歴史というものは、それまでに知られている資料を読み取り、その時代の立場で解釈して
記述したものである。それ故に優れて時代に制約される。通説・定説といえどもそれを免れ
ることは出来ない。
いまここに私の考える「桜草栽培史ー始まりから明治維新まで」を再構成してみようと思
う。
[桜草栽培の始まり]
桜草は日本の各地に自生している。ところが都のあった奈良や京都にはなかったため、長
く記録に残されることはなかった。初めて文献に現れるのは15世紀の後半で、『大乗院寺社
雑事記』の文明十年(1478)三月の項に「桜草」と出てくる。大乗院は奈良興福寺の子院
で、この雑事記は尋尊大僧正の日記である。尋尊は京都の公家一条兼良の息子である。古く
は家族の一人が僧籍にあることで、その家の幸を願ったもの。一方で実入りのよい寺院の跡
を襲う事が望まれた。※竹岡泰通氏の発見にかかる資料より。
桜草がどうして京都に齎されたのか。室町時代は日本の歴史の変革期にあたる。園芸もこ
の頃から中国の影響を脱して、日本独自の姿をとりはじめる。始めに桜や椿などの花木が注
目され、珍しい花を付ける樹が探し出されて、貴族や寺社の庭に移し植えられた。これが花
の名所として京都ではいまに続いている。それがさらに庭園に花壇がしつらえられ、さまざ
まな草花が植えられた。その折京の公家は、かっての所領の伝手を頼って各地の珍しい花を
入手したのであろう。そのなかの一つが桜草である。
園芸の発達は経済的・精神的余裕のしからしむるところといわれている。当時の公家衆の
立場には厳しいものがあった。政治の世界からは疎外され、地方の荘園は地頭等によって横
領され、頼みとする所領からの年貢も滞りがちであった。土倉から借金する人もあったとい
う。そのような人々がなぜ園芸に手を染めたのであろうか。
公家衆は都の高い文化的伝統のなかで暮らしていた。その頂点に立つのが権威の象徴であ
る天皇である。文化は高いところから低いところに流れる。地方を支配する武士にとっ
て都は憧れの的であった。自らの立場に箔をつけるために官位をもらう。雅な諸芸を究めた
公家衆はそれを売りにする。その最たるものが、娘を地方の武士に嫁すことであった。娘は
都の文化を運んでくる。迎え入れた方も娘の実家に何くれと面倒を見る事になる。
このように文化的に高い立場にあるという自負心彼らの心の支えであった。その精神の豊
かさが花の世界にも及んだのであろう。
桜草の栽培が始まり、上流階層の間に徐々に広まっていく。立花の材料にもなり、絵にも
描かれるようになる。
しかし100年経っても200年経っても、桜草の花はあまり変化しなかったらしい。自然実
生による色変わりが見られるくらいである。それは京都に齎された桜草がどこか特定の場所
からのもので、他の地域との遺伝子の交流がなかったためであろう。また大量に栽培された
わけでもないので、確率的に変化の起きようがなかったのである。
[桜草大群落の出現]
関東は荒川の流域は葦の野原が広がっていた。それが屋根や葦簀の材料として利用される
ようになるが、良い葦は人の手が入ることによって生まれる。毎年の刈取りと火入れで全面
が裸地になり、それが桜草の生育にとっての好条件となった。ここに大群落が出現したので
ある。これを私は18世紀の中頃過ぎとみている。
これによって二つの変化が起こった。一つは見渡す限りの桜草によって桜草が広く知られ
るようになった事である。またもう一つには、膨大な数を背景に変異種が生まれ、それを取
り上げて園芸種として専門的に栽培する人が出て来た事である。とくに私は切弁・鑼弁の個
体に注目する。
[桜草園芸の飛躍]
18世紀の終りころから、群落に由来する変異種をもとに実生改良がはじまった。めいめい
個人個人が行っていたようで、当初の品種物は名のみ知られ実態はわからない。19世紀に入
り「連」という愛好団体が出来、仲間内で品種を共有する事で、代々受継がれることが可能
となった。といって桜草の栽培家はそれほど居たわけではない。江戸でせいぜい100人程度
で、流行などといえるような状態ではない。いろんな花を栽培する一つに桜草があるという
程度であろう。
また実生改良といっても、最初のころはあまり成果は上がらなかったようである。桜草作
伝法に載る品種は、他の草花の改良に比べ相当遅れていたということが出来る。しばらくし
て栽培が衰退するのだが、それは変化性の高い朝顔や菊に興味を移したためと考えることが
出来る。
このとき桜草を引き受けたのが、出入りの植木屋で、その代表が染植重である。ここでも
実生が行われたようで、販売用の品種控え帖には今日に続く名花が著録されている。実生が
始まって5・60年して染植重のところで、一気に遺伝子変化が起きたようである。
その新しい品種群を含めて、染植重から日本各地に苗が販売された。そして名古屋では桜
草への関心が大きく高まって銘鑑まで出ている。
また江戸でも染植重の新しい花を承けて連が復活したらしい。ここに柴山正富が顔を出す
しかし幕末の政治変動をもろに承けて、関西の桜草は消滅してしまう。江戸でも風前の灯
状態となる。そんななかでも染植重では品種の保存が図られて新しい顧客を待つことになる
