セクシーポエマー信じろー ~わたしはふしぎでたまらない~

時事・政治・教育のネタを中心に、婚活のネタ も交え 書いていきます。 独自の視点で切り込めたら…いいな、と思っています。

NHK

NHKから国民を守る党は”自由の息子達”か?

はじめに
 NHKから国民を守る党(N国)の議席獲得がポピュリズムだと、テレビ出演者や学者連中はネガキャンに躍起になっているようだ。もちろん、テレビ出演者や出演できる可能性のある学者連中は、NHKの肩を持ったほうが得だから当然だ。NHKのネット進出が本格化したら民放の地方局が危うくなり、民営化したら民放に競合するといわれるから、そのときには民放にも火の粉が降りかかってくる。そうなれば、NHKは必要だと言っているテレビ既得権者が事実上のオーナーである維新にも注目だ(笑)。

政見放送
 N国は、政見放送(下)を見る限りでは、冒頭の不倫路上カーセ○〇〇連呼を除けば、意外にまともだ(笑)。彼らは、NHKをスクランブル放送化し、受信料を払った人だけが見られるようにしろと、今どきの日本では珍しい主張をした。今日の日本なら、共産風に言えば受信料は大企業と富裕層が払え、維新流に言えば公務員の給料カットで払え、自民風に言えば受信料は国債で…ってところだろうが、なんと、受益者負担を徹底しようと言っているのだ。

ポピュリズムの宴
 だいたい先の参議院選の公約は、揃いもそろって、子どもの保育園代をまけろ、給食費をただにシロ、高校大学無料、減税と福祉の拡充、などなど…とにかく、自分の子供のための金を出し惜しみたい親のためなど、自分以外の誰かに金を払わせ、自分はただ乗りするのは正義、それで胸を張ろうというものばかりだった…。「働いたら負け」を地でいき、他人に払わせろと言わんばかりのこんなものたちはポピュリズムに違いないと思うが、どうだろうか。先の参議院選挙を見る限り、日本にポピュリズム政党以外あるのだろうか。あるならばぜひ教えていただきたい。なぜN国の議席獲得を指して、ポピュリズムなのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。


NHKは自由と民主主義の脅威
 さて、下記の「NHKの受信料制度は強制徴収だけが問題なのではない」は参考になる。
 金のために人や組織が動く性質があるから民放は…といいながら、国会の多数党が作る内閣(権力)をNHKがチェックできないし、与党に多額の献金をする企業もNHKがチェックできないことをNHKの主張する論理の根拠に基づいて論理的にまとめている。NHKも民放同様に、弱いものを情緒で操作する一方で、金のために強いものに媚びるか、強いものがやっていることを放置するかしかないのが現実だ。むしろ、強いものに取り入る危険性さえはらむNHKである。

 NHKの受信料制度は強制徴収だけが問題なのではない

 災害報道はNHKが売りにするところだが、災害にしても地震にしても、ゲリラ豪雨にしても、アラートがプッシュ通知でスマホ入る時代であり、速報性でも局地的正確性でもNHKの報道は陳腐化している。こんな陳腐なものがNHKの売りでしかない事実を権力者は見逃さない。科学技術の進歩により以前にも増してNHKの存在の正当性を主張することは社会的により困難になっているから、NHKを維持する政治的コストは相当に高くつくとみて間違いがない。権力者にしては、陳腐化したNHKが勝手に忖度をし続けるように仕向けるだろう。だから、NHKは、まさに金(自分らの高い給料)を守るために、自由と民主主義を売り渡すことになるのだ。
 そうなるまえに、自由と民主主義の脅威であるNHKの廃絶しかないが、どうだろうか。続きを読む

年金不足問題 NHK(つもり)年金

はじめに
 金融庁の金融審議会の報告書「高齢社会における資産形成・管理」によると、想定される家計では、毎月5万5千円の赤字で、一生涯で2000万円不足するとされて炎上した。
 だが、本当に貯められないものなのだろうか。年金の存在とは別に、自分の人生は自分で守るのが基本だと筆者は考えるから、NHK(つもり)積立を提唱したい。

NHK(つもり)積立
 いますぐテレビを捨ててNHKを解約するか、NHKを廃止もしくは民営化、スクランブル化を目指してはどうだろうか。もちろん、NHK民放を問わず、テレビ局や政治家やテレビ出演者は大反対するだろうが、多くの人はNHKよりも自分の生活が大切だ。

月々の受信料を70年、年利1%で、積み立てたと仮定すると…

〇衛星契約 月額2280円 積立のとき
NHK衛星70年キャプチャ - コピー



〇地上波のみ契約 月額1310円 積立のとき
NHK70年地上波のみキャプチャ - コピー - コピー

 いずれも、月々1000円~2000円程度でも積もり積もれば、車を買ったり、大学生の初年度納付金を賄えたりするほどの驚くべき大きな金額でバカにならない。2000万円貯蓄を目指すなら、まず、隗より始めよで、日々の固定費の無駄遣いから見直すことがいいだろう。特に今の若い人は、テレビを大して見ない人が多いのだし、長い時間を味方にできるから真剣に考えたほうがいい。さらには、コンビニでついつい習慣的に買ってしまうコーヒーにスイーツ、ペットボトル飲料や、タバコなどを節約して、それらを合わせたら全人生ではとても大きな金額を節約し積み立てることができる。

 もちろん、民放NHKを問わず、教養と称して雑学を垂れ流し、情緒操作してくるテレビに煩わされないメリットは大きいし、不思議なことにテレビがないと時間がゆっくり流れる気がすることも見逃せない。もし、テレビ断ちをしたければ、まず見たいテレビをすべて録画して、あとから見ることにしたらいい。実際にやってみると、「見逃したらどうしよう、何か不利益があるのではないか」という漠然とした不安な気持ちがあっただけで、たいていの番組は、わざわざ見るほどのものでもなく、録画しただけで見る必要がなかったことに気が付くのではないか。そうするとテレビを見る時間がもったいなく感じ、必要なくなってくる。

 老後不安におびえるくらいなら、生活の質を高めて、お金も貯められるNHK(つもり)積立いかがだろうか。わざわざNHK貴族に情報も気持ちも弄ばれて受信料奴隷として一生を送る必要はない。
お金は足りないとどうにもならないが、余る分にはどうにでもなる。
 
*上記のシミュレーションは 下記 楽天証券サイトを利用して計算した
積立かんたんシミュレーション

「終戦記念番組の映し出すマスコミの幼児性」に担がれる幼児性

 アゴラの池田信夫氏が「終戦記念番組の映し出すマスコミの幼児性」と称して論じている…
終戦記念番組の映し出すマスコミの幼児性
このようなタブーのおかげで「戦争で誰に責任があったのか」あるいは「戦争を防ぐにはどういう軍備が必要なのか」という企画が通らず、「戦争は悲惨だ」というお涙ちょうだいの番組しかできない。潮さんが見ていて恥ずかしくなるNHKの幼稚な番組は、戦後73年たっても大人になれない日本のマスコミの姿なのだ。
 筆者はNHKの番組を見ることがあっても、NHKのことは(悪質で狡猾だとは思うが)全然恥ずかしいとは思わない。
 筆者が不思議でたまらないのは、NHKが作る番組が幼稚であることと、NHKが幼稚であることを混同しているのではないかということだ。例えば、保育園や幼稚園の先生が子供相手にお遊戯をしてやったり童謡を歌ってやったりしたら幼児性があるとみなすのだろうか?また、喃語を発しだした子供に喃語で返す親は幼稚だとでもいうのだろうか。と考えれば自明だろう。もしこの違いが分からないのならば、潮氏や池田氏が、それこそ幼稚?なのかなぁと正直思う。
 それとも、よもや池田氏は、NHKや朝日新聞を含む、マスコミのスタッフ諸氏が自分の立場もわきまえず、損得を越えてあらゆる摩擦や自己犠牲を引き受ける、国の未来を憂うるまっとうな国士であることを期待しているのだろうか。それこそ、幼児的な期待、幼児性の発露なのではないか。せいぜい彼らは、いい給料を楽に稼ぐことの方が、事実や深い教養や緻密な取材に基づく報道よりも、損得から見てより価値が高いと考えることができる、ごくごくふつうの人たちだろうと考えるのが大人の見方ではないか。
 もちろん、そんな期待をするほど両氏は愚かではないだろう。となると、恐らく、マスゴミはバカだとか思って悦に浸っている、自称意識高い系や自称リアリスト向けの受け狙いの記事ということだろうか。
 はたして、どれほどの御仁が担がれたのだろうか。そう考えると、なかなか興味深い記事である。(内容の検討については、また後日)

NHK廃絶を

はじめに
 ネガティブオプションという悪徳商法がある。
 ネガティブオプション(送付け商法)によると…
 頼んでもいない商品が一方的に送られてくる。ネガティブオプション(送り付け商法)とは、商品の購入の申込みをしていないのに一方的に商品を送り付け、送りつけられた人がその商品を購入しない旨の通知や返品をしないと、購入の意思があると決めつけて代金の請求をする販売方法です。
 寄付と勘違いさせて商品を買わせる手口もあります。
NHKと比べてどうだろうか。

