■論・憲法~立憲主義を守るために 第6回

第6回  兵役について

自民党のQ&Aはさらに、他の多くの立憲国家においても、国防義務なんかが規定されているではないかと言っていますが、これも国民国家の成り立ちという沿革をお忘れですかという話です。

 そもそも、兵役というのは人権制限の最たるものですから、これを予定している国は憲法で規定しておかなければならないはずです。もし、兵役の規定がなく、憲法に「生命・自由・幸福追求の権利」なんかが規定されていたら、下位の規範である法律で徴兵制度をつくる、なんてことは憲法違反ということになりかねません。
そういう論理的なことだけではなく、ここでも歴史的沿革をひも解いてみましょう。

フランスの独立によって、「国民国家」が誕生した、というフレーズは世界史で学んだことはないでしょうか??高校の歴史の教科書でも、フランス革命の意義については国民国家の成立にあり、そののちの戦争は初めての国民戦争であったと書かれています。

どういうことかというと、それまでは、民族によって、あるいは宗教によって国が成り立っていました。しかし、ユダヤ人であれ、キリスト教徒であれ、フランスの領土にいる人びとは「フランス国民」だという考え方が出来上がったということです。

フランス革命では、ルイ16世やマリー・アントワネットまでギロチンにかけられたものですから、周囲の絶対王政の国々が震え上がったのも無理はありません。市民革命が波及してきたら、大変だということで、フランス包囲網を敷きました(対仏大同盟)。

近隣の国が侵攻してきたとき、ナポレオンは、「フランスに住む人間はすべてフランス国民である。フランス国民はキリスト教を信じようがイスラム教を信じようが、ユダヤ教を信じようが自由である。すべてのフランス国民として平等なのだ。どんな職業についても構わない。もはやユダヤ人ではないのだ。ユダヤ系フランス人として、フランス社会、フランス文化に同化してもらいたい。フランスを愛し、フランスを守るために兵役についてもらう。これまでのように王のために戦うのではない。自分の帰属する愛するフランスのために戦うのだ」という旨、訴えたそうです。

つまり、国民国家が成立すると、さまざまな人種・民族が一つの国に存在することになりますから、兵役についても、平等性ということが必要になります。ですので、兵役の義務についても、国民の側からしたら、平等性を勝ち取っていると評価できるのではないでしょうか?

このように見てくると、憲法で義務の規定が謳われていたとしても、国民の側からすると、何らかの得るものがあってはじめて義務が規定されていると考えることができます。

私はやはり、憲法99条の憲法尊重擁護義務の主体に「国民」が規定されていないのはそれなりの深い意味があると解釈するのが妥当だと思うのですが、自民党憲法改正草案102条1項は「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」としています。

Q&Aには、「憲法の制定権者である国民も憲法を尊重すべきことは当然であることから、……規定しました」とあります。がっかりです。




yamahana190yamahana190  at 15:13  |  この記事をクリップ! 立憲主義を守るために  

山花郁夫後援会第13回総会

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山花郁夫後援会第13回総会を開催し、多くの方にご参集いただきました。

来年早々の衆議院解散総選挙が囁かれ、緊張感ある日々を送っているところ、浪人中も変わらずお支えくださっている後援会の皆さまを前に気持ちが熱くなりました。

雨天の友とも言える後援会の皆さまと、必ず勝利の万歳をしてみせる、強い思いで精進してまいります。


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yamahana190yamahana190  at 22:00  |  この記事をクリップ! 

■論・憲法〜立憲主義を守るために 第5回

第5回 「納税の義務」について


自民党のQ&Aの説明は、憲法の規定の歴史的沿革を無視しているように思えてなりません。
たしかに、フランス人権宣言にも、納税の義務は規定されていました。しかし、その内容は、租税がすべての市民の間で能力に応じて平等に割り当てられるべきこと、租税については、市民が自身でまたはその代表者によりその必要性を確認する権利があることにアクセントが置かれていたのであって(フランス人権宣言13条・14条)、アンシャンレジーム(旧体制)の下での恣意的な重税に苦しんでいたフランス人民が、納税の義務を望んで規定したわけではありません。

日本国憲法30条も、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」としているのであって、法律の根拠なくして税負担は負わないのだ(租税法律主義の規定)、と読むべき条文です。
課税する権力者側に対しては、「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする」と、念押ししています(憲法84条)。

アメリカがイギリスから独立を勝ち取るときも、「代表なければ課税なし」、「法律なければ課税なし」を標語にしていたはずです。「課税」という言葉があるからといって、アメリカはイギリスに対して課税されることを望んでいた、と考える人はいないはずです。歴史の教科書に「アメリカはイギリスとの独立戦争に勝利し、課税されることを勝ち取った」と記述する歴史家がいたら、「この人はアメリカ独立戦争という事実をどのように解釈しているのだろう?」ということになるはずです。
憲法30条に「義務」という言葉が記述されているからと言って、肝心な部分を読み飛ばし、国民の義務に関する規定であると解釈するのはいかがなものでしょうか?

