セクシーポエマー信じろー ~わたしはふしぎでたまらない~

時事・政治・教育のネタを中心に、婚活のネタ も交え 書いていきます。 独自の視点で切り込めたら…いいな、と思っています。

天皇

平和ボケの共演(右ボケ)

はじめに
 8月は平和ボケの豪華共演で結構食傷気味である。右向きのボケと左向きのボケの双方が、これでもかこれでもかとボケ対決に花を咲かせる。双方がボケのはずなのに、鋭く互いに突っ込む姿は、いったい何なのだろうか。いずれ、左ボケは論じることとして、ここでは、右ボケを論じてみたい。右ボケらは、岩田温センセイものや百田尚樹センセイものなどを読んで喜んでいるものが多いかもしれない(下記)。

天皇陛下のお言葉を拝聴し、文字通り涙が流れた。

平成天皇はなかなかの役者
 平成天皇は戦地を巡っていたが、なかなかの役者だと思う。それは、青山学院付属高校の入試問題炎上の際に、沖縄の新聞社と政治家に担がれ”平和の大切さ”は自分のメンツ以下だと曝してしまったひめゆりの語り部(左ボケで論じたい)と比べれば明らかだろう。
 戦争において払わせた凄惨な犠牲を、平和になってから崖の上に立ち首を垂れることや花を手向けることで購うことなど本来できない。だが、真に悲惨な体験をしたものは死に、その様子を観察できるものは生き残ったものかその時代を体験していないものだ。だから、年をとって肩の丸くなった天皇老夫婦が崖の上に立てば、誰が見ても死者を悼む痛々しい感じが、先代の天皇がどうその事態に臨んだかを圧倒し上書きしてしまう。つまり、戦争の被害を助長促進した天皇から、平和を進める天皇へと記憶を書き換えることができるのだ。そこで人々がどういう経緯で何に追い詰められて死んだのか、天皇がどういう作用をしたのかを理性で考えれば、それを割り引いて考えられるはずだが、そうしたことに思いが及ぶ筆者であっても天皇の行動には心打たれるかのような錯覚を覚えてしまう。人間の感覚とは不思議なものだ。
 そこで死んだ者は確かに本来壮健な若者が多かっただろうが、相当に追い詰められていた。天皇は高齢で歩くのも大変だろうが、敵弾が飛んでくる困難さや、水に欠くほどの飢える悲惨さとは比較にならない。「天皇万歳」と言って多くの人が死に「天皇のため」と言って事態が進んでいるにも関わらず、高貴な身分に釣り合う責任を放棄し、決して火中の栗を拾うことなく、戦闘を止めようとするリスクを冒すでもなく、平和な場面で祈ることで、戦場の犠牲にかえられるならばとても賢いやり方だろう。

平成天皇の幸運
 平成天皇が昭和天皇に比較してツイていたのは、単に平成の時代の日本が戦争の惨禍に蹂躙される試練がなかったことだ。仮に、平成天皇も昭和天皇と同じ立場に立てば、昭和天皇同様に、臣民が「天皇万歳」と叫んで崖の上から飛び降りてくれると都合がいいことにかわりがないだろう。そして、それが男よりも、若い女性であればなおよく、さらに赤子も道連れにしてくれれば一層好都合であることもかわりがないだろう。なぜなら、「天皇万歳」と叫んで少なくない人が死ぬ事実が敵の最前線から上層部に報告されることで、いざ日本が占領されるときに、天皇制を廃止することや天皇を殺傷することが政治的に高くつくように映り、占領に協力する天皇の価値を否が応にも高めるからである。昭和天皇がフツ―にできる計算を平成天皇ができないと考えるのは、平成天皇に対して大変失礼だろう。なかなかの役者である平成天皇は、3Kな正論が好きな諸君のような平和ボケではないだろう。

リアリスト
 臣民の自己犠牲を期待するのは、もちろん天皇が悪人だからでも非人道的だからでもなく、天皇自身の保身と天皇制の存続のためであって、これこそが天皇のリアリズムであり帝王学のキモである。普通の人間は「かわいそうだから、しない。」とか、「酷いから、やらない。やめとく。」と単純になるが、「かわいそうだからこそ、むしろやってほしい。」とか、「酷いからこそ、ありがたい。」とか普通にやりぬける。
 この感覚は筆者の勝手な憶測でもなんでもなく、ほかでもない天皇制の安堵(国体の護持)のために絶望的な抗戦をさせている間の、ヒロシマについて昭和天皇が記者会見で
 「この原子爆弾が投下されたことについて遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒ですが、やむを得ないことと私は思っております。」
 と発言したことや、特攻の報に接して及川軍令部総長に
 「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」
と言ったことに表れている。
 いずれの言葉においても、前者では悲惨さを悼んだり慮ったりする仁者ぶりを見せるが、後者では、他人が払う犠牲と、自分らが得る利益を比較し、自らの利益を優先するというリアリストぶりが見られる。そして、実際に戦争を止めるような危険を冒すことはしないばかりか、悲惨な後者を誉めそやして拡大継続させる。一般人ならば、この悲劇をなんとか止められのは自分だけかもしれないという局面ならば、使命感からか蛮勇を発揮しようとしてしまうだろう。
 だが、悲劇を負担するのはあくまでも身分卑しき他人であること、それによって自分に降りかかるのはちょっとした気苦しさであること、そして、自分達の受ける利益とは比べものにならないと冷静に分析し一時の情に流されず怜悧に損得を計算できるのが帝王である。



平和ボケ(右ボケ)
 こういう感覚は、もちろん『日本国紀』なんかを読んで、「民のかまど」などというお話で白昼堂々抜いてしまう、3Kな正論を吐く諸君には到底わかりえない。だが、決してこんな若気の至り?をするのは、彼らだけではない。開戦時に「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引いて、勝っても負けても責任が及びにくいように布石を打った”昭和天皇の仁”に淡い期待をよせ、自分が特攻に踏み切れば、天皇が横からタオルを投げてくれると夢精し、当然のごとく裏切られた大西滝次郎のような輩もいる。そして、戦争継続の手段を与えたことが、さらにたくさんの若者を死なせ、敵の蹂躙を許す時間を与え、惨劇を広げた。
 だいたい、特攻を”誰かほかの人”が始めてくれること、それが”志願者で”ということになっていること、それが”他人の責任で”進められることは、天皇にとっては願ったりかなったりでしかない。特攻で戦果が上がればそれをネタに天皇制の安堵(国体の護持)を敵に求めてもよいし、戦果など上がらずとも、そういったやばい連中を抑えられるのは自分だけ、と敵に売り込んでもよい。簡単な話だが、天皇の仁などを信じる平和ボケの大西に、天皇のリアリズムは読めなかった。
 天皇の仁とは、余裕があるときか、自分らが危うくならない場面に限って、あくまでも”魅せるための仁”であって決して自己犠牲の仁ではない、天皇制のリアリズムとは、決定的な局面では事態がどっちに転んでも自分たちの都合のいいように、自分達が消耗しづらいように、常に打算と損得で布石を打っていくものなのである。だいたい歴史のうえで常に天皇が人々のために身を張って仁を追求している存在であるならば、とうの昔に伝説とともに滅んでいるか、日本の歴史上の実力者が世界史から特異に徹底した仁政を継続したうえで天皇の存在を許容してきたかのどちらかだろう。

民のかまど
 「民のかまど」などを引いて天皇の仁ぶりを宣う連中も、仮に”あった”としても、それ以降の長い間にそういった話がないからこそ、未だに語り草にしているのだろうことなどつゆほども考えがいたらないのだ。今日、老後二千万円問題で困っている?国民と「皇室であったものの品位」とやらを保つために皇室離脱一時金、ポンと1億超の皇族娘たちの金満ぶりの絶望的な断絶が転がっているにもかかわらず、何にも見えない連中が本当にいるのだ。皇族は清貧などと感じられるのは酔狂の世界だろうか。民のかまどや、国民のために”毎日鯛”を食べる天皇の話(下記)など、理屈はどうとでも付くのだろう。こんな簡単なことに疑問を持てない驚異的に完璧ハッピーな思考様式やパーフェクトポジティブ思考には、憧れていいのか、同情していいのかと筆者なりに悩んでしまう。