NHKほど利益追求に熱心なものは見たことがない。
 筆者がまだ学生で、ぼろアパート住まいだったとき、NHKの拡販員はテレビを持っていない筆者に対し、ドアホンを押しまくったりドアを叩きまくったり、男の拡販員は(2階端の部屋でドアからは離れ階段とは逆側の廊下で通り道にはないところに置いてある)洗濯機を蹴ったり、女の拡販員は嫌味を言いまくったり、と散々してくれた。怪しげな訪問販売や宗教もきていたし、アサヒの拡販員だってしつこく泣き落としはしてもそこまではしなかった。また、ドアホンを連打する佐川急便でさえそこまでしなかった。テレビを持っていないものに対しても恐怖や不安を与え執拗に契約を迫る”押し売り”同然の行為を営利追及と言わずに何と呼ぶべきか。NHK的には筆者はとんでもない公敵で何をやっても良いということなのだろう。容易かつ安価にスクランブル放送できるから簡単に簡単に受益者負担にできるが、そうすれば、受信料収入が今のように得られないという不都合な真実への確信は誰よりも強いだろう。この押し売りが怖くて不安だからこそ、契約をしている人は多いのではないだろうか。
 
NHK問題の根本
 放送法の矛盾は法律的な問題以上に、技術進歩こそがNHKが公共的な存在だという理由を失わせ陳腐化させるのだ。もはや天気予報もニュースも、ネットで必要なときに必要な場所の、知りたい細かい情報が手に入れられるし、災害報道も民放もネットも必要にして十分ある。国会中継だってネットのストリーミングでやればいい。紅白歌合戦を見て民主主義の何たるかを知るとか、大河ドラマや連ドラを見て人権意識を深めたとか、そういうことがない以上、技術的に正当性がなく、法律一本で強引に不合理を支えているような相手であればあるほど、政治業者にしてみれば、手なずけやすいし利用しやすい。NHKが政権に忖度をしてオルタナティブファクトやフェイクニュースの類を垂れ流すのは、NHK職員が悪者だからでも安倍の犬だからでもでなく、有働アナの脇汗やら土下座やらを見て喜ぶ視聴者のような平均給与413万円(*14年度速報値)の”相対的貧困”者※と同じようにはなりたくないからだろう。
 ※NHK職員(1143万円*14年度速報値)と比べると、過半の国民は平均給与413万円で対NHK比”相対的”貧困者…
 *受信料収入でNHK職員の「好待遇」全調査

 NHKホームページ「受信料制度 受信料について」によると、
公共放送NHKは、“いつでも、 どこでも、誰にでも、確かな情報や豊かな文化を分け隔てなく伝える”ことを基本的な 役割として担っています。そして、その運営財源が受信料です。 税金でも広告収入でも なく、みなさまに公平に負担していただく受信料だからこそ、特定の利益や意向に左右 されることなく、公共放送の役割を果たしていけると考えています。
だそうだ。NHK職員が、国民一般に比べた”相対的富裕”者であるのは特定の利益や意向ではなく公益なのだとさぞ言いたげだ。NHK職員の平均給与が1143万円でも特定の利益や意向ではなく公益らしい。相対的貧困者として、NHKに取り上げられた”うららさん”一家をNHK比相対的貧困な国民に救えと報道したNHKの平均給与が1143万円なのだから、”うららさん”一家はNHKの平均給与の4分の1以下で暮らしていることになる。NHKは”相対的”に貧困な大多数の日本人から受信料を取り立てるが、当然、”うららさん”一家からも受信料をとっているのだろうか。NHK比で半分の給与しかない”相対的”貧困な大多数の日本国民に、相対的貧困なうららさん一家を救えと宣うNHKに、わたしはふしぎでたまらないし、それにもまして有働アナの脇汗やら土下座やらを見て親近感を感じて喜ぶノー天気な視聴者とやらにもふしぎでたまらない。
 みなさまのNHKは、みなさまのためにいい暮らしをするのであって、決して私的な利益のためではないと自負を持っているだろう。国民皆様の公平な負担でNHK職員の国民との不公平な暮らしをしているわけではないと断言するだろう。このような論理はどこかで聞いたような気がする。そう天皇が毎日鯛を食べるというアレだ。(「天皇 毎日 鯛」 で検索)不公平な待遇を公平に支えさせていただく”視聴者””相対的”貧困な国民はさぞ光栄なことだろう。

放送法は矛盾した法律
 さて、民主主義の基が知る権利で、その知る権利を担保するのが放送法だという話もNHKが好きな理屈だがどうだろうか。報道に干渉しない政府と干渉する政府があるとき二つの例を考えたい。NHKに干渉しない政府のとき、NHKは自由に放送するかもしれないが、そもそも干渉しない政府は干渉する必要さえないように、より公正で誠実な権力の行使に努めるだろうから、国民の知る権利を保障するためにNHKがあえて存在する必要性は小さいだろう。
 他方で、NHKに干渉する政府のときは、NHKはその政府に忖度をして都合のいい報道をするか、あえてその政府に都合の悪い報道を控えるだろう。政府がよいときには必要性が薄く、悪いときにはそれを増幅する存在がNHKであるならば、NHKはかえって危険な存在ではないか。

語るに落ちる嘘・NHK
 NHKのいう、受信料によって視聴者のための公平公正な報道を行えるという原理の大本にある「お金を受け取る人が、お金を払う人のためになるように働く」のが成り立つならば、強盗強姦殺人という犯罪では、被害者の方こそが強盗され強姦され、そして殺されることを望んでいることになるし、振り込め詐欺などでも、被害に遭う老人は望んで被害にあっていることになる。
 そして、北朝鮮のように国民を飢えさせてもミサイル核開発をする国の国民は、国が軍事にお金を優先することで自らが餓死することを望んでいるし、江戸幕府に代表されるような武家政権は、農民のために善政を敷いていたとでもいうのだろう。もちろん、貧窮問答歌などは、NHK的にはSMプレイの古典的名著なのだろう。
 もちろん、これらこそはNHKとその受益者がこぞって強弁するような理屈の正体だ。実際には、これらは成り立たないのだから、NHKは大ウソつきであって、これこそNHKが真実公正な報道などしないという裏付けなのだ。
 実際には、NHKに限らず、お金を受け取る側には、お金欲しさに、お金を払うか払わないかを左右する力を持っている人のために働くインセンティブを持つのである。カーディーラーに行ったとき、家具売り場に行ったときのことを考えればわかりやすい。妻に金を出さされるだけの夫なら店員からはあまり相手にされない。どれを買うか、あるいは買わないかの判断を妻がするならば、店員は、購入の決定権をもつ妻にターゲットを絞ってその意向に沿うようにする。
 つまり、受信料制度では、金を出さされる夫に相当する国民だが、国民に金を出させることを決める妻に相当する権力者の言うことを聞くことになる。つまり、受信料制度こそNHKが真実公正の報道をしづらいことの証明であるし、NHKが嘘つきであることの証拠でもある。

スポンサーの意向に左右される?
 また、放送法の背景にある精神構造ならば、民放では、コンビニがスポンサーの天気予報は「今日は予想より暖かい予報です。」などと嘘を言って、薄着で外出させることで寒がらせ、おでんの売上アップを図るなどという妄想をするのだろう。こんなことはその日は通用しても、しばらくすれば、その天気予報があてにならないことは多くの人に感じられ、今日は、他の情報ソースはたくさんあるから他に代わられるだけだろう。そして、遅かれ早かれネットなどでそのことを告発する元従業員の声などが駆け巡るだろう。
 そもそも、スポンサーの圧力によって、なぜ情報が捻じ曲げられるかといえば、それはスポンサーが降板をちらつかせたり降板したりしてしまうために放送局が不利益を被り、ひいては従業員である自分の不利益が予想されるから、予め職員には、スポンサーに遠慮したり自主規制したりするインセンティブが働くからである。これが危険だと考えるならば、同様にNHKが「受信料制度をどうするか」「NHK職員の待遇をどうするか」を左右できる政府や政治家に対して脆弱であることは同じ理由から自明に説明される。NHK支持者は”民放は…”と言うが”NHK”も立派に職員の待遇を左右できる存在に影響される存在である。
 こう考えると、放送が左右されるのは、放送局の職員にとって不利益があるか利益になるのかといった問題であって、権力に阿ねざるを得ないのは、スポンサーがある民営放送だからとかNHKだからという放送の運営財源が何かという問題ではないことがわかる。NHK職員にも民放の職員にも共通して利益を求め不利益を避けるというインセンティブが自明に働く以上、放送の運営財源がスポンサーによる宣伝によるのか受信料によるのかは放送姿勢とは関係がない。
 放送法の精神では、災害報道にしても災害報道はほとんどせず、芸能人のくだらないバラエティ番組を垂れ流すと想像するのだろうが、実際はどうだっただろうか。民放は、ぽぽぽぽーんの宣伝を挿入して大々的に常時災害報道を続けたではないか。天気予報にしても、台風の予測進路のネットに出るし、日本気象協会のサイトもある。このような技術進歩は進むことはあっても後退することはない。だから、NHKが法人や組織として公的な存在だということは事実として維持しようがなく、NHKの職員一人一人に働くインセンティブの問題として、好むと好まざるとをかかわらず、既得権を守るために、政権に阿るのは当たり前であり、流行りの”忖度”をするのは自明である。だからこそ、NHKはその存在自体が民主主義の脅威であると言っていいのではないだろうか。

NHKを有識者や政治家がイシューにしない理由
 社会にはかっこいいことを言っている自称改革派の有識者という人々がいるが、それらの人々は、NHKの解体や民営化をそもそも本気でイシューにしないだろう。なぜなら、NHKはキャスティングすることで批判そのものを買い取ることができ、NHKや民放からのギャラ>受信料支払い総額であれば、NHK批判はしないほうが経済合理性があるからだし、反NHKでNHKにキャスティングしてもらえなければNHKからギャラをもらえないし、民放に出してもらっているならば、民放にも呼んでもらえなくなるからである。また、民放に出演する人々も同様である。NHKが民営化されると、NHKもCMを行うようになりCM供給枠が増えて企業の限られた広告宣伝費を奪い合うことになる分、民放の収入が減り民放の社員の給料や出演者のギャラが下がることは自明だからである。であれば、当然、民放の社員にしてもそのようなことを主張する人間を出演させることには慎重になるだろうからである。ただでさえネットに広告宣伝費を奪われ困っている放送各社の実情を考えれば、よくわかる。そして、ネットにNHKが広く進出することになれば、NHKよりもひどい番組が多い民放の、しかも地方局には淘汰の圧力さえかかる。このように考えれば、NHKを民営化したり分割したりすることに対していかに大きな既得権があるかわかるだろう。