このように、憲法に「義務」と書かれている規定があったとして、単にそれを字面だけで拾い上げるべきではないのです。それぞれに、(子どもの)教育を受ける権利や、生存権、さらには租税法律主義を勝ち取ることとセットになっています。
そもそも、憲法の専門書などでは、「三大義務」みたいな議論はしないんですよね。受験のクイズみたいな教え方を学校でするから、勘違いの源になっているような気がしてなりません。

あらためて申し上げます。自民党憲法改正草案にあるような、家族に助け合いの義務を課したとして、何か国民の側で勝ち取れているものってあるんでしょうか?


yamahana190yamahana190  at 17:23  |  この記事をクリップ! 立憲主義を守るために  

■論・憲法〜立憲主義を守るために 第4回

第4回 立憲主義について

立憲主義の考え方からすれば、法律などのルールはいわば「権力者が国民を縛る」ものであるのに対して、憲法は「国民が権力者を縛る」ものということができるでしょう。

法律などのルールは、権力者側が国民に様々な制限をしたり、義務を課します。赤信号は渡ってはいけないとか、車を運転するには免許証が必要だとか。
これに対して、憲法は、国民の側が権力者の権力行使を制限したり、義務を課しているわけです。違憲の法律を作ってはいけないなど。

こういった視点から見ると、憲法99条はなかなか味わい深い条項です。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と書かれています。いわゆる憲法尊重擁護義の主体に国民は入っていません。
つまり、権力を行使する人々に対して、国民の側が憲法という縛りをかけている、ということが読み取れるのではないでしょうか?

自民党の憲法改正草案第24条1項後段は、「家族は、互いに助け合わなければならない。」という家族の助け合い義務を規定しています。「民法じゃないんだから!」と突っ込みを入れたくなるような規定でして、何で憲法にこんな国民を縛る規定を入れようというのでしょうか?
立憲主義の何たるかというか、民法(法律)と憲法の違いも分かっていないのではないかと……。
こういうことは法律の規定でしょ?

自民党は、「日本国憲法改正草案 Q&A」なるものを公表していて、そのなかで、「……現行憲法も、『教育を受けさせる義務』『勤労の義務』『納税の義務』が規定されており、国家・社会を成り立たせるために国民が一定の役割を果たすべき基本的事項については、国民の義務として規定されるべきであるとの考え方です……」と説明しています。

「そういえば憲法の三大義務とかって習ったなあ」って、勘違いしないでくださいね。

「教育を受けさせる義務」について
教育を受けさせる義務について、これを「国民の義務だ」としてあげることには、条文の脈絡を軽視しているような気がします。憲法26条は、次のような規定です。

第1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
第2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

この第2項の前段を指して、「教育を受けさせる義務」というのですが、どういう脈絡で出てくるのかが大事です。
憲法26条は、まず1項で国民の教育を受ける権利を規定しています。ただ、「国民の」といっても、実際の主体は、未成年者でしょう。

未成年者が「自分には憲法上の権利があるから学校に行かせろ!」と主張することもあまり現実的な話ではありませんから、第2項で、その権利を担保するため、「国民」つまり保護者は、「……その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」とし、さらに、そうはいっても家庭の資力の問題もあるし、親が学費を払えないからということで子供が学校にいけないのはよろしくないということで「義務教育は、これを無償とする。」としているわけです。

条文を全体をとおして素直に読めば、文字面は「国民の義務」かもしれませんが、「子どもの教育を受ける権利の確保」に重点がある条文だということがお分かりいただけるのではないでしょうか?
つまり、自民党のQ&Aの言うように、国家・社会を成り立たせるとかいう話ではなく、国民(子ども)の教育を受ける権利を担保するために、一義的には保護者が責任を負いなさいね、という構造です。

「勤労の義務」について
勤労の義務についてはどうでしょうか?
憲法27条第1項は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と規定しています。この勤労の義務は、いろいろな意味で、珍しい規定です。

