セクシーポエマー信じろー ~わたしはふしぎでたまらない~

時事・政治・教育のネタを中心に、婚活のネタ も交え 書いていきます。 独自の視点で切り込めたら…いいな、と思っています。

2016年04月

「「1票の格差」という欺瞞」という欺瞞 ~愛国心~

はじめに
 門田隆将氏が、下記のような、1票の格差の是正と地方の切り捨てについて、興味深い主張をしている。住民代表である議員の選出と財政はリンクしているから、この面から氏の主張について論じたい。
 さて、氏は地方の切り捨てと言うが、どの地方がどう切り捨てられたのだろうか。実際には地方切り上げではないか。いわゆる権利濫用者の典型主張の一例だろうか。と筆者は感じるがどうであろうか。
そこには、本来の政治が持っている役割や、切り捨てられる地方の問題、さらには都市部出身の議員たちだけで決められていく政治が何をもたらすか、それが本当に民主主義と言えるのか、というような「事情」は一切、考慮されない。

私は民主主義国家で、ある程度の「1票の格差」があるのは当然だと思っている。東京に住む人間と、地方に住む人間が数字的な「1票の価値」にこだわるなら、それは「地方を切り捨てる」しかないからだ。
有無を言わせぬ「少子化」によって、今後、日本の人口はますます都市部に集中していく。過疎県は、人口がさらに減少し、不便な地方に住む人はどんどん少なくなっていく。そこから選出される国会議員もいなくなっていくのである。
すでに過疎県は「合区」にされ、今後、過疎化が進めば、2県だけでなく3県、4県で「1議席」という事態も遠からず来るだろう。都会出身ばかりの国会議員によって国政が論じられ、ますます人口の都市部集中と過疎化が進んでいくというわけだ。

 「1票の格差」という欺瞞
 確かに「日本は一つだ」ということはあるだろうから、筆者は、財政調整を否定するものでもない。ただ地方に節度があるだろうか。お互いの自制と自重が必要だろうが、そういった話は聞かれないが、いったいどうだろうか。
ちなみにアメリカの上院では、「各州2名ずつの選出」と定められており、人口が3700万人もいる「カリフォルニア州」と、わずか「56万人」のワイオミング州では、1票の格差は、実に「66倍」もある。
だが、アメリカでは、「これほどの1票の格差は許されない」として、ワイオミング州と隣の州を「合区にして是正せよ」などという声は起こらない。
 だいたい、自治体間の財政調整の仕組みが基本的にないアメリカを取り上げ、あまつさえ人口に応じて選ばれる内政を主として担う下院ではなく、外交・防衛を主として担う上院の定員を例に持ち出すとは門田氏の問題意識がよく表れている。アメリカのやり方が日本のそれと比べて分があるというならば、島根や鳥取や高知もその政治を、都会からの移転である交付税や補助金ではなく、自主財源でやったらいいと主張すべきだろう。そんな、地方が独立して財源を工夫するアメリカなら、「地方切り捨て」などという門田氏の発想は、そもそもあり得るのだろうか?

経済原則の話
 過疎が進む地方で、人が立ち去った以上、そこに税金を投じても、人が戻ってくるわけでも、工場が移転してくるわけでもない。それは、都会の人が意地悪をしているわけでもずるをしているわけでもなく、経済の仕組みからくることである。地方を捨てて出て行ったのは地方に住んでいた人であって、都会に住んでいた人ではない。
 以前、民主党の菅直人が首相だったときに、公共事業を削減し、高速道路の整備計画を縮小した。ある番組で地方の初老男性が、「田舎が寂れる、どうしてくれるのか」と声を荒らげていたが、首相は絶句して返答できなかった。だが、「高速道路を作ったら、橋を作ったら、工場は来るのですか?事業所は来るのですか?田舎は豊かになるのですか?」と問い返すべきだっただろう。工場は、労働力の安い海外に出てしまっているし、高速道路整備で早く移動できるようになるから企業は営業所を統廃合してしまうのだ。菅首相がどうのこうのとは関係ない。