天皇の昼ご飯はなぜ毎日「鯛」なのか

おわりに
 安全保障とは、仁だの徳だのといった相手の好意に期待するユルさではなく、損得に基づくインセンティブに期待しなくてはならないという、冷厳なリアリズムが天皇の中にこそ生きているのである。同じ国の人間だから同じ国の人々の利益になることしかいないと考えるものには、日本にある刑務所に日本人が収監されている事実など見えないのだろう。
 仁を持ちつつリアリズムに徹することの峻厳さもわからない右向きのボケ諸君とはなんとおめでたいのだろうか。そして、右向きのボケと左向きのボケがボケ合う日本はいったいなんなのだろうか。岩田温センセイや百田尚樹センセイは、そういった右向きの平和ボケにうまい商売をしているすごい人だとホント感心してしまう。

天皇制が滅びるのは…。

はじめに
 以前、ホリエモン的な思考の人々が天皇制存続の脅威になる(下記リンク)という話があったが、そんなことはないだろう。

天皇家にとってはホリエモン的な思考の人たちが脅威

 天皇家の存続の最大の脅威は技術革新であろう。そもそも天皇制は、掘っ立て小屋に住んで家畜のえさ同然の食事をしている下々から隔絶したいい暮らしを、末代まで楽しむためのほう便として生まれた。だから、技術革新によって下々と天皇の生活格差が縮まっていけば、自ずと天皇制を続けるインセンティブが皇族自身から消えていくのは自然なことである。天皇制にとって大切なのは、いま生きている皇族と末代までの皇族のいい暮らしであって、先祖の伝統ではない。祖先や伝統は手段であって、目的は自分と子孫のいい暮らしである。決して国民の生活のためではないのは、ヒロシマは気の毒ではあるが、やむを得ないなどと言うことからもわかるだろうか。

陳腐化する伝統
 例えば、酷暑の中で涼をとることを考えてみよう。天皇の、伝統的な涼み方がいかに優雅で高額であっても、エアコンの快適さにはもはや勝てない。外気温が30度を超えれば、舶来の超貴重で高価なうちわのようなもので人が扇いでくれるような贅沢であっても、それは熱風を送るだけに終わり不快な酔狂の類だろう。大昔の技術では最高であるものでさえも、5万円も出せば据え付けられる現代の激安エアコンにさえ全くかなわないというのが技術革新の力である。
 また、病気になったときはどうだろうか。昔は加持祈祷で快癒を祈って悪霊退散などをしていたそうだが、いかに高名で霊験灼かとされる連中に大金を投じ集めて盛大にしても、効果においては研修医にさえ劣るだろう。もちろん、回復の加持祈祷など用済みにし、自称2700年ほどの歴史(笑)に比べれば、にわか仕立ての近代医学の標準治療に皇族もお世話になっている。天皇の執刀医(笑)などというものが存在し、昭和天皇輸血などというものさえ公然となされた。子どもの頃、エホバの商人が輸血を拒否することにも驚いたが、それ以上に、高貴な血を売りにしているにもかかわらず、昭和天皇の平然と輸血をする柔軟さ?(節操のなさ?)にぶったまげた。
 「朕はナマポに劣るのか!!」と嘆息しつつも、陳腐化した伝統を死ぬ気で墨守するような気概や根性を見せるわけでもなく、都合の悪い伝統など潔くお捨て遊ばされ、快適であり都合が良ければ、エアコンだろうと近代医学だろうと、貪欲に取り入れるのは真に伝統が大事ならとてもできることではない。
 そして、MaaSの時代が到来したらどうだろうか。自家用車など必要もなくスマホで迎車でき、低廉な価格で、運転の必要もなく簡単に利用でき、移動の自由も広がっていったら、なんと快適だろうか。高級な専用車とお抱え運転手を常時備えておく必要もなく快適に移動できるようになれば、皇族の移動の優位性も消えるだろう。
 このように、昔の贅沢や快適さが、技術革新によって次々と超克され陳腐化されるにつれ、どんどん天皇や皇族であることのお得さが消えていく。スマホもあればインスタもあり、皇族でなくとも十分に楽しい豊かな暮らしを送れるようになれば、こんなことやあんなことをやってみたいというような誘惑が増えていくだろう。そうやって皇族があれこれ理由をつけていた伝統的贅沢の優位性が根本から掘り崩されていく。

女性宮家の創設は諸刃の剣
 また、女性宮家の創設など話題になるが、そのように周辺部が増えれば直接的に血筋が絶えにくいというメリットがあるが、同じ皇族とはいえ中核と辺縁では、皇族の維持に対する温度差の違いがある。辺縁では、若い女性皇族がダンスに興じたり、つかまえてきた男が残念だったり…というような物議を醸す事態はなお一層増えて、天皇制の権威を辺縁から徐々に削っていくことになるだろう。
 皇族は下々に対する偉さを作りだすために隔たりを作り、行動の荘重さを演じて、神秘性を伴って権威を保たなければならないが、それらはたいてい窮屈であったり不便が伴ったりする。建前を守ることの利益が、建前を破ることの利益に勝るならば、建前を守る伝統大事だが、逆ならば伝統など放棄していくのだから、女性宮家の創設は、その伝統放棄を進め、権威を削る一助になるだろう。

おわりに

 天皇制を性急に廃止しようという人々がいるが、筆者はその論に組しない。というのは、まずそうした行動に必要性を感じないばかりか危険性を感じるからである。天皇制の廃止(民営化=信者相手に限って好きにやって)には賛成だが、それはあくまでも安全な形でなくてはならない。天皇という人はいるけどそれは信者のものでしかなくて、ほかの人にとってはあってもなくてもいいというほど無害になってからでなくてはならない。
 もし、天皇制を廃止して憲法の枠外においたら、きっと天皇親政の素晴らしい政治とやらで夢精したいアホ連中が悲劇を招来するのは目に見えているだろうし、廃止したり処刑したりして処分するというような過激な共和政治体制ができたら、それに止まらず政治的反対者を次々と弾圧する破滅的な結末になるだろう。
 そう考えると、技術革新によってだんだんと伝統と称する既得権である独占的贅沢がストリップしていき、最後に存在の意義がなくなって枯れ死するというのが一番安全ではないだろうか。そのときには、皇族が身近な人になって、公務員などと同様にルサンチマンの対象となり、天皇制はただの終身生まれつき贅沢公務員という身分だけになって、自ら降りるのか、それとも安全に辞めさせられ、民営化する(いち宗教法人のようになる)かになるのが自然な形ではないだろうか。さあ、どうなるのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

産経が潜ませる天皇軽侮の眼差し

 産経がまた、下記の通りの天皇すごいの話を書いている。その真意はどこにあるのだろうか。 
 陛下、国会開会式でお言葉 健康診断日程ずらし最後のご臨席
 普通の感覚なら、緊急の手術ならともかく健康診断なら普通に仕事が空いている日にする。よもや定例の健康診断のため出張を延期しますという人はいまい。
 産経新聞が、この件や天皇計画停電参加のような、大したことでもないことを大仰に書けるのは、天皇が当たり前のことを当たり前にできる並の人でさえないと考えているからだろう。例えば、乳児なら「立てる」だけで「自分でおしっこに行ける」だけでとてもほめられるだろう。なぜなら、そこには「乳児がそういうごく当たり前のことが未だできない存在だ」という認識があるからだ。もし、健康体の立派な大人がトイレから戻ってきたときに「おしっこに一人で行けてすごいね。」なんて言ったとしたら、褒めているのではなくバカにしていると怒られるだろう。
 これと同様に一般的な常識を持つ並の人として少しでも天皇をみなしているならば、天皇に少しでも敬意があるならば、こんな記事はとても書けないのは当たり前だ。もちろん、その普通の社会人の生活習慣を持たない人や想像力がない読者たちは歓喜して「日本人でよかった」などと言いだすのだから、そういう人たちへの受けを狙って大人の事情を優先して書いたのだろう。
 読者のレベルが見えている産経新聞は確かに賢いが(笑)、少しは天皇に敬意を払ったらどうだろうか(笑)、そこまでして天皇をバカにする必要はないだろう。読んで感激した者はWGIPとか日教組云々とかコミンテルン…、「日本は韓国に支配されている」とか現実離れした妄想を広げるのではなく、少しは現実的な生活習慣や想像力を持ったらどうだろうか。担がれているだけでなく、天皇軽侮の共犯になっているよ(笑)。

