やひログ!

届く人には届くというタイプの読み物ブログです。

2012年10月

フォト蔵はじめました

JPG_effected


http://photozou.jp/photo/top/2883324

フォト蔵、はじめてみました。

フォト蔵とは、写真専門の共有サイトで、まあ使われ方としてはSNSみたいな感じのサイトである。
pixivの写真版、といったほうがイメージとしては伝わりやすいかな。
前から僕は自分が撮った写真なんかをtwitpicなどにアップしたりしていたけど、あっちは作品として撮ったものじゃないのも含まれているから、こっちは「作品」を意識したやつを中心にアップしていこうと思います。
「作品」なんて多少おこがましい気もするが、撮った人がアートといっていればそれはアートなのである。

 
考えてみれば、自分のサイトなんかを運営して作品を発表したりするスタイルよりも、現代はこういう「共有サイト」をうまく使って、そこで活動していくのが主流になりつつある。
2000年ぐらい、つまりインターネット黎明期でフラッシュ全盛期だったあの頃は、みんな自分のHPとかブログを持つことがひとつのステータス、というか目標みたいになっていて、共有サイトなんかなかったからみんな自分のHPにいろんな作品とかアップしていたものだ。
もちろん、今もあるんだろうけど、当時はSNSもなかったから、そうするしか手がなかったのだ。
僕はゲーム音楽の耳コピをはじめとしたMIDIをやっていたから、いろんなサイトのMIDIを漁っては聴いたり編集画面を開いて譜面の勉強したりしていた。
当時はソフトシンセなど存在せず、MIDI音源の性能の差もあまりなかったから、みんなパラメータに今以上に気を遣って、よりリアルなサウンドにすべくしのぎを削っていたものだ。
「推奨音源」という言葉がなんだかなつかしい今日このごろである。
 

もちろん、個人サイトもいいが、こうやって共有サイトが存在したほうがたくさんの人の目に触れてもらえるから、メリットは大きい。
つまり、いまのほうが恵まれているということだ。
活用していくことにしよう。


     ◆

 
写真は趣味というほどではないけれど、大学生の頃にちょっとかじったりしていた。
写真そのものより、フォトレタッチをするのが好きだったのだ。
今では常識的に画像の加工はするけど、僕はケータイで撮った写真を加工して遊んでいたのだ。
締まりのない画面も、コントラストをぎゅっと絞るだけで急に締まりのある写真へと変貌する。
色彩の彩度を下げて、モノクロに近い画質までもっていく。
そういう作業がとても楽しかった。
そして、だんだんケータイの画質じゃ満足できなくなり、コンデジを買ったりして遊んでいた。
 

だけど、だんだん被写体が少なくなってきて、いつしかやめてしまった。
そりゃ、毎日なにかしら撮っていたらだんだんネタも尽きてくるよね。
身の回りのものだけを撮っていると、いつしか限界がくるのだ。


でも、こないだ(といっても相当前だが)ボーナスで買ったキヤノンのG12があるので、ちょっとずつ撮っていこうかなと思った。
あと、写真をうまく動画で使っている人や、写真をやっている人に触発された、というのもある。
それだけではないけれど。

 
ま。
創作の基本は、ネタ切れを怖がらないことだね。

ゆめにっきについて少し語る


20071016182635

 

ふと思い立ったので、久方ぶりにハードディスクの奥底の発掘作業を敢行し、ゆめにっきをやりました。
ゆめにっきとは、「ききやま」氏が個人製作したフリーゲームで、「夢の中を歩き回ること」のみを目的としたゲームである。
最初にリリースされたのが2004年とあるから、もう8年も前(そろそろ9年)のゲームなのだ。
時間が経つのは早いものですね。
 

