日本の桜草と美術

桜草の栽培と美術鑑賞

2008年10月

安土城考古博物館ー天下人を祀る

 琵琶湖文化館が休館ということもあってか、ここ安土の博物館の展示に力が入っているや

にみえる。運動がてら自転車で訪問。

 秋季特別展

    『天下人を祀る』

       ー神になった信長・秀吉・家康ー


 [神の像と人の像]

 日本の伝統的絵画表現では、人に対しては金銀を使わない、それは神仏だけのものとされ

る。

 「渡唐天神像」…左遷先で亡くなった道真が怨霊となったとして、彼を天神として祀るこ

     とになる。

 「顕如画像」…一向門徒の中心として絶大な信仰を集めた顕如であったが、彼は人間とし

     て描かれている。金銀は用いられていない。


 [信長の「死」と供養]

 ルイス・フロイスの報告によれば、信長は神になろうとして安土の愡見寺を造って云々と

あるのだが、彼自身の意向は知られていない。

 本能寺の変後、彼は仏式で葬られた。つまり神として祀られることはなかったのである。

その影響を排除しようとする意図が働いたとされる。

 信長像がいくつも出ている。


 [秀吉の「死」と豊国大明神]

 豊臣秀吉は新八幡として祀られたかったがそれは許されず、豊国大明神として認められ、

霊廟が造られる。彼の忘れ形見秀頼は、盛んに寺社を造営して、各地に豊国大明神を勧請、

神格化された「秀吉像」とともに「豊国大明神」神号を配った。

 多賀大社宛の秀吉の大政所病気本復祈願文がある。これと同じものを北野天満宮で見た。

あちこちの寺社に出しているようである。

 「豊国祭礼図屏風(複製)」がある。七回忌に豊国社前で催されたもので、まことに華や

かな「祭」の様子。

 しかし家康の天下取りの後、秀吉の神格は否定され、豊国社も放置される。

 逸翁美術館の秀吉像は残念乍ら来ていない。


 [家康の「死」東照大権現]

 徳川家康は自らを神として祀られることを願い、その通り神式で葬られる。そして天皇よ

り「東照大権現」号が許され東照社が営まれる。そして孫の家光によって神格化が深めら

れ、東照宮に格上げがあり、日光東照宮が今日のように壮麗に仕上げられる。

 家光は夢に見た家康の想いを自ら綴り、その文をお守りにして身につけていたという(書

き付け及び守り袋が展示される)。

 そして神君家康像が作られ配られたのである。 


 [遅れて神になった信長]

 江戸時代中期の祖先崇拝の機運で、織田の流れである出羽天童藩、丹波柏原藩で信長崇拝

が始まる。明治政府は反徳川の政策より、信長の霊を祀る建勲神社を船岡山に創建する。ま

た豊国社も大阪・京都に復興させたのである。


 なかなかに面白い企画であった。ただまあ様々な文書を駆使しての展示は、じっくり図録

でも読めばともかく、通り一遍では展示の意図を十分に受け取ることは難しい。本当に歴史

的な内容の展示は大変である。

大津市歴史博物館ーかわら

  企画展 『かわら』

     ー瓦から見た大津市ー

 瓦を主題にした珍しい展覧会なので出かける。

 瓦というのは住まいの素材として身近であるのだが、近年新しいものに取って代わられつ

つあり、焼き瓦の比重は小さくなりつつある。

 といって良く考えてみると、瓦が普通の住居の屋根として使用されるようになったのはご

く新しい。江戸時代の後半も過ぎてからであろう。

 瓦は長い間寺院の屋根葺き材として使われるだけであった。それが近世に入ると、城や武

家屋敷に、さらに家財を納める蔵に使われるようになる。その他は、檜皮葺、板葺、柿葺、

茅葺が主なものであった。

 瓦は貴重な屋根素材であっただけでなく、装飾が施されていることもあって、特に古代瓦

については、好事家による収集・鑑賞・研究がなされてきた。これは中国における瓦当研究

と軌を一にしているようである。滋賀では古く、石山寺の尊賢僧正による「古瓦譜」が残さ

れ、今回も元の瓦ともども展示されている。また西田弘氏による研究成果もでている。

 会場には山ノ神遺跡からの、焼成途上の故障でそのまま埋まってしまった巨大な鴟尾が三

基据えられている。どんな大きな寺院が建設されようとしていたであろうか。


 [瓦礫の山も宝の山]

