そこが株式などとは違うところだ。だから、「仮想通貨が暴落する」と全員が思えば、あっという間に値打ちはなくなるだろう。それは暴落というよりは、元の状態に近づくだけだ。もともとがなんの価値もない、ゼロの状態なんだから。
 
貨幣というのは面白い発明だと思う。貨幣の概念があるのは、人類だけではないだろうか。それに、貨幣というのはなんにでも貨幣になれる。貝殻や、塩だって貨幣になれる。価値のないものに価値を見出せるのは、人類だけだろう。

音声入力は使えるか?

けんすうが、音声入力でブログを書いているらしい。
 
まあずっとこんな感じで書くつもりなわけではなくて、実験的にやってる、という感じなのだろう。ただ、音声入力の場合キーボードで書くよりも3倍ぐらいのスピードで書けるようになるらしい。元がどれぐらいのスピードなのかわからないけれど、そういうものなのかな、と思った。
 
音声入力で文章を入力する機能は昔からiPhoneにはついていたので、珍しい機能ではない。SiriやAIスピーカーなどは、命令する際にそもそもこっちが言っていることを機械に認識させなければならないから、「何を言っているか」を認識するのはごく基本的な機能なのだろう。その機能が少しずつレベルアップして、やっとまともな文章を「入力」することができるレベルに到達したわけだ。
 
昔、iOSがバージョンアップしてリアルタイム音声入力ができるようになったときに試してみたのだが、結論からいうとこれを実用で使っていくのはかなり厳しいと思った。慣れの問題もあるかもしれないが、思ったような入力ができない。致命的なのが、漢字の変換がしづらい、という部分だ。しづらいというか、事実上、こちらの意思での変換はできない。文脈に沿って、端末側が漢字を判断して当てて行くのだ。機能としてはすごいと思うが、書き手側は漢字変換を封じられたような形になる。もちろん、文章を書き上げてから漢字を直していけばいいのだが、それなら最初からキーボードで入力すればいいじゃん、という話になる。


とはいえ、音声で文章が書けるというのはかなり画期的で、使いようによっては有効なのかもしれない。僕はこのブログのように、キーボードで文章を書いたりすることが多いのだが、仕事でも一日中文章を書いているので、結構な負荷が指にかかっている。キーボードを使わずに入力作業が行えるのであれば、それは便利だな、とは思う。でも、上記の「漢字の変換問題」が解決されない以上、たぶん実用で使うことはないんじゃないか、と思う。
 
日本語って同音異義語がかなり多いので、もしこの「音声入力」が主流になると、ますます漢字を忘れてしまうんじゃないか、と思う。変換されにくい漢字はそもそも言わなくなりそうなので、そのままその言葉がなくなっていきそうだ。
 
昔、漢字を廃止して日本語を表音文字だけで表現しよう、という運動があったそうだけれど、「同音異義語を忘れ、廃れる漢字が多くなり、バカになってしまうから」という理由で廃止された、というのを聞いたことがある。話し言葉というのは、書き言葉と比較すると平易な単語を用いることが多い。難しい単語を話しても、相手に通じにくいので、使わないのだ。音声入力が主体になったら、それに近いことが起きるんじゃないか、という気がする。

東京の雪

東京で雪が降った。たいしたことないだろうとナメた感じで眺めていたが、昼過ぎからだんだんと粉雪からぼたん雪になり、あ、これ積もるんじゃねぇかな、などとオフィスの窓から余裕の面持ちで構えていたのだが甘かった。数時間後、五時過ぎにはほぼ吹雪のような騒ぎになり、上司からも早めの帰宅が促された。
 
定時ジャストに上がったのだが、最寄駅は人でごった返していた。というか、電車が動いていない。人が列車に入りきらず、電車も動く気配がないので、文字通り電車から人が「溢れて」いた。まあ、こういうこともあるだろうとのんびり構えて、本を読んだりして電車が発車するのを待った。
 
とりあえず電車が動きそうだったので乗ってみた。確かに混んでるが、毎朝の通勤電車もまあ似たようなレベルなので、正直慣れている。ギリギリ文庫本が読めるぐらいの混雑具合だった。この状況でも本が読める技術を、ここ一年の東京暮らしで会得したらしい。
 
電車は次の駅に止まっている電車が動くとはじめて動き始める、ということを繰り返し、尺取り虫のように進んだ。だいたい、ひと駅に止まるごとに10分程度の停車をした。そんな感じで、普段なら20分程度で帰れるのだが、一時間半ぐらいかけて、自宅に向けてノロノロと進んでいった。
 
家に帰るまでに一回乗り換える必要があるのだが、あまりにホームに人がいるので絶望的な気持ちになった。最後尾に並んでみたが、あきらかにホームからはみ出て、階段にまで侵食している。こんなにたくさんの人間が、狭い空間に並んでいるところを見たことがない。これほどの人間を搬送するためには、どのぐらいの時間が必要なのか。すでに一時間半も電車に立っていてへとへとだったので、ふた駅分、歩いて帰ることにした。
 
駅から出てみると一面の雪景色。タイル部分を歩くと滑り、転びそうになったので、はやくも歩くことを決意したことを後悔した。地上では、バスを待つ長蛇の列ができていた。まるで難民のようだ、と思った。だが、ある意味では本当に難民なのだろう。今までの自分の経験の範囲では、雪が降ると確かに帰宅困難にはなるものの、どちらかというと自力で脱出できなくなるといった類の困難さで、人が溢れかえるようなことはない。東京の場合、交通機関が少しでも麻痺すると、大量の人が滞留することになり、その滞留が混雑と遅延を生むのだと思った。こういうとき、商魂たくましく商売に励む人がいたりすると面白いのだが、あまりそういうような光景は見られなかった。
 

マフラーをしてきていなかったので、コンビニでネックウォーマーと肉まんを買い、歩き始めた。地面は雪に覆われていて、しかも風が強い。橋を渡る必要があるのだが、同じ選択をした人が何人も列になって歩いていた。これは本当に難民だと思った。みんな、それなりに雪に備えていて、グリップの効いた靴を履いているのか、ザクザクと軽快に歩いて行く。僕はただの革靴を履いていて、浸水はしないのだがとにかく滑る。地面が凍っていると、バナナを踏んだ漫画のキャラクターみたいなリアクションを取った。本当に滑るので本当に困った。実家にはグリップの効いた靴はあるのだが、東京に持ってきていないので、もともとほかに選択肢はなかった。もうあきらめて無心で家に向かって歩いた。
 
普段歩き慣れていない道で、しかも雪なので、自宅に帰る途中で少しだけ道に迷ってしまった。歩いて行っても、自分が想定している場所に出なかった。おいマジかと思った。携帯の電池が途中で切れ、地図を見ることもできなくなった。仕方ないので、だいたいの方角に向かって適当に歩いた。
 
なんとか家にたどり着いたのだが、会社を出てから二時間半程度が経過していた。とにかく自宅に帰って来たことに安堵した。
 
しかし、東京の雪は半端じゃないな、と思う。とにかくたくさんの人がいるから、何か問題があると途端に滞留してしまうことが何よりの問題だと思った。ある意味では、これは上京xした洗礼か何かなのでしょうか。

作業用BGMを探すことはあきらめた

作業に適したBGMを探すのはとても難しい。
 
本を読むときはあまりBGMを必要としないのだが、文章を書いたりするとき、例えばこのブログを書いたりするとき、僕はBGMを必要とする。音で刺激しないとあまり働いてくれないポンコツ脳なので、これはどうしても必要になる。だが、毎回ぶち当たる問題として、「どういうBGMにするか」という課題がある。