公共事業
 公共事業は、作られた施設や設備を使うためのものではなく、そこに住む人々の仕事を作りだすためのものになってしまい、生活保護の様相を呈しているものがある。都会の人々の負担で、際限のない無駄な公共施設が作り続けられている。整備新幹線しかり、ふるさと創生金しかり、高速道路の整備しかりである。都会の人々の税金を巻き上げて、ホールや温泉施設をつくってどうするのだろうか。新幹線の整備の進捗と並行在来線の第三セクター化は第二の国鉄債務処理の問題と今後なるだろうか。これでもまだ不足なのか。
 日本は、もう20年も前から深刻な財政危機が叫ばれるようになっている。確かに、このようないわゆる無駄遣いをなくしてしまえば、この無駄を食い扶持にしている人にとっては、”生活切り捨て”と言われるのだろう。だがその前提には、都会に住んでいる人間に、田舎に住んでいる人の生活を支えることは当然だという考えがある。これこそ門田氏が持っている問題意識であり、被害者意識の根源だろう。

都会優遇?

 東京や大阪などの大都市に大きなデパートが立ち利便性の高い暮らしができる。だから都会優遇だ、田舎にもそうした暮らしをさせろ、という意見がある。だが、再開発が持続的に進んで大きなビルが建つのは、政府の投資によるのではなく民間の投資によるものである。他方で、地方都市からはデパートが撤退し、町が寂れているのも、同様に投資を縮小するからである。
 郵政民営化のときに、田舎の独居老人の家を回って郵便配達のスタッフが声掛けし、少し話をしたりするというサービス?が廃れるのでは、と話題になった。だが、逆に、都会の独居老人にそんなサービス?がそもそも提供されていたのだろうか?そんなことは問題になっただろうか。どうだろうか。
 都会では、過密による弊害として、家は狭いし家賃は高いし、空気は汚いし、混雑しているし、保育園も不足している。人の多さに比べて政策的に自由にできる資金がないから政策的な問題が放置されるのではないか?都会の住民には、田舎に比べて高い家賃に補助金が付いているだろうか?混雑を減らすために鉄道を国が重点的に整備する努力が十分だろうか。田舎の人々や田舎の出身議員や門田氏は、都会の人々のそうした問題に対して補助金を付けろ、不公平でかわいそうだと言ってくれているだろうか?「都会の切り捨て」と言ってくれているのだろうか?さて、本当に、困っている都会の人々に見合う資金が投じられているのだろうか。その解決に当たる十分な住民代表を選出で来ているのだろうか?都会の優遇など本当にあるのだろうか?

これからの日本(国内・国外)

 日本という国として、これからは人口がどんどん減少する。だから、その人口規模に応じて、どのように人が住むところを守り、減少したところから撤退するのか、大きな人口規模に合わせて作られたインフラを縮小して、それでも残された人々の生活水準をなるべくさげないように知恵を絞らざるを得ないだろう。そのためには戦略的に重要度の低い離島や遠隔地域を整理して縮小せざるを得ない。
 さらに、中国の軍事力の増強と対するアメリカの相対的な軍事力の低下の前に、国防の強化が必要だと主張するならば、なおさら門田氏のような主張はできないだろう。やれ心神だ、そうりゅう型潜水艦(1隻600億円程)だと勇ましく言うが、こうした兵器の開発力を支えているのも、そうした兵器を配備し稼働させるのも、数をそろえることができるのも、強靭な国民経済の裏付けがあってのものである。だが現実には、愛国心を軽々しく主張する政党や政治業者であればあるほど、隙あればオリンピック会場に3000億円超をつぎ込もうとしたり、整備新幹線や高速道路網の整備に邁進したりする。本当にこういう連中は中国が脅威だと思っているのだろうか。日清戦争では、頤和園という庭園を整備するために建艦費を流用して清が日本に敗れる一因となったが、それと似たところはないだろうか。ときとところが変わって日本がその立場になりたいのだろうか。そうした国力が日本にあるかどうかが、わかっていないなら重大な不明であり、分かっていてやっているならば不誠実のそしりを免れえないだろう。
 国防を強化するためには自明として、強い国民経済の裏付けが必要である。地方の非効率なセクターを温存するためだけの公共事業やばらまきに終始すれば、国防にまわす資金が枯渇するどころか、財政破綻によって国家が成り立たなくなるだけである。