よく、日本国憲法はマッカーサー草案が土台となっているとか、GHQの作品だといわれることがあります。
確かに、ベースにはマッカーサー草案があることは間違いないのですが、この勤労の義務は、次に取り上げる納税の義務とともに、衆議院において修正されて加えられたものですから、まさに純日本製の条文です。

日本国憲法によって、生存権(25条)が保障されるようになりました。このことによって、生活保護法などが定められるようになったわけですが、「その利用しうる資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用する」ことを怠る者は、「勤労の義務」を果たしていないのだから、国は、その者に対しては生存権を保障する責任はない(生活保護法4条1項)。つまり、生存権の保障の前提として、勤労の義務があるということになります。
言い換えれば、勤労の義務とあわせて、生存権が獲得されたと考えることができるのではないでしょうか。



yamahana190yamahana190  at 13:04  |  この記事をクリップ! 立憲主義を守るために  

■論・憲法〜立憲主義を守るために 第3回

第3回 憲法は最高法規だということ


 ところで、憲法とはどのような性質を持つルールなのでしょうか。憲法98条1項には、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と規定されています。憲法は「最高法規」なのです。

 もし、人を罰する法律がつくられたとしても、その法律が憲法に違反する、ということになれば、「その効力を有しない」ことになります。立法権を規定しているとして先に紹介した憲法41条には、「国会は、国権の最高機関であって……」とも書かれています。
憲法は、「国権の最高機関」が制定したルール=法律ですら効力を失わせることができる力を持っているのです。

 法律ですら無効とされるのですから、内閣が定める命令や、条文には出てきませんが、地方自治体が定める条例なども憲法に反することができないのは当然です。でも、民主主義のルールに従って定められたはずの規範をも無効とする力を持っているのでしょうか?
 このことは、「憲法」というものがどのような形で歴史的に登場したかを理解すると、分かりやすいと思います。

 憲法の世紀と言われる18世紀。1776年、アメリカのヴァージニア憲法、1791年、フランス憲法(この憲法は、1789年8月に採択されたフランス人権宣言を冒頭に置いている)など、各国で憲法がつくられていきます。
アメリカの場合はイギリスからの独立ですが、ヨーロッパの場合には、専制君主を打ち破り、市民国家を誕生させた際に「憲法」が採択されていきました。

 専制君主の時代には、法律のようなものがあったとしても、恣意的に適用されたり、あるいは今でいうところの法律の根拠に基づかない政治が当然でした。
 権力も明確に分割されていませんでしたので、自ら法を作り、それを執行し、裁判も行えるとしたら、まさに絶対権力というにふさわしいということになるでしょう。
 もちろん、逆に、すべての権力を手にしているわけですから、いい政治を行おう、裁判も寛容に、という君主がいれば人々は「名君」としてあがめたでしょう。

 余談ですが日本でも、大岡越前守は名奉行として数々の逸話を残しています(もっとも、左甚五郎伝説のように、どこまでホントか分からないそうですが……)。
 「大岡裁き」はスカッとしますが、見方を変えれば、自分でお触れを出し(立法)、町役人などにもそれを徹底させ(行政)、自分で裁いている(司法)のですから、権力構造は専制君主とのちがいはありません。
 でも、なぜこれほどまでに多くの人を引き付け、ほんとかどうかわからないような逸話がたくさん残っているのかと言えば、そんなお奉行様はめったにいなくって、庶民の願望がつくった偶像だからなのではないでしょうか。

 めったにいない人を常に待ち望むわけにはいきません。専制君主の時代から学んだことは、権力を集中させると危険だということです。そして、権力は必ず過ちを犯すということでした。だから、1791年のフランス憲法は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されていないすべての社会は、憲法(Constitution)を持つものでない」と高らかに謳い上げたのです。

 専制君主が持っていた権力を分立させ、立法権と司法権は行政権とは別の機関が担うこととする。そして、相互に抑制と均衡を図るということは、ロックやモンテスキューの思想なども背景となっています。

 そして、権力の分立ができても、権力は過ちを犯すことがある、だから、それぞれの権力は、人民が制定した「憲法」の枠組みの中でのみその権力行使ができるのだ、というのが当時の立憲主義の考え方です。
 憲法の枠組みの中でしか、「国権の最高機関」である国会も、立法を行うことができないのですから、憲法違反の内容の法律を作ってしまったら、たとえ民主主義のプロセスに合致していたとしても、無効とされることになるわけです。


yamahana190yamahana190  at 16:43  |  この記事をクリップ! 活動日誌 | 立憲主義を守るために