小室圭サン・マコサマ婚約騒動からわかる皇室の巧みさ

はじめに
 秋篠宮サマのメッセージに答えるためなのか、マコサマの婚約者で海の王子こと小室圭サンがメッセージを発表した。だが「無私・無欲の皇室に似合わない」、「意地汚い」などと炎上している。この件が長引くほど、皇族と金が並べて考えられ、皇族は清貧とか無欲などといった数々の演出の努力がぶち壊されるかもしれない。ここでは、そのカラクリの巧みさを考えてみたい。

実際の金を考える

 お嬢サマは、法律によってより貧しい「品位のない」国民から集めた血税から所得税も贈与税もかからない「皇室であったものの品位を保つため」に皇室離脱金と称する1億超の金を当然のごとく献上される超特権・超既得権のヤンゴトナキ御身分。
 方や、報道が事実なら、”パパ活”同然に、たいして好きでもない相手に対して身体を張って、やっとこさ400万ほどの学費を工面して必死に這い上がろうとする母子?しかも、一緒に楽しんだのだろうが、そんな男前の相手にいまさら金返せと言われ難渋する始末。今では、女子大生が学費や生活費を稼ぐために風俗店で働く例もあるそうだが、そんな人たちと比べるとどうだろうか。
 貧乏人からも集めた血税でポンと献上金1億円の世界と身体張ったパパ活400万円の世界、その25倍差。方やポンと勝手にもらえる、方や人生・体も賭けてインチキしてる?この現代日本格差社会の絶望?逆タマ希望?の象徴っぷりは半端ないことは事実だが、これが生まれの違い?
 いずれにしてもなかなか理不尽な日本の象徴であることには疑いがなさそうだ。筆者など、ポンと一億のお嬢サマの金満ぶりに対して、体を張ってまであざとい方法で小金を調達しせざるを得なかったコムロ親子が叩かれることが何とも不憫でならない。

皇室であったものの品位
 確かに「皇室であったものの品位」を保つ毎日というのは、ネギ一つ買うのも紀ノ国屋に行かなくてはならないのだろう。また、緑のタヌキを買うのでもイオン山積み108円ではなく成城石井158円を買わなくてはならないんだろうし、タヌキはタヌキでも天皇家の品位分のプレミアムが乗っているから「宅のとは別格よ。」と、いつも周りを意識しながらタヌキをすすらなければならないのだろうから、お金もかかれば気苦労も本当に多いのだと思う。本当にいろいろと窮屈だ。

飽くほどの贅沢
 「悪くはしないから…」と言われて、悪くされなかったことは一度もないのが一般人とするならば、マコサマの皇室離脱一時金に見られるように”勝手に進められる”という周囲の忖度と献上によって、欲望が自ずと満たされ飽くほどの生活水準が維持され、改めて殊更に自分の欲を露わにして要求する必要がないご身分が当たり前のなかなか手前勝手なルール。
 一方で、一般人が貪欲に見えざるを得ないのは、そうやって求めて働きかけない限りそれに見合う生活の糧が得られないからではなかろうか。さらに、生活保護者が欲深にしか見えないのも同様のことだ。別に皇族でなくとも、じゃぶじゃぶの生活資金が身分によって当たり前に保障されるならば、ほとんどの人が余裕をもって暮らしているのではないか。取り立てて皇族が立派だと言えるのだろうか。
 皇族は無欲なのではなく、欲から自由になれるほど恵まれた御身分なのではないか。その欲から自由になれるほどの金の出どころは、欲深にならざるを得ない生活を送る国民の税金だということをどう理解したらいいのだろうか。これで無私・無欲というならいったい無私・無欲とはいったい何なのだろうか。それのどこが一体貴いのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。もちろん「被褐懐玉」などという美徳とはかけ離れた世界は本当に貴いのだろうか。

かっこいんてぐら
 こんな話をすると、天皇の自家用車は「インテグラ」だという話を引き、天皇は清貧だと反論されるが、どうだろうか。
 天皇の(自家用)車は、スーパーに買いだしに行ったり、保育園への送迎に利用したり、病院に行ったり、東京から宮崎まで家族四人分の帰省の飛行機代を抑えるために1400kmを我慢して走らせたりするような一般人の保有する、生活のための車とは性質が違う。天皇の車は純然たる運転だけを楽しむ趣味のための車である。こんな趣味のために百万単位のお金を支出できる人はそれほど多くはないだろうが、この事実を意識できている人は少ないようだ。多くは、漫然と自分の乗っている車と比較してそれほど高い車ではないという程度の理解でしかないだろう。そんな理解をしてしまうレベルの頭脳だから、天皇の愛車は「インテグラ」が語り草となるのだ。ひょっとして、自分はこの宣伝の標的となっているB層なのではないかと点検してもいいのではないだろうか。
 筆者などは駅に歩いて行ける距離に住んでいるために、不便もあるが高くつく車は持っていない。確かに、世の中には羽振りのいい病院開業医や不動産屋のように、乗るためのフェラーリの他に、見るだけのランボルギーニを持っている人がいるかもしれない。だが、純然たる趣味のための車を持てる人がこの国にどれだけいるだろうか。このトリックは、多くの人が誤解している天皇が計画停電に参加したという「停電之仁」などと同じような、受け手(B層)の潜入観を利用した優れものだ。

おわりに
 世界の発展から取り残され貧しく落ちぶれていく日本で、1億超の金を生まれによって周囲がポンっと勝手にくれるお嬢様の金満ぶりは、公務員特権とかNHK優遇とかの比ではないと感じるがどうであろうか。皇族の方は法律で定められているからいいのだといわれるが、それでは法律や規則で定められている公務員特権やNHK職員優遇も同様に擁護するのだろうか?
 確かに、人はかけ離れた境遇にいる人に対して妬みや嫉みを感じたり具体的に考えたりしづらいようにできているから、マコサマを初めとする皇族ではなく、コムロサンに「ムキーっと」となったり、公務員やNHK職員に怨嗟の念が集まるのは自然な感情的反応だろう。だが、少しは理性や知性も踏まえて考え、徒然草の第142段「心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。」を今一度かみしめてみれば、豊かとは言えなくなった日本国民の負担で自らの既得権はガッチリと確保した上で「国民の皆さんの幸せ?」をお祈りになっている皇族の姿がまた違って見えるのではないだろうか。そんなことを考えると、改めて皇族の巧みさ聡明さがわかるだろう。やはり天皇制は賢明であられる。

竹田恒和会長は…逃げの一手がいい?

 東京五輪招致の際の贈賄容疑でフランス当局から捜査されている日本オリンピック委員会の竹田恒和会長が行った記者会見が、わずか7分、質疑応答一切なしと物議を醸している。
 その容疑は、IOC委員で国際陸上競技連盟(IAAF)前会長であるラミン・ディアク氏の息子が作ったパパマッサタ・ディアク氏の「ブラック・タイディングズ」社(シンガポールのコンサルタント企業だが実態のないペーパーカンパニー)に約2億3千万円を送金した贈賄だ。このことに対して竹田氏は説明をしていない。なぜだろうか。
 もし、このような怪しげな企業に、”根拠なく”多額のコンサルタント料を支払う意思決定をしたのならば、日本のオリンピック招致委員会に対する背任が成り立ち、”根拠があって”のことならば、フランス当局の容疑の通り贈賄のいずれかが成り立つと考えられるのではないだろうか。そう考えれば、説明のしようがないのもうなづける。どうだろうか。
 いずれにしても、日本国内では皇族タブーで不問・うやむやになるだろうし当人もそれを期待して逃げの一手だろうが、フランス当局には、この人がこの地位に就いた経緯や人脈、金の流れも含めて、徹底解明と公表を期待したい。

海の王子とマコサマ ~好対照の二人~

はじめに
 マコサマ結婚が破談になりかかっているという。というのも、婚約者であるいわゆる海の王子こと小室圭サン側の母子が成り上がるためにいろいろと際どい資金調達をして学費に充てていた旨の告発者が現れたからだ。それに対して、つり合いが取れないというものが多いのだが、どうだろうか。
 確かに、その告発が事実であれば、海の王子母子が自らの手を汚してやっとこさ工面した4百万円に比べて、法律によって自分の手を汚さずに遥かに貧しい国民の税金から、その38倍近い1億5千万円を献上されるマコサマとは、確かにつり合いが取れないだろう(笑)。生まれの違い!!38倍、しかも善と悪というべきものだろうか。