愛国心とはなんだろう?
 愛国心とは、こういうところにこそ表れるのではないか。熱心に国旗を掲げ、熱烈に国歌を歌うことは、どれほど賄賂を受け取ろうとも、敵国のスパイであろうともできるが、こうしたことを敢然と実行することは日本の将来を憂う真の愛国者でなくてはできないことだろうと感じるがどうだろうか。
 さて、愛国心とはなんだろうか。愛国心とは、あるかないかと安易に判断し、国歌を歌わなければ売国だ、国旗を掲げなければ反日だと即断する向きばかりだが、そんなことだから、愛国心とはただ単に声の大きさや他人にそれを押し付ける図々しさの尺度に堕して、忌避する人々も増えるのではないか。今回の話題でもわかるように、本当の愛国心とは、実際に表れる選好や行動によって、何よりは大切で、また何よりは大切ではないというように、何と比べてどれくらい大切にしているのかを相対的に、あるいは序数的に見ると実用上わかりやすいのではないか。

都会対田舎ではなく、田舎対田舎
 今までのように、実質的に、もっともっと都会に負担しろ、と高知の門田氏や、鳥取や島根の同意見の氏のようなものが主張を繰り返していると、都会はぶっ倒れ、国もぶっ倒れてしまうのではないかと筆者は考えるのだ。だとすると、実際には、都会対田舎ではなく、田舎対田舎こそが問題ではないか。田舎同士がこの、門田氏と同様の過剰な権利意識をもって、分捕り合戦をするために、財政危機はいっそう深化するのではないか。そもそも、財政の枠組みよりもはるかに巨大な経済原則から過疎・過密の問題が起きているのに、そんなことが地方代表を偏重するという今までのような財政調整でどうこうできるのだろうか。また一時行えたとして持続できるのだろうか。田舎に相対的に大きな数の代表を送りだせる仕組みから、地方に圧倒的に有利な財政調整制度が、大きくなりすぎたのではないか。それを是正せずして、国家としてこれからの日本は今後やっていけるのだろうか。都会の人々が我慢しているのと同様に田舎の人は我慢できないのだろうか。
「1票の格差」訴訟と、その最高裁判断への「ノー」を国民が突きつける時は、すでに到来しているように思う。政治家こそ、声を上げるべきだろう。地方出身の国会議員たちは一体、何をしているのだろうか。
果てしなくつづく都会への住民移動と、それを追いかけて「1票の格差」を是正していこうとする司法判断に敢然と反対を唱え、‟地方切り捨て”にストップをかけようとする政党が出てくれば、是非、そんな党を支持したいものだ。
おわりに
 1票の格差訴訟は、額面では権利の保障の問題である。だが、それ以上に財政の問題であり、愛国心の問題であると思う。筆者は「日本は一つだ」し、地方に住む人々が野垂れ死にすればいいと思うのでもない。だから、財政調整を否定するものでもない。だが、ただ地方の要求に節度があるだろうか。門田氏のような主張に隠されている、「都会切り捨て」は当たり前で、地方を切り捨てるな、都会の人はいま以上に地方の人の暮らしのために働け、それが当然という暗黙の前提には、本当に腹が立つ。そういうことを言う人間がいるからこそ、地方からの代表は整理して縮小すべきだとも腹立ちまぎれにも感じてもしまうのだ。
 「日本は一つだ」というのならば、都会の側からも地方の側からも、お互いの自制と自重、節度が必要だろうが、そういった話は聞かれない。いったいどうだろうか。門田氏にそんな問題意識はあるだろうか?
 わたしはふしぎでたまらない。

舛添都知事と高校教員のゴルフ

はじめに
 東京都の舛添知事が、ほぼ毎週末に、公用車を使って神奈川県の湯河原町にある別荘に通っていたそうだ。筆者は、舛添知事の公用車の利用は、やや濫用であるとは思うが、仮借なく批判することには疑問があるので、国民代表に、くだらない弁明をさせるな。とも思ってしまうのだ。
 舛添知事はくだらない弁明をせずに、堂々と使っていればいい。確かに清貧は美しいのかもしれないが、選挙で選ばれた代表に対して揚げ足取りに終始することは、民主主義を毀損するのではないか。いい仕事をしさえすればいい。とも思うのだ。

