2008年02月

2008年02月29日




その知らせは突然やってきた。





ナムオ@京都がメールで

「Tatsa教授が今ハノイに学会で来てるらしい!」

という。





Tatsa教授というのは、AIT(タイ)で土木建築工学を教えていらしたイスラエル人の教授。


実は私自身は一度もTatsa教授の講義を受けたことはないのだけれど、当初はナムさんがTatsa教授に可愛がってもらっていた。



そして5年ほど前のある日



ナムオとAITからバンコクまで遊びに出かけようとしていた朝7時ごろ、AITのベーカリーでパンとコーヒーの朝食をとっていると、Tatsa教授が同じテーブルにやってきて、ナムオから紹介された。


Tatsa教授は毎朝7時ごろ、ベーカリーのテーブルで朝食をとっていた。


私が日本人であることがわかると、彼はとても喜び、

「昔、イスラエルのわが町にね、イスラエル人と結婚したある日本人女性がいてね、彼女が毎日巻き寿司を作っては、町の市場へ売りに来ていたんだ。
僕と妻はその巻き寿司が大好きで、いつも市場で買って帰っていたんだよ。」

という思い出話をしてくれた。






それ以来、私とTatsa教授はしばしばお茶を共にし


私の卒業後も、タイの行く機会がある度にAITまで足を伸ばし、Tatsa教授に会いに行き

その数年後、Tatsa教授も退官して、イスラエルに戻られたんだけれど

AIT時代に一緒にとった写真を、イスラエルからわざわざ日本まで郵送してくれたり。



そんなTatsa教授、もしハノイにおられるなら、どうしても会いたい(′∀`)!



しかしTatsa教授のメルアドがわかりませぬ。。。


そして、ハノイでの連絡先もわかりませぬ・・・・。








とりあえず、GoogleでTatsa教授を検索し、出てきた2つのメルアドにメール。

しかし、どちらのメルアドも機能しておらず(泣)。


そしてナムオにお願い。

「その学会関係者に、Tatsa教授の泊まってるホテルを聞いてちょうらい」


しかし、ナムオは学会関係者を知らず、とりあえず、学会の参画になっている建築会社のディレクターが知り合いってことで、その方にメール。

しかし、Tatsa教授の宿泊先は分からない、ということで、別の2人のベトナム人の携帯電話番号を渡される。


そして私がその番号に電話。



英語のやや怪しいベトナム人女性が出る。




自分がTatsa教授の元学生であり、Tatsa教授の宿泊先を探していることを伝えると、快く


「Pham Ngoc Lao通り、33Aのアーミーホテルよ。」

と教えてくれる。





そして今度はアーミーホテルの電話番号をGoogleで検索し、電話。


「もしもし、Elisha Tatsaというイスラエル人のゲストを探してるんだけど」


「イスラエル人のゲストは生憎おりません。」


「え。。。でもそちらに泊まってるはずなんだけど・・・


「名前でも検索したけど、そういう名前のゲストもおりません。似た名前のスペイン人は二人いるけど。。。

本当にうちのホテル?

ここには、同じ住所に3つのホテルがあるのよ?」


「え・・?____通りの33Aって言われたんだけど。」


「あー、それはうちじゃないわ。うちは33Cよ。123−4567に電話して。」




違うホテルだったらしい。

そしてもらった番号に電話。




「もしもし、アーミーホテルですか?」


「いえいえ、こちら、Ministry of Defenseなんとか(最後聞き取れず)です。」


「え?Ministry of Defense??」


「そう、Ministry of Defenseなんとかです!(苛立ち気味に)」


「あ、間違えました・・・



間違い電話とはいえ、防衛庁に電話がいったのかと思うと、ちょっと嬉しいオイラ。



でも、Tatsa教授がみつからなーい!!!


あとは、「33C Pham Ngoc Lao通り」でGoogle検索してみる。

別のオフィスばっかり検索に引っかかる中、しつこくしつこく、引っかかったページを1つ1つ確認していくと・・・

ついに!