ゆめにっきは個人製作のフリーゲームであるにもかかわらず、ネットの世界では絶大な知名度を誇っている。
決して作者が有名だからとかそういうわけではなく(むしろまったくの無名に近い)、そのあまりにユニークなゲームスタイルに衝撃を受けたユーザによって口コミ(2ちゃんねるやyoutube、ニコニコ動画含む)で広がっていったのだ。
しかし、やってみるとわかるが、ゲームジャンルはシュールレアリズムと形容すべき不気味な世界観であり、怖いと感じることすらある。
だから、なんでこんなに反響を得るに至ったのか、ちょっと不思議に思わないでもない。
だが、この作品は決してホラーではない。
ホラー要素ではなく、ただただ理不尽で不気味なのだ。
ま、「夢の中」という設定なのだから、別に論理的な要素は必要ない……と、そんなところだろうか。


     ◆


作品が人気を得るためには、「共感」が必要だと聞いた。
たとえば、中高生の女の子が同世代に向けて発信する、ケータイ小説。
だが、僕個人としては、これにはそこまで賛同できない。
しかし、よくよく考えてみると、自分の好きな作品は少なくとも「ある程度の」共感があることを実感しているので、ま、あながち間違ってはいないのだろう。
そして、「ゆめにっき」という作品について考えてみると、この作品そのものは非常に非論理的で不気味でシュールレアリスティックな世界観なのだけれど、「ああなんかわかるわかる」みたいな瞬間に出会ったりもするのだ。
自分自身にも似たような体験、共感できる要素があるのである。
つまり、それが夢の中の世界だ。
 

だから、ゆめにっきを愛好する人は、自分が見る夢とゆめにっきの世界を重ねて、「共感」しているのではないか、とふと感じたのだ。
誰だって、不気味な夢は見たことがあるし、夢は大概が非論理的なものである。
もちろん、本作品の人気が高いのはそれだけではないと思うが……。
 

イベントらしいイベントはないが、色々とユニークなキャラクターは登場する。
このゲームに台詞は一切ないので、キャラクタの正式名称はわからない。
が、2ちゃんねるなどの掲示板によっていつからか「通称」のようなものがつけられ、それが正式名称の如き扱いを受けている。
セコムマサダ先生、ポニ子、モノ子、キュッキュ君、エトセトラ。
馴染みやすいニックネームがつけてられていて、その点においても、とても良いよね。
 

ゲーム中には一切台詞もないし、各キャラクタのプロフィールもないので、みんなあれやこれやと勝手に自分で解釈し、補足している。
そういう作業が好きなんだね、日本人というやつは。
つまり、いわゆる二次創作というやつです。
かくいう僕だって、ニコニコ動画に「ゆめにっきアレンジ」なるものを投稿していて、実にアレンジした楽曲の数、18曲。
ゆめにっきというのは、「夢の中」の世界にふさわしく、すべての素材が断片的なので、その点でも二次創作に適しているのだ。
 

このゲームは、「ゆめのなか」という設定なのだから、当然、出てくるキャラクタやマップは現実世界を反映しているものとみて間違いないだろう。
だから、そこからさまざまな考察が生まれる(もっとも、正解など存在しないのだから、根拠のない憶測の域を超えることはないが……)。
窓付きはいじめにあっていたんじゃないかとか、ポニ子はどういう立場の友人だったのだろう、とか。
こういうのも面白いね。


     ◆


ゲームって、小説や映画と違って、インタラクティブなメディアである。
つまり、自分でキャラクターを動かして、好きなところに行くことができる。
そして、ゆめにっきほど、ユーザのインタラクティブな部分に依存しているゲームも少ないと思う。
もちろん、いい意味で。
 

二次創作というのを通り越して、「派生」というゆめにっきを模した別のゲームも登場している。
もはやこうなると二次創作じゃなくて、一連の作品群と見做してもよさそうだ。
こういうのをもたらすほど、ポテンシャルを秘めたゲームというのを、僕は知らない。


     ◆


ちなみに、ゆめにっきで一番好きな場所は空中庭園。
あの、ピラミッドを登っていった先にある公園のことである。
ちょっと先にいくと、展望台があって、美しい夜景が見れる。
ゲーム内で、その場所に行くのはなかなか大変で、ちょっと苦労するから、感動もひとしおである。
 

あとは、そうだな……。
やっぱり火星ですね。
火星のBGMも美しいです。

Kindle発売、iPadは世界に何をもたらしたのか?