おわりに
 ここまでは、理念型の話をしてきた。さて、実際に、これまでのNHKは受信料で特定の利益や意向に左右されないと建前論を展開してきたが、実際に民放とは異なって、権力を厳格にチェックする番組を実際に作ってきたのだろうか?民放では放送できないとされる企業の不正などを潜入取材をして、企業名を公表してしっかりとチェックしてきただろうか。NHKが公的な存在だということは、他人には執拗に適用するが、NHK職員には適用しないのだろうか。中立や不偏不党などと言えば聞こえがいいが、中立といって傍観しているだけならば、強い主体と弱い主体があるときは、結局弱いものが常に負ける世界を放置することに他ならないのではないか。

 さて、筆者は民主主義とは、自己決定権のことであると考える。必要ものや不要なものは自分で決めることである。一人一人の草の根に基盤があって、分散的な意思決定と情報発信にあると考えている。どうだろうか。NHKの実態を見てどう思うだろうか。有働アナの脇汗や土下座で喜んでいる輩は何を考えているのであろうか。親近感という操作された印象と、実際の親近との違いをどう考えるのだろうか。
 感覚を理性でチェックできる人々は、NHKの廃絶と、一人一人がNHKに一生涯で払い続ける何十万円という直接的損失とともに民主主義の未来について考えてみてはどうだろうか。

”合憲”最高裁判所判決 NHK”自爆報道”

はじめに
 最高裁判所は、放送法や受信料契約・徴収は合憲としたが、
 [主文] 本件各上告を棄却する。各上告費用は各上告人の負担とする。

と、NHKを含む双方に敗訴を言い渡した。この件でとても興味深いのは、
「受信料の仕組みは、憲法の保障する表現の自由のもとで国民の知る権利を充たすために採用された制度で、その目的にかなう合理的なものと解釈され、立法の裁量の範囲内にある」

 との最高裁の合憲判断の根拠を、NHKがよりにもよって判決当日早々と覆した事実の重みだ。
 なぜなら、NHKは、件の最高裁判決をありのままに伝えず、放送法や受信料契約・徴収は合憲と声高に叫ぶ一方で、NHKが上告して敗訴した主張(受信契約はNHKが契約書を一方的に送り付けた後自動的に成立するというNHKの主張が退けられ、裁判によって1軒ずつ確定させなくてはならない)についてはあえて報道しなかったそうだからだ。あくまでも、NHKが上告してまでも欲しがったのは、未契約者に対する”契約強要”に使う材料”である”送り付け自動契約”であって、”合憲判断”ではなかったはずだからだ。そして、裁判によって1軒ずつ契約を確定しなくてはならないという判決の重みを知らせないために、あえて隠して報道しなかったことはNHKに働くインセンティブから容易に想像がつくからだ。
 よもや、NHKに都合のよいことは放送するが、都合の悪いことは放送しないということが、民主主義国家における、国民の知る権利を担保するものだろうか。知る権利とはNHKにとって都合のいい事実を知る権利で、NHKにとって不利な事実は知らなくていいという権利ではないはずだが、NHKにとってはそういうことらしい。この事実をもって、最高裁判所のいう民主主義のための知る権利を担保するという放送法の精神がNHKには全く存在しないことが、NHKによって判決当日に裏書きされたといっていい。
 さて、その日のうちに破られるような公共放送の意義などと大仰な合憲判断をした最高裁判所は本当のバカなのか、それとも、こんなNHKのようなものをもってして民主主義や知る権利と言えるほど日本国や日本国民とはその程度のものだと裁判所は嘲弄したかったのだろうか。ちょうど、朝鮮民主主義人民共和国を名乗る”民主主義”国家の国民が、朝鮮中央テレビの太った年配女性キャスターに、その”民主主義”や首領様の偉大さを教わらざるを得ないように。

おわりに
 NHKの作為的な報道の意義は、かえってNHKの公共性に重大な疑義をNHKが自ら証明したことと、それを是正させる機会をネットに与えたことだ。このことは、公共とは何か、民主主義とは何か、知る権利とは何か、ということを大いに考えさせる問題提起になったはずだ。公共や民主主義がなんたるかは、法律で決めたり、とある主体が我こそは民主主義だと自称したりしてどうなるものではないという事実を厳然と示した。放送法で決めさえすれば自明にして民主主義に資する団体になると判断する連中は、朝鮮民主主義人民共和国のように自称すれば、自ずと民主主義的な国だと映るのだろう。「「である」ことと「する」こと」を読んだことがあるが、ちょうどそんなことを思いだした。
 今後、NHK関連裁判に対して、裁判所がこの”NHK式知る権利”が日本の民主主義のためになるというなら、厚顔とはこのことを言うのだろう。
 これからのNHKの動きに注目であるが、敗訴した以上、政治家や官僚に働きかけて、高給放送たるその既得権を守るしかないと開き直ってなりふり構わなくなるだろう。(そのときには、きっと橋下・維新がNHKを守る盾となるだろうと筆者は予想するがどうだろうか。(笑)
 ミナサマの公平な負担とはNHKの既得権者のいい暮らしを公平に負担できる光栄(喜び組日本)を指す言葉なのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

バリバラ「笑いは地球を救う」NHK底なしの差別意識2

 昨年(2016年)、NHKのバリバラが「笑いは地球を救う」と題して日テレ系列の24時間テレビ「愛は地球を救う」を揶揄する放送を行いました。そのことに関してコメントを寄せてくださった、ゲオさんコメントありがとうございます。また考えさせられました。長くなってしまったので、本編に書かせていただきます。

バリバラ「笑いは地球を救う」NHK底なしの差別意識1はこちら

はじめに
 バリバラへの違和感は、バリアフリーと言いながら障害者は健常者と対等な存在でありうるとみなしていないNHKの作り手の無意識の差別意識、障害者を下に見る意識にこそあるのだと思います。

 24時間テレビの視聴者は、一時、感動するために見ている人、またどんな作り物かと冷やかしで見ている人が少なくないのは事実かもしれません。作り手である24時間テレビの脚本家はおそらく健常者であって、そうした視聴者の期待に応え視聴率をとるべく脚本を練り、それに沿って健常者であるアイドルや障害者・病人が出て毎年同じようにより期待に沿うように演じようとしているでしょう。テレビである以上、当然作りものでお話でしかないでしょう。それを、NHKはポルノだ、障害者への侮辱だと誘導したいようなのですが、健常者の脚本家が書いた脚本にのっとって、困難を持ちうるあるいはなにがしか努力する健常者が演じるものであっても、それは”健常者ポルノだ”、”健常者への侮辱だと”なるのでしょうか。健常者をポルノのオカズに使ってはいけないとなるのでしょうか。
 例えば、スポーツ選手ものにしろ英雄伝記ものにしろ、立志伝などにしろ皆同じ感動狙いの演出ありきでしょう。そのときに、出演しているスポーツ選手なり英雄なり有名人なりはポルノのオカズとして侮辱されているのでしょうか。健常者のスポーツ選手では、高校球児でさえもインタビューで「プレイで感動を与える」などとシラフで言います。そのときに、なにか感動を与える側、感動を生産する側は程度の低い侮辱されたり卑下したりしているのでしょうか。
 障害者であろうと、健常者であろうと、テレビというものの中では、与えられた役回りを、社会の一部として一部でしかないコマとして、社会の期待に沿って演じているだけです。”障害ポルノで侮辱”だと断じる障害者女性の引用が出てきましたが、障害者モノであろうとなかろうと、テレビ番組では単に、健常者であっても障害者であっても、それは変わりません。それでもとりたてて障害者を侮辱していると言えるでしょうか。
 少なくとも24時間テレビについていえば、障害者は強制連行されて出演しているわけではないし、陳腐化しきった予め予想できそうな脚本に沿った編集による感動話が毎年繰り返されるのです。健常者の感動狙いの演出ありきの話題の扱われ方一般と比較して考えれば、自ずと”障害者云々”が問題ではないように思います。障害者も健常者と同じように出演者であり作り手の一部でしかないのです。
 もちろん、だからと言って障害者差別の番組がないわけではありません。私もNHKの人が持っている問題意識と同様に、仮に、本人の意思とは全く関係なく出演させ、事実とはいいがたい演出を図るというような番組があるのならば、それは糾弾されるべきだし視聴者は気をつけるべきだと思います。そうした点で下記のNHKの番組は大変興味深いです。
 

おわりに
 では、なぜNHKは24時間テレビのただの演出を、障害者への侮辱としてしまったのでしょうか…。それは、実際にはNHKの作り手の中にこそ、健常者に比べて障害者を低く見ている先入観が奥深く根強くあるからこそ、健常者でもごく当たり前に行われているはずの同様の演出でさえも、”何か操作されたり””乗せられたり”するしかないように見える障害者”=被害者と映ってしまったのが実際のところだと思います。つまり、障害者を低く見ているからこそ、障害者の差別だとか侮辱だとかという話に短絡してしまったのではないでしょうか。

 もちろん、根本的にテレビの演出体質自体を揶揄したり批判したりすることは可能です。ですが、その批判をしたいのならば、当然、事件や事故の被害者を聖人かのように演出してお涙頂戴を狙う殺人ポルノや事故ポルノ、病気や故障からの復活を誇張するスポーツポルノなどの多数のポルノ番組を擁するNHKは当然断罪されるべきです。つまりバリバラ的定義によると、NHKはまさにポルノ放送局なのだから18禁であって、それこそ会員制にしてスクランブルすべきではないでしょうか。