天皇にそれ言ってる?
 伝統的権威である天皇やその周辺は、公用車の利用でも奢侈でも批判されずに称賛で埋め尽くされる一方で、国民の代表をこき下ろすようなことが平然と繰り返される。そして、伝統的な権威は相対的に浮上し、国民の代表は卑しいものとして相対的に低下する。民主主義は危険に陥る。そうしたときに、天皇親政への期待感など、また愚かな白昼夢に走る連中が増えてくる。

 身を切る改革だのなんだのと…一体どこへ向かいたいのか。給料がゼロならば理想だとでも言うのだろうか。確かに、すべてに領収書を付け、書類を書いてチェックすれば公正だろう。だが、例えば100円の経費の請求のために、厳格な書類を作らせ、500円分の給料を使うならば愚かであろう。その書類を書く時間も人の労力も大変なものである。どこかで、お互い様という線があるのではないか。

 確かに、議員の働きに満足していないというフラストレーションや怨望がたまっていることが原因であって、成果は変わらず無駄なものならば、なるべく金をかけたくないのが人情なのだろう。そういう人間は、10円のものと100万円のものを比べて、安いとか高いとか言って10円のものを無条件に無分別に買って喜ぶようなものだろう。高い10円もあれば、安い100万円もあるだろう。その高いものに合うように首長を選ぶように工夫することが大切だろう。安物の首長を得て、安いくだらない政策を実現するならば、それこそ損失だろう。
 お互いがお互いの重箱の隅をつつくようなことをして、それに血道を上げることでお互いの士気が上がるだろうか。所詮人のすることであるから、100%十全な効率的で公正で、という制度はできない。効率性と公正性は残念ながらトレードオフの関係だろう。

企業献金という資金洗浄
 政治家の給料をゼロにしたのならば、確かに給料名目での支出はゼロだが、企業からの献金でキックバックを得るために、その献金の何十倍・何百倍といった無駄な公共支出をさせるインセンティブが働くだろう。 法律上は合法であるが、結局のところ、財政負担は大きくなり、社会的にも壮大な無駄が生まれるだろう。政治家には十分すぎる報酬を払う一方で、献金や寄付、公共セクターとの取引企業などとの資本関係などを制限するなど別の工夫を試行錯誤するほうがましだと思う。 献金は、合法違法に限らず、資金洗浄の意味合いが強い。それとも、敷金ゼロ礼金ゼロにとことんこだわるが、システム料やクリーン料名目ならばいくらでも払いたいという手合いのように、やっぱり給料ゼロのみにこだわるのだろうか。お金に色はないのだが、やっぱ「人間だもの」とか、左手で書いて喜ぶ輩なのだろうか。

天皇は無私の人?

 他方で、天皇を無私無欲なものだと無邪気にいうものがいるが、どうだろうか。だいたい自分の食い扶持の心配の必要がなく、天皇制を維持しその生活を保障するための汚れ仕事は他人が進んでやってくれるならば、きれいに見えるのは当たり前である。昔、兼好法師が、家族を養うために盗みを行うもののことを言っていたように、自分の食い扶持も困らず、汚れ仕事は他人任せの仕事なら、キレイごとをこなしていれば済むだろう。それが果たして美しいと言うのはどういう了見だろうか。多くの人がしている、多少は汚れ仕事でもして家族のために働くことがそんなに卑しいことなのだろうか。その卑しい?人々から集めた税金で困らずに暮らしているものがそんなに偉いのだと感じるのだろうか。いずれ、大地震の起こった熊本にも天皇家の人々がいくだろうが、そんなものが来たからといってどうだろうか。そんなものに握手してもらうより、温かいおかずの一品でも増えるほうがありがたい。

 給料のダンピング合戦など、ただのポピュリズムで愚かなことである。いかに給料に見合うようによく働かせるかを考えるべきである。名古屋では、議員の給料を800万円に下げるなどしたそうだが、実に愚かしいことである。そんな報酬で優秀な人材が集められるだろうか。きれいごとでは職業に貴賤はないとは言うが、現実にはどうであろうか。報酬が高い仕事と、低い仕事で集まる人々の能力や規範はどうであろうか。