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日本でもいよいよKindle発売! Amazonリンプ副社長「すべての準備が整った」 -INTERNET Watch

Amazon.co.jp: 歌うクジラ 上: 村上 龍: 本

 
日本でもAmazonのKindle発売が決定したとかで、ちょっとした話題となっている。
村上龍は、2010年は電子書籍元年だと言った。
僕も、実際そうなるだろうなあと思う。

 

でも、この電子書籍ブーム・・・を引き起こしたのはもちろん、アップルのiPadだ。
この時代に先駆けてこれを世に投下したのである。
ほかのメーカは、それに追随しているにすぎない。

 

名古屋駅前のビックカメラなどに行くと、一階にケータイやコンデジなどが陳列されていて、最近はその中に電子書籍用の端末が置いてあるのを目にする。
iPadよりもひとまわりほど小さいものだが、電子書籍媒体としては最近はこのサイズが主流なのだろうか。
電子書籍用としては、iPadの大きさはとても大きいような気がする。
逆に、iPhoneの画面サイズはほかのメーカのスマートフォンよりも小ぶりで、つまり画面の大きさだけでいうとiPhone、スマートフォン、電子書籍端末、iPadの順で大きくなっている(iPhone5でちょっと縦に伸びたけれど)。
これからさらにいろんなメーカがこれを出すのだとしたら、ますますスマートフォンと電子書籍端末の違いが不明瞭になる。
というか、iPadで読む電子書籍の大半はiPhoneでも読めるので、両者の違いは画面のデカさだけ、とも言える。
でも、iPhoneとiPadはやはり違うものだ。
画面のデカさしか、基本的には違わないはずんだけど。

 

じゃあ、iPadは世に何をもたらしたのか?



ノートPCをいつでもどこでも持ち歩くのが不便なのは誰もが知っている。
だからといって、ケータイですべての仕事がこなせるわけではない。
だから、その中間に位置するものとして、iPadが登場した。

 

登場の経緯はこれである。
しかし、これはちょっと考えれば誰だって思いつくことで、iPadが出たときは僕もジョブズにしては凡庸なアイデアだなと思ったものだった。
ただiPhoneの画面をデカくしただけだろう、と思ったのだ。
ゲームボーイのあとにゲームボーイカラーがでたのと似た進化だな、と思った程度だった。

 

2010年を電子書籍元年だとすると、今年は2012年(もうすぐ終わるけど)なので電子書籍2年目である。
正直、普及にはまだまだ至っていないと思う。
電車でiPadで雑誌なんかを読んでいても、周りにiPadで本を読んでいる人はほとんど見かけない。
でも、スターバックスなどに行くと、ビジネスマンがiPadに向かって資料を確認したりしているのは目にしたりする。
つまり、iPadそのものが世界に普及していないわけではないが、「電子書籍として」の普及はまだまだだということだ。
実際、僕も仕事のために買ったものとはいえ、私用よりも仕事で使うことのほうが多い。
 

村上龍が、インタビューの中で、Eメール(今ではもう完全に死語だが)が普及し始めた当時、自分の長編小説が一瞬でメールに添付して送信できてしまうので、これで自分の小説はもっとみんなに読んで貰えるな、と思ったそうだ。
確かに、どんなに長い長編小説だろうが、テキストデータにしてみればたかだが数MBの容量しかない。
人が一生かかって書く文章を、たった一個のUSBメモリに収めてしまうことだってじゅうぶんに可能だろう。
人が一生に目にする文章を、と言い換えてもいい。
 

だが、長い文章をパソコンで読むのはしんどい。
できることなら、もっと読みやすい筐体で読みたい。
そんな中、登場したのがiPadなのである。
しかし、前述の通り、一般的な普及には至っていない。
それでは、いったい何が普及を妨げているのだろうか?
 

