日本の桜草と美術

桜草の栽培と美術鑑賞

2011年08月

大阪市立近代美術館ー夏休み・みんなで楽しむ展覧会

 この美術館の蔵品を中心とした展覧会なので、大半の作品は何度も見ている物である。しかし良いものは何度見ても楽しい。

   “おとな”が“こども”と一緒に楽しむ展覧会

      『いつの人?どこの人?どんな人?』

 前田藤四郎「ラグビー」…カリカット版画で柔らかい色合い。

 岩宮武二「わんぱく小僧」…腕白だが洟垂れのこども。私と同じ年代とわかる

 生田花朝「龍宮玉ノ井」…この世の人でないような、豊玉姫の美しい姿。

 今森観陽「南蛮来」…南蛮貿易での人・物など。特異な顔立ちで平面的。

 島成園「鉄漿(おはぐろ)」…あごを突き出した化粧する一瞬の姿。

     *今回は「無題」は出ていない。

 三露千鈴「殉教者の娘」…細川ガラシャを主題にしたものか。

 木谷千種「をんごく」…こどもの行列を、格子戸から眺める娘。

 小林柯白「道頓堀の夜」…しっとりとした夜の風情。

 ユトリロ「グロスレイの教会」1909…白の時代の作。複雑な壁の色で、後の白 

     の時代を模した作とはだいぶ違う。

 池田遙邨「戦後の大阪」…様々な大阪の姿を断片的に散らす。シュールリアリス

     ム的。

 久保晃「K氏の肖像」…大きくデフォルメされているが、具象であることのよさ 

     がわかる。

 吉原治良「縄をまとう男」…不思議な絵であるが、忘れ難い。

 フリオ・ゴンザレス「箒を持つ婦人」…鉄片を大雑把に組み合わせて造形。

 佐伯祐三「郵便配達人」「ロシアの少女」…まだ精神的に余裕のあるときの作か

 キスリング「オランダ娘」…目は名立を際立たせた特異な描き方。

 ヴァラドン「自画像」…意志の強い表情が見て取れる。

 今井俊満「パラパラ」…幼児画のようでいて強烈。携帯・デジカメを持って踊る 

     若者。

 デュビュッフェのリトグラフ…小さい作品ながら上等。

 森村泰昌「美術史の娘」「肖像(ゴッホ)」…共によく知られた作品。以外と大

     きい。

 小泉雅代「眉」…色付けされた大きな眉が布団の上に並ぶ。それを合成で人の顔 

     に置き換えた写真が75人分。

 柴川敏之によるワークショップ作品…ローラー拓本。物の上に紙を置き、ロー 

     ラーでなぞる。

 西川美也「家族の制服」…過去の家族写真を、ほぼ同じ服装で10数年後に同じよ 

     うに撮った写真を並べる。

 柳美和「案内嬢の部屋」

  *安心して見ていられて、楽しい。

国立国際美術館ー森山大道写真展

 私にとって写真は、絵よりもさらにわかり難いものである。被写体があって、それを切り取り、写し取り、そして加工する。写真は即物的であるだけに、物の持つ時制に強く制限される。これが絵と大きく違うところか。
 今から100年前の写真の持つ意味と、今日の写真が100年200年後に持つ意味は同じだろうか。ブレッソンの「決定的瞬間」などは時を超えて生き残るように思えるが。

   『森山大道写真展 オン・ザ・ロード』

[COLOR]

 モノクロームの森山が撮ったカラー写真。

 街で出会ったのであろうか「アラーキー」がいる。

 ガサツな下町・繁華街の裏が写される。何気ない風景の切り取り。

[日本劇場写真帖]

 「二人の城」1967…憧れの団地生活ードアから覗く妻、団地をバックに夫妻。

     *説明がないと何かわからないだろうなあ。

 「信濃路のサブちゃん」…小さな街に呼ばれた人気者北島三郎(ドサ回り)。

     でっぷり太った後援者とその娘さん。控え室で何やら投げつけているサ 

     ブちゃん。

 「野良犬」1971…迫力満点、最も印象深い一点。

その他省略  

 世界で活躍されているようだが、その魅力が今ひとつわからない。

  『コレクション展』

[アメリカで活動した日本の作家たち]