33C Pham Ngoc Lao通りM.O.D. Palaceというホテルが。

M.O.D.・・・? Ministry of Defense・・・Palace?


おおおおおおおおおおおおおお



さっきのは防衛庁じゃなくて、防衛庁パレスというホテルだったんかい!




そして、さっきの番号に再び電話。


「もしもし、Elisha Tatsaというイスラエル人のゲストを探してるんだけど」

「はいはい、今電話を繋ぎます。」はやっ!


そしてTatsa教授が


「ハロー?」

「おおおお、AITにいた日本人学生のAYAだけど・・・」

「うおおおおおお!!!!AYA!!! どこにいるんだ? どうしてここが分かったんだ?!」


そして再び感動の嵐でありました



んで、翌日の今日。




感動の再会でランチをお供させていただきました


With Prof Tatsa











すでに今年70歳のTatsa教授は、もちろん大学はリタイアされ、今は建設コンサルタントとしてお仕事されていて、これから世銀のファンドを得て、ビッグな建築プロジェクトをベトナムではじめるそう。まだまだ現役ですぞ。


なんでも、ベトナム中部の沿岸地帯の、常に台風に襲われている地域の何十万世帯を移転しちゃうそうな。ビッグプロジェクトです。大丈夫かいな。


そんなわけで、ハノイにすでに合弁会社をつくり、これからはハノイとイスラエルの往復生活となる模様。嬉しいニュースであります





うおぉぉぉぉぉぉ!おいらもイスラエルにきっといったる (。・ω・)ノ゙









世界中を飛び回ってるTatsa教授ですが、タイに15年間も住んでいながら、1カ国だけ東南アジアで足を踏み入れていない国が・・・それは・・・




マレーシア



知らなんだ、イスラエル人はマレーシアに入国できないんだって (*´Д`*)

(22:47)

2008年02月28日




おととい無事ハノイに戻りました。

直行便は早いのー( -д-)ノ

空いてたから、横になって寝ちゃったり、めずらしく空港で購入した雑誌なんか読んじゃったり、ちょっとお仕事しちゃったり、快適、快適。





この度、Hoa宅からゲストハウスに移りました。

といいますのも、Hoa一家はたいそう親切に、家族の一員として私を扱ってくれているのですが、どうにもこうにも、やっぱり気をつかってしまうオイラ。





実はハノイではこれまでいつも居候生活であったため、初めてのホテル生活であります。

ついにひとり立ちであります。

私がハノイに戻る前に、ナムオ父がいくつかセレクトされたホテル&ゲストハウスをバイクで回り、値段&部屋の清潔度&インターネット&温水シャワーを確認してお墨付きをいただいたゲストハウスでございます。


到着すると、らせん階段をずんずん6階でございます。

ここまでくれば、なかなか蚊も上がってまいりません。


私の後に来た巨大欧米人のバックパッカーおばちゃんは、5階の部屋を紹介されると、鼻息も荒く、

「おおお、のー!のー!こんなに高いところまで上ってくる部屋はだめあるよー!」

と帰っていきました。

・ ・・いやー、あなたは毎日5階まで数回往復したほうがいいと思うよ・・・

なんて腹黒なことは胸の奥にしまって・・・。


部屋は清潔で、シーツも真っ白できれいだし、問題なし!

しかも部屋で衛星TV見られるしー。映画みまくりよぉ。

しかもしかーも、ホアンキエム湖まで徒歩3分。スーパーまで徒歩5分。ナイトマーケットまで徒歩3分。

WHOオフィスまでも歩いていけるんるん。

これはやべーです。

夕方、ホアンキエム湖、ジョギングしちゃう?

朝ごはんもついてるし、いうことなし。

これで一泊15法いいんでない?