一般人の退職金
 一般人の退職金ならば、40年近く大企業で精勤してたかだか3~5千万円、中小なら1~3百万円あるいは無しという日本で、マコサマは、なんの苦労もなく自分の手を汚すまでもなく、法律で定められているという理由で乞われてポンと1億5千万円を受け取り遊ばされるのだ。一般人の退職金には軽減されるとはいえ、さらに税金が控除される。
 自分で手を汚してまでも4百万円 対 生まれによる濡れ手で粟の合法1億5千万円(しかも無税)

汚れ仕事をすることと道徳
 自ら汚れ仕事をしないのは、する必要がないほど恵まれていたり、都合よくルールが作られていたりするからであって、かりにその立場になったらどうだろうか。本当に、マコサマは海の王子に比べてキレイだと言えるのだろうか。 
 「火垂るの墓」というアニメ映画があって、最近、監督が死去して再放送されたそうだ。筆者はその前に見る機会があったが、改めて見ると自分が親になって実に身につまされる気持ちというものだった。その中で印象的なのは、悲劇の連続の中で、栄養失調で衰弱する4歳の妹の節子のために、その兄14歳の清太が近々の畑から農産物を盗むところだ。農作物を盗まれた農家にも同情するが、その清太の心は本当に汚れていると言えるのだろうか。筆者は確かに泥棒などしないが、それは単に泥棒をする必要がないからに過ぎない。さて、筆者と清太のどちらが道徳的だろうか。そして、読者と清太と比べてどうだろうか。

天皇美談(クールじゃパン)停電之仁
 東日本大震災後の計画停電の際には、天皇も自主的に計画停電に参加したそうだ。世の中の多くはこれを美談と感じているらしいのだが、どの程度美しいのだろうか。より困ったのは誰だろうか。
 当時、店からは電池や懐中電灯が消えていた。筆者の実家には震災前に、充電電池も懐中電灯も十分な数があったから、明かりには大して困らなかった。家族の中で、より困ったのは、停電前に風呂の湯を張ったり、停電を避けて炊事洗濯掃除などの家事を済ませたりした母だったと思う。同様に考えれば、この美談で困ったのは、上げ膳据え膳家事無用の皇族よりも、その召使ではないだろうか。そして、筆者の家の周りでは街灯も信号機も消えていたが、皇居など警備も十全だろうし、電気を切っても交通事故が起こるわけでもないことを考えれば、どういうことなのだろうか。
 (計画停電のときに天皇が電気を使っていることを初めて知った筆者は、電気を使わない伝統はいつお捨て遊ばされたのだろうかと不思議に思ったが…それはさておき。)
 他方で、一般人は、有無を言わせず強制的に電気を切られるので、お気持ちで意思として自主停電に参加するチャンスがない。だから、有無を言わせずに強制的に電気を切断される一般人に比べて天皇がモラルが高いなどとは全く言えないはずなのだが、テレビや3kな正論を吐く諸君などは美しいと感じる立派な高性能思考回路を持っているらしい。そして、そもそも不思議なのは、天皇の家が、計画停電から予め外されているからこそ、電気を使うなと召使に命令できるという事実の重みだ。それは、”善意を発揮”するための御膳立てがそろっているといってもいい。この停電に参加するのは本当に美談と言える代物だろうか。
 こんなことも考えると、実際的な利害である、マコサマ1億5千万円、上げ膳据え膳家事無用の暮らしという伝統はガッチリと守る一方で、大して苦労することのない電気を消すだけで国民の気持ちに寄り添い遊ばされる?という判断は、最小の努力で最大の成果を出すという奇跡であって本当に優れた方法だと驚嘆してしまう。天皇は国民の気持ちに寄り添っているなどと感心するものが多いそうだから、この事実は本当にすごいと思う。同情するなら金をくれなんて話もあったが…寄り添うのは気持ちだけ。本当にホンノ気持ちだけなのに…これがうれしいという人をわたしはふしぎでたまらない。吮疽之仁なんて言葉もあるくらいだが、それ以上の停電之仁(笑)…正にクールじゃパンの精髄を見た気がする。

おわりに

 事実であれば、マコサマ比38分の1の資金を際どい方法で調達して懸命に這い上がろうとする「海の王子」側と、海の王子と同じような境遇にあるものも含む遥かに貧しい国民の税金で”上げ膳据え膳、家事無用”の伝統を保障されているマコサマ側をどう考えたらいいだろうか。こういう話をすると、3Kな正論を吐く諸君など、マコサマ擁護側は合法だという話をする者がいる。確かに悪法でも法だが、これを貴族利権、皇族利権といわずになんというべきだろうか。首長の退職金が高いなどと言っているものが多いが、そういう連中はどう考えるのだろうか。
 4百万円を自らの手を汚してやっとこさ工面する海の王子母子と、その38倍近い1億5千万円を法律によって自分の手を汚さずに、遥かに貧しい国民の税金から献上されるマコサマの何においてつり合いがとれないのか、今一度考えてみるべきだろう。それは、果たして多くが指摘するように、道義的なものなのだろうか。何をもってつり合いが取れないというのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

他人に自分の生活費を払わせるのは高貴であり日本のため

はじめに
 
最近、自民公明、維新や民進などが教育無償化を主張している。また独身税やらなんやら…とにかく自分や家族にかかるお金を赤の他人に払わせよう払うべきだ、それが当然で正しい、しかもそれが世の中のため日本のためだという主張が目立つように感じるのだが、果たして気のせいだろうか。

かほく市ママ課の独身税
かほく市ママ課「独身税」提案 財務省主計官と懇談
「結婚し子を育てると生活水準が下がる。独身者に負担をお願いできないか。」
と、独身者に子供のいる世帯の負担をさせたい旨、発言したものがいたそうだが、その主張は正当だろうか?むしろ結婚生活には規模の経済が働き、家賃・光熱水費、通信費の重複分が節約されるので生活は楽になるはずだ。月々9万の家賃と7万の家賃を払う独身男女が結婚して14万の賃貸に一緒に住めば家賃が月に2万浮くし、二人が同じ部屋で過ごせばエアコン代も半分近くになるし、風呂の湯船にはる湯も別居の2人分よりは少なくなるし、インターネット回線分も同様に重複分が節約されるだろうから、独身二人分の生活費よりも結婚した世帯の生活費は安くなるだろう。だから、結婚したら生活水準が下がるのかといえば必ずしもそうではないことは明らかだろう。さらに、子どもがいたらどうだろうか。所得が多いと恩恵がないのはひどいが児童手当は支給されるし、医療費は無料か低減されている。お金がかかるといったら日々買う衣食(住)のものとおむつ代くらいだろうか。
 そもそも、生活水準が下がるのは、独身時代に後先を考えずに無計画にお金を使ってきたからではないか?ライフサイクル仮説を考えれば、今月の給料は健康な若いときだけではなく、子供を持ったとき、老病死のときと、すべてのイベントも含めた一生で考えるべき給料だとわかるはずだ。例えば、結婚を将来考えている独身ならば、将来結婚したときに備えて必要な分の貯金を予めするだろう。もし、晩婚化が進む中で、独身貴族を自称し使い切ってから晩婚で子どもを得たところからお金を貯めようとしたら、定年と子どもの大学の学費を同時に工面しなくてはならないから家計が厳しくなるのは自明だろう。幸いお金は腐ることもなく貯金したり株や債券で運用したりして蓄えておけるのだから独身の間に備えておけばいい。子供を産めば子供が成人して自立するまでのおよそ20年間に育てるためのお金がいること、いくらくらいいることは予めわかり切っている。もし親が死んだとしても預貯金や保険で十分に対応できる世の中の仕組みがある。親が死んだから大学に行けないのではなく、親が死んだのに親は保険金をかけていなかったから大学に行けないのである。
 例えば、具体的には、子供が二人ほしい独身であれば、結婚相手が今いなくても、30歳で第一子を設けたつもりでその分の積み立て貯金を始め、32歳で第二子を設けたつもりで積み立て貯金をしたらいい。例えば、アラフォーで結婚して子供を設けても、既にのべ約18年分の子供の養育資金が貯金済みだから、自分の老後と大学の学費負担が同時に発生するからと言っても特段に困ることはない。独身のまま終わったとしても自分の老後資金になるだけだ。
 こういう理屈がわからない人は、人間が爬虫類のように卵を産み捨てにしたら親の責任は終わりとでも思っていたのだろう。こんなアオウミガメ系の人間ならば、子供が生まれて初めて子育てにはお金がいると驚く!のだろうか。人間はよく未来が見通せるところがほかの動物とは違うと言われる。燕や雀でさえも子どもが巣立つまでの一連の流れを計画の中で図ったかのように当たり前に養育しているものだが、こういった人間は燕や雀以下なのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