世の中には、「本好きな人」と「本好きじゃない人」の二種類が居る。
本好きの人は「本」、つまり「紙の本」のあの媒体そのものに過剰な思い入れ・愛情・フェティシズムを抱いているケースが多く、味気ない電子書籍には嫌悪感を示す。
一方で、 「本好きじゃない人」はそもそも読書の習慣がないので、電子書籍にはまったく関心を示さない。
この状況が、電子書籍の普及が遅れている一因だと思う。
一方で、ビジネスマンは資料データが電子媒体だろうが紙媒体だろうが一向に構わないので、iPadを使うことを選択しているわけだ(むしろ電子媒体のほうがカバンが軽くなるしかさばらないので便利である)。
 

でもね。
ひとつ思うんだけど、 こういう一種の「新しい媒体に対する嫌悪感」って、時間とともに薄れていく、というか、いつしかなくなってしまうものだと思う。
いまは、紙媒体でないと満足できない人のほうが大半だけれど、ひと世代変わったあとはどうか。
いまの若い世代が、日常的にiPadを使っていれば、いずれはこの嫌悪感もなくなっていくだろう。
たぶん、どの時代にもこういう「媒体のシフト」はあったはずだ。
自動車が発明された頃だって、馬のほうがいいじゃないかと主張した人も、たくさんいたことだろう。


「文学」という分野で人は電子書籍を選択することは少ないかもしれないが、やがて電子書籍の便利さには気付くだろう。
僕は、ビジネス雑誌などはiPadで購入したほうがいいんじゃないかと思う。
だって、わざわざお店まで買いに行く必要がないし、溜まった雑誌がかさばって捨てる必要もないし(雑誌の処分はいつだって僕を悩ませる)、気に入った記事をスクラップする必要もない(満員列車で気に入った記事があったときはどうしたらいいんだ)。
ただDLするだけで良い。
たぶん、電子書籍が普及していくんだとしたら、こういう分野から普及していくんじゃないのかな。
実際、海外赴任しているうちの部長などは、iPadをフル活用している。
海外にいると、日経新聞すら読めないからだ。
出版する側だって、在庫を抱えるリスクを背負う必要がないし、そもそも印刷する必要すらないのだから、こんなにコスト削減になる話もない。
「むしろ、こっちのほうが自然だ」とみんなが言うまでにどのぐらいの時間がかかるだろう?
(但し、雇用が減少すると言うデメリットも存在するが)
 

電子書籍元年、とはうまいこと言ったものである。
10年経ったら、世界はどう変化しているかな。

不法投棄(才能)

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こんな動画を見つけた。
これはMADとかではなく、オリジナル・アニメーションの動画である。
 

数秒程度のぱらぱら漫画、GIFアニメみたいな印象の短編なのだが、見てみるとわかるとおり非常にクオリティが高い。
SEは入ってるけど台詞はサイレントで、ちょっとブラックな要素もあったりして。
風刺が効いてるのもある。
こんな動画をニコニコで発見できたことがとても嬉しい。
 

素人目にみてもスゲー、って思ってしまうのだけれど、こういう才能がしれっと存在するところがこういうネットのおそろしいところでもある。 
なんだろう、まるで才能の不法投棄である。

筐体の練成(肉体)

休日だからといって、家にだらだらとひきこもっているのもどうかと思い、なぜか名古屋駅まで歩くことを思い立った。


先々月まで、僕は現場で肉体的な労働をしていた。
だが、現在の僕は本社勤務のオフィスワーカーで、痔になったりエコノミークラス症候群になったりするリスクを抱えながらだらだらと仕事をしているのであるが、そのために運動が不足していて仕方がないのである。
ちょうどタイミング良く(?)、こないだまで愛用していた我がイヤホンがついに逝ってしまわれたので、そいつを買いに行くことにした。
弔いの合戦である。

