日本の桜草と美術

桜草の栽培と美術鑑賞

時事問題

日本の経済運営如何

アベノミクス?
 自民党政権が復活して新しい経済政策が次々打ち出されている。私は経済には全くのド素人なのだが、何か腑に落ちないことだらけ。 
 一つは日銀を巻き込んだ金融緩和である。これ以上ないという低金利が続けられているいる上になお緩和するという。企業の資金需要が高まっているわけでもなさそうなので、その資金はどこに?これはもう補正予算で大量発行される国債の買い入れに使われるのであろう。財政赤字が巨額であるだけに、少しぐらい増えてもどうということもないと高を括っているのではなかろうか。国債は国の借金なので、利子をつけて返さねばならない。
 これはインフレヘの願望だろうが、今までの金融緩和でデフレであったものが、さらなる緩和でインフレに向かうのだろうか。
 二つにはインフレ2%を掲げたことである。物価が上がれば金利も上がるといわれる。国債の金利が低いのでその増発も安易に行われているようだが、インフレが起こればインフレによる収入増は、国債の金利増で消えてしまうのではないか。ただしインフレによって国債の資産価値を目減りさせようという腹か。
 三つ目は為替の円安誘導である。政界からの意思表示ぐらいで経済がそう動くとは思えないのだが、実際には世界の経済情勢が変わりつつあり、急激な円安が進行していて、すでに1割以上もの円安となっている。これによって輸出産業では為替差益で潤っているらしい。逆に輸入については何もしなくても1割以上高く買わねばならない。しかも日本の貿易は赤字となっており、これからもこの状態が続くと考えると、貿易輸出が増えても焼け石に水となってしまうだろう。
 貿易構造が変わらなければ(輸入を減らす努力をしなければ)日本の経済状態の悪さは変わらないのではないか。
 いま日本には原発40数基が休止中である。これらは直ぐにでも稼働出来る状態におかれているはずである。原料もあり技術者も発電所に張り付いている。十三兆円を投下した設備、備蓄してあるウラン燃料は資産価値ゼロという状態である。原発を使わないと判断したのであれば、国民はその投資分の負担はまぬがれない。さらにその代替エネルギーとしての莫大な石油・天然ガス購入費用増加を国民は甘受しなければならない。この経済的ロスを補ってなお日本経済を発展させることなどできるのであろうか。
 これからの経済運営は困難を極めるだろう。それを政府は国民に十分に説明しなければならない。値上げも増税も待ったなしであろう。

 素人の悲観論が杞憂に終わればいいのだが。

体罰否定論再

 体罰についての議論が続いている。しかし何か私の思いと違うのでもう一度この問題を整理しておきたい。
 メディアでの討論などでは、なお体罰容認論が巾を利かせているようである。さらに驚かされるのはアンケート調査でも、子どもたちの中にも四割にも上る容認者がいるという。
 体罰を受けた子どもの中には、気合いを入れてもらったと肯定するものもいるであろうが、なぜ暴力を受けねばならなかったのか理解出来ずに心に深い傷を負ったものもいるはずである。一人でも後者のような子がいるのであれば、体罰を止める必要があるとするのが議論の筋ではないだろうか。体罰がなくともいくらでも指導出来る方法があるのだから。
 さらにわれわれは他の人の心の痛みをどれほど感じとることができるだろうか。仲間が体罰を受けていても自分に及ばなければ良しとする自己保身が横行しているのではないだろうか。
 信頼関係があったとしても、心の奥底を測ることは難しい。上下の力関係のなかでの面従背反が多いと考えられる。
 また元巨人の桑田氏が大阪市で体罰反対の講演をし、元日本女子バレーの監督の柳本氏が大阪市教育委員会の顧問に就任して桜宮高校の改革に取り組む等の報道がなされている。 
 しかし体罰の実体はどうなのかはわからない。例えば、全日本女子柔道のコーチの場合、彼がどういう状況のもとでどんなことをしたのか、はっきりしたことは聞こえてこない。彼は上部から事情を聞かれたであろうが、彼のそのときの心的状況まで事細かに追及されることはなかったと思われる。彼はコーチを辞任して終わりである。さらに体罰を受けた女子選手の体罰のあり様とその時彼女が受けた心のダメージがどんなものであったかもわかっていない。
 つまり体罰に関する科学的な研究がなされていないのではないか(私が知らないだけかもしれないが)。体罰をする側、される側の心理状況が、十分に事例研究されているのであろうか。体罰問題が起きるたびにいつも同じ表面的な議論に終始してるように思えるのだが。
 日本には各都道府県に国立の教育大学がある。そこで体罰を研究する人がいないのだろうか。『体罰の病理』と言ったような本を誰か書いているのだろうか(私が知らないだけか)。