教員ゴルフ?
 さて、高校教員が、修学旅行中に、抜けてゴルフに行ったいたという。確かに、中抜けであるから、一般的に言ったら、けしからんことなのだろう。ただ、修学旅行当日の夜間や日ごろの勤務はどうだろうか。興奮した学生が生徒が夜遅くまで寝なければ勤務時間はどうなのだろうか、また、部活指導もしかり、残業代がでないこともしかり…。以前は、夏休みなどは、自宅研修と称して休みを取っていたこともあるそうだが、そういうことにも周囲の目が厳しくなり、廃止されたそうだ。きっとこの件でも処分されるだろうが、ギブアンドテイクのバランスが大きく崩れると、教員の側も、守られていない労働法規を持ち出して、言いたいことが噴出するだろう。教員の労働強化に類することは「子供のため」という錦の御旗を掲げ、一片の留保もなく過激な要求をする一方で、法律や公正という観点から教師を批判する。だが法律や公正という観点で教師の労働環境や権利を守ろうとすることはない。例えば、子どものために教員を増員したり、子どものために教員の残業代を支払ったりしてもいいはずだが、それは税負担が増えるからほとんど支持されない。こんな使い分けがいつまで通用するのだろうか。
 実際には、これらの主張は、子どものためではなく親のためなのだが、そんなことは教員の側には、すでにばれていて士気は相当低下しているのではないか。そうした動きの一つが、部活顧問就任拒否運動だろう。何とか建前を守ろうという気持ちや伊達や酔狂で何とか支えている教員もいるだろうが、こんなことが本当にいつまでもつのだろうか。一つ一つに公正だということを追求するのならば、相手に求めることと合わせて、市民の側も身を正すことが必要になるのが普通の在り方と思うのだがどうだろうか。学校に5時過ぎて相談の電話を入れても、本日の営業時間は終了しました…と留守電になる世界がいいのだろうか。これらが本当に求めることだろうか。
 

おわりに
 給料がいくら、公用車がいくらというのはわかりやすいことだが、それを安くしてもアウトプットが小さくなるならそれこそ損失と思うのだが、どうだろうか。マスコミも市民も、いかに仕事をなしたかをしっかりと見極めることにこそ力を入れることの方が生産的だと思うのだが、どうだろうか。
 わたしはふしぎでたまらない。

乙武サンから考える教育と生き方

はじめに
 小さな親切・大きなお世話という言葉もあるくらいですから、優しさから出た行動が甘やかしにつながり、世の中で通用しない子供を育ててしまったということも多々あります。優しさとは何か?をここでは論じません。基本的には、親切にする、役に立つお世話をするという程度の一般的な理解で話を進めたいと思います。

ノーマライゼーション
 学校などに乙武サンのような障害を持つ人が入るときには、障害者と一緒に過ごすことは、優しさを身につけられるから、健常者にとって良い機会であって、健常者のプラスだと力説する人がいます。そう言われることになんとも言えない気持ちを感じるのは私だけでしょうか。
 親切にされる側が、自分に対して親切がなされることを、あたかも功徳や善行を積めることであるかのように語ることに疑問はないのでしょうか。そこには、優しさや好意を献上できてよかったねという感じ方や、ひいては健常者は障害者の従者か家来であるかのような、不遜な考え方が潜んでいないと言い切れるでしょうか。これも乙武サンやその周辺から感じてしまうことです。
 また、障害者と一緒にいられることが贅沢だとしたら、「障害者を知ったり障害者の役に立つような功徳をつんで道徳的に優れた人になったり、人生をより豊かに生きていくようなそんな贅沢はいりません。」「特別に優しい人間になりたいわけではありません。ただつましくごく平凡に生きたい。」と言ったら許してもらえるのでしょうか。本当に贅沢なのだとしたら、本当にいいものであったら、遠慮することも許されるのではないだろうかと、わたしはふしぎでたまらないのです。