ただインターネットの調子がちょっとね。初日は部屋でワイヤレス使えたんだけど、2日目からだめ・・・。これが唯一の問題かね。


Hotel room












チェックインの後、知らぬ間に、ナムオ母がホテルに電話して

「そちらに泊まってる○○って子はうちの知り合いの子だから、ちゃんとよろしく頼むよ」

ってレセプションにお願いしてくれていた模様。感謝。





さて、これからは、毎晩夕飯は外食だぜ。

みなさま、誘ってやってください♪♪










初日はゲストハウスで一息つくと、そのまま荷物をとり、お土産渡すためにバスではるばるHoa宅へ。

19時到着。

おー、偶然夕飯の時間あるねー (*゚∀゚)っ


というわけで、Hoa一家プラス仲良しHienでわいわい夕飯。








で、翌朝ブレックファーストをいただきながら、これを書いてるんですが


こうしてホテルの1階で欧米人の観光客さんたちと、トーストにジャムの朝ごはん食べてると、それはまさにイギリスのBed & Breakfastという感じで、うれしくなっちゃうね。


そして、仕事復帰です。徒歩でオフィスへ。めっちゃ早くついちゃうよん。るんるん。






下は成田空港で自分用に買っちまった京都「ようじや」のぬか袋なるもの。

なんでもこの袋の中に「ぬか」が詰まっていて、これを水に浸してお顔をつるつるマッサージするといいらしいのです。

こういうことを一人優雅に部屋でやってしまう賞味290円の幸せなり。


ぬか袋

(16:52)

2008年02月24日



ハノイでいつも一緒にお仕事しているWHO現地専門家のDai先生。

マラリアの専門家だと思っていたら、なんとデング熱が一番の専門とか。
これで、ハノイに戻るのも安心、安心 ( -д-)ノ




そんなDai先生

実は15年前に日本に留学していました。

長崎大で1年間、医学研究に勤しみました。

が、長崎に渡るちょっと前、東京でホームステイしながら、研修を受けていました。

そのホストファミリーは家族と離れて一人異国の地で頑張るDai先生に非常によくしてくれました。

一番の思い出は、長崎大に移ったあと、当時は英字新聞も入手するのが難しいなか、ベトナム語の新聞を毎週国立図書館へ行っては印刷し、長崎まで郵送してくれていたこととか (′∀`)涙、涙





しかし、15年前にはインターネットやメールなどなく

さらに15年前のベトナムといえば、まだまだ戦後まもなく貧しいこと甚だし。

国際電話も国際郵便も高価で、難しく

Dai先生のベトナム帰国後、いつの間にか住所も紛失し、音信不通となってしまいました・・・



一番左の焼けた方が15年前のDai先生@長崎。
15年後にはなぜか色が白くなり、頭も若干軽く(?)なり。
それにしても、ファッションに時代を感じる写真ですよー(●´ω`●)
15年前のDai先生










そんな心温まる、そして残念な話を毎週のように聞いていたわたし。









そして、わたしの一時帰国の当日。


オフィスへいくと、Dai先生が興奮して飛んできました。


「家を片付けていたら、15年前のホストファミリーの住所と電話番号がでてきたんだ!!!」

「手紙を書いたから、日本に着いたら、送ってみて欲しい!」




そんな大役を引き受け、わたしはいざ東京へ








Dai先生のメモには、ホストファミリーの奥様のフルネーム、微妙に間違ってるらしい住所(相模原が東京になっている。惜しい。)、そして2つの電話番号がありました。


さらに、ホストファミリーは、15年前当時、レストランを経営していたとの情報あり。


しかし、なにせ15年前の住所だからなぁ。住人が変わってる可能性大です。





2週間の闘病(?)生活を経て、健康が回復した私は、とりあえずインターネットで、まずは住所の相模原市上鶴間○−○を検索。
しかし、それらしき情報は得られず。


次に電話番号を検索。


すると、片方の電話番号が、相模原市上鶴間のとあるバーベキューレストランの電話番号と一致!