 古代遺跡からはたくさんの瓦が出土する。それはいわゆる瓦礫であるが、そこからさまざ

まなものが見えてくるという。


 [古代寺院の造営と瓦窯]

 滋賀にも古代にいくつもの寺院が建てられたらしい。しかしいつしか廃れたものも多い。

 衣川廃寺、穴太廃寺の瓦…瓦は重いので、寺院近くで焼成されるのが普通である。

 それにしても丸瓦をどうして造ったのかと思っていたら、木の丸太に被せて半円筒にして

いたのである。軒先は范型を用いており、あちこちで使いまわしされた。


 [近江国庁と周辺遺跡]

 藤原仲麻呂により進められた保良宮(石山国分寺に比定される)では、平城京と似る繊細

なものが出ている。


 [大津と平安京]

 錦織遺跡からの出土品。


 [近世城郭の瓦]

 大津には、坂本城・大津城・膳所城があり、そこから出た瓦が比較される。

 秀吉が造った大津城では、安土城や大坂城と同じく金箔を使ったものがある。膳所城のも

のは藩主の松平氏の立葵の紋所がはいっている。この膳所城のシャチホコがのちに瀬田小学

校の校舎の上に挙げられてあり、現在も小学校の所蔵品となっている。


 [桟瓦の登場]

 大津の西村家で桟瓦が発明され、三井寺の万徳院玄関で初めて葺かれたという。軽く取扱

が楽だったので広く普及することになり、大津の松本村とその周辺で瓦の製造が盛んとなっ

たという。


 [鬼瓦の数々]

 鬼瓦がたくさん並べられている。鬼瓦と言われるように、圧倒的に鬼も形が多い。鬼三面

のものもある。

 動物…兎・亀・虎・猿・猪・鶴・獅子

 人型…恵比寿・大黒・福助

 その他…流水・桃・牡丹・学の字(小学校のためのもの)

 飾瓦も出ている…猿・獅子・白沢など


 美的歴史的対象でもある瓦だが、重要な産業でもあり、長く使い続けられることを願わず

にはいられない。                          (10.29)