子ども保険は加計支援
 小泉進次郎代議士などは、子ども保険なるものを主張するが、これなど子どものため、社会のためと言っているがどうだろうか。子ども保険がない現在でさえも、行くに値するまともな大学に行く限りでは、個人が借金をして学費を払っても十分にペイするし、行くに値しない大学に行っても大学卒にふさわしい就職先はないのだから、実際には、NHKで有名になったうららさんの行きたい専門学校や加計学園のようなFラン大学にあえて行く人のために子ども保険は使われることになるだろう。だから実際には、まともな賃金の得られる就職先のない専門学校やFラン大学の補助金になって加計学園にお金が回るのが関の山だろう。世の中にフリーランチはないのだから、子ども保険は、多くの人からお金を取り立てて、その手数料として官僚に天下り先を作ってやったり、政治業者に献金としてキックバックしてやったりするだけではなく、大学に行く必要のない人々にもモラトリアムの期間を作ってやるという、結局、効率のより悪いところへの再分配になり当然社会の厚生は下がるだろう。

元シールズメンバーの教育無償化
 元SEALDs 諏訪原健「奨学金残酷物語 家庭崩壊した25歳の女性の苦悩」
 元シールズ氏の主張も小泉ジュニア議員と同様、失敗家庭の親の浪費の尻拭いを他人にかぶせるのは当然だというようなもので、ふざけ切っているとしか言えないだろう。また、うららさんへの奨学金の充実を図れなども、同様の主張だろう。彼らに共通するのは、我こそは不幸であるとか、我こそもらえるべきだというものだ。
 この手の主張を見ていると、自分で稼いだものでつましくても身の丈にあった暮らしをする、子供の将来のためや自分の不慮の事故に遭ったときのため、十全に備えて、保険をかけたり貯金をしたりするということは実にばかばかしく、せこせことして品がないけがらわしいことなのかもしれないのかと、感じもするのだ。こういうことを堂々と主張することは、一昔前は恥ずかしいことではなかったか。せめて、堂々と主張できることではなかったのではなかったか。こういった赤の他人にたかるのがスマートな生き方。赤の他人に食わせてもらうのがスマートで品がある?といのはどういうことなのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
 …とも思ったが、そうでもないかもしれないとふと感じたのだ。実際に品がないのは、むしろ筆者かもしれないとも思うことが最近あった。

眞子サマ1億2500万円
眞子さま 結婚時に支払われる一時金は1億2500万円か
 そういえば、こういう思想の根っこはマコサマ結婚持参金1億2500万円と同じではないか。また、伊勢物語の筒井筒で、自分でご飯をよそう女の姿を見て幻滅した、自分でご飯をよそうなんてなんと汚らわしいと感じた天皇家にゆかりのある貴族男の感覚と似ているのではないか。上げ膳据え膳いい暮らしの請求書を、単に生まれた血縁により国民に請求できるという天皇家の品というのは、こういう世界観なのだが、こう考えれば、自分で稼いだり親が自分の子を養ったりという、自分の身の丈にあった暮らしをするということを拒絶し、他人に自分や家族の生活費を払えという感覚の、かほく市ママ課の連中や、うららさんやシールズ氏は、実は、品がないのではなく、むしろ品のあることであって、これらは、日本人の一般人の品が天皇家の品に近づいた喜ばしいことではないのだろうか。むしろ日本人全体が気品を高めつつあるのではないかとも感じるのだ。

おわりに
 かつて「働いたら負けかな」と喝破した青年が話題になったが、彼こそ天皇家の品に誰よりも近い日本人の鑑なのかもしれない。公務員連中を破産会社の従業員と喝破し威勢のいい話をしていた橋下維新も教育費無償と称するこの手の品のある主張をしているが、きっと天皇家の品とやらと同じ品性を備えているのだろう。また、小泉進次郎氏などは、高額な掛金を払いそれに見合わない大きく減額された年金しか受け取っていない高所得者に、持てる者の誇りをもって辞退するように促したが、若い眞子サマ夫妻にはそれを求めないのはなぜだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
 さて、日本ではいったい誰が働いて税金や保険料を負担するべきなのだろうか。自分で働いて自分で暮していくということが汚らわしいということが高貴な社会とはなんなのだろうか。みんなが働かないことを志向するような日本はきっと品性が高いのだろうか、わたしはふしぎでたまらない。

眞子サマ結婚・皇室離脱一時金・品位とは

はじめに
 眞子サマが小室圭サンと結婚する運びとなり皇籍離脱する。「皇族であつた者としての品位保持の質に充てるため」に、皇室経済会議で決められた額の皇室離脱一時金が支払われるそうだ。
 その額は1億2500万円くらいになるらしい。まだ20代半ばの女性に、持参金として1億円超が税金から支出されるという。単に自分の爺さんはお前の爺さんよりも偉かったから、それが続いているから私も偉い、ただそれだけの理由で、生まれが貴いというただそれだけで「ポンと1億2500万円。」
 品位保持とは、どういうことだろうか。皇室のいうところの品位とはなんだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

1億2500万円とは…
 1億2500万円とはどういうものだろうか。普通の人の感覚だと、人生最高の買い物と言われる家で考えれば、少しは実感もわくだろうか。あなたが買った家やマンションはいくらだろうか。人生最高と言われるくらいだから、もちろん1億円だろうか、それとも1億円のたった半分の5000万円だろうか、あるいはわずか3分の1にも満たない3000万円だろうか。もちろん即金で買ったのだろうか。まさか、ローンだろうか?ローンなら何年間払い続けるのだろうか。よもや35年なんて言わないだろう。それとも一生払い続けるのだろうか。ローンが払えず売ってしまった人はよもやいないだろうか。そして、買えない人はいないだろうか。たった、わずか…とは言うものの、あくまでも筆者の主観というよりも、眞子サマ1億円との比較でのことだ。

あなたに品位があるか?
 そう考えると、マンションブランドのブランズとかプラウドなどを5000~6000万円の物件をああでもないこうでもないとか悩んで、やっとこさ40歳前になって買うのは恐らく”品位がない部類”認定なのだろう。白金、麻布、代官山あたりで1億超のパークマンションなどを買うと、辛うじて品位があると認定してもらえるレベルだろうか。もちろん、マンションを買うときに、駅徒歩5分で少し手狭な物件で我慢するのか、駅徒歩12分で少し広い物件にしようかと悩むような国民など、皇室的には”品性御下劣破廉恥極まりない”認定なのだろう。
 自明にして「家賃10万の賃貸住宅に住んでいます。」というのは品位がないのはもちろん、「公営住宅に住んでいます。」「災害復興住宅に住んでいます。」などというのは、もはや「おまえはホントに人か?」と疑われるレベルだろう。都心では、駐車場でさえひと月5~6万円はざらで10万近いのもあるくらいなのだから倉庫のネズミ?犬小屋のイヌ?とか言われるレベルだろうか…。
 さて、年金はどうだろう。40年間払い続けて、いくらもらえるのだろうか。生涯安心だろうか。しかももらえる金額は右肩下がりではないだろうか。財政が火の車で税金は右肩上がり…日本。1億2500万円とは…
 早い話、皇室的な定義によると、20代半ばで1億円の預金残高がない国民には人としての品位がないといっていいのだろう。品位というのは、きっと1円安いからとスーパーのはしごをするような品位の欠けた国民から召し上げた消費税から、ただ単に生まれの尊さによってポンとお金を受け取るような人々だからこそ生まれるのだろう。
 もちろん、森友疑惑の籠池サンなんて8億円も国から値引きしてもらったから、品位があるのかもしれないし、加計疑惑の加計サンなんかも同じような補助金不正受給が疑われているから、これも事実ならば品位があるのだろうか。
 いずれにしても、日本人全体の平均年収の414万円前後の人には即品位がない認定だろうし、女性の平均年収272万円から考えた手取り250万円弱じゃ、もはや人なの?と疑われるレベルなのだろうか。