 公共放送ならぬ高給放送NHKのように視聴せずともカネ払えという押し売りビジネスではないのですから、24時間テレビなど見なければ、別に日テレに時間やお金を取られるわけではありません。(電波オークションではないので国民の機会損失はありますがそれは日テレもNHKも同じこと)24時間テレビはもっと気楽に放置でいいと思います。

 余談ですが、アダルトビデオに出演している女性はもちろん本意でない人もいるでしょうが、本当に搾取されている女性だけなのでしょうか?もし誇り高くポルノに従事する女性がいるのであれば、それこそポルノに従事する女性への侮辱です。

続 NHK的相対的貧困 うららさん問題

はじめに
 plumさん。コメントありがとうございます。
 自分の中でも、また大いに考えさせられました。私は、相対的貧困の問題に対して、対策が必要か否かの判断という姿勢なり考え方なりとは別に、うららさんのケースを相対的貧困の代表として扱ったことがそもそも誤解のもとだと考えています。うららさんは、せいぜい「相対的貧困のせいで進学できないと自分で思っていて、それを訴えている相対的貧困者の一人」として扱うことがより事実に近いと思います。
 もし、相対的貧困の悲劇として報道で訴えるとするならば、相対的貧困状態だと生活を固めるためのお金と趣味的な楽しみの消費は両立できないから、生活を固めるためにすべてのお金を使ってほかには何の余裕もなく頑張っている人を取り上げるべきだったと思います。例えば、母子家庭の高校生で通信添削はできるけれども、お休みは生活費の足しにバイトをしているが、せめて高校3年の夏期講習には行かせてやりたい。でもバイトのせいでいけない。お金があったらバイトも辞めさせ、行かせてやりたかったのにと嘆く母とか…家族旅行は中学生の時に1度行ったきりでその時の写真を大切に持っているとか、母親も本人も服は何年も買っていないとか…それで本人は地元の国公立大学なら辛うじて通えるからそこを目指していて、将来は堅実な仕事につきたい…というような例だったら、同情が多く集まったかもしれません。そういったケースならば、気の毒だから、服くらいは少しは買わせてやりたいとか、高校生なりの青春をほんの少しは楽しませてやりたいとか、家族旅行にもう少し行かせてやってもいいんじゃないかとか、そういった共感や同情の広がる余地もあったと思います。うららさんやNHKに懐疑的な人が多かったのは、必ずしも、相対的貧困の人が生活の中に潤いを持つのは贅沢でけしからんと思っているからでも、相対的貧困救済に対して世論が厳しかったわけでもないと思います。

NHKの放送事故(二種類の相対的貧困者)
 報道の切り口として、事実として金がなくて堅実な消費と刹那的な消費を両立できないということが相対的貧困の定義だということはおそらく多くの人々が理解したと思います。そして、相対的貧困の人の中には二種類あって、堅実な消費に注力して楽しみの消費をあきらめざるを得ない生活をしている人と、うららさん家族のように堅実な消費を疎かにして刹那的な消費を優先するあまり堅実な消費に回すお金が無くなり困っている人があり得るということも想像できると思います。
 ただ、その二者を規範的に分析すると、きっと、前者には共感や同情を寄せられる余地が大きいと思いますが、うららさんタイプの後者には懐疑的な人々が多くならざるを得ないと思います。だからこそ、うららさんタイプの相対的貧困者が困っていることが、きっと相対的貧困の困り感の本質とはちょっと論点が違うんじゃないかと感じる人が多かったのだと思います。仮に、うららさん家族に十分な金銭的補助を与え、アニメ専門学校に行ってもらったとしても、卒業してワーキングプアになることは目に見えていると多くの人は思ったことでしょう。つまり、相対的貧困を助けるべきだという人の中にも、自助で何とかしようとしている人に対して助けるべきで、うららさんのような人々を助けることはできないんじゃないか、何か違うんじゃないかという人が相当いたと思います。
 これは、plumさんがあげていらっしゃるようなパチンコと生活保護の関連の話が貧困対策を悩ましくしていることと同じだと思います。友人の小学校教員によると、お金がない家庭ほど自他の物を粗末に扱ったり、提出物や時間などにルーズだったりする傾向が強いのだそうです。この話は目から鱗でした。このことはマクロ的には、きっと、所得の低い人ほど、博打にのめりこんだり喫煙率が高かったり、健康に良い野菜などよりもスナック菓子や清涼飲料水やアルコールなどの消費を好んだりするという実証研究があるということとも関連があるのでしょう。普通ならば、貧しいほどに物を無くしたら大変なのだから物を大切にすると思うし、お金は大切にし、限られたお金を有効にするために生活は堅実に質実剛健にすると思うのですが、現実は真逆なようで、相関的にですが、所得の低い人ほど、刹那的に生きるし、お金や時間の使い方や生活に計画性がないようなのです。

おわりに(堅実な相対的貧困者が露出しにくいのは?)
 思慮があって単に今お金がないという貧乏なだけの人ならば、独立不羈の気持ちを持っていたり、他人に頼るのは何か恥ずかしいと思ったり、現実的なプランで貧困脱出を図れる見通しが立つからテレビなどに出る時間も労力ももったいないし、変に露出することは生きていく上でプラスになることはない、また社会が変わり始めてもそれが自分の人生の岐路には間に合わないだろうとごく普通に判断するでしょう。また、そんな人は実際に堅実で現実的なキャリアプランを取って警官や教員になったり看護師になったりするために頑張って自助で貧困脱出できるため、おそらくテレビには出てこないのだと思います。この相対的貧困問題の社会的な解決が難しいのは、自力救済で貧乏脱出できないような人々は、うららさんのような人が多くなりがちになってしまって、人々の同情が寄せられにくい特性があるからだと思います。ここら辺のことは、友人の教員の話とルポライターの鈴木大介さんが書いているような貧困者像が大いに参考になりました。
 とりとめもなく長々と書いてしまいました。plumさんコメントありがとうございました。

バリバラ「笑いは地球を救う」NHK底なしの差別意識

はじめに
 NHKのバリバラが「笑いは地球を救う」と題して日テレ系列の24時間テレビ「愛は地球を救う」を揶揄する放送を行い反響が大きくなっている。それらの反響のほぼすべては、感動ポルノとして24時間テレビを斬り捨て、障害者のことを、あたかも利用され搾取されるだけの一方的な弱者とみなしている。だが、本当のところはどうだろうか?

障害者の思考力・構想力・行動力
 さて、24時間テレビはどうして陳腐に感じられるのだろうか。アイドルと障害者のスポーツやダンス、病人ドラマ、徳光の号泣など信じられないほどに陳腐化していると考えられるのは、毎年の放送から同じ作り方であって話のオチはまったく同じだと感じられるからだろう。こうした毎年の一つ一つの事象から一般的な傾向を探り、記憶しておいて比較したり、未来を予想したりする力は、果たして健常者だけのものだろうか。もし、仮に障害者も健常者と同じであり、障害者にも同等の思考力があるとみなすならば、24時間テレビに出演する障害者は感動のために利用されていると言えるのだろうか?24時間テレビに出演するということは、予めどういった編集がされるのか分かり切っているのではないだろうか。本当に障害者には、過去から未来を見通す力はないのだろうか。24時間テレビは1回きりの番組ではなく毎年繰り返されているものである。
 さて、障害者は拉致されてきて強制出演させられているのではないとしたら、もし、24時間テレビが問題だとするならば、それは障害者への搾取ではなく、障害者も共犯者ではないだろうか。

乙武サンの栄光と挫折
 バリバラを見て溜飲を下げてしまったような連中は、
ついこの前に露見した、乙武サンの華麗な私生活のことをお忘れなのだろうか。乙武サンは「まじめで一途、さわやかで家族に忠実で、信頼に厚く誠実」という絵に描いたような感動ポルノにあえて自分をはめ込み、演じ切ることで、いっときの成功をおさめたのではなかったか。乙武サンはキャスターになり教壇に立って、自らの意志で義を説き範を垂れ、感動ポルノをなおいっそう深掘りし、ついには傲慢が綻びを生むように、自らその重みに足をすくわれることとなった。さらには、曲がり間違えば東京都知事か国会議員にさえなっていただろう。
 さて、乙武サンに感動し本を買ったような人やテレビ番組を見て感動してしまった人、はたまた道徳の授業で使って子どもを使嗾して作文まで書かせてしまった教員さえいるのだが、果たして彼らは、乙武サンを感動ポルノのおかずとして利用した強者なのだろうか?乙武サンは、彼らに消費された弱者なのであろうか?

