日本の桜草と美術

桜草の栽培と美術鑑賞

2008年08月

桜草栽培史21ー家康と桜草

 江戸での桜草栽培の始まりを徳川家康に仮託する話は、誰が言い出したのか気にな

るところであった。

 最も早く言及しているのは、柴山政愛が『都新聞(大正15年3月22日)』に載せた記事

のようである。

 曰く“家康公が浮間ヶ原に鷹狩に出かけて桜草を見、大層喜んだので、旗本の人々

がこれを栽培してお目にかけたら定めしお喜びになるであろうといふやうなことでま

ず旗本の間にその栽培が流行しました
”とある。

 この人は話を作るのが上手なようで、桜草界の大立者として、こんなことを言え

ば、みなが本当と思ってしまう。以後たいがいの人がこの話を引用することになる。

 いずれにしろ、桜草と鷹狩とは関係はないはずであるが。    (山原茂)

泉屋博古館ー厳島神社の刀剣

 近世以前の武士にとって、刀にかける思いは篤い。それは単に戦いの道具としての武器で

あるのみならず、美しいものであり、財宝でもあった。それゆえに良いものほど使われるこ

とはなく、名刀として蔵され、今日に残されている。美術品のなかに占める割合は大変に高

い。

 先に京博で、八坂神社に奉納された刀剣類が展示されたことがあったが、著名な神社に武

運長久を祈って寄進することがよく行われた。そのなかでも代表的なのが厳島神社のもので

ある。それが京都へやって来た。

   特別展『厳島神社の刀剣』

       ー神に捧げた工芸の美ー

 私も何となく刃物に魅かれるところがあり、小刀を買ったりしたことがあった。しかし私

には刀剣の見所がよく判らない。説明が書かれていても、刀剣に関するパンフレットがあっ

ても…。それは鋼鉄の表面の微妙な肌合いや刃文が、ガラス越しや、美術館の照明では、ま

ことに分りづらい。それでもその研ぎすまされて、怪しく光る鉄は、何となくなまめいてい

る。

 出展された40振のうち、私の目についたものを挙げてみる。

 国宝 足利尊氏寄進「友成作 短刀」…拵は螺鈿の入った梨地で、平安の遺風をいまに残

     している。 

 重文「金銅蓬莱舞鶴兵庫鎖太刀」…太刀のつり下げ紐の代わりに鎖が使われている。柄に鮫

     皮が使われている。

 「太刀 銘末行」…拵の鞘に、鮫皮に黒漆をかけて研ぎ出してある。いわゆる梅花皮(カ

     イラギ)である。ついこの前京都文化博物館での「カザリ展」でもカイラギが出

     ていた。

 「刀 無銘伝長光」…折紙がついている。曰く

      “備前国長光

      正真 長二尺七分半表裏

      樋磨上無銘也

      代金子六枚

      延宝二年寅(1674)

       卯月三日

        本阿(花押光常)”

 「漆絵大小拵」…赤地に黒で龍を描き、金箔を置く。桃山期から流行した派手な拵。大小

     揃えもこの頃から。柄先が大きく湾曲している。

 「三鈷柄剣」…古製を模したもの。勝海舟が長州征伐の折に寄進したもの。

 「大太刀 銘備前国住人行吉作」…まことに巨大なもので、背負太刀、野太刀とも云われ

     るもの。持って動くのも大変、多分に虚仮威しではと思う。

 「太刀 銘長吉作」…これも巨大で、身幅5センチほどもある。

 「焼身刀」…明治24年 宝蔵が火事になり、焼け跡から50振が見出されたという。



 古い刀は名刀を、江戸期からは奉納するために特別に作られたものを納めたようである。

ただ寄進される方は、それは名誉なことであろうが、それなりのものであるだけに、管理も

大変であろうと想像される。ここに来ているだけで40振余である、これに数倍?するものが

蔵されているのであろう。刀剣はただ保存するだけではない、手入れをしなければならな

い。

 こんなにたくさんの刀剣を見るのは久し振りである。今年の始めの大阪歴史博物館での「

月山貞一とその一門会」展以来である。                 (8.26)

滋賀県立琵琶湖文化館ー打出のコヅチ・特別講座

 打出のコヅチの番外編としての

    特別展『新指定文化財説明会』

 すでに7月23日に指定・発表された文化財であるが、新聞等では種類と名前が分るの

み、それを丁寧に説明していただける有難い催し。ただせっかくの機会であるのに参加者が

常連さんだけというのは少し寂しい。平日の昼間ではなかなか難しいかもしれないが。

 [旧安土巡査駐在所]