 靉嘔…デザイン画のようにグラデーションによる色付け。

 三木富雄「耳」…耳だけでどれほどの作品をつくったのであろうか。耳以外の作

     品にほとんど出会ったことがない。発想がこれだけというのも寂しくは 

     ないか。

 草間彌生「ネットアキュミュレーション」…黒地に白でネットが描かれているだ 

     け。大きな作品であることの意味がわからない。

 国吉康雄「乳しぼりの女」…独特のしっとりした色合い。

 他省略

  『WHITE 桑山忠明大阪プロジェクト』

 板に白い和紙を貼って枠のなかに納めているだけの代物。

 中央で二分した姿、5センチ巾の紙を襷がけに貼っただけの物等、それら同じ物が18・20と並んでい

る。白ボッテンの紙工作、ただそれだけ。何が面白いのか全く解らない。鑑賞者より監視員のほうが多

い。
    口 口 口 口 口 口 口 口 口 口 口 口 口 口
    曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 曰 

 こんな物が展示されている。

宮井ふろしき・袱紗ギャラリー

 京都の宮井株式会社はふろしき・袱紗の専門会社である。製品開発のためにいろいろなものが蒐集保存されてきた。それらは貴重な美術資料でもあるので、公表されるようになった。ミュージアムぐるっとパスに最初の頃から記載されていて気になっていたのだが、やっと訪れる機会を得た。
 受付で案内を請うと、それから私のために会場に冷房が入れられ、案内説明してくれられた。

    第35回 『季節を彩る 袱紗・ふろしき』展

 正絹縮緬地に友禅の風呂敷が多い。京都では日本画家が着物の模様を描くことが多いのだが、風呂敷にも彼らの意匠が使われる。金島桂華のものがある。さらに堂本印象の春夏秋冬(「遠山に桜の図」「朝顔の図」「紅葉の図」「雪に松の図」)に描き分けた四種もあった。
 「松竹梅模様友禅袱紗」は90×94センチもある大きなもので、二枚の布を継いである。こんな大きなものは何に使われたのであろうか。

 別室では製造過程も展示されている。「四君子風呂敷」では四隅を色違いに染め、そのあとで四君子の色抜きをするという。

 案内説明していただいたのは年増のまことに美しい方で、こちらも眼福をいただいた。

京都文化博物館ー能装束・能面展

 博物館でちょうど能関係の展示があることをしり、覗かせてもらう。

   公益財団法人 片山家能楽・京舞保存財団

    『第十五回 能装束・能面展 〜継承の美〜 』

 会場には老齢の片山九郎衛門氏が出ばっておられた。さすがによいお着物を召されていたが、所在なげに椅子に座ってうつらうつら。
 能装束は使い込まれると織物として弱ってくる。そこで同じものを現代でも作られている。今回の展示では古い装束と新しく織られたものとが並んで展示されている。全く同じものとして再生されている。

 「紅白段松皮菱菊厚板唐織」…古いものは寸法が小さい。体型が小さかったのか、仕立て直して縮小したともいわれている。少し前までは小さい衣装のまま手をヌット出して演ぜられていたという。

 「同反物 渡文製」…上記のものを布巾を広げて新しく織ったもの。
 その他新旧の装束10領が出ている。
 一つ作ればそれは何十年、いや百年二百年と使われ続けるのだが、多くの演目があるのでよ程たくさんの装束を揃えておかねばならないのであろう。しかもそれを管理しなければならない。能は大変な演劇である。

 「能面」
   16面が出ているが、私にはよくわからないので省略。

 「その他」
   観世流仕舞扇
   京舞井上流舞扇…池田遙邨「祗園乃桜」、堂本印象「ひょうたん」

 「京舞衣装」
   三番叟直衣…四代目井上八千代使用のもの。

京都文化博物館ー総合展示

 大きく模様替えのなった2階の総合展示を見る。以前に較べて展示スペースが狭くなった分内容が精選されたようである。一方で大型スクリーンが多用されてわかりよい。

[京の歴史] 省略

[京のまつり]コーナー
  祇園祭ー山鉾の名宝ー
  重文 芦刈山「綾地締切蝶牡丹片身替小袖(御神体衣装)」16世紀後半
            まことに豪華で、よく保存されたものである。
  重文 橋弁慶山「黒韋威片白胴丸大袖付(弁慶殿鎧)」
  保昌山見送「仙人の図(中国刺繍掛物)」
  役行者山「面袋(蓮華唐草文様金襴)」
  長刀鉾胴掛「玉取獅子の図」
  函谷鉾胴掛「虎と梅樹の図 牡丹唐草額絨毯」

[京の至宝と文化]コーナー
   細川家と京都ー永青文庫コレクション
    室町から安土桃山、さらに徳川時代を生き抜いた細川家の宝が一部展示さ 
    れる。よくも明治に入ってから散逸しなかったものである。よほど資産管 
    理に長けた家来(?)がいたのであろう。ただ私にはお茶の世界はよくわ 
    からない。

