目下社会的に大問題化しているダイハツさんの不正問題を見て思うところがあります。社長はメディアに露出し、自分の責任と述べ深々と頭を下げています。また、さらにダイハツさんに仕事を出していたトヨタさんが、無理な開発納期を要求したのが一因となったと早々に自社の責任を認めたのは立派だと感じました。
さて、私はメディアが「無理な開発納期」の背景にあることに全く触れないことを奇異に感じています。私ですら、随分前からブログ等で問題が起こると警鐘を鳴らしてきたことなので、情報ソースが多く優秀な記者が集う大手メディアが、気が付いていないはずがないと思うのです。事実、同様な不正問題は頻発していますので、その背景には何かあるのか洞察するのが自然ですが、なぜかそのような流れがなく、ダイハツさん個別の問題にされている様にしか寡聞の私には見えません。
2000年初頭の小泉内閣の推進した構造改革以降、上場している日本企業のステークホルダーは明確に「株主」となりました。株式の持ち合いは、なれ合いに通じると否定され、企業は4半期ごとにアカウンタビリティーという情報開示を求められ、株主に対する開かれた説明責任を求められるようになりました。これは、アメリカが1980年代に製造業をダメにしてしまった「いつか来た道」です。製造業は長い目で見て育てなければ成り立たない産業です。短期的な利益追求にさらされると、適切な研究開発や設備投資が出来なくなります。今回も「早くよこせ!もっとよこせ!」の株主の声に応じ続けたことが、不正の背景にあったものと推測します。株主に従順な取締役と社員たちは分断化されます。下に無茶な要求を次々突き付ける社内風土が、不正を呼ぶのは必然性を感じます。そして「やってられない」的に追い詰められた社員達は内部告発に走ったのではないでしょうか?ダイハツさん問題は氷山の一角です。他にも同様の問題が多々隠れている事でしょう。事実、同じトヨタグループでもデンソーさんや日野さんが不正問題を起こしています。私が考える理想的な解決策は、労使がよりよい社会と生活の向上を共に夢見ていた構造改革前の企業ガバナンスに戻す事です。簡単ではありませんが、そのためにどうしたら良いか、考えるときに来ていると感じています。ちなみに、弊社の企業理念はこのような風潮のアンチテーゼで策定しています。
FBにかまけていて、ブログの更新を二年もさぼってしまいました。お客様からお叱りを受け、久々に更新します。写真は、私が訪問した中でも印象の良さが1.2を争うフィレンツェで、話題とは関係ありません。
そもそも、このブログを始めた時に留意していたのは「政治向きの話題には触れないようにしよう」ということでした。ブログをご覧下さる親しい方に、自分の考えが受け入れられないときの危惧の念がありました。歳を取って自分の信条が固まってくると、正しいものは正しい、おかしなものはおかしい、と発信し異見があれば議論を深めることも必要と思えるようになりました。よって、今回は敢えて政治向きの話題です。
最近、弊社の受ける大手ユーザー様からのお仕事に、ある傾向を感じています。それは「生産統合」です。マーケットを俯瞰するとそれも当然に思えます。大きなマーケットは見当たらなくなり、米中のデカップリングは進む一方、その上に今回のコロナ禍です。工場を統合し、多品種少量生産になっていくということは、今後も進むように思っています。大手ユーザー様が地産地消の流れの中で、海外に工場を移転されたその逆の流れが生まれている様に思えるのです。そうなると、大手様でやりきれない細かな仕事は中小零細企業に流れてきます。今後は、この受け皿をしっかりさせる政策が必要と考えていた矢先、菅政権が打ち出した中小企業政策はそれとは真逆のものでした。それを私は、中小企業基本法を見直し、統合を図り生産性を向上させ国際競争力を高める、というものと理解しています。お客様が海外に移転してしまい、過当競争気味の中で低収益で苦しみ、手厚い中小企業政策でどうにか存続している中小製造業は少なくないと理解していますが、今回の政策は地方銀行の統合する政策と合わせ考え、その打ち切りを示唆していると思えます。統合と言っても、買い手のつく中小企業がどれだけあるのでしょうか?私は、大店法が改訂され国中の商店街がシャッター通りになった様を連想してしまいます。