BGMを選曲するのは本当にストレスだ。まず選ぶまでに時間がかかるし、選んだとしても聞いているうちに他のやつに変えたくなったりして、結局集中できない、という状況は発生する。集中するための道具のせいで集中できないなんて本末転倒にもほどがある。アホである。なので、最近はとくに理由がなければ、「雨の音」などの環境音をヘッドフォンで流しながら文章を書くことが多い。
 
環境音は、たとえばこういうサイトで聞くことができる。

 
この手のサイトは色々とあって、いろいろ試している。たとえば、このサイトは雨音だけでなく、けっこう種類が豊富でいい感じだ。

 
この中のJapanese Gardenという音がお気に入りだ。日本の庭園の音を聞くことができる。このサイトは簡易的なミキサー機能がついていて、いろんな音がカスタマイズできるのがいい。風の音、水の音、風鈴の音などがあって、それぞれ音量を調整することができる。
 
こういう音を聞きながら文章を書いていると、まるで自分が屋外で作業しているような気分になることができる。とてもリラックスして作業ができる。人間の感覚というのは適当なもので、こういう音を聞いていると、そのうち本当に自分がそういうところにいるような気分になってくる。そういう意味では、いまは本当にいい時代だな、と思う。「こういうのがあったらいいのにな」と思うものの大半は、検索すると本当に存在することが多い。
 

こうなってくると、音楽というのはどういう役割があるのだろうかと考えこんでしまう。音楽を聴きながら作業する人は多いが、作業の効率を音楽によってあげられている人は、実際のところ、どのぐらいいるのだろうか。自分の作業の内容にマッチした音楽を選ぶことができれば効率はあがるかもしれないが、マッチしていないと効率は逆に落ちるかもしれない。映画の音楽が場面にマッチしていれば臨場感を増すことができるが、場面にマッチしていなければ逆に雰囲気を壊すのと同じだ。

自分の行なっている作業に合ったBGMを探すのは大変だし、こだわっていたらそれだけで無駄な時間を消費しかねない。そもそも、そんなことに神経を使っていると、冒頭のように「集中するための道具のせいで集中できない」という本末転倒にアホな状況に陥りかねない。作業中に音楽を聴く、というのはそのようにけっこうリスクの高い行為だな、と思う。
 
話を戻すと、環境音はその場に臨場感を与え、あたかもその場に自分がいるかのような「錯覚」を自分に与えることができる。最近の技術だと、VR技術などを応用して、視覚的にもこのような操作ができたら面白いんじゃないか、と思う。オフィスの中にいるのに、あたかも森の中で仕事しているような感じに、できないだろうか。

そうすれば、どんなみすぼらしいオフィスであっても、とてもリラックスしながら仕事をすることができるのでは(笑)。そういうのができたら面白いんじゃないか、と思う。たぶん、いまの技術でもやろうと思えば十分できるはずだけれども。

重い情報、軽い情報

社会に出回っている情報には「重み」がある。軽くてすぐにでも吹き飛んでしまうような情報もあれば、長く重く君臨する情報もある。

例えば、新聞について考えてみる。日本には8紙ほどの全国紙の新聞があるが、新聞の1面に載っている記事を各紙で比較してみると、重複している記事がいくつかあることに気づく。数日にわたって一面に載っている情報だってある。新聞の1面というのはその新聞が考える「最も重要な情報」が書かれている紙面であり、複数の新聞の1面に書かれている情報は、複数の新聞社が考える「最重要な情報」なのだ。さらに、複数の日にちにわたって掲載されているような情報は、「重要な情報の中でもさらに重要な情報」。もちろん、それが絶対的に正しい尺度ではないが、少なくとも新聞という媒体の中ではもっとも重要な事柄は新聞の1面を追いかけていけばわかる。
 
今度は学術論文について考えてみる。学術論文の重要度を計るための尺度のひとつとして、「引用回数」というものがある。他の学術論文で、どれだけその論文が引用されたのか、ということを示す数字だ。その分野において重要なことが書かれていれば、その内容をベースにして他の論文が書かれるわけで、どれだけ他の論文に引用されたのか、というのはその論文の重要性を端的に示している。逆に、他の論文に全然引用されないような論文は、その分野においては他の研究者にあまり影響を与えていない、ということ。
 
文学はどうだろうか。毎年、おびただしい量の小説が生み出されているが、それだけの本をいつまでも出版し続けられるわけではない。重版がかけられ、数十年後でも本屋の店頭に並ぶものはほんの一部だ。多くは時間とともに淘汰され、出版界の表舞台から消える。逆にいえば、古典というのは時間の洗礼を受けてなお生き残った書物ということになり、それだけ「重み」のある情報ということ。
 

このように、社会に出回っている情報というのは、自然と「ふるい」にかけられ、重要度に応じて消えていったり生き残ったりする。だが、社会に判断してもらった情報を摂取しているだけではダメで、個人が「自分に必要な情報」というのを選びとらなければならない。個人の場合は、自分で必要な情報と、そうでない情報を区分けしなければならない。個人の場合は、自分でその情報の重要度を考えなければならないから、意識して行うことが必要なのではないだろうか。「情報の重み付け」を。
 
膨大な情報の中から、自分に必要な情報を選びとっていく。不要な情報は捨てるか、重要な情報の中に組み込んでしまう。そうやって、体系立てて情報を整理することが必要なように思う。
 
勉強な得意な人は、これをやるのがうまい。その科目において、おさえなければならない重要なポイントというのがわかっている。勉強が下手な人は、なんでもかんでも暗記しようとする。本当に重要なのは、情報の重心を見極め、まずそこを確実にした上で枝葉の情報をつけていくことなのだ。僕は学生時代、勉強が下手だったのだが、おそらくそういうことだったのだろうと思う。どういう情報が「重要」になるかは、教師が繰り返し言うことに耳を傾けていればきっとわかることだろう。そういう「要領のよさ」が、きっと、勉強においては重要なのだ。
 
情報は等価ではない。重い情報と、軽い情報に区別される。それを見極められるようになりたい、と思う。

仕事のできない作家


有名大学を出て、文学新人賞を受賞したりもしたのに、あらゆる仕事で戦力外通知を受けた人の話。どんな職場でも戦力外の通知を受けるので、病院に行ってみたら、運動系の能力が他人よりも劣っていることが発覚したそうだ。もちろん、それまでの人生においてわかっていたことではあったけれど、病院でちゃんとした検査を行うことでより客観視ができて、対策が立てられた、ということだろうか。あらためて数値化による「客観視」の力を感じる。
 
「いい大学を出ても、仕事ができるとは限らない」。これは昔からよく言われることだ。しかし、もちろんいい大学を出て仕事ができる人もたくさんいる。そういう人のほうが多いだろう。しかし、「勉強ができること」と「仕事ができること」のあいだには、絶対的に強い相関性はないということだ。仕事はできるのに勉強ができない人だってたくさんいるわけだし。
 
上記の記事を読んで思ったことがある。この人は、「仕事」といってもコンビニのレジ打ちとか、ビアホールのバイトレベルの仕事しかしていない。上智大を出たわけだし、知的なレベルは高いのだから、もっと、運動系の神経を使わなくてもいい高度な仕事に就いていればそれなりに幸せなんじゃないだろうか、と思った。よくわからないけど、出版社の編集者とか。研究職だって、けっこうオタク気質で暗い人は多い。要するに、「自分の向いている」ことをやればいいわけで。
 