「およよ!? これはもしかすると、もしかするか?!」

「ってことは、この電話番号がお店ので、もう一方のが自宅の電話番号とか?」



そして早速自宅のものと思われる電話番号に電話。
しかし、ホストファミリーのお名前の方は、いらっしゃらないとのこと(泣)。






次に2つ目の電話番号(BBQレストランの電話番号と一致したほう)に電話。

何度も電話するが、お店が忙しいのか、なかなか繋がらず。

その後毎日電話を試みて、数日後にやっと繋がったーーーー!




「突然のお電話にて失礼いたしますが、こちら〜〜〜と申しますが、そちらに山田花子(仮名)様という方がいらっしゃいませんでしょうか?」


「はぁ・・・・はい・・・・・わ・・・たく・・し・・・・・ですが・・・・・。」



明らかに、振り込め詐欺かオレオレ詐欺だと誤解され、恐れられてます・・・


ここは一気にしゃべるしかねー!


「実はわたくし、これこれこういうもので、ベトナムで○○ Daiという先生と一緒にお仕事させていただいているのですが、そのDai先生が15年ほど前に日本に留学されていて・・・・・・」


と、これまでに経緯を一気にまくし立てるあたし。


すると、相手の女性は突然





「えぇぇぇぇぇぇ!!! いました!いました! えぇぇぇぇぇぇ!!!信じられない〜〜〜!!」


で、まぁこのあとは、もうお互いに感動の嵐でさーね。


たしかにBBQレストランは15年前にも同じように経営されていたとのこと。


とりあえず、興奮も冷めやらぬまま、私のベトナム帰国前にどこかで落ち合い、色々お話させていただき、Dai先生のために現在のお写真を撮らせていただくことを約束し、電話をおきました。









そして金曜の夜、行ってきましたよ、『東林バーベキュー』へ



初めての相模大野駅には、『東林バーベキュー』ミニバスがお出迎え。


そしてついに、Dai先生のかつてのホストファミリーとご対面!


奥様、だんなさま、小学生と中学生のお子様、そして83歳のおばあちゃんと、初めて会ったとは思えない勢いで話に花が咲き。


東林バーベキューのみなさま









しまいには、おばあちゃんが自作ダンスを延々と踊りだし。


踊るおばあちゃん














しかも、東林バーベキューはなんつっても焼肉ブッフェの食べ放題ですからね。


豚も鳥も牛も野菜もサラダもごはんも味噌汁もデザートもアイスクリームも飲み物も食べ放題に飲み放題。

大変ごちそうになりました。お土産までいただいて・・・




日本人、素晴らしいね。

そして、思いかげなく心温まる出会いに導いてくれたDai先生に感謝感謝。


ちゃんと会いに行ったでー、という証拠写真とお土産の品を来週ハノイにてDai先生に贈呈します。

(00:45)

2008年02月17日



完全に復活した食欲を証明すべく


また、昨年のモテ期も何事もなく過ぎ去り、今年の2月14日は凶作に嘆く友に

「まったく、しゃーねーなぁ。」

と溢れる奉仕と同情の精神で義理チョコを贈呈すべく

 
そして、もちろん心置きなく友としゃべり、笑うべく


秋葉原のインド料理屋さん、アジャンタでランチ。



ナン食べ放題で、うまいです。

私がサラダぶちまけたら、インド人兄ちゃんが、インド人らしからぬ所作で、ささっと新しいオシボリを袋から空けて出してくれます (*・ω・)ノ

秋葉原のインド料理




















高校時代から共に学び

共にバイトし

共に予備校に通い

その後、一度社会人を経験しながら、その間秘かに発揮し続けていた意匠能力をフル活用すべく、ファッションのプロ養成校へ入りなおした友の、3年間の集大成を見るべく

卒業作品の展示会へ母と出向く。



ちなみにうちの母は、服飾専門学校を遠い遠い昔に出た方です。

人生唯一の自慢は、卒業作品発表のショーの審査でトップを取ったことであるとは、恐らく私しか知りません。


聖子 卒展














数十年ぶり(?)に服飾の世界に接した母は(だいぶ様子は変わっているであろうと想像されますね)、めずらしく真剣に、わざわざ老眼鏡までかけて、作品の細かい作りに見入っておりました。