 現在風土記の丘に移築されて、何度も側を通っている。明治18年によくもこんな洋風の建

物を土地の大工さんが作ったものと感心する。内部まで当初の姿が見られる貴重なものとい

うことである。外壁に組み込まれた石組がいまでも新しい。

 [杉野中薬師堂]

 まことに珍しいお堂で、、普通は横長なのだが、これは縦長の構造、しかも切妻屋根であ

る。寺院としてよりも、地域の集会所としての役割が大きかったのかもしれない。現在も自

治会管理になっている。

 [上丹生薬師堂]

 前者と同じ作りのお堂。奥行きがさらに深い。

 [板絵著色二十五菩薩来迎図]

 この絵には阿弥陀如来さんが描かれていない。つまり本尊の阿弥陀三尊像を含めて来迎の

形をなしている。扉絵はいくつもあるが、このような大作の壁画は本邦唯一という。いまま

であまり公開されていなかったこともあり、剥落その他傷みが激しい。それでも大写しの写

真では、菩薩に荘厳されている截金がなお美しい。

 [木造薬師如来坐像]

 修理銘等から、その来歴が明らかとなった像で、もとは兵庫書写山圓教寺の根本堂の本尊

であった。それが秀吉の代に長浜に移され八幡宮へ、さらに明治の分離令で舎那院に伝えら

れることになったという。

 [銅水瓶]

 下膨れの珍しい形。

 [刺繍阿弥陀三尊来迎図]

 このところ繍仏を見る機会が多かった(奈良国博で)。繍仏は鎌倉期に集中して作られた

もので、あること自体貴重である。これは現物を見たことがない。

 [長命寺文書]

 いままで外に出たことがなく、寺内で保存されてきた文書の全貌が明らかになったのを機

会に指定された。平安・鎌倉期のものも含まれる。最古のものは寺への土地の寄進状で、こ

こに初めて長命寺という言葉がでてくるという。

 [観音経玄義科]

 前回の打出のコヅチで紹介されたもの(このブログ7月25日参照)。

 [杉原氏庭園]

 中山道老蘇にある庭園。江戸末期に建物の増設とともに作られたもの。「鈍穴」作という。

枯山水の石組み、飛び石の園路、その先にある茶室と植栽で構成される。庭園は生きた植物

を手入れしなければならず、状態を維持するのは大変であるのだが、ここは改変していない

という。

 [湖南地域のソウモク行事]

 野洲のズイキ祭りもその一つであるというが、あまりわからなかった。



 説明を受けるというのは本当に有難い。知らなかったことを知る、しかも無料で。

京都国立近代美術館ーユージン・スミス展

 ユージン・スミスの写真は、第二次大戦や水俣でおなじみであるが、京都国立近代美術館

にまとまったコレクションが入る予定ということで、特別展が持たれた。

   『没後30年 W・ユージン・スミスの写真』

 [第二次世界大戦]

 アジア太平洋地域でのUSA軍の活動を、USA国民向けに記録・発信したもの。

 USA兵士の手厚い館内葬・水葬、一方で追いつめられる日本人の惨めな姿、瀕死の赤ん坊

を助ける兵士、日本兵の400人ばかりの死体がブルドーザーで処理され、USA兵は整然とし

た墓地に葬られる、沖縄戦では火炎放射器で日本兵を焼きながら進むUSA兵。

 なかに一枚、捕まったUSA兵が目隠しをされてまさに首を落とされようとするものがあ

る。これはスミスが撮ったものなのだろうか、あるいはUSA国民向けのやらせなのであろう

か。

 [カントリードクター]1948

 白人の医者が、診察・治療・臨終の場面を写す。

 [助産婦]1951

 モード助産婦の孤軍奮闘振りを写す。診察、トラブル、出産、そしてやっと取り上げてホ

ッとしてコーラを飲む姿。全て黒人しか出てこないので、アフリカのどこかと思ったら、ラ

イフ誌の説明では、サウスカロライナのとある町の出来事とある。ディープサウスなのであ

る。

 [大英帝国]1950

 [スペインの村]1950/51

 フランコ政権下のスペインの人々の姿。よく知られた「通夜」では死んだ老人とともに、

通夜をする女性たちのなかの一人に生を見せる。

 ある写真では左右二人の人物で左は後ろ姿、右は赤ん坊をだく前向きで、左右対称の妙。

アンリ.ブレッソンを承けたものか。

 [仕事中のチャップリン]