乙武洋匡さんの生き方から学ぶ 「五体不満足」の授業

プロ障害者
 確かに、
「乙武です!首と手と足があります!!」というように、乙武クンがパーフェクト乙武だったらそもそも売り物になっただろうか。手も足もないからこそ「足なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのです。」とでも言って、手足がないことを個性として商売にしたのだろう。もし仮に、今後、小保方サンがSTAP細胞の技術で手と足を付けたゲルと言ったら、もちろん断るだろうが、IPS細胞の山中教授が同じことを言っても断るのではないだろうか。そこに、障害を生業とし、障害アイドル・ビジネス障害という地歩を固めようとするプロ障害者としての矜持や強かさを見出すのは一人筆者だけだろうか。このとき、障害者と健常者のどちらが、利用する・される立場であろうか?どちらがより優位な立場であろうか?はたまたお互い様なのだろうか。乙武サンは果たして搾取されていたのだろうか、健常者に利用されていたかわいそうな弱者なのだろうか。そこに障害者の無垢さや障害者が利用されている、搾取されている様子や悲壮感があるだろうか。

バリバラの差別意識
 バリバラは、感動ポルノを批判しながら、実際には、障害者の感動ポルノ批判の前提であったはずの、
障害者は無垢なもの、障害者は加害者にならない、障害者は弱者である、障害者は打算的機会的な思考や行動をしない、という差別的な障害者無垢思想の陥穽にずっぽりと落ちてやしないだろうか。
 もし障害者が健常者と変わらない思考や感情を持つとみなしているならば、人としての打算や損得も健常者と同様に障害者にも働くと考えていただろう。陳腐化した24時間テレビに出演する障害者に、プロ障害者としての乙武サンの強かな姿が少しでも重ならないのだろうか。決して24時間テレビは、どう編集されるのかわからない一回きりの番組ではない。何度も何年も同じように繰り返して撮影され編集され放送されている陳腐化しきった番組である。

打算×障害者=感動?
 確かに、知的障害者の中には記憶力や思考力の障害から、24時間テレビが毎年異なるまったく別の新鮮なものに感じられる人もいるだろう。だが、様々な障害を持ち個性も能力も一人一人いろいろな障害者が存在していると考えているならばどうだろうか。乙武サンのように弱みとみなされるものを強みに変えるクールな障害者はいないのだろうか?バリバラの番組内の調査によると、24時間テレビが嫌だと感じる障害者が多かったのは本当に偶然なのだろうか。
 こう考えると、出演している障害者は24時間テレビがどういうものかを知ったうえであえて出演しているのではないだろうか。障害者のそういった強かさやクールさをどうして認めようとしないのだろうか?つまりアリーナとしての24時間テレビであり、アクターとしての障害者とアイドルそして視聴者である。いずれもがそれぞれの利害関係を持ち込んで共存関係になっているのではないだろうか。日テレやアイドルは障害や病気をネタに集金して利益を上げ、障害者は寄付を募る、視聴者は視聴したり寄付したりしてそれを一服の清涼剤として服用する。というように…。
 こう考えてみると、ひょっとするとNHKは24時間テレビを揶揄することで、かえって日テレ以上に根深くそして抜きがたい障害者への無意識の差別意識を抱えていることを自ら明らかにしてしまったのではないだろうか。
 もちろん筆者は決して24時間テレビや日テレを擁護しているわけではない。ただNHKのバリバラは、24時間テレビをごたいそうに揶揄できるの?と言いたいだけである。どういった立場からやっているつもりなの?と聞きたいだけである。そして、バリバラに担がれて喜んでいる人たちは大丈夫なの?と聞きたいだけである。

NHK絶賛 奇跡の詩人:日木流奈『不倫(ヒト)が否定されないオトちゃんルール』

 いずれにしても、
筆者はどうせ障害者モノを見るなら、バリバラ的な定義によるところの2大感動ポルノスター:乙武サンと日木流奈サンの豪華共演を期待している。離婚して晴れて自由の身になった乙武サンと、捏造・虐待と物議を醸してNHK消された奇跡の詩人:日木流奈サンの復活祭として、バリバラで「不倫(ヒト)が否定されないオトちゃんルール~不倫は異文化交流~」をやってほしいと願っている。「まだだ、まだ終わらんよ」と乙武サンと日木流奈サンが、いけしゃあしゃあの逆襲する雄姿を筆者は見てみたい。

続編 バリバラ「笑いは地球を救う」NHK底なしの差別意識2

おわりに
 以上のことを、下記の画像をみて考えてほしい。


 さしずめ…NHK的には…児童(感動)ポルノと言ったところか…

※ポルノって 蔑んでいるようなニュアンスを感じるのだが…
 蔑むことは、ポルノ業界に対する別の差別ではないか?障害者相手で無ければいいのか?

NHK的相対的貧困 貧困ポルノを超えて

はじめに
 現役女子高生が貧困を訴える姿を特集した番組をNHKが放送した。ただ、登場した女子高生の「うららさん」を貧困と呼ぶには、あまりにも物がそろっていたり散財をしていたりして、数々の疑念が持たれている。そして、お約束の元東京都知事元妻が参戦してしまうなど、強力すぎる援軍の来援も、香ばしい状況をなおいっそうきな臭くさせている。それは、あたかもハトヤマユキヲが勝手連的に選挙区に投下されるかごとき様相で、その期待値はいやがうえにも高まらざるを得ない。もはやお祭り騒ぎの様相を呈しているといっても過言ではない。さらに、筆者としては強性大国の五体不満足や奇跡の詩人ヒキルナの来援も期待している。
 さて、うららさん本人が、身の回りに起こっていることに対して、貧困のせいだ、社会のせいだと思いこんでいるのは確かな事実かもしれない。だが、貧困の例として挙げられたものは、実際には貧困(相対的にも絶対的にも)だからどう…という話なのだろうか。
 わたしはふしぎでたまらない。

何が気に障るのか
 多くの人が感じた違和感というものを明らかにするとしたら、「大切なもの」や「大切なこと」と言ったときの真実味が大して感じられないということではないだろうか。別に、うららさん自体が貧困かどうかではなく、うららさんのとっている選好の順位付け、価値づけの問題としてである。うららさん自体の熱意の程度の順番の問題といってもいい。そのことは、彼女の消費生活の取捨選択に顕示的に表れている。
 おそらく、うららさん自体は、デザインの仕事がしたいのだろう。だが、それは日々消費するワンピースグッズを我慢することよりも大切ではないし、ワンピースの催しに参加してランチを消費することよりも大切ではない。もちろん、パソコンの勉強もしたいのだろうが、それよりもアニメグッズを買ったり映画を何度も見たりする方がよほど大切なのだろう。また、うららさんの家庭では、一度エアコンを買って(5万円程度?)10年くらい夏を涼しく過ごす(電気代ひと月4000円程度)ことよりも、エグザイルのコンサートが大切なのだろう。
 つまり、日々の刹那的な消費の方が、少なくとも自分の将来に備えることや生活の基本を堅実に固めることよりも大切だという厳然とした価値判断を示されながら、それを社会の負担で解決しろと言ったとしたら、いったい何なのだろうか?と多くの人が感じたのではないだろうか。
 例えば、「子どもが大切」とはだれもが言うだろう。だが、どの程度大切なのかということに説得力を持たせるにはそれなりの行動の裏付けがなくてはならないだろう。子どもを放置してパチンコをしている間に、子どもが誘拐されたり熱中症で死んだりしたらどうか、母子家庭で愛人と遊んでいるときに子どもが家に居場所を見つけられず、どこかで徘徊して事件に巻き込まれたらどうか、子どもが苦しがっているのに病院に連れて行かず放置して衰弱死してしまったらどうか、毎日の朝ごはんを用意してやらず子どもは学校でおなかをすかせているならどうか…などなど。大なり小なりいろいろあるだろう。さて、こんなときに「子どもは大切だ、宝物だ。」と言ったとき、どれだけの人が、そういった親のいう子どもは大切だという気持ちを信じることができようか。
 
貧困とは何ら関係のない話 ~キャリア・プラン~
 さて、デザインや漫画で生きていくというのは、小学生の将来の夢のような夢物語である、スポーツ選手になってとか、お花やさんになって、というレベルと希望として変わらない話ではないだろうか。確かにそれで飯を食っている人間もいるが、実際には”ひとつまみ”程度だろう。高校3年生で、本当に貧困でまじめに考えているならば、看護師になりたいとか、貧困の星ガテン系公務員である教員や警官になりたい、と地に足の着いたキャリアを目指すのが現実だろう。

クールじゃパンの一つのアニメ
 ”クールじゃパン(笑)”を地で行く世界は、被用者過労死系と使用者ウハウハ系がセットになっているのが一般的である。だから、就職や進学を考えるときには、その構図を知っておかねばならないだろう。デザインや漫画、アニメなどの世界は、合コンにめっぽう強い某広告代理店や作者著者に比べ、実際に作業をしているような人の待遇を知らなくてはならない。他にも、フランチャイザーが巧みな契約関係で実質的な労働者を名ばかり経営者として奴隷同然にこき使うことで成り立っているフランチャイジーの家族労働や、名を連ねるだけで好報酬の介護・社会福祉・医療系の法人理事一家に比べて、ポエムで被用者の献身ややりがいを訴えるばかりのオモテナシ介護などもある。クールじゃパン系の産業は、法の加護の埒外とも呼べる一方的な力関係と富の分配関係で成り立っているから、徹底的にクールなのはあくまでも使用者だろう。

デザインやアニメの仕事

 学校を出たら、実家の家業を継ぐことが決まっているから、学生のときくらい好きにしてもいいといわれて専門学校に行っている一般水準の家庭を除けば、よほどの不労所得があるわけでもないのに、人生設計として成り立たないキャリアプランであることは高校生特に3年生にでもなればわかっていなくてはならないだろう。つまり、貧困か一般家庭レベルかという話ではなくて、一部を除けば不労所得で暮らせる富豪かそれ以外かというような、ハイレベルの経済的境遇をうらやむような世界観が広がっている。つまり、うららさんに限っては、貧困によって進路選択の幅が狭まるといった問題ではないだろう。せいぜいテレビに映し出されていた姿は、富豪やNHK職員に比べれば”相対的”には貧困という程度の話だろう。アニメで食っていきたいというのは、アーティストになりたいとか小説家になりたいというような、経済的な壁があってもなくてもいっとき選択できたとしても遅かれ早かれ詰んでしまう成り立たないキャリアプランだろう。だから、そもそも多くの人の感覚から見れば、「相対的貧困が原因で進学先が選べるかどうか」という問題ではなく人生設計の面で中流であっても選びようのないプランであって、貧困問題とはひとまず関連が少ないと感じられたのではないか。