滋賀の文化財講座・打出のコヅチ4

 滋賀の文化財の最新情報を伝え、琵琶湖文化館の存在をもアピールするために始まった

「打出のコヅチ」の第4回
   
     『最古の和韓混交鍾とその周辺』

         ー守山市下新川神社梵鐘の導く世界ー

                講師 文化財保護課 古川史隆

 昨年五月 下新川神社の御輿蔵の改築にともなって見出された鐘が、調査の結果日本最古

の和韓混交鍾であることが分り、この三月に新聞発表されたものである。その最新の調査結

果の報告である。

 下新川神社はシモニカワとも呼ばれているが、さかのぼればニュウカワつまり丹生川であ

ったのであろう。

 さて鐘は仏教とともに仏具の一つである梵音具として伝来したものである。奈良時代以降

日本で作られた梵鐘は和鍾と呼ばれて日本独特の形式である。龍頭に二首の龍と宝珠をも

ち、中帯と縦帯で十文字を結ぶのが基本である。これがどこから伝わったのか、中国の鐘に

ついて情報を持ち合わせていないので何とも言えない。

 一方、仏教を伝えてくれた朝鮮半島の鐘はいくつか日本に伝わっている。それは和鍾と少

し形状が違う。龍頭は一頭のみでそこに筒がついている。そして鐘身に文様を表すものが多

い。

 宗教という高度な文化を受容発展させるとき、その地その地での変容が著しく、日本と朝

鮮とでは互いに独自の姿形をとる。しかし隣国のことである、様々な形での交流があったの

は事実で、この和韓混交鍾がその証しなのである。そしてそれは日本で作られて和鍾と朝鮮

鐘の両要素を具現している。

 どうしてこんなことがあり得たのか。日本の工人が彼地に渡ったとは聞かないので、室町

の倭冦活動期に、朝鮮の工人が日本にやって来たものと想像される。また日本自体も価値観

の変動期に当っていたので、朝鮮式の要素を取り入れたとしても許容される条件にあったの

であろう。逆に日本の要素を取り入れたものが朝鮮にあるだろうか、多分ないだろう。

 和韓混交鍾は現在の所、六点のみ知られている(ただ一点は所在不明)。それらの大半は

朝鮮との関係が近い九州・中国で作られたことが分っている。ところが今回の発見にかかる

鐘は遠く離れた滋賀県である。といって下新川神社のある守山市幸津川はかって湖岸に面

し、交通の要衝であったらしいのが背景になっているのかもしれないと。

 下新川神社梵鐘には以下の銘文が刻まれている。

     江州野洲郡幸津川荘

     地主下新川明神之鐘也

     奉寄進東般若院 

           道源

       施主  道金

           淨園

      應永二十六年(1419)