 [慈悲の人シュヴァイツァー]1954

 孤高の白人と貧しい黒人たちの対比。日本人医師の姿も見える。一方でオルガンを弾く姿

も。

 [ハイチ]

 [水俣]1971/75

 日本人にはおなじみの、水俣の現実を知らしめたもの。

 [ピッツバーグ]1955/56

 繁栄する鉄の町の光と影。

 [私の窓から時々見ると…]

 白っぽい画面に色調の異なる黒点が散る。サムフランシスの抽象風とおもいきや、雪の地

面の靴あとであった。


 写真は歴史の証言者であるが、事実の全手を伝えるわけではない。写した人の視点・選択

の結果である。そう分っていても写真の持つ訴える力は大きい。続きを読む

芦屋市立美術博物館ー三つの柱

 この館も館蔵コレクションの特集展示に取り組んでいる。維持経営の難しいところ、館の

存在をアピールして入館者を増やそうという試みか。

  館蔵品企画第2弾

    『三つの柱ーコレクションの底力』

 [1、小出楢重と信濃橋洋画研究所の作家たち]

 小出の作品が9点。

  「自画像」…小出楢重は品のよい大阪人らしくあっさりした人格の持ち主であったと、

     私は想像している。しかし自画像はコッテリなのである。

  「カーニュ風景」…渡仏での成果。爽やかな色彩。

  「横たわる裸婦」…やはり小出とくれば裸婦である。日本人的質感・情緒がなまめかし

     い。

  「ガラス絵の裸女」2点…これもまたよし。

 その他、黒田重太郎、鍋井克之、仲田好江など。

 小出の著書がある。『楢重雑筆1927』、

          『めでたき風景1930』、

          『大切な雰囲気1936』

             ※随筆は現在、岩波文庫に納められている。


 [2、吉原治良と具体美術協会]

 具体美術協会は吉原を中心として60名を擁した前衛美術集団である。それぞれに独自性を

追求した。

 吉原治良の作品がたくさんでている。戦前の初期作品では具象的要素が強い。

  「上高地」「犬と雁」「手と朝顔」…白っぽく、現実から遊離した世界を描くか。

  「菊イ」…具象と抽象の狭間の危うさ。

  またここに「円相」がある。こんなものを何枚描いたのだろうか。

 白髪一雄がある。

  「文」…振動する横線の重なり。

  「地進星出洞虫交」…絵具の塊を塗りたくる。エネルギーのほとばしり。

 元永定正は作品名がないので紹介しずらいが、色彩の原点に戻っての、色の配合・融合・

 対比により、色彩が魅力的。ほとばしる色の溶岩流のような作品あり。
 
「具体」集団は、それこそ個々に個性をほとばしらせる集まりであった。似たようなものは

ない。ただ抽象・前衛はアイデアが展開できればいいが、それが出来なければ次々とアイデ

アを生み出さねばならない苦しい世界であろう。

 [3、中山岩太・ハナヤ勘兵衛と芦屋カメラクラブ]

 中山岩太はNY、パリで写真スタディオを持っていたという。帰国して芦屋に住まう。ハナ

ヤは芦屋で写真材料店を開いたことから、ここに写真仲間が集うことになった。

 初期の写真家として、大胆なクローズアップ、フォトグラム(印画紙にオブジェを置く)

 、フォトモンタージュなどを試みている。

 中山岩太…NYの風景、ダンサー(ニョタ・インニョカ)

 ハナヤ…光シリーズ、船シリーズ

     ※1930年代の印画紙と現代のプリントが並んでいる、やはりいまの方がシャープ

 松原重三、高麗清治、紅谷吉之助など。


 私には具体美術の奔放な試みが面白かった。元永定正中心の展覧会を開いてほしいもので

ある。                                 (8.24)
 日曜日であったが、入館者は少ない。小出楢重でも吉原治良でも人をよべないのか。

大丸ミュージアム・梅田ーチンギスハーン

 チンギスハーンの名に魅かれたものの、やっと最終日に間に合った。久方ぶりのアジア系

の展覧会である。

       『チンギスハーンとモンゴルの至宝展』

 [第一章 北方遊牧民族]