僕も最近、自分の能力について客観的に見ることが少しずつ増えてきた。三十歳ぐらいになるとだんだん、自分の向き不向きがわかってくる。僕はこうして文章を書いたり読んだりするのが比較的得意なので、文章を書いたりする仕事は苦痛にならない。いまの仕事は大半が文書作成なので、ある意味自分に向いているといえる。だが、どちらかというと人と話したりするのがあまり得意ではないようだ。あと、記憶力が悪い。固有名詞や数字を覚えるのが苦手だ。パワーポイントなどのビジュアルの資料を作るのは得意で、会社でもよくそういうことを担当している。

自分の能力について、ある程度客観視できているので、苦手なことはそれを補えるような工夫をし、得意なことはそれを伸ばしていけるようにすることができている。結局のところ、完璧な人間などどこにもいないわけで、要はそれをどう補って行くか、それがすべてなのではないかと思う。
 
ただ、すべての能力を総合しても人よりも低い、ということも当然あるだろう。そういう場合はどうすればいいのか。「他人に頼って生きる」というのもひとつの選択肢だろう。人よりも能力が低いのを補って、人から面倒を見てもらえるのも、ある意味では能力だ。
 
生き方というのはひとつではないよな、ということをあらためて考える。

歌詞は邪魔だと思っていた

音楽を聴くきっかけとなった入り口が洋楽だったせいか、あまり歌詞にフォーカスして音楽を聴く、ということをしてこなかった。

音楽を聴いても歌詞の意味について考えないのはもちろん、歌詞を見もせず、何を歌っているのかもほとんど気にしない。いつも、ただ音だけを聴いて追いかけている感じ。

自分で音楽をつくるときも、9割以上はインスト曲だし、たまに歌モノを作っても歌詞に意味をもたせたりしない。ボーカルを楽器として扱っているというか、歌詞で何かを表現するということが納得いかなかった。
 
今まで、音楽と歌詞は完全に切り離して考えていたのだ。歌詞で世界を表現するということがよくわからなかった。文字で何かを表現したいのであれば、それは小説でやればいいじゃないか、と思っていた。わざわざ音楽にメロディをつけて表現する必然性がよくわからない。音楽は音楽単体で「良さ」を追求すべきであり、歌詞は邪魔だと思っていたのだ。
 
だが、最近、歌詞にフォーカスして聴くのもいいな、と思うようになった。きっかけはこの記事。

aikoが「好きだけじゃ済まなくなりそう」と言い出した時の、まだ変身を残していたのか感について - 真顔日記 http://diary.uedakeita.net/entry/2016/10/19/114513
 
aikoという歌手の作曲した歌詞の内容について考察している。普通のレビューなら2、3行で終わりそうな内容だが、数千字にわたり、まるで小論文のようにaikoの歌詞世界について分析をしていく。

筆者の主観というよりは、aikoの歌詞から「読み取れる」ものを根拠をあげながら構成を分析している。とても面白い。少なくとも、僕はこんなふうに歌詞分析をしたことがないから、とても新鮮だった。


世の中には詩というものがある。詩はそれ単体で独立して完成しているものだから、それ単体を読むことで楽しむことができるのだが、歌詞というのは、要するに詩にメロディを乗せたものだ。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、今まであまりそういったことを意識することがなかった。
 
そこで、通常とは逆の方向でアプローチしてみることにした。まず、聴いたことのない曲の歌詞を読む。なるべく丁寧に読み、作詞した人がどういう思いでそれを書いたのかを可能な限り読み取る。

ついでに、「これはこういう曲調なんだろうな」というのを十分に想像して、メロディなんかも想像してみる。それだけ考察を重ねてから、はじめて曲を聴いてみる。すると、色々な発見があることがわかった。
 
失恋の曲の歌詞を読んで、「ああ、これは失恋の曲なわけだから、きっと悲しい曲調なんだろうな」と思い、そういう曲だと思って聴いてみたら、意外と明るい曲調で驚いたことがある。音楽だけ聞いていたら、失恋の曲だと思わないかもしれない。

しかし、最初に歌詞を読み込んで、失恋の曲だというのを十分に理解した上で聴いているので、思わず明るい曲調だったと知ったときに、新鮮な驚きがある。それと同時に、「失恋なのになんでこんなに明るい感じの曲調なんだろう」という疑問が生じる。それで、歌詞で歌われている内容に深みが生じる。音楽にはこういう聞き方もあるのか、とちょっとした衝撃だった。
 
相変わらず音楽としてはインストが好きなのだけれど、歌詞つきの曲も、そこで「歌われている内容」にフォーカスして聴いてみようと思う。曲調と歌詞のミスマッチがあったとしても、作曲・作詞者の意図を考察しながら聴いて見ると、なにがしかの発見があるかもしれない。

受け身でいると、人生は暇になる

ひょっとして、「受け身」でいると、人生はヒマなんじゃないか、ということに気づいた。
 
たとえば、24時間、時間を潰さなければならないとする。状況はどうだっていいが、たとえば、山奥の無人駅で、大雪のまま駅の待合室に閉じ込められてしまい、電気も水もとりあえず使えるが、24時間は時間を潰さなければならない、というような状況だったと仮定してみよう。

本は持っていて、パソコンやiPadなども使えると仮定してみる。ネットは使えないこととする。もう十分な睡眠をとっていて、寝ることもできないとしてみよう。
 
読書は代表的な時間の潰し方のひとつだが、24時間ぶっ通しで読み続けることはできない。僕は読書好きだが、それでも連続で2時間も読んでいれば集中力が切れてくる。24時間ものあいだ、本だけ読んで時間を潰したことはない。漫画なんかでも厳しいかもしれない。
 
しかしもしパソコンで小説を書けば、24時間ぐらいはすぐに潰せそうな気がする。パソコンで作曲したりしても良い。作品を能動的に生み出すにはものすごく時間と手間がかかることなので、それらをやると時間はいくらあっても足りない、ということになる。

逆に、受け身の姿勢では大量に時間を潰すことができない。
 

僕は学生の頃、近所のディスカウントショップでショップ店員としてアルバイトをしていたのだが、バイト時間が苦痛で仕方なかった。バイト仲間とは仲がよかったので人間関係は問題なかったのだが、とにかく労働する、というのが嫌だった。

アルバイトだから最大でも8時間も働けば残業もなく帰られるのだが、それでも苦痛だった。社会人になったら、毎日8時間、いやそれ以上仕事をしなければならないのだということを考えると、それだけで憂鬱だった。社会人になれる気がしなかった。
 
しかし、実際に社会人になってみると、時間に対してはさほど苦痛ではなくなった。むしろ、時間が「足りない」ことのほうが気になる。そうなのだ。社会人になって実際に仕事をしてみると、時間がいくらあっても足りない。特に、僕はいまの会社にきてからというもの、「時間が進むのが遅すぎて」苦痛を感じたことはただの一度もない。常に時間に追われているのだが、それも能動的に動いているからだろうな、と思う。
 
思えば、アルバイトの時代のほうが苦痛だったのだ。バイトが暇で仕方なく、苦痛で仕方がなかった。アルバイトという立場上、能動的に振る舞うことがある程度制限されていたからだと思う。もっと能動的に動ける環境であったなら、苦痛はもっと軽減していたことだろう。
 
