日本の桜草と美術

桜草の栽培と美術鑑賞

桜草栽培史

将軍と桜草は関係ない

 徳川家康は大層鷹狩りを好んだという。
 「家康公が浮間ヶ原に鷹狩に出かけて、桜草を見、大層喜んだので、旗本の人々がこれを栽培してお目にかけたら定めしお喜びになるであろうといふようなことで、先ず旗本の間にその栽培が流行しました」         *柴山政愛「桜草の作り方」([都新聞]大正15年3月22日)
 これが徳川家康と桜草を結びつけた最初の記事である。これ以前にはない。
 柴山政愛は明治の終わりにも「桜草の話」という雑誌記事をものしているが、ここにはこのことは言及していない。都新聞の記事に至るまでに、誰も傷つかない罪のない嘘を創作したようである。ものの始まりを偉人に託す話はよくあることながら、それらはたいてい作り話のたぐいといえる。
 ところがこれに接した人々は、彼が斯界の重鎮であることから、この話を信用して次々と受け売りして広めていったのである。
 江戸周辺の桜草自生地が江戸時代中期になって初めて誕生したことがわかっている今となっては、この話の辻褄は合わない。さすがに鈴鹿冬三氏はどの著書にも引用していない。なお近年、竹岡泰通氏が『桜草栽培の歴史』でもこれを否定する論考を載せられた。
 ところがいつまでたっても「家康と桜草」を結びつけたがる人々がいるのである。そこでもう一度私がこの問題の再検証を行うことにする、といってそんな大げさなことではない。私はこの話の基本は「鷹狩」にあり、このあり様を調べることが必用と考えた。そこで過日図書館の日本史の棚を覗いていると以下の本に出会った。
  岡崎寛徳著『鷹と将軍』(講談社選書メチエ)
 まさにこの問題にドンピシャである。ここでは家康の鷹狩りの様子が基本資料にもとずいて描かれている。彼が鷹狩りする季節は、九・十月から翌年の一・二月までで、その狙う獲物は鶴・白鳥・雁・鴨といった冬の渡り鳥なのである。そしてとった獲物は、献上品となる一方下賜品や家臣への饗応に用いられたという。
 家康が鷹狩りで桜草に出会うことはあり得ないことがこれではっきりした。

 つまらない先人のちょっとした嘘を訂正するのに、こんなに労力を費やさねばならなかった。私は頭の体操をさせてもらってよかったのだが、なお「家康と桜草」の思い込みに捕われた人がなくならないことを危懼する。

 

『園芸の世界』江戸時代の桜草

 改良園の『園芸世界12月号』には「江戸時代の桜草」という特集が組まれている。著者は平野恵さんである。平野さんは『十九世紀日本の園芸文化』という著書がある研究者。それが今回桜草についての論考をまとめられた。桜草の歴史に関する論考や記事は、研究している人が限られているので、発表されることはほとんどない。紹介かたがた共に考えて行きたいと思う。

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1、本草学者の関心
  園芸に本草学者がどれほど関わっていたのか、私の知る所ではないが、関連文献を見る限りそれ
  ほど関心があったとは思えない。桜草関係の文献が少ないのは、本草学者の関心が薄かったとい
  うより、そもそも桜草の栽培者が少数であったことによっている。文化文政期の江戸で、百名前
  後しかいなかった。
  さらに言えば、すでに「花を愛でる」という美意識のもとで草花は栽培されていたと思う。

2、園芸書『花壇地錦抄』に見る桜草
 『地錦抄附録』にある11種の桜草が詳しく紹介される。ただその出自は不問に付される。
 「南京小桜」の説明に、「梅花のごときよい香りを発する」とあるが、この文言は元の本文にはな
  い。どこから引用されたのか。この11種が「◯◯桜草」と書かれているのをどう読み解くかが問
  題なのである。