一般家庭の子弟程度には努力したら?という反発
 また、少しは勉強したらどうか、といわれかねない部屋はどうだろうか?自分が高校生のときの部屋と比べても、遊びの部屋にしか見えないと感じざるを得ない向きが多いのではないか。勉強してるの?なんのために高校行っているの?と言われかねないだろうか。暑くてたまらないが、こんなお部屋で楽しそうにイラストでも描いているうららさんと、クーラーは効いているが駿台の自習室で必死こいて青っ白くなっている高校生のどちらが幸せだろうか?貧困とは貧乏とはなんなのだろうか?こんなんなら”貧困”って結構幸せそうじゃんという声が聞こえそうだ。一般的な家庭の高校生のように勉強をするでもなく、努力をしているような形跡もなく、高校生としてどうなの、というような刹那的な消費にいそしむ姿からは、自身の努力によって”貧困”を抜け出そうという努力のかけらも感じられないのではないだろうか。受験勉強もせずに、催しに行き漫画を描いているならば、一般家庭の高校生よりもはるかに楽に見えてしまうのではないだろうか。

「あなたの当たり前は、私の当たり前ではない、という現実」
 クーラーなんて5万もあれば据え付け購入可能で、ひと月昼夜連続で動かしても電気代は4~5000円程度だろうか?その4~5000円の代わりに刹那的な消費を優先してしまうのは貧困家庭にあるあるの選択の拙さで、一般家庭の当たり前とはきっと違うのかもしれない。
 残念ながら、うららさんが切実に訴えれば訴えるほど、少なくともうららさんに限って言えば、社会では、本人の望み通り「その人の努力に見合ったもの」があてがわれているようにしか見えないのだが…というのがごくごく一般的な社会の人々の率直な感想かもしれないのだが、どうなのだろうか。

貧困ポルノとNHKの感覚 相対的な貧困 と相対的貧困
 このようにみると、ここでの問題は、NHKが相対的貧困と絶対的貧困を混同させるような「(絶対的)貧困ポルノ」仕立ての番組を作ってしまったために起こったのではないだろうか。ちゃんと、NHKが相対的貧困の説明として、うららさん家族はパソコンやエアコンを買うお金はもちろんあるが、これと日々の刹那的な消費と両立させるほどのお金はない。ただ、うららさん家族の価値判断としては、刹那的な消費にお金を回すことがより大切であって、その結果として、パソコンもエアコンもないのだ、と説明すれば、誤解はそもそも生まれなかったのではないだろうか。
 もちろんNHK職員の平均年収水準の半分未満の日本の家庭の並といわれる500~600万円クラスのごくありふれた家庭でも十分にNHK職員に比べれば明らかに相対的に貧困である。だから、意図的な悪意を持った誇張や演出ではなく善意の事故かもしれない。なぜなら、相対的貧困とは比較対象との比較であるのだから、比較対象が十分にお金持ちならば、お給料がいくらであっても貧困になり得るからだ。極端なことを言えばビルゲイツと比べれば、ビルゲイツを除くほぼ全人類が相対的に貧困水準だろうか。だからこそNHK制作スタッフは、うららさんを見て何らの違和感を感じなかったとしても不思議ではない。そしてこの意図的な誇張や演出によって作られたことよりも、うららさんが貧困なのだとごく自然に感じて番組を作ってしまったことの方がむしろ問題の根っこが大きいのではないか。なぜなら、悪意を持った演出によって作られたとしたら、それは一番組スタッフの問題であるが、ごく自然に善意で当たり前に感じてしまったとしたらそれはNHKの体質そのものの問題だからである。
 つまり、追及すべきは、番組の内容ではなく、むしろどうしてNHKがそういう感覚に至ってしまったのか、こんな放送事故を起こしてしまったのかという事実ではないだろうか。そして、その原因となった、ネガティブオプション同然に電波を一方的に送り付けて公共をアドホックに語る押し売り同然の商法を妥当とする特権体質そのものやNHK職員の浮世離れした待遇そのものだろう。本当に、皆さまのNHKなのだろうか、それともNHKのための皆さまなのだろうか。
 また、うららさんが浮き彫りにしたNHK問題は、NHK自身と国会が国民をNHK職員に比べた”相対的”貧困に置くことにあまりにも無自覚な貴族的特権感覚を持っているということではないか。国民はNHK職員に比べて”相対的”貧困であるのは当たり前で、NHK職員は国民に比べて”相対的”富裕であることが当たり前なのだろう。だからこそ、NHK比”相対的”貧困な国民に、相対的貧困のうららさんを救えと宣えるのだろう。

おわりに
 さて、大多数の人は、無尽蔵にお金を持っていないから、その持っている中で順位付けをしてより大切と感じるものから順番にモノやサービスを購入し、その優先順位の小さいものは我慢して買わないという取捨選択をごく普通にして暮らしている。ただNHK職員の場合そういった必要性が小さいのかもしれず、ベンツなどではなくフェラーリやポルシェ、ランボルギーニが買えないと悩んでいるのかもしれない。それであれば、うららさんのことを絶対的にも相対的にも貧困とごく当たり前に感じて、そんな貧困ポルノ番組を作っても何ら不思議はない。
 ただ、この番組の真の罪深さは、本当に相対的貧困や絶対的貧困で困りながらも、自分の人生設計を真摯に考え、節約をし将来に備えようと、ひたむきに努力をしている人々への逆風を吹かせたことではないだろうか。

 続 NHK的相対的貧困 うららさん問題

感動ポルノ批判への違和感

はじめに
 NHKの教育番組で、日テレ系列の「愛は地球を救うと謳う24時間テレビ」を揶揄するような番組が放送されたそうだ。ネットでは、いろいろな評論が飛び交い、多くがNHKが日テレを揶揄して痛快だという論調である。だが、揶揄されたのは、あくまでも日テレというテレビ局ではなく、見てホンモノだと思いこんでいるような視聴者のうちのごくわずかなだろう。まさか24時間テレビの制作スタッフが、難病患者や障害者がホンモノの聖人だと思って番組を作ってはいないだろう。

日テレ批判とAV(アダルトビデオ)批判
 それは、ちょうどアダルトビデオの作り手が、アダルトビデオがホンモノの性愛だと思っていないのと同様のことではないか。アダルトビデオでは、疑似的に恋愛のようなことをしたり、レイプまがいのことをして俳優同士が性的に絡んでいる姿が映し出される。時折、性犯罪を行って逮捕されたものが「ビデオのようなことをしたら女性が喜ぶと思っていた」などと言ったとして警察から発表されるが、どうだろうか。そんな誤解をする人が視聴者の中には極わずかにいるのかもしれないが、これをホンモノだと思う人は、制作スタッフの中にはまず、おるまい。

 だいたい、病人や障害者のことを本当におもんぱかって、彼らが純真で清純で聖人で神々しい存在であると考えているならば、どうして”シナリオ通り”の難病患者を正気で探し出せようか。冷静に考えれば、ドラマ受けする、制作スケジュール内にきれいに死んでくれる、ぴったりの、そんな患者を探し出そうとするだけで、そういった選別をかけて探し求めるだけで、良心の呵責に苛まれそうなのがふつうではないか。本当に聖人だと思うような相手、気の毒な境遇にあると思われる相手で末期にある人を軽々しくテレビ出演させられるだろうか。NHKに乗せられて、日テレを批判している連中は、何か勘違いしているのではないか。わたしはふしぎでたまらない。NHKが、AVに対して「それはホンモノではないよ、わかっているの?それはこうやって作っています。(見ている連中はどうにかしている。)」と、あえて訴える番組を作ったのだとしたらしらけるだろう。誰でもそんなことわかっていると…それと相似ではないのか。そうしたら、日テレを揶揄すること自体が、たいして意味のあることとも思えない。そもそも、日テレ系列の制作スタッフが、病人や障害者をかわいそうな存在だと誤解はしていないだろう。単に視聴率がとれ、金になるからそういった番組を作るだけではないだろうか。また視聴者だって天然記念物クラスのバカではない限り、それが作りものだとは分かっているのではないだろうか。

24時間テレビの本質
 24時間テレビとは、たいして金も労力も払わずに、茶の間でのんびりと”視聴に耐え”うる厳選された感情移入が可能な”きれいな”障害者や”きれいに”死んでくれる調製された病人が出演する番組だろう。だからこそ、安心してその瞬間だけ感情移入をして、障害者や病人の理解者や擁護者になったかのようなエクスタシーに震えることができる。そして、ほんのつかの間の”感動”や”幸せ””一体感”を”感じ”させてくれるそんなテレビ番組なのだろう。AVが体のマスターベーションだとしたら、24時間テレビはこころのマスターベーションだろうか。
 だからこそ、視聴者がシャワーを浴びる頃には、先ほど流した涙の跡や、込められた障害者への愛と熱い想いと正義感は、今日の汚れと一緒にさっぱりと排水溝に流れていき、そのあとは友達とラインでもして大笑いしたり他愛のない会話を楽しめるのだろう。そういった一服の清涼剤としての工夫を日テレは凝らしているのではないか。だからこそ毎年続けられるし、また視聴者は来年も安心してみてくれる。まさか、今日の汚れとともに後腐れなく排水溝に流れていかなかったら、明日起きても思い出してしまうようなものなら、あの障害者はいまどうしているだろうかとか、病人はどうなのだろうかと深刻に考えてしまうような重たいものならば、罪の意識にさいなまれて日常生活に障ってしまうのではないだろうか。