「受け身」でいると人生は暇になる。「能動的」でいると、人生は忙しく、充実したものになるのではないだろうか。僕は明らかに後者として生きたいのである。人生とは、結局のところ、長い暇つぶしなのだから。

現金を使うことがだいぶ減った

可能な限り、日常生活では現金ではなく、PASMOを支払いをするようになった。コンビニなどはもう現金を使うことはほぼない。まだPASMOで支払いが可能な店は限られているが、デパートなどでも使えるし、近所の美容院もPASMOで支払いができることがわかったのでそれで支払った。

PASMOのチャージ金額の上限は2万円だが、週イチで限界までチャージしているので金が足りなくなることはない。もし10万円ぐらいまでチャージできるのだったら、そうしたいぐらいだが(調べれば方法はあるかもしれないけど)。
 
一度現金を触らない支払いを体験すると元には戻れないな、と思った。コンビニで支払いをするとき、現金を探して払い、お釣りをもらうというのは実はとんでもない手間なんだということに気づいた。逆に、コンビニに袋なしでPASMOで支払いする場合、店員のあまりの作業量の少なさにびっくりする。

レジで商品を読み込んで、あとはレシートを渡すぐらいしかやることがない。まあ、そうなるよな、そりゃ。
 
現金をあまり触らなくなったわけだが、テクノロジーの進化などは別に感じない。むしろ、「現金」という発明のほうが長い人類史を見ればあとのほうに生まれてきたわけで、現金なしで決済をすませる、というのは古来から行われてきたことだ。

本来、決済にお金なんて必要ないのだ。もし、信頼関係のある人間同士が取引をする場合、お金なんて必要ない。一方の支払いを、一方が相殺できる仕組みにしておけば、お金は必要ないのだ。はやい話が、互いが帳簿を「共有」していれば、それで支払いはできる、ということだ。

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ところで、PASMOはすごい発明だと思う。現金を入れてチャージをするわけだが、あれで決済ができるというのは驚きである。なぜなら、チャージされたものをちゃんと「減らす」ことができるからだ。これだけPASMOで決済できる端末があって、ちゃんとPASMOのチャージ金額を「減らしたり」「増やしたり」できるのは純粋にすごい技術だと思う。PASMOがハッキングされて不正操作されたという話も聞いたことがない。
 
あれはどういう仕組みでやってるんだろうなと思って調べたが、どうやら、PASMOの全残高が記載されている帳簿のようなものがあって、そこにアクセスして金額を増やしたり減らしたりしているのだそうだ。つまり、ネットワークを使って、残高にアクセスしているということ。

原始社会での「帳簿を相殺する支払い」に近いものがある。つまり、「現金」という形がなくても、すべての人間に「お金」という共同幻想があれば、支払いは成立するのだ。実態のある「貨幣」と想像上の「貨幣」、どちらも人間の最大の発明品だな、と思う。
 
巷を騒がせている仮想通貨にはいまのところ全く興味がないのだが、既存の貨幣をもっと扱いやすくする発明がでてくるといいな、と思う。

運動性能とスーツ

動きやすいスーツが欲しい。

僕は仕事では毎日スーツを着て出社しているのだが、スーツは窮屈で仕方がない。物理的に窮屈だというのもあるが(お)、普通の衣服と比較するとスーツはあきらかに運動性能の低い服のひとつだろう。ジーパンにTシャツの状態の運動能力より30%ほど劣るのではないだろうか。

僕のスーツは、普通のスーツよりもさらにスリムに設計してあるので(無駄に)、窮屈さはひとしおである。会社ではほぼ100%上着は脱いでいて、椅子にかけてある。上着など着ていたら本当に運動能力が格段に落ちる。
 
しかし、スーツを着ながらにしてアクティブに動き回る人は多い。営業職などはスーツで長時間、外で勤務する人も多いだろう。だがもっと不思議なのは、要人をガードする人、すなわち「SP」だ。基本はスーツで大立ち回りを演じて見せる。スーツの上着には拳銃とか入ってたりするのだろうか(ないような気がするけど)。

しかし、あの人たちだってスーツよりはもっと動きやすい服装をしていたほうが効率がいいはずだ。何か、動きやすくするための特殊な仕掛けがしてあるスーツなのだろうか。
 
一応ググってみたけどあんまり納得のいく記事は見当たらなかった。「スーツのほうが強そう」とか、そういう理由じゃなければいいが……(そういう理由でも別にいいが)。

「対談」より圧倒的に優れた「インタビュー」

世の中にはクソみたいなインタビュー記事が多いが、まれに感動的なまでに質の高いインタビューが存在する。

日本人はなぜか「対談」という形式が好きで、有名人同士がただ話しているだけの内容を収録したものが山ほどあるのだが、インタビューと対談は違う。インタビューは、インタビュアーが、インタビューを受ける人にクリティカルな質問をしなければならない。上記の「対談」が往々にしてグダグダになるのは、この「下準備が不足」していることが多いからだと思う。

対談は、要するに互いに有名人同士なので、「別に相手のことは隅から隅まで知っているわけではないですよ」という態度が通用する。というか、対談の中でも、「こないだの、○○さんのアレ、見ましたよ」みたいなセリフが普通に登場する。

インタビューの場合は、相手の下調べを何もしていないのは許されないし、そもそもインタビュアーは名前さえ表示されず「ー」とかで表現されるのが普通なので、存在としてはいないのも同然だ。ただ、相手の高度な回答を引き出すための引き立て役、つまり黒子に徹する必要がある。
 
去年読んだ本で「これはすごい本だな」と思ったインタビュー集がある。

知の逆転 (NHK出版新書)
ジャレド・ダイアモンド
NHK出版
2012-12-06


 
まずインタビュイーがすごい。ジャレド・ダイアモンド、‎ ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキーなど、人類学、言語学、人工知能などの分野の第一人者(伝説クラス)のそうそうたるメンツ。誰をみても「人類最高級の知性」だと思われる人物に、インタビューしている。


内容は読めばわかるのだが、「最高級の知性はどういうことを考えているのか」を実にわかりやすく読むことができる。これはすごい「体験」だと思った。

チョムスキーやマービン・ミンスキーに自分が会うことができる可能性は限りなくゼロに近い。よしんば会って話ができたとしても、とんでもないお金がかかるだろうし、相手に的確な質問ができるとは思えない。それを「代行して」インタビュアーがインタビューしてくれているのだから、こんなものがたかだか1000円程度のお金で読めるのだから、全くすごい「体験」だと思った。
 
インタビュアーは科学ライターの吉成真由美氏。綿密な下調べと、伝説級のインタビュイーが口を揃えて「いい質問です」という、その圧倒的な彼女の知性に驚嘆する一冊です。

グルメは幸せなのか?