そんなあたくしは、縫製の腕は全く引き継いでおりませんが

それでも友の作品を見て、彼女の将来の成功を確信するのでありました。

最終審査でも非常に高い評価を得ていたことが、また、自分のように嬉。





思えば10年前、毎日朝から晩まで駿台の食堂にたまり

できたばかりのスタバにたまり

コーヒー1杯でケンタに数時間ねばった(しかも10人弱)超迷惑なあたしたちは、



いまや、10年前にはちっとも想像しなかった方向へどんどん向かって

それぞれの世界を築き上げていっているんだなぁ・・・

とたまには感慨にふけってみたりね (′∀`)

(16:50)

2008年02月15日



今日は朝から血液検査。
肝機能の数値は大分下がってるし、来週には正常な範囲内に入って、お酒も解禁になるでしょう、とのことでした。







それにしても、採血も注射も実は大っ嫌い!
毎日取られても全然慣れねー!

今日も

「はい!今日は3本とりますねー

という言葉を看護婦さんから聞いただけで、妄想貧血で卒倒ぎみ (T_T)










その後、我が師匠である国際医療センターの中村先生に会いに行く。
いつもはケーキ持参で一緒に食べるんだけど、今日はチョコレートと、錦糸町の我が家お勧め人形焼を手土産に。




中村先生のご専門は熱帯病色々、特に蚊媒介のマラリア・デング熱と寄生虫にお詳しい。

で、再び私のデング熱ネタ。そろそろ止めます。

これまでの経過を説明するうちに、中村先生の顔がいつものにこやかなお顔から真顔に。。。


デング出血熱を1週間自力で直そうとした私は、相当やばい状況にいたらしい。
尿が1週間出なくて顔ぱんぱん、イコール、腎臓が動いてない、ということで、あとちょっとほっといたら、腎臓が完全にやられて、人工透析だったよと。

あそこで鼻血ぶーしなかったら、だぶん大きな病院にすら行ってなかったはず。そう思うと、あの鼻血が私を救ったとすら思えてきましたよ。



そして、2回目よりも3回目感染のほうがさらにひどい出血熱になる確率が高い。いやーん (′∀`)


以下、今日習ったデング熱対策の備忘録です。

1.虫除けは現地のものを使う。

 日本の虫除けはとっても薄い。現地の蚊は強力で免疫もあるので、日本製の虫除けではダメージなし。現地の強い虫除けを使うこと。服の上からシューシューでOK。

2.黒っぽい服を着ない。

デング熱をもたらすシマカ(蚊の一種)は、黒っぽい色に寄ってくるので、できるだけ白っぽい服を着る。

3.部屋に蚊がたくさんいるようならば、家の中の蚊の発生源を探す。

蚊は、水が長い時間変えられずに溜まっている場所に卵を産む。例えば、ほっとかれてる廊下の花瓶の水、なんかが意外と蚊の発生源になっている。

4.夜も油断しない。

シマカは日中しか動かない、と思われているが、電気がついていれば、夜も活動する。

5.現地で次に高熱が出たら、そのまま日本帰国し、墨東病院へ。

これは私の場合ですが、次はもっとひどくなる可能性大。デング熱は薬がないので、処置はできないけれど、出血熱になると、血漿漏出が起こるので、血液中に水分補給を続けることが必要で、かつ出血が止まらなければ、輸血が必要。この場合、ハノイじゃ無理。日本に帰れないならば、即バンコクへ飛ぶ。




これで安心 (´∀`*)





ここで、気づけば14時半からしゃべり続けて17時半に。

「仕事のお邪魔になるので、そろそろ引き上げます!」

と言って立ち上がるも、先生の机の上に日本の古ーい文献のコピーを見つけてしまい、新たな話題が始まり、先生

「ちょっとまぁ座って。お茶を入れますから。」

と第二ラウンドに突入




その話題とは、途上国の研究所の図書館に埋もれた現地の文献の発掘の意義について。


っていうのもさ、私はある時マラリアセンター(ハノイの)で何気なく手にとった古い古いレポートに感動したよ。
ベトナム戦時中のマラリアの記録なんだけど、全部手書きでさ、それが美術的に美しいこと!特に地図やグラフの色使いに惚れたのさ。
思わず激写。