(山原茂)
記述したものである。それ故に優れて時代に制約される。通説・定説といえどもそれを免れ
ることは出来ない。
いまここに私の考える「桜草栽培史ー始まりから明治維新まで」を再構成してみようと思
う。
[桜草栽培の始まり]
桜草は日本の各地に自生している。ところが都のあった奈良や京都にはなかったため、長
く記録に残されることはなかった。初めて文献に現れるのは15世紀の後半で、『大乗院寺社
雑事記』の文明十年(1478)三月の項に「桜草」と出てくる。大乗院は奈良興福寺の子院
で、この雑事記は尋尊大僧正の日記である。尋尊は京都の公家一条兼良の息子である。古く
は家族の一人が僧籍にあることで、その家の幸を願ったもの。一方で実入りのよい寺院の跡
を襲う事が望まれた。※竹岡泰通氏の発見にかかる資料より。
桜草がどうして京都に齎されたのか。室町時代は日本の歴史の変革期にあたる。園芸もこ
の頃から中国の影響を脱して、日本独自の姿をとりはじめる。始めに桜や椿などの花木が注
目され、珍しい花を付ける樹が探し出されて、貴族や寺社の庭に移し植えられた。これが花
の名所として京都ではいまに続いている。それがさらに庭園に花壇がしつらえられ、さまざ
まな草花が植えられた。その折京の公家は、かっての所領の伝手を頼って各地の珍しい花を
入手したのであろう。そのなかの一つが桜草である。
園芸の発達は経済的・精神的余裕のしからしむるところといわれている。当時の公家衆の
立場には厳しいものがあった。政治の世界からは疎外され、地方の荘園は地頭等によって横
領され、頼みとする所領からの年貢も滞りがちであった。土倉から借金する人もあったとい
う。そのような人々がなぜ園芸に手を染めたのであろうか。
公家衆は都の高い文化的伝統のなかで暮らしていた。その頂点に立つのが権威の象徴であ
る天皇である。文化は高いところから低いところに流れる。地方を支配する武士にとっ
て都は憧れの的であった。自らの立場に箔をつけるために官位をもらう。雅な諸芸を究めた
公家衆はそれを売りにする。その最たるものが、娘を地方の武士に嫁すことであった。娘は
都の文化を運んでくる。迎え入れた方も娘の実家に何くれと面倒を見る事になる。
このように文化的に高い立場にあるという自負心彼らの心の支えであった。その精神の豊
かさが花の世界にも及んだのであろう。
桜草の栽培が始まり、上流階層の間に徐々に広まっていく。立花の材料にもなり、絵にも
描かれるようになる。
しかし100年経っても200年経っても、桜草の花はあまり変化しなかったらしい。自然実
生による色変わりが見られるくらいである。それは京都に齎された桜草がどこか特定の場所
からのもので、他の地域との遺伝子の交流がなかったためであろう。また大量に栽培された
わけでもないので、確率的に変化の起きようがなかったのである。
[桜草大群落の出現]
関東は荒川の流域は葦の野原が広がっていた。それが屋根や葦簀の材料として利用される
ようになるが、良い葦は人の手が入ることによって生まれる。毎年の刈取りと火入れで全面
が裸地になり、それが桜草の生育にとっての好条件となった。ここに大群落が出現したので
ある。これを私は18世紀の中頃過ぎとみている。
これによって二つの変化が起こった。一つは見渡す限りの桜草によって桜草が広く知られ
るようになった事である。またもう一つには、膨大な数を背景に変異種が生まれ、それを取
り上げて園芸種として専門的に栽培する人が出て来た事である。とくに私は切弁・鑼弁の個
体に注目する。
[桜草園芸の飛躍]
18世紀の終りころから、群落に由来する変異種をもとに実生改良がはじまった。めいめい
個人個人が行っていたようで、当初の品種物は名のみ知られ実態はわからない。19世紀に入
り「連」という愛好団体が出来、仲間内で品種を共有する事で、代々受継がれることが可能
となった。といって桜草の栽培家はそれほど居たわけではない。江戸でせいぜい100人程度
で、流行などといえるような状態ではない。いろんな花を栽培する一つに桜草があるという
程度であろう。
また実生改良といっても、最初のころはあまり成果は上がらなかったようである。桜草作
伝法に載る品種は、他の草花の改良に比べ相当遅れていたということが出来る。しばらくし
て栽培が衰退するのだが、それは変化性の高い朝顔や菊に興味を移したためと考えることが
出来る。
このとき桜草を引き受けたのが、出入りの植木屋で、その代表が染植重である。ここでも
実生が行われたようで、販売用の品種控え帖には今日に続く名花が著録されている。実生が
始まって5・60年して染植重のところで、一気に遺伝子変化が起きたようである。
その新しい品種群を含めて、染植重から日本各地に苗が販売された。そして名古屋では桜
草への関心が大きく高まって銘鑑まで出ている。
また江戸でも染植重の新しい花を承けて連が復活したらしい。ここに柴山正富が顔を出す
しかし幕末の政治変動をもろに承けて、関西の桜草は消滅してしまう。江戸でも風前の灯
状態となる。そんななかでも染植重では品種の保存が図られて新しい顧客を待つことになる
(山原茂)