僕はあまり食に関心がない。そりゃ人間なのでうまいものを食べれば当然「うまい」と思うのだが、「うまい」と感じるまでのハードルが低い感じがする。

超高級品を食べるとうまいと思うが、同じものでコンビニで売ってるようなものを食べてもうまいと感じる。場合によっては、親しみがあるぶんコンビニのやつのほうが好きだったりすることもある。また、同じものを食べ続けることがあまり気にならない。
 
実家に住んでいたころは何を食べても「うまい」というので親や祖母は喜んでいたのだが、それは単に「なんでもうまい」と感じるから、というだけのことだった。そのことに母や祖母が気づいてからは、あまり「うまい」と言っても嬉しそうな顔をしなくなった。

そりゃそうだ。手間をかけた料理と、そうでない料理の評価が、ほぼ同位で「うまい」で片付けられるのだから。作ってる側からしたら張り合いがないだろう。
 
それでも、これが逆の方向に振れなくてよかったな、と思う。何を食べても「まずい」と感じるような人間だったら、きっと生きていくのが大変だろう。常に「うまい」と感じるものを探して、彷徨い続けなければならない。いや、ひょっとすると、そういう人のことを「グルメ」というのだろうか。
 
僕はいわゆる「バカ舌」なので、本当にうまいものとそうでないものの区別があまりついていないだけなのだ。けれど、うまいと感じるものが多いのならば、それはそれで結構なことじゃないかと開きなおっている。何を食べても「まずい」と感じるよりは良い。


ところで、こないだ東京でうなぎを食べたのだが、あんまり美味しくないと思った。なぜだろうと思ったのだが、調べてみると関西と関東では調理法が大きく異なるらしい。関西はうなぎは焼くのだが、関東では蒸すのだそうだ。

僕は三重県の出身なので、関西にカテゴライズされるかどうかは微妙なところだが、少なくともうなぎは関西の調理法が自分に馴染みがあるらしい。けっきょくは、「馴染みがあるかどうか」が大事なのだろうか。
 
ジャレド・ダイアモンドの「昨日までの世界」という本に書かれていたのだが、人類は、 ̄分があり、炭水化物が含まれていれば、たいていのものは美味しいと感じるらしい。ポテトフライなどはその代表的なものだろうか。特に塩分は重要で、塩分の多いものは美味しいと感じるように出来ているらしい。これは本能レベルで「美味しい」と感じる、ということかな。
 
うまいものにこだわりがない、これは、単に自分の舌が全く大したことがないということなのか、それとも、本当に「うまい」ものを食べたことがないのか、定かではないが……、とりあえず、せっかく東京にいることだし、休みの日ぐらいは食べたことのないものを食べてみようかな、と思っている。

判断の回数を減らしているか?

人が一日に「判断」できる回数は限られているらしい。

限界を超えて「判断」できるかはわからないが、とにかく、なんらかの判断を下すごとに「判断する物質」が失われていくらしい。だから、大事なことを判断するためには無駄なことに判断力を使わないことが肝要だ。
 
かのスティーブ・ジョブズは何種類も同じ服を揃えていて、「服を選ぶ」ということに判断力を消費しないようにしていた、というのは有名な話だ。あの、タートルネックにジーンズというスタイルである。

フェイスブックのCEOであるマーク・ザッカーバーグも同じ理由で、ダサいTシャツを何着も所有しているらしい。だったらスーツでも着てりゃいいのに、とは思うが、とにかく。あと、服を選んでくれるコーディネータを雇えばいいじゃん、とかも思うけど、とにかくそういうことになっている。
 
僕もこの「判断力」を無駄に使わないためにあらゆることをルーチン化するのが大好きだ。とても細かいところでいうと、「洗剤を買い換えるタイミング」とか大嫌いである。

洗濯は基本的に毎日するので、洗剤がみるみる減って行く。だが、「だいたいこのぐらいまで洗剤が減ったら買い換えるじゃ」とかいう判断をするのが嫌なのだ。

だから、常に買い置きを1つおくようにしている。「このぐらいまで減ったら」という判断をするぐらいならば、「1つ買い置きをしておいて、なくなったらまた1つ買う」ほうがクリアだ。

ちなみに、「まとめて買ったほうが安くなる」という理由で買いだめするのもあまり好きじゃない。こうやって判断を節約しておけば、いざというときに適切な判断ができるようになるだろうか。


髪を切るタイミングを計るのも大嫌いだ。髪は2ヶ月に1度切ることにしていて、偶数月の月初と決めている。こうして決めておけば判断をする必要がない。

こないだツイッターで呟いて侃侃諤諤の議論があったのだが、僕は「髪を洗う」のも判断するのが嫌いで、時計のストップウォッチで測りながら髪を洗っている。

髪を濡らすのに3分、洗うのに2分、すすぐのに3分だ。こうして決めておけば無駄な判断は必要ない。ちなみに髪を乾かすのは3分だ。「なんでそんなに細かい性格なのか」とツイッターで突っ込まれたのだが、そうではなくて、大雑把な性格なので、こうして「決める」ことで、判断の必要性を削減しているのである。生活の知恵のひとつだといえる。
 
こんなに涙ぐましい思いをして「判断力」を節約しているのに、日常生活で「判断力」が有効に使えているな、と感じることは少ない。ひょっとすると、「判断力」の総量が人よりも少ないのかもしれない。だったらなおさら、もっと「節約」できないかと、その余地を探る必要があるというものだ。

豊かさを実感しているか?

実家の近くに美味しい干物が食べられる店あるのだが、先日帰省した際に行きそびれてしまったので、東京に戻ってきてから美味しい干物が食べられる店を探した。

東銀座で探したらあっさり見つかったので、行って見たのだが、確かになかなか美味しかった。地元に帰らないと食べられないかと思っていたのだが、別にそんなことはなかったようだ。つくづく、東京は便利なところだ、と思う。
 
あまり休日に銀座に来ることはないのだが、せっかくなのであちこち見て回っていた。

知らなかったのだが、休みの日には通りが歩行者天国になるらしい。たくさん人がいた。外国人も多かった。

服を買おうと思い、ZARAに入ったのだが、当然ながら他の店舗と値段は変わらなかった。むしろセール中なので安かった。これだけ地価の高い場所で営業をしながら、同じ水準で商品を販売するのは大変だろうな、と思う。

いや、地価が高いということは、要するにそれだけたくさんの人が集まるということだから、意外と商売は成り立つのだろうか。そんなことを考えながら買い物をしていた。
 

自分が持っているカネが増えているわけではないのだが、相対的に、世の中は裕福になっているのかな、ということを考える。

いまの自分の暮らしは、江戸時代の人からすれば殿様のような暮らしに見えることだろう。なんでも、食べたいと思ったものは食べることができるし、見たいと思ったものは見ることができる。
日本じゅうのどこだって自由に行き来することができるし、海外に行くこともできる。それも全財産をはたく必要はなく、ちょっとお金を貯めればすぐに実現することができる。これが裕福でなくてなんだろうか。

江戸時代であれば、どれだけお金を持っていても食べることができるものは限られているし、日本国内での移動も自由ではない(そもそも同じ国という認識は当時はなかっただろう)。それが、現代社会では、一般人である自分が、大富豪と似たようなことをすることができている。

いや、むしろ、大富豪のほうがセキュリティ的な面も考慮すると自由を制限されるのではないか。一介の勤め人が、これほどの「豊かさ」を受けることができるのは、驚異的なことだな、と思う。

よくよく考えてみると実際に現代人は豊かなのだが、果たしてその豊かさを実感しているだろうか。豊かさとは、相対的にしか実感できないのだろうか。

例えば江戸時代を例にとると、大した食事をしていなかったとしても、飢えて死ぬような人がゴロゴロいるような環境では、「食べられるだけ自分は幸せだ」と思うことだろう。

いまの東京には、本当にホームレスがいない。探せば固まっているところがあるのかもしれないが、東京の中心を歩いて居てホームレスに遭遇することは少ない。みんな、豊かさの絶対数があがっているのだろう。