1億円とは…
 東京の最低時給(2017年度)958円換算で、104,384時間分
 1日8時間働くと13,048日、毎日休みなく365日働いて、35.75年分
 老齢基礎年金満額2017年度)は月額およそ64,942円で1539か月128年分
 …こういうお金をあてに生きていこうというのは、品位以前の問題とされるんだろうな。

1億円で何が買えるのだろうか。
 きっと「全国はお祝いムード一色です。」などと報道されるのだろうが、それは大本営発表なのか報道管制なのかはたまたフェイクニュースなのだろうか?それとも、税金・保険料負担は右肩上がり、年金は右肩下がりの日本で、夫婦の老後や自分の子どもの進学の経済的負担を案じつつ、ごく当たり前に疑問を覚える人が多いのだろうか。

おわりに
 こんな皇室や持参金を是とする人々は、前々から常々言われている公務員の既得権や加計学園疑惑で有名になった獣医師の既得権などにはひどく腹が立つが、この1億の持参金にはなんの疑問も感じないのだろうか。それでいて皇族に握手をしてもらって、温かい言葉やらをかけてもらって嬉しいのだろうか。その握手は、その言葉は、いったいいくらだったのだろうか。本当に好意の言葉、好意の握手なのだろうか。それとも握手券を買って握手するようなアイドルの握手会のように、高くつくものだろうか。
 果たして、あなたは品位のない人間だろうか?自分のお金で生活を整え、身の丈にあった暮らしを自分の力でしていくことは品のないことだろうか。筆者も皇室的な定義の品位の欠けたごくありふれた国民の一人だが、あなたはどうだろうか、いまいちど自分と家族を顧みて考えてみたらどうだろう。
 こんな1億円がわたしはふしぎでたまらないし、こんなことがふしぎと思わない人がいることにわたしはふしぎでたまらない。

岩田温が香ばしい

はじめに
 またまた岩田温先生が、また香ばしいことを書いている。
 陛下のご意向を機に天皇の「人権」まで語り出す奇妙な皇室廃絶論
 天皇陛下は、「国民の安寧と幸せを祈る」ことをご自身のお務めとされ、同時に「時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」も重んじてこられた。
 よく、駅前に立っているとある宗教団体の人々は、朝早くから「国民の安寧と幸せを祈る」ことをご自身のお務めとされ、同時に「毎日のように人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」を実践されていると思う。頼まずとも進路を邪魔することさえあって、祈ろうとしてくれる。しかも彼らは自活しているのでタダだ(笑)。それに癒される人々もおそらくいるだろう。それと比べてどうだろうか?
 東日本大震災という、大災害時、被災地の人々は、天皇陛下のお見舞いにどれほど励まされてきたことかに思いをいたせば、国民と共に歩んで下さる天皇陛下の有難さが容易に理解できよう。災害の衝撃から、茫然自失とし、生きる望みすら失いかけていた被災者が数多く存在した。真心から被災者を慈しんでくださった天皇陛下の励ましのおかげで立ち直った人も多いと仄聞する。
 遥かに貧しい暮らしをする国民の税負担によって、上げ膳据え膳家事無用の暮らしを当たり前にする人々が、”国民と共に歩んで下さる”というのはどういう感覚だろうか。税負担があなたとともに歩んでくれて大変ありがたい、ミナサマのNHKの受信料のようなことだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
 確かに、上げ膳据え膳家事無用のいい暮らしをしている人が、話を聞いてくれることにありがたみを感じる人々がいるのは事実だろう。だが、当然苦々しく思う人も同様にいるのではないか。だいたい被災地の人々からも取り立てた税金で上げ膳据え膳家事無用のいい暮らしをしている人々に慰問されて嬉しいのだろうか。その同情、その握手は決してタダではない。そんな上げ膳据え膳家事無用の金があるなら、積み立てておいて被災した人のために使えるようにしておいたらいいと思うのは自分だけだろうか。握手よりも言葉よりも援助資材や物資ではないだろうか。たまたまかもしれないが度々報道される日本の避難所がひどく貧相に見えるのは自分だけだろうか。アメリカの避難所は、パーティションで区切られベッドが入っていたが、日本のそれは、ござか毛布かカーペットか体育のマットのようなものを強いてその上に寝転がるというようなものだった。その床にひざまずいて手を握ってくれたら、話してくれたらありがたがるとはどういう神経だろうか。そういう床面に直に寝なくてはならないという状況を変えるほうがはるかにいいだろう。
 ミナサマのNHKばりに勝手に作った番組を送信して当たり前に請求もするというように、勝手にお祈りして握手をしてねぎらいの言葉をかけてくれるが上げ膳据え膳家事無用の人々に”同情遊ばされ”て喜べるとはいったいどういう感覚だろうか。

左翼・右翼かではなく特権既得権擁護か否定か
 天皇制について懐疑的・否定的なものを指して、自称愛国保守は、すぐにアカだの左翼だのとののしるが、天皇制のような君主制は、右とか左とかイデオロギーの違いではなく、国民の税負担で特権的な生活を送る人々を許すかどうかという違いではないか。例えば、フランス・ドイツ・イタリア・アメリカなどは君主はいないが当然、共産主義者でもない。それは単に、この破産国家において、超既得権を持つ超特権的公務員を認める既得権擁護の守旧派かどうかの問題ではないか。天皇制を擁護する人々は、保守ではなくて既得権擁護の守旧派と呼ぶ方がふさわしいのではないか。
 日本国憲法のおかしさは、9条以上に法の下の平等を表す14条と天皇制の矛盾だろう。
日本国憲法第14条
 一.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
 二.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
 三.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
おわりに
 筆者としては、天皇が憲法の制限から離れ、愚か者が天皇親政など馬鹿げたことを目指す危険が現実にあるであろう日本の民度を考えれば、もちろんすぐ天皇制を廃止して皇族を民間人にすることが望ましいとは思わない。
 ただ、憲法改正を考えるならば、それに賛成するにせよ反対するにせよ天皇と国民の関係を今一度考えてみるのもいいだろう。国や国民が貧しくなり国力が衰える一方で、その負担で成り立っている天皇制という上げ膳据え膳家事無用の特別な”世襲”公務員特権をどうするのかを考えてみるのもいいかもしれない。

天皇 驚異の節約貯蓄術

 銀行株等資産持つ天皇陛下は、上げ膳据え膳家事無用の慎ましい生活で資産増やしたそうだ。某皇室ジャーナリスト氏によると…
 銀行株等資産持つ天皇陛下 慎ましい生活で資産増やす
 崩御までの約40年間で20億円にまで膨らみました。質素倹約の精神のもと、国から支給されたお金をしっかりと貯蓄されていたことが第一ですが、それで株や国債を購入され、運用益も含まれていたといいます。そのうち香淳皇后と陛下が約9億円ずつ相続し、その時に陛下は相続税として約4億円を納税されました。
 2016年度には、両陛下と皇太子ご一家の合計5名に対し3億2400万円。それが天皇家のプライベートな“財布”に入る。退位後も、両陛下の日常の費用は内廷費から支出される方向で検討されている。
 天皇は退位後もいい暮らしが続くらしい。国から”もらい続け”たお金と株の運用で40年で20億円、毎年5千万円の蓄財できる質素な暮らし…
 それに引き換え、国民年金は国に40年間”払い続け”て、ひと月7万弱…健康で文化的で最低限度の生活?これで多くの国民がいいというならば、わたしはふしぎでたまらない。

道徳教育・教育勅語の 致命的な”脆弱性”

はじめに
 いよいよ道徳教育が始まるらしい。やはり予想通り相当胡散臭いようだ。さて、教育勅語、道徳教育、靖国神社は、全くいいものだ、あるいは完全に悪いものだと語られて議論にかみ合うところがないが、その双方を持ち合わせているものだと考えたらどうだろうか。また、そのもの自体が仮に極めて良いものであったとしても、悪用されやすいものならば、実際に扱う上では慎重になる必要もあるだろう。
 そこで、筆者は、ソフトウェアでよく使われる”脆弱性”をキーワードに考えてみたい。

