セクシーポエマー信じろー ~わたしはふしぎでたまらない~

時事・政治・教育のネタを中心に、婚活のネタ も交え 書いていきます。 独自の視点で切り込めたら…いいな、と思っています。

2016年06月

参議院選挙の最大かつ真の争点②

9条改正
 争点は、憲法改正であるが、はっきり言って”9条の改正”は本丸ではない。
 9条のみの改正に留まるならば、罪深く酷い視点ではあるが国民全体と時間軸・犠牲という視点で見れば、自衛隊員か、はたまた日本国軍兵士が派手に戦死したり、アメリカへのお付き合いによる大規模テロでも起きたりすれば、正気に戻る余地がまだある。つまり、9条だけならば、亡くなった人は帰ってこないが、まだ選挙で国のかたちはもとに戻すことができるし、よりましなものに変えやすい。憲法が100年一日同じである必要はないし、憲法のために生きているわけでもないから、当然だろう。

基本的人権関連の憲法改正
 ただ、これには前提条件があって、基本的人権の尊重・不可侵が満たされるならばである。自民党憲法草案では、基本的人権とは”公益と秩序”、”義務と責任”の範囲内で、権力者が賜ってくださったりお目こぼししてくださったりして保障してくださるようである。だから、こちらの基本的人権に関する条項が自民党的になると、自衛隊員や日本国軍の兵士・国民が死んでも権力に対する批判は公益に反するとして認められなくなる可能性が大いに高まる。また、アベノミクスに懐疑的な発言をすることも「景気は気のもの」な面があるから、国益公益に反するとして認められない表現になるだろう。
 このように権力をチェックしたり批判したりすることが国益に反すると言っているのは、何も自民党の専売特許ではない。時間軸を遡れば戦前の日本もそうであったし、世界を見渡せば、中国共産党や朝鮮労働党、統一ロシア党も同様に行っている。権力に懐疑的な人が拘禁されたり反対する人々が忽然と姿を消したり、はたまた公然と殺されたりすることは別に隔絶された世界の話でも妄想でも夢物語でも、まったく遠い過去の話でもなく、ごくありふれたことである。いったんこれらの自由が失われれば、その回復は9条とは比較にならない遠大な時間と膨大な犠牲を払うことになるのは歴史の示すところである。
 基本的人権の尊重・不可侵が満たされることではじめて、権力者や強いものの放恣を制限したり、予め自制を求めたりすることができる。例えば、その適否は置くとしても、舛添都知事の政治資金不正流用を追及できたのは基本的人権の尊重があったからである。国民にとっての自由は権力者にとっての不自由につながりがちで、国民にとっての不自由が権力者の自由につながりがちなことがあるから、国民の自由と権力者の自由はトレードオフに近い関係にある。

日本国民が大きな家族だったら
 このことを無視して、日本という国と国民を大きな家族のようだったらいいなと憧れるものもあるかもしれないが、それを目指したらどうなるだろうか。
 家族レベルでは、賢明で慈愛に富む親がいる家族もあれば、他方にはDVや乙武氏のように不倫・浮気などで困難の下にある家族もいるというように、親次第という運任せの要素が著しく大きくなる。著名な事件では、尊属殺法定刑違憲事件があった。つい最近までは家の中のことに権力が介入しないことが多かったから、困難の下にいる子どもは餓死したり虐待死したり性暴力を受けたりすることが放置されていた。
 国家レベルでも、怪しい企業から献金を受けたり、国庫の資金を着服したり、大きな失政をするというのは古今東西幅広く起きている問題であって、その予後は基本的人権の尊重がある世界とない世界では大きく異なる。確かに国家や国民が大きな家族で助け合えたらというのは、一つの理想かもしれない。
 だが、戦中で一例を挙げれば明らかなように、降伏も許されずニューギニアやレイテ・ビルマで枯れ死した兵士やバシーに沈んだ船員や、一方的な空襲下や原爆に、沖縄戦で放置され逃げまどい生きながら焼かれた赤子と、敵の蹂躙に味方を委ねながらトン単位の爆弾の直撃に耐える防空壕を備え最後まで天皇制の存続のみを要求した天皇の取り巻きや天皇が同じ家族なのだろうか。しかも戦後は、自らけじめもつけず敵の占領の片棒を担ぐ存在というものは、いったい何だろうか。これが、日本の伝統的な家族なのだとしたら、日本とはいったいなんだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