 司馬遷の『史記』に詳述される「東胡」「匈奴」である。春秋戦国時代に内モンゴルに居

た東胡の遺物は青銅器。これは戦国期の趙との関係で手に入れたものであろうか。

 その東胡を逐って北アジアに覇を唱えたのが匈奴である。その王である単于が冠っていた

であろう「鷹形冠飾り」は、首から上が青い石で出来た金冠である。戦士の塚から武器の弩

と鏃がよく出土するという。こんな精巧な機械を匈奴が作ったのであろうか、何らかの形で

中国から入手したものではないだろうか。

 この匈奴が南北に分裂し、南が漢に帰属してのち、この地の支配者となったのは鮮卑であ

る。のちに南下して北魏となり、華化してからは中国王朝となってしまうのだが、モンゴル

地方での鮮卑のことはそんなには分っていない。その鮮卑時代の「金製鹿頭形冠飾り」は角

の先に紡錘形の歩揺がついている。これもどこから手に入れたのか。中央アジアでのヘレニ

ズム文化とのつながりが想像される。

 鮮卑が南下して、そのあとを襲ったのはトルコ系の突厥である。匈奴が秦漢と対峙したと同

じように、突厥も隋唐と対抗する。この中で唐の文物もこの地に齎される。「浮彫臥鹿文様

銀皿」も、その王である可干への下賜品ではなかろうか。また唐三彩馬も来ている。埋葬もも

唐風に倣ったのであろうか。

 突厥が東西に別れて衰退して行くなかで、東から台頭してきたのが契丹である。契丹につ

いては先年「契丹展」があり、今回出展の「黄金のマスク」「鍍金銅金冠」が来ていたこと

を覚えている。契丹では仏教も盛んであって、焼物の菩薩頭部もある。また副葬品の馬具飾

り一式も見事であった。

 [第二章 モンゴル帝国]

 チンギスハーンが使ったという鞍がある。ハーンの墓からでたという。チンギスハーン以

後、巨大帝国が建設され、東西交通が盛んとなった結果、この地にイスラム教徒の墓が見ら

れる。そしてネストリウス派キリスト教徒の陶製の墓誌もある。またユニークなのは、当時

の貴族の女性に流行した白樺の樹皮を使った帽子もある。

 [第三章 明清時代]

 北方に逐われてのち、時に北辺を騒がせたが、清になると完全にその支配下に組み込まれ

てしまう。各モンゴル部族の高貴な女性の服が多数並ぶ。高価な服地はモンゴル族懐柔の下

賜品であろう。


 チンギスとモンゴルという名に幻惑された嫌いなきにしもあらず。今回の展示は、内モン

ゴルの歴史を通観する試みであった。しかし2500年をこれだけの文物で取り扱うのは少しく

無理がある。しかも内モンゴルの視点で解説もなされているので、違和感を覚えるところも

あった。

水やり三年?

 30年以上も桜草を栽培しいてもなかなか手強いのが水やりである。水やり三年というのは

とんでもない話で、一生うまくいくということは無いようである。

 この間もブランター二箱分の桜草増殖苗ー数十芽を白絹病でやられてしまった。私の使って

いる培養土は非常に水はけがよいのだが、プランターについては同じ用土を連年使うこともあ

って、赤玉土の粒子が細かくなって水はけが悪くなっていた。そこに他の鉢と同じようにたっ

ぷりと水をやったものだから過湿になってしまった。同じように取扱をするのなら、植える用

土も全て同じにしておかねばならない。今さらの失敗である。

 何百という鉢やプランター、ポットに水やりをする時、どの鉢にも十分に行き渡るように

しているつもりでも、時に死角が出来てしまうことがある。真夏に数日乾かすともう枯れて

しまう。さらに置き場所によって、陽の当り具合、乾き具合も随分と違う。

 いま実生苗の育成中だが、ポット植にして育苗箱で管理している。数が多いので、箱を水

平にできる場所がなく、腰水とはせずに、如雨露で水やりしている。どれにも過不足なく与

えているつもりなのだが、同じ箱の中で乾きの遅早が出てくる。手加減一つでこんなにまで

差が出るとは思いもよらなかった。小さな苗のこと、一旦水切れさせるともう取り返しがつ

かない。今日は雨で大助かり。

 ことほと左様に水やりは難しい。                 (山原茂)