むろん、いつまでもこういう状態が続く保証はないけれど、すごい時代に生きているものだな、とときおり考える。

【読書】SHOE DOG 靴にすべてを

誰もが名前を知るスポーツ用品メーカー、「NIKE」創業者の起業物語を読んだ。


SHOE DOG(シュードッグ)
フィル・ナイト
東洋経済新報社
2017-10-27


今は超有名企業の社史が書籍になることは一般的になった。創業者が自分で書く場合もあれば、外部のライターが書く場合もある。

この本の場合は、創業者のフィル・ナイト氏が自ら筆を取ったようだ。傾向としては、外部のライターが執筆するケースのほうが多いような気がする。
 
ナイキは、いまでは世界有数のスポーツ用品メーカーだが、前身はオニツカ・タイガーの販売代理店だったらしい。オニツカは日本のメーカーだが、そのアメリカでの販売を代行していたのだ。
てっきり最初から独自ブランドを打ち立ててやってきたものと思っていたので意外だったのだが、人脈も金も経験もないただのアメリカ人の青年が、文字通り裸一貫ではじめたビジネスなので、これは起業としては妥当なスタートラインなのかもしれない。
 
本書で語られるのは、ナイキが歩んできたイバラの道だ。もちろん、多くの起業譚では「苦労話」というのは語られるものの、この本は全編を通じてひたすら苦労話の連続であり、最終章以外でほとんどカタルシスは得られない。

そのような構成すら、ひたすら「耐える」ことが本質である陸上競技のようだと思わせるような内容である。
 
✳︎

彼らが何に困っていたか。ひたすら、最初から最後まで、ファイナンスや、オニツカをはじめとする日本のメーカーや商社との折衝においてだ。

ほとんど無一文の状態からはじめたビジネスなわけだが、相対する日本人がシビアなのも手伝って、なかなかナイキ自身には現金収入がまわってこない。幾度となく財務的な危機に陥る。そのたびにどう乗り越えてきたかが本書には書かれている。
 
しかし、やはり本書によってあきらかとなるのは、「最高の靴を売る」ということに関しては彼らは最初から一流だった。そうしたバックグラウンドがあったからこそ、たとえファイナンスで苦労しても、最終的にはナイキは成功したのだ。ナイキの苦しい黎明期を支えた創業メンバーたちが、後半になっても普通に登場してくるので、彼らの絆を感じることができる。
 
経営とは綺麗事ではなく、目の前の泥臭い問題をどう乗り越えていくか。そういうことを考えさせられる内容でした。

インテリを扇動できるか?

佐藤優の「学生を戦場に送るには」を読んだ。
 
過激なタイトルだが、内容は、戦中の京都大学の哲学教授だった田辺元の講義を読み解く、というもの。戦時中、京都大学のインテリたちを扇動し、戦意を高揚させた文書を佐藤優が解説している。
 
もともとの文章が古いことに加えて、当時のインテリ向けに書かれた文章なので、佐藤優による解説が加えられていてもかなり難解で、適当に読み飛ばすということができない。これを講義で理解できた人は相当頭がよかったんだろうな、と思う。
 
インテリたちを扇動するのは、難しいようで実は簡単なことなのかもしれない。頭のいい人たちは、理屈と、それから感情で動く。要するに、インテリたちを扇動できるだけの知識と論理があれば良いのだ。

知識と論理によってインテリたちを動かすことができる。戦争中は、そうやって「頭のいい人たち」をいかに動かしていくかが肝要だったのだろう。
 
歴史を翻ってみると、歴史はそうやって思想に「かぶれた」人たちが寄り集まって動いていく。世間を騒がせる新興宗教にしたって、そうだ。オウム真理教だって、麻原彰晃は相当な数のインテリたちを動かし、事件を起こした。麻原は、インテリたちを動かす「アジテーション」に長けていたのだろう。
 

第二次世界大戦中に、この田辺がやっていたことは、そのまま新興宗教に通じるし、イスラム国に通じるし、そのほかのさまざまな事象に通じる。もっといえば、今をときめく大企業の成り立ちにだって通じるかもしれない。
 
こういう論理は、一見もっともらしく見えるが、必ずどこかに「飛躍」がある。飛躍するのは、それはこれらが何らかの「目的」によって作られているからだ。その「目的」に気がつくことができれば、これらの論理にははまらないだろう。中途半端に頭のいい人が一番危険だ、とも言えると思う。
 
それを予防するためには、実際に踊らされている人を見てみたり、実際に踊ってみる、ことだろうか。しかし、こうした構造が古今東西変わらないのだと思えば、この「田辺講座」の講義録を読んで、「こういうものだ」ということを知っておくだけでも、ひとつの予防になるかもしれない。

貧困に陥らないようにするためにはどうすれば良いのか?

貧困に陥らないようにする、というのが人生の基本指針だ。とにかく貧困には陥りたくないな、というのをよく考える。
 
本屋に行くと、貧困に陥った人のルポなどをよく見かける。漫画では、「闇金ウシジマくん」などが「貧困」をテーマにした作品の代表格だ。
 
貧困に陥ってしまった人というのは、さまざまなパターンがあり、ひと括りにはできない。もともと家が貧しくて貧困に陥ってしまうパターンというのもあるが、学歴がよく、一流企業に勤めていたもののひょんなことから貧困に陥ってしまう人もいる。必ずしも学歴や職歴とは連動しないらしい。いい学校を出て、いい企業に就職できても、必ずしも将来の安定が約束されていないというのは、恐ろしいものを感じる。
 
だが、貧困に陥ってしまった人のあいだに共通するところはある。ひとつは、積み立てている資本が少ない、ということだ。

資本というのは、お金やスキルのこと。お金をある程度、余分に持っていないと、日々の暮らしに精一杯で自己投資にまわすことが難しいし、時間もある程度捻出できる環境でないと、積み立てることそのものができない。

また、お金「だけ」持っているだけで、それを有効に活用できず浪費してしまうと、それが枯渇するタイミングでそのまま貧困に陥ってしまう。


大企業に勤めて、それなりに収入があっても、その「大企業」という籠の中から「生きる術」を身につけずにそこから出てしまうと、とたんに貧困に陥ってしまう。貧困に陥ってしまう人というのは、そういう人が多いのではないだろうか、と思う。

貧困のルポなどを読むと、たとえば立派な職歴を持ち、英語の資格やその他の資格を取っていても、ある程度以上の年齢にいくと再就職が非常に厳しいということだ。わかりやすい形での「資格」を持っていても、それだけでは生きていくことは難しいらしい。

ある程度以上の年齢になれば、それまでの職業を通じて得た「人脈」や「経験」を生かした仕事をメインにしていく必要があるのだろう。それはすぐにできるものではないはずで、若いうちから積み立てていかなければならないもののはずだ。

どんな世界でも通用するスキルや経験というのはないが、ひとつ言えることがあるとすれば、「学び続ける姿勢」は通用するのではないだろうか。どこかの段階で、学ぶことを辞めてしまうと、貧困に陥る可能性は高まるのでは、と感じる。
 
学び続けることそのものを自分の資本とし、お金とスキルを積み重ねていく。そのための余剰の時間も持つ。そういうのをテーマに、今度生きていきたいと考えている。

2017年に読んだ本からおすすめ5選

あけましておめでとうございます。

2017年は、134冊の本を読みました。読んだなかから、「これはもういっぺん読みたいなぁ」という本を5冊紹介。2018年も充実した読書ライフになりますように。

1.『私をくいとめて』
綿矢りさ

私をくいとめて
綿矢りさ
朝日新聞出版
2017-01-06



綿矢りさといえば、「蹴りたい背中」で芥川賞を受賞したのが記憶に新しい(?)けれど、作家としての活動を淡々と続けられていて、着実に作家としてのキャリアを積んでいます。作家個人としては美人なのに、とにかく書く作風が、暗い。でも、じめじめとした暗さではなく、自分の暗さをどこか笑い飛ばすような、そんな明るさも持ち合わせています。