ベトナム マラリア報告書1














ベトナム マラリア報告書2














ベトナム マラリア報告書3








ベトナム マラリア報告書4










ベトナム マラリア報告書5














ベトナム マラリア報告書6















そういう埋もれた記録や、価値があるのに書庫に埋もれて忘れ去られた現地論文たちを発掘して世に出す、という仕事もやりたいんだよなぁ、ということで、二人はさらに2時間語り続けました。


先生、今日は仕事なーし (^∀^)


(00:07)

2008年02月12日



自分がデング熱で死んでる真っ最中に、ガーナにいる友がマラリアで倒れていた。しかも、

「あやさん、デング熱なんてぇ!私もマラリアになったりしてー

と別の友達と話した直後に罹ったとか。


このタイミング・・・・・・


ありえないっしょーーーー!!!(((( ;゚д゚)))



お互いの今後の蚊との戦いについて、メールで励ましあうのでした。









今日は数ヶ月ぶりに研究室へ行った。

大好きな先生や部屋の仲間たちに会い、それがまた2週間ぶりの下界への脱出だったせいか、1日わいわいはしゃいでいた。

いやー、やっぱ先生に会うと、ほっとするんだなぁ (′∀`)







昨日から『平日1人暮らし in 東京』が始まりました。

1人でも毎晩風呂にお湯をいっぱいに張って湯船につかる幸せ。

しかも、1人で作る夕飯が・・・・




うめーーーーんだよぉ!!!



2008年2月12日の夕飯










でも、半分しか食べられんかった・・・

たぶん研究室でお菓子食べすぎです。。。









私が入院する1週間前に、フィリピンから帰国→肝炎→入院となって退院していた友から、退院おめでとうのTELをもらった。

「二人で快気祝いでもすっか!」

と話すが、もちろん二人ともアルコールはまだダメ。
しかもお互い、肝臓患ってから、シーフードも油物も食べたくないという実情あり。
ということで、粗食にお茶で乾杯・・・( -д-)ノ

(23:16)

2008年02月10日



みなさまにご心配をおかけしましたが

本日退院しました。



結局肝炎は今のところ陰性で、肝機能がうまく働いていなかったのは、デング出血熱という、デング熱に感染するのが2度目以上の場合に罹るケースのある、デング熱のひどいバージョンに罹った、その影響だったようです。

高熱は言うまでもなく、全身ぶつぶつが出るわ、肝臓の機能が弱まって、尿も便も止まり、食べてないから痩せているはずなのに顔がむくんでパンパンになるわ、血小板が減りすぎて鼻血が出まくるわ、なかなか珍体験でした ( -д-)ノ



昨日の血液検査で、肝機能を示す数値が、まだ平常値の10倍くらい高いものの、回復傾向にあることが分かったので、家に戻れることになったわけです。
ご飯も食べれるようになったし。
鼻血とまったし。
今はほぼ原型を留める形に戻りましたので、ご心配なきよう・・・





肝臓の回復には、ひたすら安静が必要というわけで

病院ではひたすらだらだらしとりました。




あんなにTVを見たのは、人生初ではなかろうか。
二人部屋だったんだけど、結局となりのベッドに誰も来ず(感染症科だから?)、1人で毎晩お笑いを見てゲラゲラ笑っていました。きっとあの時分泌されたベーターエンドルフィンホルモンが、回復を促進したのに違いありません。