 
グーグル先生によると、名古屋駅までは我が自宅から歩いて一時間半とのことであった。
一時間半ならば食後の運動にちょうど良かろう。
僕はさぞ忙しいふりをしながら、すたすたと名古屋駅まで歩いた。
いい天気で、ちょっと暑いぐらいであったが、べつに汗をかくほどではなかった。
 

……と思っていたのだが。一時間を超えたあたりから、足が大変なことになってきた。
10キロも歩いていないというのに、膝が笑っておる。
その時、僕はあることに気付いて愕然となった。


歩行という行為は単純なように見えて、よくよく考えてみるときわめて異常な行為である。
問題は、その異常な仕事量にある。
成人男性ならば60キログラムを優に超える物体を、休みなく両足を動かし運び続けているのである。
尋常な事態ではない。
仮にこれが逆立ち状態だと仮定してみれば、その異常性がよくおわかりになるだろう。
逆立ちなんて、逆さに立つだけで精一杯、歩行などもってのほかである。
それを、ウォーキングというものは一時間、60kg+αを運搬しているのである。
これが異常でなくてなんだというのだろうか。
 

などと無駄な思索に耽ってみたものの、もちろんこれは普段の生活において運動が不足していることに起因している。
ただ、時代モノの小説などを読むと、実に気軽に京都⇔東京を徒歩で行き来するが、あれは現代人にはおそらく耐えられまい。
たかだか10キロ歩くだけでこの有様だ。
東京なんて新幹線で行く発想しかないので、そんなことはおそらく不可能に違いない。
 

自分に肉体……筐体としての肉体を練成せねばと無駄に決心してしまった。
たぶんこの情熱は三日ぐらいで沈静化すると思うけど。

腐敗。

無題





 
この動画を見ると、生物が死んでいく様子って、一瞬だけ美しい瞬間があるということに気付く。
ずっとではない。
ほんの、一瞬なのだ。
カビが生えると、それは徐々にコロニーを形成し、秩序を乱していく。
だが、腐敗が始まる一歩手前、形が崩れかけた瞬間というのは、
確かに美しい。

スカイ・クロラについて。



 
森博嗣の「スカイ・クロラ」をまとめて読み返した。
一年ほど前に文庫本で購入して、立て続けに読んだのだが、ほんとに立て続けに読んだために内容をほとんど憶えていない、ということにあらためて気が付いたのである。
そこで、電子書籍版(iPhone・iPad用)を購入した。
電子書籍版なら、いつでもどこまで持ち歩くことができるから便利なのである。
最近は、気に入った本は電子書籍版でも持ち歩きたい、と思うようになってきた。
場所をとらないし、永遠に保存することができる。
慣れるまではなんとなく見づらかったが、慣れてくると行間や文字サイズを指定できるので好きなようにカスタマイズして悦に浸っている。
 

今は「スカイ」に限らず、他の森シリーズも読み始めているが(S&Mシリーズは読了)、もともとこの作品へは押井守監督が映画化したアニメ映画から入った。
それまでは名前すら知らなかった。
こんなに有名なのに、不思議だな。
 

映画版はどちらかというと賛否両論、両方ある。
単純なカタルシスのあるエンターテイメントを期待した人々にはいささか内容が重すぎる。
映像のクオリティはもちろん高いが、他のアニメ映画とは一線を画すものだし、声も、抑揚を欠いた非常に淡泊なものを当てている。
だが、それらの要素は一部の人間には受け入れがたいものかもしれないが、この作品を表現するにあたっては絶対に必要な要素だし、非常に適切なものなのだ。
だからはじめてそれを見たとき、僕は衝撃を受けた。
今も、見返すと衝撃を受ける。
それぐらい強烈な作品なのだ。
 

要は、そういう「鬱作品」に耐性があるか否か、ということに尽きる。
でも、文学作品だって大概は鬱作品である。
だから、そういう意味では非常に文学的と言える。
冒頭で、カンナミがクサナギに「太陽が眩しかったから」とカミュ的なセリフを口にするのはそのあらわれだ(ちなみに、これは映画のオリジナル)。
 