道徳教育自体が反道徳的ではないか
 さて、人々が道徳を必要と感じるのはどういうときだろう。それは、道徳に力がなく、道徳が社会で通用しないと考えられるからこそ欲されるときではなかろうか。仮に、もし道徳を守ることが得ならば、勧めずとも道徳は自律的に補強され維持されるだろうから、あえて教育の必要性はないだろう。だから、道徳に力がないという状態は、道徳を守ることで実際に損をする人が多いからだろうし、道徳を守ることが少なくとも損だと多くの人に感じられるからだろう。もしそんな世の中の状況下で、道徳を勧めるとすれば、あくまでも非力で通用しない、多くの人が使いたくない選択を、恐らく自分が尊重していない人が、弱い他人に勧めたり、より善い人間に唆すことにはならないか。言い換えれば使嗾して課すことに他ならないから、教えること勧めること自体が反道徳的になりかねないと言えるのではないか。

道徳を他人に、より強く勧められる人はどんな人たちか?
 自身の行動と行動についての反省と、思考や言葉が結びつけて日々行動している道徳的な人ほど、他人に道徳を勧めることに慎重になるだろうし、逆に、自分の行動を棚に上げ、行動についての反省しない人ほど、他人には道徳を勧めることに抵抗感がないだろう。このことは、日常接している人々からも常に感じることだろうし、籠池氏の思想と国有地払い下げ事件での行動や安倍首相、安倍内閣の閣僚の言動と行動からも明らかだろう。今回の件でも、また籠池氏自体の保育園や幼稚園を見ても、自らは追求しない道徳を、園児には課し追求させていたのは偶然だろうか。そして、安倍首相は、自身や妻が関与していたら議員も総理も辞めるとさえ言っていたが、妻の実質的な秘書である公務員が照会をしていたという文書が出て、嘘がばれても辞めないのは偶然だろうか。しかも、安倍首相は、籠池事件での国の手続きは法令に則って適切と言いつつ、国の財産の保全に責任のある公の立場でありながら、妻を守る私人の立場ばかりを優先して真相究明を自ら進めることはない。首相夫人にしても、本当に泣きたい国民はさておき、自分のためならさぞ涙も出るだろうが、こういう人々の道徳性をどう考えたらいいのだろうか。
 さらに、高市早苗総務大臣が、自身と自身の政治団体間で資金を往復させることで税の還付を受けたが、この件でも総務大臣も安倍首相も法律的に問題がないと胸を張った。法律自体に明らかに欠陥があるからといって、それをあえて使う必要がないことも確かだろう。ただ、とても、国を愛し、道徳を自らに課す人間がすることとも思えないし、決して胸を張れることではない。
 高市総務相、資金往復で還付金を得る
 安倍首相やその支持者は、北朝鮮情勢や南シナ・東シナ海での緊迫もあって、こんなことにかかわっている暇はないというのだが、本当にそうだろうか、さっさと財務省に記録を出させれば、すぐに終わることだろう。しかも、それだけで、野党の不毛な追及をかわすだけではなく、中国の民衆にも波紋を起こせるだろう。公明正大に公共の財産が処分されていることの証明が首相でさえチェックされるならば日本という国はどう映るのだろうか。それが、中国共産党への国民からの圧力にならないだろうか。

道義国家とは何か
 欠陥のある現行法の下でも、また国民に道徳をあえて課すことのない憲法の下でも、法律より高い自己規律を道徳として自らに課し行動すことに制限はない。少なくともこの件では、自分がなすためには、道義国家にならない限り守れないというわけではないのだから、彼らが広めたい、課したい道徳とは、少なくとも自分が守るべき道徳でないことだけは明らかだろう。また、彼らが大好きな、天皇のために生きることも、天皇のために死ぬことも現行憲法下でも大いに自由だが、好き好んで天皇のために死ぬ奴はほぼいない。(しばらく前に、朝日新聞で自裁した右翼がたった一人たのだが極例外的なものだった。)
 道義国家というのは、法治国家からの離脱、すなわち実質的に人治国家だろう。早い話、身分と力関係で守るべき規範が異なるというただそれだけの国のことだろう。つまり中国や北朝鮮のような国を目指しているということもよくわかる。立場の強いものは、法は最低限度の道徳とばかりにザル法を守ればいいのだと胸を張り自分の好きな規範だけを選んで守ればよく、立場の弱いものは法律以上の自己犠牲を立場の強いもののために守らねばならない。

伝統や道徳の内容自体がアドホックでいかがわしい
 
 また、彼らが大好きな「伝統を守れ」というフレーズだが、実際何を伝統として、何を守るべきなのかについては明確な定義がない。
 まず、天皇は神の子孫などと主張しているが、そんなものが真実でないことは明らかだ。嘘をついて、また俺の爺さんはお前の爺さんより偉かったから、俺も偉い、そして偉いから上げ膳据え膳のいい暮らしが末代まで続くのは当然だ、ということが、そもそも道徳の名に値し、しかも守るべき権利に類するものだろうか。
 そして、伝統を守れと他人には課しながら、自身に課すことがあるだろうか。昔は病気になったら坊さんでも呼んで加持祈祷でもするか、煎じた薬草でも飲んでいたのだろうが、天皇の執刀医などという人さえ現るように、伝統療法はあっさりと捨てられ、なぜか皇族も最新技術の医療の恩恵を受けている。先代天皇は下々の血を輸血さえした。食事にしても伝統的な和食などを食べ続けずに、フォアグラでもキャビアでもうまいものがあれば伝統料理などさっさと投げ捨てるのだろう。
 また、生活保護でよくやり玉にあげられる、i-phoneなどのスマートフォンやパソコンはどうだろうか。皇族はよもや使っていまいな。使っているとしたら日本書紀や古事記にはリンゴ印の携帯情報端末を使っていた記してあるとでもいうのだろうか。彼らの伝統とは結局のところ、自分たちの都合に応じて不便なところや命や健康にかかわるようなことはさっさとその伝統を捨て、ただの自分たちの利益のための既得権のことを伝統と言っているにすぎないのではないか。伝統とはこのようにいい暮らしができるという単に都合が良くて調子がいいものだろうか。

道徳教育の目指すもの
 教育勅語は、より自分勝手な人間が悪用しやすいのに、善く扱いづらいという致命的な脆弱性を持つものである。以前、日本の巡視艇と交戦した北朝鮮不審船の乗組員が最期は自決した。彼らが、親孝行でなかったら、家族思いでなかったら、友人を見捨てるような人間だったら、さっさと北朝鮮に残したそれらの人々を捨てて、あっさり降伏したことは想像に難くない。北朝鮮に残したそうした人々との絆があればこそ、そうした北朝鮮に残した肉親は人質となるし、工作員はその道徳の、絆の重みの前に、あえて”美しい潔さ”とやらに進んで殉じる他はない。かつての日本人が、潔く進んで自決したのもまた、そういったことではなかったか。戦後、アメリカがやってきた後に、いわゆる押しつけ憲法下で、それをしなくてよくなって、多くの日本人が好き好んで死んだだろうか。それで得をしたのは誰だろうか、それで損をしたのは誰だろうか。

 

日本版喜び組の創設
 愛国心とやらが大好きな連中が錬金術で国庫から掠めた金のごく一部を玉串料とやらで靖国神社に奉納してくれさえすれば、犠牲者となった自分の御霊が癒され、そのために喜んで死ねるという世界観が本当にいいものだろうか。伊達眼・網タイツとそんなSMプレイを楽しみたいM連中は、教育勅語を支持をして、喜んで死んだらいい。別に憲法を変える必要も、国民に広く教育勅語を勧める必要もない。

 そういった絆にからめとられて死んだ連中も、定義上喜んで死んだことになるのだとしたら、それは、北朝鮮喜び組の日本版だろう。喜び組に喜んでなりたい人は、現行憲法下でも進んで喜び組になれるが、あえて進んでなろうという人間は聞いたことがない。ということは、他人に、その”喜び”を教え諭し、あてがってくれるというものでしかない。支配者のいう喜びを知らない愚か者にいろいろと喜びをあてがってくれるのが教育勅語ではないか。

おわりに
 確かに、今日の平均的日本人は、喜び組の喜びを知らない。だが、本当にそんな喜びを知りたいだろうか、伊達眼網タイツとSM史観の世界を楽しみたいのだろうか。 教育勅語のよさとは果たしてなんであろうか。よさとは、一部の人間にとっての都合の”よさ”なのか、多くの人間にとっての善さなのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