おわりに
 NHKの揶揄したことは、マスターベーションを楽しんでいる人に、あえて偽物ですよと伝える無粋なことではないだろうか。多くの人がAVが作りものだと知っていて、見て楽しんでいるように、きっと24時間テレビだってそれと同じものだろう。多くの人は24時間テレビが作りものだと知って楽しんでいるのではないか。それが果たして悪いことだろうか?現実に募金が集まり、車や福祉用品を寄贈するなどしているそうだ。それに何か問題があることだろうか。実際、出演している、障害者なり病人なりが嫌だと思って出演しているのだろうか。被害者はいるのだろうか。わたしはふしぎでたまらない。

貧困ポルノとNHK
 NHKは、公共放送をアドホックに主張する。だが、本当に障害者のためのバリアフリーなりユニバーサルデザインなりノーマライゼーションが大切だというならば、日常の中に、ダウン症の女性がキャスターが出てきても不思議ではないが、そんなことはあるだろうか。日本のどこの地域でたった3分程度のニュースだとしても、障害者がキャスターを務めたりするだろうか。と自ら考えてみてはどうだろうか。また、そう考えると、「貧困ポルノ」や「犯罪被害者(聖人扱い)ポルノ」を作って喜んでいるNHK?をどう考えたらよいのだろうか。
 わたしはふしぎでたまらない。
 

NHKのディレンマ 家計と生活の見直し

家計見直しのためのNHK
 一生でNHKにいったいいくら払うのか?粗く計算すると、20歳から80歳まで60年間支払うと…その総額は…

 月額約1300円×12か月×60年=936000円

 月々1000円程とは言っても、全部ではとても看過できない大変な額です。このお金で、軽自動車が1台買えます。このお金があれば、あきらめさせた子どもの習い事や教育費の充実ができるでしょう。自分の子どもにお金をかける代わりに、テレビに映るこぎれいな娘さん貢ぐほうがいいのだろうか。
 スーパーのチラシを見て、1円の安さを競ってスーパーをはしごしたとしても一生でこれだけのお金が浮くだろうか。NHKの情報番組で「家計お助け企画」など見るのは愚の骨頂だろう。
 テレビを持たなかったら、あなたはそのお金で何を買っただろうか。利子も含めば100万弱には十分になるだろう。

テレビ番組の情報量・失われる人生の時間
 また、テレビ番組の有益さ・情報量を一回実感してみるといいと思う。例えば、1時間程度の情報番組で実践しよう。チラシの裏紙でいいので、そこにテレビを見てわかったことを箇条書きで書いていこう。また時刻も一緒に書いていこう。終わってみたら、驚くほど少ない収穫に愕然とすることだろう。きっと、わかったことなどほんのわずかで、まとめの5分もあれば十分という内容ではないか。それ以外は、タレントなどの駄弁りや印象の操作や勿体付けた時間である。 

テレビは資源の無駄
  お金はまだ、稼げば何とかなるかもしれません。ですが、かけがえのない人生の時間は帰ってきません。1週間のうち手始めに1日だけでもテレビ断ちをしてみてはどうだろうか。テレビを見なかったら、ゆっくり時間が流れます。
 いかがだろうか。
 
最後に~お金と時間を節約しよう。
 ”代表なくして課税なし”は民主主義の原則である。スクランブル放送化は、まさに”投票”そのものではないのか。公平は不当の中にはない。NHKは民営化するか、少なくともスクランブル放送にして、国民の信を問うのが、”みなさま”のNHKだろう。それとも、判断など問えないほど、国民は愚かだと思うのだろうか。

NHKのディレンマ 災害報道のNHK

NHKのディレンマと陳腐化
 
NHKはその性質上、大きなディレンマを抱えている。また情報通信の技術革新によって、従来は高く評価された能力がすでに陳腐化している。

災害報道のNHK
 災害報道のNHKはいうものの、実際にはNHKだけが災害報道を行うのではなく、民放も行う。今後もそのようになるだろう。なぜなら、大災害のときにそれを差し置いてそうしたものを見たいという人も少ないだろうから、のんびりとドラマやバラエティー番組を流すような民放はないだろう。仮に、そうしたスポンサーがあるなら、そのスポンサーへの批判は相当強くなるだろう。現実に東北大震災でも阪神大震災でも民放は連日その様子を大きく報道した。

 NHKは繰り返して同じ情報を垂れ流したが、それももはや技術的に不要になった。スマートフォンの出現のおかげである。テレビのようなマス放送は、広域の情報を一斉送信することには長けているが、各避難所単位など個々の人に必要な小さな単位の情報を機動的に網羅するには報道の単位が大きすぎるからだ。もし、強行してそうした小さな単位の情報を順次送信すれば、冗長となって個々人は自分が必要でない多量の情報に付き合わされることになる。そしてその情報に付き合うためには多くのむだな時間が必要であるという以上に、スマートフォンの電池の持続時間という技術の壁にぶち当たる。つまりNHKの情報では、マス放送ができても電池の持続時間の問題から長時間の受信が難しく適さない。
 スマホであれば、掲示板のような小回りが利く文字情報を利用できるし、もし映像が必要であっても、いつでもどこでも情報を限定して視聴できるオンデマンドの方が望ましい。20年前ならいざ知らず、NHKは技術的に役割を終え陳腐化したと言っていい。

災害報道へのアクセスをディスインセンティブ
 さらにNHKの存在は、テレビを所有させないことによる情報アクセスの制限効果がある。つまり、正々堂々と受信料を払わない人は、NHK以外を見たいと思っても受信料を払わないというポリシーのために、テレビを持たないだろう。
 災害報道はNHKの方が民放よりも充実しているというが、こうした人については、民放の災害情報へのアクセスさえもNHKの受信料の存在が妨げているのと同様である。 そもそも災害情報は120点である必要があるだろうか。80点分わかればいいという人も多いだろう。民放は確かにNHK程冗長に災害放送を行わないが、逃げるべきかどうかなど必要にして十分な情報を提供しているのではないか。120点でなければ、一気に0点を強いるというのはいくら何でもやりすぎである。
 そうした人々の最低限の情報アクセスを阻害して、その身を危険に曝しているのではないか。たかだか一つの局の受信料を払わないからと言って、多くの他局が放送する情報へのアクセスを妨げるのは、極めて不当である。
 
災害報道の充実よりも災害への備え
 日本における社会の資源配分という面から見て、NHKに割くお金があれば、その分を災害対策などにまわしたほうがいいのではないか。NHKの年間受信料は6600億円(平成27年度)である。NHKを民営化するか廃止するかして、毎年、その分を基金として積み立てたらどうだろう。20年に一度大災害が起こるとしても、20年分で13兆2000億円になる。それを生活支援や復興に使う方がよほどいいのではないか。こういうお金を被災者に直接、給付したらどうだろうか。とても大きな助けになるのだと思うがどうだろう。しつこく報道されることによって寄せられる寄付金よりも、このお金ははるかに大きいがどうだろう。あなたはどう感じるだろうか?
 筆者は災害報道を見ることよりも復興や給付に使えるお金を直接給付されるほうがよほどいいと考える。つまり、災害報道に重きを置いた資源配分を行うことで被災者が救われづらいことが正確にわかるよりも、災害対策に資源配分を重くすることで正確にはわからないかもしれないが、より救われる蓋然性が高いほうを選びたい。豪華な災害報道というものの方が、一大事のときのリアルな生活のためのお金よりも大切だといえるのだろうか。高給取りのNHKのアナウンサーに優しい言葉をかけてもらい愛嬌を振りまいてもらって、癒され励まされる?ほうがいいという人はどの程度いるのだろうか?いったいどちらが大切なのだろうか。答えは自明だと思うがどうだろう。わたしはふしぎでたまらない。(つづく)

 
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NHKのディレンマ 報道のNHK

報道のNHK
 夜のNHKニュースの事件報道を見れば、いつからか、バラエティー化して、ワイドショー化していると感じて久しい。実家に帰ったときしか見られていないが、大阪・寝屋川で起きた平田奈津美さん・星野凌斗さんの殺害事件でもそうであったそうだ。
 もう20年ほど前だろうか、久しぶりに実家に帰ってNHKの夜のニュースを見たときの違和感は忘れられない。(自分ちにはテレビがないので…)
 当時も、学生か子どもの被害者が殺されるという事件報道だったが、死者の尊厳などみじんも感じられないあおるような内容だった。ワイドショーのように被害者の卒業文集を見せ、「明るくて誰からも愛される子」、「クラスのムードメーカー」、「スポーツがよくできる」…「親孝行」などなど…相当な聖人君子が亡くなったかのように報道する。きっと実像の等身大のその子ではないだろう。実像がその通りであったなら、そんな人であってはならないのだ、とあえて強調しているようだった。普通の子では不足で、強いていえば、普通の子では都合が悪いとでも言いたげな、誇張の数々だった。
 いつから、事件報道が民放のワイドショー化したのか。近所の人の声など適当に編集したもので印象を操作するのがニュースの姿か?こんなものなら、取材の必要もなかろう。被害者はその子・固有の子である必要がない、名前は警察発表で、あとは適当な聖人君子の公式フォーマットの架空の話で十分ではないか。

 世の中の義憤をあおるというか、期待に応えるというようなおかしな内容になってもいいのだろうか。そのような報道は、そうした義憤のための”おかず”としてしかその人を見ていない。ワイドショーのNHKである。
  また政治報道などは、政権の広告塔と化しているから、言うに及ばない。

NHKの自己矛盾・目標のトレードオフ
 そもそも多くの人が視聴したい高視聴率番組を作るならばNHKが公共放送である必要がない。その番組には十分なスポンサーが付くのだから民営放送で十分だろう。
 また、低視聴率だが有益な番組であれば、作る意味・放送する意義はあるのかもしれないが、一部の人の放送局になるだろうから、「”みなさまの”NHK」とはとても言えないだろう。公共性を追求し、国民を啓蒙するような番組を作れば多くの人は見ない。
 つまり、公共性や公益性を追うならば視聴者が離れ、視聴者を増やそうとするならば民放でもいいということになる。NHK自体、トレードオフの目標をもってディレンマに陥っている。

 NHKのニュース番組もこんな状況の中で、死者の尊厳や人の尊厳をないがしろにした破廉恥な番組を作るようになったのではないか。

NHKは 改憲擁護・促進に向かう!?