           霜月

 ここにある施主三名は、神社の造営にも関与していることが知られる。

 しかしこれがどこで誰によって造られたの、今のところ分らない。これからの研究により

解明の待たれる所である。

 つぎに他の和韓混交鍾之説明、さらに番外として滋賀の名鐘十選が紹介された。

 今回は、先の「観音玄義科」と違って、見て分るのは楽である。今まで知らなかった意外

な事実をこんな形で学習することが出来てまことに有り難い。一人で本を読んで学ぶより、

専門家による講義は何層倍もみにつくようである。もっとたくさんの人に来てもらいたいも

のである。

万葉文化館ー佐藤太清展

 万葉文化館へは田中一村が目当てであったが、平常展も面白そうなので覗く。

    『秋の万葉日本画展』と

        『佐藤太清日本画回顧展』

 大亦観風の「万葉画撰」(1940)の内5点。素朴な味わいがまさる。

 そのなかの一点は天智天皇の「渡津海御歌」

   わたつみの豊旗雲に入日さし 今夜の月夜さやけかりこそ

     これは高校時代の学んだ歌だが、後に私のところで生まれた桜草に「豊旗雲」と

     名付けた思い出の歌である。

 那波多目功一「訪春」…金地に梅、太陽が赤く輝く。

   正月たち 春の来らばかくしこそ 梅を招きつつ楽しきを経め

 山崎啓次「池水」…池の波の揺らぎが抽象模様に。

   にほ鳥の潜く池水あらば 君に恋ふる情示さね

 その他は感心しないので省略。


 佐藤太清については、数年前偶然に福知山駅に途中下車して立ち寄った福知山市立美術館

で、「最果の旅」(流氷の大鷲)を見たことを思い出す。彼は文化勲章を授与されたほどの

人だが、あまり見る機会はなかった。

 万葉文化館では万葉の歌に係わる作品を多くの画家に委嘱しているが、彼にも依頼があ

り、下絵まで出来つつあった。その縁でその下絵も含めての回顧展がこの地で行われること

になったという。彼は展覧会に出品した大作はその大半を家に保存していて、死後生地の福

知山にデッサンを含めて寄贈された。それらが今回一挙に公開された。

 「風騒」…木の上に群れる鷺が、驚き騒ぐ一瞬を捉えた緊張感溢れる代表作。

       日本芸術院蔵

 「清韻」…古木に咲く梅が詩情豊かに。

 「雪椿」…日本芸術院蔵

 23点の大作と未完及び素描で構成されている。


 こんな所で佐藤太清と出会えるとはおもいもよらなかった。

万葉文化館ー田中一村展

 田中一村の名に魅かれて、万葉の故郷明日香へ。何年か前に田中一村展がありその艶やか

な装飾性を楽しませてもらったことであった。その折に『日本のゴーギャン田中一村伝』(

小学館文庫)で、その生前報われない生涯を知った。

 その田中一村の作品がまた見られるとというのである、何はさておいても行かずばなるま

い。

 私のところから明日香まではかなり遠い。京都に出てそこから近鉄電車で橿原神宮へ。案

内ではバスがあるはずだが、一時間に一本。歩こうかと思ったが、ちょうど貸し自転車があ

ったのでそれを使うことにする(借り賃900円ーちょっと高いか)。晴天の秋の野を駆けて

万葉文化館に到着。

 私は小さな施設と高をくくっていたのだが、何の立派な博物館である。

  生誕百年記念ー原初へのまなざしー特別展

    『田中一村展』 100年目の100点

        初公開作品を含む個人所蔵品を一堂に

 入場すると正面に「ユリと岩上のアカヒゲ」がある。岩と里芋の葉は没骨に滲み出し、亜

熱帯の景色なのに爽やかな風が吹く。

 彼の奄美大島時代の代表的な作品は、上記のものと「アダンの木」それに小品ばかりであ

る、「クロトン」「熱帯魚三種」「海の幸」「奄美風景」など。

 さて今回はごく初期の作品から奄美に到るまで、その変遷がたどれるように網羅されてい

る点で、画期的といってもいいかもしれない。そして驚くべきは、ほとんど個人所蔵のもの

ばかり(大島紬美術館の4点は別にして)で構成されている。大変な手数がかかったろうと

想像される。しかも展示途中で新たな作品が発見され、それも会期中にてんじされるという

ことである。

 神童と言われた子供時代の作がある。

 「菊図」…八童 米邨

 「観瀑」…丁巳夏日 十童 米邨

 「春江遊魚」…戊午秋日 十一童 米邨

 「花菖蒲」…十二童にして、金地に描いている 

 「露草にコオロギ」…辛酉夏日 十四童 米邨小史

     ※字も見事

 十代で南画にいそしんだ作が多く見られる。「桃花図」「富貴昌図」「菊水図」「瓢箪

図」、これらは中国近代の呉昌碩を手本にしたものであろう。

 一方で「倪雲林山水図」がある。“略擬雲林筆意”と、本格的な山水も学んでいる。

 その後南画と訣別して、いわゆる日本画の世界へ。琳派風と行ってもいい「南天」「鳳仙

花」が生まれていく。

 また支持者に娘さんが生まれると、伝統的な「おひなさま」図を贈っている。

 戦中戦後すぐには観音や羅漢の仏画もものしている。

 そして「白い花(ツグミとヤマボウシ)」は青龍社展での初入選の作。「トラツグミ」「

トラツグミのいる秋景図」など全面に描き込まれた作品が続く。その一方で、余白を大きく

とった「枯木にキツツキ」「葦にヨシキリ」がある。

 大作の屏風・襖絵がある。

 「四季草花図屏風」…2曲4隻。

 「四季花譜図襖」…8面。上の作品ともども葉や茎は墨で、花は彩色、伊年印のように華

やかではないが、しみじみとした情感が漂う。

 「紅梅図襖」…4面。

 そして転機を求めての旅の成果は、小品ながら「室戸奇岩」「筑波山」となる。

 まことに田中一村は多様な絵を描いている。南画でも、中国近代に倣ったもの、まるで鉄

斎そっくりの「あばさけ観音」、うちわの「春林茅屋」には“倣謝蕪村”とある。中国山水か

ら日本花鳥画へ、そして奄美の自然と出会って、彼独自の装飾的で華やかだが、どこかちょ

っと寂しげな花鳥画に収束する。

 はるばる来た甲斐があった。

桜草栽培史−26 嬉遊笑覧の記事の読みについて

 嬉遊笑覧に次のような記事のあることはよく知られている。この栽培史でも紹介したこと

がある。

  「安永七・八年(1778・9)さくら草 形のめづらしきがはやり 権家贈りものとす。

   数百種に及ぶ」

 このなかで桜草の種類を“数百種”としてあるのだが、私はこれを普通に“すうひゃくしゅ”

と読んでいた。

 しかし何かしっくり行かず、心に引っかかっていた。というのも、この時代にこれほどた

くさんの品種が出来ていたのであろうかという疑問である。桜草作伝法にしたところで50種

あまりにしか過ぎない。それよりも50年も前にすでに10倍以上もの品種があったとは考え

られないのである。さらに言えば、この時代の人が“数百種ーすうひゃくしゅ”というような

数の数え方をしていたかということである。

 そこでフト読み方を変えることを思いついた。“かずひゃくしゅにおよぶ”とすれば、100

以下の品種数となり、「品種の数が」という主語もはっきりして、話の辻褄が合ってすっき

りする。

 これでやっとこの嬉遊笑覧の記事を素直に読むことが出来た。   (山原茂)