京都文化博物館ー日本画きのう京あす

 新装なった京都文化博物館に回る。記念の展示が続いている。

   京都日本画家協会創立70周年記念特別展

     『日本画 きのう 京 あす』

       ー感動の450点 あなたの心響かせますー

 多くの作品なので前後期に分けての展示である。前期は気がついたら終わっていて見逃してしまった。

[歴代理事長・顧問作品]

 菊池契月「少女」…久しぶりに再会。近代美人画の典型であろう。

 秋野不矩「紅裳」…不矩の戦前の代表作であろう。紅色の階調がいい。

 西山翠嶂「馬」…近代の馬の絵の代表。

 堂本印象「窓」…欧州旅行後の立体派風。

 中村大三郎「女人像」…これも美人画の典型だが、あっさりにすぎるか。

 金島桂華「画室の客」…切手にもなった作品。犬二匹。

 上村松篁「立葵」…

 池田遙邨「朧夜」…狸の剽軽な姿につい笑ってしまう。

 麻田辨自「雲母坂」

 小松均「赤富士」…

[会員新作]

 たくさんの出品のため絵の大きさが制限されているので、いわゆる展覧会の大作とは違う雰囲気。そ
れにしても京都周辺にこんなにも多くの日本画家がいようとは、これで食べていけるのかしらん。私の気に入ったものを挙げておく。

 西垣勉「水面」、長谷川雅也「秋思」、西田眞人「山居」、

 長谷川喜久「日々は過ぎていく」、松岡里依子「姿勢」、北斗一守「雫」

 森桃子「灯」、成瀬今日子「生」、麦輝明「富貴華」、吉川弘「潮」

 李英姫「ある日」、高田泉「気」、寺田博「うつろい」

 森田りえ子「咲」…桃色の牡丹。ここまで俗っぽいのもいいか。

相国寺承天閣美術館ーハンブルグ浮世絵コレクション

 展示替えがあったので、後期展に出かける。

  『ハンブルグ浮世絵コレクション後期』

 菱川師宣「上野花見の躰・花見の宴」…太く黒い線が力強い

 西川政信「吉原八景・さばヘの帰帆」…“ぬぐふのはあせか泪か起わかれ”

     さば=娑婆で、朝には別れて帰らねばならない情。

   ? 「稽古本を持つ娘」…わくわくした表情で常磐津の本を袋から出す娘。

     本は袋に入れて売られていたらしい。

 鈴木春信「三十六歌仙・源順」

     「風俗四季歌仙・弥生」…ともに柔らかく優しい色合い。

     「団扇売り」…単色だが、春信らしい何気ない仕草がよい。

 肉筆浮世絵が何点かでている。すべて絹本である。同じ浮世絵と言っても紙の版画とは値段に雲泥の
差があったであろう(もちろん注文による一品物)。

 鳥居清長「児女宝訓・女今川」…子連れの女が他所の家で“一大事を弁へなく打と 

     け人に語る”様。このポチャリしたおばさんの風情が秀逸。  

 鳥居清長「雪月花美通の色取・雪」…まことに品よし。

 東洲斎写楽「松本米三郎のけはい坂の小将実はしのぶ」…雲母が少し剥がれた古 

     びもよく、今回の展覧会の白眉。

 喜多川歌麿「婚礼の図」「婚礼色直しの図」…共に三枚続きが一連となって、六 

     枚続きの大作。

      「江戸名物錦画耕作」…女性による浮世絵制作過程とした著名なもの

   ?  「鷹匠」…パンフレットの使われた作品。一富士二鷹三茄子の目出た 

     い図柄、ただ富士はどこに。   

 葛飾北斎の富士の絵になると浮世絵の色彩が一変する。墨よりも藍色へ、そして黄緑が多用される。

      「百物語・こはだ小平二」…浮世絵最高の色合いであろう。

   ?  「近江八景・比良のボセツ」…雪と地を層状にしたデザイン風。

 安藤広重「近江八景の内比良暮雪」…広重抜群の構図。

   同 「名所江戸百景真乳山山野堀夜景」…いかにも夜の感を出している。

 たくさんの摺物が出ている。何とも凄い版画で、こんなに摺物をたくさん見たのは初めてである。前
後あわせて堪能するほど浮世絵をみせてもらった。

「花の上」の名前の読みについて

 「花の上」という品種は一般に「はなのうえ」と読まれて来た。それが鳥居氏の『色分け花図鑑 桜草』では「はなのじょう」として‘上出来の花という意味であろう’とされる。そんな名前の付け方があるのだろうか。