3、花銘がわかる史料
 『桜草作伝法』を文政5年(1822)以降の成立とされる根拠は何であろうか。本文中に天保という
  年号が入っているので、それ以後とするのが一般的だが。
  著者は『桜草写真』を『桜草勝花品』の写本とされるのだが、両者は似て非なるもので完全に別
  物である。『写真』は絵師の思いつきによる色付けで、こんな色の桜草はあるはずがない。
  また名前が一致するからといって同品としてしまうのは危険である。同名異品が多いことに注意
  しなければならない。
  『作伝法』に載る品種の大半は、連中の作出による。
  『桜草百種』『桜草花集』ともにこんな図譜もあるというだけで、歴史的な意味をもたない。

4、花暦に見る桜草と遊楽
  花見の最も早い史料として、柳沢信鴻の『宴遊日記』を何故紹介されないのか。

5、浮世絵にみる桜草
  捜せばあるものだが、最も代表的なものを示してもらいたかった。
  例えば、振り売りの図、七本桜草紋の出語り図などたくさんあるのだが。

 とにかく平野さんは研究者であって栽培家ではないので、このような記述になるのであろう。特に荒川流域の野生種と園芸品種とは別物として取扱わなければならない。また残念なのは『桜草名寄控』を参照されないことである。
 竹岡氏の『桜草栽培の歴史』はみておられるようだが、その論旨を把握するのは無理であろう。
 なお、趣味の会の刊行物である「浪華さくらそう会誌」の私の“桜草栽培史稿”まで目を通すのは無理として、私のブログのカテゴリー「桜草栽培史」や、歴博・くらしの植物苑観察会2015、4の私の講演のレジメを見ておられたらもう少し違った論旨になったかもしれない。

『園芸世界12月号』 鈴鹿冬三

 種苗会社の改良園から出ている雑誌に「園芸世界」がある。
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 ここに椎野昌宏さんが「園芸史雜話」として、園芸史に残る先達を取り上げてその業績を記録されている。先には中村長次郎さんが登場した。今回の2017、12月号害鵑藁觴冬三さんである。

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 鈴鹿家では、先代の義一氏が品種の収集に努められ、それを承けて冬三氏が栽培管理を担われた。そして戦中戦後の困難な時代を乗り越えられる。平和な時代の到来とともに、鈴鹿家で維持されてきた品種が各地に頒布され、桜草復活の基になったのである。
 さらに冬三氏には桜草についての4冊もの著作があり、桜草栽培普及に極めて大きな貢献をされたことである。たいていの人は、その一冊を座右にして桜草栽培に入っていかれたものであった。
 また京都から奈良の高鴨に遷られてからは、神社での栽培展示で、ここを桜草の聖地にされたことであった。
 その一生は桜草に捧げたものといってもよい。

   *皆さんも機会があればこの記事を味読されたい。

桜草は流行したか?

 江戸時代の後半には各種の草花が流行したという。唐橘、朝顔、錦糸南天、松葉蘭、万年青等、そして斑入葉の奇品もあった。
 様々な変りものが見出され、驚くほどの高値で取引された。しかし一夜明ければ見向きもされず路傍に捨てられる有為転変の世界でもあった。
 ここに桜草も一枚噛んでいたという。巷の花の概説書には「桜草も流行した」と書いてあるものが多いが、はたしてその実体は如何。

[流行の記録]
 『嬉遊笑覧』…安永七八年 さくら草形のめづらしきがはやり 権家の贈りものとす
        数(かず)百種に及ぶ

 『桜草作伝法』…其頃専ら盛りとなりしは 天明の頃より寛政の頃盛りに流行しー
        好事の輩は遠路をいとはす野原に足をはこび 中には替り色花もあれかしと
        たつ子しに、一通りの花のみにてまれに白花を得しとなりー

[流行の条件] 流行とは「ある現象が世間一般にゆきわたること」といわれるが、
        私は次のように定義したい。
  一、変りものが次々に世に現れて、世間の耳目を集める事。
  一、その変りものが増やされて、商品として取引の対象になり、広く流通すること。