若い女性の作家の中には、ただ暗いだけでじめじめとした気分になるだけの小説も多いですが、綿矢りさは、どこか最後に希望を持たせるような、そんな書き方がとても上手いです。

2.『劇場』
又吉 直樹


劇場
又吉 直樹
新潮社
2017-05-11


「芸人としての」又吉さんは、ほとんど存じ上げないのですが、個人的には「火花」よりもぐっときました。一方で、セールス的にも、今年売れた本としては、かなり上位に食い込んでいるのではないでしょうか。

彼の小説の特徴は、とにかくリアルだなあと。登場人物は、みんな合理的な行動をしません。かといって、非合理的な行動もしません。自然なんです。自然な、人間のような振舞っています。

この小説に登場する人は、みんな、どこかにいそうで、背中を押したくなるような、突き放したくなるような、そんな距離感で読むことができます。そういう気持ちにさせてくれる作品が書ける作家は、僕にとっては多くはありません。

3.『完全教祖マニュアル』
架神 恭介,辰巳 一世


「おすすめ本」として紹介するのはいささか気がひけるものの、とにかく面白く、没入して読めました。「教祖になるためには」といういささか荒唐無稽な読者層を想定した本書ですが、そのスタイルをブラさずに最後まで論じているところがとても良いです。

「なぜ人は宗教を信じるのか?」ということを考えるのにはうってつけの本です。


4.『生涯投資家』
村上 世彰

生涯投資家
村上 世彰
文藝春秋
2017-06-21


かつて「村上ファンド」としてホリエモンなどとともに日本を席巻した村上世彰氏の独白本。

国家公務員の時代から、信念をもって金融をやっていたのだなあ、ということを感じさせる本でした。「世の中の金は循環させなければならない」という信念には、とても共感します。社会をよくするためには、それがいちばん近道なのではないか、と自分も思います。


5.『昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来』
ジャレド・ダイアモンド

昨日までの世界(上) 文明の源流と人類の未来 (日経ビジネス人文庫)
ジャレド・ダイアモンド
日本経済新聞出版社
2017-08-02


「銃・病原菌・鉄」で有名になったジャレド・ダイアモンド氏の著作。本作は、とにかく長いのはいつも通りなんですが(?)、ジャレド氏自身がフィールドワークで得たニューギニアでの経験がベースになっており、非常に読み応えがあります。「伝統的社会」と現代の「都市社会」の違いについて考えさせられます。


以下、2017年度の読本リスト。

001『創るセンス 工作の思考』森 博嗣
002『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』井上 智洋
003『つぼみ茸ムース The cream of the notes 5』森 博嗣
004『心はあなたのもとに』村上 龍
005『「思考」を育てる100の講義』森 博嗣
006『知の操縦法』佐藤 優
007『夜行』森見 登美彦
008『知の逆転』ジャレド・ダイアモンド,ノーム・チョムスキー,オリバー・サックス,マービン・ミンスキー,トム・レ009イトン,ジェームズ・ワトソン
010『新・所得倍増論』デービッド アトキンソン
011『文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの』ジャレド ダイアモンド
012『謎の村上春樹 読まなくても気になる国民的作家のつくられ方』助川幸逸郎
013『文明崩壊 下: 滅亡と存続の命運を分けるもの』ジャレド ダイアモンド
014『その姿の消し方』堀江 敏幸
015『釈尊の生涯』中村 元
016『村上さんのところ』村上 春樹
017『「移動」の未来』エドワード・ヒュームズ
018『すべて真夜中の恋人たち』川上 未映子
019『外務省に告ぐ』佐藤 優
020『夢の叶え方を知っていますか?』森博嗣
021『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
022『アイデア大全――創造力とブレイクスルーを生み出す42のツール』読書猿
023『宇宙を織りなすもの 上: 時間と空間の正体』ブライアン グリーン
024『戦略がすべて』瀧本 哲史
025『サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
026『騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編』村上 春樹
027『私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?』森 博嗣
028『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている: 再生・日本製紙石巻工場』佐々 涼子
029『光』三浦 しをん
030『マッキンゼーが予測する未来―――近未来のビジネスは、4つの力に支配されている』リチャード・ドッブス,ジェームズ・マニーカ,ジョナサン・ウーツェル
031『知恵を磨く方法―――時代をリードし続けた研究者の思考の技術』林 周二
032『なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である』中島聡
033『HIGH OUTPUT MANAGEMENT(ハイアウトプット マネジメント) 人を育て、成果を最大にするマネジメント』アンドリュー・S・グローブ
034『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤 優
035『(日本人)』橘 玲
036『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』カレン・フェラン
037『夢を与える』綿矢 りさ
038『僕らが毎日やっている最強の読み方;新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意』池上 彰,佐藤 優
039『いま生きる階級論』佐藤 優
040『CIA諜報員が駆使するテクニックはビジネスに応用できる』J.C.カールソン
★041『私をくいとめて』綿矢りさ
042『社長失格』板倉 雄一郎
043『日本経済入門』野口 悠紀雄
044『ニコニコ哲学 川上量生の胸のうち』川上 量生
045『みみずくは黄昏に飛びたつ』川上 未映子,村上 春樹
046『孤独の価値』森 博嗣
047『ブロックチェーン・レボリューション ――ビットコインを支える技術はどのようにビジネスと経済、そして世界048を変えるのか』ドン・タプスコット,アレックス・タプスコット
049『最貧困女子』鈴木 大介
050『数学の魔術師たち』木村 俊一
051『イーロン・マスク 未来を創る男』アシュリー・バンス
052『ニンテンドー・イン・アメリカ: 世界を制した驚異の創造力』ジェフ・ライアン
053『神様のパズル』機本 伸司
054『すごい宇宙講義』多田将
055『アル・ゴア 未来を語る 世界を動かす6つの要因』アル・ゴア
056『僕はミドリムシで世界を救うことに決めました。』出雲 充
057『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス』スティーヴン ウェッブ
058『高校入試』湊 かなえ
059『シャイロックの子供たち』池井戸 潤
060『壊れた地球儀の直し方』青山 繁晴
061『交渉術』佐藤 優
062『2052 今後40年のグローバル予測』ヨルゲン・ランダース
063『チューリング』B・ジャック・コープランド
064『ラオスにいったい何があるというんですか? 』村上 春樹
065『サイバーセキュリティ』
066『好きなようにしてください―――たった一つの「仕事」の原則』楠木 建
067『三四郎』夏目 漱石
068『シンギュラリティ・スカイ』チャールズ ストロス
069『わたしたちが孤児だったころ』カズオ イシグロ
070『歌うクジラ 上』村上 龍
071『歌うクジラ 下』村上 龍
072『カクレカラクリ』森 博嗣
073『右肩下がりの君たちへ』佐藤 優
074『貧乏はお金持ち──「雇われない生き方」で格差社会を逆転する』橘 玲
075『単純な脳、複雑な「私」』池谷 裕二
076『今はもうない』森 博嗣
077『サバイバル宗教論』佐藤 優
078『折り返し点―1997~2008』宮崎 駿
079『理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ』吉川 浩満
080『決定版 日本のいちばん長い日』半藤 一利
081『コンビニ人間』村田 沙耶香
082『私の「情報分析術」超入門: 仕事に効く世界の捉え方』佐藤 優
★083『劇場』又吉 直樹
084『青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?』森 博嗣
085『人生の極意』佐藤 優
086『本日は大安なり』辻村 深月
087『新約聖書 1』佐藤優
088『電力と国家』佐高 信
089『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー
090『しろいろの街の、その骨の体温の』村田沙耶香
091『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』萱野 稔人
092『先生と私』佐藤 優
093『道草』夏目 漱石
094『僕は秋子に借りがある』森 博嗣
095『タダイマトビラ』村田 沙耶香
096『消滅世界』村田 沙耶香
097『宇宙を織りなすもの 下: 時間と空間の正体』ブライアン グリーン
098『感動をつくれますか?』久石 譲
099『若い読者のための世界史(上) - 原始から現代まで』エルンスト・H・ゴンブリッチ
100『スカイ・クロラ』森 博嗣
101『ナ・バ・テア』森 博嗣
102『シカゴ・スタイルに学ぶ論理的に考え、書く技術: 世界で通用する20の普遍的メソッド』吉岡 友治
103『羽生善治 闘う頭脳』羽生 善治
★104『完全教祖マニュアル』架神 恭介,辰巳 一世
★105『生涯投資家』村上 世彰
106『論理的思考力を鍛える33の思考実験』北村 良子
107『ようこそ地球さん』星 新一
108『しょうがの味は熱い』綿矢 りさ
109『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス
110『水曜の朝、午前三時』蓮見 圭一
★111『昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来』ジャレド・ダイアモンド
112『昨日までの世界(下) 文明の源流と人類の未来』ジャレド・ダイアモンド
113『オールド・テロリスト』村上 龍
114『別れの時まで』蓮見 圭一
115『超AI時代の生存戦略 ―― シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト』落合 陽一
116『悪魔の勉強術 年収一千万稼ぐ大人になるために』佐藤 優
117『人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?』山本 一成
118『AI経営で会社は甦る』冨山 和彦
119『僕らは星のかけら 原子をつくった魔法の炉を探して』マーカス・チャウン
120『エクソダス症候群』宮内 悠介
121『読書術』加藤 周一
122『横浜駅SF』柞刈湯葉
123『人月の神話【新装版】』Jr FrederickP.Brooks
124『問いのない答え』長嶋 有
125『HARD THINGS』ベン・ホロウィッツ
126『ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity?』森 博嗣
127『理系の子 高校生科学オリンピックの青春』ジュディ・ダットン
128『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』門田 隆将
129『考える生き方』finalvent
130『言ってはいけない 残酷すぎる真実』橘 玲
131『かなしぃ。』蓮見 圭一
132『佐藤優の集中講義 民族問題』佐藤 優
133『難しいことはわかりませんが、お金の増やし方を教えてください!』山崎元,大橋弘祐
134『学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む』佐藤 優 