きょうだいに起こること
 障害者の健常者の兄弟姉妹のことを「きょうだい」と呼ぶそうです。きょうだいには、親が障害のある子供にかかりっきりになるため愛着障害を抱えたり、よいお世話役になることで親の歓心を買おうとし、自分の欲求を育てられず健全な自我が育たないないこと、そして、障害者の兄弟がいなければいいと思ってしまう道徳的ではない禁止された感情を持つ罪悪感に苛まれることなど、成長の過程で様々な問題が起きやすいそうです。
 ただでさえ教師一人が見る子供の数が多すぎる日本の学校はマンパワーが足りず、障害者のお世話係をやさしく責任感のある子どもが担うそうですが、こうしたことと同様の問題は、乙武クンのいるクラスでは起きないのでしょうか。とりわけ、先生にみてみてとアピールして甘えを受容されることで成長していく小学校の低学年などでは、周囲の子どもにその機会が保障されたのでしょうか。

優しさを育てることの問題
 そして、そもそも、優しさを育てることは、本当に”本人のためになること”なのでしょうか。こうしたやさしさを育てることは、本人にとって、少なくともこれからの100年の日本で暮らしていく上で、本当にプラスになるのでしょうか。
 21世紀に入って、日本で成功したといわれる著名な企業経営者は、残念ながらほぼブラック企業と呼ばれる企業の創業者ではないでしょうか。それらは、革新的な製品やサービスを創造して既存企業と差異化を図って市場を創造したというよりは、より巧みに法の不備や監視のスキを突き、罰則の弱さや無さを背景とし、予め人々が持っている勤勉さや良くなろうという自発的な気持ちを逆手にとって、社会のためお客様のためと語ってより劣悪な労働環境と低賃金を競争力として、既存のものと大差ない製品やサービスを提供し、既存の市場を奪っていったものではないでしょうか。
 いわゆるブラック企業は、人や社会が時間をかけて積み上げてきた誠実さや勤勉さ、心身の健康を一時に窃取して消尽し、使い捨てる世界です。心身を壊すことでようやくこれに懲りて、ようやく事態の深刻さや不適応を覚え、世の中の現実というものを知り、自分の外に誤りがあると思えば、世の中への忠実度を失ったり損なったりするでしょうし、自分の中に誤りがあると思えば、自責の念と無力感に襲われ精神を大きく患うでしょう。
 こういった経営者は、倫理や道徳と対照して行動を決めるのではなく、世の中をゲームのように見て、捕まって自分が損をすることはしないが、捕まらない限りのことは何をやってもいいという感覚を持っているように感じます。いわば、価値判断はゲーム攻略のようなものです。
 そのとき、被害者は以前のような、優しい気持ちを他者と社会に持ち続けることは可能でしょうか。被害者は企業からはドロップアウトしますが、自殺しない限り社会には滞留します。そして企業は傷ついた被害者への今後のケアや負担からは逃れ、社会にはそのツケがまわされます。もし、これが日本の現状であり、しばらく続くとするならば、やさしさや勤勉さをただ持つこと、やさしさを無防備にさらけ出すことは、こういった経営者や、これらが活躍できる社会に、利用され酷使されるだけの致命的な弱点を立派に育てる奴隷として育つことになるのではないでしょうか。 

乙武サンに”対して”生きる
 さて、乙武サンを見ていて、その言動や行動様式に、これら21世紀に成功した経営者と同様のにおいを感じないでしょうか。乙武サンは結局、オトちゃんルールから、他人が差し出す善意や親切は当たり前にシレっと受け取る一方で、自分が主人公でなければ自分が損であれば差別だと叫ぶ、そんな障害を武器にして生きること、最恵待遇が当然という不遜な感覚を学んだのではないのでしょうか。世の中をゲームとしてとらえ、ほかの人々をゲームのコマのように見ているのではないでしょうか。一連のことからこんなことを感じた次第です。ただ今回の不倫のことでは、奥様やお母様も同様のゲームのプレイヤーのようなので安心しました。お互いがこうしたパワーゲームの信奉者ならば、互いがルールを了解した対等の関係ですから、内々ではどんなことをしようとも、やったやられたはただのゲームのストーリーであり、お互いのゲームの範疇だと思います。
 ただ、外に向かって、無防備に誠実さややさしさをもって他人に接しようとする人と接触するとなると、大きな摩擦が生まれ、被害者も生まれると思うのです。ですから、乙武サンが婚外交渉を楽しむ程度ならばお好きにどうぞということですが、政治家になるのだとしたら、筆者は賛成できないのです。