はじめに
 NHKの受信料義務化が自民党の「放送法の改正に関する小委員会」より投げかけられている。

NHK受信料、支払い義務化を提言 自民党の小委員会「公平な負担を徹底」

 この話題提起には、政権寄りの報道をNHKにいま以上にするインセンティブを与えようとする意図があると感じるのは私だけだろうか。
 現時点でも、国会における安倍首相の「ヤジ」を ”自席発言”と不可思議な造語を公然と作ってまで言い換え、擁護したり、野党に追及される安全保障法案の審議をあえて中継したりしないなど、既に相当程度、政権寄りである。だから、現状維持であれば、いまのところ、自民党はこれ以上圧力をかける必要がないだろう。

 であるならば、なぜこれを主張するのだろうか。ひょっとすると、いっそう自民党寄りにさせ憲法改正をにらんだ布石ではないかと感じるのは私だけではないだろう。この予想が正しければ、政権寄りの報道を行えば義務化する方向へ進み、政権批判を行えば民営化・廃止解体・待遇の引き下げをチラつかせるという具合に行われるだろう。

受信料義務化と言論統制
 ただ、義務化するだけでは、NHK自体への監視と批判の圧力が高まるから、NHKにとっても言論統制とセットとなることが当然、望ましいだろう。
 現在、NHKに批判的な人は、テレビを持っていても受信料を拒否するか、NHKに興味がない人・テレビを見ない人・テレビを所有しない人は受信料を払わないだろう。だからNHKに反対するインセンティブは小さい。
 だが将来、義務化するとどうなるだろうか。NHKに対して反対する・注文を付けるインセンティブは強まるし、さらに怖いのは、唯々諾々と受信料を払う人々よりも、こういう人が手ごわい批判者となるだろう。
 このように見るとNHKにとっては、義務化が必ずしも利益になるとは思えないだろう。望ましいのは、NHKの予算規模が大きくなるにともなって、実際の自分(職員)の給料や住居などが充実することだが、批判や監視の目が強まって、それらが削減されてしまえば、元も子もない。そうなるくらいならば、今のようにだましだましやっている方がはるかに得だ。今でも、NHKの職員の平均年収は1200万円程だそうだ、さらに各種の手当や住宅の補助、タクシー券などフリンジベネフィットの厚遇も目立つ。
 むしろ、政府寄りの報道を今以上にすれば、もっと高額にしてもらえるかもしれない。だから、NHKに対する批判を抑えるための言論統制を求めることがNHK職員にとって望ましいということになる。これは自民党政治への批判も統制したい自民党の利益と方向が一致する。あるいは、NHKがいっそう積極的に出て、憲法や政権批判の報道で自民党と結びつきながらも、一方で牽制しながらNHKの待遇の向上を取引によって引き出すことがあるかもしれない。
 いずれであっても、もはやNHKの存在自体が国民の言論の自由や民主主義の脅威と言っても過言ではないのではないか。NHKと自民党はそうやって共犯関係になるのではないか。NHKには、いまそういったインセンティブがいっそう高まっている。(つづく)

 
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高級軍人は アメリカよりも日本のほうが優秀だった

はじめに
 いわゆる太平洋戦争・大東亜戦争などの先の大戦では、高級軍人はアメリカの方が日本のそれよりも優秀だったという定説があるが、わたしはふしぎでたまらない。なぜ、そうなのかと…そもそも評価の基準に根本的な誤りがあるのではないか。と考えている。以下のように見たらどうだろうか…。きっと賢明な読者なら日本の高級軍人の卓越した優秀さ、衆人の及ばぬ優秀さがわかると思う。

「是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。(『孫子』)」
 
 成果を上げて昇進することは理想であることは言うまでもない。ただ、勝ち負けは相手との優劣もあれば、時の運も絡む。そして、成果を上げるためには不断の大きな努力も必要となる。ただこれでは、努力したからといって必ずしも成果が得られるわけではなく、実入りが悪い。これを避けて、楽に勝つ方法・楽に負けない方法はないかと考えるのが、より賢いものの考え方である。

 昔も今も、軍隊に限らず企業でも組織でも、客観的な成果を指標として働きが評価されるようになると、成果が不十分なときや失敗したときなどは、自身の責任が追及され、運命がその成否によって左右されてしまうことになる。もし、可能であれば、客観的な成果を指標とされることを避け失敗とされることを予め定義上排除することが望ましい。 

精神主義を広める狙い
 このように考えると、先の大戦で、日本軍が兵士が捕虜になることを厳しく禁止して自決を強要することは、非合理的な精神主義に基づくものではなく、合理的打算に基づく深謀遠慮だと気づく。そもそも主として、敗残兵や捕虜が出やすく帰還して来る蓋然性が増えるのは、作戦が裏目にでたときや敗北したときである。だから、そのときこそ作戦指導部や司令官への反省材料が出されやすく、批判がされやすい。下手をすればそれを理由に懲戒や降格、左遷の危険さえある。であるならば、予め、そもそも敗残兵や捕虜が帰還しないようにするか、万が一、帰還しても作戦のことを語る資格が失われているように工夫すればよい。

 その工夫の一つが、『戦陣訓』である。
「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。(『戦陣訓』「本訓 其の二」」「第八 名を惜しむ」より)。
 
 これは精神主義などではまったくない。正に、
「夫れ未だ戦わずして廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり。未だ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。」
 である。不敗の名将とは、単に戦に勝つものではなく、初めに負けない算段を周到にするものである。その算段が、戦闘に委ねるものであれば、不敗はおぼつかない。こうして、日本の国民や兵士の多くは、戦う前からすでに不利な状況下にあり、指導者は常に不敗の地位に立って有利であった。勝てば指導者に功績が帰するが、負ければその責任はより下級の兵士に重くのしかかる。

アメリカの高級軍人のほうが日本のそれよりも優秀というのは愚かな思い込み
 日本軍が戦闘に勝つか負けるかは、高級軍人にとって優先順位の低い目標であって、彼らのより上位の目的はあくまでも偉くなることや偉い地位に留まることである。このようにみると、日本の高級軍人は、アメリカのそれに比べて、戦果をあげ勝利するという職務遂行における忠実さからは、より自由な状況下にあり、その反面、日本の国家としての戦争遂行の成功はアメリカのそれに比べておぼつかないものだった。
 日本の高級軍人の政略は、アメリカ軍人のそれを遥かにしのぐものである。このように見れば、日本の高級軍人のほうがアメリカのそれよりも遥かに傑出して優秀であるといえることは言うまでもない。たかだか戦場での勝敗に己の進退を委ね、戦闘に勝つことに辟易しているアメリカ高級軍人と、戦う前から定義上負けを排し、成否にかかわらず負けない算段をして余裕をもって臨む日本の高級軍人とは比較にならないのである。日本の高級軍人が戦略や戦術に疎く、新しい研究もしないというように感じられるのは、こうした理由からである。そもそも政略における成果を、戦略で覆すことは難しく、戦術で補うことは無理なのであるから、既に政略で勝利を収めている以上、戦略や戦術を工夫する切迫性が全くないし、客観的な評価を持ち込んで成果を測定してしまえば、傑出したこれらの政略がぶち壊しになってしまう。

日本人なら同じ利益を追求しているはずだという思い込み
「勝を見ること衆人の知る所に過ぎざるは、善の善なる者に非ざるなり。戦い勝ちて天下善なりと曰うは、善の善なる者に非ざるなり。故に秋毫を挙ぐるは多力と為さず。日月を見るは明目と為さず。雷霆を聞くは聡耳と為さず。古えの所謂善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功も無し。故に其の戦い勝ちてたがわず。たがわざる者は、其の勝を措く所、已に敗るる者に勝てばなり。故に善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わざるなり。是の故に勝兵は必ず勝ちて、而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。」『孫子』
 
 日本の高級軍人は、勝利を収めるべき相手は敵(連合軍)であるに違いないという多くの凡庸な人間の思い込みを逆手に取った方法である。そもそも日本軍の高級軍人だからと言って、日本国の勝利を第一の目的にしていると、勝手に思い込んでいることこそ愚の骨頂である。
 NHKや朝日新聞に代表されるメディアは、このような事実を一切無視し、あたかも戦争指導者が能力不足だから、精神主義に走ったと、正反対の誤った解釈を広めている。しかし、今日のような平和な状況であってさえも、同じ日本人の間でさえ、保険金殺人は起きるし、そこまで行かずとも企業の中でも異なるさまざまな利害対立があること、ときにはそれが背反することさえあること、ライバルが失敗してくれると嬉しいと思うことさえあること、を考えれば、このようなことは自明に考えなくてはならないことである。死活の環境に置かれればなおさらである。この問題は、立場と利害の相違に基づくインセンティブの問題であって、個人的な知性の廉直さや人間性の高潔さ、情的な頑迷さの問題ではない。

おわりに
 しかも、戦後もこうした敗残兵や捕虜帰りは、そのスティグマに一生苦しむ一方で、高級軍人を賛美するような亡霊が跋扈する事態を助長している。確かに高級軍人の一部は、戦犯としてとらえられ日本にではなく連合国に処刑された。その無念さは計り知れない。あらかじめ不敗の布陣で臨み、国民の側の抑えは一億総ざんげなどと効いていて十分に逃げおおせるはずだったにもかかわらず、その政略が東京裁判などによって「(彼らにとっては)不当」にも打ち破られたのであるから。
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