大津市歴史博物館ー石山寺の仏像

 奈良国博で「三国三十三所展」が行われている。石山寺もその第十三番札所して「兜跋毘

沙門天像」などが出展されている。この同じ時期に大津で、石山寺を中心とする仏像展が持

たれている。さすが古刹と云われるだけあって多くの宝物が蔵されているようである。

   企画展『石山寺と湖南の仏像』

       ー近江と南都を結ぶ仏の道ー

 石山寺は平安京の時代より石山詣でと称される聖地であった。また紫式部が住まいして源

氏物語を書いたとも云われている。

 この石山寺を中心に、瀬田川を下って宇治にぬける道は、古くからの重要な交通路であっ

た。それ故に、付近の寺々には共通する文化遺産が残されていると考えられる。それを見定

める展覧会でもある。


 [古代の北陸道 大津宮関連湖西周辺の仏像]

 「木造菩薩立像」…北保町自治会蔵。大津市最古(奈良〜平安)の木造仏。ゆったりとし

     たお顔立ち。


 [石山寺の仏像]

 「銅造如来仏四体と水晶製仏舎利塔」…秘仏本尊の胎内納入品。奈良博の「金銅如来立

     像」が参考出品されている、よく似ている。

 「絹本著色仏涅槃図」…重文、鎌倉期。仏は小さく、周りの群像が多い。

 「木造如意輪観音坐像」…平安期。

 「木造大日如来坐像」…平安期。

 「木造吉祥天立像」…吉祥天としては大きく、堂々としている。

 快慶「木造大日如来坐像」…少し顔がふっくらしているが、全体に均整がとれている。

 「木造二天立像」…重文、平安期。優しいお顔立ち。截金がよく残る。

 「塑像心木ー金剛蔵王」…右足、右手を振り上げた躍動する姿。木心だけだが、生き生き

     している。

 「懸仏」…江戸期。国宝本堂内陣の上方に架けられてある。径1.65メートル。観音菩薩を

     中心に、右に執金剛、左に蔵王権現、それに一対の花瓶。


 [瀬田川・田原道(東山道)沿大津南部の仏像]

 「木造帝釈天立像」…平安期。黒津正法寺蔵。衣紋華やか、お顔に品あり。

 「木造阿弥陀如来立像」…裸の仏像で、男性器として蓮の実が付けられてある。上から着

     物を着せる。

 「木造大日如来坐像」…平安期。大石中若王寺蔵。

 「木造女神坐像三体」…重文、平安期。建部大社蔵。袖で口を隠す(全てを見せないた

     め)。

 「木造不動明王坐像」…宇治田原町正寿院蔵。快慶作という。よく整っている。

 その他「塑像・脱活乾漆断片」多数

 参考出品として大阪市立美術館から田万コレクションの金銅仏が五体来ている。


 [奈良からの影響]