天皇生前退位が憲法改正の道を拓く

はじめに
 平成天皇がビデオ会見で生前退位の意思をほのめかした。しかも、国民のためになるのだと恩まで売ってくださった。ありがとうと感謝をすべきなのだろうか。現行憲法では、明らかに想定外の事態である。直接的な要求はしなかったが、ほのめかすだけでも十分な政治的効果があるだろう。同時に、天皇がどれくらい憲法を大切にしているのかが明らかとなった。つまり、憲法とは、せいぜい天皇制の利益を超えない範囲の大切さなのだ。あくまでも憲法よりも天皇制が大切だというわけだ。擁護義務はあっても罰則規定がないのだから、憲法もそして国民もバカにされたものだ。
 意思を表した以上、それに反するにしても、沿うにしても、いずれにしても天皇の考え方を全く抜きにはできない。それは、有力者が、明確に命令せず要求せずとも気持ちをほのめかすだけで、その影響下にある者は十分に忖度せざるを得ないのと同様のことである。例えば、ヤクザの頭目が「こんなやつと同じ天の下に生きていることに我慢がならない」という心情を吐露するだけでも、部下はそれを忖度して行動を起こすだろう。直接的な表現で、殺せとあえて命令する必要など全くないのに似ている。もしくは、疑問と反語の表現が同じであることを利用して、強く質問をしたり、聞き直したりするだけでも、影響力を行使することができるだろう。後で問題が起きたら、質問しただけだとでも言い逃れればいい。こんなことは極めて簡単なことである。極めて重大な前例を作ってしまった。これは、一天皇の退位に留まる問題ではない。今後もこういったことに煩わされることになるだろう。

憲法改正
 さて、天皇が生前に退位するようになると、天皇の権威が下がると言って復古主義の守旧派には痛手だ、という向きもあるが、どうだろうか。安倍首相は、これを奇貨として、憲法改正を早めるのではないか。天皇を元首と定め、天皇の憲法擁護義務を外し、天皇が”自由に”発言したり意思を表明したりできるようにするとともに、不敬罪を入れる形で言論を制限をするのではないか。もちろん、これらは天皇の生前退位を可能とする条文を憲法に盛り込むこととセットにして国民に信を問う形にするのだ。こうすることで、反対するものに対しては、虚弱な一老人の願いを聞き入れない反人権と訴えるのもいいし、至尊の存在に対する朝敵逆族とでも批判してもいい。これらを巧みに使うことで、容易に憲法改正を実現できる。
 現行憲法は、天皇を憲法という枠内にとどめるという意味で、良い意味でも悪い意味でも大きな価値があったが、今回、天皇が自らその枠組を破って見せた。この結果はどうなるだろうか?

天皇の深謀遠慮

 やはり、天皇は自分の意思は明らかに示したのに、表現としては明確に示さないという形で責任を逃れた。一番上手なやり方だ。ちょうど先代の天皇が前の大戦の開戦前に、和歌を効果的に使って、戦争で勝っても負けても、自らの責任を回避できるように布石を打ったことに似ている。いずれにしても、この最終的な責任をつけまわされるのは国民であることだけは確かだろう。この事実の重みがわかるものがどれだけいるのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。
 ”自由に”…とは政権の都合に沿うように…という意味

竹田恒泰氏、舛添都知事を猛批判「公金を個人の快楽に使う癖があった人。この病気は治らない」

 竹田恒泰氏がまた、面白いことを書いている。

 竹田恒泰氏、舛添都知事を猛批判「公金を個人の快楽に使う癖があった人。この病気は治らない」

 舛添さんも舛添さんだとしても、個人の努力でも選挙で選ばれたわけでもないのに、究極の既得権として、ただ単に生まれたところがやんごとないといった、それだけの理由で、公金で、ただ飯を食うに飽き足らず、贅沢をする天皇や元皇族ってなんなのだろうか?そして、いろんな元皇族という人が、政府周りの財団や特殊法人にいて、いい給料を取っていないだろうか。
 紀宮さんの皇籍離脱のとき、結婚一時金1億5千250万円が支給されたそうだが、これだけの資金が普通の生活に必要欠くべからざる経費だとでもいうのだろうか?
 さて「公金を個人の快楽に使う癖があった人。この病気は治らない」というのは、いったい誰を指すのだろう?このような究極の公務員の既得権はなんだろうか。
 わたしはふしぎでたまらない

産経がまた、香ばしい

 産経新聞社がまた香ばしい。いつもながら、楽しませてもらってます。ありがとう。
 さて、産経氏によると…
 礼をするのが当たり前ならば、公の場で天皇陛下を「天皇」と呼ばないことも当たり前ではないか。呼び捨てにする感覚は、少なくとも私にはない。志位氏が「厳格な順守」を訴える憲法の第1条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。天皇陛下を尊重しない姿勢は国民をないがしろにすることにつながり、憲法の精神にもとる。このことからしても志位氏の言うところの「当たり前」を共有できない。
「天皇」と呼び捨てで開会式に出席する共産党 「人間として当たり前」って… 産経新聞 1月16日(土)10時20分配信
 などと、共産党の志位氏を批判するのだが…その論拠が面白い。
 憲法第1条には、「天皇は…」とあって、「天皇陛下は…」とはない。もともと「陛下」と書いていないのだから、その第1条を根拠に、その精神にもとると志位氏を批判をするのは、どういうことなのだろうか。憲法と同じ表現を使って話すだけならば、少なくとも憲法の精神から見て不敬ではないだろう。憲法の通りに言ったら、憲法の精神に反するとは、どういう論法か。志位氏に限らず、少しでも考える力をもっている人間ならば面食らう論法だろう。産経氏は執筆者も掲載を許した上司も、その不思議に気が付かなかったのだろうか。それとも産経氏の読者は、どうせその程度の知性の持ち主だから、それでいいと発表したのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

 さて、天皇に限らず、この手の権威に笠に着る論法で、呼称や表面的な儀礼などによって、その敬意を推し量るなどという連中は後を絶たない。くだらん敬礼をさせていた、ソ連にしろ中国にしろ北朝鮮にしろそうだろう。そして昔の日本が何よりそうだった。こういう連中は、天皇への敬意などと語りながら、なんと天皇を語るのに軽々しいのだろうか。他人には天皇に敬愛せよと語りながら、自身が天皇を語るのに荘重な気分、厳粛な気持ちにはならないのだろうか。
 昔の日本軍の軍人・官僚が、「天皇のために」と軽々しく口走っていたのと同様ではないか。いったん天皇から兵士を預かったのならば、ジャングルで餓死させても、南洋でサメの餌にしようとも、かまわなかったという事実と比べて、どう考えればいいのだろうか。これが天皇のためだというならば、天皇はこういったことを望む鬼畜だとでも言うのか。それこそまさに、なんたる不敬何たる不忠ではないか。獅子身中の虫とはこういう連中をいう言葉だろう。

 天皇への忠誠を誓うなら、新聞社であれば真摯な取材をしてよく学びよく書く努力をすべきであろう。その結果としての言論ではなかろうか。根本的に論理が破たんしていることに気が付かないのだろうか。
 
 天皇制が存在することの最たる問題は、まさに産経氏のような存在が跋扈する危険そのものだ。天皇に真に敬意を抱く人が天皇への敬意を語り自身に課すのならともかく、そういった信念も覚悟もなく、軽々しく天皇のためにと他を掣肘する手段とする。こういう連中にとって、天皇とは他人にとっては目的とすべきものだが、自分にとっては他人を御するための便利な手段 という実に都合のいい存在である。天皇のために死ねと言う連中は多々いるが、天皇のために自ら死ぬという連中は少ない。天皇は利用価値の高い道具に過ぎない。天皇のためと称して嬉々として他人に犠牲を強いるが、自分のために天皇を利用する。
 現行憲法下では、天皇のために他人に死を強いることはできないが、自らに課することはできる。遠慮はいらない隗より始めよで産経は天皇のために死力を尽くしてはどうだろう。

 もちろん、そこまで産経氏は愚かではあるまい。読み手がその論理の破たんに気が付かないからこそ、10分くらいで書いた記事なのだろう。まさに愛国ポルノであろう。 
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