体罰は暴力

 現実に起こった生々しい事件について意見を述べることは控えて来た。今回の大阪桜宮高校の生徒自殺事件ではメディアでいろんな意見が出されているが、隔靴掻痒の感強く、私が教員経験者であることに鑑みて自分なりの思いを述べてみたい。
 まず体罰は暴力そのものであるということである。しかも相手が反抗しないことを前提としている一方的なもので、虐待でありまたイジメといってもよい。教育の現場で暴力は許されない。
 体罰の一部容認論が見られるが、それは体罰をも利用した強烈な指導が何らかの成果を上げた故にそれを黙認してしまっているからである。体罰を受けた側も結果を残せたことで、体罰を乗り越えたが故に「そのぐらい」と軽く考えてしまうのであろう。そんな人がまた指導者になって、体罰の連鎖を生むことになる。とくに肉弾相撃つ種類のスポーツの場合はそのようである。しかし体罰を受けた子どもの多数はなぜ自分が体罰を受けねばならないのか納得していないはずである。その不満は心の底に澱となって残る。
 学校は教育の場である、それは言葉を媒介にして行われるものである。たとえ体育といえ言葉で相手を導き納得させねばならない。ところがクラブ活動となると、教育の一環としてありながら希望者だけを対象とすることから、教諭と生徒という公的な関係から、指導者と愛好者という一種の私的な塾のような関係になりがちである。しかもクラブ顧問として雇われたわけではないので、そのクラブの指導者としての専門家でない場合が多い。そのためクラブ顧問は仕事のようなサービスのような中途半端な位置にある。一種のサービスでもあるゆえに顧問の言動は「してやっている」と言うことにもなる。そこで運動系クラブでは体育の授業とは違う指導原理が働く。やるためには勝つための指導が行われる。そこでは教育に置ける相補性ー教員も子どもから学ぶーは失われ、顧問からの一方的な指導が中心となり、その指導がうまくいかなかった場合、「お前たちのためにやっているのにけしからん」と、教員としての箍が外れて短絡的に暴力が使われることになる。
 それでは体罰をなくすためにはどうすればいいか(学校でのクラブの仕組には手を付けないとする)。このとき参考になるのは交通事故対策である。自動車運転者は交通法規を守ることが求められる。しかし日常生活の慣れの中で、思わず法規違反を犯すことがある。そこで当局は常なる啓発活動や、免許の更新時には講習を、そして定期的に交通安全運動を行って、人々に安全運転を喚起している。それで今の水準に納まっているのである。
 体罰も同じ。体罰をしてはならないということを定期的に喚起する仕組みを作らねばならない。体罰問題が起こってからしばらくはその問題が取り組まれるが、それが定期化されることはないようである。また教育委員会からの指導を校長が伝達するだけではダメである。
 その中身である。体罰がなぜいけないのか。顧問が体罰を行うときの異常心理、体罰を受けた生徒の恐怖の心理を学ばねばならない。そして体罰は個人の問題だけではない。見て見ぬ振りをすることは、それを認めてしまうことになる。利害関係を持たない教員同士、顧問同士がその行為が行われたとき、それを止めに入らねばならない。そのくらいの勇気を持たねばならない。そうでなければ子どもたちの信頼は得られない。これらを繰り返し繰り返し行う必要がある。
 それでもゼロにはならないだろうが、それを目指して進むしかない。
 かっては教室でも体罰が行われていたという、今は見ることはない。やれば出来るのである。ようはやる気と根気と勇気あるのみ。
 
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