乙武サンの今後
 「蘇る家族の絆」とか、「雨降って地固まる」とか、理由はどうとでも付きます。そういうものを見て喜ぶ輩がいる限り、乙武サンは、まだまだメディアに露出する価値があるのでしょう。彼とまた一儲けを考えるそういう面々がお誕生日会とやらに参集したと思います。

”乙武クン”を”乙武サン”にしたルール
 おそまつくん が おそまつさん になったように、時間が経つと人は成長します。さて、乙武クンは、健常者とともに学校生活を送り、ハンディキャップを慮った「オトちゃんルール」があったそうですが、ただ、それが、果たして彼のために、周囲の人々のためになったのでしょうか。わたしはふしぎでたまらないのです。乙武クンに良かれと思ってやったことは結局、乙武サンを増長させただけではないでしょうか。

おわりに
 障害者のためではなく、すべての人のための社会が必要なのではないでしょうか。また、乙武サンのような相手がいても、現実の世の中で生きる限りは、自分が被害を受けないように上手に生きていくことが大切なのではないでしょうか。 事実として、障害者は障害者としてのセーフティーネットがあり、障害者として最低限度生きていけます。他方で健常者のセーフティーネットを受けることはハードルが高くなっています。
 目標が異なっている以上、異なる生き方を求められている以上、健常者にとっても、乙武さんのように世の中をしっかりと見据え、強かに生き抜く力というものが必要なのかもしれません。乙武サンを知って、現実の世の中を知る、他人を知る、そして自分の生き方を知ることが大切なのではないでしょうか。
 乙武サンをよく学ぶことは大切だと思います。 

自公政権の在り方を決める投票

 次の夏の選挙では、衆参同日選挙も取りざたされている。
 この選挙は事実上、安倍首相率いる自民党と創価学会池田大作名誉会長率いる公明党からなる自公政権による 「自創大作」 対 民進党と共産党からなる 「民共合作」 の決戦である。だが、決戦とはいうものの、そもそも勝負にならないだろうし、どう投票したらいいだろうか、白票にしようかと悩む人も少なくないだろう。

 巷では、消費税増税やアベノミクスの成否、憲法改正などが投票の争点があげられているようだが、本当にそれらが争点になるのだろうか。今までと同じように双方を見比べてみて、ましな方に今までと同じように投票をするならば、組織的にも資金的にも充実し報道に圧力さえかける圧倒的強者の与党と圧倒的弱者である壊滅的野党との対戦だから、戦う前から結果は目に見えている。今回の選挙では、自分以外の多くが与党に投票するのだから、自分がいかに投票しようとも政権が交代することは絶対にない。
 このように考えると、これは与党対野党という構図の選挙ではなく、与党が政権を引き続き担うことを前提として、「どのような自創政権を作りたいか」を考える選挙だと気づく。つまり、野党の存在をあえて無視し、自民党と創価の大連合である自創大作の信任投票だと考えて投票をするべきだろう。野党を応援する・しないは、この際考慮する必要はない。
 つまり、この選挙の争点は、「反省もたまにはしながら政治をする自創政権」といま以上の「イケイケ自創政権」の選択であるといえる。

投票の仕方
 具体的には、いまのありのままの自民創価を今後も熱烈支持したいならば2票を自創(自公)に入れる。
 自創には引き続き政権を担わせたいが、お灸をすえて反省を促したいならば自創に1票(野党に1票)を入れる。
 そして、自創が全くだめならば、0票(野党に2票)を入れるという具合である。
 
 自民党と創価学会を支持するとしても、その支持の濃淡に応じて投票行動を選択すべきである。そうすれば、自創政権に影響を与えることができ、より国民の意思を政治に反映することができるだろう。

 この選挙のキモはあくまでも、”自創が””どうあるべきか”であって、”与党か野党か””野党がどうあるべきか”が選挙の争点ではない。

消費税増税延期と熊本大地震

 熊本で大地震が発生した。
 東日本大震災級の災害が起きるならば、消費税の増税の延期はなされるという。アベノミクスは成功していると強弁するものもいるが、経済的な指標は軒並み好況を示しているとは言い難い。そんな状況下で、増税をすればスタグフレーションが進み、選挙に負の効果がある。さりとて増税延期はアベノミクスの失敗を認めることと同義であり、批判を許すことになるだろう。とすればどうだろうか。
 東日本大震災級の災害が起きればいいのだ…あるいは、起きなくともそのクラスだと強弁すればどうだろうか。そうすると、 いま、一番被害の拡大を望んでいるのはいったい誰だろうか?
 わたしはふしぎでたまらない。