近年ビジネスの軸は変ったと私は思っています。アメリカファーストを訴えるトランプ大統領が生まれ、イギリスのEU離脱があり、米中の貿易摩擦があり、ベルリンの壁崩壊以降進んできたグローバリズムは終息しつつあると思っています。グローバリズムの軸は空間にあります。ビジネスは世界に広げることが出来たものが勝ちでした。グローバリズムは、世界に平和をもたらし紛争を無くし、人もの金の行き来が自由になり皆を豊かにすると人々は信じグローバリズムは進展しました。ところが、国境が低くなると習慣や文化の違う低賃金労働者がなだれ込み、働き場である工場が移転して職がなくなり、治安も悪くなり、儲かるのは大資本の経営者だけで貧富の格差は大きくなる一方。トランプ大統領の登場は、これらに対する人々の反発の象徴と思えます。人々は軸をグローバリズムという「空間」から、安定・持続という「時間」に移したと言えます。
菅政権の中小企業政策は、空間軸のままです。日本に於いてはグローバリズムは小泉政権による改革で顕著に進みましたが、私の目には菅政権の政策はこの世界の流れを無視し、20年一日で空間軸の政策を突き進むように見えています。
中小企業政策が、私の危惧するような形で行われれば、グローバリズムにあえぎながらも日本経済を支えてきた中小企業は死屍累々となってしまうでしょう。断固反対すべきと思っています。
2018年07月17日
写真はニューヨークです。
私は、世界中くまなく行ったわけではありませんし、海外と深くかかわることもそれほど多いわけではありませんが、それでも商用で海外と接することで気が付いたことが有ります。
それは、国民に「人と人とが信頼関係を結び成り立っているのが社会」という漠然とした合意が形成されている国は、先進国では日本しかないのではないか、ということです。私の考えではその対極にあるのがグローバルスタンダードです。グローバルスタンダードは、「人は信じるものではない」という前提で出来ていると思うのです。だから「これはやってはだめ、あれもやってはだめ」「これはやりなさい」「それもやりなさい」という取り決めが、守るべきルールとしてきっちりと取り決められいます。日本と異なり、大陸で多民族で他宗教の人々が交わり暮らす海外では、それは当然なことでしょう。
上場会社が問われるガバナンスや、企業に遵守が義務付けられるコンプライアンス、技術標準であるISOなど、グローバルスタンダードは皆その様なものだと思っています。よく、外国の方が日本で働いて、仕事の範疇やマニュアルがしっかりしていない、という当惑を聞きますが、これもここの文化の違いであると思うのです。取り決めがしっかり為されていないという事は、逆に言えば自由度が高いと言え、日本は「相手を信頼し任せる」という幅が、海外より広いのだと思います。
グローバルスタンダードが本格的に日本に入ってきたのは、1990年代後半に、橋本政権下で取り入れられた金融ビッグバンが端緒になっていると考えます。そうして2000年代の小泉政権下で、様々な規制改革の名の下、グローバルスタンダードは、「世界がこうなのだから」とほぼ無批判で受け入れられてきたと私は観察します。
私に限らず、その前の時代を知っている人たちは一様の感覚を持っていると思いますが、グローバルスタンダードが日本に取り入れられてからは、何かとルールによる締め付けが多くなり、息苦しさを感じるようになりました。。日本は人の信頼が前提なゆえに、比較的自由度がある緩い状態で仕事をしていたのが、不信を前提に仕事のやり方が再構築されてしまったのでそう感じるのは当然です。
日本が、経済で強さを発揮して世界を席巻していたのは、バブル崩壊まででしょう。私は過去日本が強かった要因に、日本だけが持つ「人と人とが信頼関係を結び成り立っているのが社会」という空気があったからだと断じています。海外の会社組織を見ているとトップダウンのしっかりしたヒエラルキーで活動しています。しかし一方、日本の組織は構成員の合意形成を重視します。
例えば、生産現場でISOと改善提案は対極です。それこそ、トップダウンとボトムアップの違いです。どちらにも強みはあり弱みもあります。しかしボトムアップでも組織が機能するのは、日本社会だけだと思うのです。ここのところ、国際社会では存在感が薄くなり何かと元気のない日本ですが、私は根本原因はグローバルスタンダードを無批判に受け入れたからであると思っています。日本は、海外の文化を自分流にアレンジして受け入れるのが上手である、という一般的な認識があります。なぜ、アレンジするのでしょうか?それは、受け入れるものに対し批判的な眼差し向けることを忘れず、良いところ取りをしているからです。一方、グローバルスタンダードは、国際ルールだからということで、無批判で受け入れられました。欧米の人たちを観察していると、とにかくルールメーカーになりたがります。ルールの裁量があることが、大きなアドバンテージとなることが分かっているからでしょう。この観点からしても、グローバルスタンダードに飛びついてはいけません。私は、おそらくその逆の方向に日本の強みが活かせる道があるはずだと考えています。