江戸の地での桜草の栽培が、享保時代より大きく展開し実生も始まっているとする説が流

布している。しかし資料を厳密に点検してみると少し違う姿が見えてくる。

 まず桜草の基本文献である『桜草作伝法』は天保時代に記されたもので、その歴史記述は

伝聞に基ずく二次資料である事を押さえておかねばならない。

 まず“人々桜草を翫ぶ事は享保の頃より見出し翫ひ候事にして”とある。これは享保頃から

桜草が楽しまれるようになったといっているのであるが、ここで作伝法の著者は荒川流域に

桜草群落があるということを知っているので、“追々江戸へ取出し詠めし事と思はれ候”と、

だんだん群生地から江戸に持ってきて楽しんだらしいと推量している。

 この内容だけから直ちに享保時代にすでに群生地が形成されていたとするのは早計にすぎ

る。それはこれを裏付ける一次資料が今のところ見つかっていないからである。もし群生地

が出来ていれば、それは目立つ、日記その他の文献に記載されていてしかあるべきであろ

う。しかも群生地というのは自然にできるものではなく、火入れなどの人為的攪乱によって

出来たと考えられるので、人の目につき易いはずなのだが。

 いま知りうる最も早い記録は、

    柳沢信鴻の『宴遊日記』 安永10年3月7日条(1781)である。

     土堤の下は野新田に続きたる広野、桜草所々に開き、ノウルシやつぼくさがあ 

    たり一面にあった

          (日本庶民文化史料集成13巻ーHP野新田の桜草より引用)

 この前後から一気に記録が出てくる。鈴木春信の浮世絵の桜草、二代目富本豊前太夫の七

本桜草の紋所、喜遊笑覧の「安永七・八年(1778・9)さくら草 形のめづらしきがはやり

 権家贈りものとす。数百種に及ぶ」の記事などなど。

 このように江戸の桜草は18世紀後半から大きく展開するとするのが妥当な線であろう、新

しい資料が見つかれば話は別であるが。

 ところで。享保時代に楽しまれた桜草については、幸いに『地錦抄附録』(1733刊)に名

と絵が載せられてある。この書には普通にある花木というより珍しい種類を集めたもののよ

うである。桜草では自生種の桜草はなく、濃紫桜草、紅軸桜草、藤伊羅桜草、源氏桜草など

が記載される。これらの桜草はどんな桜草なのか。◯◯桜草という表記になっている。これ

を『地錦抄附録』の他の項で見てみると、百合には、はまゆり、扇子ゆり、あやめには、さ

きわけあやめ、鷹羽あやめ、とあるが、一方で松本せんのうけでは、稲妻、鷺宿、初絞、ま

た楓では、漣波、初花、道しるべなどとなっている。『地錦抄附録』では二通りの命名法が

使われている事がわかる。一つは種類の名前、もう一方は品種の名前である。桜草では、種

類名となっている。自然実生で出来ていた変り花に名を付けただけで、育種の結果の品種で

はなさそうなのである。

 結局、実蒔による新品種は『桜草作伝法』にある「南京小桜」が最初ということになる。

 このあと連が結成されて、新花の作出が競われる事になるのである。