日本の伝統
 確かに、偉い人が自ら責任を取らないことが日本の伝統だろうし、基本的人権の尊重や不可侵は、恥ずかしながら日本の伝統ではないかもしれない。帝国憲法下でも大正デモクラシーはあったが、それは日本人が編み出したものではないかもしれないし、苦難の末につかみ取ったものでもないかもしれない。侵略者であるはずのアメリカサマらが強権と内政干渉によって、まったくの僥倖で国民に恵んでくれたものかもしれない。だからなんだというのだろうか。
 ただ、そもそも私たちは伝統を守るために存在しているのではない。伝統を守らなくてはならない道理も責任もない。それなのに、何か伝統を破ることには、不思議と後ろめたさを感じてしまうのはなぜだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
 ただ、”美しい日本の伝統”や”日本のこころ”を守れと言われたならば、こう言おう…古くは、誇張と虚構を総動員してもたかだか2700年程度の伝統をもつと称するものが、少なくとも1万年以上前には存在していた日本列島に住む人々を支配することを正当化するのはなぜなのか、最近でも先代天皇が、現人神をやめて人間宣言をしたり、特別に貴い血とやらを受け継いでいるのに、死ぬ前には下々から大量輸血を受けるなどしたりしたのはなぜなのかというように、自己都合で前例伝統がコロッと変わるのもまた日本の美しい伝統やこころであって天皇やその取り巻きに対するオマージュの一つのかたちであると…。

民共合作は最低
 民共合作は確かに言うまでもなく最低である。労組がバックにあるから改革ができないのもその通りかもしれない。だが、自創大作を支持している日本会議や創価学会などの宗教は、せいぜい小銭をせびる程度の労組よりも安全・安心で日本の将来を任せるにふさわしいものだろうか。安倍首相や山口 那津男公明党党首は民共を選挙目当ての野合と声高に批判するくらいだから、自民と公明・創価は自民党憲法を共有し、民主主義や基本的人権を否定する方向性で内実は一致しているのだろう。その姿は本当に安全・安心で立派なものなのか。
 自創大作に一定の歯止めをかけないと、民共合作の支持・不支持という目前の問題ではなくて、よりましな政治が生まれる将来の可能性・余地・土壌そのものを破壊することになるのではないか。お化けがこわいからお化けになるというのも一つなのかもしれないが、中露北朝鮮に対応しなくてはならないからと言って、日本政府がそれと同様の強権的な存在になって、いったい国民にはなんの意味があるのだろうか。やはり日本製はどんなものでも中国製よりは安心なのだろうか。
 自創に投票するか、自創に歯止めをかける投票行動によって自創と民共以外の将来ましなものの生まれる余地を残す可能性に投票するか、それが今回の選挙の争点である。果たして国民の側は「日本の伝統」に戻したいのだろうか。選挙の結果は見えているが、憲法改正の発議が続いたら、日本人は基本的人権を守ることができるのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

おわりに
 和製トランプの活躍にしても、衆愚が寡愚をしきりに求めているような気がしてならず、自己矛盾も感じつつ…衆愚は寡愚に勝るとも思うのだが、どうだろうか。多数の暴政を防ぐことと民主主義の両立…。どうだろうか。
 先の大戦のときには、「じり貧かどか貧か」の選択では、当時のじり貧の現状をただ否定したいがために、迷わず、よりひどいどか貧を選び取ったことのある日本人である。憲法は変えるべきだろうが、内容が問われるだろう。変えるからより良いものになるというのは幻想だろう。より悪くなる、あるいは、よくなるというものは、特定の人々にとって都合がよくなるというものだろう。憲法が時代遅れだからと言ってなんでもいいから変えようというのは、水虫の足がかゆくて我慢できないからといって、足ごと切り落とす選択をするようなことである。それは果たして賢明だろうか。ある選択肢が悪いからと言って、もう一つの選択肢がいいものだという保証はどこにもない。