近江八幡市立資料館ー塩川文麟展

 滋賀に所縁の絵師は多いが、近江八幡につながる人はあまり聞いたことがない。その数少

ない一人が塩川文麟で、市の資料館で

    特別展『塩川文麟と近江八幡』展が開かれている。

 塩川文麟については、私の知る所は少ないのだが、いま休館中の琵琶湖文化館の近世絵画

展示で見かけたことを思い出す。

 塩川文麟は、京都の四条派の絵師として江戸末期から明治にかけて活躍し、再建された御

所の絵も描いているという。一時混乱する幕末の京都を離れて、近江の日野や近江八幡に逗

留したことが知られている。ともに近江商人を生んだ街であり、彼らが“塩川講”を作って彼

の生活を支えたらしい。森五郎兵衛家の日記に記録が残り、伴伝兵衛宛の書簡も数通残って

いる。

 このような関係で、近江八幡に彼の作品がかなり残されており、それが今回の特別展とな

ったようである。

 「長命寺奉納絵馬」…金箔地に黒馬。慶応元年。

 「松竹日月図屏風」…六曲一双。松に太陽、竹に満月。若松の生き生きした枝振りや善し

 「春景花卉図襖」…松竹藤を一方に、広い原に蕨・蓮華・菜の花を、砂子の霞を配する。

 「夏図額」…水墨の没骨で大きな杉を、枝葉のもこもこ感を出す。

 「打出の小槌図」

 「扇面図」…うっかりと 行は袖出し 柳かな

 「鯛図」…泳ぐ鯛を楷書体で 

 「里芋図」…大きく里芋を、下に枝豆

 「渓流鳴蛙図」「虎図」「竹図」

 「達磨図」…酔画かという。

 その他、日牟礼神社に奉納された2基の灯籠の拓本と写真が出ている。そこで彼の本名ー

茂太郎が初めて確認された。


 ここ近江八幡にこれだけあるのだから、当然日野にもたくさん所蔵されていることが想像

される。これらも公開されればいいのだが。

京都市美術館ーパリの百年展

 日仏交流150年記念/京都市・パリ姉妹都市盟約締結50周年記念

   芸術都市『パリの百年展』

     ルノワール、セザンヌ、ユトリロの生きた街1830−1930

 パリの街を紹介する試みなので、いわゆる美術展とは少し違うようである。


[パリ 古きものと新しきものー理想の都市づくり]

 パリはかって汚い不潔な街であった。そのあまりの乱雑さが、大改造につながったのであ

る。ナポレオン三世が大統領になった1848年以来、産業革命の進展と相俟って、新しいパリ

が作られていく。あの大下水施設もこの時に出来たのである。なまじっか清潔な街であった

江戸や京都は、大きな遅れを取ることになる。

 パリの街を描いた風景画が続く。

 コローの「ジャンジュ橋」

 シニャックの「ポン・デ・ザール橋」…これも点描。

 ラコスとの「ロワイヤル橋」…浮世絵版画の影響(ジュアポニズム)の強い平面的な絵、

     ロートレックに通じるか。

 ユトリロの「コタン小路」…1910年頃の作というが、いかにも白い壁が気になる。

      「ベルリオーズの家」…作曲家の家、いかにも時代を経た壁の色をしている。

                 これも絵葉書から写したものであろう。

 エッフェル塔(革命100年記念の万博のため)の建設途上の写真が色々でている。


 [パリの市民生活の哀歓]

 ルノワール「ニニ・ロペスの肖像」…ルノワールのお気に入りのモデル。輪郭をぼかす技

     法で、若い娘の若々しさが匂ってくるようである。彼の肖像画のなかでも特段に

     よいものであろう。

 ドニ「ジャック・ポルトレットの肖像」 

 藤田嗣治「無題」…ドニの作とともに子供の肖像が並ぶ。藤田のものは西洋にとっても日

     本にとっても異国情緒が漂う新しい絵である。漢字とローマ字で署名されている

 工場や市場の労働者の写真が出ている。


 [パリジャンとパリジェンヌー男と女のドラマ1]

 古きパリを象徴するのがノートルダム教会である。ここにまつわる“ノートル=ダム・ド・

パリ(ノートルダムのせむし男)”の物語はよく知られている。何度も映画になり私もかって

見たことがある。

 オリヴィエ・メルソン「「ノートル=ダム・ド・パリ」から

    “一滴の水のための一滴の涕”処刑されているガジモトにエスメラルダが水をのませ

    る場面。処刑を見守る群衆が不満の声をあげている。ところがこれを解説では「熱

    狂的様子」と書いてある?