 その出典は次の歌であろう。

   咲けば散る咲かねば恋し山桜 思ひ絶えせぬ花の上かな   中務

           拾遺和歌集巻一(第36首)

      花が咲けばいつ散るかと気がかりだし、といって、咲かねば恋しく思われ 

      てたまらない。山桜よ懸念が絶えることのない花の身の上だよ

         (亡き娘ヘの愛着を花の動静への関心に寄せて詠んだもの)

              *新古典文学大系7(岩波書店刊)より

 また芭蕉にも次の句がある。

    しばらくは花の上なる月夜かな

 とにかく「はなのじょう」と無理に読まなくても、すなおに「はなのうえ」とするのがよいようであ
る。

桜草栽培史48 連の活動停止 補遺続

 私はさきに江戸後期の連の活動の変化を次のように推論した。連の活動が天保時代に入って衰え、その苗を譲られた染植重で銘花が誕生、今度はそれをもとに連が復活、さらに苗が名古屋や上方に売られて彼の地で栽培が盛んになったと。
 それを補強する考え方を思いついたのでここに追加する。
 まず連には、下谷連・山の手連(築土連)・小日向蓮の三連があったが、幕末には一番組・二番組・三番組と名称が変わる。名前が変わるということはその間に連の活動に何かの変化があったのであろう。そうでなければ、下谷連は下谷連としてあり続けたはずである。何かの事情で活動が衰え、それが復活するときに心機一転として名前を変えて再出発したとするのが自然である。その事情とは何か、連が出来てから天保時代まで30年近く経過している。それはせいぜい十名ほどの仲間が新花の競い合いを続けられる年数の限度ではなかろうか。これくらいの人数では世代交代も容易ではない。連中が老齢化し新手の加入がないままに活動力が衰えたのであろう。
 次に連の構成員のことである。三連とも直参の人々の組合である。ところが幕末に柴山正富が二番組の連中であったことがわかっている。彼は一橋家とはいえ、その藩士であり、陪臣の立場にある。将軍直属であることを誇りにしている直参の仲間の中に陪臣が混じることは普通では考えられない。江戸時代では草花の種類によってそれを栽培する身分の偏りが見られる。菊や朝顔等の場合は多くの階層が参加して盛り上げたが、花菖蒲の場合上級武士の花であった(細川藩満月会)。
 つまり陪臣であっても連に加入できるような組織上の変化があったのであろう。
 また二代目伊藤重兵衛のもとに桜草が集まったが、直参の連中が園芸業者である彼に苗を譲り渡すということは普通では考え難いことである。松平定朝は花菖蒲をなかなか外に出さなかったという。それは丹誠込めて自身が作った作品が路上で売られるのを嫌ったからである。連の組織が緩み連中の老齢化のなかで、桜草の始末が伊藤重兵衛に委ねられたのであろう。
 さらに「作伝法」の記事そのものにも問題がある。「作伝法」の連に関する記事内容には錯簡がみられる。一般に流布し、浪華の会誌にも影印したのは国会図書館の「伊藤本」である。ここでは
   1,下谷連
   3, 小日向蓮
   4, 独作人
   2, 山の手連
のように順序が入れ替わっている。そのため小日向蓮の最後に記された「天保の比相止」が小日向蓮だけにかかると判断されがちであった。ところが同じ国会の「白井本」では年代順にならんでいる。その最後の文句を書き出せば
  下谷連ー右等最初の連後々数多出来申候
  山の手連ー右の人々後々追々連出候て今以て相尋で有之
  小日向蓮ー右の人々にて追々連も増候て今以有之 天保の比相止
  追て今作り人少なし。
とあり、小日向連だけが活動を止めたとすれば、「今作り人少なし」の言と合わない。やはり「天保の比相止」は三連ともに係る言葉とみたい。
 以上のように、連の活動が文化年間当初から幕末まで数十年間も変わりなく継続したとは考え難いものがある。19世紀の基本文献である「桜草作伝法」「桜草名寄控」「桜草見立相撲」を中心に深読みすればこんな推論が出来るのである。
 池田喜兵衛氏の将軍上覧、伊藤謙氏の大名の下屋敷での品評会の記事は、事実の確認が出来ない以上池田氏はこう言った伊藤氏はああ言ったというだけで、上覧・品評会の証明にはならない。単なる思いつきの発言と考えざるをえない。   
                             (山原茂)
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