 ウィンストン・チャーチルの
 「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」

 という言葉の持つ重みを今一度かみしめるのがいいのかもしれない。

 平和ボケしていない人は、ひょっとすると国外脱出の準備もしておいた方がいいのかもしれない。

参議院選挙の最大かつ真の争点①

はじめに
 参議院選挙の争点は、経済政策だ、アベノミクスだ、安倍政権の信任だというものがいるが、果たしてどうだろうか。本当に政策選択の選挙だろうか。
 以前、優秀な公明党の候補者が参議院選挙の際に「与党が過半数割れしても、衆議院で再可決ができる」と喝破したことがある。正に正鵠を射ているという他はない。今回の選挙も同様に、この発言の通り、いかに野党である民共合作が勝とうとも、法律案も予算案も衆議院における圧倒的多数の再可決によって、自創(価)大作政権の自由に政策が推進できることに変わりはない。例えば、アベノミクスがいかにアホノミクスであろうと、公明とはつまるところ創価であろうと、池田大作先生の偉大さを誇示する政策が進むこと、アベノミクスが進むことに変わりはない。法律や予算で決められるものはすべて、今回の選挙の結果によらず自創大作政権の思い通りである。では、すべてを自創大作の思い通りにできるのだろうか。思い通りにならないもので大きいものがあるだろうか。
 それは、憲法改正ではないだろうか。つまり、今回の参議院選挙の、最大の争点とは、”この国のかたち”をどうするのか、に他ならない。

自民党憲法を読む
 自民党憲法を読んでみて、そのような権威主義的な国家を指向したいならば、自創大作に投票するほうがいい。戦前の大日本帝国マンセーという向きにはとても大切なことだろう。
自民党憲法改正草案

自由民主党「日本国憲法改正草案」について 東京弁護士会 伊藤 真

 民共合作を支持せずとも、少なくとも民主的な政治をする土台だけでも残したいならば、不本意であっても民共合作に入れるしかない。民共合作ではなく、民共合作や自創大作とは全く異なる民主主義の政党を作るための余地を残すためである。民共合作など軽い皮膚の病気だが、自創大作は重い内臓の病気ではないだろうか。軽い皮膚の病気はいつでも治すことができるが、重い内臓の病気は致命傷にならないのだろうか。
 このように考えると、自創対民共という対立軸ではなく、自創対将来の民主主義の戦いだと言い換えてもいい。つまり、自創大作か民共合作かは大きな問題ではない。私たちが将来に民主主義の余地を残しておきたいのか、残す必要など全くないのか、ということを問われているのだと言っていい。

民共のひどさ
 民共は対する敵を気軽にヒトラー呼ばわりする。だが、真に批判されるべきはどちらだろうか。ヒトラーは当時、もっとも民主的な国家と呼ばれたワイマール憲法下のドイツで浮浪者同然の存在だった。それがどうして国家の至尊・至強な独裁者となりえたのだろうか。ヒトラーだけの努力の賜物だろうか、それとも他の勢力の政争や失策腐敗が原因だろうか。そう考えると、民共はヒトラー呼ばわりする安倍晋三首相以上に罪深いのかもしれない。もし、民共の言う通り、安倍晋三首相が反民主的な存在ならば、安倍首相は民主主義を単に壊せばいいのだから、自爆して職を辱め、失望を広めるだけでも、その目的に近づくことができる。
 また、ヒトラーを時代の寵児とさせた社会の堕落を考えなくてはならない。ヒトラーを産んだのはヒトラー自身というよりも、政党政治と社会と国民の堕落に他ならない。

 実に不愉快この上ない選挙であるが、その不愉快さが、ことの重大さを軽くするものではないのだということを改めて考えなくてはならないのではないか。もし、この重大さを考えないのならば、わたしはふしぎでたまらない。

 ※自創大作 民共合作陣営の対になる、自民と創価・(池田)大作陣営の略称
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