 


このシリーズは現実と似ているが異なる世界で、「戦争」と「不老不死」がテーマにした「戦争モノ」なのだが、そうとは思わせないほど淡々と、落ち着いた語り口で進行していく。
主人公は作品ごとに変わり、いずれも戦闘機のパイロットで、キルドレという、不老不死の人間だ。
キルドレは、不老不死であるからか、記憶が曖昧で、自分と他人の境界が曖昧で、戦闘機で空にかけのぼることばかり考えている。
そして、全員が子どもなのだ。
作品に出てくる大人たちは、「地上」での政治や権力、金の闘争を繰り広げているかもしれないが、キルドレたちはそういうしがらみを嫌い、ただ空の青さにのみ想いを募らせる。
「スカイ・クロラ」は直訳すると「空を這う者」、まさにこのシリーズを象徴しているタイトルである。
 

シリーズものといっても、大きな物語がどこかに進行しているわけではない。
「戦争」……とはいってもそこに争いがあるわけではない。
PMC、戦争代行会社が作り出した、平和を実感するためだけの戦争。
政治のための戦争。
そういうモノしか、その世界にはない。
時系列もバラバラで、最初に刊行された「スカイ・クロラ」が時系列上ではいちばん最後の物語にあたる。
全体の物語の焦点は、主人公たち「キルドレ」が何者なのか? といった謎に焦点があてられる。
そういった「世界の謎」を、ミステリ作家である森博嗣によってリリカルに、しかし穏やかな筆致で描かれるのだ。
 

不老になり、永遠を生きるキルドレは、厳格な記憶を保つことができない。
「記憶」とは、脳細胞に入ってきた情報を留めることだから、不老になり、常に細胞を循環させていると、記憶を保つことすら困難になる。
だから、彼らはしばしば自我さえも曖昧になる。
「自我」と「記憶」は密接に結びついているし、「記憶」と「老化」も結びついている。
だから、キルドレたちは、確固たる自我も記憶も持たない。
老化しない、とはそういうことなのだ。
 

この作品の魅力はなんだろうか。
そして、森博嗣はミステリ作家なのに、氏自身をしてこの作品を「代表作」と呼ぶ理由はなんだろうか。
 

答えは、「読めばわかります。」

ラクラスタワールド・プラットホーム




はやいもので、この作品ももう6作目なのですね。
本当は「三部作〜!」とか言って三曲とかでさっさと打ち止めにしたかったんだけど、まだまだ作りたくなったのだから仕方がないさね。
それはもう、やむなしというものだよ、君。
 

もともと、このシリーズはもぐささんという方の絵がpixivのニコニコインディーズ支援中タグというところにあったことから勝手に使用させていただき、はじめはimages and soundsシリーズという形で発表していたのだけれど、あまりに世界観がおありになったので「ワールドシリーズ」というシリーズものとして勝手に作らせて頂いている次第なのである。
それぐらい、素敵な絵を描く絵師さんなのである。
ま、見ればわかるでしょう。
とにかく、仕方ないのである。
 

ただひとつ、勘違いをしてはならないのは、いま言った「世界観がある」とは「絵に世界観がある」という意味である。
僕の曲のことではない。
あくまで、僕は絵から出てくる音を拾って、それをつむいでひとつの物語を構成しているにすぎない。
ここがほかのシリーズとは微妙に異なる点である。
images and soundsシリーズはどちらかというとそういう作り方をしているのだけれど、ワールドシリーズはさらにもうワンランク、絵のほうを上位に置くような形で製作していっている。
意識してるのは、映画のBGMや、ゲームのサウンドトラック、あのぐらいの背後音。
あんな感じの、「バッググラウンド・ミュージック」みたいな感じで意識してもらえば幸い。
 

