『桜草作伝法』の次の記事をどう読むか。

   〜左すれはいつの頃より武蔵野の地に生そめにして、戸田川の野原よりして川下の

   つゝき野原茅野に、いつ頃よりして生し、今に至り沢山に生るや、人々桜草を翫ふ事

   は享保の頃より見出し翫ひ候事にして、追々江戸へ取出し詠めし事と思はれ候、其頃
 
   好事の輩は遠路をいとはす野原に足をはこび、中には替り色花もあれかしとたつねし

   に、一通りの花のみにてまれに白花を得しとなり。其頃富永喜三郎とか云ひし人、戸

   田にて見事の絞り花見出し賞美され、須磨浦と名付られ、人々名花と賞し今以て所々  

   に翫植してあるなり。その後に至り好事の人々、実を取蒔て種々丹精し、花の替りを

   出し候事になり、実蒔の替花にて南京小桜と名付し花初りのよし辻武助の咄にし候。

 この文章をそのまま受け取れば、通説通りとなる。

 しかし文献を取り扱う時には、その文献の由来・性質を調べ、その文の構造をも分析して

おかねばならない。

 まず第一にこの『桜草作伝法』が著されたのは天保時代(1830〜)に入ってからで、享保

時代から約100年後のことなのである。いかに『桜草作伝法』が優れた園芸書であるといっ

ても、直接見聞していない事柄については二次資料として利用しなければならない。

 第二には、荒川流域での桜草の群生についていつ頃からか分らないとしながら、それに続

いて享保時代に言及しているため、群生が享保時代以前からあったと思わせてしまってい

る。

 第三に、“其頃好事の輩は遠路をいとはす野原〜”“其頃富永喜三郎と云ひし人、戸田にて見

事の〜”と、著者は“其頃”を二度使っている。さらに上文で引用した部分に続いて、“其頃別

して好事の〜”“其頃専ら盛りとなりしは〜”とある。これら全てが[其頃=その同じ時期に]

という同時性を示しているわけではなさそうである。経年に起こった事柄でも“其頃”と表現

するのが著者の書き癖のようであり、それに惑わされてはならない。

 このように、『桜草作伝法』の江戸の桜草の栽培の経緯についての項は、そのまま信用す

るわけにはいかない資料ということがわかる。       (山原茂)