 もし、この大地震を奇貨として、アベノミクスは成功しつつあるが増税を延期するなどと宣う政治家が現れるとするならば、それは、政治家以前に日本人として人の死に乗じた卑劣な輩として、強く記憶せねばならないだろう。

 亡くなった方のご冥福と、負傷された方のご回復と、被災された方の一日も早い安寧をお祈り申し上げます。

金子恵美議員 離婚を相談?

 金子恵美議員が、離婚を考えているそうだ。
 ただ、宮崎謙介元議員と離婚するということは、事実上、彼を結婚という牢獄から解き放って、ほかの女性と遊ぶ自由を作ってやることだろう。彼は離婚が成立したら、よりいっそう羽を伸ばし女遊びに励むのではないか?これは、彼にとってはご褒美以外の何物でもなく、また他の人々にとっては迷惑この上ないだろう。悪さをしたのにご褒美を与えるとは何事だろうか。金子恵美議員は、この際、宮崎謙介元議員に最期まで責任を取って縄を付けておいてはどうだろうか。それが世のため人のためだろう。
 かつて、金子恵美議員は、宮崎謙介議員が、自身を棚に上げて自身は守りもしない大義を国民の前に置いてインチキをしたにもかかわらず、議員としての公の立場からは彼の責任を一切追求せずに、私人としての妻の立場から言いたいことを言った前例がある。公人として、こんな大切なことに気が付かないならば無知であり、知っていて行動しなかったのならば国民に対する裏切りである。いずれにしても、その責めは免れえないだろう。
 あまつさえ離婚さえしたいとは…どこまでも金子恵美議員は自己チューではないのか。こんなことが許されるのだろうか。
 選挙民はどのような判断を下すのだろうか。きっと選挙民は愚かな判断を下すとしたら、わたしはふしぎでたまらない。

 金子恵美議員 宮崎氏との離婚を相談、相手はなんと夫の前妻!

男児に体罰、「「一生許さへん」=男性教諭を戒告処分―大阪市教委

 また大阪か…と感じるのは私だけではあるまい。

男児に体罰、「一生許さへん」=男性教諭を戒告処分―大阪市教委 時事通信 4月5日(火)12時30分配信

 体罰禁止の真の問題はこの子対教員の問題ではない。他の子供との問題、教育リソースの配分の問題である。
 体罰を禁止したとして、当たり前のルールを守らない人間、言葉で注意されて伝わらない人間が、他人に危害を加えたり授業の邪魔をしたりするのを、どうやって防ぐのだろうか?
 昔も法律上は体罰禁止だったが、実際には、殴って一発解決して、教員は他の子への学習指導にすぐ戻っていた。だが、今は体罰禁止となり、授業中でも問題児をなだめるために教員が時間と労力を取られて、ほかの子の学習が自習になったり、別の教員を常時張り付けたりするなど、問題児の対応に多大な労力を払わされていると聞く。これなら教員が何人いたって足りないし、本当に税金の無駄だろう。子供が減ったのに、教員が減らせない、教員が疲弊しているというのはよくわかることではないだろうか。
 もし本当に体罰を禁止するならば、通常の指導で効果がないならば、即出席禁止か法律に基づき警察に引き渡すべきだ。
 体罰を加えたら、その子は暴力を学習するなんて言うが本当だろうか。その子の家はどうなっているのか。暴力を振るうこだとしたら、その子はどこで暴力を学んできたのだろうか。
 
教育専門家がいう体罰の効果 
 教育専門家は、体罰を受けると、子供は暴力を振るうことを学習するというのだが、この主張が本当に正しいならば、昔の実質体罰容認下で育った大人が多い現在よりも、体罰禁止下で育った大人が増えていく将来は、暴力を学習する子供が減るのだから、刑法犯が減るのだろうが、そんなことを信じる人は果たしてどれくらいいるのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
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