[論証]
 『嬉遊笑覧』にいう「形のめづらしき」花はどこからもたらされたのか。それは『桜草作伝法』の「好事の輩は遠路をいとはす野原に足をはこび」とある通り、荒川流域の桜草自生地から来たものである。
 荒川の桜草自生地の形成は徳川時代の後半に入った頃(18世紀中頃過ぎ)である。人により撹乱された環境に適応した桜草はこの地に侵入し、一気に生息地を広げる。
 その桜草はもともと変異性の強い草花なので、この自生地での厖大な個体数を背景にさまざまな変り花が生まれていた。早々とそれに目をつけた好事家は捜集に励み、持帰っては鉢に植え、名前をつけて栽培する。ただ彼らは一人楽しみで外には出していないようである。
 この桜草変異株のうわさがすぐに江戸市中に伝わると、多くの人が宝探しにやってきて、一種のブームの観を呈した。これが『作伝法』にいう「専ら盛りとなりしは 天明の頃より寛政の頃」の状況を指していると考えられる。
 ところが補充の無い資源はすぐに枯渇する。『作伝法』の「替り花もあれかしとたつ子しに一通りの花のみにて」となりブームは去った。
 また自生地から持帰った株を生かし続ける事も難しく、桜草の性理をよく心得ている人は別として、夏の休眠期の世話に失敗する人達が多かった。
 桜草は自生地の並品を掘って持帰るか、振り売りから買うのが一般的であった。
 品種物の桜草が出回るようになるのは、染井の植木屋・染植重のところで栽培され、銘品が作り出されてからである。 

[結論]
 このように桜草は「流行した」とするにはその要件を満たしていないと言わねばならない。
 

桜草の楽しみ方今昔

 花の楽しみ方は人それぞれ、今の人も昔の人も自由にその美しさを堪能してきた。
 ここに江戸後期の川柳がある。

    ひからびてすっぽりぬける桜草

 花の句と言えばその美しさに関わるものが当たり前と思いきや、枯れた桜草が主題である。
 町を流す振り売りから四文で手に入れた桜草の鉢植。咲き始めから終い花まで半月は楽しめただろうか。花の終わった鉢はもう用は無い。戸口に出して、件の振り売りの回収を待つ。この間世話をしないので、桜草は枯れてしまったというわけだ。

 我々は桜草が宿根草なので、それなりの取扱いがなされていたであろうと考えていたのだが、今に我々が園芸店でシクラメンの鉢植えを買うようなものである。ただシクラメン等では、奇特な人がいてそれを何年も持ち越して毎年花を楽しんでいる人もいるようだが。
 桜草でもシクラメンと同様の事が可能なのだが、多分こんな事は誰もしなかったであろう。
 この作者は、一時花を楽しむためにだけ四文をはたいたわけで、その株を育てるためではない。振り売りの桜草はこのように使い捨てとして消費されていたのである。
 一般の江戸人の桜草への関わりは、荒川流域に遊山に行くか、鉢植で済ますかであった。

近江の孫飯桶(再)

 一月近く前にこのブログで「近江に孫飯桶があった」(7月30日)を紹介した。博物館に展示中の姿は写真で見てもらったのだが、その詳しい内要については説明文もなく解らずしまいであった。
 何とか知る手だては無いかと思案していると、発掘調査で見付かったのならその調査報告書があるはずだと思い至った。そこで取り敢えず安土城考古博物館にいってみた。誰かにたずねようととしたのだが、ここには図書館が付設されている、滋賀県での遺跡調査報告書はあるだろうと見当つけた。
 やはり図書館にはあった。

    滋賀県立彦根東高等学校耐震改修等工事に伴う発掘調査報告書

        特別史跡彦根城跡 彦根市金亀町

          平成22年(2010)3月

       滋賀県教育委員会 財団法人滋賀県文化財保護教会
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 説明文「〜は陶器の鉢で、形態から見て植木鉢の可能性が高い。口縁端部の4箇所に粘土塊が付着し、重ね焼きの痕跡と思われる。底部を除き鉄釉系の釉薬を施す。釉は焼け縮れており、また器体にひびが入る。このことから焼成不良による半製品であると考えられる」と。