 肖像画が並ぶ。

 エメ・モロー「ヴィクトル・ユゴーの肖像」…文豪を細かく描き込んである。指の太いの

     が印象的。

 デュラン「ル・ヴァヴァスール男爵夫人の肖像」…写真が生まれて後の肖像のあり方の一

     つ。まことに精緻。

 リッセルベルク「アリス・セットの肖像」…点描で描かれている。顔はより細かい点で。

     柔らかな雰囲気が勝る。

 ルノワール「ボニエール夫人の肖像」…同じルノワールでもこちらは輪郭をくっきりと表

     す。

 デュヴァル「アリス・オジィの肖像」…一世を風靡した女優。抑制された静寂というか、

     古典的。
 
ギュスターヴ・モローがある。「レダ」が2点。大きい方は、白色のまさった地に、細い線

で輪郭が取られている。藤田嗣治がひょっとしてこれにヒントを得たのかもしれない。

 ヴァラドンがある。ユトリロの母。18才でユトリロを生んで直後の「自画像」がある。緑

・桃色を使った皮膚表現はこの頃からのよう。

 ナダールの写真がある。ジョルジュ・サンド、アレクサンドル・デュマ、ボードレールな

どなど。


 [パリジャンとパリジェンヌー男と女のドラマ2]

 ロダンのバルザック、ボードレールの肖像、ドラマティック。

 ブールデルのアポロンの首、ジャンヌ・アヴリルの顔、アングルの胸像など、ゴツゴツと

しているが存在感強し。

 マイヨールの洗濯女、レダ、ポナモ・アルモニーなど。小品ながら「ポナモ」は最初に認

められ代表作。


 [パリから見た田園へのあこがれ]

 近代的都市生活が進むにつれ、自然への憧憬が増す。

 ドニの劇場などの下絵がたくさん来ている。

 アンリー・ルソーの「粉ひき小屋」
  


 パリという土地に係わる作品が選ばれているのだが、ロートレック、モディリアーニ、モ

ネなどは来ていない。全て網羅することは出来ない選択の結果なのだろうが、少しもの足ら

ない。

 パリからこのようなものが来ている反対に、京都からパリへは「金閣寺・銀閣寺の宝物」

が行っているそうである。                  (10.22)


細見美術館ー京と江戸・名所遊楽

 秋の細見美術館

    『京と江戸ー名所遊楽の世界ー』

 ちょうどこの日は時代祭の日で、平安神宮の鳥居から神社に向けて左右に特別観覧席が設

けられてあった。私はあまり関心がないので細見美術館に直行。

 ついこの間、上方浮世絵館で江戸と上方の浮世絵の比較がなされていた所であるが、ここ

でも東西の風俗が出あう。


 [賑わいの都 都市図屏風とその周辺]

 「洛外図屏風」…展示されていない左隻には寛永三年の年記があるという。非常に丁寧に

     描かれている。四条河原に能舞台が設えられている。かっては野外で興行される

     のが常であったのか。

 「北野社頭図屏風」…賑やかな宴会の場面。そして五人の若者と五人の娘の出会い、若者

     の一人が娘に声をかけにいっている場面、今も昔も同じ。

 「奈良名所屏風」…猿沢の池の畔を歩くのは南蛮人の一行。

 「江戸名所遊楽図屏風」…人形浄瑠璃の舞台が二つ、路上での手品師………


 [都市の遊びー街に繰り出す人々]