あ、検便もした。

恐らく先生(学生時代は寄生虫専門)は、

「この子、痩せすぎだし、ベトナム往復生活だし、腹に何かいるに違いない」

と思ったのでありましょう。結果は・・・




「なーんにもいなくて、綺麗でしたよ〜」



腸内潔癖 結構自分でも予想外の結果でした (。・ω・)ノ゙







墨東病院、感染症にお勧めします。

先生にも看護婦さんにも惚れました。


入院患者には全員バーコードがつき、検査のたびに「ピッ!」です。
気づけば、退院する時に取り忘れ、今もついてたり。


患者バーコード















私が熱を出し始めた頃、田舎のじいちゃんは、虫の知らせか、突然私の健康に不安を感じ、たまたま囲碁の集まりであった大学教授やらに

「うちの孫はサリン事件の被害者なんじゃが、後遺症はなかろうか」

と質問したそうな。

そして「白血病と症状が似ている」と聞いて以来、じいちゃんは毎晩我が家のタイの仏像さまに念仏を唱えていたそうな。

(我が田舎には、父親がむかーしむかーしタイへ出張した際に、由緒正しき某お寺へ参って、高尚なお坊さんに念を入れてもらった仏像さん3体が祭ってあり、一家全員このタイの仏像さまを我が家の神と崇めています。

父親が仏像さんを日本に持ち帰る際には、預け荷物とすることが許されず、同僚さんと一緒に膝の上に抱いて飛行機に乗り、道中見知らぬタイ人がひたすら拝んで去っていったとのこと。

その10年後くらいに、私がタイへ留学することになったり、さらにその後に我が家がタイとビジネスをすることになったり、我が家とタイの繋がりは微妙に深いのでありました。ちーん。)

涙、涙。



我が第二の父母と呼ぶ沖縄の大城夫妻(私がロンドンで学生時代に3年以上アルバイトしていた沖縄料理屋のオーナー夫妻)も、一度熱が止んだ夜に偶然TELをくださり、「高熱出てたんだけど、熱が下がったよー」と報告した翌日に入院することになり、入院については全く知らせていなかったにも関らず、退院したさっきまたTELがかかり「入院してたんだけど、退院したよー」と報告。まるで虫の知らせがごときタイミングで連絡をくれたり。



不思議なものだす。




このたび、健康の重要さを心から再認識しました。

ウイルスごときで、鼻血ブーなんて、体って結構脆いのね。

しかも、臥せってるときは、本当に何の意欲も沸かず、体の回復とともに意欲が復活していくのが明確に分かる。不思議だなぁ。

まさに「健全な肉体には健全な精神が宿る」By 三島由紀夫

良い勉強になりました。健康第一。





ちなみに、ハノイ帰国は、肝臓全快までの猶予を考えて、2週間後くらいにしようかと考えております

(00:07)

2008年02月04日



なかなか体調が戻らないので(熱はさすがに下がり、下がりすぎて、普段の低熱35度台になってしまったけれど。冷え性なり)


某都立病院の感染症科へ行きました。


そして、血液検査の結果、先週までの高熱はデング熱であったことが判明。


さらに、肝機能がおかしいことも判明し、肝炎の疑い濃厚


ということで、明日から緊急入院となりました。





肝炎潜伏中






どうりで、ずーっと気持ち悪くて何も食べられず、痩せていく・・・



がふーん




でも、病名が明らかとなったのは良かった。


これまでは、何度血液検査しても、血小板と白血球の値が低すぎて、「白血病の症状と同じ」と言われつつ、数値が戻るのを確認するがために、血液抜きまくり


しかも、最近鼻血が出まくるし


こわーーーーい


と思っていたけれど、やっぱり熱帯病だったよーーーーーん( -д-)ノ




さらに、見てくれた先生の専門が実は「寄生虫」で、二人でやや「寄生虫ネタ」で盛り上がり。

「学会出したー?出すのー?」
「村人見てるの?それとも子供?たくさん出たー?」
「すごい出ましたよー」

んんーん、素敵な女医さんであった。





そんなわけで、1週間(+α)休養してきます。
さいなら。
もう血抜きすぎで、腕が青い(泣)。


早くもりもり食いたいぜ (´∀`*)


病院潜入レポート、乞うご期待(ウソウソ)。

(22:57)