       口径 15,05
       高さ 11,70
       底径 11,10
   *他の出土品の年代と較べてみて、18世紀後半から19世紀中葉かと推定される

 〈博物館の図書室は〉
 図書室には司書もいず自由に出入りできる。しかも冷房の入っている快適さ。それを知ってか受験生が一人二人でこの図書館を占領している。うまい場所を見つけたものである。

近江に孫飯桶があった

 孫を連れてサイクリングがてら博物館へ走る。

 滋賀県立安土城考古博物館 25周年記念 第56回企画展

      『 近 江 の 城 を 掘 る 』

 城跡には人々の生きた証しとしての物が埋まっている。その掘り出された遺物の展示である。その中に、私にとって見過ごせない焼物があった。それを紹介する。

 ◯史跡観音寺城跡出土(近江八幡市安土)…この「寸胴甕」は室町時代後半に使われていたもの。
  内部まで釉がかかっている。鍔が付いていて、一部欠けている。高台はない。

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 ◯大津城遺跡…徳川初期に解体移転された城跡からの出土。この「寸胴甕」には、口辺の下左右
  に、俵状の突起がつく。自然釉が少し乗っているが、Т錣里茲Δ任△襦これも高台なし。

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 ◯特別史跡彦根城跡…武家屋敷跡での発掘調査で出土か。これはもう完全な「孫飯桶」である。内
  部にも釉がかかっており、鍔があり、高台も付いている。ただ底には穴は開けられていない。だ
  からこの「孫飯桶」は文字通り台所の什器として使われていたようである。願わくば幕末のもの
  であってほしいが、明治中期にまで時代は下るかもしれない。彦根から出土したということは、
  瀬戸・美濃・常滑の焼物が広く全国に流通していた証しか。
                      〈事務局廣田氏所蔵の孫飯桶〉
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桜草栽培史−55 桜草川柳

   富本節に関わった川柳
      先に書いた「桜草栽培史」のなかで、松野孝雄著『和洋桜草の栽培』に所載された川柳
      を引用しておいたが、意味を解説してなかったので改めてここに載せておくことにす
      る。

     備後は桜木豊後は桜草
      前半は「児島高徳」の故事。倒幕に失敗した後醍醐天皇は隠岐に流される。  
      児島高徳は天皇を追うも拝謁適わず、備後の地で桜の木に「天莫空勾踐 時
      非無范蠡」と書いて思いを伝えようとした話。
      後半の豊後は浄瑠璃の豊後節のこと。富本節が豊後節から出たことで、富本
      節が時に豊後節とも呼ばれたことにちなむ。富本流は紋所として桜草紋を使
      用した。
      ここでは備後bingoと豊後bungoが、そして桜木と桜草も二重に韻を踏んで
      いることから口調の良さを楽しむ言葉遊びとなっている。

     花見の道行浄瑠璃も桜草
      道行きの舞台が桜花で飾られる一方、浄瑠璃の出語りでは桜草紋を付
      けた太夫がいて、桜尽くしとなっている。

     駒下駄も勇む浚への桜草
      張り切って下駄の音高らかに富本節の師匠のもとへお稽古に

     桜草真赤になるとどっとほめ 
      豊前太夫が顔を赤らめるほどに熱演すると、観衆もやんやの喝采

                               (山原 茂)

桜草総銘鑑訂補ー青葉の光

 12年前に、「浪華さくらそう会誌」の第40号として『日本桜草総銘鑑改訂版』を出した。このような出版物は得てして誤りが混じることは避けられない。ところが書物が一旦世に出してしまうと、なかなか訂正がきかない。かつて大きな誤りは会誌やこのブログを通して訂補しておいたが、浪華の会員がどれほどパソコンを操作する環境にあるかわからないので、正しい情報に正されることは難しい。改訂版の再訂版をだせばいいのだが、銘鑑ばかりを出してはいられない。
 しかし取り敢えず、ここで補正をするよりしかたがない。