2017年は良い年だったか?

いよいよ今年も終わりですね。2017年は本ブログをご愛顧頂き誠にありがとうございました。一時期停滞していましたが、またぼちぼち再開していければいいなと思っています。
 
個人的な話にはなりますが、2017年は色々と転機があり、それなりに節目の年になったように思います。
 
いちばんの転機は年初めに新卒で勤めていた会社を辞め、人生初の転職をしたこと。そして、その転職に合わせて、住んでいた愛知県を出て東京に住み始めたことが大きいでしょうか。
 
転職をするときに、考えていたことがあります。「転職したら、もう自分は『新卒』ではなくなるわけで、きっとそれで後悔することになるだろうけれど、それでもめげずに頑張っていこう」というもの。

要するに、「新卒」という、大学を出た者には等しく与えられる初期ステータスを自ら外すことになるわけで、それで社会的に不利益になることもきっとあるだろうけれども、自分で決めたことなのだから、もう腹を据えて覚悟してやっていこう、と、そういうふうに考えたわけです。

しかし、蓋を開けてみると、この一年間で、前の会社をやめたことを後悔したことはただの一度もありませんでした。少なくとも今のところは、前の会社を辞めていまのところに来てよかったなあ、と素直に思います。


俗に「新卒カード」という言葉がありますが、「新卒カード」が有効なのって、ほんとは最初の2〜3年のうちなのではないか、と思います。

「新卒カード」って要するになんなのかというと、「戦力ではないけれど、そのうち戦力になる」という「見習いカード」みたいなものなのかなと。大学から出てきたばかりなわけで、何も実務経験がないのは織り込み済みで、ゼロから教え込んでいこう、そういう意図が会社側にあるわけです。

それで一生懸命育ててきたのに、何年かして辞めてしまうのは不義理といえば不義理かもしれませんが、お互い意図しているところというのはあるわけで、ルール違反というほどでもないでしょう。こっちだって、愚直に、中途採用の人がやりたがらないようなことまでやってきたわけだから、ある意味ではおあいこのようなものだと思います。

いずれにせよ、「新卒カード」などというものは数年で効力を失する、ということ。そんなものははじめからないんだ、幻想だと言い切ってしまうのもひとつの手ではありますが。


とにかく、自分にとって納得のいく転職ができたのが今年の大きな収穫点。あとは来年以降、じっくりと自分を成長させていく場を整えていきたいと思っています。
 
同時に、可処分時間にも余裕ができたので、合間を見て小説や音楽なども続けていきたいところです。そして、長らく停滞していたこのブログも。それでは、来年もよろしくお願い致します。

10年で何が変わったのか?

年末なので、大学時代の友人と忘年会がてらに会って飲んでいた。前回、会ったのは5年ほど前なので、相当久しぶりだった。偶然、このブログのメッセージで連絡を送ってくれ、それにリプライしたら繋がった。インターネットというのは、いつでも人を近づける力を持っている。

つくづく友達の縁というのは不思議なものだと思う。頻繁に連絡していても縁が切れるやつは切れるし、連絡もしていないのに切れずにずっと続いていく友達もいる。

どれだけ頻繁に連絡しているか、なんていうことは些細な問題なのかもしれない。気があうやつは続くし、そうでないやつはそれきりになるのだ。
 
さて、5年ぶりに会ったわけだが、実際に大学で一緒に勉強していた頃は10年ほど前なので、大学時代の話をすると必然的に10年前の話をすることになった。

10年前と今では、もちろんあらゆることが変化したが、同時にあまり変わっていないな、と思うこともあった。

いちばん変わったところは、互いに社会経験をそれなりに詰んだということだ。学生時代とは、互いに経験していることが異なっている。学生の頃は、当たり前だが同じことを勉強していたわけで、同じような知識レベルしか持ち合わせていなかった。
 
✴︎

あまり変わっていないなと感じたのは、人間性だ。人間の内面というのは10年ぐらいでは変わらないものだな、ということ。

人間性というのは、意外と人生のかなり初期の段階で決まってくるのではないだろうか。三つ子の魂百まで、という言葉もあることだし。

学生時代に好きだったアニメやゲームは、30になってもあまり変わっていない。もちろん、そこから上積みされて好きになったものはもちろんあるのだが、基本的なメンタリティは20になったぐらいである程度は完成されているものだ。
 
20代はそれなりに濃厚だったが、あっという間だったので、気づけばすぐに40になるだろう。そんなとき、20年前を懐かしむ友人がまだいたらいいな、と思う。
livedoor プロフィール

yahiro

87年生まれ。エレクトロニカと読書とブログとモノクロ写真。
twitterアカウント@yahiro2000

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