はじめに
 アルマーニの制服の導入を目指す銀座の泰明小学校が物議を醸している。それに対して、公立だからお金がかかるのはどうか、公立小学校はみんなのための学校なのだからどうか、こういった学校は格差を助長するなどと反対する主張が大半のようだ。そしてそれに納得して喜ぶ向きが多いようだが、そのような理由に説得力があるのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
 そもそもみんなのためのはずの日本の公立小学校が、少しはましな家庭の子どものために存在したことが、かつて一度でもあっただろうか。公教育は、どんな子でも受け入れると言えば聞こえがいいが、実際には、大人であれば逮捕されるような問題児さえ所属が許されるため、教師はちょっとマシな家の子どもを使嗾したり犠牲の祭壇に捧げたり、放置したりしているのではないか。また、誰でも通える低質な公立学校と子供たちを選抜して学習させ授業料が高い私学との格差が放置されているのが現状ではないか。これこそが格差を助長しているのではないか。格差とはどの階層とどの階層を比較対象にしているのだろうか。筆者は同校の試みはなかなか興味深いと考えるのだ。

学校を選ぶ
 政治業者や教育評論家と称する人々は、学校選択制で教育の質が向上するなどと宣う。だが彼らは何を選択させてくれるのだろうか。今のままでは、小学校の通いやすさや校歌の旋律を選べるとか、校舎の色がホワイトかクリームかアイボリーかを選べるというくらいが関の山だろう。残念ながら、実際の世界では、「みんな違ってみんないい」などというポエムで語られるように皆が善人でも平等でも能力が等しいわけでもない。そして、どんな子でも同じように教育できるということは実際にはない。もし学校や教師の能力次第で誰でも教育できるというならば、開成や灘ならばどんな子供でもなかなか優秀な子供に教育できるのだろうか。
 あいさつ代わりに平気で「死ね」と口走る子や、発作的に他の子に危害を加えるきれっぱやい子や、夜更けまでゲームをしご飯も満足に食べてこず落ち着きのないような子さえいるそうだが、どうやったら彼らを教育できるのだろうか。そんな懸念をあげると、必ずそんな子の変化を辛抱強く待つのが教育などと言うのだが、確かにそれが教育なのだとしても付き合うべきは行政や学校や教師であるはずで、周囲の無実の家庭や子供ではないだろう。であるのに、いつまでそうした子供の更生に付き合うためにちょっとマシな家庭の子は辛抱しなくてはならないのだろうか。いつまでマシな子供は困った子の人生の更生装置としての役回りを強いられ、殴られたりいやなことを言われたり持ち物を壊されたり、勉強を足踏みして待たなくてはならないのだろうか。その子の可能性のためだけにいつまで耐え続けなくてはならないのだろうか。果たしてこんな子の成長のためのダシでしかない子どものために公教育が存在するとでも言うのだろうか。もちろん、筆者もそのような不幸な家庭で育つかわいそうな子供の境遇には同情を禁じ得ないが、だからと言ってその子やその家庭の不届きや不幸を八つ当たり的に転嫁される、ちょっとましな家庭や子どもはより不幸でもっとかわいそうではないだろうか。

親の所得と子供の学力や生活態度には正の相関
 現実的に、保護者の所得と親や子供の学力、子供の生活上の落ち着きが一定程度正の相関を持つならば、落ち着いて学習でき、より学力の高いよりマシな家庭の子供を集めるためにはこういったことをするほかはないのではないか。公立小学校は学費が無償である以上、私立小学校のように学費を高めることによって入学者とその保護者を選別できない。だからこそ、泰明小学校の校長が意図するにせよ意図しないにせよ、制服の費用負担という形で、負担能力に耐える家庭を選別するという試みは興味深いと筆者は考える。”アルマーニ”に目を奪われて批判して喜んでいるものばかりだが、このような試みは何も制服に限らず一日千円の給食費負担という形でもいいし、極論すれば、保護者それぞれが毎年10万円を燃やすような儀式でもいい。日本では質がどうにもしようがない公教育と、高負担で上流家庭のものしか行けない私立小学校との間がすっぽりと抜けているのではないか。中流以上の家庭の負担で通える良質な小学校がないのではないか。このことが、上流と中流以上の家庭との格差を拡大させてはいないだろうか。

日本教の刷り込み施設

 さて、どこかで公立小学校は”みんな同じ”という日本教という宗教を学ぶための施設だと喝破するものを聞いたことがあるが、同校の試みは、これに風穴を開けようとするものではないか。家庭が小学校を選ぶとはいうが、それと対に、学校の側も子供や家庭を選ぶことがあって初めて公立学校はよくなるのではないだろうか。学校を選ぶ、先生を選ぶということと同様に学校も先生も子どもを選ぶことがあってもいいのではないか。一見すると服に8万円を費やすように見えるが、実際には、よりマシな子供たちが集まりやすい、よりマシな同級生を選別するための負担と考えるほうが妥当ではないだろうか。もし毎年制服を買い替えるとしたとして年間8万円は高いのだろうか安いのだろうか。筆者ならちょっとこましな同級生が集まりやすくなり、学習環境がちょっとましになるならば、自分の子供のために年間8万円は十分に安いと考えるがどうだろうか。これに反対する人々は”アルマーニ”という表層的なことに囚われているようだがどう考えているのだろうか。芸能人など多数も批判的な声をあげているようだが、よもや子弟を私立小学校にはやっていまいな。

おわりに

 このままのバッシング続きでは”アル小”実現の見込みはなさそうだ。だが、公教育と質を考えるときどうだろうか。子弟を私立学校に通わせながらもアル小”に批判的な声をあげる欺瞞的な政治業者や官僚、有識者の発言にうれしくなっている人々はいったい何を感じているのだろうか。子弟を私立学校に通わせる欺瞞的な有識者こそ”アル小”を邪魔することで、家庭の負担能力の差によってその学力にふさわしい学校に通う機会の芽を摘まれる中より上の家庭に差を付けられる現状を守ろうとしているのではないか。そこに筆者は日本の”本音と建て前”そして格差の存在を感じるのだが、建前を言ってくれるのがうれしいのだろうか。格差がうれしいのだろうか。アル小に批判的なものにうれしくなるような連中も少しは、そういった現実の重みを考えてみてはどうだろうか。