 過日山形の富樫氏から連絡があった。それは「青葉の光」という品種についてのことである。その作出者である尾崎康一さんのお孫さんから富樫氏にメールがあり、世に広まっている「青葉の光」は尾崎家にあるものとは違うとの指摘をうけたという。そして富樫氏のブログ「庄内の日本桜草栽培日記」2014、5、26の記事に添付されている左側の写真が本物であると。さらにこの品種名は「青葉の笛」を承けたものではなく、「青葉町」という土地の名から採られたものであると。

 私の編んだ銘鑑改訂版では
 
   「青葉の光 あおばのひかり 白色緑絞  細弁平車咲    尾崎康一」

 とあり、出典がない。私がこれをどこから引用したのか今となっては定かでない。
そこでこれを以下のように訂正する。

   「青葉の光 あおばのひかり 白に薄色  桜弁平咲     尾崎康一」

『桜草栽培の歴史 第二版』9

『桜草栽培の歴史 第二版』

  第4章桜草栽培の歴史

 八、昭和前期 受難期の継続

 「受難期の継続」と掲げられているが、継続とはこれいかに、沈滞と受難とは意味が違うので、何をどう継続したのか説明が必要である。
 日本社会が戦時体制に組み込まれ、さらに本土空襲を承けて焼け野原となり、そして敗戦、何とか生きるのに精いっぱいで桜草に心を寄せる余裕も無かった、これが「受難」であろう。そして戦後の混乱期もこの期に入れてよかろう。
 昭和前期は大正デモクラシーの流れを承けて日本社会も少し豊かになりはじめたころ、桜草栽培も広がりを見せ始めている。関西では浪華さくらそう会が結成されているほどである。
 また園芸誌「実際園芸」には多くの桜草関係記事が掲載され、さらに桜草界最初の単行本である松野孝雄編著『和洋桜草の栽培』(昭和2年)や農業界附録として『桜草の作り方』なども刊行されている。
 このように盛んな活動の姿が浮かんでくるのだが、これが受難期なのだろうか。
 

 九、昭和後期 平成年間 愛好団体活動の集大成

 不思議な副題である。私ならさしずめ「平和の基での全国的は栽培の広がり」とでもするところだが。
 ともかく膨大な関連記事が収集されるその努力には脱帽するしかない。ただ多くの記事の中には先人や過去の記事の受け売りも少なくはなく、かなり重複しているやに見える。
 またその内容の分類が、〈産草園芸〉〈襲犒飮法趣味の園芸〉のように似たものがあり、その基準がはっきりしない難がある。
 またこの期には多くの桜草専著が出たが、鳥居氏の『色分け花図鑑』しか取り上げられておらず、片手落ちというべきか。
 総じて竹岡氏が気に入った記事を適当に取り上げられたもので、系統だっているわけではない。これからの可能性を秘めた八重種や倍数体に関する詳しい言及もない。


 桜草の栽培には専門家がいるわけではない。初心者でも条件が整えば良い花を咲かせられる。
 ところが桜草でも「歴史」となるとそうはいかない。歴史を紡ぐためには専門の方法論によらねばならない。これは自然に身に付くものではない。特別に学ぶ必要があるものなのである。なかでも最も重要なのが文献批判ー資料・史料の内容の吟味ーである。資料を集めて並べ替えても歴史にはならない。
 『桜草栽培の歴史』は労作であるが、資料集に終わっている。しかも事項・人名索引が無いので使いづらい。
 さてこの『桜草栽培の歴史』を最後まで読み通すほどの熱心な方がいれば、できれば浪華さくらそう会の会誌(47・48)の「桜草栽培史稿」と読み比べてもらいたい。
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