 冷泉為恭「年中行事図巻」…

   九月 重陽宴 庭の菊に色とりどりの着せ綿が被せられている。

   十一月 五節(豊明節会) 天皇が五節の舞姫を見る

 「賀茂の競馬図屏風」「やすらい祭・牛祭図屏風」

 「蝶々踊図屏風」…仮装踊で、犬・猿・蝸牛・蛙・大根・筆・傘・灯籠等に。なかなかリ

     アル。

 「犬追物図屏風」…名には聞いていたが、具体的な図様を見るのは初めて。廃る直前のも

     のか。

 「観馬図屏風」…馬に猿はつきものだが、猿回しが描かれている。

 「四条河原図巻」…祇園御旅所に続いて、アシカの見せ物、猿引、犬の芸、孔雀・虎・

     熊・鷲の見せ物、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、狂言、人形浄瑠璃など。


 [都市風俗のさまざまー遊楽のファッション]

 「男女遊楽図屏風」…サントリー美術館や彦根城博物館の遊楽図に並ぶもの。まことに繊

     細。京都国立博物館で展示されている「舞妓図屏風」はこれらを上回るか。

 「江戸風俗図卷」…山東京伝は戯作者であるとともに、絵師としても達筆を振るってい

     る。この図巻は寛政五・六年頃の正確な風俗を緻密に描いたものである。

     夜鷹、寺社に参詣する姑、乳母、町家の婢女、田舎の娘、若後家、芸者、箱入り

     娘、吉原花魁、品川女郎、神子

     深川女郎ー江戸深川にて色をあきなう女


 出展数は少ないが、それぞれ珠玉の一品で、大層楽しめた。

大阪市立近代美術館(仮称)ー女性画家の大阪

 本来芸術家に男女の区別はないのだが、かっては圧倒的に男性が多かった。そんな中で女

性としてそれに取り組むとき、“女流”“女性”“閨秀”などの語が冠せられて一種特別視された

ものであった。

 にもかかわらず“女性”ばかりの作品を集めた展覧会が企画された。それは大正時代、大阪

で多数の女性画家が輩出し、文展その他に入選して気をはいたこと、また戦後においては前

衛的な作品に取り組み国際的に活躍する人々を生み出していたことによる。

    『女性画家の大阪』

        美人画と前衛の20世紀 


 [大阪の女性日本画家]

 上村松園・池田蕉園・島成園という三人の美人画が並んでいる。上村松園は京都の人であ

るが、三園として話題になり、かつこの美術館に作品があることから、展示となったのであ

ろう。

 私は近代のいわゆる“美人画”は好まない。個性のないお人形さんで、ただ可愛らしいだ

け。これは画家だけのせいではない。このような絵を人々が求め、画商が描かせたのであろ

う。

 そこに島成園の「無題」がある。顔にわざわざ痣があるようにして描いた自画像と言われ

る。これは当時物議をかもしたものであるが、今日から見ると20世紀前半の人物画の中で

は、彼女のもう一つの代表作「伽羅の薫」(後半展示)ともども、記念碑的な作品といって

もいい。「上海にて」も単なる美人画ではないエキゾティックな雰囲気を漂わせている。

 島成園については2年前に『島成園と浪華の女性画家展』があり、かなりの作品をみるこ

とができた。しかし結婚後の後半の作品は、才能・意欲が枯渇してしまったようで、痛々し

いものであった。

 木谷千種「をんごく」は、しっとりとした浪華情緒を醸し出す風俗画である。彼女のもう

一つの代表作「浄瑠璃船」は後半展示にとなっている。

 その他見るべきものは、三露千鈴の「母と児」、「殉教者の娘」(後半展示)。

 生田花朝の「四天王寺精霊会図」は特異な丸い画面に寺全体を俯瞰して納める。師の菅楯

彦の面影が残る。

 融紅鸞の「草花図」は南画の系統を受け、爽やかにあっさりとした草花。彼女がテレビに

出ていた頃の顔・声を思い出す。      


 [昭和初期の女性洋画家達]

 桜井悦の「朝」は数名の幼い女の子を描いたもの。小磯良平を思い起こす。

 仲田好江は淡い色彩で品が良い。その他加藤数子。


 [女性アーティスト達の戦後]

 伊勢谷圭、田中敦子、白髪富士子、山崎つる子、名坂有子、木下佳通代など。芦屋私立美

術博物館での「吉原治良と具体美術協会」展で見たものが多い。

 世界で羽ばたく彼女達は女性で括られ、大阪で纏められるのを何と思うであろうか。


 10月30日からの後半展示が楽しみである。それにしても早く常設の美術館を作ってほし

いものである。                       (10.18)
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