なかなか、映画みたいな背後音、とまではいってないんだけれども。
そういう心意気で作ってるんだぜ、ということだけ理解していただければ。

2012.09 読書記録

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2012年9月の読書メーター

読んだ本の数:9冊
読んだページ数:3005ページ
ナイス数:12ナイス


街場のアメリカ論 (文春文庫)街場のアメリカ論 (文春文庫)感想
「アメリカってどんな国?」という問いに対して、「子どもっぽくて、戦争大好きで、ジャンクフードばかり食べていて……」というイメージが少なからずあるかと思いますが、内田先生によってそれが見事に解説されています。
「上が変でも大丈夫」……読んだときは「?」と思いましたが、よくよく考えれば確かにそうです。
「理想」が先行している社会なんです。
読了日:9月30日 著者:内田 樹


任天堂 “驚き”を生む方程式任天堂 “驚き”を生む方程式感想
2009年までの情報とやや古いですが、任天堂の歴史がうまくまとめてあります。
ところどころで、アップルとの対比が挙げられていますが、確かにアップルと同じで、ライバル社との競合による低調の時代を経て、斬新なアイデアでの復活を遂げている点でも同じだと思います。
なにより、イノベイティブな製品を発明しつづけた、開発者・経営者たちのアイデアには脱帽。
読了日:9月30日 著者:井上 理


Another(下) (角川文庫)Another(下) (角川文庫)感想
うーん、面白い。
面白いです。
正直、結末は予想外でした。
なるほどね……でも欲を言わせてもらえば、もっと「騙されたかった」な、と。
ラストに繋がるまでの、「確信」にもっと揺らぎがあれば、サスペンスとしてももっと盛り上がれたのかなと思います。
もっとロジックで攻めて、謎を解明する要素がほしかった、というか。
……でも、面白かった。
読了日:9月26日 著者:綾辻 行人


Another(上) (角川文庫)Another(上) (角川文庫)感想
話が転がりだすまでが少し長く感じましたが、後半は一息に読めました。
怖い。
なんだかとってつけたような、現実の台詞としてはやや不自然な感じの語り口が序盤が気になりましたが、だんだんそれが作品にマッチしているような。
下巻が楽しみです。
読了日:9月24日 著者:綾辻 行人


挑戦する脳 (集英社新書)挑戦する脳 (集英社新書)感想
茂木氏の著作はどれもわかりやすい。
みずから、未知の環境に飛び込み、「挑戦する」ことが、どれだけ脳を鍛えるか、そういうことを考えさせられました。
読了日:9月22日 著者:茂木 健一郎




有頂天家族 (幻冬舎文庫)有頂天家族 (幻冬舎文庫)感想
やはり、森見登美彦氏の作品は、どこまでいっても森見登美彦氏である。
京都いきたい。・・・
読了日:9月18日 著者:森見 登美彦




脱・中国論 日本人が中国とうまく付き合うための56のテーゼ脱・中国論 日本人が中国とうまく付き合うための56のテーゼ感想
「中国」という国から脱するのではなく、「中国論」から脱するという観点から書かれた本。
著者はどっぷりと中国のメディアに浸かっており、現状の中国を正確に描写している、と思った。
読了日:9月9日 著者:加藤嘉一




街場の読書論街場の読書論感想
いわゆるブログ・コンピ本で、書下ろされたものではない。
なので、その場その場の思考を、掌編小説のようにつなぎ合わせた感じ。
記事そのものは独立しているのだが、微妙にリンクし、また全体としてみるとループしている。
ウチダ流知性がいかにして形作られるのか、を知る一冊。
読了日:9月2日 著者:内田樹


フラッタ・リンツ・ライフ―Flutter into Lifeフラッタ・リンツ・ライフ―Flutter into Life感想
この作品を読むと、クサナギがカミソリのような切れ味の人間で、クリタのほうが、「キルドレ」としての存在に似つかわしい、ふわふわした感じを持っている印象を受けました。
読了日:9月1日 著者:森 博嗣

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yahiro

87年生まれ。エレクトロニカと読書とブログとモノクロ写真。
twitterアカウント@yahiro2000

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