 「木造女神像、僧形八幡神坐像」…金勝寺像。琵琶湖文化館で拝見した。

 「金銅誕生仏立像」…善水寺蔵。東大寺の国宝のそれに近いという。

 「木造四天王立像」…平安期、宇治田原祥定寺蔵。四躰。修理後か、清々しいお姿。


 数はそんなに多くはないが、小気味のよい展覧会であった。それにしても石山寺というの

はよほどの宝物を所蔵されているようである。

滋賀県立近代美術館ーファーブル展

 私も大昔は昆虫少年であった。蝶の美しさに魅かれて近郊の野山に採集に出かけたもので

ある。その時の捕虫網や展翅台など捨てられずにまだ残してある。

 その後ファーブルの「昆虫記」に出会う。岩波文庫のを全册買ったまではよかったが、読

みこなせなかった。それから何年経ったろうか、2005年の11月、奥本大三郎氏による新訳

が出て再び読み始めた。フランス文学者であると同時に昆虫の専門家である人の訳である。

挿図も写真も一新され、訳もこなれた日本語で、訳本というより新しい著作といってよいも

のであった。読みながら、ファーブルの導く自然の不思議の世界を満喫している。

 いま6巻下まで出ている。次の出版が待ち遠しい本は久し振りである。

 そのファーブルが日本にやってきた。滋賀には世田谷文学館からの巡回である。

    特別展『ファーブルー昆虫記の世界』

 昆虫記のファーブルをどう表現するのかと二の足を踏んでいたのだが、だがやはり見てお

くべしと出かける。

 まず息子ポールの写真がある。アルマスの家のたたずまい、研究室、観察装置など。  

ファーブルの写生図が6点。研究ノートがある。こんなものがなぜ日本にと思ったのだが、

奥本氏がつとめる埼玉大学蔵となっている、なるほど。ファーブル家から一旦外に出たもの

を購入されたものだろう。

 ファーブルの著作がいくつも並ぶ。彼は生活の為にも多くの理系の啓蒙書・教科書を書い

ている。『森の歴史ー植物の話』『荒らし屋たちー農作物の害虫について』『フランスとプ

ロヴァンスの詩集』……

  ※彼の著書の出版のほとんどはドラグラーヴ社からでている。その経営者とファーブル

   との書簡が翻訳とともにある。著作権料への不満に対して会社は、それをすると本の

   値段を上げなければならず、売れ生きが落ちると、ファーブルをなだめている。

 次にポールによる昆虫の写真、著者不明の昆虫図などがある。特に昆虫記6巻上で、固定

されたモグラをシデムシが処理する写真が印象的。

 『昆虫記』の諸本がある。『昆虫学的回想録ー昆虫の本能と習性の研究1879』 が最初

で、今日の『昆虫記』のもとになった版本も1巻、2巻とある。

 このあとはファーブル関連の展示である。

 ヤン・ファーブルという芸術家がいる。アンリ・ファーブルに私淑してファーブルと称し

て活動している。彼の「コンシりエンス」が上映されている。ロンドン自然史博物館の収蔵

庫を舞台に、館員やファーブルが昆虫に扮して動き回る、訳の分らないもの。

 「小さな夜の祝祭」版画12枚。彼のヨロッパでの展覧会図録もある。かの地の図録はまこ

とに立派。

 海洋堂の昆虫記ジオラマボックスが6箱。

 セブンイレブンのドリンクキャンペーン・フィギィアが8点。「羽化するトネリコゼミ」

「裏庭の猛獣キンイロオサムシ」など。こんなものが食品のおまけにつくなど、昆虫好きの

国ならでは。

 熊田千佳慕の細密画10点。

 今森光彦の写真8点。

 昆虫記の初期の翻訳本。

   「蜘蛛の生活」英義雄訳 洛陽堂 1919

   「昆虫記」 大杉栄訳 叢文閣 1935


 昆虫記の世界を視覚的に表現するのはなかなかに難しい。ファーブル直接の展示は半分で

あった。続きを読む

桜草の栽培ー増土再考

 桜草の書籍や桜草に関する記事では必ず増土することと書いてある。私もその言説に引き

ずられて、増土はしなければならないものと思っていた。浪華さくらそう会のパンフレット

に、私もそう書いた。しかし実際は、面倒だったり、時機を失したりして、必ずしも毎年行

っているという訳ではない。無責任のそしりは免れないが、それでも何となく済んでいる。

ということは、必然の必然たる所以は何なのであろうか。常識は時に疑ってかからねばなら

ない。

 諸書に見られる理由の第一は、桜草の匍匐茎が斜め上に伸びて地表に飛び出すことがあ

り、茎・根が空気に直接触れるといじけてしまうので、新たな土で覆ってやるというもので

ある。

 第二には、かっての群生地の荒川流域の河川敷や野原ではよく梅雨や秋に増水し、上流か

らの泥土をかぶることがよくあり、増土はその代わりであるという。

 両方とももっともな理由のようであるが、日本各地の自生地では増土をされることなく、

泥土をかぶることなく育って花を咲かせている。匍匐茎が出来、それが成長して葉ができ花

が咲き、そしてまた茎が、といった自然の循環系には増土の入る余地はないようである。

 私たちが桜草を栽培しその花を観賞する場合、人工的な環境条件の下に置く。特に植替え

は必ずしなければならない。鉢に植え、4本揃えで咲かせるという人間の美意識を強制して

いるわけである。

 この中で増土を行うことの比重はどうであろうか。全ての芽が地表に飛び出す訳ではな

い。ごくたまに見られる現象である。常に鉢の状況を観察しておれば、芽の動きも分り、そ

れなりに個別に対処すればすむ。一律に増土を行うのは用土や労力の無駄かもしれない。

 一方、花後の御礼肥や追肥は、次年度の良い芽を作るためにも、ぜひともしておかなけれ

ばならない。新たな茎・根が成長している花の咲いている時にこそ肥料は必要であるが、土

を追加する必要はない。液肥か化成肥料でも可能である。ただ、有機肥料は土と混ぜて施す

方がよいが。

 結論として、桜草にとって増土は必要なことかと問われれば、否と答えねばならない。し

てもしなくても基本的に変わりない。飛び出してきつつある芽の鉢だけでよい。

 ただこんなことを誰が言い出したのか調べてみる必要がある。
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